『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡 ・ 『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡 ・ 『出雲国風土記』嶋根郡2
『出雲国風土記』秋鹿郡 ・ 『出雲国風土記』楯縫郡
『出雲国風土記』出雲郡 ・ 『出雲国風土記』神門郡
『出雲国風土記』飯石郡 ・ 『出雲国風土記』仁多郡
『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記
・『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介
『出雲国風土記』秋鹿郡(あいかのこおり)
(白井文庫k21)
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秋鹿郡
合郷肆里十三 神戸童
惠曇郷 本字惠伴
多太郷 今依前用
大野郷 今依前用
伊晨郷 本字伊努以郷捌里參
神戸郷
所以号秋鹿者郡家正北秋鹿日女命唑故云
秋鹿矣
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惠曇郷郡家東北九里卅歩須作能乎命御子磐坂
日子命国巡行唑時至唑此處而詔詔此處者国權美
好国形如畫鞆哉吾之宮者是処造事故云惠伴
神龜三年
改字惠曇
多太郷郡家西北五里一百廾歩須佐能乎命ノ御子
衝杵等乎而留比古命国巡行唑時至坐此処詔吾
御心照明正冥成吾者此処靜將唑詔而靜唑故云
多太
大野郷郡家正西一十里廾歩和加布都奴志能命
御狩爲唑時即郷西山持人立給而追猪犀北方上之
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秋鹿郡†
秋鹿郡
- 秋鹿郡…ルビに(アイカ ゴヲリ)とあるので、(アイカノゴオリ)と読んでおく。
校注出雲国風土記・標注古風土記は共に「秋鹿」を(アキカ)と読んでいる。理由不明。
「秋鹿」は今も(アイカ)と呼んでいる。「郡」をグンとは読んでいないことに注意。
合郷肆里十三 神戸童†
合わせて郷四、(里十三) 神戸壹
- 合郷肆…「肆」は(シ)と読むので「四」の当て字であろう。
- 神戸童…「童」は「壹」(一)の誤写であろう。
・出雲風土記抄(2-k29)・上田秋成書入本(k22)では「合郷肆里十二 神戸壹」
・出雲国風土記考証(p151)・校注出雲国風土記(p126)では「合郷肆里一
十二 神戸壹」
惠曇郷 本字惠伴†
惠曇郷 本字は惠伴
- 惠曇郷…(エトモノゴウ)
・出雲風土記抄2-k29では本文で(エスミノ)とルビを振っている。
今は恵曇(エトモ)と呼んでいる。
多太郷 今依前用†
多太郷 今も前に依りて用いる
大野郷 今依前用†
大野郷 今も前に依りて用いる
伊晨郷 本字伊努以郷捌里參†
伊農郷 本字は伊努(郷を以て捌く、里參)
- 伊晨郷…後に、「伊農郷」とあるので「晨」は「農」の誤記もしくは略記であろう。
- 以郷捌里參…
・出雲風土記抄2-k29では本文で「以上郷肆里参」(以上郷四、里三)
・標註古風土記p171・出雲国風土記考証p147・校注出雲国風土記p126では共に「以上肆郷別里参」(以上四、郷別に里三)
神戸郷†
神戸郷
- 神戸郷…
・出雲風土記抄(2-k29)・出雲国風土記考証(p151)・校注出雲風土記(p39)では「神戸里」
・上田秋成書入本(k22)では「神戸里郷イ」
所以号ス秋鹿ト者郡家正北秋鹿日女ノ命唑ス故ニ云秋鹿ト矣†
秋鹿と号すゆえんは、郡家の正に北、秋鹿日女の命唑す、故に秋鹿と云う。
- 郡家…秋鹿の郡家。東長江町郡崎説と秋鹿町説とがある。
位置と地名から、秋鹿説が正しいと思われる。現秋鹿神社の元社地が現在地より東方に尾根一つ越えた宮崎という地にあったらしいので、秋鹿の郡家もその南方辺りにあったのであろう。現「秋鹿神社」 地理院地図
・出雲風土記抄(2-k30)
「鈔曰如ク記ノ之趣ノ在リ于秋鹿比賣二社大明神ノ祠則秋鹿村ニ蓋シ當ニ此ノ社南ノ則為タル古ヘノ之郡家従是十七八町東長江ノ州埼俗呼テ曰フ郡埼ト則巳ニ郡家ノ近地ナレバ之長江亦秋鹿ノ一村也」
(鈔に曰く。記の趣きの如く、秋鹿比賣二社大明神の祠は則ち秋鹿村に在り。蓋し、まさに此の社の南のほとりは古の郡家たるに当る。是に従えば十七八町東長江の州埼、俗に呼びて郡埼という、則ちすでに郡家の近地なればこの長江また秋鹿の一村也)
- 東長江の郡埼説というのは、風土記抄から出たのであろうが、原文読むと、誤読によるものであるように思える。
「東長江」ではなく「十七八町東の長江」であり、「長江の州埼(俗に郡埼という)は郡家の近くであり秋鹿郡中の一村である」と云っているだけであり、「秋鹿神社や郡家が東長江にあった」等とは語っていない。
- あれこれ勘案すると、今の秋鹿郵便局の辺りに秋鹿の郡家があったのであろうと思われる。
長江の州埼、今の長江港の辺りと思われるが、ここ迄東に約2km弱で十七八町に合う。郡埼というのは、秋鹿郡の端と云う意味であろう。
- 秋鹿日女命…(アイカヒメノミコト)。ウムガヒメやイザナミノミコトと同一神と見る向きがあるが疑問。
ウムガヒメと同一神という説は内山眞龍によるものであり、イザナミノミコトと同一神と見る説は佐太神社によるもの。
出雲国風土記に系譜が記されていないために付会したのであろうと思われるが、秋鹿郡の地主神で充分と思う。
惠曇郷郡家東北九里卅歩†
惠曇郷、郡家の東北九里三十歩
- 惠曇郷…出雲風土記抄(2-k30)に「鈔曰九里卅歩今之一里十八町四十間併今江角古浦武代本郷等所以為惠曇郷蓋意佐陀宮内村可亦以入此郷中矣」
(鈔に曰く。九里三十歩は今の一里十八町四十間。今の江角・古浦・武代・本郷、等の所を併せて惠曇郷と為す。けだし、おもうに、佐陀宮内村も亦以て此の郷中に入るべし。)
とあり、現在の松江市鹿島町、惠曇・古浦・武代・佐陀本郷・佐陀宮内の地区を恵曇郷と呼んでいた。
須作能乎命御子磐坂日子命国巡リ行キ唑ス時至リ唑シ此處ニ而詔テ詔此處ハ者国權美好国形如畫鞆ノ哉吾ガ之宮者是ノ処ニ造ラン事故ニ云惠伴ト神龜三年
改字惠曇†
須作能乎命の御子、磐坂日子命、国巡り行ます時、此處に至りまして詔て、此處は国権美好国形画鞆の如しかな、吾が宮は是の処に造らん事を詔す。故に惠伴と云う。(神龜三年字を惠曇に改む)
- 国權美好…国権美好。「権」は量る事。「美好」は「美しく好ましい」。「国をはかるに美しく好ましい」の意。
読みとしては(国をはかるにびこうなり)
・出雲風土記抄(2-k30)では本文で「国権美好有国形如畫鞆哉」としている。
・校注出雲国風土記(p39)では「權」を「稚」としている。
- 国形如畫鞆…国形如画鞆。「鞆」は弓を射るときに弓の跳ね返りが腕に当たるのを防ぐ為に左腕に付ける革製の防具。
鞆は巴形の元とも云われ、巴形を描いている物が多々ある。
「如画鞆」は「絵に描いた鞆という防具の様である」の意。
全体で「国の形が絵に描いた鞆のようである」と云う意味を表す。読みとしては(国がたエトモのごとし)
- 吾之宮…磐坂日子命を祀る「惠曇神社」が鹿島町にある。但し「惠曇神社」というのは恵曇と佐陀本郷とに二社あり、又別に漁港近くに「惠曇海邊社」という社がある。今の恵曇地区(旧恵曇町)は先に記したように元は江角という地名であった。
・雲陽誌では秋鹿郡2-k63(地誌大系k50p86)に江角について記し、惠曇海邊社に関連して出雲国風土記記載のこの部分を上げて、惠曇神社と見なしているようであり、秋鹿郡1-k56(地誌大系k43p73)に本郷の惠曇神社及び座王権現について記しているが、詳述はしていない。
- この地名縁起少々疑問がある。エスミとエトモが錯綜している。磐坂日子命の縁起通りであれば元々はエトモであるのだが、
地区名としてはエスミ(江角)があって、エトモはない。
神亀三年に字を恵伴から惠曇に改めたとあるので、それ以前は長くエトモであったはずであろう。
惠曇の「曇」は安曇(アズミ)の「曇」と同じでスミと読む事もあるから、字を惠曇と改めた後にエスミと読むようになり江角と転じたというのであれば話は解るのだが、そうなっていない。
一方、磐坂日子命に関連する地名縁起が後に創られたものとするには具体性があってまんざら虚構とも思えない。このような点が得心できないと、惠曇神社の判断も付けがたい。
江角と云うのは入江の角、と云うほどの意味であろうから、「恵曇」に直接関わるような地名では無い。
多太郷郡家西北五里一百廾歩†
多太郷、郡家の西北五里一百二十歩
須佐能乎命ノ御子衝杵等乎而留比古命国巡リ行キ唑ス時至坐此処ニ詔テ吾ガ御心照リ明ニ正冥成吾者此処ニ靜ニ將ニ唑ラントス詔テ而靜リ唑ス故云多太ト†
須佐能乎命の御子、衝杵等乎而留比古命国巡り行き唑す時、此処に至り坐す時詔て、吾が御心正冥成りしと明らかに照り、吾は此処に靜かに將に唑らんとす、と詔て靜に唑す。故に多太と云う。
- 衝杵等乎而留比古命…ルビに従えば(ツキキトヲシルヒコノミコト)。秋鹿小学校前の道を北上した「多太神社」 地理院地図に祀られている。
「衝杵」を「衝鉾」「衝桙」とするものがあるが、古写本は全て「衝杵」。
「杵」は餅つきの杵(キネ)であり、武具の「鉾・桙・矛」ではない。「衝杵」であるから、農耕神であり武神ではない。
古代の杵(縦杵・兎杵)は元々は脱穀(穂から種子を外す作業)・脱稃(種子から種皮を外す作業)に用いていた農具であり、杵衝き(衝杵)というのは脱穀・脱稃することを云う。(脱穀・脱稃を総じて「脱穀」と云う事もある)
