『出雲国風土記』
『出雲国風土記』飯石郡

『出雲国風土記』仁多郡(にたのこおり)


(白井文庫k42)
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仁多郡
合郷肆  里十二
 三處郷  今依前用
 布勢郷  今依前用
 立津郷  今依前用
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仁田郡

仁多郡

合郷肆  里十二

合わせて郷四  里十二

三處郷  今依前用

三処郷  今も前に依り用いる

布勢郷  今依前用

布勢郷  今も前に依り用いる

立津郷  今依前用

立津郷  今も前に依り用いる

  • 立津郷…今の地名から「三沢郷」の事であろう。
    ・細川家本k54・日御﨑本k54・倉野本k55・萬葉緯本k72・萬葉緯本NDLk73で「三津郷};
    ・萬葉緯本k04目録頁で「三津郷」[津]に傍記で「澤 和名」
    ・紅葉山本k45で「立津郷」
    ・出雲風土記抄4帖k16本文で「三澤郷」

(白井文庫k43)
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 横田郷  今依前用
所以号仁多者所造天下大神大穴持命詔此国
者非大非小川上者木穂判加布川下者河志婆布
造度之是者尒多志枳小国在詔故云仁多
三處郷即属郡家大穴持命詔此地田好故吾
御地古經故云三處
布勢郷郡家正西一十里古老傳云大神命之宿
唑所故云布世神亀三年
改字布勢

三津郷郡家西南廾五里大神大穴持命御子阿
遲須伎高日子命御郷髮八握于生昼夜哭唑之
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辞不通尒時御祖命御子乘船而卒巡八十嶋宇良
加志給鞆猶不止哭之
十八神多罗預給吉御子之哭多罗尒時預唑則
夜夢見唑之御子辞通則寤間給尒時御津申
尒時何處然云問給即御祖前立去捨唑而石川度
坂上至留申是処也尒時其津水治於而御身沐
浴唑故国造神吉事奏參向朝廷時具水活土
而用初也依此今産婦彼村稻不食若有食者
所生千巳云也故云三津即有正倉
横田郷郡家東南廾一里古老傳云郷中有田四
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横田郷  今依前用

横田郷  今も前に依り用いる

所以号仁多()所造天下大神大穴持命詔此国()非大非小川上者木穂判加布川下者河志婆布造度之是者尒多志枳小国(ニタシキヲクニ)在詔故云仁多

仁多と号す所以(ユエン)は、所造天下大神大穴持命詔ふ。此国は大に非ず、小に非ず。川上は木穂判加布、川下は河志婆布之を造り渡る。是は尒多志枳小国在りと詔う。故に仁多という。

  • 木穂判加布…(キノホハカフ)
    ・細川家本k54・日御﨑本k54・倉野本k55で「木穂判加布」
    ・萬葉緯本k74で「木穂判加布」「判」に傍記で[夾刂()](刾の異体字)
    「判加布」の意味は良くは解らないが、[判]には別れるの意味があり、「加布」は「交」と考えると、木の穂(小枝)が枝分かれし交差している様子を表した表現なのであろうと思われる。
    即ち、川上は茂みが多いという事なのであろう。
  • 河志婆布造度之…
    ・細川家本k54・日御﨑本k54・倉野本k55・春満考k60で「河志婆布這度之」
    ・出雲風土記抄4帖k17本文で「阿志波布這度之」
    ・萬葉緯本k72・萬葉緯本NDLk74で「阿志婆布這度」「阿」に「河イ」、「婆」に「波イ」を傍記。又、「阿志婆布」に「葦這-樋口氏」と傍記。
    ・紅葉山本k45で「河志婆布造度之」
    ・春満考k60で「河志婆布造度之」解説で「一本造を這に作れり」
    「河志婆布」は「河芝布」、志婆=芝、芝というのはいわゆる野芝の事。「芝布」は野芝が布のように広がっている様子。近年は「芝生」と記していたりする。
    「造」は「這」の誤記であろう。
    「度」は「渡」の略体。
    出雲風土記抄・萬葉緯本で「阿志婆布這度」とし、阿志婆布を葦這と解する説があるがこれだと葦這這度と這が重複する為不適。
    又、阿志婆布を葦の根茎とする説もあるが根茎という根拠がない。
    以上から、「河志婆布這渡之」であろう。河芝布これ這渡る。
    いわゆる野芝が川辺に広がっている様子を表す。
  • 尒多志枳小国…「尒多」については、楯縫郡沼田郷に記述がある。水が豊かで湿潤な土地であるという意味であろう。
    「小国」については、出雲風土記抄4帖k17解説で「横田郷竹埼村の田疇の中に小国と言う之處有り」とあるが不明。
    地理院地図「竹崎」
  • 仁多は古来より米作りに適した土地で良質米が穫れる地として知られる。今では「仁多米」としてブランド化され「東の魚沼、西の仁多」とも称される。その様な土地の様子を賞賛した一文なのであろう。

