『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡『出雲国風土記』嶋根郡2
『出雲国風土記』秋鹿郡『出雲国風土記』楯縫郡
『出雲国風土記』出雲郡『出雲国風土記』神門郡
『出雲国風土記』飯石郡『出雲国風土記』仁多郡
『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記

『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介


『出雲国風土記』秋鹿郡(あいかのこおり)

(白井文庫k21)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-21.jpg

──────────
秋鹿郡
合郷肆里十三  神戸童
 惠曇郷    本字惠伴
 多太郷    今依前用
 大野郷    今依前用
 伊晨郷    本字伊努以郷捌里參
 神戸郷
所以号秋鹿者郡家正北秋鹿日女命唑故云
秋鹿矣
-----
惠曇郷郡家東北九里卅歩須作能乎命御子磐坂
日子命国巡行唑時至唑此處而詔詔此處者国權美
好国形如畫鞆哉吾之宮者是処造事故云惠伴
神龜三年
改字惠曇

多太郷郡家西北五里一百廾歩須佐能乎命ノ御子
衝杵等乎而留比古命国巡行唑時至坐此処詔吾
御心照明正冥成吾者此処靜將唑詔而靜唑故云
多太
大野郷郡家正西一十里廾歩和加布都奴志能命
御狩爲唑時即郷西山持人立給而追猪犀北方上之
──────────

秋鹿郡(アイカゴヲリ)

秋鹿郡

合郷肆里十三  神戸童

合わせて郷四、(里十三) 神戸壹

惠曇郷 本字惠伴

惠曇郷 本字は惠伴

多太郷 今依前用

多太郷 今も前に依りて用いる

大野郷 今依前用

大野郷 今も前に依りて用いる

伊晨郷 本字伊努以郷捌里參

伊農郷 本字は伊努(郷を以て捌く、里參)

神戸郷

神戸郷

所以号秋鹿者郡家正北秋鹿日女命唑云秋鹿

秋鹿と号すゆえんは、郡家の正に北、秋鹿日女の命唑す、故に秋鹿と云う。

惠曇(エトモノ)郷郡家東北九里卅歩

惠曇郷、郡家の東北九里三十歩

須作能乎(スサノヲノ)命御子磐坂日子命国巡時至此處而詔詔此處者国權美好国形如畫鞆(エトモ)哉吾之宮者是ラン事故惠伴(エトモ)神龜三年
改字惠曇

須作能乎命の御子、磐坂日子命、国巡り行ます時、此處に至りまして詔て、此處は国権美好国形画鞆の如しかな、吾が宮は是の処に造らん事を詔す。故に惠伴と云う。(神龜三年字を惠曇に改む)

多太郷郡家西北五里一百廾歩

多太郷、郡家の西北五里一百二十歩

須佐能乎(スサノヲノ)命ノ御子衝杵等乎而留比古(ツキキトヲシルヒコノ)命国巡時至坐此処御心照正冥成吾者此処ラントス而靜故云多太

須佐能乎命の御子、衝杵等乎而留比古命国巡り行き唑す時、此処に至り坐す時詔て、吾が御心正冥(タダシク)成りしと明らかに照り、吾は此処に靜かに將に唑らんとす、と詔て靜に唑す。故に多太と云う。

大野郷郡家正西一十里廾歩

大野郷、郡家の正に西一十里二十歩。

和加布都奴志能命(ワカフツヌシノミコト)御狩()郷西山持人立給而追猪犀北方上之至阿内谷而其猪之跡亡失

和加布都奴志能命、御狩します時、即ち郷の西山に持人立て給う。猪犀を追い北方上の阿内谷に至りて、其の猪の跡亡失(ウセ)り。

尒時詔自然哉猪之跡亡失詔故云内野然今人猶詔大野号耳

時に詔りて、自然(オノヅカラ)なる哉。猪の跡亡失(ウセ)ぬ。詔りし故に内野という。然るに今の人なお詔りて大野と号すのみ


(白井文庫k22)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-22.jpg

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至阿内谷而其猪之跡亡失尒時詔自然哉猪之
跡亡失詔故云内野然今人猶詔大野号耳
伊農郷郡家正西一十四里二百歩出野郷伊
農郷唑赤食仁農意保須美比古佐和氣能
命之居天𤭖津日女命国巡行唑時至唑此處
而詔伊農波夜詔故云足怒伊怒神龜三年
改字伊農

