『出雲国風土記』
『出雲国風土記』飯石郡

『出雲国風土記』仁多郡(にたのこおり)


(白井文庫k42)
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仁多郡
合郷肆  里十二
 三處郷  今依前用
 布勢郷  今依前用
 立津郷  今依前用
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仁田郡

仁多郡

合郷肆  里十二

合わせて郷四  里十二

三處郷  今依前用

三処郷  今も前に依り用いる

布勢郷  今依前用

布勢郷  今も前に依り用いる

立津郷  今依前用

立津郷  今も前に依り用いる

  • 立津郷…今の地名から「三沢郷」の事であろう。後述するが、元は「三津郷」
    ・細川家本k54・日御﨑本k54・倉野本k55・萬葉緯本k72・萬葉緯本NDLk73で「三津郷」
    ・萬葉緯本k04目録頁で「三津郷」[津]に傍記で「澤 和名」
    ・紅葉山本k45で「立津郷」
    ・出雲風土記抄4帖k16本文で「三澤郷」

(白井文庫k43)
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 横田郷  今依前用
所以号仁多者所造天下大神大穴持命詔此国
者非大非小川上者木穂判加布川下者河志婆布
造度之是者尒多志枳小国在詔故云仁多
三處郷即属郡家大穴持命詔此地田好故吾
御地古經故云三處
布勢郷郡家正西一十里古老傳云大神命之宿
唑所故云布世神亀三年
改字布勢

三津郷郡家西南廾五里大神大穴持命御子阿
遲須伎高日子命御郷髮八握于生昼夜哭唑之
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辞不通尒時祖命御子乘船而卒巡八十嶋宇良
加志給鞆猶不止哭之
十八神多罗預給吉御子之哭田罗尒時預唑則
夜夢見唑之御子辞通則寤間給尒時御津申
尒時何處然云問給即御祖前立去捨唑而各川度
坂上至留申是処也尒時其津水治於而御身沐
浴唑故国造神吉事奏參向朝廷時具水活土
而用初也依此今産婦彼村稻不食若有食者
所生千巳云也故云三津即有正倉
横田郷郡家東南廾一里古老傳云郷中有田四
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横田郷  今依前用

横田郷  今も前に依り用いる

所以号仁多()所造天下大神大穴持命詔此国()非大非小川上者木穂判加布川下者河志婆布造度之是者尒多志枳小国(ニタシキヲクニ)在詔故云仁多

仁多と号す所以(ユエン)は、所造天下大神大穴持命詔ふ。此国は大に非ず、小に非ず。川上は木穂判加布、川下は河志婆布之を造り渡る。是は尒多志枳小国在りと詔う。故に仁多という。

  • 木穂判加布…(キノホハカフ)
    ・細川家本k54・日御﨑本k54・倉野本k55で「木穂判加布」
    ・萬葉緯本k74で「木穂判加布」「判」に傍記で[夾刂()](刾の異体字)
    「判加布」の意味は良くは解らないが、[判]には別れるの意味があり、「加布」は「交」と考えると、木の穂(小枝)が枝分かれし交差している様子を表した表現なのであろうと思われる。
    即ち、川上は茂みが多いという事なのであろう。
  • 河志婆布造度之…
    ・細川家本k54・日御﨑本k54・倉野本k55・春満考k60で「河志婆布這度之」
    ・出雲風土記抄4帖k17本文で「阿志波布這度之」
    ・萬葉緯本k72・萬葉緯本NDLk74で「阿志婆布這度」「阿」に「河イ」、「婆」に「波イ」を傍記。又、「阿志婆布」に「葦這-樋口氏」と傍記。
    ・紅葉山本k45で「河志婆布造度之」
    ・春満考k60で「河志婆布造度之」解説で「一本造を這に作れり」
    「河志婆布」は「河芝布」、志婆=芝、芝というのはいわゆる野芝の事。「芝布」は野芝が布のように広がっている様子。近年は「芝生」と記していたりする。
    「造」は「這」の誤記であろう。
    「度」は「渡」の略体。
    出雲風土記抄・萬葉緯本で「阿志婆布這度」とし、阿志婆布を葦這と解する説があるがこれだと葦這這度と這が重複する為不適。
    又、阿志婆布を葦の根茎とする説もあるが根茎という根拠がない。
    以上から、「河志婆布這渡之」であろう。河芝布これ這渡る。
    いわゆる野芝が川辺に広がっている様子を表す。
  • 尒多志枳小国…「尒多」については、楯縫郡沼田郷に記述がある。水が豊かで湿潤な土地であるという意味であろう。
    「小国」については、出雲風土記抄4帖k17解説で「横田郷竹埼村の田疇の中に小国と言う之處有り」とあるが不明。
    地理院地図「竹崎」
  • 仁多は古来より米作りに適した土地で良質米が穫れる地として知られる。今では「仁多米」としてブランド化され「東の魚沼、西の仁多」とも称される。その様な土地の様子を賞賛した一文なのであろう。
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    ・収穫前の仁多の棚田。谷合のなだらかな傾斜地に小川が流れ、その傍で稲作が行われている。

