『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡 ・ 『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡 ・ 『出雲国風土記』嶋根郡2
『出雲国風土記』秋鹿郡 ・ 『出雲国風土記』楯縫郡
『出雲国風土記』出雲郡 ・ 『出雲国風土記』神門郡
『出雲国風土記』飯石郡 ・ 『出雲国風土記』仁多郡
『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記
『出雲国風土記』意宇郡2(おうのこおり2)
(白井文庫k09)
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大草郷郡家南西二里一百歩須佐乎命之御子
青播佐久佐日古命坐故云大草
山代郷郡家西北三里一百廾歩所造天下大神
大穴持命御子山代日子命坐故云山代也
即正倉
拜志郷郡家正西廾一里二百一十歩所造天下
大神命將平越八口為而幸時此所樹林茂
盛尒時詔吾御心之波志詔故云林神龜三年
改字拜志
正倉
完道郷郡家正西卅七里所造天下大神命之
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追給猪像南山有二一長二丈七尺 高壹丈周
五丈七尺一長 二丈五尺
高八尺周
四丈壹尺追猪犬像長一丈高四尺
周一丈九尺其形爲石旡異猪
犬至今猶有故云完道
餘戸里郡家正東六里二百六十歩依神龜三年
編戸大二里
故云餘戸也
郡山如也
野城驛郡家正東廾里八十歩依野城大神坐
故云野城
黒田驛郡家同處郡家西北二里有黒田村
土體色黒故云黒田此處有之驛即號田黒田
驛命東属郡今猶追田黒田号耳
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大草郷、郡家の南西二里一百二十歩。
須佐乎命之御子青播佐久佐日古命坐す。故に大草という。
山代郷、郡家の西北三里一百二十歩。
所造天下大神大穴持命の御子、山代日子命坐す。故に山代と云う也。 即ち正倉あり。
所造天下大神命、將に越の八口を平げむと
神龜三年字を拜志に改める。正倉有り
完道郷、郡家の正に西、三十七里
所造天下大神命の追い給いし
猪を追いし犬の像、(長さ一丈、高さ四尺、周り一丈九尺)その形石となりて猪と犬とに異なることなし。今に至りても猶有り、故に完道と云う
神龜三年編戸に依り大二里とす、故に餘戸と云う也。郡山の如き也
野城駅、郡家の正に東二十里八十歩
野城大神坐すに依り、野城と云う。
黒田驛、郡家と同處。郡家の西北二里に黒田村有り。
(白井文庫k10)
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完道驛郡家正西卅里説名如郷
出雲神戸郡家南西二里廾歩伊弉奈枳乃麻
奈子坐熊野加武呂乃命與玉百津鉏〃猶所取
〃而所造天下大穴持二所大神等依奉故云
神戸他郡等神
戸且如之
賀茂神戸郡家東南卅四里所造天下大神命
之御子阿遅須枳高日子命坐葛城賀茂社此神
之御子戸故云鴨神亀三年
改字賀茂即有正倉
忌部神戸郡家正西廾一里五百六十歩国造神
吉調望参向朝廷時御沐之忌玉故云忌部
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即川邉出湯出湯在所兼海陸仍男女老少或道路駱々
驛或海中沼洲曰集成予續紛燕樂一濯則形容端正耳
詠則万病悉除自古至今無不得驗故俗人曰神湯也
[寺]
教昊寺在山城郷中郡家正東廾五里一百廾歩建立
五層之塔在
僧教昊僧支所造也散位大初位下上腹首
押猪之祖父也
新造院一所山代郷中郡家西北四里二百歩建立
巌堂也旡
僧置君烈之所造山雲神戸置君
麻麿之祖也造院一所有
山代郷中郡家西北二里建立教堂住僧
一軀飯石郡
少領出雲臣弟山之所造也院一所有山国郷
中郡家東南卄一里百廾歩建立三層之塔也山国
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完道驛、郡家の正に西三十里。(名を説くこと郷の如し)
出雲神戸。郡家の南西二里二十歩
故、神戸と云う。他の郡等の神戸もまた之の如し
賀茂の神戸。郡家の東南三十四里
所造天下大神命の御子、阿遅須枳高日子命、葛城の賀茂の社に坐す。
此の神の御子戸故に鴨と云う。(神亀三年、字を賀茂と改む) 即ち正倉あり。
・細川家本では
「忌部神戸郡家正西廾一里二百六十歩 国造神吉調望参向朝廷時御沐之忌玉作故云忌部」
忌部神戸、郡家の正に西二十一里二百六十歩。
即ち川辺に湯
五層の塔を建立す。(僧在り)
教昊僧の造りし所なり。(散位大初位下、上腹首押猪の祖父也)