戸里出雲之説名如
意宇郡

佐太御子社 比多社 御井社 垂水社 惠杼毛社
許曽志社 大野津社 宇多貴社 大井社 宇智社
以上一十所
在神祇官
惠曇海邉社 同海邉社 奴多之社 郡牟社
-----
多太社 同多太社 出鳥社 阿之牟社
田仲社 弥多仁社 細見社 下社 伊努社
毛之社 草野社 秋鹿社 以下十五所并
不在神祇官
甫曰自恵曇海辺社
秋鹿社迄十六所見ユル

神名大山郡家東北九里卅歩高卅歩丈周四里
所謂佐太大神社即彼山下之足日山郡家正北一里
高一百七十丈周一十里二百歩 女心高野家正西
壹十里二十歩高一百八十丈周六里土体豐
渡百姓之膏之腴膏腴地
之事欤
園矣旡樹林但上頭在樹
林此則神社也都勢野郡家正西一十里廾
歩高一百一十丈周五里無樹林嶺中在湒周
──────────

伊農郷郡家正西一十四里二百歩

伊農郷、郡家の正に西一十四里二百歩

出野郷伊農郷唑赤食仁農意保須美比古佐和氣能(ニノイホスミヒコサワケノ)命之居天𤭖津日女(ヒメノ)命国巡行唑時至唑シテ此處而詔伊農波夜詔故云足怒伊怒神龜三年
改字伊農

出野郷伊農郷に唑す赤食仁農意保須美比古佐和氣能命の后、天𤭖津日女命国巡り行きます時、此処に至りまして伊農波夜と詔る。故に足怒伊怒と云う。(神龜三年字を伊農に改める)

・出雲風土記抄2-k31本文では
出雲郡伊農赤食伊農意保須美比古位和気能(アカケイスイホスミヒコイワケノ)(キサキ)天𤭖津日女(アメミカツヒメノ)命国巡行坐マス時至坐此處而詔伊農波夜詔故云足努伊努

神戸里出雲之説名如意宇郡

神戸の里(出雲の名を説くこと意宇郡の如し)

佐太御子社 比多社 御井社 垂水社 惠杼毛社

佐太御子社 比多社 御井社 垂水社 惠杼毛社

許曽志社 大野津社 宇多貴社 大井社 宇智社 以上一十所在神祇官

許曽志社 大野津社 宇多貴社 大井社 宇智社 (以上一十所、神祇官在り)

惠曇海邉社 同海邉社 奴多之社 郡牟社

惠曇海邉社 同海邉社 奴多之社 郡牟社

多太社 同多太社 出鳥社 阿之牟社

多太社 同多太社 出鳥社 阿之牟社

田仲社 弥多仁社 細見社 下社 伊努社

田仲社 弥多仁社 細見社 下社 伊努社

毛之社 草野社 秋鹿社 以下十五所并不在神祇官 甫曰自恵曇海辺社秋鹿社迄十六所見ユル

毛之社 草野社 秋鹿社 (以下十五所、並びに神祇官不在)(甫曰く、恵曇海辺社より秋鹿社迄に十六所見ゆる)

神名大山郡家東北九里卅歩本ノ侭高卅歩丈周四里
所謂佐太大神社即彼山下之本ノ侭

足日山郡家正北一里高一百七十丈周一十里二百歩

神名火山、郡家の東北九里三十歩(もとのまま)、高さ三十丈、周り四里。
いわゆる佐太大神の社、即ち彼の山下之なり。(もとのまま)

