『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡 ・ 『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡 ・ 『出雲国風土記』嶋根郡2
『出雲国風土記』秋鹿郡 ・ 『出雲国風土記』楯縫郡
『出雲国風土記』出雲郡 ・ 『出雲国風土記』神門郡
『出雲国風土記』飯石郡 ・ 『出雲国風土記』仁多郡
『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記
・『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介
『出雲国風土記』総記
- 「総記」という表示は本文にはないが、全体の概要を記しているので「総記」とする。
(白井文庫k03)†
- 文字の上に「帝国図書館蔵」という蔵印が押されている。誰が押したかしらぬが、愚昧・愚劣。
----------
◯出雲国風土記
国之大躰首震尾坤東南宮北属海東一百卅七里一十九
歩南北一百八十三里一百九十三
一百歩
七十三里卅二歩
得而難可誤
老細思枝葉裁定詞源亦山野濱浦之處鳥獣之棲魚
貝海菜之類良繁多悉不陳然不獲止粗挙梗概以成
記趣所以號出雲者八束水臣津命詔八雲立詔
之故云
----------
国之大躰首トシ震ヲ尾トス坤ヲ東南宮北属海
東一百卅七里一十九歩
南北一百八十三里一百九十三 †
国の大体、宮の東と南に震を首とし坤を尾とし、北は海につけり。
東(西)一百三十七里一十九歩。
南北一百八十三里一百九十三(歩)。
- 震(シン)…八卦の一つ。方位で東を表す。
- 坤(コン)…八卦の一つ。方位で西南を表す。
- 震・坤をそれぞれ(ヒンガシ)(ニシミナミ)と読む例があるが、東西南北の表記が別にあるので震・坤はそのまま(シン・コン)と読むべきであろう。
- 東西…東は伯耆国境から、西は石見国境まで。「西」の字は見られないが文意から補う。
- 南北…北は千酌駅から、南は飯石郡南の備後国境まで
- 一百八十三里一百九十三歩…97845m
- 宮…ここに云う宮は、杵築大社(出雲大社)である。出雲郷の条に「所造天下大神之宮将奉面 諸皇神等参集宮處杵築」とあり、出雲で宮と云えば杵築の宮であった。
- 細川護貞氏蔵本…國之大體首震尾坤東南宮北属海
- 倉野憲司氏蔵本…國ノ之大體首震尾[土+由
人]坤 東南宮北属海
- 日御碕神社蔵本…國之大體首トシ震ヲ尾トス坤ヲ東南宮北属海
- 神西氏蔵書写本…國之大體首震尾坤東西正北属海
- 白井文庫本も上田秋成書入本でも、「國之大體首震尾坤東南宮北属海」となっている。
読み方は上述のように「国の大体、宮の東と南に震を首とし坤を尾とし、北は海につけり」と云ったところであろう。
又、続く「南北一百八十二里」は、倉野本・細川本では「南北一百八十二里」で、白井本と上田本、神西本、出雲風土記抄では「南北一百八十三里」となっており、八十三里が正しいと考えられる。
但し、出雲全体からすれば誤差の範囲としておく。
ちなみに、この当時の一里は三百歩で現在の534.54(m)に相当するらしい。300で割ると一歩は1.7818(m)
この値、左右2足にしてもかなり大きい。
- 荷田春満は春満考piiiで、『東南宮北属海』の部分を、「今按東南山西北属海といふ句なるべし山西二字を時写あやま里て宮の一字に作りたるならん 志かも南を誤りて宮に作りたる所も見え堂里」と考察している。(堂里はタリと読む)
この説に従って読めば次のようになる。通常この説に従っていることが多い。
- 国之大體 首震尾坤東南山西北属海
東一百卅七里一十九歩
南北一百八十三里一百九十三
- 国の大体、首を震、尾を坤とし、東と南は山、西と北は海につけり。
東(西)一百三十七里一十九歩。
南北一百八十三里一百九十三(歩)。
- 底本を○○にしたと云いながら、何の記述もなく底本を改変し原文として紹介している例が多々あるので、原文の幾つかを併せ記した。当然、底本を記していないものは論外。
ところで春満の指摘のように、「山西」を「宮」に誤ると云うことがあるのか否かについては少々疑問が残る。「山」をウ冠と誤ることはありそうだが、「西」を「呂」に誤ることは草体の幾つかを比較してみても疑問が残る。
春満の説に従わず原文を読もうとすると、困難さはあるが読めないことはない。
- 「出雲風土記考証」では、「國之大體 首震尾坤 東南ハ山 西北ハ属海」としている。
- 出雲国風土記大成k4本文で「國之大體首トシ震ヲ尾トス坤ヲ東西宮北属ス海ニ」とあり、注で「震ハ東南坤ハ西南也」とある。
- 「修訂出雲国風土記参究」では原文編p484で「國之大體、首震尾坤、東南山、西北属海。」とし、注二で(「山西」、諸本「宮」。恐らくは草体の誤認。解・板による。)とある。
解は、横山家本「出雲風土記解」(内山眞龍)。板は「版本訂正出雲風土記」(千家俊信)の略である。
荷田春満の「出雲国風土記考(春満考)」については参照していないようである。
一百歩
七十三里卅二歩
得而難可誤†
- この3行は書写の際注記が混入したものと考えられている。