・出雲国出雲国風土記考証p36解説で「教昊寺は野城橋から古の四里一百二十歩であるから、位置は澤村にあたる。それで私は、大正六年に、澤村の中、野方との堺に近き土居ゾネといふ所から、天平時代の唐草模様ある瓦片が出ることを見出し、そこが教昊寺跡であらうと断定した。
風土鈔や風土記考に今の清水寺かといひ、又さもあるべしといつて居れども、清水寺では本文の里程に合わぬ。そして清水寺は天平五年より七十三年後の大同元年の創立といふ。
有僧とは民部省の處分を經て度帳を持つた僧が居るといふ。賛位とは官なくして位のみあるをいふ。~」とある。
土居ゾネ(どいぞね)というのは「神藏神社」の南西方向にある小丘を云う。地理院地図
ここには発掘調査で溝状遺構が確認されている。
新造院
巌堂を建立する也(僧無し)。置君烈の造るところ(山雲神戸の置君麻麿の祖也)
(一応記しておくと、後藤はここでの記述を次の郡家西北二里の記述と勘違いしている。)
造院一所。山代郷中にあり。郡家の西北二里。
教堂建立す。(住める僧一躯)飯石郡の少領、出雲臣弟山の造りし所也
新造院一所山国郷中に有り。郡家の東南二十一里百二十歩。
三層の塔を建立する也。山国郷の人、置部
(白井文庫k11)
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郷人置郡根緒之所造也
[社]
熊野大社 夜麻佐社 賣豆貴社 加豆比乃社
由貴社 加豆比乃高社 都俾志呂社 玉作湯社
野城社 伊布夜社 支麻知社 夜麻佐社
城社 久多美社 佐久多社 多乃毛社
須多社 眞名井社 布辨社 斯保祢社
意院之社 即原社 久來社 布吾祢社
寄道社 野代社 賣布社 狭井社
同狭井高社 牢流布社 伊布夜社 由宇社
布自奈社 同布自奈社 野代社 佐久多社
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意院支社 前社 田中社 詔門社
楯井社 遠玉社 石塚社 佐久佐社
多加比社 山代社 詞屋社 同社 以上廾八
所置 但シ四十七社
見ユル廾八トハ
不審ナリ
在社祇宮 宇田比社 支布佐社 毛社乃社
郡富乃夜社 支布佐社 国原社 田村社
予穂社 同予穂社 伊布夜社 阿太加夜社
須多下社 河原社 布字社 米郡為社
加和罗社 笠柄社 志多備社 食師 以上十九所
置在神祇官 但シ支布佐社
ニ所見ル是ヲ
合テ二十所
アリ
[山]
長江山 郡家東南五十里有水精
暑垣山 郡家正東八十歩有蜂 蜂欤トアリ
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○古事記によれば、大國主神が少名毘古那神と共に國を造り堅めた後、少名毘古那神が常世國に渡り、大國主神が愁いていた際に、海を照らしてやって来る神があったという。
書記では巻1の一書において同様の事が記され、大己貴神がその神の名を問うと「吾は是汝が幸魂奇魂なり」と答えたという。
これにより、月山の頂きにこの神を祭り、中腹に大己貴神を祭ったのが、それぞれ「加豆比乃高社」「加豆比乃社」であるという。
「加豆比」の[豆]は高坏 の象形である。[比]は並んだ形。すなわち「加豆比」は高坏を2つ並べて供える事を意味する。月山の元の社が月読尊を奉っていたと考えられることから、大己貴神が月読尊に高坏を供えて奉じたというのが社名の由来であろう。
社殿の造営は欽明天皇31年であり「勝日高守神社」「勝日神社」の創建とされる。この後山名を勝日山と呼ぶようになったという。
「勝日」というのは(日に勝る)という意味であろうから、ここから見える月が美しいことを表しているのかと思われる。
その後平安の末期、平景清がこの山に城を築くに際し、勝日神社を麓に移すこととし、山上から矢を射て、矢の届いた地に移したのが今の「富田八幡宮」境内の「勝日神社」であるという。
- 余談だが、欽明31年創建と伝える社寺は九州北部にかなり多くある。この年は蘇我稲目が亡くなった年とされ、何らかの関係があるのかとも思われる。
多加比社 山代社 調屋社 同社 以上四十八所並在神祇官
宇由比社 支布佐社 毛社乃社
多加比社 山代社 調屋社 同社 (以上四十八所並在神祇官)
宇由比社 支布佐社 毛社乃社
加和羅社 笠柄社 志多備社
長江山 郡家の東南五十里 (水精有り)
暑垣山 郡家の正に東八十歩 (蜂有り)(蜂欤とあり)
(白井文庫k12)
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高野山 郡家正東一十九里
熊野山 郡家正南一十八里 有檜檀也所謂
熊野大神之社坐
久多美山 郡家西南廾三里有社
王作山 郡家西南廾二里有社
押名樋野 郡家西北一百廾九歩高八十丈周六
里卅二歩 東有松三
方並有茅
凡諸山野所在草木麦門冬獨活石斛前胡高
良姜連翹黃精百部根貫衆白朮薯蕷苦参細