足日山、郡家の正に北一里、高さ一百七十丈、周り一十里二百歩

・出雲風土記抄2-k34本文で
神名火山郡家東北九里卌歩高二百三十丈周一十四里所謂佐太大神社即彼山下之足日山郡家東北七里高一百七十丈周一十里二百歩
・上田秋成書入本k24で
「神名大山郡家東北九里卅歩高卅歩又周四里所謂作太大神社即彼山下之足日山郡家正北一里高一百七十丈周一十里二百歩」
・風好舎本p033
「神名火山郡家東北九里卅歩高卅丈周四里所謂佐太大神社即在彼山下也足日山郡家正北一里高一百七十丈周一十里二百歩」
注記で(丈一作歩)(一四上有十字)(一里之一●作七」
・鶏頭院天忠校正本k024
「神名大山郡家東北九里卅歩高卅歩丈周四里所謂佐太大神社即彼山下之有足引日山郡家正北一里高一百七十丈周一十里二百歩」
「卅」に「卌」を傍記し、注記で「卌歩 衍字無疑 因恩文字上合有両ヶ数字」
・出雲国風土記考証p165解説で「秋鹿郡中の最も高い山であって、長江川の源であるから、今の朝日山であることは明らかであろう~」
・修訂出雲国風土記参究p265参究で「神名火山は今の朝日山(標高三四一・六米)であろう。~この山は高さ三十丈、周四里となっている写本がかなり多いが、これは脱落か、或いは佐太神社後方の弥山と呼ばれる小山を神名火山に当てようとする人の意によったものと思われる。~」

○通常、神名火山(秋鹿)を朝日山、足日山を経塚山としているのだが、間違っている。
というのは、神名火山の高さが30丈(89m) 或いは30歩(53.5m)と記されているのに、朝日山は341.6(m)であることである。
風土記時代の山の高さ表示はさほど信頼できるものではないがあまりに違いすぎる。
出雲国風土記考証で後藤が朝日山を神名火山とし、加藤がそれに追従したのが今の定説となっている。
後藤は高さから朝日山としているが、その記述の根拠にある長江川の源云々という部分は、古写本にはない記述で、後に記すが、出雲風土記抄で岸埼が勝手に挿入した一文であり、それを根拠に朝日山という事にはならない。
加藤は、人の意によったもの、等と記し、古写本の記述を全面否定しているお粗末さである。
神名火山は高い山でなければならない等というのは、後藤や加藤の思い込み・妄想でしかない。
神名火山というのは、神がなびく山のことであり、神が立ち寄る山・神が降臨する山・神々が集まる山を意味し、山の高さは関係ない。なびくは靡く、即ち揺れることであり、木立が揺れて神の来たことを知らせることからこのような呼び方が生まれた。
「弥山(三笠山)」(98m)は佐太神社の後背にある山だが、これが神名火山であり、出雲国風土記の記述は正しい。地理院地図ここには中腹に母儀人基社という磐境があり、伊弉那美尊の神陵を遷した山と伝える。
ついでに記しておくと、佐太神社の元社地が志谷奥遺跡付近地理院地図という説があり、これを以て朝日山の山下に絡める説があるが、風土記作成の頃には既に現在地に佐太神社はあったのであり、説明の根拠にはならない。
又、「足日山郡家正北一里」と云う記述に関して、足日山が経塚山であるなら、その正南一里は全くの山中であり郡家など在りようがない。

女心高野家正西壹十里二十歩高一百八十丈周六里

女嵩野山、郡家の正に西壹十里二十歩、高さ一百八十丈、周り六里

土体躰カ豐渡百姓之膏之腴膏腴地(コウユノチ)
之事欤
園矣旡樹林但上頭在樹林此則神社(カンヤシロ)

土体豊かに渡り、百姓(オオミタカラ)の膏之腴(膏腴地の事か)園。樹林なし。但し上頭に樹林あり。此れ則ち神の社也。

都勢野郡家正西一十里廾歩高一百一十丈周五里無樹林嶺中在(イズミ)イズミワキイズル周五十歩

都勢野、郡家の正に西一十里二十歩。高さ一百一十丈、周り五里。樹林無く嶺の中に湒在り。周り五十歩。

蘿藤芛茅工物叢生羑或叢峙或伏水鴛鴦住也

(カゲ)藤芛(フジヅル)()、工物叢生羑(ユウニオイシゲリ)、或は叢峙(ソバダチ)、或は伏水(ミズニフセリ)鴛鴦(オシ)住む也。


(白井文庫k23)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-23.jpg

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五十歩蘿藤芛茅工物叢生羑或叢峙或
伏水鴛鴦住也今山郡家正西一十里二十歩周
七里諸山野所在草木白朮獨活女青苦参
貝母牡丹連翹伏苓藍漆女荽細辛蜀椒薯蕷
白歛芍藥百部根薇蕨薺頭蒿藤李白桐
赤桐椎椿楠松栢槻禽獸則有鵰晨風山鷄
鳩雉猪鹿兎飛猑狐獼猴甫曰上有飛猑飛生鳥之事欤鼯
鴺鸓鼠。狀如蝙蝠大如鴟鳶毛色紫赤色暗夜行飛