・細川家本k26で、「衝杵等乎而畄比古命」(畄は留の簡体)
・日御碕本k26で、「衝杵等乎而畄比古命」
・倉野本k27で、「衝杵等乎而畄比古命」
・出雲風土記抄2-k30で「衝杵等乎而留比古命」
・鶏頭院天忠本p023で「衝析等乎而留比古命」「析」の横に「杵」と補記
・上田秋成書入本p023で「衝杵等乎而留比古命」
・萬葉緯本k36で「衝杵等乎而留比古命」
・出雲風土記解-中-k4本文で「衝杵等乎而留比古命」[杵]に(一本折)、[而]に(下文の而誤出)と注記
・訂正出雲国風土記上-p37で「衝杵等乎而留比古命」ルビではなく傍書で(ツキキトヲルヒコノミコト)
・標注古風土記p160本文で「衝杵等乎而留比古命」、p161解説で(つきゝとをるひこの)命
・出雲国風土記考証p153で「衝杵等乎而留比古命」
・岩波文庫風土記p116で「衝杵等乎而留比古の命」
・校注出雲国風土記p40で「衝桙等番留比古命」脚注に「突鉾通る日子の命」
- 等乎而留(トヲシル)というのはこのままでは解り難いが(等を留めた)で「伝えた」と云う意味合いであろうと思われる(衝杵等の農具を伝えた命)。
杵は元来ただの棒であったが、両端を太く中央部を細くして持ちやすく効率のあがる千本杵と云うものに発達した。
(そのような農具を伝えた)或いは(農具を伝えこの地に留まった)のが「衝杵等乎而留比古命」の神名由来ではないかと思われる。
「而」は助字(しかして)で、置き字として読まないことも多いが留比古(ルヒコ)では簡素すぎるために而留比古(シルヒコ)と読んだのであろうと思われる。
「衝杵等乎・而留比古命」(ツキキネトヲ・シルヒコノミコト)と一呼吸置くと理解しやすい。
参考までに、内山眞龍は「出雲風土記解-中-k5」解説で「衝杵等乎留比古の名義ハ地をかたむる衝杵のとをとをと鳴音尒依か」と記している。さすれば、「杵衝きトヲトヲ比古命」とでも云うのであろうか。他に例のない神名らしからぬ解釈である。
- ついでに、棒から縦杵に変わり、脱穀・脱稃は飛躍的に作業性が良くなったのであるが、江戸期には更に「千歯扱き」による脱穀、「水車」による脱稃が行われるようになり、縦杵はあまり用いられなくなった。今に伝わるT字型の長柄のついた杵(横杵)は餅つき用としての利用が中心となっている。と云っても昨今餅つき光景も希になった。
- 私事だが、母方祖父の家では農業も行っており、初収穫の際神前に供える米だけは昔ながらの方法で脱穀していた。
庭に茣蓙を敷き、その上に乾燥させた稲穂を並べ棒で叩く。すると、籾がはずれ籾殻も落ちるので、それを手箕にとり、ふるい上げて籾殻を風で飛ばす。結構時間と手間のかかる作業のようであった。
又、父方祖父の家では、神社の秋祭り用の餅作りを近隣総出一日がかりで行っていた。日頃は手水鉢代わりにしている石臼が年に一度磨き上げられ餅つきに活躍する。蒸籠が庭先に積み上げられ蒸し上がる端から横杵使って衝き上げられ寄って集って餅に仕上げられる。そういう光景であった。
無論私はまだ幼かったのでどちらも見ていただけだが記憶には鮮明に残っている。
- 「杵」と「桙」について…
・出雲国風土記考証p149に、
「衝杵等乎而留比古命について、伴信友は『後の和泉國風土記に大鳥郡本字衰云々古老傳云昔素佐烏尊御子衝桙等乎而留比古命巡行此國詔、吾御體衰坐詔而静坐、故云於止利、今謂大鳥者訛也とみえたり。此國巡行古事と符へり。さて御子の字の而を誤出といへれども和泉國風土記にも然あれば相照して誤とはすべからず。而を假字に用たる例いまだ見あたらねど姑くシと唱ふべし。杵は桙の誤にて古書に毎に多し、故に衝桙等乎而留比古命と申すべし。衝桙は杖桙の義にて等乎の枕詞なるべし。萬葉集ニに奈用竹之騰遠依とつゞけたる如く桙を杖きたるが撓(タワ)む由の意なるべし。而留は稱へ名にいへる例あり。又古事記の倭建命の裔に登遠之別といふがあり』といつて居る。思ふに而の字は與の畧字の誤りであること疑ない。而と与との草書に似ることから相誤ることは、出雲風土記中、諸處にその例がある。萬葉集巻三の長歌にも「名湯竹之十緣皇子」といふ語がある。等乎與留は、撓みなびきて、なよゝかに、うつくしきをいふ。即ち神の名は衝桙等乎與留比古命である。」とある。
- 「杵」を「桙」としたのはこれによれば、伴信友に始まるようである。
「杵」を「桙」としているが、「桙(ウ)」は元字「杅(ウ)」で鉢或いは盥(タライ)のこと。字体は「鉾」に似ているが「鉾」は元来山車の「山鉾」のことでありいずれにせよ「矛(ホコ)」ではない。要するに当て字である。「杵」とあるものを「桙」の誤りだといい、更にそれを「矛」とみなすというのは理解できない。「桙」はさほど使用例のある文字ではない。
「桙」としたために「衝」を「杖」だとまで云うのは、屋上屋を重ねるというに等しい虚言でしかない。
更に、出雲固有の神格を、出雲国風土記の記載を疑い、和泉國風土記にその起源を求めるなど倒錯していると云わざるを得ない。
枕詞とするのも意味不明と云っているに過ぎず根拠がない。
「等乎而留」に関しての記述はこれも「而」が「與」の略字「与」の誤記かどうかも疑わしく而をシではなくテであると云うならともかく、ヨであるというのは殆ど意味のない記述である。
又、なよ竹の如く撓む矛など聞いたこともないし、あったとしても用を足さない。
上に各書における記述を示しておいたが、「桙」を用いたものとしては校注出雲国風土記p40・修訂出雲国風土記参究p256及び講談社学術文庫出雲国風土記p144がある。これらはいずれも底本を細川家本と称しているが細川家本は「杵」である。
- 多太神社は秋鹿神社とは秋葉山を挟んだ位置関係にあり、秋鹿郷と多太郷がこの秋葉山を境界としていた。
古代の郷が川筋に沿って成立していたことを窺わさせる。多太郷(岡本川)・秋鹿郷(秋鹿川)。共に小さな川だが、度々氾濫は起きていたようである。その為か、両神社とも川の東側山麓にある。
- 正冥…多太の郷名縁起は「正冥」にあると思われるので、それに近い読みを採ったが多少すっきりしない面がある。
多太という名称は神社名にしか残っておらず、この地区は今は岡本と呼ばれている。
この部分各書ともルビをふっているので、読みに苦心したのであろう。
・出雲風土記抄2-k30では「正真」、
・出雲国風土記考証p153では「正眞」、
・校注出雲国風土記p40では「正真」、
・上田秋成書入本p23では「正冥」と読み「冥」に「實」と書き入れている。
・標注古風土記p175では「正眞」。
・鶏頭院天忠本p023では「正冥」読みは振っていない。
・訂正出雲国風土記上-p37では「正眞」とし(タダシク)と読んでいる。
- 「正冥」にせよ「正眞(正真)」にせよ。「多太」と繋げるにはかなり無理があると云わざるを得ないわけで、又自身の事を語るのに「吾ガ御心」と云うのも奇妙である。「吾ガ心」と云うべきであろう。
「多太」の縁起には何か他の要因、若しくは欠文があったのではないかと思われるが今となっては不明。
- 個人的心象としては、秋鹿日女命と衝杵等乎而留比古命は夫婦神(入り婿)の関係にあるようにも思われる。
大野郷郡家正西一十里廾歩†
大野郷、郡家の正に西一十里二十歩。
和加布都奴志能命御狩リ爲唑ス時キ即チ郷西山持人立給フ而追猪犀北方上之至阿内谷ニ而其猪之跡亡失†
和加布都奴志能命、御狩します時、即ち郷の西山に持人立て給う。猪犀を追い北方上の阿内谷に至りて、其の猪の跡亡失り。
- 和加布都奴志能命…校注出雲国風土記p40では「和加布都努志能命」と記し注記で「前出の布都努志命と同神であろう。和加は若々しい意の修飾語」としている。前出というのは意宇郡山國郷の「布都努志命」であろうが、同神かどうかは疑問。楯縫郷では「布都怒志命」としており、一字異なる。これについては出雲郡にて改めて記す。
- 西山持人…「待人」とか「狩人」と記す書もあるが、「持つ」は(受け持つ・担当する)の意味であろう。
- 猪犀…(イノサイ=イノシシ)であろう。「犀」には「固く鋭い」と云う意味があるので大きな牙を持つ雄猪をさしているのであろう。
- 阿内谷…今の本宮山(旧名高野山)の中腹にある「内神社」(高野宮)地理院地図のある辺りを阿内谷(内野)と呼んでいた。
- 古代の猪猟がどの様なものであったか定かではないが、四つ足動物は登りは得意で降りは苦手であり、追い込み猟であれば弓を持つ者を下手に待たせ、上方から下方に追い立てるのが常道であろうから西山というのは、阿内谷より下手西方にある山であったと思われる。
尒時詔自然哉猪之跡亡失詔故云内野ニ然今ノ人猶詔大野号耳†
時に詔りて、自然なる哉。猪の跡亡失ぬ。詔りし故に内野という。然るに今の人なお詔りて大野と号すのみ
- 猶詔大野号耳…一応そのままにして置くが、白井本の「猶詔」は「猶誤」の誤りであろう。「詔」を用いるにふさわしい箇所ではない。
・出雲国風土記考証p151で「猶誤大野號耳」
・標注古風土記p162で「猶誤大野號耳」(猶誤て、大野と號ふのみ)
・校注出雲国風土記p127で「猶誤大野號耳」p40でこれを「猶詔りて大野と號くるのみ」と読んでいる。
(白井文庫k22)
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至阿内谷而其猪之跡亡失尒時詔自然哉猪之
跡亡失詔故云内野然今人猶詔大野号耳
伊農郷郡家正西一十四里二百歩出野郷伊
農郷唑赤食仁農意保須美比古佐和氣能
命之居天𤭖津日女命国巡行唑時至唑此處
