『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡『出雲国風土記』秋鹿郡
『出雲国風土記』楯縫郡『出雲国風土記』出雲郡
『出雲国風土記』神門郡『出雲国風土記』飯石郡
『出雲国風土記』仁多郡『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記

『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介


『出雲国風土記』大原郡(おおはらのこおり)


(白井文庫k45)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-45.jpg
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大原郡
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(白井文庫k46)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-46.jpg
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合郷捌   里廾四
 神原郷      今依前用
 屋代郷      本字矢代
 屋裏郷      本字矢内
 佐世郷      今依前用
 阿用郷      本字阿欲
 海潮郷      本字得鹽
 來以郷      今依前用
 斐伊郷      今依前用
所以号大原者郡家正西一十里一百一十六歩田一十
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町許平原号曰大原徃古之時此處有郡家今猶
追舊号大原今有郡家所
号云斐伊村
神原郷正北九里古老
傳曰所造天下大神神財積置給所則可謂
神財郷而今人猶誤故云神原号耳
屋代郷郡家正北一十里一百一十六歩所造天
下大神之勢立射所故云矢代神龜三年
改字屋代
即有
正倉 屋裏郷郡家東北一十里一百一十六歩
古老傳云所造天下大神令[歹真][竹/犬]給所故云矢内
神龜三年
改字屋裏
 佐世郷郡家正東九里二百歩古老
傳曰須佐能表命佐世乃木葉頭刺而踊躍
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合郷捌 里廾四

郷合わせて八 里二十四

神原郷 今依前用

屋代郷 本字矢代

・萬葉緯本k78で「屋代」に「和名大原」と傍記

屋裏郷 本字矢内

佐世郷 今依前用

阿用郷 本字阿欲

海潮郷 本字得鹽

海潮郷 もと字得塩

來以郷 今依前用

来以郷 今も前に依り用いる。

斐伊郷 今依前用

・細川家本k59で「斐伊郷 本字樋 以上別郷別里参」
・日御碕本k59で「斐伊郷 本字樋 以上捌郷 里参」
・倉野本k60で 「斐伊郷 本字樋 以上別郷別里参」
・萬葉緯本k78で「斐伊郷 本字樋 以上郷捌里参」
・出雲風土記抄4帖k29本文で「斐伊郷 本字樋 以上捌郷里参」

以上比較し、次のように改める。
斐伊郷 本字樋 以上捌郷別里参

斐伊郷 もと字樋 以上八郷、別に里参。

所以号大原トハ者郡家正西一十里一百一十六歩田一十町許リノ平原大原
徃古之時此處郡家今猶追キヲ大原今有郡家所斐伊村

(大原旧郡家石碑)
https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/oohara/unnan-c/ohara-guuke01.jpg
・「大原郡家址」と彫られている。

○後藤の記す「斐伊村里方」は今の「斐伊神社」辺りを指す。地理院地図郡家跡自体は不明だが、新造院の跡が南方に確認されている。

以上により、「正西」を「北東」に改める。

所以号大原者郡家北東一十里一百一十六歩田一十町許平原号曰大原
徃古之時此處有郡家今猶追舊号大原今有郡家所号云斐伊村

大原と号す所以は、郡家の北東十里百十六歩、田十町許りの平原を号して大原という。
往古の時此処に郡家あり。今なお旧を追いて大原と号す。(今郡家のある所を号して斐伊村という)

神原郷正北九里古老所造天下大神神財(カンダカラ)則可キニ神財(カンダカラ)ルヲ今人猶誤故云神原(ナツグ)(ノミ)

以上により、次のように改める。

神原郷郡家正北九里古老所造天下大神神財(カンダカラ)則可キニ神財(カンダカラ)ルヲ今人猶誤故云神原(ナツグ)(ノミ)