[川]
位太河源二東水佐鳥根郡所謂多文
川是西水源出秋鹿郡渡村
二水合南流入
佐太水海即水海周七里有鮒水海通入海潮長一百
五十歩廣一十歩山田川原出郡家西北七里湯
-----
太南流入入海多太川源出郡家正西一十歩女心高野
南流入入海太野川源出郡家正西一十三里磐門山南
流入入海草野川源出郡家正西一十四里大継山南流
入入海伊農川源出郡家正西一十六里伊農山南流
入入海以上七川
並無矣

[池]
改惠曇字参波周六里有鴛鴦鳧鴨鮒四邊生芦
蒋菅自羪老元年以往荷蕖自然叢生太多二年
以降自然至矣都無莖俗人云其底陶器𤭖[瓦童]等
類多有也自古時々人溺死不知深浅矣
深田池周二百卅歩有鴛鴦
鳧鴨
杜石池周一里二百歩
──────────

今山郡家正西一十里二十歩周七里

今山、郡家の正に西一十里二十歩、周り七里

諸山野所在草木白朮獨活女青苦参貝母牡丹連翹伏苓藍漆女荽細辛蜀椒薯蕷白歛芍藥百部根薇蕨薺頭蒿藤李白桐赤桐椎椿楠松栢槻

諸の山野に在る所の草木、白朮、獨活、女青、苦参、貝母、牡丹、連翹、伏苓、藍、漆、女荽、細辛、蜀椒、薯蕷、白歛、芍藥、百部根、薇蕨、薺頭蒿、藤、李、白桐、赤桐、椎、椿、楠、松、栢、槻。

禽獸則(クマタカ)晨風山鷄鳩雉猪鹿兎飛猑狐獼猴甫曰上ニ有ルハ飛猑ト飛生鳥(ムサゝビ)之事欤(ムサゝビ)(ムサゝビ)鸓鼠(ムサゝビ)書。狀如ク蝙蝠(ヘンフク)ノ大サ如シ鴟鳶 毛色紫赤色暗夜ニ行飛ブ

禽獸、則ち鵰、晨風、山鷄、鳩、雉、猪、鹿、兎、飛猑、狐、獼猴、有り(甫曰く。上に飛猑とあるは、飛生鳥(ムササビ)の事か。鼯も鴺も鸓鼠にも書す。(スガタ)蝙蝠(ヘンフク)の如く、大きさ鴟鳶(トビ)の如し。毛色は紫赤色にして暗夜に行き飛ぶ)

[川]

位太河源二東水佐鳥根郡所謂多文川是西水ハ源出ル秋鹿郡渡村ヨリ二水合佐太水海

位太河、源は二つ。(東水は佐鳥根郡の所謂多文川是、西水は源秋鹿郡渡村より出る)二水合て南に流れ佐太の水海に入る。

出雲風土記抄を元として次のように修正する。

佐太川源二東水源嶋根郡所謂多久川是也西水源出秋鹿郡渡村二水合南流入佐太水海

佐太川、源二つ(東の水源は嶋根郡所謂多久川是也。西の水源は秋鹿郡渡村より出る)二水合て南に流れ佐太水海に入る。

https://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/satamizuumi.jpg
「島根の国絵図」9寛永出雲国絵図(出雲之国図)寛永10年(1633)(黒い太線は松江藩時代の郡境)

