『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡 ・ 『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡 ・ 『出雲国風土記』嶋根郡2
『出雲国風土記』秋鹿郡 ・ 『出雲国風土記』楯縫郡
『出雲国風土記』出雲郡 ・ 『出雲国風土記』神門郡
『出雲国風土記』飯石郡 ・ 『出雲国風土記』仁多郡
『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記
・『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介
『出雲国風土記』楯縫郡(たてぬいのこおり)
(白井文庫k25)

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楯縫郡
合郷肆里一十二 餘戸壹神戸壹
佐香郷 今依前用
楯縫郷 今依前用
形潭郷 本字忽美
沼田郷 本字努多 以上肆郷別里參
神戸里
所以号楯縫者神魂命詔五十足天日栖宮之蹤
横御莖千尋拵紀持與百八十結々下與此天御
-----
量持與所造天下大神之宮造奉請與御子天御
鳥命楯郡爲與天下給之尒時退下來唑與大神
宮御裝楯造給所是也仍至今楯杵造而奉
出皇神ホ故云楯縫
佐香郷郡家正東四里一百六十歩佐香河内百
八十神等集唑御厨立給與今釀酒給之即
百八十日喜燕解散故云佐香
楯縫郷即屬郡家説名
女郡即北海濱業梨礒有窟
裏方一丈半高廣各七尺裏南壁在穴口周
六尺徑尺人不得入不知遠近
──────────
楯縫郡†
合郷肆里一十二 餘戸壹神戸壹†
郷は合わせて四つ(里一十二) 余戸壹 神戸壹
佐香郷 今依前用†
佐香郷 今も前に依りて用いる
- 今依前用…(佐香郷の名は神亀3年以前の呼び方をそのまま用いている。)と云う意味。
楯縫郷 今依前用†
楯縫郷 今も前に依りて用いる
形潭郷 本字忽美†
形潭郷 本字は忽美
- 形潭郷…玖潭郷(クタミ)であろう。出雲市久多美町に「玖潭神社」がある。
・出雲風土記抄3帖k2本文で「玖潭郷」
- 忽美…「忽」の読みは(コツ)なので「忽美」(コツミ)の読みとなるが、(クタミ)と読んでいる事が多い。
沼田郷 本字努多 以上肆郷別里參†
沼田郷 本字は努多 (以上四郷、別に里三)
神戸里†
神戸の里
所以ハ号ス楯縫ト者神魂ノ命詔リ五十足天日栖宮之蹤横御莖千尋拵紀持與百八十結々下與此天御量持與所ノ造天ガ下大神之宮造リ奉請與御子天御鳥ノ命楯郡爲與天下ノ給フ之ヲ†
楯縫と号すゆえは神魂の命、五十足天日栖宮の蹤横の御莖を千尋に拵え紀ぎ持ちて百八十に結々下げて、此の天の御量持ちて天が下造りし所の大神の宮を造り奉れと請詔りて、御子天御鳥の命を楯郡と爲して之を天下し給う
- 神魂命…「魂」の旁は「鬼」ではなく上の[ノ]が無い字体でこれは(オニ)ではなくカミ「神」(カミ)を表す。
[鬼]の象形文字では上部は同様に[田]であり、これは死者の魂を表していた。
- 五十足…百足(モモタル)に至らないと云うことで、「半ば・途中」の意味であろう。
- 莖…茎の旧字。織物の縦糸の象形で(もと・はしら)の意味がある。
- 天御量(アメノミハカリ)…度量衡の測定器。(アマツミハカリ)と読むと天ツ神達の会議と云う意味にもなる。
- 天御鳥…ルビに従い(テミトリ)。(アメノミトリ)と読んでいる場合が多い。
- ミトリは見取り図のミトリに通じる。いわゆる鳥瞰図。天御鳥命の意味は天日栖宮の建築を担う者を意味しているのであろう。
ちなみに古代の建築は鉄釘などの金物を使わず、柱を縄で結びつけて築きあげた。いわゆる柔構造の木造建築である。
仮に地震等で倒壊しても、すぐに建て直せるという作り方であった。
それ故、御茎・紀ぎ、結々など、縄を結うことに関連する表現が色々記されているのだが、その為に少々解り難い部分にもなっている。
土を固め、柱を立て、編んだ竹を壁の基材とし、藁・海藻を混ぜた土を練って塗り込め、下地に杉や檜の皮を敷き防水した上に、束ねた萱を並べて屋根を葺くという造作である。
余談だが、母方祖父は宮大工の棟梁で、引退後は暇さえあれば縁側で竹釘を作り、弟子達に渡していた。
後を継ぐ予定で修行していた長男は戦死し、次男も戦死したため、後を継ぐ者は無く、弟子達はそれぞれ独立させて大工は終わった。
両挽きや大挽き(大鋸)や釿(チョウナ)など、今ではあまり見ることのない大工道具が藏一杯に納められていた。
- ここで興味深いのは、所造天下大神の宮作りをすることを神魂命が子の天御鳥命に命じたという点である。
記紀にこの記述はない。
尒ノ時退下來唑與大神宮御裝楯造リ給所是也†
その時、退り下り来まして、大神の宮と御裝う楯造り給いし所、是なり。
- 楯…「御装う楯」と云うのであるから、外壁の飾りのことであろう。神事道具ではない。
(神事道具というなら、何の神事でどういう使い方をするのか示すべきである)
- 「大神の宮と御装う楯」ここの「與(と)」には少々戸惑ったが、「大神の宮と(するにふさわしく)御装う楯」ということであろう。他書(抄・訂正)では「大神の宮の御装束の楯」としている。
仍至今楯杵造而奉出皇神楽カホ故云楯縫†
仍て今に至るまで、楯杵造りて皇神等出奉る、故に楯縫と云う。
- 仍至今…「仍」には「重ねる・繰り返す」の意味があり、「今に至るまで繰り返して」いることを表す。
- 楯杵…楯と杵。杵は土を突き固め堀立柱を立てるために用いたのであろう。
- ホ…上に「ホ」と記したのは「等」の略字。「楽カ」と傍記があるが「楽」ではない。
- 楯縫…楯・盾は、武具の内、防禦に用いるものであるが、元は革製でこれを漆で固めたものであり、軽量でかなりの防御力があった。
更に木に皮を貼ったものが造られた。「盾」とある場合は革製で、「楯」とある場合は木製であるといえる。
「盾縫」と云うのは、皮を縫って盾を作る事であり、木製楯を作るようになって「楯縫」となり楯作りの職人集団を「楯縫部」と呼んでいた。
尚、皮の盾は腐食の為に今に残っていることは稀である。
- 「楯縫郷」の由来について記されたこの部分は少々すっきりしない所がある。縦・楯を掛詞のように用いて「建」を表現しようとしているようにも思える。
案ずるに、楯縫郷の由来は楯縫部の居住していた郷であり、その由来を天御鳥に繋がる者として伝えたのではないかと思われる。
- この部分異同が多いので次に挙げておく。
・出雲風土記抄3帖k3本文

所以ハ号スル楯縫ト者神魂ノ命詔五十足天日栖宮之縦横御量千尋ノ栲縄持テ而百結ビニ結テ八十結結而
此ノ天ノ御量リ持テ而所造天下大神ノ之宮造リ奉レト詔フ而御子天ノ御鳥ノ命楯部ト爲而天降シ給ノ之
尒時ニ退下来坐マシテ而大神ノ宮ノ御装束ノ楯造リ始メ給フ所是也
仍テ至今楯桙造テ而奉ハ於皇神等故ニ云楯縫ト
楯縫と号するゆえは神魂の命詔五十足天日栖宮の縦横御量千尋の栲縄持て百結に結て八十結結て
此の天の御量り持ちて所造天下大神の宮造り奉れと詔ふて御子天の御鳥の命楯部と為して天降し給の
時に退下来坐して大神の宮の御装束の楯造り始め給ふ所是なり。
仍て今に至り楯桙造て於皇神等に奉は故に楯縫と云う。
・訂正出雲風土記上k45

タテヌヒトナヅクルユエハ カミムスビノミコトノノリ玉ハク モモチタルアメノヒスノミヤノタテヨコミハカリチヒロタクナハモチテ モモムスビムスビ ヤソムスビムスビサゲテ
所以號楯縫者神魂命詔。五十足天日栖宮之縦横御量千尋栲縄持而。百結--。八十結--下而。
コノアメノミハカリモチテ アメノシタツクラシシオホカミノミヤツクリタテマツレトノリ玉ヒテ ミコアメノミトリノミコトヲタテベトシテ アマクダシタマヒキ
此天御量持而。所造天下大神之宮造奉詔而。御子天御鳥命楯部爲與。天降給之。
ソノトキマカリクダリキマシテ オオカミノミヤノミヨソヒノタテツクリハジメタマヒシトコロナリ
爾時退下來坐而。大神宮御装束楯造始給所是也。
カレイマニイタルマデタテホコツクリテ スメカミタチニタテマツル カレタテヌヒトイフ
仍至今楯桙造而。奉於皇神等。故云楯縫。
佐香郷郡家正東四西トアリ里一百六十歩†
佐香郷、郡家の正に東、四里一百六十歩
- 佐香郷…
・出雲風土記抄3帖k3解説で「此郷ハ并セテ於小佐加恵佐香園村鹿園寺四所ヲ以為佐香郷ト也蓋シ百八十神等燕會ノ處ハ今ノ佐香ノ小川ナラン也」とある。
(此の郷は小佐加恵、佐加、園村、鹿園寺の四所を併せて、以て佐香郷と為す也。けだし百八十神等燕会の所は今の佐香の小川ならんや。)
今の小境・坂浦・園村・鹿園寺の4地区が該当するのであろう。
- 郡家…楯縫郡家。所在地は推定地が多久谷・岡田・多久灘など諸説ある。
- 西トアリ…元の文では「郡家正東西里」とあったのを「郡家正東四里」に改めたのであろう。
佐香河内百八十神等集リ唑ス御厨立給フ與ヘ今釀酒ヲ給フ之†
佐香の河内に百八十神等集まり唑す。御厨立給う。今酒を釀し與へ給う。