三處郷即属郡家大穴持命詔此地田好(コノトコロタヨシ)故吾御地(ミトコロ)古經故云三處

三處郷、即ち郡家に属す。大穴持命、「此地田好し。故に吾れ御地(ミトコロ)として古くより(オサ)める。」と詔う。故に三處(ミトコロ)という。

  • 郡家…仁多郡家。
    ・出雲風土記抄4帖k17解説で「古郡家盖乃當郡村欤」と記され、今の仁多郡奥出雲町郡(郡村大領原)であろうと考えられており、「仁多郡家跡」という石碑が大正期に建てられている。(但し確認されたわけではない)地理院地図
  • 古經…古写本に異同はない。いずれも「古經」である。(細川家本k55・日御﨑本k55・倉野本k56・出雲風土記抄4帖k17・萬葉緯本k73・萬葉緯本NDLk74・紅葉山本k45)
    ・春満考k60で「御地古徑 今案古徑ハ也詔の誤か」とあるが、上記のように古写本いずれも[徑]ではなく[經]である。
    ・出雲風土記解-下-k14で「古經 田詔の誤」
    ・訂正出雲風土記-下-k25で「故吾御地古經(カレワカミトコロノタトノリ玉ヒキ)」頭注に「古經真竜作田詔今従之訓」と記し、眞龍説を採っている。
    ・出雲国風土記考証p312解説で「「古經」の二字は誤字であつて、内山眞龍は「田詔」であらうといつた。」と記している。
    ・校注出雲国風土記p83で「「此の(ところ)の田()し。(かれ)()御地(みところ)の田」と詔りたまひき。」としている。
    ・修訂出雲国風土記参究p407参究で「諸本の原文に「御地古経」とあるが、これでは何とも解し難いので、風土記解に「御地田詔」の誤写であるとされたのに従うべきであろう。」と眞龍説を採っている。
    • 「古經」を眞龍の説のように「田詔」に誤るというのはあり得ない。「經」は縦糸の意味であるが「経国・経世」の様に「治める」という意味がある。「古經」は「古くより治める」の意味であり、断じて「田と詔る」などではない。「經」が「詔」であるとすれば「詔」の字が重複してしまう。
      ついでに記しておくと講談社学術文庫「出雲国風土記」p267で「「~(かれ)()御地(みところ)()めむ」と()りたまひき」と記し、どこから拾ったのか「占詔」としている。
  • 三處郷…出雲風土記抄4帖k17によれば、上下三處村~郡村等23所。又今の広瀬町の東西比田を含むかなり広い郷であった。
    即ち、東比田から馬馳にまで跨る地区。三處村は三処村であるが今は三所(上三所・下三所)となっている。
    • 上三所に居去(イサリ)神社」地理院地図というのがあり、大名持命・少彦名命を祭っている。元社地は今は「城山」と呼ばれる「菅火野山」地理院地図にあり、中世に三沢氏が城を造るに際し現在地に移転させられたという。