即水海周七里有鮒水海通入海潮長一百五十歩廣一十歩

即ち水海の周り七里(鮒あり)。水海は入海に通い、潮の長さ一百五十歩、廣さ一十歩。

山田川原出郡家西北七里湯太南流入入海

山田川、源は出郡家西北七里の湯太に出て、南に流れ入海に入る。

多太川源出郡家正西一十歩女心高野南流入入海

多太川、源は郡家の正に西一十里の女嵩野に出て、南に流れ入海に入る。

太野川源出郡家正西一十三里磐門山出南流入海

太野川、源は郡家の正に西一十三里の磐門山に出て、南に流れ入海に入る。

草野川源出郡家正西一十四里大継山南流入入海

草野川、源は郡家の正に西一十四里の大継山に出て、南に流れ入海に入る。

伊農川源出郡家正西一十六里伊農山南流入入海以上七川並無矣

伊農川、源は郡家の正に西一十六里の伊農山に出て、南に流れ入海に入る。(以上七川並無矣)

長江川の部分を出雲風土記抄2帖k37から参照しておく。

長江川源出郡家東北九里卅歩神名火山ヨリ南流入于海以上七川並無魚矣

長江川、源は郡家の東北九里三十歩の神名火山より出て、南に流れ海に入る。(以上七川、並に魚無し)

[池]

改惠曇字参波周六里

字を惠曇に改めし参陂。周り六里。

有鴛鴦鳧鴨鮒四邊生芦蒋菅
自羪老元年以往荷蕖自然叢生太多二年以降自然至矣都無莖
俗人云其底陶器𤭖[瓦童]等類多有也自古時々人溺死不知深浅矣

鴛鴦(オシ)(ケリ)、鴨、鮒あり。四邊(シヘン)に芦、(コモ)(スゲ)、生えり。
羪老元年より以往(サキツカタ)、荷蕖自然(オノズカラ)(ムラガ)り生うこと太多(ハナハダオオ)し。二年以降(コノカタ)自然(オノズカラ)()べて(クキ)無しに至る。
俗人の云う、其底に陶器、𤭖、[瓦童]等の類多く有也。古より時々人溺死す。深浅知らず。

深田池周二百卅歩有鴛鴦
鳧鴨

深田池、周り二百三十歩(鴛鴦、鳧、鴨あり)

杜石池周一里二百歩

杜石池、周り一里二百歩


(白井文庫k24)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-24.jpg

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蜂峙池周一里 佐久罗池周一里一百歩有鴛鴦
南入海春則在鯔魚須受枳鎭仁鰝鰕等大小雜
魚秋則在白鵠鴻鴈鳧鴨等嶋北大海惠曇濱廣二里
一百八十歩東南並在家西野北大海即自補至于在家之
間四方並無石木猶白沙之積大風吹時其沙或隨風
雪零或居流蟻散掩覆桑麻即有彫鑿磐壁二所
一所原三丈廣一丈高八尺一所原二丈
二尺廣一丈高一丈
其中通川此流入大海川東嶋
根郡也

郡内根
郡也;
自川口至于南方田邊之間長一百八十歩廣
一丈五尺源者田水也上文所謂佐太川西流是同所
矣凡渡村田水南北別耳古老傳曰鳥根郡大領社部
-----
臣訓麻呂之祖波蘇等依稻田之澇所彫掘也起浦
之西礒盡楯縫郡堺自毛崎之間濱壁等崔嵬
雖風々静往来船旡由倚泊頭矣自嶋生紫
苔菜
御嶋高
六丈周八十歩有松
三株
都於嶋礒著穗嶋生海藻
北海所在雜物鮎沙魚佐波島賊[魚忍]魚螺貽貝
蚌田蠃螺子石葦[馬茯]子海藻海松紫菜疑海菜
通道通島根郡堺佐太橋八里二百歩通楯縫郡
堺伊農橋一十五里歩
  郡司主帳外從八位下勳業早部臣
  大領外正八位下勳業刑部臣
──────────

蜂峙池周一里

蜂峙池、周り一里

○佐陀本郷の地図に現在の池名を分かる範囲で入れておく(赤字部分)。
https://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/sadaike.jpg

佐久罗池周一里一百歩有鴛鴦
南ノ入海ニ春ハ則チ在鯔魚(シギョ)須受枳鎭仁鰝鰕(カウカ)等大小雜魚
秋ハ則チ在白鵠(ハクコウ)鴻鴈(カウガン)鳧鴨等嶋北大海

佐久羅池、周り一里一百歩(鴛鴦あり)