- 佐香河内…小境町に「松尾神社」があり、別称「佐香神社」という地理院地図。酒造りに関わりのある神社であり、神集い燕會したというのはここであろうと思われる。近くを流れる川を小境川といい、かつては佐香川と呼び、この川水で酒造りをしていたという。(今は少々東方に川筋が移動している)
・上の出雲風土記抄で「佐香の小川」とある。
・校注出雲国風土記p48脚注に「川に囲まれた地区。佐香川は今の鹿園寺川」とある。
- 鹿園寺川というのは良く解らないが鹿園寺町を流れる川(境川)を指しているのかと思われる(地図では西の支流の方に「境川」と表示されているが東の本流も「境川」である)。とすれば佐香川ではない。(後述するがこれは後藤の誤読による誤りである)
- 佐香郷・佐香神社はその名称「佐香」が「酒」に通じることから日本酒発祥の地と云われる。
古事記、須佐之男命の八俣遠呂知退治の件もあるが、一応参考までに。
- 百八十神…「百八十」は「多数」の意味で百八十柱の神々という意味とは異なる。次の「百八十日」も同様。
- 御厨…神饌を準備する建物を指す。
即チ百八十日喜燕解散故云佐香ト†
即ち百八十日喜燕し解散ます。故佐香という。
- 喜燕…「燕」を訂正出雲風土記では「讌」としている。「讌(エン)は「酒宴」を意味する。
・出雲風土記抄3帖k3、本文で「喜燕」とし、「喜ビ燕(サカモリ)シ」と読んでいる。
・出雲国風土記考証p177で「喜讌」とし(ミサカミヅキ)と読みをふっている。
・校注出雲国風土記p48で「喜讌」とし(サカミヅキ)と読んでいる。
- 「喜燕」が元字で「喜讌」であったのかどうかは不明。
酒宴を(サカミヅキ)と云う事があるので、考証・校注では「燕」を「讌」とし(サカミヅキ)と読んだのであろうと思われるが、「喜」を含めて「喜讌(サカミヅキ)」と読むのには少々違和感がある。
萬葉集巻18、大友家持の歌に「左加美都伎」とあり、酒を楽しむことと解されている。(「酒水喜」或いは「酒満喜」の意か)
- 解散…(アラケ)は「散(アラ)かす」の意味で、皆に配る事を指す。
楯縫郷即チ屬ス郡家説名女郡†
楯縫郷、即ち郡家に属す。(名を説くこと郡の如し)
- 楯縫郷…今の多久・多久谷・岡田・布崎・小伊津・三津・美保(唯浦)・塩津地区を併せた地域
・出雲風土記抄3帖k4解説「鈔云楯縫郷比天平則属郡家并於多久多久谷岡田布崎古井津三津只浦塩津等八箇所都為楯縫郷也」
(鈔に云う。楯縫郷は天平のころには則ち郡家に属す。多久、多久谷、岡田、布崎、古井津、三津、只浦、塩津、等の八箇所を併せ都めて楯縫郷と為す也)
・出雲国風土記考証p177解説で「この地方では、郡家の位置を、今の檜山村多久の観音寺下の字下邸といふ所であつたと、言い傳へて居る由なれども、下邸といふ名は、天平時代よりも後の世に、庄園の地頭の居つた所であつて、郡家の跡ではあるまい。伊農川より八里二百六十四歩とすれば、今の大慶寺の本堂より西々南、直線四町許り、檜山及び鴻巣山より流れ來る川が、今の縣道を横切る邊にあつたものであらう。」とある。
観音寺と云うのは平田普賢院(出雲市多久谷町289)の事かと思われる。下邸の位置は不詳。
・校注出雲国風土記p48脚注で「楯縫郡家」について「平田市多久灘辺にあったらしい」とある。
校注出雲国風土記も出雲国風土記考証も楯縫郡家の位置を同じ場所に見ているようである。地理院地図
校注出雲国風土記は出雲国風土記考証の説を慣用したのであろうと思われるが、伝承による下邸説も捨てがたい。
考証ではこの「下邸」という呼び方が地頭を定めた時代の呼称であるからと云う理由で否定しているが、元郡家のあった場所に地頭が入り、名称が変わったと考えることもできる。施政面ではその方が妥当という気がする。
加藤の言う「多久灘」については[灘]という名称は水流の激しい場所を意味するから、そのような場所に郡家を置くというのは考え難い。
この件保留。
即北海濱業梨礒有リ窟裏方一丈半高サ廣サ各七尺裏南壁在穴ノ口周リ六尺徑リ尺人不得入リヲ不知遠近ヲ†
即ち北海濱の業梨礒に窟有り。裏方一丈半、高さ廣さ各七尺。裏の南壁に穴の口在り。周り六尺、徑り二尺。人の入りえず、遠近を知らず。
- 業梨礒…「業」は象形でギザギザ模様を表す。「梨」は音の利用であろう。「礒」は波打ち際の岩。ちなみに「磯」は岩に当たる水音を表す。ギザギザ模様の海苔が張り付いた岩場を表す。
・校注出雲国風土記p48本文で「紫菜磯」脚注で「紫菜石磯の略。諸本「業梨」とあるが草体の誤写。今の平田市唯浦の穴が淵がそれであると伝える」としているが、誤写ではない。また「穴が淵がそれであると伝える」とあるのは以下に記した出雲風土記抄記載のことと思われるが「穴が淵」ではなく「穴が之渕」である。こういう誤記は転用されやすいので注意が必要。
- 穴口…白井本では「穴-口」と「-」で繋ぎ続けて読むようにしている。
・訂正出雲風土記上k45では「~有穴。口周~」と区切っている。
・出雲風土記抄3帖k4の解説で「礒ノ磐窟ハ者今俗曰穴カ之渕ト是也ス則在于只浦ニ予嘗テ行於舩ヲ而メ視レハ其ノ穴中ヲス則二町許白沙皓潔タリ不ス知ラ其ノ歯奥ノ深浅更ニ云フヲ幾ソ許リト也」
(礒の磐窟は今俗に穴が之渕という是也。則ち只浦に在り。予嘗て舩をやって其の穴中を視れば、則ち二町許り。白沙皓潔たり。其の歯奥の深浅を知らず、更に幾ぞ許りと云う也)
・・只浦…唯浦地理院地図。
・・白沙皓潔…「皓」は白く輝く様子であるから、「白沙皓潔」は白く輝く綺麗な砂で覆われていたことを表したのであろう。
・・歯奥…「歯」は上の[止]が無い字形。[止]は口を塞ぐ事を表したものであり[止]の無い形でも歯を表す。歯奥と云う表現は、口中のような穴を表したのであろう。
出雲国風土記考証p182では出雲風土記抄の引用で「幽奥」としているが誤り。
- 出雲風土記抄3帖K4

(白井文庫k26)

──────────
前作形此作政何不審
政潭郷郡家正西五里二百歩所造天下大神命
天御飯田之御倉將造給覓巡行給尒時波夜
佐雨久多美乃山詔給故云忽美神龜三年改
字政潭
沼田郷郡家正西八里六十歩宇乃沼比古命以
尒多水而御乾飯尒多尒食唑詔而尒多負
給之然則可謂尒多郷與命人猶云努多耳
神亀三年
改字沼田 神戸里出雲己説名
如意宇郡
[寺]
新造院一所在沼田郷中建立嚴堂也郡家正西
六里一百六十歩大領出雲臣大田之所造也
[社]
久多美社 多久社佐加社乃利斯 御津社
-----
水社 宇美社 許定社 同社 以上八所並
在神祇官
許豆乃社 又許豆社 又許豆社 久多美社 同久
多美社 高守社 又高守社 紫菜嶋社
鞆前社 宿努社 埼田社 山口社 葺原社
又葺原社 田由社 峴之社 阿年知社 葺原社
田々社 以上一十九所
不在神祇官
[山]
神名樋山郡家東北六里一百六十歩高一百二
十丈五尺周廾一里一百八十歩崽西在石神
高一丈周一丈往側在小石神百餘許古老傳
云阿遲須枳高日子命之天御梶日女命來
──────────
前作形此作政何不審†
(前に形に作り、此に政に作る何ぞ不審)
- 楯縫郡の最初で「形潭郷」と記しここで「政潭郷」と記している事への疑問を示している。
・出雲国風土記考p63で荷田春満は「形は玖の誤るなん」と記しているが、政については触れていない。
古写本で異同があるのであろう。「形潭」も「政潭」も今に繋がる地名はないので、ある時に「玖潭」を誤写したのであろう。
誤写したものが伝わり、それに対する疑問を記すというのは、底本の信頼度を上げる。
政潭郷郡家正西五里二百歩†
玖潭郷、郡家の正に西五里二百歩
- 玖潭郷…久多美、東郷、東福、野石谷、鎌浦、十六島、小津、辺りの各地区を併せた地域
・出雲風土記抄3帖k4解説で「兼併久多美村東郷福村海苔石谷鎌浦十六嶋右津等ノ八所ヲ以為玖潭ノ郷ト也」
所造天下大神命天御飯田之御倉將造給覓メ巡リ行キ給フ尒時波夜佐雨久多美乃山詔給フ故云忽美神龜三年改字政潭†
天の下造らしし大神の命、天御飯田の御倉を將に造り給わんと覓め巡り行き給う時に、波夜佐雨久多美乃山と詔給う。故に忽美と云う。(神龜三年字を玖潭と改む)
- 天御飯田之御倉--「天御飯田」は神饌用の神田。「御倉」はその米を保存しておく倉。
- 波夜佐雨久多美乃山(ハヤサウクタミノヤマ)…「波夜佐雨」は「速雨」で突然降ってくる雨。「久多美」は腐(クタ)み、傷める事と解している場合があるが疑問。
・校注出雲国風土記p48では「久多美」の脚注で「早雨、腐すにかかる枕詞。「くた」は「卯の花を腐す霖雨」(万)などある四段動詞の語幹」と記している。
萬葉集巻19大友家持の「宇能花乎 令腐霖雨之 始水邇 縁木積成 将因兒毛我母」(うの花を 腐す霖雨の 始水に よる木積なす よらむ児もがも)を引用しているが、ここに云う「宇能花乎 令腐霖雨之」と云うのは梅雨の長雨を指しており、そういう時期に御倉造りのための場所を探して廻る事は考えられない。又「卯の花腐し」は、あくまでも「卯の花を腐す」のであって、「卯の花」無しでは意味を成さず「早雨腐す」と直接繋がる表現ではない。「早雨」は枕詞でも何でもない。尚「卯の花腐し」は通常は梅雨前(旧暦4月・今の5月頃)の雨の事を云う。