神原郷、郡家の正北九里。古老の伝に曰く、所造天下大神神財を積み置き給う所を則ち、神財郷と謂つ可きに、今の人猶誤りたる故に、神原となづくのみ

屋代郷郡家正北一十里一百一十六歩所造(ツクリマス)下大神之勢ヒノ射所故云矢代神龜三年改字屋代有正倉

[垛]・[垜]は異体字でともに(あづち、タ・ダ)弓の的を据える盛り土。
古写本では[契」の異体字で記しているが通説では[垜]とし、これは出雲風土記抄に始まる。
白井本の[勢]は他と異なる。
「大神之勢立射所」は(大神の勢、立ちて射る所)つまり「大神の軍(勢力)が、立ち並んで弓を射た所」と理解できる。
一方「大神之垜立射所」では(大神の垜立て、射る所)となり、(大神ではない誰かが「大神の垜」を立てて射た所)という意味になる。垜は盛るものであって立てるものではない。垜であるなら、「垜に的を立て」と記されているはずである。
そもそも「大神の垜(盛り土)」とか意味が無い。
斯くの如く通説は奇妙である。思うに、元は白井本の様に[勢]でありこれを書写の際[生刀/大][生刀/木]と略書し、その略書を[垜]と読んで、通説のように奇妙な解釈になったのであろう。
更に記すと、「矢代」というのは鎌倉期以降は矢を用いた籤を矢代と呼ぶようになっているが、[代]は象形で交差させた木の杭を表し、「矢代」というのは矢を射る際に射手の前に作った防禦のための杭を表している。[垜]とする通説では「矢代」の地名縁起に通じない。
「矢代郷」というのはこの地で大神の軍が戦ったことに因む地名と考えられる。和名類聚抄で、矢代(屋代)が消され大原が代わりに記されているのは、大神の軍が戦った相手が大和・吉備の軍勢だったことを窺わせる。
・修訂出雲国風土記参究p432参究で「矢代は矢場、すなわち射的場の意。代が所要の場所、区域の意を現わすことは、苗代、屋代(意宇郡屋代郷参照)、代掻きの語によっても知られる。~」
加藤は[垜]説をとり、[代]を場所のこととして十把ひとからげにしているが、「矢代」が矢場・射的場というのは根拠がない。
「苗代」の[代]は6尺×30尺の面積を現す単位で、稲一束を得る田の面積を現している。その面積で苗を育てたので「苗代」という。
「代掻き」は田植前に木の杭を用いて田の土塊を粉砕耕作したのが始まりで、後には牛馬に鍬を曳かせて行うようになった。
[代]にはそれぞれの歴史と意味があることを無視しているというか、自己都合に合わせて解釈し記している。

屋裏郷郡家東北一十里一百一十六歩古老傳云所造天下大神令[歹真][竹/犬]所故云矢内神龜三年改屋裏

さて、ここで屋代郷に戻ると、
「屋代郷郡家正北一十里一百一十六歩~」
「屋裏郷郡家東北一十里一百一十六歩~」
距離は全く同じで方角だけが異なる。
又、「所以号大原者郡家正西一十里一百一十六歩~」においても距離は同じで方角だけが異なっている。
「大原者郡家正西」の方角が誤りであったのは既述の通りであり、「屋裏郷郡家東北」が誤りであるのも既述の通りである。
さすれば「屋代郷郡家正北」は誤りであり、書写の際書き違えたものでこれは「東北」が正しく大原の元の郡家の場所に等しい。
元の大原郡家のあった仁和寺には小字として「上矢田・中矢田・下矢田」の地名があった。「所造天下大神之勢立射所故云矢代」に通じるものと思われる。
一応記しておくと、
・岸埼が「出雲風土記抄」で屋代郷を「東西三代」とした理由は定かではないが語感の近さによるのであろうかと思われる。三代は旧神原村の一部であり、神原郷に含まれてきた地区である。
・後藤は、岸埼の記述を受けて、「出雲国風土記考証」p333で「神原郷への里程と、屋代郷への里程とが、取違へてある様に思はれる。」と記している。後藤は距離と方角のみ関心があったようで、神原郷・屋代郷・屋裏郷の地名縁起における大神の話は全く無視している。この地の地名は郡家からの距離と方角に由来しているのではなく大神の事跡に由来しているのであり、倒錯している。
・加藤は「修訂出雲国風土記参究」p431屋代郷の参究で「~他の郷との釣合と、郷庁への距離等から考えて、やはり朝山氏説のように、今の加茂町から前条の神原郷の地域を去った地区にあたると思われる。郷庁は中林季高氏説(同氏著「加茂町史考」)の如く今の加茂町中村の辺にあったのであろう。~正倉は官庫の意であることは既に述べたが、今の加茂町加茂中の東方の小山を倉敷山といい、この山にある慶用寺の山号を正倉山というので、この倉庫はこの山あたりにあったかもしれない。」と記している。加茂中村は関ヶ原合戦に敗れた宇喜多秀家の小姓初代黒田勘十郎が諸国放浪の後この地に辿り着き、帰農入植し代々開墾した地でそれ以前は原野であった。現在まで何の遺跡も発見されていない。又黒田氏が代を重ね財をなし建立した「慶用寺」の山号は元は「日置山」であり、「正倉山」を山号としたのは後のことであり地名等に由来するものではない。

