『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡『出雲国風土記』秋鹿郡
『出雲国風土記』楯縫郡『出雲国風土記』出雲郡
『出雲国風土記』神門郡『出雲国風土記』飯石郡
『出雲国風土記』仁多郡『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記

『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介


『出雲国風土記』飯石郡(いいしのこおり)

(白井文庫k39)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-39.jpg
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飯石郡
合郷湊  里十九
 熊谷郷      今依前用
 三屋郷      今字三刀屋
 飯石郷      本字伊鼻郷
 多禰郷      本字種
 須伏郷下ニ須佐トアリ  今依前用以上位郷別里参
 波多郷      今依前用
 來嶋郷      今字支自眞以上貳郷別里
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飯石郡

(ゴウ)サト(サウ)ミナト  里十九

合わせて郷七。里十九

  • 湊…[漆]の誤写であろう。[漆]は[七]の当て字

熊谷郷 今依前用

熊谷郷 今も前に依り用いる

三屋郷 今字三刀屋(ミトヤ)

三屋郷 今の字は三刀屋

飯石郷 本字伊鼻(イビ)

飯石郷 本字は伊鼻郷(イビゴウ)

多禰郷 本字(タネ)

多禰郷 本字は(タネ)

須伏郷下ニ須佐トアリ 今依前用以上位郷別里参

須伏郷(下に須佐とあり) 今も前に依り用いる。以上の五郷、別に里参。

  • 須伏郷…「須佐郷」の誤写であろう。
    ・細川家本k50、日御碕本k50、倉野本k51、萬葉緯本k66で「須佐郷」注記はない。
  • 位郷…「伍郷」の誤写であろう。
    ・細川家本k50、日御碕本k50、倉野本k51、萬葉緯本k66で「伍郷」

波多郷 今依前用

波多郷 今も前に依り用いる

來嶋(キジマ)郷 今字支自眞(キジマ)以上貳郷別里

來嶋郷、今の字は支自眞。以上二郷、別に里(二)


(白井文庫k40)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-40.jpg
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所以号飯石者飯石郷中伊毘志都幣命唑故云飯石
之 熊谷郷郡家東北廿六里古老傳云久志伊奈
大美等與麻奴良比売命任身及将産持求所生
之尒時到來此處詔甚久摩久摩志枳谷在故云
熊谷也 三屋郷郡家東北廿四里所造天下
大神之御門即在此所故云三刀矢神亀三年
改字三屋

即有正倉 飯石郡家正東一十二里伊毘志
都幣命天降唑故云伊鼻志神亀三年
改字飯石

多禰郷屬郡家所造天下大神大穴持命與。須
久奈比古奈命巡行天下時稻種随比處故云種
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神亀三年
改字多称
須佐郷郡家正西一十九里神須佐能表
命詔此国者雖小国之處在故我御名者非着本石
詔即己命之御魂鎮置給之然即大須佐田小須佐田
定給故云須佐郷有正倉 波多郷郡家西南一十
九里波多津美命天降生家在故云波多
來嶋郷郡家正南卅二里伎自摩都美命生故
云支自眞神亀三年
改字來嶋
即有正倉
[社]
須佐社     阿邊社  御門屋社   多位社
飯石社以上五所並
在神祇官
 狭長社  飯石社田中社  多加社
毛利社     兎比社  目倉社    井草社
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所以ヘハ飯石(イヒシ)者飯石郷中伊毘志都幣(イヒシトベノ)命唑マス故云飯石(イヒシ)

飯石と号する所以は飯石の郷中に伊毘志都幣命唑す。故に之を飯石と云う。

  • 伊毘志都幣命…「飯石神社島根県雲南市三刀屋町多久和1065 に祭られている。
    • 神國島根」に、この神が「天穂日の子、天夷鳥命云々」等と記してあると紹介しているものがあるが、「神國島根」k83(p133)には、「さて出雲風土記解以來伊毘志都幣命は穂日ノ命の御子大背飯三熊之大人の亦名なるべしと云う説が行はれてゐるが、風土記考には天上より御飯を持降らせ給うた女神といひ、元禄十二年舊藩造営の時の棟札にも御食都命の別稱と見えて居ります。~」と記しており天穂日説を否定している。
      天穂日の子説は内山眞龍の説であり「神國島根」(朝山晧)の説ではない。(元禄12年=1699年)
      ・「出雲風土記解」-下-k02解説で「命を令尒誤本有.伊毘志都幣の御名の意ハ否備鎮米(イナビシヅメ)奈り.()()音便通.穂日命の御子大背(オオセ)三熊之大人(ウシ)の亦名なるべし.~」
      眞龍の妄説が巡り巡って千家参向となり境内案内にも記され、女神が男神に変えられるなどしている。
      「伊毘志都幣命」は記紀に記されていない飯石の固有神であることから、このようなことが生じたのであろう。
      「都幣」については別記する。「都幣」
      「伊毘志都幣」というのは、伊毘志で人々が貢ぎ物を持ち寄り参集し神を祭る場所のことであり、その場所の神が「伊毘志都幣命」であったと理解できる。
      ・雲陽誌飯石郡では「形飯を盛るがごとし、故に其の地を称して飯石という。」と記している。確かに三角おにぎりのような形の石である。
      (飯石神社 神体石)
      https://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/unnan-c/mitoya-t/takuwa/iisi-j/iisi-01.jpg

熊谷郷郡家東北廿六里古老傳云久志伊奈大美等與麻奴良比売(ヒコノ)任身(ハラミテ)
スルニ
ント尒時(ソノトキ)到來(マフキテ)此處(コゝニ)久摩久摩志枳谷(クマクマシキヤ)故云熊谷(クマガヤ)

熊谷郷、郡家の東北廿六里。古老伝へて云う。久志伊奈大美等與麻奴良比売命はらみて、将に産まんとするに及び、もちて生む所を求む。その時此処に到り来て、甚だ久摩久摩しき谷と詔うあり。故に熊谷と云うなり。

  • 熊谷郷(クマタニゴウ)…雲南市木次町上熊谷及び下熊谷のあたり。
    本文上部に「谷」と記され、ガエ・ガ井・ガヤそしてタニと傍記している。関老甫が読みを考察したのであろう。
    本文で「クマガヤ」と読みを振っているが、正しくは「クマタニ」である。
  • 久志伊奈大美等與麻奴良比売命(クシイナダミトヨマヌラヒメノミコト)…ルビは「ヒコ」となっているがヒメの誤り。
    須佐之男命の妻神奇稻田姫命のこととされる。
    上熊谷に「河邊神社(河辺神社)」地理院地図がありこの神を祭っている。
    元社地(やや北方正理の谷奥地理院地図)が比売の出産地と伝える。
    ここで生まれた御子は「清之湯山主三名狭漏彦八島篠命」で同じく「河辺神社」に祭られている。
    「河辺神社」に主祭神として須佐之男命は祭られていないから、出産の時には居なかったのであろう。
    ここに記された「ミトヨマヌラヒメ」というのが比売の本来の名前で、「奇稻田姫」というのは称名であろうかと思われる。
    又、下熊谷の「竝九神社」地理院地図が縁起地であるという説もある。
    • 「久志伊奈大美等與麻奴良比売命」は通常上記のように読まれているが、少々疑問がある。
      素直に読めば(クシイナオオミトヨマヌラヒメノミコト)であろう。[大]を(ダ)と一音で読むのは、「奇稻田姫命」になぞらえるための無理な読み方である。
  • 久摩久摩志枳谷…周辺が樹林に囲まれた静かで薄暗い谷という意味であろう。
    他の古写本では以下のように「久麻久麻志枳谷」と記されているが音をあてているだけなのでこのままにしておく。
    ・細川家本k50・倉野本k51で「久久麻〃志枳谷」(=「久麻久麻志枳谷」)
    ・日御碕本k50で「久〃麻〃志枳谷」(=「久麻久麻志枳谷」)
    ・出雲風土記抄4帖k03本文・萬葉緯本k67で「久麻久麻志枳谷」

三屋(ミトヤノ)ミツヤ郷郡家東北廿四里所造(ツクリマス)天下大神之御門(ミト)此所(コゝニ)故云三刀矢(ミトヤ)神亀三年
改字三屋
正倉

三屋郷、郡家の東北廿四里。所造天下大神の御門、即ち此所にあり。故に三刀矢と云う。(神亀三年字を三屋と改める)即ち正倉あり。

  • 三屋郷…今の雲南市三刀屋町のあたり。斐伊川水系三刀屋川の下流域にあたる。
    三屋神社」がありこれを(ミトヤ神社)と呼んでいる。地理院地図
  • 所造天下大神之御門…大己貴神が八十神を追った後、「青垣内には入れじ」と御門を作ったという。それが三屋神社の辺りと云う。
    三刀屋川川辺は今は田畑や住宅地となっているが、かつては川幅がもっと広く防塞の地として重視されたのであろう。
    それが「御門」と呼ばれた防塞施設の名づけになっているのだと考えられる。
    「御門」を鳥居だという説があるが、鳥居立てたところで防塞には何の役にも立たない。
    「青垣内」というのは神戸川・斐伊川・三刀屋川に囲まれた一帯を指している表現だと考えられ、大己貴命の直轄地を表しているのであろう。

飯石(イヒシ)郡家正東一十二里伊毘志都幣(イヒシトベノ)天降(アマクダリ)マス故云伊鼻志(イヒシ)神亀三年
改字飯石

飯石(郷)、郡家の正東一十二里。伊毘志都幣命天降ります、故に伊鼻志という。(神亀三年字を飯石と改める)