・出雲国風土記考証p182解説では、他地域の「球覃」「朽網」や「降水」など挙げて長々と記しているが結論を得ていない。
久多見町に玖潭神社(地元では東福町の久多美神社と区別する為クタン神社と呼ぶ)がある(主祭神:大穴牟遲大神)地理院地図。
元は北西約1(㎞)の城山山頂(要害平)に鎮座地理院地図。
1496年秋、火災により焼失。御神体は暫く西方山腹の巨岩上に祀られていたが、その後1669年に現在地に遷座再建。
一時御神体を移していた巨岩は、松平治郷(不昧)が父親の寿蔵碑建立の為に切り出し松江の月照寺に運んだが色々奇怪なことが起きた。その為か残った親岩には延命地蔵を刻み、切り出し禁止として今に残っている。
pdfだが、ここに案内がある。「玖潭神社と延命地蔵」
- 玖潭神社の案内に「二十町餘り(約二.二粁)北方~」とあるが誤り。合社した池田の久多美社(池田社・五所大明神)からの距離をそのまま記したのであろう。この記述に結構迷わされた。玖潭神社と久多美神社の関係については少々長くなるので機会を見て別記する(かもしれない)。
- 忽美(クタミ)…ルビでは(クミ)。「忽」は(コツ・タチマチ)であるから、上の「波夜佐売久多美」を「波夜佐雨忽美」とすれば、速雨が忽ちに降ってきた。則ち、「突然のにわか雨」と云う意味となり得心できる。(美は音をあてた美称)
ここの一文、意訳すると「大己貴神が米倉を造る良き地を求めて各地を廻っていた時、(城山にて)突然のにわか雨にあったと語られた。それでクタミと云う。」となる。
「忽美」は本来(コツミ)の読みであるはずだが、「忽(タチマチ)」の語意を込めてこの字を用いたのであろう。
- 「久多美」「忽美」を神亀3年に「玖潭」に変えた趣旨が解らない。「玖」は黒石で「潭」は深い渕である。大己貴神の逸話と何の関係もなくなる。
ちなみにこの地から切り出される石材を「久多美石」というが、青石であって黒石ではない。
「玖潭」が「久多美」「忽美」より好字であるとも思えない。
「形潭」「政潭」と記していたのは「玖潭」への改名に対する反撥心が背景にあったのかも知れないとさえ思われる。
沼田郷郡家正西八里六十歩†
沼田郷、郡家の正に西八里六十歩
- 沼田郷…今の平田、西平田、西代、灘分、西郷、の地区を合わせた地域。
・出雲風土記抄3帖k5解説で「并テ於平田西代出来洲等ノ所ヲ以為スル沼田ノ郷ト也 意フニ出雲ノ大河此辺ノ之俗曰フハ尒多河蓋シ所謂ル古ノ之遺称之也」とある。
‥出来洲は灘分町に上出来州・下出来州と云う地区に分かれてある。中間地に浮洲神社というのがあり、この辺りまでが風土記時代の洲であったのかと思われる。
‥尒多河…今の平田船川のことであろうか。但し平田の新田地区は江戸期からの開発地で風土記時代には無かったから今の平田船川の河口はかなり西方、愛宕山公園の南辺り迄であったろうと思われる。
宇乃沼比古命以尒多水而御乾飯尒多尒食唑詔而尒多負給之然則チ可謂尒多郷ト與命人猶云努多ト耳神亀三年
改字沼田 †
宇乃沼比古命、尒多の水を以て御乾飯尒多に食しめして、詔て尒多と負し給う。然れば之則ち尒多郷というべきを命人猶努多と云うのみ。(神亀三年、字を沼田に改む)
- 宇乃沼比古命…一部「宇乃治比古命」としている書がある。
「宇乃沼比古命」細川家本k32・日御碕本k32・萬葉緯本k43・出雲風土記抄3帖k4・上田秋成書入本k28・風好舎敬義本k38・鶏頭院天忠本k28・出雲国風土記考p63
「宇乃治比古命」訂正出雲風土記-上-k46・校注出雲国風土記p48・出雲国風土記大成k49(考証・標注・校訂などは訂正を底本としているので同様)
‥分別してみると、「宇乃沼比古命」の方が多い。訂正出雲風土記の影響が大きいのであろう近年は「宇乃治比古命」としている書を多く見る。沼田郷であるのだから「宇乃沼比古命」の方が妥当。日御碕本・萬葉緯本では白井本と同様に(ウノヌヒコ)と読みを記している。
細川家本や倉野本では「沼」を「治」と誤読しやすく、これが誤読の原因となったのであろう。
- 尒多水…尒多河の水であろう。
- 乾飯(カレイイ)…干飯(ホシイイ)とも云う。一度炊いた米を天日干しにしたもので、そのままでも、水や湯で戻しても食べられる古代からの携行食。一説には20年ともいう長期保存が出来た。
- 尒多尒食唑…乾飯を煮てお粥のようなものを作ったのであろう。
・出雲国風土記考証p184で「今、鰯をヌタにして食ふといふときは、鰯の骨を除いたものに、葱などの煠でたものを混じ、味噌と酢に和えて食うことをいふ。故に爾多爾食は雑炊にして食うことであらうと思はれる。」とある。
尒多(爾多)はヌタでなくニタなのだが・・・・。
- 命人…「今人」であろう。「命人」は戸籍のある人の意味にも取れるのでこのままにしておく。
神戸里出雲己説名如意宇郡†
神戸里(出雲なり。この名を説くこと意宇郡の如し)
- 神戸里…今の野石谷地区の北部
・出雲風土記抄3帖k5解説で「鈔云此神戸者玖潭ノ郷中海苔石谷六社大明神ノ神戸也」
これについて、
・出雲国風土記考証p184解説で「海苔石谷は、玖潭郷と神戸里とに分かれて属く程に戸数の多い地とも思はれないが、風土記鈔にいふ如くならば、久多美村の高野寺地理院地図へ登る路以東は神戸里で、その路以西は玖潭郷に属していたものか」と記している。
‥雲陽誌楯縫郡3帖k71(地誌大系-27-p258)を参考にすると、六社大明神というのは「能呂志神社六所明神」とあるのがこれに当たるのであろう。地理院地図
神戸を持つ神社であるから古代には重要な地位をしめていたと考えられる。北浦の名産品である海苔集積に関わりのある神社であったのであろう。この神社付近で海苔の交易が行われていたのかと思われる。考証の記述は過小評価と云わざるをえない。
又、高野寺の開山は824年と云われ、風土記の時代(713~733)には無かったのであるから、高野寺へ登る路で神戸里との境界を区分するというのは発想が誤っている。
- 神戸と云うのは、領地の線引きされた境界のようなものではなく、今の氏子社中のように集落単位で定まるものであろうから、伊儀・上寄・野石谷上の集落辺りは神戸の里で、坂坊地区は玖潭郷に含まれていたであろうと思われる。佐藤地区は微妙なところだが地主神社がどこか解れば定まる(おそらくは神戸里)。
(出雲風土記抄ではここに餘戸里があるので追記しておく。)
- 餘戸里…今の万田、本庄地区
・出雲風土記抄3帖k5解説で「鈔云此里者并テ於萬田本庄二村ヲ以テ餘戸里也」
・校注出雲国風土記p49では脚注で「平田市西北十六島半島辺に当たるか」と記し、万田・本庄は沼田郷としている。
[寺]
新造院一所在沼田ノ郷中建立嚴堂也†
新造院一所。沼田の郷中に在り。嚴堂建立也。
- 新造院…
・出雲風土記抄3帖k5解説で「太田ノ之所造ル之嚴堂ハ今ニ以方隅路程ヲ按レハ之蓋シ平田村ノ之薬師堂ナランカ欤」とある。
‥薬師堂というのは通称平田薬師といわれる瑞雲寺のこと。地理院地図
・雲陽誌(地誌大系-27-p265・k139)「西之郷」の記述に「寺跡 寺號も山號もしれず、古は伽藍なりとて礎瓦今にのこれり」とあり、これを新造院のことと考える向きもあるようだが、上記以外の記述はなく不明。
・出雲国風土記考証p185解説で「この新造院の跡について、風土記鈔や、風土記考の考へて居る所は、ともにあたらぬ。大正の初め、平田町から山の麓に沿うて宇賀へ行く道が、今の平田町と西々郷との境に交わる點より、正西直線三町の所に、池が掘られたとき、古瓦の破片などが出た。私は郡家よりの距離から推して、此邊に新造院の址を調べるやう土地の人に依頼したとき、前記の如き報を得たので、急ぎ行きて見れば、紛れもない天平時代の唐草模様ある瓦であつた。よつて、そこを、此の新造院の跡と断定したのである。
新造院もなくなった後のことであらうが、その跡に庵があつた。その庵も今より數百年前になくなり、其跡に出來た家の屋號を庵屋といひ、後に字を安屋に改めた。新造院にあつたものを、庵に傳へる様なこともあらうかと探索する中に、平田の中ノ島の観音堂に、弘仁式と思はれる古い佛像が横にしてあつたのは、もとかの庵にあつたものである。これは珍らしい佛像であるといふので、その所有者の山口俊治氏は、そこへ新らしく堂を立てゝそれを安置した。」と記している。
(ここで「風土記考」と記している部分について、荷田春満の「出雲国風土記考」には該当しそうな内容文がないので横山永福の「出雲風土記考」の事であろう)
・校注出雲国風土記p49脚注で「同市西郷町字表の庵屋附近にあつた」と考証の解説を踏襲している。
- 楯縫郷から出土した天平瓦は考証に記されたものが唯一らしく、西西郷廃寺瓦として「出雲弥生の森博物館」(出雲市大津町)に保管されているらしい。西西郷廃寺・地理院地図
郡家正西六里一百六十歩大領出雲ノ臣大田之所造也†
郡家の正に西、六里一百六十歩。大領出雲臣大田の造りしところ也。
- 郡家正西六里一百六十歩…六里一百六十歩(3492m)。
- ここ迄の記述で「郡家正西」とあるものを拾うと、
・玖潭郷…郡家正西五里二百歩(3029m)