而詔伊農波夜詔故云足怒伊怒神龜三年
改字伊農神
戸里出雲之説名如
意宇郡
佐太御子社 比多社 御井社 垂水社 惠杼毛社
許曽志社 大野津社 宇多貴社 大井社 宇智社
以上一十所
在神祇官 惠曇海邉社 同海邉社 奴多之社 郡牟社
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多太社 同多太社 出鳥社 阿之牟社
田仲社 弥多仁社 細見社 下社 伊努社
毛之社 草野社 秋鹿社 以下十五所并
不在神祇官 甫曰自恵曇海辺社
秋鹿社迄十六所見ユル
神名大山郡家東北九里卅歩高卅歩丈周四里
所謂佐太大神社即彼山下之足日山郡家正北一里
高一百七十丈周一十里二百歩 女心高野家正西
壹十里二十歩高一百八十丈周六里土体豐
渡百姓之膏之腴膏腴地
之事欤園矣旡樹林但上頭在樹
林此則神社也都勢野郡家正西一十里廾
歩高一百一十丈周五里無樹林嶺中在湒周
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伊農郷郡家正西一十四里二百歩†
伊農郷、郡家の正に西一十四里二百歩
- 伊農郷
・出雲風土記抄2-k31本文で「伊農」にイノとイヌの両方のルビを振っており、解説で「并於今ノ伊野村伊野浦波多浦ヲ以為伊農ノ郷矣」(今の伊野村・伊野浦・波多浦を併せ以て伊農の郷と為す)
出野郷伊農郷唑赤食仁農意保須美比古佐和氣能命之居天𤭖津日女命国巡行唑ス時至唑シテ此處ニ而詔伊農波夜詔故云足怒伊怒神龜三年
改字伊農†
出野郷伊農郷に唑す赤食仁農意保須美比古佐和氣能命の后、天𤭖津日女命国巡り行きます時、此処に至りまして伊農波夜と詔る。故に足怒伊怒と云う。(神龜三年字を伊農に改める)
・出雲風土記抄2-k31本文では
出雲郡伊農ノ郷ニ坐ス赤食伊農意保須美比古位和気能命ノ之后天𤭖津日女命国巡行坐マス時至坐此處ニ而詔ノ伊農波夜詔故云足努伊努
- 出野郷伊農郷…今の「野郷(ノザト)」と「美野(ヨシノ)」であろう。伊野川にそった地域である。
出雲風土記抄では「出野郷」を「出雲郡」としている。
- 赤食仁農意保須美比古佐和氣能命…同じ白井本、出雲郡伊努郷k29で、「赤衾伊努意保須美比古佐倭氣能命」とある。
・校注出雲国風土記p40では注に「八束水臣津命の御子神。赤衾はイヌ(寝ぬ)にかかる枕詞。神名は伊農の大洲見日子、狭別の神の意であろう。沖積地の神」と記している。
- イヌ(寝ぬ)は衾からの連想であろうが、説明になっているようでなっていない。「沖積地の神」と云うのは意味も根拠も不明。
- 赤食(アカケ)と赤衾(アカフスマ)、「衾」というのは寝具、いわゆる掛け布団代わりの布であるが、これが何故神名に使われるのか説明を見ない。「赤食」であれば、「赤米」であろうと思われる。
標注古風土記p164に内山眞龍の説が載っているが採るに足らないので略す。物好きな人は御参考あれ。
- 天𤭖津日女命…通説では「𤭖」は「甕」としている。
- 通説の「甕」には疑問が残る。「甕」は水などを入れる瓶(カメ)だが、「𤭖」は屋根瓦を指す。
「𤭖」は「瓺」の異体字とされることもある。
読みは「𤭖」(モウ)・「瓺」(チョウ・ジュウ・ミカ・かめ)。
チョウなら瓶とも云えるが、モウなら屋根瓦である。
康煕字典では瓦の部に「瓺」があるが「𤭖」はない。
浜松に「大𤭖神社」と云うのがあり、(オオミカ)と読んでいる。
栃木市の「大神神社」では主祭神を「倭大物主櫛𤭖玉命」と記している。奈良の桜井市「大三輪神社(大神神社)」からの勧請社だが、大三輪神社の主祭神「大物主大神」は「倭大物主櫛甕玉命」である。「倭大物主櫛瓺玉命」とするものもある。
保留。
- 伊農波夜…「波夜」は詠嘆を表すというのが通説。
- 足怒伊怒(足努伊努)…「足ぬ伊ぬ」或いは「足の伊の」。
- 美野町に伊野川を挟んで「伊努神社」(祭神:天甕津日女命)地理院地図と「葦高神社」(祭神:赤衾伊努意保須美比古佐和気能命)地理院地図がある。
「伊努神社」には明治以前には社殿はなく境内にある「伊努神社古墳」(通称森の宮)と呼ばれる陵の前で祭祀を行っていたという。
元は伊野川の東岸、下伊野村客野に社があり、客大明神と呼ばれていたという。
「森の宮」は天甕津日女命がこの地で亡くなった為に作られた陵墓と云われる。
「葦高神社」は元社地が現在地の北、高山にあったが、火災のため現在地に移されたという。
- なかなかに理解し難い箇所である。
天甕津日女命がこの地で亡くなったというのであるから、伊農は「去ぬ」であろう。
方言で「いぬる」は「帰る・立ち去る」という意味であり「去る」と記し亡くなることも意味する。
「伊農波夜」は(もう死んでしまう)と云う意味で、「足努伊努」は(足を痛めてもう歩けない)と云う意味ではないかと思われる。
物語ると、
「天甕津日女命がこの地方にやって来たとき、夫神と離ればなれになり、足を痛めて亡くなってしまった。その時『いぬはや(私はこの地で去ぬる)』と詔られたので「いぬ」という地名になった。高山にいた夫神は妻神を森の宮に葬し、川を挟んだ対岸に拝殿として社を建て祀った。その社は客死した客神の社と云う意味で客野の社という。後の世に高山の社が火災にあったので葦高神社として客野に併せ祀られた。夫神は諱を佐和気の命と云い、赤米を広めた神であるが、妻神に赤衾をかけて葬送された為「赤衾伊努意保須美比古」(アカブスマイヌイホスミヒコ)と称名をつけられた。」
かなり脚色したが当たらずとも遠からずであろう。
神戸里出雲之説名如意宇郡†
神戸の里(出雲の名を説くこと意宇郡の如し)
佐太御子社 比多社 御井社 垂水社 惠杼毛社†
佐太御子社 比多社 御井社 垂水社 惠杼毛社
- 佐太御子社…佐太神社(佐陀神社)の古名。
出雲風土記抄、出雲国風土記考証では詳述している。が、長くなるので今は取りあげない。
- 惠杼毛社…(エトモ)社。惠曇社。「杼」は(ヒ)であるがなぜこの字を充てているのかは不明。
萬葉集大友家持の歌に「保杼毛友」がありこれを(ホドケドモ)と読んでいる例がある。
・出雲風土記抄2-k32では「恵梯毛社」
佐田本郷の「惠曇神社」であろう。
許曽志社 大野津社 宇多貴社 大井社 宇智社 以上一十所在神祇官†
許曽志社 大野津社 宇多貴社 大井社 宇智社 (以上一十所、神祇官在り)
惠曇海邉社 同海邉社 奴多之社 郡牟社†
惠曇海邉社 同海邉社 奴多之社 郡牟社
- 惠曇海邉社…恵曇地区(江角)の「恵曇神社」であろう。旧社名「江角神社」
多太社 同多太社 出鳥社 阿之牟社†
多太社 同多太社 出鳥社 阿之牟社
- 阿之牟社…本宮山東麓にあったという。今は里宮として松江市大垣町「森清神社」となっている。祭神:天照大神
田仲社 弥多仁社 細見社 下社 伊努社†
田仲社 弥多仁社 細見社 下社 伊努社
毛之社 草野社 秋鹿社 以下十五所并不在神祇官 甫曰自リ恵曇海辺社秋鹿社迄十六所見ユル†
毛之社 草野社 秋鹿社 (以下十五所、並びに神祇官不在)(甫曰く、恵曇海辺社より秋鹿社迄に十六所見ゆる)
- 以下十五所…「以下」と記されているのは奇妙な感じもするが、「下から数えて」の意味なのであろう。
- 甫曰…「甫」は地誌学者 関祖衡(関老甫)の事。
神名大山郡家東北九里卅歩本ノ侭高卅歩丈周四里
所謂佐太大神社即彼山下之本ノ侭
†
- 九里卅歩…4848.5(m)
- 高卅歩…53.28(m)
- 周四里…2131.2(m)
足日山郡家正北一里高一百七十丈周一十里二百歩†
- 「神名大山」は一応「神名火山」に改める。
- 「高卅歩丈」は「高卅丈」に改める。
神名火山、郡家の東北九里三十歩(もとのまま)、高さ三十丈、周り四里。
いわゆる佐太大神の社、即ち彼の山下之なり。(もとのまま)
足日山、郡家の正に北一里、高さ一百七十丈、周り一十里二百歩
- 九里三十歩=約4.86(㎞)/三十歩=約53.5(m)/三十丈=約89(m) /四里=約2.14(㎞)
- 一里=約534(m) /七里=3.74(㎞)/一百七十丈=約504(m) /一十里二百歩=約5.70(㎞)
- 弥山(98m)・朝日山(341.6m)・経塚山(321m)
・出雲風土記抄2-k34本文で
「神名火山郡家東北九里卌歩高二百三十丈周一十四里所謂佐太大神社即彼山下之足日山郡家東北七里高一百七十丈周一十里二百歩」
・上田秋成書入本k24で
「神名大山郡家東北九里卅歩高卅歩又周四里所謂作佐太大神社即在彼山下之足日山郡家正北一里高一百七十丈周一十里二百歩」
・風好舎本p033
「神名火山郡家東北九里卅歩高卅丈周四里所謂佐太大神社即在彼山下也足日山郡家正北一里高一百七十丈周一十里二百歩」
注記で(丈一作歩)(一四上有十字)(一里之一●作七」
・鶏頭院天忠校正本k024
「神名大山郡家東北九里卅歩高卅歩丈周四里所謂佐太大神社即彼山下之有足引日山郡家正北一里高一百七十丈周一十里二百歩」
「卅」に「卌」を傍記し、注記で「卌歩 衍字無疑 因恩文字上合有両ヶ数字」
・出雲国風土記考証p165解説で「秋鹿郡中の最も高い山であって、長江川の源であるから、今の朝日山であることは明らかであろう~」
・修訂出雲国風土記参究p265参究で「神名火山は今の朝日山(標高三四一・六米)であろう。~この山は高さ三十丈、周四里となっている写本がかなり多いが、これは脱落か、或いは佐太神社後方の弥山と呼ばれる小山を神名火山に当てようとする人の意によったものと思われる。~」
○通常、神名火山(秋鹿)を朝日山、足日山を経塚山としているのだが、間違っている。