  • 飯石郡家…「飯石郷郡家」のように「郷」が落ちていると思われるが、細川家本・日御碕本・倉野本は白井本と同じく「郷」は無いのでそのままにしておく。出雲風土記抄本文・萬葉緯本では「郷」が付いている。

多禰(タ子ノ)郷屬本ノ侭郡家所造天下大神大穴持()須久奈比古奈(スクナヒコナ)命巡リ下フ天下稻種(イナダ子)随比處故云(タ子) 神亀三年
多称

多禰の郷、郡家に属す。所造天下大神大穴持の命と須久奈比古奈命天下を巡り行きし時、稲種をここに(ノコ)す故に種という。(神亀三年字を多称に改む)

  • 多禰郷(多祢郷)…今の雲南市掛合町多根の辺り。大己貴命・少彦名命を祭る「多根神社」がある。地理院地図
    ルビの[子]は既に記したが、干支の「子(ネ)」
  • 郡家…飯石郡家。今の掛合町郡地理院地図にあったという。
    今は墓所となっている平地があるが、その辺りを中心として在ったのかと思われる。
    https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/iisi/iisi-guuke01.jpg
    ・出雲風土記抄4帖k02解説「鈔曰此郡家多根郷掛合村中今呼曰郡之處」
    ・雲陽誌k117p220「【風土記】に多禰郡家とあるは掛合の内郡といふ所なり」
  • 屬…[属]の異体旧字
  • 随…したがう意味から(残す)と読む。
    ・細川家本・日御碕本・倉野本・出雲風土記抄で「多祢郷」
    ・萬葉緯本で「多禰郷」
    ・鶏頭院天忠本k41で「多[礻尒]郷」

須佐郷郡家正西一十九里。神須佐能表命(カミスサノヲノミコト)此国者雖小国之處リト(カレ)我御名者(アガミナハ)ズト(名カ)命之御魂鎮置(ミタマジヅメオキ)(コゝ)然即大須佐田(ヲフスサダ)小須佐田(オスサダ)故云須佐有正倉

・「本石」は「木石」に改める。

須佐の郷、郡家の正西一十九里。神須佐能表命詔う。此国は小国の処に在りと雖も、故、我が御名は木石に着くに非ずと詔う。即ち己れ命の御魂ここに鎮め置き給う。然に即ち大須佐田小須佐田を定め給う。故に須佐郷という。正倉有り。

  • 神須佐能表命…須佐能袁命・素盞嗚尊・須佐之男命・速須佐之男命等と記される。「須佐神社出雲市佐田町須佐730に祭られている。「須佐神社」では「須佐之男命」が祭神名。
  • 本石…「木石」の誤りであろう。
    ・細川家本k51・日御碕本k51・倉野本k51・出雲風土記抄4帖k05・萬葉緯本k67で「木石」
  • この一文、実は解っているようで良く解らない文である。「我が御名」とあるが、自分の名に[御]をつけるというのも奇妙で、「木石に着くに非ず」というのは木や石を依代としない或いは降臨地名としないと云う意味なのであろうか。判然としない。
    「御魂鎮め置く」というのも、又別に記すが日御碕に「隠ヶ丘」という場所があり、ここに素盞嗚尊は自らの魂を鎮めたという伝説が残っており、日御碕神社の縁起の一つになっており、この一文と整合性がとれない。
    又、「大須佐田・小須佐田」とは何なのかも実は良く解らない。今須佐郷は佐田町にあたるが、「佐田」は「須佐田」から「須」が落ちた地名なのであろうか。「大須佐田・小須佐田」という地名は須佐郷には残っていない。
    軽く読み流すには疑問の多い一文である。(保留)

波多郷郡家西南一十九里波多津美(ハタツミノ)命天降生唑カ家在故云波多

波多の郷、郡家の西南一十九里。波多津美命天降る生家在り。故に波多という。

  • 波多津美命…「波多神社」雲南市掛合町波多344に祭られている。
    社殿の経緯は多少複雑で、元は志許斐(シコビ)山(野田山)地理院地図を神体山としその麓、宮ヶ峠に在ったという。
    その後、承應2年(1653年)洪水のため社地壊滅。現社地後背の山地理院地図を志許斐山と見たてて、現社地に移転したという。
  • 生家…細川家本k51・日御碕本k51・上田秋成書入本k44で「生家」。倉野本k52で「生家」とあり[生]に[坐]を傍記。
    鶏頭院天忠本k41・出雲風土記抄4帖k06本文・萬葉緯本k68で「坐家」。
    「天降生家」というのは少々疑問はあるがそのままにしておく。

來嶋(キシマノ)郷郡家正南卅二里伎自摩都美(キシマツミノ)(アレマス)故云支自眞(キシマト)神亀三年
改ム字ヲ來嶋ト
即有正倉

來嶋の郷、郡家の正南三十二里。伎自摩都美命生れます。故に支自眞という(神亀三年字を來嶋に改む)。正倉有り。

  • 伎自摩都美命…伎自麻都美命。「來嶋神社」 飯石郡飯南町下来島3451に祭られている。大己貴命6世の孫という。
    ・細川家本・日御碕本・倉野本・萬葉緯本・出雲風土記抄・鶏頭院天忠本でいずれも「伎自麻都美命」
  • 波多津美命と伎自麻都美命…津美と都美、同じ読みなのに文字が異なる。「美」を「見」の事だとする説があるが、勝手な変更解釈である。「美」は美称なのであって「見」の意味であるという根拠はない。
    共に「生」で表されるから、人神であり、その土地に生まれた開拓神なのであろう。
    波多津美命の方で、「生家」を「坐処」の誤記とする説があるがこれも根拠はない。あり得るとすれば「天降」とある事から他所で生を受け、この地に暮らしたという意味での「生」なのかも知れない。文字からは秦氏との関係が想起され、「津」を用いているのは海を越えてきたという意味合いがあるのかも知れないが不明。

[社]

須佐社  阿邊社  御門屋(ミトヤ)社  多位社  飯石以上五所並在神祇官

須佐ノ社  阿邊ノ社  御門屋ノ社  多位社  飯石ノ社 (以上五所並に神祇官在り)

  • 阿邊社…「河邊社」であろう。
    雲南市木次町上熊谷1462に「河邊神社(河辺神社)」がある。
    ・細川家本・日御碕本・倉野本・萬葉緯本で「河邊社」
  • 多位社
    ・細川家本・日御碕本は「多位社」
    ・倉野本で「位」に「倍」を傍記
    ・出雲風土記抄4帖k07本文で「多倍社」k08解説で「多倍社者式亦同之是則須佐郷反部村神社也」
    …ここに云うのは佐田町反辺の「多倍神社」 地理院地図だが、元来「須佐神社」の摂社であり疑問がある。
    ・萬葉緯本で「多倍社」。「倍」に「位」を傍記し上部注釈に「和名鈔飯石郡田位郷」
    …田位郷は今の雲南市吉田町田位だがそれらしき神社がない。田位地区にあるのは「深野神社」地理院地図で、後に「深野社」と別記されている。
    ・春満考k58で「多位社 今按位ハ倍の誤奈るへし 延喜式尓多倍神社と有を證と寸」
    ・鶏頭院天忠本k41で「多倍社」
    • 飯南町頓原1636「由來八幡宮」がある。これは源頼朝の命により出雲に八社八幡を創建させた際の4番目の八幡宮で、元は佐古(迫地区)にあったが、文永2年(1265)に大己貴命を祀る「多倍神社」のあった現在地に移転してきたという。
  • これらで解るのは「多位社」と「多倍社」の二種類の写本の系列があることである。
    春満は、延喜式を根拠に「多倍神社」としているが、国宝延喜式巻10出雲国飯石郷に5社挙げられているのを見ると「多倍神社」とはっきり読めるわけではない。
    通説では、岸埼の記述を元に佐田町反辺の「多倍神社」とされているが、上に記したように「多倍神社」は「須佐神社」の摂社であり、普通に考えれば元社名で記すはずである。
    一方「出雲国風土記」飯石郷の郷名由来で「多禰郷(多祢郷)」が記され、ここは郡家に属すとあるのであるから、神祇官に記載が無いというのは訝しい。
    思うに、「多位社(多倍社)」というのは「多祢社」の誤記ではないかと思われる。「位」「倍」「祢」の草体は似通っており、書写の過程における誤記が延喜式神名帳にまで引き継がれたのではないかと思われる。
    反辺の「多倍神社」は須佐之男命の十拳劔を奉る神社で「剣大明神上野神社」と呼ばれていたのがいつの頃からか「多米連」或いは「反辺」の関係から「多米・反辺」→「多倍」と変じたものであろうと思われる。
    ・出雲国風土記考証p292で後藤は「多倍社 反辺の剱大明神であって、須佐能袁命を祀る。上多根の多根神社を多倍社に充てようとするものがあるが、これは明治初年の頃から起つたことである。」
    と記しているが、時期は関係ない。反辺の剱大明神を多倍社に充てようというのは岸埼からで、江戸中期のことでしかない。
    とはいえ、由來八幡宮の元社多倍神社の可能性も否定しがたい。(保留)