以上により、二郷の記述を次のように改める。

屋代郷郡家東北一十里一百一十六歩所造天下大神之勢立射所故云矢代神龜三年改字屋代即有正倉

屋裏郷郡家正北一十里一百一十六歩古老傳云所造天下大神令殖笶給所故云矢内神龜三年改字屋裏

屋代の郷、郡家の東北十里百十六歩。所造天下大神の勢、立ちて射る所。故に矢代と云う。(神龜三年字を屋代と改む)即ち正倉あり。

屋裏の郷、郡家の正北十里百十六歩。古老の伝に、所造天下大神、矢を増せしめ給う所と云う。故に矢内と云う。(神龜三年字を屋裏と改む)

佐世郷郡家正東九里二百歩古老須佐能表(ソサノヲノ)命佐世乃木葉頭刺而(カウベニサシテ)踊躍(イヨウヤク)ヲドリヲドル爲時(ナシ玉フトキ)(トコロノ)(サス)佐世(ヲツル)(チニ)故云佐世

○雲陽誌k100p187で「假山八幡 石清水より勧請す、本社二間に三間拝殿あり文禄四年佐世伊豆守正勝建立す、祭禮八月十五日夜に入十二番の相撲をもよをす、神前に古木あり佐世の樹といふ、古老傳曰素盞嗚尊御頭に木の葉をさして踊たまふは此樹なり、諸人木の名をしらす、」とある。「假山八幡」は今の「狩山八幡宮」の事で、須佐能袁命が佐世の木の葉を頭に刺して踊ったのはこの地であると伝える。

佐世の郷、郡家の正東九里二百歩。古老の伝に曰く、須佐能表命佐世の木の葉を頭に刺して踊躍為したまう時、刺せし佐世の木の葉地に墜ちる所。故に佐世と云う。


(白井文庫k47)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-47.jpg
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爲時所刺佐世木葉墮地故云佐世
阿用郷郡家東南一十三里八十歩古老傳曰
昔或人此處山田烔勿守之尒時目一[田/儿ム]來而食
佃人之男尒時男之父母竹原中隱而居之時竹葉
動之尒貶所食男云動之故云阿欲神龜三年
改字阿用

海潮郷郡家正東一十六里卅三歩古老傳云
宇能活比古命恨御祖須義弥命而北方出雲
海潮押止漂御祖之神此海潮至故云得鹽神亀
三年

改字
海潮
即東北須我小川之湯淵村川中温泉不用

同川上毛間林川中温泉出
來以郷郡家正南八里
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所造天下大神命詔八十神者不置靑鹽山裏詔而
追廢時此義迨以生故云來以斐伊郷屬郡家通速
日子命唑此所故云樋神龜三年
改字斐伊

[寺]
新造院所在斐伊中郡家正南一里建立嚴堂也有僧
五軀

大領勝部君䖝麿之所造也新造院所在屋裏
郷中郡家正北一十一里一百二十歩建立層塔有僧
弌軀

前少領田部臣押嶋之所造今少領伊去
美之從父兄也
新造院
所在斐伊郷中郡家東北一里建立嚴堂有尼
一躯

斐伊郷人樋御支知麻呂之所造也
[社]
矢口社 宇乃追社 支須支社 布須社 御代社
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阿用郷郡家東南一十三里八十歩古老傳昔或人此處山田烔畑カ勿守之尒時目一[田/儿ム]()來而(クラフ)(タツクル)(ヲノコヲ)尒時男之(ヲノコガ)父母竹原隱而(カクレテ)居之(ヲルノ)時竹葉動尒貶(ルゝ)(クラハ)云動之故云阿欲神亀三年改阿用

次のように改める。
阿用郷郡家東南一十三里八十歩古老傳曰昔或人此處山田烔而守之尒時目一[田/儿ム]來而食佃人之男尒時男之父母竹原中隱而居之時竹葉動之尒時所食男云動之故云阿欲神亀三年改字阿用

阿用の郷、郡家の東南一十三里八十歩。古老の伝に曰く。昔或人此の所の山田(カガヤキ)て之を守る時に、目一つの[田/儿ム]来たりて佃人(タツクルヒト)の男を食らう。時に男の父母竹原の中に隠れて居り、この時竹の葉動く。この時に食らわれる男の云う、これ動くと。故に阿欲という。(神亀三年字を阿用に改める)