布勢郷郡家正西一十里古老傳云大神命之宿唑マス所故云布世 神亀三年改布勢

布勢郷、郡家の正西一十里。古老伝に云う、大神ノ命の宿唑ます所。故に布世と云う。(神亀三年、字を布勢と改む)

  • 宿…普通には(ヤド・シュク)であるが、ここでは(フセ)と読んでいる。(フセ)と云うのが「伏せ・臥せ」であるとすれば、或いはこの地で大己貴命が病にかかったのかと思われる。
    又、「布世」という元字からすると、[布]には(広める)という意味があるから「世に広める」という意味とも考えられ、この地に留まりこの地域に稲作を広めたのかとも思われる。
    「出雲風土記抄」4帖k18ではこの件に関して、大己貴命が素盞嗚尊から受けた試練の地が此処であったのかと推察している。

三津郷郡家西南廾五里

  • 三津…
    ・細川家本・日御﨑本・倉野本はいずれも「三津」
    ・萬葉緯本k73で「三津」と記し[津]に[澤イ]を傍記
    ・出雲風土記抄4帖k19本文では「三澤」
    ・出雲風土記解・訂正出雲風土記で「三津」

三津郷、郡家の西南二十五里。

大神大穴持御子(ミコ)阿遲須伎高日子(アチスキタカヒコノ)命御郷髮八握于生(ヤツカコゝニヲイテ)(ナキ)唑之(マシマシ)辞不通
(ソノ)祖命(ミタマノミコト)御子(ミコ)セテ而卒巡八十嶋宇良加志(ウラカシ)(ドモ)猶不止哭之

  • 御郷髪…細川家本k55・日御﨑本k55・倉野本k56・上田秋成書入本k47・鶏頭院天忠本k44は白井本に同じ。
    萬葉緯本k73・出雲風土記抄4帖k19本文では「御髪」
    春満考k60で「御御髪 一本郷の字奈きを是とす」
    出雲風土記解3帖k15本文で「御須髪(ミヒゲ)
    訂正出雲風土記-下-k25で「御須髪(ミヒゲ)
    • 「郷」の字は象形で物を間に置いて向き合う事を意味する。これから考えると「御郷髪」というのは、髪型の「みずら」の事を表しているのだと考えられる。
      春萬のようにあるものを無いというのは得心し難く、眞龍のように髪を髭だというのは勝手。いくら歳を経ても子供の髭が八握になるというのはありえない。
  • 八握(ヤツカ)…握りこぶしの幅8つ分。70~80cm
  • 哭…口をあけて大声で泣くこと。死者の弔いに泣くことを暗示する。
  • 祖命…白井本では、上記のように(ミタマノミコト)と傍記しているが(ミオヤノミコト)と読んでおく。
  • 八十嶋宇良加志…風土記に「八十嶋」という固有の島名は見られないので、「八十嶋」は多くの島という意味であろう。
    「宇良加志」は「うらが・す」の活用形「うらが・し」として、「うらがす」は「癒す」の事であるとしている例があるが、引用例がこの出雲国風土記のこの部分にしかなく疑問。根拠となる語義自体不明。
    白井本では「八十島の宇良加志に卒巡し給えども」と読むように記されており、「八十島の浦河岸(カシ)卒巡(メグリ)し給えども」の意味であろうと考えられる。
    即ち「多くの島の浦の岸辺に連れて巡った」ということであろう。
    神門郡高岸郷にも阿遲須伎高日子命が昼夜哭くという記述がある。それで岸辺に高屋を作り、そこで育てたという記述であるが、岸辺であれば阿遲須伎高日子命がさほどには哭かなかったのであろうと思われる。それで大己貴神があちらこちらの島の岸辺に連れて廻ったのであろう。
    ちなみに、春萬は「卒」は「率」の誤りとしており、まぁそうなのかもしれないが古写本いずれも「卒」であり「卒」には(にわかに・突然に)の意味があり、時折連れていったという意味なのであろうからそのままにしておく。
    又眞龍は「宇良加志」は「由良加志」であり「揺らぐ」事と解説しているが、前後の文に繋がらない。