狭長(サナガ)社  飯石田中社  多加
毛利社  兎比(トヒ)社  月倉社  井草社

  • 狭長社…「狭長神社」であろう。「天忍穂耳命」を祀っている。雲南市掛合町掛合2136地理院地図
    ・日御碕本k51で「挟長社」
    ・出雲風土記抄4帖k08解説で「狭長社者多根郷掛合村佐長里加都乎大明神也」
  • 飯石社…六重の「飯石神社」であろう。雲南市三刀屋町六重243地理院地図
    ・出雲風土記抄4帖k08解説で「飯石社者飯石郷六重(ムエ)村伊毘津大明神是也」
  • 田中社…白井本ではなぜか小さく記されている。他書では他の神社と同じ大きさで記されている。
    「三屋神社」の近くにある「田中神社」とされる。「大己貴命」を祀っている。 地理院地図
    出雲市佐田町下橋波172に「意富斗能地神・大斗乃辨神」を祭る「波須波神社」 地理院地図があり旧称「田中大明神」で風土記記載の「田中社」であるとしている。又、出雲市佐田町吉野324には「田中神社」 地理院地図がある。
    ・細川家本では「甲中社」
    ・日御碕本では「田中社」
    ・出雲風土記抄4帖k08解説で「田中社者右三刀屋郷安田村田中大明神也」
    ・出雲国風土記考証p358解説で「今の一宮(いちのみや)案田(あんだ)の田中大明神である。大穴持命を祀る。給下(きふした)の一宮より南西へ直線で五町半の處にある。」
    一宮というのは「三屋神社」のことであり、案田というのは出雲風土記抄の「安田村」の事であろう。五町半=約600m
  • 多加社・毛利社…「多加毛利社」であろう。
    ・白井本では「多加社と記しており、疑問を持っているようである。
    ・細川家本k51・日御碕本k51・鶏頭院天忠本k41・出雲風土記解-下-k06・上田秋成書入本k45・出雲風土記全k35で「多加毛利社」(次の「毛利社」はない)
    ・倉野本k52で「多加毛利社」傍記で「多加社」「毛利社」
    ・萬葉緯本k68で「多加社」「毛利社」
    ・出雲風土記抄4帖k07本文で「多加社 毛利社」k08解説で「多加社者三刀屋川上田井郷吉田村杉戸大明神是也 免比社未考 毛利社者三刀屋郷伊加夜村一森大明神是也」
    ・訂正出雲風土記で「多加毛利(タカモリノ)社」(「毛利社」はない)
    ・風好舎敬義筆本k60で「多加社 毛利社」頭注で「多加下一有毛利字」「一本多加社毛利社合而多加毛利社有」
    ・出雲国風土記考証p293解説で「多加(タカ)社 吉田村杉戸谷(すぎとだに)大歳(おほとし)大明神である。大歳(おほとし)命を祀る。訂正風土記には多加毛利社として居る。これは古寫本に一つの(くだり)の終りに多加と書きて、社の字が脱落してあり、その次の行の頭に毛利社があるから、此の二社を一社に誤りたるものであらう。
    毛利(モリ)社 伊萱(いがや)市森(いちもり)大明神である。栲幡千々比賣(たくはたちゝひめ)命を祀る。瓊々杵尊の御母神である。井萱(ゐがや)社と合殿にまつる。」
    ここに云う「大歳大明神」は雲南市吉田町吉田361の「多賀毛利神社」であろう。地理院地図。出雲風土記抄の「杉戸大明神」も同じ。
    又「市森大明神」は雲南市三刀屋町伊萓1096「井草神社」であろう。地理院地図。出雲風土記抄の「一森大明神」も同じ。
    後藤の云う一行の終わりが「多加」となっているという古写本は不明。
    ・修訂出雲国風土記参究p391本文で「多加(たか)社 毛利(もり)社」参究に後藤の説と雲陽誌飯石郡の記述を容れている。
    但し、雲陽誌では「市守明神」については「一森明神か」と疑問を残しているが、これについては参究では触れていない。
  • 多くが「多加毛利社」となっている。いつの頃からか「多加社 毛利社」と分けられたのであろうと考えられる。
    「多加毛利社」がどこの社に当たるかは小考を要する。
  • 兎比社…「兎比神社」があり「足名椎命・手名椎命」を祀っている。雲南市吉田町吉田1023地理院地図
    ・細川家本k51・日御碕本k51・倉野本k52・萬葉緯本k68・鶏頭院天忠本k41で「兎比社」
    ・上田秋成書入本k45で「免比社」
    ・出雲風土記抄4帖k07本文で「免比社」k08解説で「免比社未考」
    ・訂正出雲風土記で「兎比(トヒノ)社」
  • 月倉社…「日倉社」であろう。
    雲南市三刀屋町乙加宮2206に「日倉神社」がある。地理院地図
    「天造日姫命」を祀る。(アメノミヤッコヒメノミコト)と読まれ
    先代旧事本紀・天神本紀で饒速日尊天降りの際の随神32神の一神として記されている「天造日女命」であろう。
    ・細川家本k51・日御碕本k51・倉野本k52・萬葉緯本k68で「日倉社」
  • 井草社…
    雲南市三刀屋町伊萱1096に井草(イガヤ)神社」があり「天津彦火瓊々杵尊・万幡豊秋津師比売命」を祀り、井草社だと称している。

(白井文庫k41)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-41.jpg
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深野社  託和社  上社  葺鹿社 △此所
可有

穴見社  神代社  △此印可合栗谷社  志志乃村社以上十六所
不在神祇官

[山]
焼村山郡家正東一里。穴厚山郡家正南一里。笑村山
郡家正西一里。廣瀬山郡家正北一里。琴引山郡家
正南卅五里二百歩高三百丈周一十一里古老傳云
此山峯有窟裏所造天下大神之御琴長七尺
廣三尺厚一尺五寸又在石神高二丈周四丈尺
故云琴引山

石穴山郡家正南五十八里髙五十丈。咋山郡
家正南五十二里有知
野見不見石以三野並郡家
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南西四十里有紫
佐比賣山郡家正西五十一里
一百四十歩石見與出
雲二国堺
 本書此所
何モ不見
正西四十一里有杉
城垣野、
郡家正南一十二里有菜
伊我山郡家正北一十九里二
百歩。奈倍山郡家東北廿里二百歩凢謂山野所在
草木萆薢外麻當歸獨活大葪黄精前胡藷蕷
自木女荽細辛白頭公白恐赤箭桔梗葛根秦皮
杜仲石斛藤李楊赤桐椎楠楊梅柘楡松柳
蘗楮禽獣則有鷹隼山鶏鳩雉熊猪鹿猿兎狐飛鼯
[川]
三屋川源出郡家正東一十五里多加山北流入于
斐伊川有年
須佐川源於郡家正南六十八里琴
──────────

深野社  託和社  上社  葺鹿社 △此所
可有

穴見社  神代社  △此印可合栗谷社  志志乃村以上十六所
不在神祇官

深野ノ社  託和ノ社  上ノ社  葺鹿ノ社 △此所有るべき
穴見ノ社  神代ノ社  △此印を合すべし栗谷ノ社  志志乃村ノ社 (以上十六所は神祇官在らず)

  • この部分の△印は、他の古写本では「葦鹿社 栗谷社 穴見社」の順になっており、それに合わせるための書き入れであろう。
    以下のように改める。

深野社  託和社  上社  葺鹿社  栗谷社  穴見社  神代社  志志乃村以上十六所不在神祇官

深野ノ社  託和ノ社  上ノ社  葺鹿ノ社  栗谷ノ社  穴見ノ社  神代ノ社  志志乃村ノ社 (以上十六所は神祇官在らず)

  • 深野社…雲南市吉田町深野327「深野神社」であろう。「素盞嗚尊・大己貴命」を祀る。地理院地図
  • 託和社…雲南市三刀屋町多久和1065「飯石神社」の境内社になっている「託和神社」であろう。「吉備津彦命」を祀る。
  • 上社…雲南市吉田町上山459「上神社」であろう。「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命 他」を祀る。
  • 葺鹿社…雲南市吉田町1023「兎比神社」の合殿として祀られている「葦鹿社」
    ・細川家本k52・倉野本k53で「葦廉社」
    ・日御碕本k52で「葦鹿社」
    ・萬葉緯本k68で「葦麻社」(「麻」に「鹿イ」と傍記)
    ・出雲風土記抄4帖k07本文で「葦鹿社」解説で「葦鹿社者同郷吉田村須我谷大明神也」とある。
    ・雲陽誌k119p224、吉田 須我谷で「須我谷 【風土記】に載る葦鹿社此所にあり」と記されている。
    ・出雲国風土記考証p296で「葦鹿(アシカ)社 吉田村須我谷(すがや)大明神。今は神社がない。田の中の大杉を神として祀る。天御中主命をまつる。」とある。
  • 栗谷社…通説では雲南市三刀屋町粟谷949の「粟谷神社」。吉備津彦命を祀っている。地理院地図
    ・細川家本k52で「栗谷社」「栗」は「粟」とも見える。
    ・日御碕本k52・倉野本k53で「栗谷社」
    ・萬葉緯本k68で「粟谷社」
    ・出雲風土記抄桑原本4帖k09解説で「栗谷社者三刀屋郷津大明神也」。国会図書館本4帖k07で「粟谷社三屋郷貴津大明神也」
    ・鶏頭院天忠本k41・上田秋成書入本k45で「栗谷社」傍記で「粟イ」
    ・雲陽誌巻7飯石郡k114p215で「吉備津明神 【風土記】に粟谷社あり是なるへし、縁起なし故に遷坐勧請しれす、」とある。
    ・出雲風土記解-下-k7で「栗一本粟谷社」
    ・訂正出雲風土記-下-k33で「粟谷(アハタニノ)社」
    ・出雲国風土記考証p296で「粟谷(アハダニ)社 栗谷の吉備津大明神。吉備津彦命を祀る。」
    ・修訂出雲国風土記参究p394で「粟谷社(あはだにのやしろ)は風土記抄に「三刀屋郷貴比津大明神なり」とあって、今の三刀屋町粟谷の粟谷神社である。吉備津彦命を祀る。もと村社。 」
    「栗谷社(クリタニ)」がいつの間にか「粟谷社(アワダニ)」に変わっている。
  • 穴見社…島根県雲南市掛合町穴見336「穴見神社」であろう。「大山祇命・国狭槌命」を祀る。地理院地図
    ・出雲風土記抄4帖k09解説で「穴見社者須佐郷穴見村権現宮也」
  • 志志乃村社…飯石郡飯南町八神60「志志乃村神社」。「瀛津島比賣尊(奥津嶋比売命)」を祀る。地理院地図
    ・出雲風土記抄4帖k07本文で「志志乃村社」。k09解説で「志志乃社者波多郷志師村劔大明神事也」