海潮(ウシホノ)郷郡家正東一十六里卅三歩古老傳宇能活比古(ウノイヒコノ)命恨御祖(ミヲヤ)須義弥(スギミノ)而北方出雲海潮押止(タゞヨハス)御祖之神此海潮至故云得鹽(ウシホト)神亀三年改海潮
東北須我小川之湯淵村川中温泉不用号本ノ侭同川上毛間林川中温泉出不用

次のように改める
海潮郷郡家正東一十六里卅三歩古老傳云宇能治比古命恨御祖須美祢命而北方出雲海潮押止漂御祖之神此海潮至故云得鹽神亀三年改字海潮即東北須我小川之湯淵村川中温泉不用号同川上毛間林川中温泉出不用号

海潮の郷、郡家の正東一十六里三十三歩。古老の伝に云う。宇能治比古命、御祖須美祢命を恨みて、北の方出雲の海潮を押止め、御祖之神を漂わす。この海潮至る故に得塩という(神亀三年字を海潮に改める)。 即ち、東北須我の小川の湯淵村の川中に温泉あり(名を用いず)。同じく川上の毛間林の川中に温泉出る(名を用いず)。

來以郷郡家正南八里所造天下大神命詔八十神者(カンタチハ)置靑鹽山(ノ玉ヒテ)(ヲヒ)(シリゾケ玉フ)時此義迨迢ハルカカ
ヲヨブカ
以生唑カ故云來以

ところで、通説は例によって内山眞龍の捏造妄想とそれを真に受けた千家俊信の訂正出雲風土記によって広められたものが底流になっており、埒もない加藤の追従が定説とされている。気乗りはしないが一応記しておく必要はあるであろう。
(木次地域の小学校では地域学習として、眞龍の妄説を学ばせているらしいが止めるべきである。)

出雲風土記解-下-k33本文で「來次郷郡家正南八里凣今一
里四町
所造天下大神命詔八十神者(ヤソカミハ)不置青垣山裏詔而(アヲガキヤマノチニオカジトノリマシテ)追廢時(オヒハナツトキ)古事記
追[扌発]
此義(コノトコロニ)迢以生(オヒスキマシキ)義迢以生ハ
處追次坐也
故云來以」
解説で「~義迢以生ハ書写の誤りにて處追次坐なり、追次とハ追ツゞク尒て、俗オヒツクと云同字彙云次亞也、文意は八十神を追来て此處にて追次しなり。~」
「~青垣山は垣の如く引囬たる山を云、垣を塩尒書たる本ハ誤奈り。~此所ハ須賀の宮所を圍む山を云奈れバ東北小須我山林垣山、西南尒高麻山舩岡山有て堺を廣く遠く八十神を追[扌発]を云、~」

  • 眞龍は青塩山は間違いで青垣山だとする。その山は須賀の宮所を囲む山を云い、大穴牟遲神は八十神をこの地から追い払い、追いついたのが來次なのだと論じている。(途中長々と古事記等の引用があるが省く)
    さすれば須賀の地から八十神を追い払い須賀川・赤川にそって下流に向かって追い続けて、木次で追いついたという事になる。
    追い払った八十神をなぜ追い続け追いつかなければならないのか疑問であり追いついてどうしたのかも不明。
    そもそも須賀の宮を囲む地から追い払うとか、サッパリ解らない。これが所謂「定説」の根拠である。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
    大己貴神が須賀の宮処を守るために八十神を木次さらにはその先の出雲郷に追い払うなどということがあろうはずがない。
    完全に倒錯している。
    又、眞龍は後の城名樋山の解説で、須佐之男命が大己貴神に八十神を伐つように詔りしたと記している。
    須佐之男命と八十神に接点はない。馬鹿馬鹿しくて話にならない。
    ちなみに[扌発]は[撥]の略字と思われるが、弦をはじく(バチ)の事で、古写本で記される[廢]とは意味が全く異なる。

「訂正出雲風土記」-下-k38で「來次郷(キスキノサト)。郡家正南(ミナミ)八里。所造天下大神命(アメノシタツクラシシオホカミノミコト)(ノリタマハク)八十神者不置靑垣山裏詔而(ヤソナミハアヲカキヤマノチニオカジトノリタマヒテ)追廢時(オヒハラフトキ)此義迢以生(コノトコロニオヒスキマシキ)故云來次(カレキスキトイフ)。」
頭注に「真龍云義迢以生處追次坐也トイヘリ可従」