・沼田郷…郡家正西八里六十歩(4383m)
これからすると、西西郷廃寺では方角にも距離にも疑問が生じる。
里程は郷長の家までの距離であるから、玖潭郷長と沼田郷長との家の中間より玖潭郷寄りであるはず。
郡家を多久灘辺りとするのが誤っているのか、或いは新造院は未だ発見されていないのではないかとも思われる。
むしろ天平瓦の出土した地は沼田郷長の跡地で、平田薬師辺りに新造院があったのではないかとも考え得る。
方位はともかくとして、距離的にはこの方が合う。保留。
[社]
久多美社 多久ノ社。佐加ノ社 乃利斯 御津ノ社†
久多美社 多久社 佐加社 乃利斯 御津社
- 久多美社…波夜佐雨久多美乃山(城山)山頂の要害平にあった。今は移転し「玖潭神社」とされている。
- 乃利斯…乃利斯社、野石谷町の「能呂志神社」の元社のこと。
・紅葉山本k27で「乃利斯」
・細川家本k33・日御碕本k33・倉野本k34・萬葉緯本k44で「乃利斯社」
・出雲風土記抄3帖k06、本文で「乃利斯社」解説で「乃利斯社ハ久多美郷海苔石谷六社大明神即チ出雲神戸也」
- 「乃利斯」とあるのは白井本と紅葉山本。他は「乃利斯社」。ここから紅葉山本が白井本を元にしていると考えられる。
又町名の「野石谷」は元「海苔石谷」
- 「乃利斯]の「乃利」は海苔の事であろうが、[斯]には(切る)という語義がある事から、「乃利斯]というのは「海苔を切る」つまり採取した海苔を製品に加工する場所であったと言うことであろう。
水社 宇美社 許定社 同社 以上八所並在神祇官†
水社本ノ侭 宇美社 許定社 同社 (以上八所、並に神祇官に在り)
- 宇美社…
・出雲市塩津町279「石上神社」地理院地図の事。
今は出雲市平田町宮ノ町688-1「宇美神社」地理院地図とされているが経緯がある。
・出雲風土記抄3帖k6解説で「宇美社ハ在マス同郷塩津浦ニ大神也」
・出雲国風土記考証p188解説で「今、平田町にて、元の熊野社に諸社を併合して、宇美社と名づけ、大正九年に縣社とせられたものがある。出雲風土記鈔には楯縫郷鹽津浦大明神とあるが、それが正しからう。雲陽誌には、布都魂命を祀る所の迫大明神の條に「風土記に沼田郷宇美社と書くは此社なり」と書いて居れども、風土記に沼田郷には沼田郷にあるとは云つてない。
鹽津浦大神とは、石上名神をいつたものか、御神體として重い海石があつたが、天和と享保との間のことでもあらうか、鹽津浦の負債を平田町から催促し、辨償せぬに於いては、氏神を質に取つておくとて、かの御神體を持ち歸り、熊野社の境内に置いた。これを布都魂命であるとし、又細川玄旨の歌詞にある生ノ浦をウミノウラとし、宇美社はもと平田にあつたものと主張して、ついに宇美社にしたものである。」
細川玄旨は細川藤高(幽斎)の事。
天和(1681~1684)享保(1716~1736)
・明治の神社改めで平田の熊野神社を宇美神社と改め祭神を布都魂命とした。これには熊野神社も石上神社も反対し、嘆願書を連名で提出したが松江藩神祠懸は認めなかった。
又石上神社は近くの船守神社に合祀された。その後和泉定路により再興出願され現社地に復興された。
- 複雑な経緯を持つ神社である。宇美社は今の石上神社であり、平田の宇美神社ではない。
借財の質に御神体を持ち去るとかいかにもやり過ぎである。これを行ったのは沼田郷の長廻某という輩のようである。
今の石上神社の御神体は社殿奥にビニールシートにくるまれているが、御神体が持ち去られた為に別の石を据え、そのようなことにしたものかと思われる。
ついでに記すと、原田常治は宇美神社は有名人の生誕地などと記していたが馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
- 許定社…許豆社であろう。小津町の「許豆神社」の事。地理院地図
- 八所…八所とあるが九社あるので数が合わない。
・出雲風土記抄3帖k5の本文で「以上九所並在神祇官」とある。
又「乃利斯」は「乃利斯社」、「水社」は「水神社」、「許定社」は「許豆社」となっている。
許豆乃社 又許豆ノ社 又許豆ノ社 久多美社 同ク久多美社†
許豆乃社 又、許豆ノ社 又、許豆ノ社 久多美社 同じく久多美社
高守社 又高守社 紫菜嶋社 鞆前社 宿努社†
高守社 又、高守社 紫菜嶋社 鞆前社 宿努社
埼田社 山口社 葺原社 又葺原社 田由田カ社†
- 田由社…諸本見ると「田田社」であろう。これに改める。
出雲市美保町唯浦の「田田神社」
・細川家本k33・日御碕本k33・萬葉緯本k33・紅葉山本28で「田田社」
・倉野本k34で「田田社」ただし縦線あり。
・出雲風土記抄3帖k6本文には記載がない。代わりに「葦原社」を一社増やして不在神祇官社十九所に合わせている
埼田社 山口社 葺原社 又、葺原社 田田社
峴之社 阿年知社 又葺原社 田々社 以上一十九所不在神祇官†
峴之社 阿年知社 葺原社 田々社 (以上一十九所は神祇官在らず)
- 田々社…出雲市塩津にもかつて田田神社があったという。平安初期の大津波により消失。
・出雲風土記抄3帖k7解説では「田々社ハ[木逢](楯を傍記)縫郷只浦大明神也」
出雲風土記抄では上の「田田社」を記載しておらず、こちらの「田々社」のみ記載している。
[山]
神名樋山郡家東北六里一百六十歩高一百二十丈五尺周廾一里一百八十歩†
神名樋山。郡家の東北六里一百六十歩。高さ一百二十丈五尺、周り二十一里一百八十歩。
- 神名樋山…通常、多久町の大船山(327.2m)地理院地図とされる。
大船山としたのは後藤に始まる。
・出雲国風土記考証p193解説で「風土記考などに、一畑山として居れども、郡家からの里程も合わず、又多久川の源としても當たらぬ。これは今の大船山である。郡家から多久川に沿うて溯り、其谷の奥の蔵王権現に至り、猶進むこと四町ばかりにして、東北に向かつて登れば、三百三十四メートル標高の頂に達する。そこが神名樋山の頂上である。~」
- 横山永福は一畑山としていたようである。後藤は石神について何も記していない。
ところで後藤の云う大船山であるが、大船山の標高は327.2(m)である。後藤のいう334(m)標高の頂というのは雲見峠のことである。地理院地図
いわゆる「峠」ではないのだが「雲見峠」と呼ばれている。後藤はこの頂を神名樋山としたのだが、加藤によってであろうか大船山が神名樋山と見做されるようになっている。
又、後に出てくる佐香川は神名樋山を源としていると記されているが、大船山は佐香川(小境川)の源にはならない。
後藤は佐香川は鹿苑寺川だと主張しているが鹿苑寺川の源が大船山というのも無理がある。
おそらく後藤は大船山・鍋池山・雲見峠の山塊を一体として大船山と記したのであろうが、これらの最高点は鍋池山(標高358m)である。
後藤は郡家の位置を先に定めそこからの距離と方向で神名樋山を推定しているのであるから、郡家の位置が違っていればその推定自体が違ってくる。
・出雲風土記抄3帖k7解説で「鈔云神名樋山ハ楯縫郷多久村ノ山名也~此ノ山ノ頂ニ石神今猶在矣」
崽西在石神高一丈周一丈往側在小石神百餘許リ†
崽の西に石神あり。高さ一丈、周り一丈。往く側に小石神百餘許りあり。
- 崽…「嵬」としている書がある。同じく(ヤマ)と訓読するが「崽」は深い山、「嵬」は険しい山を意味し、少々異なる。
・出雲風土記抄3帖k7本文では「嵬」に(タカキ・ケハシキ)と傍記している。
・野津風土記p94で本文「嵬」と記し、注で眞龍の出雲国風土記解を挙げ「崽。鈔本嵬に誤(解)」と記している。
・訂正出雲国風土記-上-k47で「崽」
・出雲国風土記考証p189本文では「嵬」
・校注出雲国風土記p50、本文で「嵬」と記し、脚注で「高くけわしい岩山」としている。
- 上記のように読みも含めて異同が多いが、このあたりの山容からすると「崽(ヤマ)」が適切。しかし今この漢字は用いられておらず「漢語林」にも掲載されていない。
- 石神…坂浦町「立石神社」の巨岩であろう。地理院地図
大船山西方の畑地区に「宿努神社」 地理院地図があり、多伎都比古命と天御梶日女命を祀っている。そのちかくに「虹ヶ滝」という滝があり、その下流に多伎都比古命が産湯をつかった長滑滝(ナガナメラノタキ)がある。更に北に古道を行くと峠越えしたところに雲見峠の立石と呼ばれる3つの巨岩があり、地元では「立石神社」と呼び多伎都比古命を祭神としている。今は社殿はなく注連縄を飾っており、古来ここで雨乞いの儀式をしてきたという。
ところで、大船山山頂北西に「烏帽子岩」と呼ばれる岩があり、ここを1962年に訪れた加藤義成はこれを石神とした地理院地図。毎度ながら加藤の思いつきであろう。
又烏帽子岩下方に長滑滝があるというが不明。附近三ヶ所から古代遺物が発掘されたらしいが不詳。
・野津風土記p95注、出雲風土記考の引用で「石神、此神の坐所は薬師堂より四少北坂路十八町行は雲見峠といふに至る(此坂路は坂浦より一畑へ詣るところなりいとさかし)其峠に石神坐ス 今里人は[束乙]ば石様といふ。また右の方なる谷に百餘の大小石神坐せり」とあり、横山永福は立石神社を石神とみなしていたようである。