三處郷即属郡家大穴持命詔此地田好(コノトコロタヨシ)故吾御地(ミトコロ)古經故云三處

三處郷、即ち郡家に属す。大穴持命、「此地田好し。故に吾れ御地(ミトコロ)として古くより(オサ)める。」と詔う。故に三處(ミトコロ)という。

  • 郡家…仁多郡家。
    ・出雲風土記抄4帖k17解説で「古郡家盖乃當郡村欤」と記され、今の仁多郡奥出雲町郡(郡村大領原)であろうと考えられており、「仁多郡家跡」という石碑が大正期に建てられている。(但し確認されたわけではない)地理院地図
  • 古經…古写本に異同はない。いずれも「古經」である。(細川家本k55・日御﨑本k55・倉野本k56・出雲風土記抄4帖k17・萬葉緯本k73・萬葉緯本NDLk74・紅葉山本k45)
    ・出雲風土記解-下-k14で「古經 田詔の誤」
    ・訂正出雲風土記-下-k25で「故吾御地古經(カレワカミトコロノタトノリ玉ヒキ)」頭注に「古經真竜作田詔今従之訓」と記し、眞龍説を採っている。
    ・出雲国風土記考証p312解説で「「古經」の二字は誤字であつて、内山眞龍は「田詔」であらうといつた。」と記している。
    ・校注出雲国風土記p83で「「此の(ところ)の田()し。(かれ)()御地(みところ)の田」と詔りたまひき。」としている。
    ・修訂出雲国風土記参究p407参究で「諸本の原文に「御地古経」とあるが、これでは何とも解し難いので、風土記解に「御地田詔」の誤写であるとされたのに従うべきであろう。」と眞龍説を採っている。
    • 「古經」を眞龍の説のように「田詔」に誤るというのはあり得ない。「經」は縦糸の意味であるが「経国・経世」の様に「治める」という意味がある。「古經」は「古くより治める」の意味であり、断じて「田と詔る」などではない。「經」が「詔」であるとすれば「詔」の字が重複してしまう。
      ついでに記しておくと講談社学術文庫「出雲国風土記」p267で「「~(かれ)()御地(みところ)()めむ」と()りたまひき」と記し、どこから拾ったのか「占詔」としている。
  • 三處郷…出雲風土記抄4帖k17によれば、上下三處村~郡村等23所。又今の広瀬町の東西比田を含むかなり広い郷であった。
    即ち、東比田から馬馳にまで跨る地区。三處村は三処村であるが今は三所(上三所・下三所)となっている。
    • 上三所に「居去(イサリ)神社」地理院地図というのがあり、大名持命・少彦名命を祭っている。元社地は今は「城山」と呼ばれる「菅火野山」地理院地図にあり、中世に三沢氏が城を造るに際し現在地に移転させられたという。