- 出雲国風土記考証p3に「この十六字はもと天平時代の風土記の本文には無かつたものであらう。~思ふに、この十六字は、後人が傍書したものを、傳寫の間に誤つて本文に混入したものであらう。東西一百三十七里一十九歩の一十を一百の誤と考へ、南北の里程の誤つた部分を七十三里卅二歩と考へ後人が傍書し、その次に「得而難考可誤」と書き加へたものが本文に混入し、考といふ字が隣の行の細思の上に移り、老の字に誤られて、こんなことになつたものであらう。」とある。
- 次行冒頭の「老」は、前行の「一百九十三」の後に「歩」とあったものの誤写ではないかとも思える。
老を自称とする説があるが、他に用いておらず、又風土記は個人編纂ではなく共同編纂であるので疑問。
老 細思枝葉 裁定詞源
亦山野濱浦之處 鳥獣之棲 魚貝海菜之類 良繁多 悉不陳†
老、枝葉を細思し 詞源を裁定す。
亦、山野濱浦の處 鳥獣の棲 魚貝海菜の類 良繁多にして、悉には陳べず。
然不獲止 粗挙梗概 以成記趣†
然あれど止むことを獲ざるは、粗梗概を挙げて 記の趣を成す。
所以號出雲者 八束水臣津命詔 八雲立詔之 故云八雲立出雲†
出雲と號くる所以は、八束水臣津命詔りて、八雲立つと詔る。故八雲立つ出雲と云う。
(白井文庫k04)†
----------
八雲立出雲
合神社参佰玖拾玖所
壹佰捌拾肆所 右神祇官
貳佰壹拾伍所 不在神祇官
玖郡郷陸拾壹里一百
七十九
私曰近代十郡有
能美郡不見
意宇郡郷壹拾里卅 餘戸壹驛家参神戸參里
云
島根郡郷捌里廿五 餘戸壹驛家壹
秋鹿郡郷肆里一十二 神戸壹里
楯縫郡 餘戸壹神戸壹里
出雲郡郷捌里廿三 神戸壹里二
-----
神門郡郷捌里廿二 餘戸壹驛家貳神戸壹里
飯石郡郷漆里一十九
仁多郡郷肆里一十二
大原郡郷捌里廿四
右件郷字者依旲亀元年式改里為郷其郷名字
者被神亀三年民部省口宣改之
~
----------
合神社 参佰玖拾玖所†
合わせて神社三百九十九所
壹佰捌拾肆所 右神祇官
貳佰壹拾伍所 不在神祇官†
一百八十四所 右神祇官
二百一十五所 神祇官不在
右神祇官--右は在に改める。細川家本k04・日御碕本k04・倉野本k04・上田秋成書入本k04等で「在神祇官」
- 神祇官神名帳記載の官社が184所、国庁神名帳記載の国社が215所
玖郡 郷 陸拾壹 里一百
七十九†
九郡 郷六十一 里一百七十九
- ・「細川家本」k03では「玖郡郷陸十壹里一百七十九」
・「出雲国風土記考証」p5で「玖郡郷陸拾壹里一百
七十九」解説で「次にある郷の數を合計してみれば「郷陸拾貳」とあるべく、神門漆の割註には里一十二とあるべく思はれるが、古寫本には皆本文の如くにある。かく郷や里の合計に相違のあるのは、或は風土記を最初作りたる時と、天平五年に出來上りたる時とに於て、斯くの如き相違が起りたるによるのかもしれぬ。必ずしも古寫本の傳寫の誤とも定められぬから今訂正を加へずに置く。」とある。推察の是非は置くとしても態度は正しい。
・「修訂出雲国風土記参究」原文編p484で「玖郡 郷、陸拾貳里一百
七十九」とし、注12で「底・諸本「壹」。各郷の実数により改む。」とある。又、注13で「底・諸本同じ。「里一百八十一」とあるべきか。」とある。
本文の方ではp51で「九郡。郷六十二。〔里一百八十一〕」と記している。「里一百八十一」に変更した理由についての記述は無い。
・「校注出雲国風土記」p2では、「九郡。郷六十二。里一百八十一」又、原文編p103では「玖郡 郷、陸十貳里一百
八十一」
- 校注は参究を踏襲しているわけだが、原文のどこを改変したかは記されていない。改変したものは「原文」とは云えないわけで、スタンスに疑問がある。
(上部横書き注記) 私ニ曰近代十郡有リ能美郡不見ヘ†
私に曰く、近代十郡あり。能美郡見えず
- 能義郡の古名のようである。因幡の能美郷から野見氏が来たという説がある。
意宇郡 郷 壹拾里卅 餘戸壹 驛家参 神戸參里云†
- 里云…「里六」の誤写であろう。
・細川家本k04・日御碕本k04・倉野本k04・萬葉緯本k07・萬葉緯本NDLk06・紅葉山本k04で「里六」
島根郡 郷捌里廿五 餘戸壹 驛家壹†
- 「捌」=「八」、「漆」=「七」、「肆」=「四」
- ルビの「子」は干支の「子(ね)」
秋鹿郡 郷肆 里一十二 神戸壹里†
楯縫郡 餘戸壹神戸壹里†
出雲郡 郷捌里廿三 神戸壹里二†
- 出雲の読みにシュッタウとルビをふっている。「出雲郡」の場合での呼び方。
神門郡 郷捌里廿二 餘戸 壹 驛家 貳 神戸 壹里†
飯石郡 郷漆里一十九†
仁多郡 郷肆里一十二†
大原郡 郷捌里廿四†
右件 郷字者 依旲亀元年式 改里為郷 其郷名字者 被神亀三年民部省口宣改之†
右の件、郷の字は、旲亀元年の式によりて里を改めて郷と為せり。その郷の名の字は神亀三年民部省の口宣を被りて之を定む。
- 旲亀元年=霊亀元年(715年)
・上田秋成書入本k4では「[ヨ/大]亀元年」
- 「灵」が「靈(霊)」の異体字であるので、「旲」[ヨ/大]は共に元字「灵」であったと思われる。
「出雲国風土記考証」天平時代出雲國之図(後藤氏の手になるもので、推定地図である。以後も同様)
『出雲国風土記』意宇郡