- 長滑滝は虹ヶ滝ではなくその下流の岩間を流れる滝であろう。
- 「崽西在石神」ここに云う「崽西在」が問題になるが、大船山・鍋池山は立石神社の南方になる。立石神社の東方というと焼山306(m)が該当する。地元で守られ続けてきた歴史性の方に真実を見る。
尚、焼山西麓に「老母石神社」というのがある。雲陽誌によれば伊弉冊尊を祀っており、陰陽二石からなると伝える。
古老傳ニ云ク阿遲須枳高日子命之天御梶日女命來リ唑ス多忠村産給フ多伎郡比古命†
古老の伝に云。阿遲須枳高日子命の(后)天御梶日女命、多忠村に多伎都比古命を産み給わんと来たります。
- 多忠村…一般には多久村とされる。
・細川家本k33・日御碕本k33・倉野本k34・萬葉緯本NDLk45・紅葉山本k28で「多忠村」
・荷田春満 出雲国風土記考p65で「多志村 未詳」と記している。
・訂正出雲国風土記-上-k48では「多久村」
・標注古風土記p215注で「古寫本、多忠村に作る。内山眞龍、忠を久に改む。多忌村(タキムラ)の誤かも知るべからず。」とある。
・出雲国風土記考証p194解説では「多忠村を、訂正風土記に、多久村と改めて居れども、忠の字は、キの音をもつ所の、忌の字か何かの誤りであらう。」
・校注出雲国風土記p50、本文で「多宮村」と記し、脚注で「諸本「忠」とあるのは「宮」の草体の誤写と考えられる」と記している。
- 「多忠村」に該当しそうな地名が現在に見当たらないので、あれこれ解釈が試みられている訳だが、眞龍が改め、訂正風土記が踏襲した「多久村」として良いのかどうか疑問が残る。春満の記す「多志村」が妥当と考えるが、この場合の多志は百餘の石神を指しているのではないかと思われる。と云うのも「志」は(こころざし)であるが、「しるす・目印」の意味がある事による。又(chih)の音があり、伎(chi)に近い。
則ち、多くの「志(=石神)」がいる村「多志(タキ)村」で、多伎都比古命にも通じる。忠は志の誤写であろう。
それが後に多久村と呼ばれるようになったと考えられる。これは今の多久町というより宿努神社のある多久谷町を云うのであろう。
(校注に云う宮の草書体の誤写と云うのは、どういう書体を指すのか理解し難い)
- 天御梶日女命…阿遲須枳高日子命の后。白井本では「后」の字が抜けている。
・出雲風土記抄3帖k7本文で「古老傳云阿遲須枳高日子命ノ后天御梶日女命來坐多忠村ニ産給多伎都比古命ヲ」
解説で「阿遲須枳ハ大己貴ノ御子也 天御梶日女命ハ在出雲郡伊努ノ郷林木村伊努谷ニ神明ヲ而ノ赤食伊努意保須美比古佐和気能命ノ御子也」とある。
林木村伊努谷は西林木町伊努川上流の谷を指し、伊努谷峠(地理院地図)を越えて十六島湾に通じ、かつては往来の多かった古道であるという。南方に伊努神社地理院地図がある。
風土記抄によると、「天御梶日女命」は「赤食伊努意保須美比古佐和気能命」と「天甕津日女命」の御子と云うことになる。
- 出雲国風土記考証(p194)等では、天甕津日女命と天御梶日女命を同一神としていたりするが、系譜が奇妙なことになりあり得ない。上記風土記抄の解説が妥当。(加藤の参究p297でも踏襲。)
- お産の際に妊婦は実家に帰るというのは今でも行われていることだが、多志村に天御梶日女命が来たというのは、多志村の地が天御梶日女命の実家の地という事によるのかもしれない。以後の記述で「御子を○○で産んだ」という記述がある場合、その地が母神の実家の地(=生誕地)と考えてみることは意味のあることだと考える。
(白井文庫k27)

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唑多忠村産給多伎郡比古命尒時教詔汝
命之御祖之向位欲生此處宜也所謂石捕者
即是多伎都比古命之御侘當畢巳雨時必
令零也阿豆麻夜山郡家正北五里卅歩見椋山
郡家西北七里凡諸山所在草木蜀椒漆麥門
冬茯苓細章白歛杜仲人參舛麻薯蕷白朮
藤李榧楡椎赤桐白桐海榴楠松槻禽獸則
有雕晨風鳩山鶏猪鹿兎狐桝獼飛鼯
[河]
佐香川源出郡家東北所謂神名樋山東南流
入海多久川源出同神名樋山西南流入入海都字
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川源二東川源出阿豆麻夜山
西水源出見[木+才/ホ]山 二水合南流入入海宇加川源出
[池]
同見椋山南流入入海麻奈加比池周一里一十歩
大東池周一亦布周一里二百歩沼田池周一里五十歩
長田池周一里一百歩
南入海雜物等者如秋鹿郡説
北大海目毛埼秋鹿與楯縫二郡堺崔嵬松
栢叢時節有晨風之栖也
香濱廣五十歩巳自都濱廣九十二歩御津嶋生紫
菜
御津濱廣卅八歩能呂志嶋生紫
菜能呂志濱廣八歩
鑢間濱廣一百歩弥豆椎長里二百歩廣一里
周嵯峨上
有松菜芋 許豆嶋生紫
菜 許豆濱廣一百歩出雲與楯
縫二郡堺
──────────
尒時教テ詔フ汝命之御祖之向問カ位欲生此處宜也†
時に、教て詔う。汝命の御祖の向位に生まんと欲す。此處宜也。
- 汝命…多伎都比古命
- 御祖…阿遲須枳高日子命
- 向位…長く不明とされていたが、今は(ムカクライ)とされている。
「向かう位置」ということで、御祖の居る場所に向かう場所=見える場所と解釈されている。
・出雲国風土記考証p193本文「爾時教詔 汝命之御祖之向位欲生 此處宜也」
・校注出雲国風土記p50脚注で「向かい合つた位置。この地からは、阿遲須枳高日子命鎮座の出雲市塩冶町辺が正面前方に望まれる」とある。
- 「阿遲須枳高日子命鎮座の出雲市塩冶町辺」と云うのだが、上塩冶町の塩冶神社には塩冶毘古命を祀り、塩冶町の阿利神社で阿遲須枳高日子命を祀っており、この阿利神社の元社地は塩冶有原町である。(出雲市民会館辺り)
多伎都比古命が産湯を使ったという「長滑滝」のある「宿努神社」地理院地図辺りからでは、平田の旅伏山東麓が邪魔になり塩冶有原町のあたりは見渡せず、なにやらすっきりしないところがある。保留。
所謂石捕ハ者即是多伎都比古命之御侘當畢ニヌ巳雨時必令零也†
いわゆる石捕は、即ち是れ多伎都比古命之御侘。畢巳にあたり雨の時必ず令零也。
- 石捕…他書では多く「石神」としている。
- 御侘(オンワブ)…「静かに鎮まる」の意であろう。
- 畢(ヒツ)…二十八宿の一。西方の牡牛座イプシロン星を指す、雨降り星と云う。
- 巳…止まるの意味。
- 令零…令はお告げ・神託。零は雫が落ちること。
- 解りにくい部分であり、文字を変えた解釈が試みられていたりするが、原文のまま意訳すると、
「いわゆる石捕は、これ即ち多伎都比古命の鎮まるところである。雨降り星が止まる西方の位置にあり、雨の降る時には必ず水滴が落ちるお告げがある。」
- ・細川家本k33で「石神者即是多伎都比古今之御侘當畢已雨時必今零也」
・日御碕本k33で「所謂石神ハ者即是レ多伎都比古命ノ之御侘當畢巳雨時必今零也」
・出雲風土記抄3帖k7本文「所謂石神ハ者即是多伎都比古命之御託當旱己雨時必今零也」
・上田秋成書入本k29本文で「謂石神ハ者即是多伎都比古命之御侘當畢巳而雨イ時必今零也」(畢の上部は日)
注記で「按即是多伎都比古命之御魂當旱乞雨時必令零也 訛字尚可考」とある。
・鶏頭院天忠本k29「所謂石神者即是多伎都比古之御詫當畢巳雨時必今令零也」
・訂正出雲国風土記-上-k48「所謂石神者即是多伎都比古之命イル御魂。 當畢己雨時必令零也」
注で「畢己ハ旱乞ノ誤也」
- 訂正出雲国風土記のように「畢己」は「旱乞」の誤りだとして改変してしまうと、元文とは全く違う創作文となってしまう訳だが、もはや文字改変も忘れ、これを踏襲する例は多い。
- ・荷田春満 出雲国風土記考p65p66では「石捕 一本捕を神に作る~」「當畢巳雨 今按 畢は累の誤にて 巳は乞の誤なるや」「今零 今按 今は令の誤なるかな」と記している。春満の見ていた元文が白井本と近いものであることが窺える。
阿豆麻夜山郡家正北五里卅歩†
阿豆麻夜山、郡家の正に北五里三十歩
- 阿豆麻夜山…今の「檜ヶ仙(桧ヶ山)(333.3m)」地理院地図
・出雲風土記抄3帖k8解説で「鈔云此山ハ在リ楯縫郷多久谷村ニ俗曰檜仙山ト是也」
- 檜ヶ仙というのはかつて此処にあった檜ヶ山城によるのであろう。永禄(1558~1570)の頃、多久義敷が毛利の攻めを受けた際、この城に籠もり檜を切り倒して要所を塞いだというから、「檜ヶ塞」が由来であろうと思われる。南方からの山容から檜山富士とも呼ばれる。
「阿豆麻夜山」の「阿豆麻」は「東」の意味であろうから、これはこの山を東に見る地区からの呼び方で、西方の三津峠からみた山名であろう。
見椋山郡家西北七里†
見椋山、郡家の西北七里
- 見椋山(ミクラサン)…高野寺と摺木山の中程に「槍ヶ崎山391.6m」というのがあり、ここだと思われる地理院地図。ここから南西の稜線が丁度馬の鞍のように見える事から「見鞍山→見椋山」と転じたのだろうと思われる。ちなみに「椋(リョウ・むく)」は「むくの木」の事であり、(クラ)と読むのは名乗などの特別な場合である。