大神大穴持命の御子阿遲須伎高日子命、御郷髮(ミズラ)八握に生いて、昼夜(ヒルヨル)(ナキ)ましし。(コトバ)通ぜず。
その時祖命(ミオヤノミコト)、御子を船に乗せて八十嶋の宇良加志に巡り給えども、なお哭やまず。

十八神多罗預給吉御子之哭田罗尒時(ソノトキ)預唑マス夜夢見唑之(マシマシ)御子辞通

  • 十八神多罗預給吉御子之哭田罗尒時預唑則夜夢見唑之御子辞通…
    ・細川家本k55で「十八神罗願給吉御子之哭由罗尒時願唑則夜夢見唑之御子辞通」
    ・日御﨑本k55で「十八神多願給吉御子之哭由多尒願唑則夜多見唑之御子辞通」
    ・倉野本k56で、「十八神罗願給吉御子之哭由罗尒願唑則夜夢見唑之御子辞通」[罗]に[夢]を傍記
    ・出雲風土記抄4帖k19本文で「十八神夢願給告御子之哭田夢尓願坐則夜夢坐之御子辞通」[十]に[大歟]と傍記
    ・萬葉緯本k73で「大神夢願給告御子之哭由夢尒願座則夜夢見坐之御子辭通」
    ・春満考k60で、「十八神多多須 今案十八ハ大の字を転写誤り二字に作るるか」
    ・上田秋成書入本k48で「十八神夢願給吉御子之哭田[巳/夕]夢ィ尒願唑則夜夢見唑之御子辞通」
    ・鶏頭院天忠本k44で「十八神多願給吉御子之哭田夢尒願坐則夜多見坐之御子辞通」
    ・出雲風土記解-下-k16で「大神大の字諸本
    十八尒裂誤
    夢願給」
    ・訂正出雲風土記-下-k25で「大神夢願給。告御子之哭由。夢爾願坐則夜夢見坐之御子之辭通」
    • 「十八神多罗預給」は「大神夢願給」が正しいと思われる。
    • 「吉御子」は「告御子」であろう。