辛商陸木玄参五味子黃々葛根牡丹藍漆薇
藤李檎字或
作梧赤桐白桐楠椎
作椿楊梅
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松栢字或
作榧蘗槻禽獸則鵰
作隼山鶏鳩鶉
鶬字或作
離黄鵄鴞作横致
功鳥也熊狼猪鹿兎狐
櫑作蝸-猧カ
獼猴之族至繁多不可題之
[川]
伯太川源出仁多與意宇二郡境葛野山經母理
楯縫安来三郷入入海有年魚
伊久比山国川源出郡家東南卅八里枯見山北海入伯太川
飯梨河源有三一水源出仁多大原意宇三郡堺田原 一水
源出祐見 一水源出仁多郡玉嶺山
三水合北流入入海有年魚
伊具比筑湯川源出郡家正東
一十里一百歩萩山北流入入海有年魚
意宇川源出郡家正南一十八里熊野山川流入入
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高野山、郡家の正に東一十九里
熊野山、郡家の正に南一十八里(
久多美山、郡家の西南二十三里。社有り。
王作山、郡家の西南二十二里。社有り
押名樋野、郡家の西北一百二十九歩。高さ八十丈。
・
・楠・椎・
禽獸には則ち、
伯太川、源は仁多と意宇、二郡の境の葛野山より出て、母理・楯縫・安来の三郷を経て、入海に入る。(
山国川、
飯梨河、
筑湯川、源は郡家の正に東一十里一百歩萩山より出て北に流れ入海に入る。(年魚有り)
意宇川、源は郡家の正に南一十八里の熊野山より出て、川流れて入海に入る。(年魚、伊具比有り)
(白井文庫k13)
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海有年魚
伊具比 野代川源出郡家正南一十八里須我山北
流入入海 玉作川源出郡家正西一十九里志山北流
入入海有年
魚來得川源出郡家正西廾八里和奈佐山
西流至山田村更折北流入入海有年
魚完道川源出
郡家正西卅八里幡屋山北海流入海無魚
[池]
津間抜池周二里卅歩有鳥鴨
[魚斤]蔘 眞名猪池周一里北入
海門江濱伯耆與出雲二
国堺自東行西 粟鳥島ノ
字ヵ 有椎松多年木
宇竹眞島等葛 砥神嶋周三里
一百八十歩高六十丈有椎松莘薺-茸ヵ頭蒿都
波師太等草木也 加茂嶋旣礒
羽嶋有[木番]比佐木多
年木蕨薺頭葛 鹽楯嶋有蓼螺
子永慕 野代海中蚊嶋周六
十歩中央温土四方並磯中央有毛掬許木一許茸
日磯有蟻有螺子有海松自茲
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以西濱或峻堀或平土並是通道之所經也
道通国東堺手間剗卅一里一百八十歩通大原郡堺
林垣峯卅二里二百歩出雲郡堺佐雜埼卅二里
卅歩通嶋根郡堺朝酌渡四里二百六十歩前件
一郡 入海之南此則国廊也
郡主司主帳无位海臣无位出雲臣
少領従七位上勲業出雲
主政外少初位上勳業林臣
槪主政无位出雲臣
島根郡
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野代川、源は郡家の正に南一十八里須我山より出て、北に流れ入海に入る。
玉作川、源は郡家の正に西一十九里志山より出て、北に流れ入海に入る。(年魚有り)
來得川、源は郡家の正に西二十八里和奈佐山より出て、西に流れ山田村に至る。更に北に折れて流れ、入海に入る。(年魚有り)
「北海流入海」を「北流入入海」に修正
完道川、源は郡家の正に西三十八里幡屋山より出て、北に流れ、入海に入る。(魚無し)
ここに欠文有り、出雲風土記抄から補う
(子嶋、(既に磯))
粟鳥、(島ノ字ヵ)(椎・松・多年木・宇竹・眞島等、葛有り)
砥神嶋、周り三里一百八十歩高さ六十丈。(椎・松・莘・薺-茸ヵ頭蒿・都波・師太・等草木有る也)
加茂嶋(旣に礒)
羽嶋、([木番]。比佐木・
野代の海中に蚊嶋あり。周り六十歩、中央は温土にて四方は並びに磯。(中央に毛掬許りの木一つだけあり。曰く磯に蟻有り、螺子有り、
茲より以西の浜、或るは
道、国の東の堺なる
大原郡の堺なる林垣峯に通うは三十二里二百歩
出雲郡の堺佐雜埼、三十二里三十歩
嶋根郡の堺なる朝酌渡に通うは四里二百六十歩
郡主司主帳(無位海臣、無位出雲臣)
少領従七位上勲業出雲
主政外少初位上勳業林臣
概主政無位出雲臣
・細川家本k16
「郡主司主帳无位海臣
无位出雲臣
少領従七位上勲業出雲
主政外少祠位上勳業林臣
槪主政无位出雲臣」
(山川版p90では
「郡司主張无位海臣
无位出雲臣
少領従七位上勲十二等出雲
主政外少初位上勳十二等林臣
擬主政无位出雲臣」と改変。これは加藤の説の丸写しであり、細川家本の記述ではない。)
・倉野本k16
「郡主司主帳无位海臣
无位出雲臣
少領従七位上勲業出雲
主政外少祠位上勳業林臣
槪主政无位出雲臣」
・出雲風土記抄1帖k47
「郡主司主帳無位海臣
無位出雲臣
少領従七位上勲業出雲
主政外少初位上勲業林臣
概主政無位出雲臣」