南は入海にて、春には則ち鯔魚(ボラ)須受枳(スズキ)鎭仁(チヌ)鰝鰕(エビ)、等大き小さき(クサグサ)の魚あり。

秋には則ち白鵠・鴻鴈・鳧・鴨、等の鳥あり。北は大海なり。

惠曇(エトモノ)濱廣二里一百八十歩東南並在家西野北大海即自補-浦カ至于在家之間四方並石木猶白沙之積

惠曇濱、廣さ二里一百八十歩。東と南は並に家あり。西野の北は大海。即ち浦より在家に至るの間、四方並に石木無し、なお白沙之を積む。

(地理院地図・惠曇濱付近色別標高図
https://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/etomohama.jpg

大風吹時其沙或雪零(セツレイ)ノ如シ流蟻ノ如ニ掩覆(ヲゝヒヲゝフ)桑麻

大風の吹く時、その(スナ)或いは風に(シタガ)いて雪のごとく()り、或いは流れ居りて蟻のごとく散り、桑麻を掩覆(エンフク)す。

彫鑿磐壁二所一所原三丈廣一丈高八尺。一所原二丈二尺廣一丈高一丈アリ
其中通此流入大海 川ノ東嶋根郡也郡内根郡也;

即ち彫り(ウガ)てる磐壁(イワカベ)二所(フタトコロ)あり。(一所は原三丈、廣さ一丈、高さ八尺。一所は原二丈二尺、廣さ一丈、高さ一丈あり)

其の中に川を通す。此の流れ大海に入る。(川の東嶋根郡也。郡内根郡也。)

川口至于南方田邊之間一百八十歩廣一丈五尺
者田水也上所謂佐太川西同所ヨリ
渡村田水南北別ルル(ノミ)
古老傳曰鳥根郡大領社部(オミ)訓麻呂(クマロ)(トヲツオヤ)波蘇等(ハソラ)稻田之澇所(イナダノロウショ)彫掘也

川口より南方に至りて、田邊の間に長さ一百八十歩、廣さ一丈五尺。

源は田の水也。上の文に所謂佐太川是れ同所より西に流る。

凡そ渡村の田水は南北に別るるのみ

古老の伝に曰く。島根郡の大領社部の臣訓麻呂(クマロ)が之(トヲツオヤ)波蘇等(ハソラ)稻田之澇所(イナダノロウショ)より彫掘也。

浦之西ヨリ盡楯縫郡堺自毛崎之間濱壁等崔嵬雖風々静往来船旡(ヨリ)倚泊

-白カ生紫苔菜

白島(紫苔菜生う)

御嶋(ミシマ)六丈周八十歩有松三株

御嶋、高さ六丈、周り八十歩。(松三株あり)

都於嶋

都於嶋。(礒)

著穗嶋生海藻

著穗嶋。(海藻生う)

北海雜物鮎沙魚佐波島賊[魚忍]魚螺貽貝(イカイ)(ハマグリ)(ライ)螺子石葦(セキイ)[馬茯]本ノ侭海藻(シマモ)海松(ミル)紫菜疑海菜

凡そ北の海に在る所の雜物は、鮎、沙魚、佐波、烏賊、[魚忍]魚、螺、貽貝、蚌、甲蠃、螺子、石葦、[馬茯]子、海藻、海松、紫菜、凝海菜

通道通島根郡堺佐太八里二百歩
楯縫郡堺伊農(イノノ)一十五里歩本の侭

通道、島根郡の堺佐太の橋を通り八里二百歩、楯縫郡の堺伊農の橋を通り一十五里の歩み。

郡司主帳外從八位下勳業早部臣
大領外正八位下勳業刑部臣
權任少領從八位下蝮部臣


(白井文庫k25)
https://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/ifs25.jpg

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  權任少領從八位下蝮部臣
──────────


「出雲国風土記考証」天平時代秋鹿郡及楯縫郡之図
https://fuushi.k-pj.info/jpg/map/izumofudoki_tp_aikatate.jpg


『出雲国風土記』楯縫郡


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Last-modified: 2024-09-27 (金) 00:54:55