総じて「大神夢願給告御子之哭由夢尒時願坐則夜夢見坐之御子辞通」

大神夢に願い給う。御子の哭く由を夢に告げ願いし時に、即ち夜の夢に坐す御子の辞通じるを見る。

寤間給尒時御津(ミツ)尒時何處然ルト云問給御祖(ミタマ)前立去捨唑而各川度坂至留申是処也尒時其津水治於而御身(カミアラヒ)(ユアミシ)マス

  • 則寤間給尒時御津申…
    ・細川家本k55で「則寤問給尒時御津申」
    ・日御﨑本k55で「則寤間給尒時御津申」
    ・倉野本k56で、「則寤問給尒時御津申」
    ・萬葉緯本k73で「則寤問給尒時三津申」[三]に[御イ]と傍記。[津]に(サハ)の読み。
    ・出雲風土記抄4帖k19本文で「則寤間給尒時御津申」[間]に[問歟]と傍記。[御津]に(ミサハ)の読み。
    ・上田秋成書入本k48で「則寤間給尒時御津申」
    ・鶏頭院天忠本k44で「則寤問阿ィ給尒時御津申」
    ・出雲風土記解3帖k16本文で「則寤問給尒時御律申」
    ・訂正出雲風土記-下-k25で 「則寤問給爾時御津申」
    ・出雲国風土記考証p313本文で「則寤間給爾時御澤申」[御澤]に(ミザワ)の読み。
     解説で「この一條は何れの古寫本にも「澤」の字を「津」と書いてある。併し出雲大河の記に「三澤」とあり、又此處の割註にも「三澤」とあるから、「津」の字は「澤」の草書から誤りたるものであること明かである。」と記している。
     ここに云う「割註」は何を指しているのか不明。底本にしたという「訂正出雲風土記」に割註は無い。
    ・「修訂出雲国風土記参究」p522原文篇で「則寤間給爾時御澤申」
    • 「寤(さめる)」は眠りからさめる事。[間]は「問]の誤写であろう。
    • 「御津」は古写本何れも「御津」であり、「出雲風土記抄」で「ミサワ」の読みをあてているが、これは「三澤郷」とするための作為である。
      「御津」を「御澤」と改変したのは後藤の「出雲国風土記考証」が初出で加藤の「修訂出雲国風土記参究」はこれを受け原文を無視し改竄している。後藤が「御澤」に(ミザワ)の読みを振っており、加藤はp410本篇で「三澤」に(みざは)の読みを振っている。
      この件については少し長くなるので改めて後述するが(ミサワ)が正しい。
      尚、「三澤」の由来については、野津風土記p146の頭注に永福の「出雲国風土記考」が紹介されており、それには「土俗傳に此郷内三の大澤ある故に三澤といふと傳へり其澤は下三成澤、大吉村澤、古市村澤なり」とある。
      又、同頁に同じく永福「出雲国風土記考」からの引用として「御津といふ所は今の三澤町なるべし、石川渡りは今の石村川なるべし石川の名の残りて後に石村負しなるべし町のかたへに三澤社といふあり阿遲須岐高日子命を祭れ利と云う。三津の津は川門にて石川より大川に入る門なり石川は下阿井川内下鴨倉を經て此石村にて大川に入る其所に神代には哭を止め、亞をなをす薬水ありしなるべし」とある。

則ち()めて問い給う時に御津(ミツ)と申す。
(大穴持命が夢から覚めて阿遲須枳高日子命に問うと「御津」と云った。)

  • ここに云う「御津」は幼子の阿遲須伎高日子命の言葉であるから「水」の事であろう。

時に何處(イズコ)に然ると云ひて問給う。
(その時大穴持命は阿遲須伎高日子命に、それはどこにあるのかとお聞きになった。)

  • 各川度…
    ・細川家本k55で「各川度」
    ・日御﨑本k55で「名川度」
    ・倉野本k56で 「各(ワタリ)
    ・萬葉緯本k73で「名石ィ川度」
    ・出雲風土記抄4帖k19本文で「石川(ワタリ)
    ・上田秋成書入本k48で「各川度」
    ・鶏頭院天忠本k44で「名川度」
    ・出雲風土記解-下-k16本文で「石川度(アラカ)荒鹿の字裂誤
     k17解説で「石川一本名川尒書以つれも誤字奈か盖此川ハ阿伊川を云奈るべし。下文戀山の傳尓和尒戀阿伊村坐神王日女命而上到尒時玉日女命以石塞川と阿連バ阿伊川を石川とも云しか。阿伊川と三津郷ハ同所也。~」
    ・訂正出雲風土記-下-k25で「石川度」
    • 「石川」としたのは出雲風土記抄からのようである。
      何れにせよ、古写本に「石川」と記すものはない。
      出雲風土記抄が石川としたのは、阿井川と斐伊川の合流地点に石村地理院地図というのがあることに依ったのであろうと思われる。
      眞龍は名川と記されているものがある事に触れ、石川も名川という川も無いために「荒鹿」ではないかと考えたようである。
      先に永福の「出雲国風土記考」を記したが、石川が阿井川であるなら、阿井川は三沢神社の傍を流れておらず、永福の記述は間違っている。三沢神社の傍を流れるのは三沢川であり此の川は阿井川と斐伊川の合流点より更に斐伊川上流部で合流している為、これが石川であると云うなら石村とは何の関わりもなくなる。
      後藤は、この件に関して記しておらず、訂正出雲風土記の「石川度」をそのままに解している。加藤も同様。
      「石川」と解し、(石の多い川)というような解説をしている例があるが、どこの川でも上流部は石が多いのが当たり前で、説明しているようで説明になっていない。「名川」という固有名詞のある川を探るのも意味がなく、阿井川が石川だと云うのもこじつけに過ぎない。
      ところで、阿遲須伎高日子命が育てられていたのは神門郡の高岸郷であった。大穴持命が夢に見、阿遲須伎高日子命に問うたのも高岸郷においての事であったと考えられる。高岸郷から三沢郷までの道程を考えると、神門川を越え斐伊川を遡上していく必要がある。
      「各川」或いは「名川」と記されたのは、元は「各川」で、それはこの二つの大河を「各川」と記したのだと考えるのが自然なことのように思われる。
      則ち、ここにある「各川度」というのは、「神門川と斐伊川の各川を渡り」の意味だと解すべきであろう。
      (余談だが、この件の考察のため何度も三沢を訪れ、歩き回った。しかしながら「石川」にはどうしても得心できず、ようやく得心できたのが上記である。この件の傍証はこの後に行う。)