布勢郷郡家正西一十里古老傳云大神命之宿唑マス所故云布世 神亀三年改布勢

布勢郷、郡家の正西一十里。古老伝に云う、大神ノ命の宿唑ます所。故に布世と云う。(神亀三年、字を布勢と改む)

  • 宿…普通には(ヤド・シュク)であるが、ここでは(フセ)と読んでいる。(フセ)と云うのが「伏せ・臥せ」であるとすれば、或いはこの地で大己貴命が病にかかったのかと思われる。
    又、「布世」という元字からすると、[布]には(広める)という意味があるから「世に広める」という意味とも考えられ、この地に留まりこの地域に稲作を広めたのかとも思われる。
    「出雲風土記抄」4帖k18ではこの件に関して、大己貴命が素盞嗚尊から受けた試練の地が此処であったのかと推察している。

三津郷郡家西南廾五里

三津郷、郡家の西南二十五里。


(白井文庫k44)
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段許形聊長遂依田而故云横田即有正倉以上
諸郷

所於鉄堅尤
堪造雜具
或澤社 伊我多氣神 以上二所並
有神祇官

玉作社  須我乃非社  湯野社  比太社  漆仁社
大原社  御支斯里社  右壹 以上八所並
不有神祇官

[山]
鳥上山郡家東南卅五里伯耆與出雲
之堺有塩味葛
室原山郡家
東南卅六里備後與出雲二国
之堺塩味葛有
灰火山郡家東南三十
里 託山郡家正南卅七里有塩
味葛
御坂山郡家
西南五十三里即此山有神御門故云御坂備後与
出雲之

堺有塩
味葛
志努坂野郡家西南卅一里有紫
菜少々
玉峯山
郡家東南一十里古老傳云山嶺在玉上神
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故云玉峯城化野郡家正南一十里有紫
草少々
大内野
郡家正南廿二里有紫
草少々
菅火野郡家正西四里高
一百廾五丈周一十里峯有
神社
戀山郡家正南卅三里
古老傳云和尒思阿伊村唑神玉日女命西上到尒時
玉日女命以石塞不得會所戀故云戀山凡諸山
野在草木白頭公藍漆藁本玄參百合王不留行薺
苨百部根瞿麥升麻枚葜黄精地楡附子狼牙離留
百斛貫衆續斷女委藤李楡椙樫松栢栗柘槻蘗
楮 禽獸則百鷹晨風鳩山鶏雉熊狼猪鹿
狐狸兎獼猴飛鼯
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(白井文庫k45)
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[川]
室原川源出郡家東南卅五里鳥上山北流所謂
斐伊河上有年
魚少々
横田川源出郡家東南三十六里
室原山北流此則所謂斐伊大河上有年魚麻須
魴鱧等類

灰火山山川源出灰火山入斐伊河上有年
阿伊川源
出郡家正南卅七里遊託山北流入斐伊河上有年魚
摩須

阿位川源出郡家西南五十里御坂山入斐伊河上
有年魚
麻須
北川大海源出郡家東南一十里玉峯山
北流意宇郡野城河上是也有年
湯野小川源
出玉峯山西流入斐伊河上
通道通飯石郡堺漆仁川邊廾八里即川邊有
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藥湯一浴則身躰穆平再濯則萬病消除男女老少
晝夜不息駱驛往來旡不得驗故俗人号云藥湯也
即有
正倉
通大原郡堺事谷村一十六里二百卅六歩通
伯耆国日野郡堺阿志毘縁山卅五里一百五十歩
常有
通備後国惠宗郡今恵
蘇郡
堺遊託山卅七里常有

通同惠宗郡堺比市山九十三里常旡剰但當有
政時權置多

   郡司主帳外大初位下品治部
   大領外從八位下蝮部臣
   少領外從八位下出雲臣

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『出雲国風土記』大原郡


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Last-modified: 2019-06-24 (月) 22:01:47 (29d)