[山]

焼村山郡家正東一里。穴厚山郡家正南一里。笑村山郡家正西一里。廣瀬山郡家正北一里。

焼村山、郡家の正東一里。穴厚山、郡家の正南一里。笑村山、郡家の正西一里。廣瀬山、郡家の正北一里。

  • この部分、郡家から東西南北各一里(=534.6m)にある山を記している。
    郡家から四方をぐるりと見回したときに見える山を記したものであろう。
    郡家が掛合町郡であるなら、東で先ず特定できるのは焼村山で、この山(標高388m)であろう。地理院地図
    西の笑村山は、この山(標高396m)であろう。地理院地図
    北の廣瀬山は、この山(標高283m)であろう。地理院地図
    南の穴厚山は少々特定しがたいが、この山(標高約264m)かと思われる。地理院地図
    又、距離的には少々遠いが、郡家が南に広がっていたとすれば、南方で特徴的なこの山(標高424.6m)地理院地図という気もする。
    ・出雲国風土記考証で焼村山について後藤は出雲風土記抄を引用しているが引用文は正しくなく誤読している。後藤の説を孫引きした加藤もまた同様。

琴引山郡家正南卅五里二百歩高三百丈周一十一里古老傳此山(イワヤ)所造天下大神之御琴長七尺廣三尺厚一尺五寸又在石神(イワガミ)二丈周四丈尺本ノ侭故云琴引山有鹽

琴引山、郡家の正南三十五里二百歩、高さ三百丈、周り一十一里。
古老伝に云へり。此山の峯に窟有り。裏に所造天下大神の御琴、長さ七尺、廣さ三尺、厚さ一尺五寸。
又石神在り。高さ二丈周り四丈尺。故に琴引山と云う。(塩有り)

  • 琴引山…飯南町にある。標高1013.4m。地理院地図
    山頂直下に「琴弾山神社」があり、大国主大神を祀っている。
    • 「琴(コト・キン)」というのは太さの異なる7本の弦を張ったもので柱(ジ)は無い。
      正倉院御物(宮内庁正倉院)に「金銀平文琴」という豪華なものが遺っている。
      https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/iisi/koto.jpg
      又、「檜和琴」という6弦のものや、「桐木琴残欠」という簡素なものも遺されている。
      近年日本で「琴」と呼んでいるものは「箏(ソウ)」であって、「柱」がある。13弦や21弦等がある。
  • 窟…琴引山北麓8合目附近に「琴の岩屋」と呼ばれる「窟」地理院地図があり、傍に祠が設けられている。内部はかなり広く、長さ七尺、廣さ三尺、厚さ一尺五寸の記述にあう「琴」に似た平石があり、これを「大神之御琴」と呼んだのであろう。
  • 石神…2丈(=5.94m)窟と山頂の間にある岩であろう。地理院地図
    https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/iisi-g/iinan-t/kotobiki-m/isigami.jpg
  • 有鹽…山中のどこかに塩の採れる所があったのであろうが不明。
    ・細川家本k52・日御碕本k52・倉野本k53・出雲風土記抄4帖k10本文で「有塩」
    ・萬葉緯本k69で「有鹽」
    ・出雲国風土記解-下-k07本文で「有塩味葛」(味葛に○を傍記)、解説で「~味葛二字補」
    毎度ながら、眞龍による改変が行われ、訂正出雲風土記・出雲国風土記考証・修訂出雲国風土記参究・講談社学術文庫も、眞龍の改変を引き継いでいる。

石穴山郡家正南五十八里髙五十丈。

石穴山。郡家の正南五十八里、髙さ五十丈。

  • 石穴山…五十丈=118.5m、平地との標高差であろう。
    「出雲風土記抄」4帖k10解説で「在来嶋郷赤穴村ニ此ノ山足跨備石雲之城乃鼎分三国之封境山也」とある。
    • 赤穴村は元は飯石郡赤名村。今は来島村と合併し「飯石郡赤来町赤名」
      備石雲三国にまたがる山といえば三国山(796m)であろうが、赤名の標高は440(m)前後であり、三国山では少々高すぎる。
      出雲風土記抄を良く読むと(此の山、足は備石雲の城に跨って乃ち三国の封境を鼎分する山なり)であり、
      出雲風土記抄に云う「三国の封境を鼎分」というのは(三国の境界に当たる地域)という意味であり、国を線引きして分ける「国境の山」とは意味が違うと思われる。
      地元で赤穴山として伝えられるのは今の篝丸(カガリマル)山」689(m) であり、「赤穴八幡宮」の元社「松尾神社」に残る丹塗矢神話で、玉依姫が大山咋神の子、別雷命を産んだのがこの山であると伝える。
      「石穴山」が「赤穴山」に転じたのであろう。赤い石穴があるというが未見。
      「丹塗」と「赤穴」という語から、この山から「丹」が採れていたことを思わせる。
      (篝丸山 山頂三角点)
      https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/iisi/kagarimaruM.jpg
      (過日篝丸山に登ってみたが、登山道は失われており藪漕ぎの連続であった。山頂の三角点は確認できたが樹木が茂り見晴らしも悪く、石穴も確認できなかった。岩は少なく赤土主体の山であった。北西山麓塩谷上に「堂面神社」地理院地図というのがあり、遙拝所のように思われた。)

咋山郡家正南五十二里有知欲

咋山。郡家の正南五十二里(有知欲)

  • 咋山…古写本の多くは「幡咋山(ハタクイヤマ)」。
    ・細川家本k52で「[亻番]咋山」
    ・日御碕本k52・倉野本k53・萬葉緯本k69で「幡咋山」
    「出雲風土記抄」4帖k10本文で「幡咋山~」解説で「幡咋山盖上来嶋郷小田深山也」
  • 知欲…萬葉緯本を除き古写本いずれも「知欲」
    春満考を参考すると「志欲」であり、これは(しほ)すなわち「塩」の事であろう。
    後藤は萬葉緯本(国造家本)により「紫草」を採り、これを加藤や荻原も引き継ぎ通説となっている。
    すぐ後の文で「有紫菜(紫草)」とあるのであるから、誤写ではなく明確に書き分けているのであり「知欲」が「紫草」であるはずはない。むしろ萬葉緯本(国造家本)が誤写であると考えるべきである。
    ・細川家本k52・日御碕本k52・倉野本k53・出雲風土記抄4帖k10本文・鶏頭院天忠本k42・上田秋成書入本k45で「知欲」
    ・萬葉緯本k69で「紫草」
    春満考k58・k59で「今按知欲鹽の可奈書奈るへし 琴引山有鹽と上條よりあるを證とす 古記にハ知の字を志の音尒用ひ来れり」
    ・出雲風土記解-下-k08本文で「有紫草諸本有知欲」解説で「知欲ハ未考」
    (「知欲」が解らないので「紫草」としている。ここで、眞龍が春満考を見ていないことが解る)
    ・訂正出雲風土記-上-p152で「紫草」

野見不見石以三野並郡家南西四十里有紫菜

野見・不見・石以の三野は郡家の南西四十里に並ぶ。(紫菜有り)