・出雲風土記抄3帖k8解説で「鈔云見椋山ハ在リ久多美郷海苔石谷村ニ今ノ高野山是也俗傳フ紀州高野大師躋於此山ニ創ムト寺ヲ不知然シ也不上頭ニ有堂又有寺~」
(鈔に云う。見椋山は久多美郷海苔石村に在り。今の高野山是也。俗に伝う。紀州高野大師(弘法大師空海)この山に登りて寺を創らんと。知らず。然し上頭にいなまず也。堂有り又寺有り。~」
- 余言だが、「知らず」は(言い伝えであって事実かどうか解らない)の意。「上頭にいなまず也」と云うのは(山頂ではない)と云う意味であろう。
一部に「掠」と手偏を用いているものがあるが、「掠(リャク・リョウ・かすめとる)」では意味が異なりこれでは山賊でもいたのかという意味となり不適。
凡諸山所在草木蜀椒漆麥門冬茯苓細章白歛杜仲人參舛麻薯蕷白朮藤李榧楡椎赤桐白桐海榴楠松槻†
凡そ諸山に在る所の草木は、蜀椒・漆・麥門冬・茯苓・細章・白歛・杜仲・人參・舛麻・薯蕷・白朮・藤・李・榧・楡・椎・赤桐・白桐・海榴・楠・松・槻
禽獸ハ則チ有雕晨風鳩山鶏猪鹿兎狐桝獼飛鼯†
禽獸は則ち、雕・晨風・鳩・山鶏・猪・鹿・兎・狐・桝獼・飛鼯、あり。
- 桝獼…大猿のこと。
- 意味は他書により「大猿」を表すことは知れるが、「桝獼」となぜ記したのかが疑問であった。
「獼」は「猕(ビ・ミ)」であり大猿である。「桝」は何かの誤記かと考え、誤りそうなものを探してみたが見当たらない。
されば「桝」に意味が込められているのであろうと考えざるを得ない。
「桝」は「舛・枡・升」と同等で(マス・ショウ)と読むのであるが、ショウが「猩々(ショウジョウ)」の「猩」に通じる。
猩々というのは大猿の化身で酒好きとされる。いやむしろ、人が酒に酔って獣と化したのを猩々と呼んだのかも知れないのだが、それはさておき、酒を酌み量る器として「枡」があり、それを「桝」の字で表し「猩」を連想させたのであろう。
「桝獼」は(ショウビ)と読み、「酒好きの大猿」を表したもので、以前出ていた「獼猴(ビコウ)=大猿」より更に大きな猿、もしくは、人に近しい猿を表したのだと思われる。
世に猿酒という、猿が木の虚に食べ物を溜めそれが酒に変わったものがあると云うが、或いはこの地方で猿酒が得られた事があってこの字を用いたのかも知れない等と妄想する。
[河]
佐香川源出郡家東北所謂神名樋山東南ニ流レ入ル海ニ†
佐香川、源は郡家の東北に出て、所謂神名樋山の東南に流れ海に入る。
- 佐香川…小境町の小境川のこと。
・出雲風土記抄3帖k8解説で「鈔云佐香川ハ即小堺村ノ川也水源神名樋山ハ見于前ニ」(鈔に云う。佐香川は即ち小堺村の川なり。水源・神名樋山は前に見る)
小堺村は今の小境町。水源や神名樋山の記述は既述と云っている。
・訂正出雲風土記-上-k48で「佐香川源ハ出郡家ノ東北所謂神名樋山ヨリ東南ニ流レテ入于海ニ」
・出雲国風土記考証p192解説では「風土記鈔、風土記解、風土記考等に小境の川を之に充てゝ居れども、小境の川は神名樋山から出でず、また東南に流れない~」と記しているがこれは、誤読である。水源が神名樋山から出ているとは記されていない。「東南に流れない」というが、流れが東南方向に流れていくのではなく、神名樋山の東南方面の地区を流れていると記しているのである。
・校注出雲国風土記p50脚注で「今の鹿園寺川」としているが、考証と同じく誤り。
- 考証や校注が誤った原因は、抄の既述が多少曖昧と云うこともあるが、訂正にある補記「神名樋山ヨリ」に影響されたのだと思われる。
多久川源出同神名樋山西南ヘ流入ル入海ニ†
多久川、源は同じく神名樋山に出て、西南に流れ入海に入る。
- 多久川
・出雲風土記抄3帖k8解説で「鈔云此川ハ貫テ楯縫郷多久村ト与トノ多久谷之中間ヲ流テ西南入ル于海ニ水源ノ山同シ于上」
都字川源二東川源ハ出阿豆麻夜山ヨリ 西ノ水源ハ出見[木+才/ホ]山ヨリ 二水合メ南ニ流レ入ル入海ニ†
都字川、源二つ(東の川の源は阿豆麻夜山より出る。西の水源は見[木+才/ホ]山より出る。) 二水合わしめ南に流れ入海に入る。
- 都字川…「都宇川」と記している書もある。今の東郷川。西の野石谷川と久多美郵便局の北で合流し更に西からの久多美川と合流した後、平田船川に注いでいる。
・出雲風土記抄3帖k9本文で「都字川源二 東川源出阿豆麻夜山 西水源出見椋山二水合南流入于海」
解説で、「鈔云都字川ハ者來テ久多美村ヨリ隔流テ東郷福村ノ之中間ヲ南入于海ニ也 東ノ水源阿豆麻夜山ハ所謂檜仙山也 西ノ水源見椋山ハ所謂ル高野山也」
・訂正出雲風土記-上-k48で「都宇川源二~」
・出雲風土記考証p196本文で「都宇川源二~」解説で「日御碕本、國造本等に都字川につくり、紅葉山文庫本、林崎本等に都宇川につくる。~」とある。
・出雲国風土記考証p51本文で「都宇川源二~」脚注で「都宇川…今の岡田川」「東の水源…檜山から出る野石谷川」「西の水源…高野山から出る久多美川。合して船川に入っている」とあるが野石谷川は檜山から出ていないので東の水源に当たらず誤り。岡田川というのは東郷川の上流部を指し、これが檜山から出る東の水源に当たる。
- 河川名は同じ川でも流れる地区で別名がつけられていることが多くなかなか判断が難しい面があり、また水源についても、殆どの場合一ヶ所ではなく複数ヶ所有るのが当然で、どこを水源として選択するか判断が難しいことが多いが、佐香川や都字川についての考証・校注の誤りは指摘しておかざるを得ない。
宇加川ノ源ハ出 水ノ出所不見同見椋山南流入入海†
宇加川の源は出(水の出所見えず)同見椋山南に流れて入海に入る。
- 宇加川…
・出雲風土記抄3帖k9本文で、「宇賀川源出同見椋山南入于海」
解説で「鈔云宇賀川ノ水源モ亦出高野山西谷ヨリ分流テ宇賀ト与万田之中路ノ南方入于海則今ノ宇賀川也」
・上田秋成書入本p29で「宇加川ノ源ハ出同見掠山ニ南ニ流レテ入〃海ニ」(「掠」は手偏)
・標注古風土記p204の本文に「宇賀川」と記し、注で「古寫本には皆、宇加川とあり、宇賀川は千家俊信の作なり。」とある。
- 上記のように風土記抄には宇賀川とある。参照しているのは桑原家旧蔵本(写本)であるので、岸埼自筆原本(未発見)には「宇加川」とあったのかも知れない。近年桑原家本より古い古写本(桑原家本の元本。1683年松林寺宏雄写・北島伝之丞豊忠所持本)が発見されたらしいが未見。もし、標注古風土記の記すように古写本がすべて「宇加川」であるなら、参照している桑原家旧蔵本の写本時期が訂正出雲国風土記以降と云うことになる。
[池]
麻奈加比池周一里一十歩†
麻奈加比池、周り一里一十歩
- 麻奈加比池…
・野津風土記p96の注で、横山永福「出雲風土記考」を引用し「麻奈加比池。里人説に西は久多美村東野石谷との中にて高野寺より唯浦へ越る所にて南は古城山北は野山にて人の常、通らぬ所なり今も池形いささか残れり去と名はまなかひの池とぞ」とある。
これは野石谷町唯浦トンネル南にある「深山池」(今は野石谷川の水源として整備されている)を指すのであろう。地理院地図
考証ではこの説を援用し、校注では「野石谷辺にあったか。今は不明」としている。
・出雲市経済環境部発行(平成28年3月刊)の「平田地域のため池と自然」という小冊子(pdf)では鹿園寺町の「真名神池」を挙げている。(推定理由は記されていない)地理院地図
- 「まなかひ」と云うのは、「真ん中に並ぶ」と云う意味であろうから野石谷と唯浦の中間に瓢箪型の池があったのではないかと推察する。「加比」が「神」に転じたとは考えがたい。「神」に通ずるのは「迦微・加牟・加微」で「加比」は疑問。
大東池周リ一本ノ侭亦布周一里二百歩†
- この部分混乱があり、次のように(里)(池)を一応補う。
大東池、周り一(里)。亦布(池)周り一里二百歩
- 大東池…
・出雲風土記抄3帖k9本文で「大東池周一里亦市周一里二百歩」解説はない。
・上田秋成書入本k30で「大東池周一里亦市周一里二百歩」風土記抄と同じ。
・鶏頭院天忠本k29で「大東池周リ一里 亦市疑脱池乎周リ一里二百歩」
・訂正出雲風土記-上-k49で「大東池周一里 亦南ィ布ィ市池周一里二百歩」
・野津風土記p97本文で「大東ノ池」注には「未詳」
・出雲国風土記考証p197解説で「多久村の大市禰大神坐す。大市池にあらざるか。」とある
・校注出雲国風土記p52脚注で「同市多久町の多久池か。今は不明」とある。
・「平田地域のため池と自然」では「出雲市多久町の大船山の北側にある、野田場池とされています。~」とある。
- 野田場池では少々小さい地理院地図。多久町で該当しそうなのは湯屋谷池(大池)地理院地図かと思われるが保留。
- 亦布池…野石谷町坂坊の明地池であろう。旧名赤市池。地理院地図
・野津風土記p96本文で「赤市ノ池」注に横山永福「出雲風土記考」からの引用で「野石谷村の内さかんぼ谷といふ處に今も赤市池と言て三町六反計の池あり是なるべしといへり」とある。
・出雲国風土記考証p198では「亦市池」と記し、解説で「諸古寫本には「亦市池」とあり、國造本に「亦南」とあり、訂正風土記に「赤市池」につくる。赤市池は、高野寺より南々東直線十五町に於いて、高野寺へ登る坂口近くにある」とある。