即ち御祖の前を立去りまして、各川を渡り坂の上に至り留まりて申す。是処也
(すると、阿遲須伎高日子命は大穴持命の前から立ち去り、神門川と斐伊川の各川を渡り、坂の上に到って立ち止まりこう云った「ここです」。)

  • 津水治於而…以下のように各書で[治]を誤記と解している例が多い。「治」は、本来水をおさめるの語義であり、又水を整えるの意味でもある。[津]は水のわき出るところ、水の集まったところの意味であり、「津水治」は、津水の落ち葉等を取り除き整えるという意味であって誤記ではない。
    山水を汲む時、流れを遮っている枝葉など取り除き水の流れを整え清水になるのを待って汲む。
    その様な当たり前のことを表現している。
    [治]にクムの読みはなく[沼]にもクムの読みはない。こういう勝手な読み変えが文の理解をいたずらに難しくする。
    ・倉野本k56で「津而」(而に傍書があるが滲んで読みがたい)
    ・出雲風土記抄-4帖k19本文で「「津(クミテ)於」
    ・萬葉緯本k73で「津水治(サワミズクミテ)於而」
    ・春満考k61で「水冶於而 今案冶於ハ湧出の誤リカ」
    ・出雲風土記解-下-k16本文で「津水沼於(ツノミズクミイデ)宣長云汲出の誤()
    ・訂正出雲風土記-下-k25で「津水沼於而(ツノミツクミイテテ)
  • 沐浴…[沐]は髪を洗うこと。[木]は枝の垂れ下がる様子を表し、髪を下ろした姿を示す。髪を下ろし水で洗うことが[沐]である。
    [浴]は身体に水をかけること。[谷]は窪んだ様子で盥を指す。盥に水を汲み身体にかける事が[浴]である。

時にその津水治めて御身沐浴しませり。

故国造神吉事奏參朝廷時具水活土而用

  • 具水活土而用…「具水」は「其水」の誤りであろう。
    ・細川家本k55で「其水活圡而用」
    ・日御﨑本k55で「其水活圡而用」
    ・倉野本k56で「其水活而」
    ・萬葉緯本k73で「其(クミ)治ィシテ土ィ而用」
    ・出雲風土記抄4帖k19本文「其水活治カ出カ而用
    ・春満考k61で「且水治圡 今案治ハ彌の義に用ひたるか土ハ出の誤なるべし」
    ・出雲風土記解-下-k16本文で「其水沼出而用(ソノミズクミイデゝモチヒ)初也(ソムルナリ)沼ハ汲、出を土と誤り書ク本ハ已ろし文意ハ其津ノ水を汲み出で祓禊の水尒用初る奈り
    ・訂正出雲風土記-下-k26で「其水沼出而用(ソノミツクミイテテモチヒ)
    [圡]は[土]の異体字。
    「活土」を誤記と判断している記述が多いが、「土」は土地の神を表すのが字義。「活」は水が関を切って流れ出すの字義。
    「活土」は(土地の神が現れ出る)事を意味するのであって誤記ではない。