というのは、神名火山の高さが30丈(89m) 或いは30歩(53.5m)と記されているのに、朝日山は341.6(m)であることである。
風土記時代の山の高さ表示はさほど信頼できるものではないがあまりに違いすぎる。
出雲国風土記考証で後藤が朝日山を神名火山とし、加藤がそれに追従したのが今の定説となっている。
後藤は高さから朝日山としているが、その記述の根拠にある長江川の源云々という部分は、古写本にはない記述で、後に記すが、出雲風土記抄で岸埼が勝手に挿入した一文であり、それを根拠に朝日山という事にはならない。
加藤は、人の意によったもの、等と記し、古写本の記述を全面否定しているお粗末さである。
神名火山は高い山でなければならない等というのは、後藤や加藤の思い込み・妄想でしかない。
神名火山というのは、神がなびく山のことであり、神が立ち寄る山・神が降臨する山・神々が集まる山を意味し、山の高さは関係ない。なびくは靡く、即ち揺れることであり、木立が揺れて神の来たことを知らせることからこのような呼び方が生まれた。
「弥山(三笠山)」(98m)は佐太神社の後背にある山だが、これが神名火山であり、出雲国風土記の記述は正しい。地理院地図ここには中腹に母儀人基社という磐境があり、伊弉那美尊の神陵を遷した山と伝える。
ついでに記しておくと、佐太神社の元社地が志谷奥遺跡付近地理院地図という説があり、これを以て朝日山の山下に絡める説があるが、風土記作成の頃には既に現在地に佐太神社はあったのであり、説明の根拠にはならない。
又、「足日山郡家正北一里」と云う記述に関して、足日山が経塚山であるなら、その正南一里は全くの山中であり郡家など在りようがない。
女心高野家正西壹十里二十歩高一百八十丈周六里†
- 女心高野…「女心高野山」とする書もある。今の本宮山(278.3m)とされる。
内神社は高野宮社とも呼ばれ、「宇知社」と呼ばれてこの山頂にあったと云われる。
即ち、「本宮山」と呼ばれるのは、内神社の本宮「宇知社」があったことによると云う。
- 「女心」は(メゴコロ)と読まれるが、これでは何を意味するのか不明。何かの文字の誤記と思われる。
例えば「怒」。縦書きで「怒高野」とあったのを、「怒」の[ヌ]部分を書き落としたか、小さく書いてあったのを誤写したという可能性があるように思える。「女心」なら何らかの意味があるはずだが、「怒」なら音にあてただけと考えられる。
或いは、元の字は「女嵩野」で、「嵩」の字の冠[山]を[心]に読み間違えて、分けて書いたのかとも思われる。
おそらくは後者の可能性が高いと思われる。
ちなみに古写本には「女心高野」とあるのを、千家俊信「訂正風土記-上-p39」では「女嵩野山」と改めているのだが、「出雲国風土記考証p163」「標注古風土記p170」では共に、後藤の註で根拠がないと評している。
千家俊信は内神社縁起から書き改めたのであろうと思われるが、根拠というか原因としては上記の様に考え得る。
「出雲国風土記考p48」で荷田春満は「心は山の字にて嵩の一字を時写誤りて心高の二字に作る欤」と考察している。妥当。
以後「女嵩野山」と記す。
- 女嵩野山と足日山…出雲風土記抄において、足日山は高170丈、女嵩野山は高180丈。即ち足日山は女嵩野山より低い。
正確な標高は不明としても、山の高さの比較は誤らないであろうから、確実に特定できる本宮山(女嵩野山)278.3m地理院地図を基準に計算すると、
女嵩野山:足日山=180:170=278.3:X、として、足日山=X=262.8(m) となる。
経塚山316(m) ピークでは誤差率+20%で少々高すぎる。
足日山が垂水社と関連があることを勘案すると、垂水社は佐田神社の境内社として罔象女神を祀っている。
罔象女神は水の神であるから今は不明となっている風土記記載の垂水社は秋鹿川上流、湯尾谷池地理院地図の北方辺りに在ったのではないかと考えられる。湯野谷池から東に一山越えたところに小さな集落があり、そこから北に上る道がありその先に小池がある。
出雲風土記抄では、その源流の山を足日山と考えていたのであろうと思われる。
即ち、経塚山ではなくやや南方のピークが足日山と考えていたのであろう。地理院地図
- 女嵩野山と神名火山…上と同様の計算を出雲風土記抄に記載されている神名火山の高230丈で行ってみると、
女嵩野山:神名火山=180:230=278.3:Yとして、神名火山=Y=355.6(m)となる。
朝日山341.6(m)地理院地図では誤差率-4%で比較的近いといえる。
この事から、出雲風土記抄の230丈と云うのは朝日山を想定していた思われる。
女嵩野山、郡家の正に西壹十里二十歩、高さ一百八十丈、周り六里
土体躰カ豐渡百姓之膏之腴膏腴地
之事欤園矣旡樹林但上頭在樹林此則チ神社也†
土体豊かに渡り、百姓の膏之腴(膏腴地の事か)園。樹林なし。但し上頭に樹林あり。此れ則ち神の社也。
- 膏之腴園(コウノユソノ)…「膏」は脂、潤すの意味がある。「腴」は魚の下腹、土すり。膏腴(コウユ)は魚の下腹の膨らみを指し、転じて土地が肥えている様子を表す。ここでは、「土地が肥えており百姓を潤す場所」の意味。
「膏腴地之事欤」という補記は語義が解らなかった事によるのであろう。
- 本宮山は、鎌倉時代初期に大野氏が城郭を作るまで、肥沃な土地を利用して山腹山麓に農地が広がっていたと云われる。城郭構築に際し、山頂の宇知社を廃したという。
都勢野郡家正西一十里廾歩高一百一十丈周五里無樹林嶺中在湒イズミワキイズル周五十歩†
都勢野、郡家の正に西一十里二十歩。高さ一百一十丈、周り五里。樹林無く嶺の中に湒在り。周り五十歩。
- 都勢野(ツセノ)…「都」は(集まる)、「勢」は(引きつける)の意味であるから、(集まり引きつける野)と云う事であり、集まるのは「湒」により水であろう。
・出雲風土記抄2帖k35本文で「都勢野」に「山」を傍記している。又解説で「大野郷今ノ杜山也」と記している。
これについて、標注古風土記p185では註で「都勢野山は、大野の郷、今の杜山なり。ゆづりは山と云う」と記し、更に「頭註の杜山は杠(ユヅリハ)山の誤植。」と記している。
・出雲国風土記考証p164で「今の大野村と伊野村との堺にある十膳山である。」と記している。
・校注出雲国風土記p42脚注で「今の十膳山(193.6米)」と記している。
- 標注古風土記の注記は、出雲風土記抄を受けてのものであると思われる。上に「杜」と記したが風土記抄原本手書き故「杠」に見えなくもない。ルビに(ユツハリ)とあるので、「杠」なのであろう。
尚、(ユツハリ)というのは誤りで、正しくは(ユヅリハ)である。若葉に葉を譲ると云う意味で「譲り葉」というのが樹木名の由来である。「杠(コウ)」は本来「小さな橋」を意味する字であり、橋渡しの意味でユヅリハに用いるようになったものであろう。
ユヅリハには「楪」或いは「譲葉」を用いることが多い。
- 大野郷杠谷にかつて「杠神社」があったが移転し「草野神社」とされ祭神の「草野姫命(加夜奴比女命)」は明治期「南正八幡宮」に合祀されたという。
多少ややこしいが、雲陽誌秋鹿郡2p37「南正八幡宮」同p45「杠権現」辺りを参考に整理すると、大野左近により1560年前後「正八幡宮」が土居山山頂に勧請され、1570年頃細原に移され(細原八幡宮)、更に1700年頃「草野神社」の地に勧請されこれを「南正八幡宮」と呼ぶようになった。
明治初年神社整理で「杠神社」の御神体を「南正八幡宮」に移した。今は「草野神社」と呼んでいる。
「杠神社」地理院地図は明治初年御神体の遷座後も社殿は近年まで地元で維持されていたが今は取り壊されている。
- 高一百一十丈…本宮山(女嵩野山)278.3mを基準に計算すると、
女嵩野山:都勢野=180:110=278.3:Z、として、都勢野=Z=170.0(m) となる。
通常比定されている十膳山(193.5m)では誤差率+13.8%。微妙なところである。
上記の「杠神社」のある地が標高約182(m) で、この付近を都勢野と呼んでいたのではないかとも考えられる。
- 湒(シュウ)…イズミ・イズミワキイズルと傍記している。
説文解字に「雨下也」とある。旁の「咠」は寄せ集めるの意味で、湒は水の集まったところを指す。
・出雲風土記抄2帖k35では、本文で「澤」としている。
周50歩は90(m) 弱であるから小池といえる。
「十膳山」には幾つかの池があり、又「杠神社」の周辺にも池が幾つかある。
・校注出雲国風土記p42の註で「諸本「湒」とあるは草体の誤認」と記しているが、誤認する要素はなく、何を根拠にしているのか不明で誤っていると云わざるを得ない。
- 私見では「都勢野」は「十膳山」ではなく「杠神社」のある辺りを指し、「都勢野山」は、「杠神社」後背の山のことであろうと考えているが、尚疑念の残るのは「郡家の正西」と云う記述である。が、この地域「郡家の正西」という記述が多く方位に関しては曖昧という印象がある。
蘿藤芛茅工物叢生羑或叢峙或伏水鴛鴦住也†
蘿、藤芛、茅、工物叢生羑、或は叢峙、或は伏水。鴛鴦住む也。
- 蘿(カゲ)…日陰蔓(ヒカゲノカズラ)の古名でもあるが、ここでは蔦を指すと思われる。
- 工物…「工」には中空で曲がる物の意味があるので「工物」は蔓などが曲がりくねった有様を指すのであろう。読みは(コウブツ)あるいは(マガリモノ)だが、解りやすく(マガリモノ)としておく。
- 叢生羑…「羑(ユウ)」は獄舎を意味する。蔓などが生い茂り歩き難い様子を指しているのであろう。
- この部分、