(訂正出雲風土記では上述のように「亦市池」と記し傍注に赤・布を記しており、後藤の記述は正確ではない)
・校注出雲国風土記ではp52脚注で「同市野石谷町の赤市池か」とある。
・「平田地域のため池と自然」では「出雲市野市谷町の明地池とされています。~」
沼田池周一里五十歩†
沼田池、周り一里五十歩
- 沼田池(ヌタイケ)…西郷町の奈良尾池とされる。地理院地図
・野津風土記p97注に横山永福「出雲風土記考」からの引用で「久多美村いたみと云所にも今四ッ池と云もあり去と沼田とあれは平田邊なるべし可考」とある。又風土記解を引用して「沼田郷にあるべし」とある。
・出雲国風土記考証p198解説で「西西郷の北に、今ナヲラの池というがある。これであろう。」とある。
・校注出雲国風土記p52脚注で「同市西々郷の直良池か」とある。
・「平田地域のため池と自然」では「出雲市西郷町にある奈良尾池とされています。~」とある。
長田池周一里一百歩†
長田池、周り一里一百歩
- 長田池…出雲市東福町作暮の作暮池と思われる。地理院地図
・野津風土記p97注に横山永福「出雲風土記考」からの引用で「里人云福村にモガミといふあり是にもやといへり可考」とある。
・出雲国風土記考証p198解説で「今の久多美村中谷の西北の奥、アケチの池の南々西直線十町計りの處にある」とある。(作暮池を指しているのであろう)
・校注出雲国風土記p52脚注で「同市久多美町の白井谷の池か」とある。
・「平田地域のため池と自然」では「出雲市多久町の池田池とされています。~」とある。
「池田池」という名で知られるのは奥宇賀町光尾と久多美町峠にあるが、多久町の池田池と云うのは不詳。
- 出雲風土記抄にはこの地域の池についての解説はない。
この地域、大小の池が200以上もあり、なかなか難しい。大きな川がない為であろう、古代から延々続けられた稲作水利の為の築堤苦労が窺える。
南入海雜物等ハ者如シ秋鹿郡説ノ†
南は入海。雜物等は、秋鹿郡に説く如し。
北大海目毛埼秋鹿與楯縫二郡堺崔嵬松栢叢時節有晨風之栖也†
北は大海。目毛埼(秋鹿と楯縫二郡の堺。崔嵬し。松栢叢れり。時節に晨風の栖有る也)
- 目毛崎…普通には今の若松鼻のこと。地理院地図
・出雲風土記抄3帖k9本文で「北大海自毛埼(秋𢈘与楯縫二郡堺崔嵬松栢鬱則有晨風之栖也)」とあり、解説で「鈔云自毛埼ハ者楯縫郡佐香浦ト与秋𢈘郡伊農浦之界也」とある。「𢈘」は「鹿」の略字。
・野津風土記p98本文で「自毛埼」。注に横山永福「出雲風土記考」からの引用で「秋鹿伊農浦楯縫坂浦との堺に今鼻くり崎といふ所ありそこなるべし」とある。出雲国風土記考証はp197でこれを引用している。
・校注出雲国風土記ではp52脚注で同所を「牛の首」と記している。
- 目毛埼・自毛埼に関しては秋鹿郡にも記載。
- 目毛埼・自毛埼について、これらはシケ埼ではないかと考える。シケは「時化」に同じで、波が荒れる様子を表す。
シケは語義不明ながら湿気から来ている語ではないかと考えられているようで、「時化」は当て字である。
「シケ」は元々は「白毛」であり白い毛のような白波が立つ事を表したのかと思われる。目毛・自毛はその誤記であろう。
シケ埼というのは、風のない時でも波が立ち船の停泊が出来ない岬と云うことを表した呼び名と思われる。
- 叢…「叢」は群がり生えること。風土記抄の「欝」は塞がること。
- 時節…白井本に「時節」とあるのは、隼が抱卵するのは時期が決まっているためであろう。通常春先。
香濱廣五十歩巳自都濱廣九十二歩†
佐香濱、廣さ五十歩。 巳自都濱、廣さ九十二歩。
- 佐香濱・巳自都濱…今の坂浦(坂浜)地理院地図と小伊津浦(小伊津浜)地理院地図
・出雲風土記抄3帖k9本文で「佐香濱廣五十歩己自都濱九十二歩」解説で「佐香濱廣五十歩ハ今ノ五十間佐香俗作ル坂ニ也 己自都濱廣九十二歩ハ今ノ九十二間是亦俗作ル字ヲ於古井津ニ」とある。
・出雲国風土記大成k52本文で「佐香濱廣五十歩 己自射都濱廣九十歩」注で「信風云巳自都者己射都欤」
- 伊農郷の浜を伊農浜(伊農浦・伊野浦)と呼んでいるのと同じく、佐香郷の浜なので佐香浜(佐香浦・坂浦)と呼ぶのであろう。
己自津濱は越津濱の意味であると云う説がある。
- 濱(浜)と浦については、正しくは濱は砂又は小石から成る海岸を呼び、浦は入り江状になった場所を指すが、実際には海辺の集落のある地を指す際、○○浜とも○○浦とも同様に用いている。これは、集落を作る場所が浜であり同時に入り江であったからであり、砂浜に対する磯(岩場)、浦(入り江)に対する碕(鼻・岬)、には波が強い為集落が作られることが殆ど無かったからであろう。
それ故、風土記に○○濱と記されても、今では○○浦と呼んでいる例が多い。
人が増えると濱より浦と呼ぶ事が多くなってきたのかとも思われる。
御津嶋生紫菜御津濱廣卅八歩†
御津嶋(紫菜生えり)。 御津濱、廣さ三十八歩。
- 御津嶋・御津濱…御津濱は今の三津浦地理院地図
・出雲風土記抄3帖k10解説で「御津嶋 御津濱俗今云三津ノ浦ト是也」
・野津風土記p98注に横山永福「出雲風土記考」からの引用で「御津嶋。三津浦にありて二間四方の岩也今此島を犬もとりといふ」とある。
・校注出雲国風土記p52脚注で、御津島「同市三浦湾の岩島」、御津濱「同三浦」。とあるが三浦ではなく「三津浦」である。
能呂志嶋生紫菜能呂志濱廣八歩†
能呂志嶋(紫菜生えり)。能呂志濱、廣さ八歩
- 能呂志嶋・能呂志濱…今の唯浦の西方。直立層のある岩場をかつては「能呂志島」といい、港湾整備で今は陸続きとなり、その後の海難事故により今は大きな碑が作られている。
地理院地図
その西の浜辺を「能呂志濱」と呼んでいた。
・出雲風土記抄3帖k10解説で「能呂志嶋 能呂志濱ハ者今曰只浦ト」とある。
・出雲国風土記考証p199解説で、能呂志嶋について「唯浦にありて、今天狗島という。「出雲國勝地考」に、天狗島は唯浦にあり、高三十丈、周二町餘、好風景なりとある。」と記している。
- 「能呂志」は(ノロシ)であるから、これは「海苔石」の他に「烽火」を表しているのではないかとも考える。海を航行する船の為の烽火か或いは隠岐との連絡用の烽火か、その様なことを行っていた場所であるが故の名称なのではないかと考える。日本海の潮流、対馬海流は常時島根半島沖を2km/h~3km/hで東に向かって流れているから、例えば隠岐から島根半島に向かう時この辺りを目指して進めば、多少流されても千酌に達することは容易に出来るであろう。隠岐側には西側島前の西ノ島に「焼火山(452m)」と云うのがあるのだが、ここで烽火を上げこれを目指していけば多少東に流されても東側島後の西郷に達するのは容易であろう。
又、唯浦の南西には「摺木山(415m)」と云うのがあり、この名称縁起も不明なのであるが、今の読み方では(スナギヤマ)が使われており、他に(スリキヤマ・スルギヤマ)とも呼ばれているようである。「摺木」は木を摺るのであるから火起こしと考えるとこれも烽火に関連がありそうに思われる。
無論これらは全く裏付けの無い妄想の域を出ないが、島根半島から40km余り離れた隠岐との航行では烽火による目印が有れば随分安心な航海が出来ると思うので、あり得ることなのではないかと思っている。
鑢間濱廣一百歩弥豆椎長里二百歩廣一里周嵯峨上有松菜芋 †
鑢間濱、廣さ一百歩。 弥豆椎、長さ(一)里二百歩、廣さ一里(周り嵯峨し。上に松・菜・芋有り)
- 鑢間濱…「鑢(リョ)」はヤスリ。「鎌」と記している例が多い。鎌間濱。今の釜浦地理院地図
・出雲風土記抄3帖k10解説で「鎌浦ハ者古今無異称也」とある。名称が変わったことが無いという。
・上田秋成書入本k30で「鑪間濱廣一百歩」「鑪(ロ)」はイロリ・タタラである。
・出雲風土記解-中-k25で「鎌閒濱 廣一百歩(鎌一本鑪.鎌間ハ鈔云古今旡異称」とある。
・出雲国風土記大成k52本文で「鎌間濱廣一百歩」
・野津風土記p99注に横山永福「出雲風土記考」からの引用で「今字釜に作れり今は唯浦と此浦との間に鹽津浦といふあり」とある。
即ち、「唯浦とこの浦(釜浦)との間に鹽津浦があった」と記している。
鹽津浦は、今の塩津浦に同じ。地理院地図
塩津浦には大津波によって流されたという言い伝えがあり(1026年万寿大津波、推定地震規模M7.6・波高10~20m)、出雲国風土記に記載がないのは或いはそれ以前にも津波があり人が住んでいなかったのかも知れない。
- 鑢・鑪・鎌・釜…釜浦海岸の地形を見ると、岩礁が直線的に並びヤスリのように見える。この事から元は白井本のように「鑢間濱(ヤスリマノハマ)」と記していたのだと思われる。その後、鑪・鎌・釜と変化していったのであろう。
- 弥豆椎…今の十六島地理院地図
・出雲風土記抄3帖k10解説で「弥豆推長里ハ者今ノ十六嶋浦此ノ處紫菜勝レリ于諸嶋ニ故毎年季冬之月課メ而充貢ニ世ニ称メ之ヲ為紫菜ノ之上品ト也」