故に国造朝廷に神吉事奏するに參り向う時、その水を(土地の神を呼びだす)活土に用いて初むるなり。

  • つまり、国造が神賀詞を奏するに際し、最初にこの水を用いて土地の神の助けを求め、この水を用いることで、もの云わぬ阿遲須伎高日子命が声を発したように奏上の声を発する助けとしていたということである。

(白井文庫k44)
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段許形聊長遂依田而故云横田即有正倉以上
諸郷

所於鉄堅尤
堪造雜具
或澤社 伊我多氣神 以上二所並
有神祇官

玉作社  須我乃非社  湯野社  比太社  漆仁社
大原社  御支斯里社  右壹 以上八所並
不有神祇官

[山]
鳥上山郡家東南卅五里伯耆與出雲
之堺有塩味葛
室原山郡家
東南卅六里備後與出雲二国
之堺塩味葛有
灰火山郡家東南三十
里 託山郡家正南卅七里有塩
味葛
御坂山郡家
西南五十三里即此山有神御門故云御坂備後与
出雲之

堺有塩
味葛
志努坂野郡家西南卅一里有紫
菜少々
玉峯山
郡家東南一十里古老傳云山嶺在玉上神
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故云玉峯城化野郡家正南一十里有紫
草少々
大内野
郡家正南廿二里有紫
草少々
菅火野郡家正西四里高
一百廾五丈周一十里峯有
神社
戀山郡家正南卅三里
古老傳云和尒思阿伊村唑神玉日女命西上到尒時
玉日女命以石塞不得會所戀故云戀山凡諸山
野在草木白頭公藍漆藁本玄參百合王不留行薺
苨百部根瞿麥升麻枚葜黄精地楡附子狼牙離留
百斛貫衆續斷女委藤李楡椙樫松栢栗柘槻蘗
楮 禽獸則百鷹晨風鳩山鶏雉熊狼猪鹿
狐狸兎獼猴飛鼯
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(白井文庫k45)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-45.jpg
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[川]
室原川源出郡家東南卅五里鳥上山北流所謂
斐伊河上有年
魚少々
横田川源出郡家東南三十六里
室原山北流此則所謂斐伊大河上有年魚麻須
魴鱧等類

灰火山山川源出灰火山入斐伊河上有年
阿伊川源
出郡家正南卅七里遊託山北流入斐伊河上有年魚
摩須

阿位川源出郡家西南五十里御坂山入斐伊河上
有年魚
麻須
北川大海源出郡家東南一十里玉峯山
北流意宇郡野城河上是也有年
湯野小川源
出玉峯山西流入斐伊河上
通道通飯石郡堺漆仁川邊廾八里即川邊有
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藥湯一浴則身躰穆平再濯則萬病消除男女老少
晝夜不息駱驛往來旡不得驗故俗人号云藥湯也
即有
正倉
通大原郡堺事谷村一十六里二百卅六歩通
伯耆国日野郡堺阿志毘縁山卅五里一百五十歩
常有
通備後国惠宗郡今恵
蘇郡
堺遊託山卅七里常有

通同惠宗郡堺比市山九十三里常旡剰但當有
政時權置多

   郡司主帳外大初位下品治部
   大領外從八位下蝮部臣
   少領外從八位下出雲臣

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『出雲国風土記』大原郡


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Last-modified: 2019-11-18 (月) 16:44:26 (11h)