  • 野見不見石以…
    ・細川家本k52で「野見不見石以」
    ・日御碕本k52で「野見木見石以」
    ・倉野本k53で、「野見木見石以」、[見]に「一本無」と傍記
    ・萬葉緯本k69で「野見木見石以」
    ・出雲風土記抄4帖k10本文で「野見木見石以」解説で「此等来島郷下来嶋村の山名也」
    ・出雲風土記解-下-k08本文「野見木見石次(イハスキ)」解説で「~石次訓伊波須支磐鉏川も有~」
    ・出雲国風土記考証p299解説で「野見は、上赤名(かみあかな)より東へ越し、眞木(まき)へ下る谷に呑谷(のんだに)といふ谷があるが、この呑谷及び其の下の方の横地(よこち)灰屋(はへや)を合せて野見野といつたものであらう。木見は、赤名川と頓原(とんばら)川との會點に接して、その南にある山を木見(きみ)山といふ。木見野は、此の山及び其の南にかけて云つたものであらう。石次は、下赤名より野萱までの間の野である。其處に岩があつて、高さ六尺ばかり、鋤の形に見える。磐鉏の名は之より起りたるものであらう。」と記している。
    ・修訂出雲国風土記参究p397〔参究〕で「()は木の少ない草山の意であることは前述した。~木見野(きみぬ)は来島の川尻にある木見山(標高四四三・九米)であろう。~」
  • 「呑谷」は元(ノミタニ「野見谷」)で、それが(ノンタニ)に転じ「呑谷」と記すようになったと考えられている。
    が、「呑谷」という地名は猿政山北西にもあり、「野を見る谷」という意味での「野見谷」とするにはふさわしくない地区であり、少々疑問が残る。
    木見山は、来島湖が出来たため良く解らないが後藤と加藤の示す山は異なっているように思われる。加藤の云う山は標高443.9mのこの山(瀬波谷三等三角点)であろうが、後藤の云う木見山が加藤の云う山とすればその南といえば既に湖底になっているが、北及び西にも低地が広がっていたであろうし加藤の示す山とは云えないように思われる。おそらく後藤のいう木見山はかつて赤名川と頓原川の合流点に近い標高421mのこちらの山であろう。 いずれにせよ、呑谷や石次とはかなり距離が離れている。
    石以は今の石次(イシツグ)
    [次]を[以]としているのは[以]の元字[㠯](スキ)による。即ち「石以」は(イシスキ)と読む。
    この地の「今石神社」 地理院地図の御神体とされる磐鉏と呼ばれる岩は伊毘志都幣命の鉏だと云われている。「石以(イシスキ)」というのは、この岩に因む地名であろう。
    思うに、野見・木見・石以は郡家からの距離が等しく並んでいると記されているのであるから、木見だけ離れていると考えるのは訝しい。風土記は地誌であるから、地名を記すに際し出鱈目な順番で記すはずがない。並びの順で考えると、野見と石以が呑谷と石次であるなら木見(不見)はその中間点今の赤名辺りになると思われる。「木見」が「不見」であるなら、(見えず)の意味であるから、丁度今の国道54号線が「く」の字に曲がっていることから、呑見から赤名も石次も見えず、又石次から赤名も呑見も見えずそういう意味で「不見」と呼んだのかとも思われる。
    又、加藤が「野」は木の少ない草山の意という説は疑問。こじつけでしかない。
    そもそも「野」と記されたものを「山」とすることには無理がある。
    ちなみに「雲陽誌」ではk123p232中來島に「野見木見石」の項目があり、「【風土記】に載る村裡の西の山なり、」と記し、今の来島地区三日市の西方の山を示しており、一カ所の山名「野見木見石」で「以」を介詞と判断し(もって)と読み、誤読である。
  • 紫菜…「紫菜」は海藻であるから、「紫草」の誤りであろう。白い花をつけるが根を紫色の染料に用いることから紫草と呼ばれる。
    ・細川家本k52・日御碕本k52・倉野本k53・で「紫草」
    ・萬葉緯本k69で「紫草」[紫]に「芝ィ」と傍記([芝]と記す異本があると云う意味だが未見)
    ・出雲風土記抄4帖k10本文で「紫菜」

佐比賣(サヒメ)山郡家正西五十一里一百四十歩石見()出雲二国

佐比賣山、郡家の正西五十一里一百四十歩。(石見と出雲二国の堺)

  • 佐比賣山…三瓶山。男三瓶山(1126m)、女三瓶山(953m)、子三瓶山(961m)の三峯を中心とし、他に孫三瓶山(903m)、大平山(854m)、日陰山(697m)があり、室ノ内と呼ばれる中央の窪地を取り囲むように並んでいる。出雲国に属するのは女三瓶。
    佐比賣山から三瓶山への名称変更の由来は良く解っていないらしいが、三つの瓶を伏せて置いたような山容によるものだと思われる。
    瓶を伏せて置くのは地主神を鎮める意味があり、実際に瓶を据え噴火や地震を鎮めようとしたことがあり、それを所以としたのかとも思われる。但し、既に記したが三瓶山という呼び名は石見側からの呼び方である。
    (三瓶山 石見側からの遠景)
    https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/iisi/sanbeM.jpg

本書此所何モ不見正西四十一里有杉松

(本書此所に何も見えず)正西四十一里。(杉松有り)

○諸本より「堀坂山 郡家」を補う
・細川家本k52「掘[亻反]山郡家正西卌一里有[扌攵]松
・日御碕本k52「堀坂山郡家正西卌一里有枚松
・倉野本k53 「掘阪山郡家正西卌一里有枚松」[卌]に[卅]を傍記、[枚]に[杉]を傍記。
・萬葉緯本k69「堀坂山郡家正西卌一里有杉松

堀坂山郡家正西四十一里有杉松

堀坂山、郡家の正西四十一里。(杉松有り)

  • 堀坂山…神門郡で既述。標高506.0m地理院地図
    • 後藤は出雲国風土記考証p361で「~標高五百二メートルの山がある。~」と記しているが、付近に標高502mの山というのは見当たらない。位置的には堀坂山を指しているので「五百六」の誤記であろう。加藤も修訂出雲国風土記参究p398参究で(標高五百二米)と記している。確認もせず後藤の既述を模写したのであろう。

城垣野、郡家正南一十二里有菜藻

城垣野、郡家正南一十二里(菜藻有り)

  • 城垣野…諸本に異同がある。
    ・細川家本k52・日御碕本k52で「城恒野家正南十二里」
    ・倉野本k53で「城恒野家正南一十二里」
    ・萬葉緯本k69で「城垣恒ィ山郡家正西南ィ一十二里」
    ・出雲風土記抄4帖k11本文で「城恒野山ィ郡家正西南ィ一十二里」解説で「~是今之民谷村俗呼曰宇山~」
    • 今の雲南市吉田町民谷宇山。地理院地図
      この地には宇山遺跡地理院地図というのがあり、石斧・磨石等が出土しているようである。
      近くに「速玉男命」を祀る「王子神社」 地理院地図があり「石神社」 地理院地図もあることから貴石の得られる地であったのであろう。
      又焼鈩跡地理院地図があり産鉄地でもあったようである。
      加藤は標高766mの山としているが、「城垣野」も「宇山」も山ではなく野であり、谷あいの平地である。
    • 今に残る出雲国風土記の写本に「山」とか「川」等の項目のまとめのような記入があるが、これらは原文にあったものではなく後の時代に誰かが整理するために加筆したものであろう。飯石郡のこの部分では「山野」とすべきもので、そうでないが為に「野」を「山」として比定していくという誤解を生んでいる。
    • 諸本比較すると「野」は「郡」の誤写で「城恒、郡家正南一十二里」が原文で宇山ではないのではないかとも思われるが、そのままにしておく。
      ・春満考k59で「城恒野家正南 今按恒ハ恒(垣)の誤カ 家の上尒郡能字有へし 脱せるか」とある。
      春満は「城垣野郡家正南」ではないかと疑っていたようである。
      (保留)
  • 菜藻…紫草であろう。
    ・細川家本k52・日御碕本k52・倉野本k53・萬葉緯本k69で「紫草」

伊我山郡家正北一十九里二百歩

伊我山、郡家の正北一十九里二百歩

  • 伊我山…今の「峯寺弥山」(299.2m)地理院地図
    ・出雲風土記抄4帖k11解説で「此山ハ三刀屋郷中今ノ伊加夜山是也」
    • 南山麓に「峯寺」が創建されて以降しだいに峯寺弥山と呼ばれるようになったようである。
      山頂は電波塔だらけであるが、北は宍道湖、南は斐伊川流域など眺望は良い。
      「峯寺」…658年役小角創建と伝え、出雲修験の根本道場とされる。真言宗。雲南市三刀屋町給下1381地理院地図

奈倍山郡家東北廿里二百歩

奈倍山、郡家の東北廿里二百歩

  • 奈倍山(ナバイヤマ)…「奈倍山神社」のある山であろう。市杵嶌姫尊・田心姫命・湍津姫尊を祀る。雲南市三刀屋町古城1304地理院地図
    ・出雲風土記抄4帖k11解説で「須佐郷朝原村名梅谷山也 如為此山者非郡家東北乃正北之東字恐西字三写欤」
    と記し、(須佐郷朝原村の名梅谷山であれば郡家東北は西北の誤りとなる)と自信なさげな記述になっている。
    佐田町朝原名梅。名梅谷山は不明。
    ・雲陽誌k120で「名梅谷の山なり」と記している。
    ・出雲国風土記考証p302解説で「今の鍋山村の鍋山。この山に禅定寺(せんぢやうじ)といふ寺がある。」と記し、修訂出雲国風土記参究p399も後藤の説を又引きしている。(加藤は各所で後藤の説を又引きしながらも後藤の説であることを殆ど記しておらず、ここでも後藤からの又引きであることを記していない。)
    雲南市三刀屋町鍋山 山名の「鍋山」は不明だが、後藤の云う禅定寺という寺のある山は禅定寺山(372m)の事を指しているのかもしれない。地理院地図
  • 出雲風土記抄・雲陽誌の名梅谷山説では方位が合わない。
    後藤の鍋山説では三屋郷の記述で「郡家東北廿四里」とあることを考えると鍋山は郡家と三屋の中間に位置しこれも距離・方位ともに合わない。
    風土記記載の山は地域の最も標高の高い山に相違ない。という勝手な憶測が行われていることが多々あるが、国土地理院の調査が行われるまで山の高さは正確には解らなかったのであり、鍋山地区から見えない禅定寺山が鍋山であろうはずがない。
    そもそも「倍」は(バイ)であり(ベ)という読みは特殊な訛った読みである。安倍(アンバイ→アベ)
    岸埼は名梅(ナメ・ナバイ)の読みから名梅谷と推測したのであろうと思われるが、後藤の鍋山(ナベヤマ)説は無理がある。
    「鍋山」というのは各地にあるが、概ね鍋をひっくり返した形状の山を呼ぶ。参考までに津和野町の「鍋山」(614m)地理院地図 円錐の頂部を切り取ったような形状である。
    ちなみに「禅定寺」は山号を慶向山と云い、天平年間(729~749)行基による開山と伝える。天台宗。雲南市三刀屋町乙加宮1874
    (尚、禅定寺山門近くには、加藤の記述を真に受けたのであろう案内板があり、禅定寺山は鍋山で奈倍山だと記しているが根拠はない)