・出雲風土記抄2帖k35本文では、『蘿藤萩芛等ノ物樷生或樷峙或伏シ鴛鴦住也』
「樷」は「叢」の異体字。(ムラガル)草木が群がる様子を指す。
(白井文庫k23)
──────────
五十歩蘿藤芛茅工物叢生羑或叢峙或
伏水鴛鴦住也今山郡家正西一十里二十歩周
七里諸山野所在草木白朮獨活女青苦参
貝母牡丹連翹伏苓藍漆女荽細辛蜀椒薯蕷
白歛芍藥百部根薇蕨薺頭蒿藤李白桐
赤桐椎椿楠松栢槻禽獸則有鵰晨風山鷄
鳩雉猪鹿兎飛猑狐獼猴甫曰上有飛猑飛生鳥之事欤鼯
鴺鸓鼠。狀如蝙蝠大如鴟鳶毛色紫赤色暗夜行飛
[川]
位太河源二東水佐鳥根郡所謂多文
川是西水源出秋鹿郡渡村二水合南流入
佐太水海即水海周七里有鮒水海通入海潮長一百
五十歩廣一十歩山田川原出郡家西北七里湯
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太南流入入海多太川源出郡家正西一十歩女心高野
南流入入海太野川源出郡家正西一十三里磐門山南
流入入海草野川源出郡家正西一十四里大継山南流
入入海伊農川源出郡家正西一十六里伊農山南流
入入海以上七川
並無矣
[池]
改惠曇字参波周六里有鴛鴦鳧鴨鮒四邊生芦
蒋菅自羪老元年以往荷蕖自然叢生太多二年
以降自然至矣都無莖俗人云其底陶器𤭖[瓦童]等
類多有也自古時々人溺死不知深浅矣
深田池周二百卅歩有鴛鴦
鳧鴨杜石池周一里二百歩
──────────
今山郡家正西一十里二十歩周七里†
今山、郡家の正に西一十里二十歩、周り七里
- 今山…「杠神社」北東の271.8(m) ピークの山であろう。地理院地図(以下参照)
通説では十膳山北方の室山(252.6m)とされる。
・出雲国風土記考証p168「距離と周とより推せば、十膳山の北に隣る所の室山であらう。室山は標高二百六十メートルである。」
・校注出雲国風土記p42脚注「十膳山北方の室山(260米)」
- 都勢野を十膳山とし、今山を室山とする通説の理由・根拠が分からない。出雲風土記抄にはその様な記述はないから、これ以後に誰かによって説が立てられたと考えられる。おそらくは後藤蔵四郎かと思われるが、上述「考証」の内容だけで根拠は薄い。
何より「杠神社」「草野神社」に関する事項を無視している。
- 都瀬野を「杠神社」辺りと考える場合、今山は「杠神社」北東の271.9(m) ピークの山と考えることが出来る。
郡家からの方位は置くとして、距離がほぼ同じで共に「一十里二十歩」と記されていることも得心できる。
各々の「周五里」「周七里」という記述にもほぼ当てはまる。
諸山野ニ所在草木白朮獨活女青苦参貝母牡丹連翹伏苓藍漆女荽細辛蜀椒薯蕷白歛芍藥百部根薇蕨薺頭蒿藤李白桐赤桐椎椿楠松栢槻†
諸の山野に在る所の草木、白朮、獨活、女青、苦参、貝母、牡丹、連翹、伏苓、藍、漆、女荽、細辛、蜀椒、薯蕷、白歛、芍藥、百部根、薇蕨、薺頭蒿、藤、李、白桐、赤桐、椎、椿、楠、松、栢、槻。
- 女青(ジョセイ)…屁糞葛(ヘクソカズラ)のことであろう。臭いが強烈なことでこの名が付けられた。早乙女花(サオトメバナ)・灸花(ヤイトバナ)とも云う。根を乾燥させ下痢止め・利尿剤とする。実を搾ってアカギレなどにも用いる。
・標注古風土記p187では「女靑」と記し(やんた)と読んでいる。
・出雲国風土記考証p168では、「薔薇科の蛇含(きじむしろ)の根も女靑といはれ、茜草科のヘクソカズラも女靑といはれ、いずれも薬とすることが出来るから、その何づれを指したものか知り難いけれども、多分蛇含の根をいふのであらう」と注記している。
・校注出雲国風土記p42では(かばねぐさ)と読み(ヘクソカズラ)の事としている。
- 貝母(バイモ)…笠百合(アミガサユリ)の事。鱗茎を乾燥し咳止めなどに用いる。
- 伏苓(ブクリョウ)…サルノコシカケ科「松塊」(マツホド)の菌核を乾燥し外皮を取り除いた物。利尿剤・鎮静剤として用いる。
- 女荽(ジョイ)…女委、(エミグサ)。甘野老(アマドコロ)の古名。根茎を乾燥させた物を玉竹(ギョクチク)・萎蕤(イズイ)と云い、強精・強壮剤として用いた。老化防止、中風に効くとも云われる。又長期に利用すれば膚を美しくするとも云われることから「女委」と名付けられたのであろうと思われる。
- 蜀椒(ショクショウ)…本来は花椒(カショウ)であるが、日本では山椒(サンショウ)を指す。体温を安定させる作用があり、腹痛などにも用いる。
- 白歛(ビャクレン)…ガガイモのこと。ガガイモ科。カガミとも云う。種子の形が根茎(芋)に似ており、その皮を開くとつるつると鏡面になっているので「鏡芋」(カガミイモ)とも呼ばれる。「ガガイモ」は、これの訛った呼び方であろうと思われる。
種子を「蘿摩子」(ラマシ)と云い強壮薬とする。「蘿」は連なって生える、「摩」は磨く意味であるから、「蘿摩子」と云うのは外側に髭が生え内側が磨かれている種子と云う意味を指すのであろう。
- ブドウ科の鏡草ではない。ブドウ科の鏡草・ヤマカガミは江戸期に入ってきたもので風土記時代には無い。
校注出雲国風土記・出雲国風土記考証では共に「ブドウ科ヤマカガミ」としているが誤りである。
- 芍藥(シャクヤク)…古名を「夷薬」(エビスグスリ)という。今は観賞用に品種改良された華やかな八重咲きのものが多いが、在来の物は一重咲きの日本芍薬と呼ばれるもので、風土記時代はこれを指す。余談だが、いわゆる「立てば芍薬座れば牡丹」と云う時の芍薬は八重咲きの方を指す。
根を乾燥し解熱・鎮痛・止血・消炎などに用いる。又筋肉の状態を整える作用があるとも云われる。「薬」の文字が示すように様々な生薬に配合されて用いられる。
・出雲国風土記考証p170、校注出雲国風土記p42では共に「芍薬」に(エビスグスリ)という読みを充てているが、上述のように(エビスグスリ)は「夷薬」であって、「芍」は(シャク)であり、この読みに(エビス)を充てるのは正しくない。「芍薬」と記してあれば(シャクヤク)と読むべきであり、古名を充てて読むのは混乱を招くだけである。同様の例は多々散見される。
禽獸則チ有鵰晨風山鷄鳩雉猪鹿兎飛猑狐獼猴甫曰上ニ有ルハ飛猑ト飛生鳥之事欤鼯モ鴺モ鸓鼠書。狀如ク蝙蝠ノ大サ如シ鴟鳶 毛色紫赤色暗夜ニ行飛ブ†
禽獸、則ち鵰、晨風、山鷄、鳩、雉、猪、鹿、兎、飛猑、狐、獼猴、有り(甫曰く。上に飛猑とあるは、飛生鳥の事か。鼯も鴺も鸓鼠にも書す。狀は蝙蝠の如く、大きさ鴟鳶の如し。毛色は紫赤色にして暗夜に行き飛ぶ)
- 飛猑(ヒコン)…「猑」は康煕字典によれば「大狗(オオイヌ)」の事を指すが、ここの場合、獣+混で、獣と鳥の混じった動物と云う意味で用いているのではないかと思われる。
- 蝙蝠(ヘンフク)…コウモリ。「蝙」は薄く平べったい事を表し、「蝠」は膨らんだ様子を表す。翼が蝙、胴が蝠、という事であろう。コウモリは古名「加波保利」(カハホリ)の転じた呼び名という。
(カハホリ)の語源は「川守」「蚊屠り」「皮張り」等色々説がある。
蚊を捕食することから「蚊喰鳥」とも呼ばれ、顔が鼠に似ていることから、飛鼠(ヒソ)・天鼠(テンソ)と呼ばれることもある。
- コウモリの古名カハホリについては、「川守」がふさわしいと考える。
家守(ヤモリ)・井守(イモリ)は古くから人の暮らしに有益な生物として親しみを込めて付けられた呼び名だが、コウモリも同様であろう。
音韻説上疑問を示す向きもあるようだが、呼び方は時代や訛で変化するものであり、音韻説などは一時期の根拠にしかならない。
福知山市大江町河守の辺りは古くは「川守郷」として知られ、これを(コウモリ郷)と呼んでいた。
ついでに、「山守」を大己貴神とすることがある。
[川]
位太河源二ツ東水佐鳥根郡所謂多文川是西水ハ源出ル秋鹿郡渡村ヨリ二水合テ南ニ流レ入ル佐太ノ水海ニ†
位太河、源は二つ。(東水は佐鳥根郡の所謂多文川是、西水は源秋鹿郡渡村より出る)二水合て南に流れ佐太の水海に入る。
- 上田秋成書入本k25
「位太川源二東水源出位鳥狼島根郡所謂多久川是也西水源出秋鹿郡渡村二水合南流入佐太水海」
- 出雲風土記抄2帖k36
本文「佐太川源二東水源嶋根郡所謂多久川是也西水源出秋鹿郡渡村二水合南流入佐太水海」
解説「鈔云佐太川ノ水源在リ干東西ニ東ノ水源出嶋根郡多久郷今ノ講武谷ヨリ是レ則多久川也西ノ水源ハ來ル秋鹿郡今ノ中田村ヨリ中田ハ古ノ之渡村ニテ而本郷与宮中之中間之也」
(鈔云、佐太川の水源東西に在り。東の水源嶋根郡多久郷今の講武谷より出ず、是れ則ち多久川也。西の水源は秋鹿郡今の中田村より来る。中田は古の渡村にて本郷と宮中との中間也)
出雲風土記抄を元として次のように修正する。
佐太川源二東水源嶋根郡所謂多久川是也西水源出秋鹿郡渡村二水合南流入佐太水海†
佐太川、源二つ(東の水源は嶋根郡所謂多久川是也。西の水源は秋鹿郡渡村より出る)二水合て南に流れ佐太水海に入る。
- 多久川…講武川に同じ。(嶋根郡で既出)
- 渡村(ワタリムラ)…中田村。今の松江市鹿島町佐陀宮内仲田。
- 佐太水海(サタノミズウミ)…かつてあった湖。
・出雲国風土記考証p170の解説で次のように記されている。「佐太水海は、今の東潟ノ内と西潟ノ内との前身である。その水海の岸は、今の佐陀川の南の口より北約二町反許り北へ行きたるところから、古志の出鼻へ向け、古志の出鼻と、薦津鼻とを結び付ける線より少し北へ灣入し、それから東潟ノ内を大灣形に取り囲んだ部分を含むと思はれる。それが漸く小さくなつて「潟ノ内」といはれて居つたが、其の中を通して佐太川を作られたから、東潟ノ内と西潟ノ内が出來た。」