・上田秋成書入本k30「旀豆椎長脱乎里脱二百歩~」里の前後に赤字で傍記
・風好舎敬義本k042「旀豆嶋長欠里二百歩~」注に「旀一作於」
・鶏頭院天忠本k30「弥豆椎長在脱字乎里二百歩」
・訂正出雲風土記-上-k50「彌豆嶋長○里二百歩」注に「嶋崎欤」
・荷田春満「出雲国風土記考」p68で「弥豆推長 未詳 推ハ島の誤カ」
・出雲国風土記大成k52本文で「於豆椎振畏濱○○長○里~」注で「於豆椎諸本不曰訂正作弥豆嶋 信風云於豆振畏乎今云十六嶋ト此處也 當作於豆振畏濱長○里二百歩廣一里追而可考」とある。
・出雲風土記解-中-k25本文で「弥豆島長程脱里二百歩廣一里周リ嵯峨上有松菜芋」
解説で「島一本椎尓誤 長下程脱 此所ハ出雲郡堺、水ノ社有、鈔云今ノ十六島浦也、此所之紫菜勝諸島」
・野津風土記p99本文で「彌豆嶋」注で横山永福「出雲風土記考」を引用して「島は崎の誤なり、十六島浦の西に出し崎なり」
・懐橘談(出雲文庫-2-p90(k50))本文「十六島 十六島、此島を俗にウツプルイ島と云ふ。十六善神影向の地なりとぞ。水底に氣味宜しき海草あり。三瓶山に雪ふり此浦へ影うつらふ時に此苔を取れば宜しと語る。世に是をウツプルイノリと云ふ。古記に北海の雑物を注すといへどウツプルイといふのりなし。此郡の海に在る所の雑物は海藻海松紫菜凝海草とあれば紫菜の類にや、予按ずるに彼水底の海苔を取りて露打振ひ打振ひ日に乾しければ、打ふるひ海苔といふをだみたる聲にてウツプルイといひ十六善神島の海苔と文字に書いては言葉長々しき故に善神を略して俗のウツプルイといふを其のまゝ文字によみならはしたりと御江たりといへば人皆點頭しぬ」
・雲陽誌巻9(大日本地誌大系27巻p279(k146))に「十六島 十六島並經島 古老のいひ傳しは此浦の名をうつふるひと書たるへけれと、文字は定まらさりしとかや。しかるに戌亥の方に山あり此山はつれに島あり。是を經島といふ。むかし十六善神海中より大般若經を負て此島に上たまひ、佛法の地に出たまふをよろこひこの島にて七日護摩を執行し給ひ、成就の後浦の者に所の名を問給ひけれは、うつふるひと答けれは、十六善神宜けるは我名をかたとりて文字に十六島とかひて、うつふるひと讀へしとの給しより十六島とは書なり。~ 按に海邊の苔を取て露うちふるひ、日に乾かすによりうつふるひのりといふなるへし、~」又、p280(k147)「津上大明神 事代主命なり。社三尺四方祭祀稲荷社と同儀式なり、此浦に十六島あり、神傳島といふ三あり、其外雲手島京島大平島水しり島大黒内島鯖口島糸口島内の大平島殿島谷福島根瀧島岩栖島小島といへり。~」
・標注古風土記p223、本文で「彌豆嶋長○里~」。注で「古寫本に「彌豆椎長里」とあり。島に非らず。うつぷるい崎のことなり。彌豆島とは千家俊信の作なり。彌は古写本にと旀書く。こゝの旀は於の誤ならん」とある。(と旀書く)は(旀と書く)の誤植であろう。本文訳で「彌豆島。長さ○里~」と読みを(つみ)としている。
・出雲国風土記考証p200本文で「旀豆椎」と記し、少々長いが、解説で「今のウップルイ岬である。古写本に「旀豆椎長里」または「彌豆稚長里」とある。春日信風の風土記密勘に「予所持の風土記は、慶長年中の書寫なりしが、安永三年家宅類焼の節灰燼す、惜哉、其書を傳寫する者、たまたま有けるが、今いづれにありや失念せり、今、世に傳寫せし風土記の類にあらず、寫誤至つてすくなかりしなり、其書には「於豆振田」とありたるを、田の字は畏の寫誤なることを、別書に抜抄せるものあり。是今の十六島なること異義なし」とある。だから、訂正風土記に、彌豆島と改めたは誤りである。~中略~うつぷるいといふ名に就いて、言海に「此處に産する海苔は、露を打ち振ひて乾す故に、海苔の名とし、又島の名とす」とあるが、これは「懐橘談」に、打ち振ひから起つたではないかと、デタラメを云つたのを、伴信友が引用し、終いに言海にはそれだと定めたものである。決してそんなことから來た名ではない。雲陽誌に、十六の島の名があげてあれども、それはこじつけであつて、島が十六あるのではない。或る行者が、岬の端にある島にて、十六善神とかを祭りたるによつて、十六島と書いて、うつぷるいと讀むことになつたといふことである。」とある。
これを纏めると、春日信風が逸本に「於豆振畏」とあったと風土記密勘に記し、後にその岬の端の島にて或る行者が十六善神を祭ったことで十六島と書くようになったが読みは元の(ウツフルヒ)のままであった。と云うことになる。
・校注出雲国風土記p53の本文で「許豆埼」と記し、脚注で「諸本「弥豆推」等あるは誤写」とある。
- この件小考。
1.呼び方が先にあって、漢字は当て字
2.水底の海苔云々については、海苔は岩に付いた海苔で、海底から取ってきたものではなく、又打ち振ることもない。
3.十六島というのは後世の名付けであるから考慮する必要はない。
4.誤記は色々ある様だが、その系列が曖昧。許豆埼ではウツプルイに遠い。
5.上記の他、アイヌ語説や朝鮮語説もあるが信頼するに値するものを見ない。(この地名のみ他言語を持ち込むのは奇妙)
元字は「旀豆椎」で次のように変化したと考えられる。(椎と推は判然としないものがある)
旀豆椎→弥豆椎→彌豆椎→彌豆嶋→弥豆崎→(許豆崎)
└→於豆椎→於豆振畏濱
…「於豆振畏」については、出雲国風土記大成の傍記・注に(春日)信風の説として記されている。
…「椎」から「嶋」への変更は「十六嶋」という書き方が生じて以降のことであると考えられる。当然に「崎」もそれ以降。従って、「崎」を用いた「許豆崎」も更にそれ以降(古写本に実例はない)。椎を嶋や崎の誤記と云うのは考えがたい。書写した者への侮辱ですらある。嶋の誤記というのは残っている地名「十六嶋」に合わせる為の作為と云わざるを得ず。嶋では次の「許豆嶋」と類似する為更に崎の誤写としたのであろう。
ちなみに、地元では海苔の獲れる岩場を「島」と呼んでおり、島への変化はこの事とも関係があると思われる。
(ウツプルイ)に「旀豆椎」を充てたのは、「旀豆(うつぶ)椎(つい)」であろう。椎が堆であるなら砂と泥の層が積み重なった現地の地形の様子を表していると考えることが出来る。豆の字は砂や泥の層の中に含まれる小石を表したものであろう。
さすれば、「旀豆椎」というのは「旀豆堆」であり、小石を含む砂層と泥層が重層した地形を表していると考えられる。又ウツではなくオツという読みが残るが、文字からはこの方が妥当でありウツは訛といえる。
- 改めて整理しておくと、
『元は「旀豆堆(オツブツイ)」で、小石を含む泥層砂層の重層した地形を表す語であり、転写の際、於豆推・於豆椎・弥豆椎、等と誤写された。後の時代、十六善神の説話が生まれ、十六嶋と書かれるようになったが、呼び方は元のままであった。読みは訛って、ウツプルイ・ウップルイに変化して今に続いている。』
と云うことであろう。
十六島鼻の写真を掲載しておいた。
許豆嶋生紫菜 許豆濱廣一百歩出雲與楯縫二郡堺†
許豆嶋(紫菜生えり) 許豆濱、廣さ一百歩(出雲と楯縫二郡の堺)
- 許豆嶋…
・出雲風土記抄3帖k10解説で「許豆嶋許豆浦俗又曰フ古津浦ト也」
・野津風土記p99本文で「許豆ノ嶋(紫草生ふ。) 許豆ノ濱、廣さ一百歩(出雲と楯縫と二郡の堺)」
注に横山永福「出雲風土記考」より「古津浦に今竹島といふあり是ならんか可考」
- 竹島の詳細は不明だが、古い地図に、今は防波堤となっている場所に小島があり、そこではなかったかと思われる地理院地図。この島には社があり、許豆社であったという。
- 許豆浦…許豆は去豆、古津、小津、に同じ。今は小津。
- 許豆・去豆の文字を使う由縁はどこにも記されていない。
「豆」は大豆を指すが、本来の字義は食物を盛る器の高坏(タカツキ)。
「許」は神に祈り赦しを乞うこと。
この意味では「許豆」は高坏に供え物を盛って神に願いを乞う行為を表す。
「去豆」では、高坏を下げることを表すのであろうかとも思われる。「去豆」は国引き神話に出てくる。
小津町92の「許豆神社」で風の神、志那津毘主命・志那津毘女命を祀っており、海が穏やかであるようにとの祈願を行ったのが許豆神社の原初だったのであろうと思われる。
(白井文庫k28)

──────────
凡北海所在雜物如秋鹿郡説但紫菜者楯縫
郡尤優也
通道秋鹿郡堺伊農川八里二百六十四歩出雲
郡堺宇加川七里一百六十歩
郡司主帳无位物部臣
大領外從七位下勳業出雲臣
少領外正六位下勳業高善史
──────────
凡ソ北海所在ノ雜物如シ秋鹿郡ノ説ノ但紫菜ハ者楯縫郡尤優也†
およそ北海に在る所の雜物は、秋鹿郡に説くが如し。但し紫菜は楯縫郡が尤も優れたる也。
通道秋鹿郡堺伊農川八里二百六十四歩出雲郡堺宇加川七里一百六十歩†
通道、秋鹿郡の堺なる伊農川八里二百六十四歩。出雲郡の堺なる宇加川七里一百六十歩。
郡司主帳无位物部臣
大領外從七位下勳業出雲臣
少領外正六位下勳業高善史†
出雲国風土記記載神社については、必要最小限に止め記述を省いている。
延喜式や近代神社制度との絡みもあるため別途改める予定。
『出雲国風土記』出雲郡