凢謂山野所在草木萆薢外麻當歸獨活大葪黄精前胡藷蕷自木女荽細辛白頭公白恐赤箭桔梗葛根秦皮杜仲石斛藤李楊赤桐椎楠楊梅柘楡松柳蘗楮
禽獣則有鷹隼山鶏鳩雉熊猪鹿猿兎狐飛鼯

・細川家本k52k53で「凢諸山野所在草木早解升麻當皈独治大薊黄精前胡暑預白朮女委細辛白頭公白恐赤前桔梗葛根秦皮杜仲石斛藤李榲赤桐椎楠楊梅槻柘楡松榧蘗楮 禽獣則有鷹[岳]鶏鳩雉熊狼猪廉菟[犭旀]飛鼯」
・日御碕本k52k53で「凢諸山野所有草木旱解升麻當皈独活大薊黄精前胡暑預白木女委細辛白頭公白恐赤箭桔梗葛根秦皮杜仲石斛藤李榲赤桐椎楠楊梅槻柘楡松柘蘗楮 禽獣則有鷹隼鶏鳩雉熊狼猪廉菟[犭旀]飛鼯」
・倉野本k53k54で、「凢諸山野所有(在)草木旱解升麻當皈独活大[荕](薊)黄精前胡暑預白朮女委細辛百白頭公白恐赤前(箭)桔梗葛根[秦]皮杜仲石斛藤李榲(榴)赤桐椎楠楊梅[木矢見]柘楡松[木非]蘗楮 禽獣則有鷹[岳](隼山)鶏鳩雉熊狼猪廉菟[扌旀](猴)飛鼯」
・萬葉緯本k70k71で「凢諸山野所在草木萆薢升麻當歸獨活大薊黄精前胡暑蕷白朮女委細辛白頭公白恐赤箭桔梗葛根秦皮杜仲石斛藤李椙(榴)赤桐椎楠楊梅槻柘楡松柳榧蘗楮 禽獣則有鷹隼山雞鳩雉熊狼猪鹿兎獼猴飛鼯」
・出雲風土記抄4帖k12本文で「凢諸山野所在草木旱解升麻當帰独活大薊黄精前胡暑預白朮女委細辛白頭公白恐赤箭桔梗葛根秦皮杜仲石斛藤李榴赤桐椎楠楊梅槻柘楡松柳榧蘗楮 禽獣則有鷹隼山雞鳩雉熊狼猪鹿兎猕猴飛鼯」

この部分異同が多い為、古写本比較し以下のように修正する。

凢諸山野所在草木萆薢升麻當歸獨活大葪黄精前胡藷蕷白朮女荽細辛白頭公白恐赤箭桔梗葛根秦皮杜仲石斛藤李榲赤桐椎楠楊梅柘楡松柳蘗楮
禽獣則有鷹隼山鶏鳩雉熊猪鹿猿兎狐飛鼯

およそ諸山野に所在の草木は、萆薢、升麻、當歸、獨活、大葪、黄精、前胡、藷蕷、白朮、女荽、細辛、白頭公、白恐、赤箭、桔梗、葛根、秦皮、杜仲、石斛、藤、李、榲、赤桐、椎、楠、楊梅、柘、楡、松、柳、蘗、楮

  • 大葪(オオアザミ)…山薊(ヤマアザミ)とも云う。高さ1m以上になる薊。葉に棘があるが腫れ物に効くという。根は強壮・解毒・利尿薬として用いる。
  • 白頭公(ハクトウコウ)…翁草(オキナグサ)の事。根を下痢止めに用いる。白頭翁とも記す。
  • 白恐…白い花をつける恐ろしい植物の意味であろうか。であれば出雲の山野に自生する「馬食ワズ」とも呼ばれる仙人草(センニンソウ)であろうかと思われる。葉の汁が皮膚につくとただれをおこす。扁桃腺の治療に用いられたともいう。
    ・春満考k59で「白恐 今按恐ハ惹の誤カ 白惹は和名マタフリ」
    ・出雲風土記解-下-k09で「白芨」
    ここでも眞龍による改変が行われているが、なぜ白芨(ビャクキュウ)なのかについては触れず、白芨についての長い解説がある。
    [恐]の音(キョウ)に近い事により[芨](キュウ)としたのかと思われるが、字体は全く異なる。
    訂正出雲風土記も「白芨」とし、後藤も加藤も荻原もこれを引き継ぎ通説となっているようであるが、上に示したように古写本は全て「白恐」である。
    改竄されたものについて解説するのも愚かしく思うが、一応記しておくと「白芨」は紫蘭のことであり花は紫色で、漢方に用いる球茎が白色であることから漢方名で「白芨」という。植物名ではない。止血・喀血に用いる。一部白花をつけるものもありこれはシロバナシランという。
  • 赤箭(セキセン)…鬼矢柄(オニノヤガラ)のこと。古名を神の矢(カミノヤ・加美乃也)という。1m近くに直立する赤みを帯びた茎が矢のように見えることからこの名がある。箭は矢のこと。蘭科の植物でナラタケと共生する。初夏に黄褐色の花をつける。
    茎には滋養・強壮・鎮静・鎮痛の薬効がある。
    根茎を天麻といい胃アトニー・胃腸虚弱・胃下垂に薬効がある。
  • 秦皮(シンピ)…梣(トネリコ)のこと。樹皮を乾燥させ、それを水に浸け解熱・咳止め・鎮痛・下痢止めなどに用いる。
  • 榲(スギ)…杉の事。古写本では「榧」としているものもあるがこの地域には古杉が多く見られるので一応「榲」としておく。簡体字は「椙」。
    神話では須佐之男命がその髭を抜いて生じたのが杉で、船の用材に良いと伝えたという。出雲では大社造りの本殿に杉を用いているものが多く、本殿を船とみなしているのだと考えられる。
    ついでに記すと、須佐之男命が胸毛を抜いて生じたのが檜で、住居に良いと伝えたというのであるから、檜作りの本殿は神の住居とみなしているのであろう。
    神功皇后の三韓征伐において船の用材として楠(樟)が集められたが、須佐之男命が眉毛を抜いて生じたのが樟であり、樟も船の用材によいと伝えたという。
    又、須佐之男命が尻毛を抜いて生じたのが槙であり、これは棺に良いと伝えたという。
    余談だが、出雲風葬説というのがあるが、棺に触れているのでこの説は疑わしい。

禽獣、すなわち鷹、隼、山鶏、鳩、雉、熊、猪、鹿、猿、兎、狐、飛鼯あり。

既述分:『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介

[川]

三屋川源出郡家正東一十五里多加山北流入于斐伊川有年魚

三屋川、源は郡家の正東一十五里多加山に出て、北に流れ斐伊川に入る。(年魚あり)

  • 三屋川…三刀屋川
  • 多加山…今の大万木山(オオヨロギサン)(1218m)とされる。
    ・出雲風土記抄4帖k12解説で「多加山備雲二国之堺吉田村杉戸谷之俗呼伊都礼山是也」とある。
    ・野津風土記p165注によれば横山永福は「出雲国風土記考」で「源は郡家の正東にあらず南なり」と記し東は南の誤りとしていたようである。
    ・標注古風土記k83注で「正東之東蓋南字謬」とある。
    ・出雲国風土記考証p304解説で「三刀屋(みとや)川の源は大萬木(おほよろぎ)山、俗に吉田の土手(どて)山といふ山である」とある。
    • 「多加毛利社」の稿で触れたが、大万木山は三刀屋川本流ではなく支流の吉田川上流にあり、大万木山北麓に水源を持つ。
      大万木山山頂付近の水源は出雲側から見れば三刀屋川や吉田川ではなくむしろ神門川(神戸川)支流の頓原川の水源となっている。
      三刀屋川本流を辿るとその水源は今の「沖の郷山」(957m)地理院地図あたりになる。この山名は隠岐に流されていた後鳥羽上皇に縁を持つ山名であるがこの山が古くは出雲風土記に云う「多加山」なのではないかという思いが残る。そうであるとすれば「多加毛利社」の縁起はどうなるのかという別の疑問が生じてしまうのでなかなかに判断つけがたい。
      大万木山にせよ沖の郷山にせよ、郡家の正東には当たらず、誤写か欠文があったのかと思われ疑問が残る。
      (保留)

須佐川源於郡家正南六十八里琴引山綱乘嶋波々多須仇等(スキトウノ)三郷神門(カンド)門ト在立村此所謂神門(カンドノ)河上有年魚

・細川家本k53「須佐川源於郡家正南六十八里琴引山比流経乗嶋波〃多須佐等三郷入神門郡門立村此所謂神門河上有年魚
・日御碕本k53「須佐川源於郡家正南六十八里琴引山北流經乗嶋波〃多須佐等三郷入神門郡門立村此所謂神門河上有年魚
・倉野本k54 「須佐川源於郡家正南六十八里琴引山北流經乗嶋波-多須佐等三郷入神門郡門立村此所謂神門河上有年魚
・萬葉緯本k70「須佐川源出郡家正南六十八里琴引山北流經來島波多須佐等三郷入神門郡門立村此所謂神門川河上也有年魚
・出雲風土記抄4帖k12「須佐川源於郡家正南六十八里琴引山北流經來嶋波多須佐等三郷入神門郡門立村此所謂神門川上也有年魚

・諸本を比較し、次の点を改める。
綱乘→経來、須仇→須佐、間立村→門立村

須佐川源於郡家正南六十八里琴引山北流経來嶋波多須佐等三郷入神門郡門立村此所謂神門河上有年魚

須佐川、源は郡家の正南六十八里に於て、琴引山の北を流る。來嶋・波々多・須佐等の三郷を経て神門郡門立村に入る。此所を神門の河上と謂う。(年魚あり)