- 佐陀・佐太…サダともサタとも読まれるが、佐陀は(サダ)と濁音で読み、佐太は(サタ)と清音で読むことにしている。
佐太川は松江藩主7代松平治郷(不昧)の時代、清原太兵衛の建議により1785年より開削が行われ1787年に完成。日本海に通じるようになり、今は佐陀川と呼ばれている。この工事により宍道湖の水位は1(m) 下がり、水害が減り水運及び新田開発の効果が生じた。
「島根の国絵図」9寛永出雲国絵図(出雲之国図)寛永10年(1633)(黒い太線は松江藩時代の郡境)
即水海周七里有鮒水海通入海潮長一百五十歩廣一十歩†
即ち水海の周り七里(鮒あり)。水海は入海に通い、潮の長さ一百五十歩、廣さ一十歩。
山田川原出郡家西北七里湯太南流入入海†
山田川、源は出郡家西北七里の湯太に出て、南に流れ入海に入る。
- 山田川…校注出雲国風土記p43では「秋鹿川」。出雲国風土記考証p167では「友田川」。
- 湯太…
・出雲風土記抄2帖k36解説で「此水源湯大ハ多太郷岡本村ノ山名也」
・出雲国風土記考証p167解説で「今の秋鹿村の本谷を流れる川で、今友田川といふ。湯大は山の名ではない。今の秋鹿村の西北隅である。古寫本に皆湯大とあり、徳川本に湯火とあり、風土記解や訂正風土記に、湯太山と改めて居る。」
・校注出雲国風土記p43注で「同町(松江市秋鹿町)山中の湯谷はその遺称」とある。
- 秋鹿町に「湯屋の奥溜池」地理院地図というのがあり、その辺りかと思われるが不明。
多太川源出郡家正西一十歩女心高野南流入入海†
- 「一十歩」は「一十里」に改める。「女心高野」は「女嵩野」に改める。
多太川、源は郡家の正に西一十里の女嵩野に出て、南に流れ入海に入る。
- 多太川…今の岡本川。川沿に多太神社がある。
・出雲風土記抄2帖k37解説「此川出多太郷大垣村女心高野の山即経大垣村南流入于海也」
太野川源出郡家正西一十三里磐門山出南流入海†
太野川、源は郡家の正に西一十三里の磐門山に出て、南に流れ入海に入る。
- 太野川…大野川であろう。
- 磐門山…大野川上流を辿ると標高150(m) 辺りで山塊の為行き止まる。この山塊を磐門山と呼んでいたのであろうと思われる。地理院地図
一応下に各解説を上げておくが、考証の方は誤りで、校注の方はそこまで辿れるのか不明。
・出雲風土記抄2帖k37の解説「磐門山ハ大野郷本谷村ノ山名也」
・出雲国風土記考証p168の注「今の大野村の内、西の谷を流れる川である。磐門山は標高二百七十一・九メートルの山か」
・校注出雲国風土記p43の注「今の蛇食山(二三五米)であろう」地理院地図
草野川源出郡家正西一十四里大継山南流入入海†
草野川、源は郡家の正に西一十四里の大継山に出て、南に流れ入海に入る。
- 大継山…地理院地図
・校注出雲国風土記p43の注「上大野町の門原山(二七一・九米)であろう」
伊農川源出郡家正西一十六里伊農山南流入入海以上七川並無矣†
伊農川、源は郡家の正に西一十六里の伊農山に出て、南に流れ入海に入る。(以上七川並無矣)
- 伊農山…伊野川は細原北方まで源を辿れるのでこの辺りの何れかの山を指すのであろう。地理院地図
一応挙げておくが、秋葉山を源とすべきかは疑問。
・校注出雲国風土記p43注「伊野町畑の秋葉山(二五四・二米)」
- 以上七川…七川ではないので疑問が出されて来た。
最後に長江川(東長江川とされる)を加えて七川とするが、出雲国風土記考証p172で「日御碕本、徳川本、紅葉山文庫本、藤波本等には長江川を記さず、只割註の七字がある」と記し、長江川の無いものが多いことを記している。
- これについては、佐太川を、佐太川と多久川にわけ七川としたのではないかという事も考えうる。又、東から西に並んで記している最後に長江川を記すという順序には、誰かが後からつけ足したのではないかという疑問がある。
更には西谷川、古曽志川、西長江川等を欠いているのも疑問。
おそらくは、原文には郡家の佐太川以外にも東側の河川についての記述があり、佐陀川と西側のみ残り、東側部分が欠落したのであろう。その後誰かが長江川のみ追記したのだと思われる。
- 並無矣…長江川を追記しているものについては、「並無魚」としているものがある。
これは奇妙な用例で、「並無魚」であるとしても「並」の文字を付ける必然性がない。
佐太水海に「有鮒」と記しているのに、ここで「無魚」とするのは矛盾である。
- 秋鹿郡に流れる主な川は、佐太川・多久川を分けて挙げると十一本であり、元は全てを記述し「以上十一川並無矣」であったものを、郡家東側河川の欠落が起きて後、縦書きの「十一」を「七」に読み変えたのではないかと思われる。「並無矣」は「並び無し」で(他にはない)の意味であろう。「矣」は置き字で読まない。
その後、長江川を追記した頃に「矣」を「魚」に読み替えたのであろうと思われる。
長江川の部分を出雲風土記抄2帖k37から参照しておく。
長江川源出郡家東北九里卅歩神名火山ヨリ南流入于海以上七川並無魚矣†
長江川、源は郡家の東北九里三十歩の神名火山より出て、南に流れ海に入る。(以上七川、並に魚無し)
- 源出○○…これ迄「源は○○に出て」としてきたが、風土記抄には「ヨリ」の添字があるので、ここでは「源は神名火山より出て」としている。
[池]
改惠曇字参波周六里†
字を惠曇に改めし参陂。周り六里。
- 改惠曇字参陂…「(恵伴の)字を惠曇に改めた3つの池」と云うことであろう。佐陀本郷にあったという。
風土記抄で次のように埋め立てにより耕田になっていると云う。
・出雲風土記抄2帖k39解説で「鈔云惠曇参陂周六里ハ今ノ卅六町在ル惠曇郷本郷村ニ水沢之也今ハ埋テ成ル耕田ト矣」
諸本に異同があること等が出雲国風土記考証に纏めて記されている。
・出雲国風土記考証p173解説「武代橋より東四町許り、又志戸の橋より西西北十町許りの處に、池平山といふ小山がある。この東の山の東南麓は即ち元の惠曇陂の西岸である。併し、周六里の六の字は、一の字か二の字の誤りであらう。この邊に周三十六町の池があつては、渡村から流れ來る田の水の通る筋が出來難からう。今は全く池の痕跡がない。都無莖を、有造館本には都無生につくる。惠曇陂の三字を、諸古寫本に「改惠曇字参陂」につくる。風土記解に「惠曇陂改惠曇字奏波周云々」とし、訂正風土記には、割註に、本字惠伴改惠曇字奏として居るが、本文に池の字がない。」とある。
・標注古風土記p191の本文「惠曇池。(本字惠伴。改惠曇字奏)陂周六里」に対し後藤の註で「この割註は、上の池字と共に、訂正風土記のつくりしものにして、古寫本には、大字にて「改惠曇字参陂周六里」とあり。」と更に記している。
- 考証の(周六里の六が一か二の誤り)という説は疑問。風土記時代には渡村(今の仲田)からの流れは佐太川として宍道湖側に流れていた。
江戸期に開削された佐陀川の両岸、武代橋から客戸の辺りまで標高差が殆ど無いことからこの辺りに陂があったのだと思われる。地理院地図
有鴛鴦鳧鴨鮒四邊生芦蒋菅
自羪老元年以往荷蕖自然叢生太多二年以降自然至矣都無莖
俗人云其底陶器𤭖[瓦童]等類多有也自古時々人溺死不知深浅矣†
鴛鴦、鳧、鴨、鮒あり。四邊に芦、蒋、菅、生えり。
羪老元年より以往、荷蕖自然に叢り生うこと太多し。二年以降、自然に都べて莖無しに至る。
俗人の云う、其底に陶器、𤭖、[瓦童]等の類多く有也。古より時々人溺死す。深浅知らず。
- 太多二年以降自然至矣…
・出雲風土記抄2帖k38本文「太多二年以降自然至失」
・訂正出雲国風土記-上-k41で「天平二年以降自然至失」と記し、註で「天平ノ二字旧本誤作大多今改之」と記し改作している。(天平二年は730年)
これに対し、
・標注古風土記p191で、後藤の註に「自然叢生太多。二年以降自然至失。舊本のまゝにて可なり。二年は養老二年なり。」と否定している。
- 都無莖…「莖」は「茎」の旧字。「都」には(すべて)の意味があり「すべて茎無し」。なのだが蓮に茎はあり、意味が掴みがたい。
- 俗人(ゾクジン)…神人(神職)・僧職ではない世俗の人・一般の人。校注出雲国風土記p44では(くにびと)と読んでいるが、飛躍しすぎであろう。「俗物」のような悪いニュアンスを含んだ表現ではない。
- 𤭖(ミカ)…酒を入れる器。出雲風土記抄2帖k38では(チヤウ・カメ)と傍記。
- [瓦童]…瓦(カワラ)の事であろう。
・出雲風土記抄2帖k38では[瓦重]と記し(セン・カハラ)と傍記。
・出雲国風土記考証p169では[瓦重]と記し(モタヒ)と傍記。
・出雲風土記抄p44では[瓦専]と記し(しきかはら)と傍記。[瓦専]は「甎(セン・シキガワラ)」の異体字
- 「二年」の部分、どうにもつながりが悪い。「養老二年」とするのも疑問。というのは、「荷蕖自然叢生太多」で蓮が自然に生い茂ると云うのであるから、その様に蓮が広がるには数年はかかる。一年やそこらで蓮が生い茂る事はない。
白井本では上述のように「自然至矣」となっているが、他書のように「自然至失」なのであれば、その繁った蓮が枯れたという事は、次に記される「俗人云其底陶器𤭖[瓦童]等類多」が、その枯れた原因として、池底に陶片などが多数在り、根茎が伸びなくなって腐食したことを示しているのであろうと思われる。(岩国は蓮根の産地であるが蓮池に物を捨てるのは厳禁である)
つまり、「蓮池が生じたが、人々が陶片等を池に捨てたために蓮が枯れた」と記しているように読み解ける。
してみると、「二年」は訂正風土記の改作したように、「養老」の次の元号「神亀」又次の元号「天平」の「二年」と解するのも妥当と考え得る。(神亀二年は725年。神亀にしなかったのは8年位ではまだ「叢生」と記すには足りぬと考えたのであろう)