  • 源於…古写本はいずれも「源於」である。「源出」ではない。これは、水源を此所だと特定できないためにこのように[於]を用いているのだと思われる。
    「日御碕本」k54では[於]に(ヨリ)とルビを振っている。
    「出雲風土記解-下-」k10で眞龍は「源出」と改変し、「訂正出雲国風土記」でも「源出」に改変している。
    後藤も加藤も荻原も解説無く「源出」に改変している。後藤の場合は底本を「訂正出雲風土記」としているから解らぬでもないが、加藤と荻原は底本を細川家本と記しているにも拘わらず、実際には細川家本を底本としていない事が解る。
  • 此所謂神門河上…ここで指す「此所」は「來嶋波多須佐等三郷」であり、「門立村」を指しているわけではない。
    すなわち、「神門河上」というのは立久恵峡の上流地域という意味を示している。
    既に触れたが、訂正出雲風土記では「神門郡門立村」を「神門郡大門立村」と改変しているが古写本にその様な例はない。
  • 今「須佐川」と呼ぶのは神門川(神戸川)の支流、須佐神社の傍を流れる川であり、流域は短く波多川と合流し神門川(神戸川)に注いでいる。波多川は波多地区を流れているが、上刀根辺りを源とし琴引山に迄は到っていない。
    琴引山北麓から流れ出る川は一つは敷波川で頓原川に合流し、更に神門川(神戸川)に合流している。又一つは佐見川で、これも神門川(神戸川)に合流している。琴引山南麓を流れるのは灰屋川・小田川で、共に神門川(神戸川)に合流している。
    これらから、風土記に云う「須佐川」というのは神門川(神戸川)の事であると考え得る。
    次に磐鉏川(赤名川)を別記していることから、本流は小田川と考えていたのであろう。
    「六十八里」という記述は小田川最上部からの行程を示しているのだと思われる。
    この水源から下流に改めてたどっていくと来島・志津見と進み、橋波を通る。ここには「波須波神社」という古社があり祭神は「意富斗能地神・大斗乃辨神」という古事記に記載のある神格である。(神代七代の五代目)(書記では「大戸之道尊・大苫辺尊」)地理院地図
    元は宮之部山中にあったが麓に遷座し「田中大明神」と称し「出雲国風土記」飯石郡記載の「田中社」であると伝えている。
    白井本を含め、古写本には「乗嶋波〃多須佐等三郷」とあり、この内の「波〃多」の部分を通常「波多」と解しているわけだが、
    「波〃多」即ち「波波多」は「波須波」と「波多」が混交してしまったのではないかという疑問がある。
    後に「波多小川」を別記していることから、ここに云う「波〃多」は「波須波」と考えられる。
    この部分、「出雲国風土記」神門郡の神門川の既述と非常に似ているが微妙に違う。
    神門郷を流れている場合に「神門川」と呼び、飯石郷を流れている場合を「須佐川」と呼び分け、記述も各郷中の部分を重視して記述したものであろう。

(白井文庫k42)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-42.jpg
──────────
引山北流綱乘嶋波々多須仇等三郷入神門
郡間立村此所謂神門河上有年
盤鉏川源於郡
家西南七十里箭山北流入須佐川有年
波多小川源
於郡家西南二十四里志許斐山北流入須佐川有鉄
飯石小川源於郡家正東一十二里佐久礼山北流入三屋
有鉄通道通大原郡堺斐伊川邊二十九里壹
百八十歩通仁多郡堺国堺泉川邊廿二里通神門
郡堺與曽紀村廿八里六十歩通同郡掘故山廿
一里通備後国惠宗郡今惠
蘓郡
堺荒鹿坂卅九里二百歩
經常
有剰
通道通三以郡三坂八十一里經常
有剰
波多々經佐
甫曰備後国十四郡 安那 深津 神石 奴可 沼隈 品治 葦田 甲奴 三上 惠蘓 世羅 三谿 三次 御調
-----
經剰但志都志都美經以上三經常元剰但當有
政時權置耳並通備後国之
       郡司主張旡位置首
       大領外正八位下勲業大弘造
       少領外従八位出雲臣

──────────

盤鉏川(バンシヨガワ)出カ郡家西南七十里箭山ヨリ須佐川有年魚

盤鉏川、源は郡家西南七十里箭山より於て、北へ流れ須佐川に入る(年魚あり)

  • 盤鉏川…「磐鉏川」の誤写であろう。今の赤名川。白井本ではバンショガワと読みを振っているが「イワスキガワ」が正しい。

波多小川源於ヨリ郡家西南二十四里志許斐山北須佐川有鉄

波多小川、源は郡家西南二十四里志許斐山より於て、北へ流れ須佐川に入る。(鉄あり)

  • 波多小川…波多川のこと。
  • 志許斐山…既述。今の野田山(722.7m)。地理院地図

飯石(イヒシ)小川源於ヨリ郡家正東一十二里佐久礼山北三屋(ミトヤ)ミツヤ有鉄

飯石小川、源は郡家正東一十二里佐久礼山より北へ流れ三屋川に入る。鉄あり。

  • 飯石小川…飯石川のこと。多久和川ともいう。
  • 佐久礼山…奥山の南にある花立山のことであろう。標高528.3m
    ・出雲風土記抄4帖k14解説で「佐久礼山在于六重村俗呼曰多伎坂山是也」
    ・出雲国風土記考証p306解説で「佐久禮山は、今の飯石村の六重(むへ)と吉田村の菅谷(すがや)との境にある山であろう」と記し、特定はしていないがこの山(標高510m)と考えていたのかと思われる。
    ・修訂出雲国風土記参究p402参究で「佐久礼山は、六重東南境の山(標高四八〇米余)であろう。」と記している。
    この附近で標高480mの山というのは、この山だけであるが、これは上記花立山の北稜峰であり、水源の山とするにはふさわしくない。

通道 通大原郡堺斐伊川邊二十九里壹百八十歩
仁多郡堺国堺本ノ侭泉川邊廿二里
神門(カンド)與曽紀(ヨソキ)廿八里六十歩
郡掘故山廿一里
備後惠宗(エソ)惠蘓郡堺荒鹿坂卅九里二百歩經常有剰本ノ侭

通道。大原の郡の堺には、斐伊川邊を通り二十九里壹百八十歩。

・出雲風土記抄4帖k14解説で「従下熊谷村大原郡斐伊川之渡口也」
今の簸上橋と熊谷大椅の間辺りに斐伊川の渡船場があったと思われる。飯石郡家からこの渡船場までの道であろう。

仁多郡の堺には、国堺もとの侭泉川邊を通り廿二里。

・細川家本k53で「通仁多郡堺温堺泉河辺廿二里」
・日御碕本k53で「通仁多郡堺温堺泉川辺廿二里」
・倉野本k54で「通仁多郡堺温堺泉川辺廿二里」
・紅葉山本k44で「通仁多郡堺温堺泉川邊廿二里」
・出雲風土記抄4帖k14本文で「通仁多郡堺温泉川辺ニ廿二里」
・萬葉緯本NDLk72で「通仁多郡堺温泉川邊廿二里」

  • 仁多郡堺国堺泉川邊…古写本に異同があるが、出雲風土記抄で修正されているように「仁多郡堺温泉川辺」が妥当であろう。
    (古くは「温堺泉」と呼ばれていた可能性も否定は出来ないが例がない)
    ここに云う「温泉」は今の出雲湯村温泉。(風土記の時代に湯村は仁多郡であった)地理院地図
    通道は飯石郡家から「神代神社」脇を通り湯村に抜ける道であったのであろう。

神門郡の堺には、與曽紀村を通り廿八里六十歩。

・日御碕本k53では「神門郡の堺と曽紀村を通じて三十八里六十歩」と読むようにしており、「與(与)」を助詞「と」としている。
・紅葉山本k44でも「與」を助詞としている。

同じ郡には掘故山を通り廿一里。

  • 掘故山…堀坂山の誤りであろう。
    ・細川家本k53・日御碕本k53で「堀故山」
    ・倉野本k54で「堀故山」、[故]の左側に[坂]を傍記
    ・萬葉緯本k65・萬葉緯本NDLk72・出雲風土記抄4帖k14本文で「堀坂山」

備後の国惠宗郡(今の惠蘓郡か)堺には荒鹿坂を通り卅九里二百歩。(經常に剰あり。もとの侭

・細川家本k53「通備後国惠宗郡堺荒廉坂卅九里二百歩(経常有剰)」
・日御碕本k53「通備後国恵宗郡堺荒鹿坂卅九里二百歩(經常有到)」
・倉野本k54「通備後国惠宗郡堺荒廉坂卅九里二百歩(經常有到[案+刂])」
・出雲風土記抄4帖k14本文で「通備後国惠宗郡堺荒鹿坂卅九里二百歩(經常有[案+刂])」
・萬葉緯本NDLk72「通備後國惠宗郡堺荒鹿坂卅九里二百經路欤常有剗」

  • 恵宗郡…広島県北部。今の庄原市の一部。山内・比和・口和・高野地区にあたる。(恵蘇郡→比婆郡→庄原市と合併変遷)
     
    ・(「藝藩通史」掲載「恵蘇郡全図」)
     https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/iisi/esogunzenzu-a.jpg
    ・(上図部分拡大図)
     https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/iisi/esogunzenzu-a1.jpg
    ・図の点線部分が通道である。「七日迷山(大万木山)」と「毛無山(和名原)1155(m) 」の間を通っており、現在の大貫峠を通る道であるが杉戸篠原林道も草峠林道も記されていない。草峠 地理院地図
    尚、現在の杉戸篠原林道は近年整備されたもの(消費税導入を行った竹下登内閣時代)で、元は峠の駐車場地理院地図から毛無山展望所地理院地図に向かう途上に分岐路がありそこを下る道であった。(現在の地理院地図には載っていない)

・「出雲風土記抄」4帖k14本文で「備後国惠宗郡堺荒鹿坂卅九里二百歩(經常有[案+刂)」
k15解説で「備後国恵宗郡郡荒廉坂卅九里二百歩者今六里廿一町廿間多祢郷吉田村与備後国篠原之堺也和名鈔以吉田村曰田井郷」
とあり、(吉田村から篠原を結ぶ通路であった)と記しており、これは、吉田-梅木-杉戸-毛無山西麓-和南原川沿い-篠原を通る道を指す。
・「出雲国風土記考証」p307解説で後藤は「風土記鈔には「吉田村と備後國篠原との堺なり」とあれども、藝藩通志に「新市の西、上里原(あがりはら)の赤之谷の山を荒鹿山と曰へり」とあるを以つて見れば、荒鹿坂は篠原へ越すのではなく、頓原(とんばら)から草峠(くさんだは)を通りて、備後國の高野山(たかのやま)上里原(あがりはら)へ越す路を云つたものであらう。」と記し、出雲風土記抄の吉田-篠原の道を否定している。
加藤の「修訂出雲国風土記参究」p403参究では後藤の上記草峠説をほぼ丸写ししているが出雲国風土記考証の引用と云うことは記していない。
荻原の「講談社学術文庫出雲国風土記全訳注」でも同じく根拠を記さず草峠説を採っている。
後藤の草峠説の根拠は藝藩通志であるが、上に挙げたように藝藩通志掲載の地図に草峠を通る道はない。
・「藝藩通志」巻百三十四備後國惠宗郡二彊域形勢(裳華房版1915年刊p2174)において、「飯石郡の部に、通備後國惠宗郡荒鹿(アラカ)山、卅九里二百歩と見えたり、~荒鹿(あらか)山は今上里原村の内に、(あか)の谷といへるあり、或は、荒鹿の傳稱にてもあるべきか、今飯石(いひし)頓原(とんはら)よりの往來路、ひらけてあり、此外荒鹿といふ路聞えず、但今の和南原越にあたれるや、知らず~」とある。
後藤はこの部分を参照したのであろう。が、まず以て藝藩通志における出雲風土記の引用が間違っている。出雲国風土記では「荒鹿坂」であり「荒鹿山」ではない。古写本に「山」と記したものはない。それは置くとして、藝藩通志では上里原村に「赤の谷」というのがあり、これが荒鹿山ではないかと想像しているのであり、荒鹿山であると記しているわけではない。
(加藤や荻原の記述については論外)

  • 出雲国風土記の記述からすれば、荒鹿坂は出雲側にあるのであって、備後側にあるのではない。おそらくは吉田川から峠に向かう山道を荒鹿坂と呼んでいたのだと思われる。杉戸-篠原を結ぶ道は備後側からは古くから「出雲路」と呼ばれており、主要な道の一つであった。

通道通三以郡三坂八十一里經常有剰

通道。三以郡へは三坂を通り八十一里(經常に剰あり)。

・細川家本k54「通道通三以郡堺三坂八十一里(経常有剰)」
・日御碕本k54「通道通三以郡三坂八十一里(經常有到)」
・倉野本k55「通道通三以郡堺三坂八十一里經常
有到
[案刂]
・出雲風土記抄4帖k14本文「通道通三以郡三坂八十一里(經常有[案刂])」
 k15解説で「三以郡三坂八十一里者今十三里十八町之赤穴与備後之堺欤」
・萬葉緯本NDLk72「通三以郡三坂八十一里(經路欤常有剗)」
 頭注に「[案刂] 俓常有郵馬傳日置歩傳曰郵 郵ハヒトヤトリトヨムヘキ欤 樋口氏」
・萬葉緯本k71「通道(衍文乎)三以(ミヨシ)郡三坂八十一里經常路欤上ニ有[案刂]剗欤
 頭注で「[案刂] 径常有郵馬傳日置歩傳曰郵 郵ハヒトヤトリトヨムヘキ欤 樋口氏」

  • 三以…三次の事であろう。既に記したように「次」を「以」としている例が多い。書写のかなり早い段階で誤写したものと思われる。
  • 三坂…赤名峠のことであろうと考えられるが、この辺りに「三坂」という地名は残っていない。赤名峠の旧道を越えて広島県に入ったところで道の一つは「吉谷」に向かい、一つは「室」へと向かう道に別れている。あるいはこの分岐を「三坂」と呼んでいたのかも知れない。
    ちなみに出雲風土記解-下-k12解説で「三坂ハ仁多郡尒御坂山有神御門故云御坂~」と記している。
    「御坂山」は今の「猿政山」で、仁多郡を廻って三次に通じる道と考えたようだが、それなら飯石郡に記すことはなく頓珍漢としか云いようがない。
  • 八十一里…先に野見・不見・石次の三野は四十里と記されていることからすると、ここでの八十一里を国境までの距離と考えるのは無理がある。ここでの八十一里は三次までの距離を記したものと思われる。
    細川家本・倉野本には「郡堺」と記しており、これが元の文だと考え、八十一里が誤写だと考える説があるが疑問。
  • 經…「經」は萬葉緯本では「路」かと疑っているが、下の春満考にあるように「径」の誤写であろう。
  • 剰…諸本に異同がある。判読し難いものが多い。
    ・細川家本「剰」
    ・日御碕本「到」
    ・倉野本「到」に「案刂」を傍記
    ・出雲風土記抄「案刂」
    ・萬葉緯本NDL「剗」としているが頭注に「案刂」を記し「郵」とする説を記している。
    ・萬葉緯本「案刂」とし「剗欤」と傍記し、頭注で「案刂」を記し「郵」とする説を記している。
    ・春満考k60で「経常有[來刂] 今按経は径の誤り [來刂]ハ剗の誤奈るへし」
    ・鶏頭院天忠本k43で「案刂」
    ・紅葉山本k44で「剰」
    ・上田秋成書入本k46で「案刂」頭注で「案[案刂]共不可読恐誤字」と朱書
    ・出雲風土記解-下-k12本文で「剗」
    ・訂正出雲風土記-下-k36で「剗」
    定説では訂正出雲風土記の「剗」(セン)とし、これを関所としているものが多い。
    「剗」と考えたのは荷田春満からであるが、「剗」は(削る・苅る)という意味であり、関所の意味はない。
    諸本比較すると、恐らく早い段階で[案刂」と記されたのであろう。[案刂」は大漢和にもなく誤写に相違ない。
    不明なまま更に誤写が繰り返されついには「剗」とみなされるようになったものと思われる。
    [案刂]の元字は、萬葉緯本頭注に「郵」とあるのが正しいと考えられる。
    「郵」の字義は「辺地に設けられた文書伝達のための中継所」であり、ここでの記述にふさわしい。

改めて記すと次のようになる。
通道通三次郡三坂八十一里径常有郵
通道。三次郡へは三坂を通り八十一里(径常に郵あり)。

波多々經佐經剰但志都志都美本ノ侭經以上三經常元剰但當有權置耳(カリニオクノミ)並通備後国之

・細川家本k54「波多〃経佐経剰但志都志都美経以上三経常旡剰但當有政時椎置耳並通備後国之」
・日御碕本k54「波多〃經佐經到但志都志都美經以上三經常旡到但當有政時權置耳(カリニヲクノミ)備後国之」
・倉野本k55「波多〃径佐径[正/木+刂][案刂]但志都志都此二字一本無美径以上三径常旡[案刂]但當有政時椎耳並通備後国之」
・出雲風土記抄4帖k14本文「波多々經須佐經剰但志都美經以上三經常無[案刂]但當有政時權置耳並通備後国之」
・萬葉緯本NDLk72「波多多經祢乎須佐經路欤常[案刂]剗欤但志志都美經以上經路欤常無[案刂]但當有政時権置耳(カリニオクノミ)並通備後國之」

  • この部分衍字誤記があり解りにくい箇所であるが、次の様であったと考えられる。

波多多径須佐径志都美径以上三径常旡郵 但當有政時権置耳 並通備後國之

波多多の径、須佐の径、志都美の径、以上三径は常には郵無し。但し政ある時にあたりて、かりに置くのみ。(波多多、須佐、志都美より)備後国に通うも同じ。

  • 波多多径…飯石郡家から波多に通う径(道)。郡家-入間-朝原-波多
  • 須佐径…飯石郡家から須佐に通う径。郡家-松尾-北迫-松笠-菅原-原田-須佐
  • 志津美径…飯石郡家から志津美(志津見)に通う径。郡家-本谷-刀根-獅子-中村-志津見
  • 並通…それぞれから通う道という意味であろう。

(甫曰備後国十四郡 安那(アンナ) 深津(フカツ) 神石(カメシ) 奴可(ヌカ) 沼隈(ヌマクマ) 品治(ホンヂ) 葦田(アシダ) 甲奴(カフノ) 三上(ミカミ) 惠蘓(エソ) 世羅(セラ) 三谿(ミタニ) 三次(ミヨシ) 御調(ミツキ)

  • この部分は関老甫による傍記である。

(甫曰く、備後国十四郡は 安那 深津 神石 奴可 沼隈 品治 葦田 甲奴 三上 惠蘓 世羅 三谿 三次 御調)

郡司主張旡位置首
大領外正八位下勲業大弘造
少領外従八位出雲臣

郡司主張無位 置首
大領外正八位下勲業 大弘造
少領外従八位 出雲臣


『出雲国風土記』仁多郡


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Last-modified: 2023-06-12 (月) 01:14:03 (317d)