又、「古時々人溺死不知深浅矣」と云うのは、蓮池は泥の深い池であり、足を取られ危険でもある。その事を記しているのであろう。
深田池周二百卅歩有鴛鴦
鳧鴨†
深田池、周り二百三十歩(鴛鴦、鳧、鴨あり)
- 深田池…佐太本郷深田の池。地理院地図(地図に指した池は「善坊寺池」という)
・出雲風土記抄2帖k39解説では「沢田池ハ同郷本郷村今ノ深田谷ノ防堤也」となぜか「沢田池」と記している。(本文は白井本と同じ)
杜石池周一里二百歩†
杜石池、周り一里二百歩
- 杜石池(モリイシイケ)…風土記抄では「杜原池」としている。
・出雲風土記抄2帖k38本文で「杜原池周一里二百歩」。k39解説で「杜原池ハ聞ク在リト同処曰畑垣ト所ニ今ハ者無シ跡」(杜原池は同処畑垣という所にありと聞く。今は跡無し。)地理院地図(畑垣)
・校注出雲国風土記p44註で「同佐太本郷の南方にある森の池」と記しているが不詳。
・出雲国風土記考証p174解説で「國造本には杜原池とあり、日御碕本等には杜石池とある。風土記抄に「~略~」とある。風土記考に、今、森堂といつて、大日堂がある。その東西に池がある。東の分をいふであらうとある。思ふに、其の大日堂の東西のものを合わせた大きさであつたらう。志戸の橋と武代橋との中間で、佐陀川の南二町許りの處にある。」地理院地図
- 風土記抄と風土記考で全く違う場所を指しており判断しがたい。
ちなみに、考証の云う「大日堂の東西のもの」と云うのは、東を「森田池」といい、西を「納田池」という。
(白井文庫k24)
──────────
蜂峙池周一里 佐久罗池周一里一百歩有鴛鴦
南入海春則在鯔魚須受枳鎭仁鰝鰕等大小雜
魚秋則在白鵠鴻鴈鳧鴨等嶋北大海惠曇濱廣二里
一百八十歩東南並在家西野北大海即自補至于在家之
間四方並無石木猶白沙之積大風吹時其沙或隨風
雪零或居流蟻散掩覆桑麻即有彫鑿磐壁二所
一所原三丈廣一丈高八尺一所原二丈
二尺廣一丈高一丈其中通川此流入大海川東嶋
根郡也
郡内根
郡也;自川口至于南方田邊之間長一百八十歩廣
一丈五尺源者田水也上文所謂佐太川西流是同所
矣凡渡村田水南北別耳古老傳曰鳥根郡大領社部
-----
臣訓麻呂之祖波蘇等依稻田之澇所彫掘也起浦
之西礒盡楯縫郡堺自毛崎之間濱壁等崔嵬
雖風々静往来船旡由倚泊頭矣自嶋生紫
苔菜御嶋高
六丈周八十歩有松
三株都於嶋礒著穗嶋生海藻凡
北海所在雜物鮎沙魚佐波島賊[魚忍]魚螺貽貝
蚌田蠃螺子石葦[馬茯]子海藻海松紫菜疑海菜
通道通島根郡堺佐太橋八里二百歩通楯縫郡
堺伊農橋一十五里歩
郡司主帳外從八位下勳業早部臣
大領外正八位下勳業刑部臣
──────────
蜂峙池周一里†
蜂峙池、周り一里
- 蜂峙池(ハチジイケ)…佐陀本郷峯谷にあったという池。地理院地図「峰峙池(ミネジイケ)」とするものがある。
・出雲風土記抄2帖k38本文「蜂峙池」k39解説で「蜂峙池ハ是亦同処今ノ峯知池是也」
・訂正出雲国風土記-上-k41本文「蜂峙池」。註で「蜂疑峰誤乎今峰知池是也」
・校注出雲国風土記p44で本文「峰峙池」註で「同佐太本郷の峰谷、池津、峰知田等はその遺称」
・出雲国風土記考証p174で本文「峰峙池」解説で「志戸橋より東北へ直線三町餘の所に善福寺といふ寺がある。その寺の西の田を峯知田といふ。今は池がない」とある。
- 江戸期には「峯知池」と呼ばれる池があったのであろう。
「出雲風土記抄」・「訂正出雲国風土記」のいずれも本文は「蜂峙池」と記しているが、「訂正出雲国風土記」を底本とするとしている「出雲国風土記考証」・「標注古風土記」はいずれも「峰峙池」と記している。底本を挙げていながら何も触れずに改作表記する態度は疑問。
○佐陀本郷の地図に現在の池名を分かる範囲で入れておく(赤字部分)。
佐久罗池周一里一百歩有鴛鴦
南ノ入海ニ春ハ則チ在鯔魚須受枳鎭仁鰝鰕等大小雜魚
秋ハ則チ在白鵠鴻鴈鳧鴨等嶋北大海†
- 「罗」は異体字「羅」に改める。
- 「嶋」は誤記と思われる為「鳥」に改める。
佐久羅池、周り一里一百歩(鴛鴦あり)
- 佐久羅池
・出雲風土記抄2帖k39解説で「佐久羅池ハ亦在リ于同村ニ也」とある。同村と云うのは惠曇郷本郷村を指し、今の佐陀本郷にあたる。
・出雲国風土記考証p174解説で「何處にあつたかわからぬ」とある。
・校注出雲国風土記p44脚注で「同佐太本郷西北の佐久羅谷はその遺称」とあるが不詳。
南は入海にて、春には則ち鯔魚・須受枳・鎭仁・鰝鰕、等大き小さき雜の魚あり。
- 鰝鰕…原文ルビでは右にカウカ、左にヲゝエビ コエビと記している。
秋には則ち白鵠・鴻鴈・鳧・鴨、等の鳥あり。北は大海なり。
- 白鵠(ハッコク)…白鳥のこと。「鵠(コク・クグイ)」は白鳥ともコウノトリとも云われる。大型の白い鳥であるので明確に区別はしていなかったのであろう。(原文ルビではハクコウ)
白鳥は島根県の県鳥であるので白鳥としておく。
(参考までに中国地方の県鳥…広島県はアビ、山口県はナベヅル、岡山県はキジ、鳥取県はオシドリ)
- 鴻鴈(コウノガン)…大きな雁(ガン・カリ)。「鴈」は「雁」の異体字。真雁(マガン)・酒面雁(サカツラガン)などを指しているのであろう。(原文ルビではカウガン・カリ・ナヨシ/ヒシクイ・カリと両側に記している)
惠曇濱廣二里一百八十歩東南並在家西野ノ北大海即チ自補-浦カ至于在家之間ニ四方並ニ無シ石木猶白沙之積†
惠曇濱、廣さ二里一百八十歩。東と南は並に家あり。西野の北は大海。即ち浦より在家に至るの間、四方並に石木無し、なお白沙之を積む。
- 惠曇濱…二里一百八十歩=1390(m) 。西野の北は大海と云うことから、惠曇浜は現在の古浦辺りの海岸であろう。当時は入江が現在より深く入っていたと考えられる。
以下に挙げるように風土記抄の解説では江角濱から眺めて惠曇濱の距離を見渡しているのであるから、惠曇濱は江角濱の対岸に当たると云える。今の古浦浜を中心とする一帯を惠曇濱と呼んでいたのだと考えられる。(標高5mの等高線を辿ると解りやすい)
・出雲風土記抄2帖k39の解説で「惠曇濱廣二里一百八十歩ハ今ノ十九町自江角濱亘眺ノ於古浦ノ漁[マダレ+非]ヲ之路程大度相應セリ之ニ西ハ野北ハ大海自浦至于在家ニ之間トハ者蓋シ指古津浦ノ辺ヲ也」
(惠曇濱廣さ二里一百八十歩は今の十九町。江角濱より古浦の漁靡を亘し眺むの路程大度之に相応せり。西は野、北は大海。浦より在家に至るの間とは蓋し古津浦の辺りを指す也)
「漁」は原文では烈火部分が[大]で俗字を用いている。[マダレ+非]は「靡(ビ)」の略字で岸と云う意味がある。
「漁靡(リョウビ)」は漁師の住む家が広がる岸辺という意味であろう。
「大度(タイド)」は大きさ。
一応挙げておくが、考証の方は風土記抄を読み誤っており、校注の方は論外、というか呆れ果てる。
・出雲国風土記考証p176解説「惠曇濱は江角浦と古浦とを合わせたものである。」
・校注出雲国風土記p45脚注「八束郡鹿島町の惠曇漁港海岸」「西、北は正しくは南と西。大海を北とする主観的記述」
- 「江角」を「惠曇」と地名変更したことが混乱に拍車をかけているようである。
(地理院地図・惠曇濱付近色別標高図)
大風吹時ニ其沙或ハ隨テ風ニ雪零ノ如シ或ハ居テ流蟻ノ如ニ散ル掩覆桑麻ヲ†
大風の吹く時、その沙或いは風に随いて雪のごとく零り、或いは流れ居りて蟻のごとく散り、桑麻を掩覆す。
- 雪零(セツレイ)…「零」は水滴がしたたり落ちる様子を表すが、雪なので上記のように(フリ)と読んでおく。
- 掩覆…覆い隠す。本文ルビでは(ヲゝヒヲゝフ)と各漢字に各読みを振っている。
- 掩覆桑麻…文字通りに読めば、桑や麻の畑を覆い尽くすと云うことであり、養蚕による絹や麻布作りが行われていたことを思わせるが、「桑麻」には「桑麻の交」として人の交流を示す意味があり、「掩覆桑麻」で、人の行き来がままならなくなる状態に及ぶことを含んでいるのであろう。
- 「大風~桑麻」この一文かなり高尚な文であり、読み方に苦心したのかルビが多い。
原文の読み通りでも良いのだが、少々不満もあって個人的好みを加えて読んで置いた。
即チ有リ彫鑿磐壁ノ二所一所原三丈廣一丈高八尺。一所原二丈二尺廣一丈高一丈アリ
其中通ス川ヲ此流入ル大海ニ 川ノ東嶋根郡也郡内根郡也;†
即ち彫り鑿てる磐壁の二所あり。(一所は原三丈、廣さ一丈、高さ八尺。一所は原二丈二尺、廣さ一丈、高さ一丈あり)
- 一所原~…「一所原~」とするものと「一所厚~」とするものがある。「一所原~」では「原」は「元」の意味を表していると考えられる。例えば「一所原三丈」は「一所、元の(磐壁の)大きさは三丈」
「一所厚」の場合、厚が何の厚さを示しているのか少々疑問。磐壁の厚さであろうか?既に鑿っているのであるから、それなら深さ或いは幅とするのではないか?とも思える。この件保留。
三丈=8.91m 一丈=2.97m 八尺=2.376m 二丈二尺=6.534m
・出雲風土記抄2帖k38本文で「磐壁三所(一所厚三丈廣一丈高八尺一所厚二丈廣一丈一所厚二丈高一丈)」
・上田秋成書入本k26で「一所原三丈廣一丈高八尺一所原二丈二尺廣一丈高一丈」
・鶏頭院天忠校正本k26で「一所原三丈廣一丈高八尺一所原二丈二尺廣一丈高一丈」と記し「原」に「厚カ」と傍記
・訂正出雲国風土記-上-k42で「一所ハ厚サ三丈廣サ一丈高サ八尺。一所ハ厚サ二丈二尺廣サ一丈高サ一丈。」
其の中に川を通す。此の流れ大海に入る。(川の東嶋根郡也。郡内根郡也。)
- 川東~…ここも二種に分かれる。後半を「郡内~」とするものと「秋鹿郡~」とするものとがある。「秋鹿郡~」とする方が解りやすいとは思うが保留。
・出雲風土記抄2帖k38本文で「川ノ東ハ嶋根郡西者秋鹿郡内也」
・上田秋成書入本k26で「川東嶋根郡也郡内根部也」
・鶏頭院天忠校正本k26で「川東嶋根郡也内根部也」と記し註で「郡也 下一本有郡字」とある。
・訂正出雲風土記-上-k42で「川ノ東ハ嶋根郡也。西ハ秋鹿ノ郡内也。」
自リ川口至テ于南方田邊之間ニ長サ一百八十歩廣サ一丈五尺
源ハ者田水也上ノ文ニ所謂佐太川西ニ流ル是レ同所ヨリ矣
凡ソ渡村田水南北別ルル耳
古老傳ニ曰鳥根郡ノ大領社部ノ臣訓麻呂ガ之祖波蘇等依リ稻田之澇所彫掘也†
川口より南方に至りて、田邊の間に長さ一百八十歩、廣さ一丈五尺。
源は田の水也。上の文に所謂佐太川是れ同所より西に流る。
凡そ渡村の田水は南北に別るるのみ
古老の伝に曰く。島根郡の大領社部の臣訓麻呂が之祖波蘇等稻田之澇所より彫掘也。
- 「彫鑿磐壁」の「磐壁」は現在何処であるのか不明のままであるようだ。この一連の文の流れから考えると、佐太川の源である渡村の辺りと考えられる。上に池の名を記した地図を挙げたが、そこにある仲田の雨垣池というのが佐太川(佐陀川)の一つの源であり、この池から北に少し流れ東に折れて南下していたのが佐太川であるが、その東に折れる辺りを彫鑿したのがここに記された「彫鑿磐壁」に当たると考えられる。地理院航空地図
今の佐陀川対岸宇杉池南側に小山が二つありこれらは元は仲田側に連なっていたのだと考えられる。そこを彫鑿し、流れの一部を西に通したのであろう。現在掘削のあとが不明なのは、後の江戸期に佐陀川掘削工事が行われ、元の彫鑿場所が更に広く開削されたため失われたのであろう。当時の開削資料を調べれば何か痕跡が記されているかも知れない。
風土記の時代に小さい流れながらも、西への流れが作られていたからこそ、江戸期になって大がかりな佐陀川開削計画が発案実行されたのだと考えられる。
・出雲風土記抄2帖k40解説で「彫鑿磐壁三所者風沙埋テ作ル無何有ト従聞ク在リト古浦ト与江角之中路ニ古今稼穯之道是レ国ノ之本ニ吁波模カ之労可シ思テ見ツ矣」
(彫鑿磐壁三所は風沙埋テ無何有と作る。従聞く古浦と江角の中路に在りと。古今稼穯の道、是れ国の本にして、あぁ波模かの労、思いて見つべし)
意訳しておくと「彫鑿磐壁三ヶ所は何もないところに風の運んだ砂を埋めて作る。古浦と江角の間に水路が残っていると聞く。古今収穫を得ようとする道は国作りの元であり、その為のはるかなる労力を思いながら是をみるべし」つまり、彫鑿した磐壁から池を繋ぐ水路を通し、その池の干拓を行い年月を掛けて農地にしたことを称えている。他書に二所とあるのを風土記抄では三所としているのは、3つ目の彫鑿を下流の武代辺りでも行ったことを指しているのかも知れない。
起リ浦之西ノ礒ヨリ盡楯縫郡堺ニ自毛崎之間濱壁等崔嵬雖風々静往来ノ船旡由倚泊ノ頭ニ矣†
- まずは原文に即して読んでおく。
浦の西の礒より起り、楯縫郡の堺に盡る、毛崎の間の濱壁等より崔嵬しく風々静と雖も往来の船、泊の頭に倚よりなし。
- 浦之西…「惠曇浦の西」即ち今の「古浦の西」
- 楯縫郡堺…
・出雲風土記抄2帖k40解説で「楯縫ノ郡ノ堺自毛埼者伊野浦ノ事也」
- 自毛崎之間濱壁等…原文には「自二毛崎之間濱壁等一」と返り点がある。(訂正出雲風土記も同様)この為上の様に読んだが、続く「至~」が無い。
次節の「楯縫郡」の所ではk27で「目毛埼」と記し秋鹿郡と楯縫郡の境としている。
他書ではこの返り点は誤りとして「自毛埼」とするものがある。
・校注出雲国風土記p45では「自毛埼」に(しものさき)と読みを入れ、脚注で「平田市知合浦の西の牛の首という岬」としている。「埼」という事に拘ったのであろう。(境としては若松鼻の方が正しい)
・出雲風土記抄2帖k39本文
「起浦之西磯盡楯縫郡之堺自毛埼之間濱壁等崔嵬雖風之静往来舩無由停泊頭矣」
(浦の西磯より起ち楯縫郡の堺を起つ自毛埼の間、濱壁等崔嵬風の静と雖も往来の舩泊頭に停るに由無し)
(「磯」と「堺」に「起」に戻る二重返り点がある)
意訳すると「惠曇浦の西の磯から楯縫郡の堺を過ぎ伊野浦までの間、海辺の壁は険しく、風が静かであっても往来の船は港に船の頭を付けることが出来るだけで停泊することは出来ない」
- 古浦から若松鼻まで10(㎞)弱の海岸線だが、この間に「毛埼」或いは「自毛埼」に該当しそうな地名が今に残っておらず、どちらが正しいのか判断しがたい。
自-白カ嶋生紫苔菜†
白島(紫苔菜生う)
- 白嶋…「自嶋」と記し「白か」と傍記している。出雲風土記抄2帖k39本文に「白嶋」とあり「白嶋」と判断。
芦尾の鼻繰島であろう。
・出雲風土記抄2帖k40解説で「白嶋御嶋ハ共に在大野ノ郷魚瀬浦ニ嶋ノ名也」
(白嶋御嶋は共に大野の郷、魚瀬にある嶋の名なり)
・出雲国風土記考証p176で「白島は今の惠曇村と秋鹿村との堺に近き男島をいふか」
・校注出雲国風土記p46脚注で「芦尾海岸の鼻繰島。白い凝灰岩の島である」
- 紫苔菜(ムラサキノリナ・シタイナ)…青海苔(アオノリ)のこと。
御嶋高サ六丈周八十歩有松三株†
御嶋、高さ六丈、周り八十歩。(松三株あり)
- 御嶋…魚瀬の女島。元はこの島に三島神社があった。三島は御島・女島に通じる。今は八神神社の境内社となっている。
魚瀬(オノゼ)は(ウオノセ)の転じた地名であろう。付近に岩場が多く釣りの好適地として知られる。
・出雲国風土記考証p176解説で「今、三島神社がある島であって、女島ともいふ」
・校注出雲国風土記p46脚注で「魚瀬浦の女島」
都於嶋礒†
都於嶋。(礒)
- 都於嶋(ツオシマ)…畑浦東方沖の「沖辻石・灘辻石」の事であろうか。
・出雲風土記抄2帖k40解説で「都於嶋是亦曰ノ同処今ノ大国島ヲ也」
・出雲国風土記考証p173解説で「今の大黒島であって、御嶋より眞西にあたる」
・校注出雲国風土記p46脚注で「知合浦の大黒島」
・古今著聞集巻17(p526/k271)に次の文がある「出雲国秋鹿郡の北の海に、くろしまという小島あり。海草など多くおひけり。天慶三年十二月上旬に、俄に消え失せて見えずなりて、その跡に大きなる石ぞ、その数しらずそばだちてありける。同四年正月下旬に、同國海邊たまをうつこゑ聞えけり。夜明けて見れば、島根郡のさかひより楯縫郡のさかひまで、一町あまりが程こほりを重ねて、塔を作り手ならべたてたりけり。おのゝ高さ三丈あまり、めぐり七八尺ぞありける。後にはきえや失せけん。何のしわざといふことをしらず。おそろしかりける事なり」
天慶三年は940年。この「くろしま」を「都於嶋」或いは次の「著穂嶋」とする説があるようである。
- 地理院地図の空中写真では解らないがgoogle mapでは干潮時の写真を用いており郡の堺に列状の岩場があることが確認できる。
これが「くろしま」の痕なのかも知れない。
googlemap
- 考証・校注の大黒島説は風土記抄の大国島から勘案したものであろうが大国島も大黒島も不明。
御嶋(女島)西方の烏帽子岩という説もあるようである。
著穗嶋生海藻†
著穗嶋。(海藻生う)
- 著穂嶋(ツキホシマ)…伊野浦西方の「二ツ島」のことであろう。
・出雲風土記抄2帖k40解説で「著穂嶋ハ在伊野郷即ス伊野浦ニ二嶋ノ名也」
・校注出雲国風土記p46脚注で「同浦の黒島」同浦は知合浦を指している。
・出雲国風土記考証p173解説で風土記抄と古今著聞集を引用した後、「くろしま」を指して「或いは此の島のことを云ったものではなからうか」と推察している。
凡ソ北海ニ所ノ在ル雜物鮎沙魚佐波島賊[魚忍]魚螺貽貝蚌田蠃螺子石葦[馬茯]本ノ侭子海藻海松紫菜疑海菜†
- 「島賊」は「烏賊」に改める。
- 「田蠃」は「甲蠃」に改める。
- 「疑海菜」は「凝海菜」に改める。
凡そ北の海に在る所の雜物は、鮎、沙魚、佐波、烏賊、[魚忍]魚、螺、貽貝、蚌、甲蠃、螺子、石葦、[馬茯]子、海藻、海松、紫菜、凝海菜
- 鮎…校注出雲国風土記では「鮐(フグ)」としている。鮎と記されたものをフグに変える根拠はない。嶋根郡にて記した通り、鮎は河口付近の海にも生息する。
- 佐波(サバ)
- [魚忍]魚…ウツボか。
・校注出雲国風土記では「鮑魚(アワビ)」としている。
- 「鮑」はアワビであるが、「鮑魚(ホウギョ)」は塩漬け魚のことで、「鮑魚」をアワビとするのは疑問。
- [魚忍]は見ない漢字である。魚の性質を表していると考え、山陰の海で良く見るウツボと推察する。食用になる。
- 貽貝(イガイ)…方言でカラスガイとも呼ぶが、正しくはカラスガイ(烏貝)は淡水産のものを指すらしい。
- 甲蠃(コウライ・ガゼ)…ウニの古名。
- 石葦(セキイ)…マテガイのことであろうか。
- [馬茯]子…不明
・校注出雲国風土記では蠣子(カキ)としている。
- 紫菜…アオサ
- 凝海菜…テングサ
通道通リ島根郡ノ堺佐太ノ橋ヲ八里二百歩
通リ楯縫郡堺伊農橋ヲ一十五里歩本の侭†
通道、島根郡の堺佐太の橋を通り八里二百歩、楯縫郡の堺伊農の橋を通り一十五里の歩み。
郡司主帳外從八位下勳業早部臣
大領外正八位下勳業刑部臣
權任少領從八位下蝮部臣†
(白井文庫k25)
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權任少領從八位下蝮部臣
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「出雲国風土記考証」天平時代秋鹿郡及楯縫郡之図
『出雲国風土記』楯縫郡