・修訂出雲国風土記参究p438で加藤は「~此の処に迨次(きす)き坐しき~」と記している。
眞龍の「此義迢次生」から「此処追次坐」への改変を卓見と称賛し、[追]も[迢]も相応しないので[迨]とし(き)と読んでいる。
[迨]に(き)の読みはない。
ついでに記すと、「此義迢以生」を「此處退次坐」ではないかと疑ったのは春満が最初で、眞龍はそれを更に改変している。

以上無駄が長くなった。
來以郷郡家正南八里所造天下大神命詔八十神者不置靑鹽山裏詔而追廢時此義迨以生故云來以

來以(キスキ)の郷、郡家の正南八里。所造天下大神命詔りたまふ。八十神は青塩山の(ウチ)には置かじと詔て追廃(オイシリゾケル)時、この(ワケ)(スキ)て生きよと(ネガウニイタ)る。故に來以(キスキ)と云う。

斐伊郷屬郡家通速日子(ツハヤヒコノ)命唑マス此所(コゝニ)故云樋神龜三年改字斐伊

斐伊の郷、郡家に属す。樋速日子命此の所に唑す、故に樋と云う。(神龜三年字を斐伊に改む)

[寺]
新造院所在斐伊郡家正南一里建立嚴堂也有僧五軀大領勝部君䖝麿之(ムシマロガ)所造也

(塔之石)
https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/oohara/unnan-c/kisuki-t/tounoisi-a.jpg
参考:「木次町塔之石」

新造院、所は斐伊の郷中、郡家の正南一里に在り。嚴堂を建立する也(僧五軀あり)大領勝部君䖝麿(ムシマロ)が造りし所也。

新造院所在屋裏郷中郡家正北一十一里一百二十歩建立層塔有僧弌軀少領田(ヲシ)押嶋()ナリ少領伊去美之從父兄(イコミガイトコ)

新造院、所は屋裏の郷中、郡家の正北一十一里一百二十歩に在り。層塔を建立す(僧一軀あり)。前の少領田部臣押嶋の造りし所(今の少領伊去美の從父兄也)。

新造院所在斐伊郷中郡家東北一里建立嚴堂有尼一躯斐伊郷人樋御支知麻呂之(ヒミシチマロガ)所造也

新造院、所は斐伊の郷中、郡家の東北一里に在り。嚴堂を建立す(尼一躯あり)。斐伊郷の人、樋御支知麻呂の造りし所也。

[社]

矢口社 宇乃追社 支須支(キスシ)社 布須社 御代(ミシロノ)

矢口社 宇乃追社 支須支社 布須社 御代社


(白井文庫k48)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-48.jpg
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汗乃遲社 神原社 樋社 樋社 佐世社
世裡陀社 得鹽社 加多社以上一十三所
並在神祇官
 奈秦社
等々呂吉社 矢代社 比和社 日原社 情屋社
春徳社 船木社 宮津日社 阿用社 置谷社
伊佐山社 須我社 川原社 除川社 屋代社
以上一十六所
並不有神祇官

[山]
莵原野郡家正東郷屬郡家城名樋山郡家正北一
里百歩所造天下大神大穴持命爲代八十神造
城故云城名樋也高麻山郡家正北一十里一百
歩高一百丈周五里北方有樫椿等類東南
-----
西三方並野古老傳云神須佐能表命御子青幡
佐草[日古]命是山上麻蒔租故云高麻山即此山峯
唑其御魂也須我山郡家東北一十九里一百八十歩
有檜
 船岡山郡家東北一里百歩阿波枳閇委奈
佐比古命曳來居船則此山是矣故云船岡也御室
山郡家東北一十九里一百八十歩神須佐乃乎命之
御室令造給所[宀/㑂]故云御室凢諸山野所在草木
苦参桔梗菩茄白芷前胡獨活萆薢葛根細辛百芋
白芍説月白歛女委薯蕷麥門冬藤李檜杉栢樫
櫟椿楮楊梅楊槻蘗禽獸則有鷹晨風鳩山鶏
──────────

汗乃遲社 神原社 樋社  ()社 佐世社 世裡陀(セリタノ)社 得鹽(ウシホノ)社 加多以上一十三所並在神祇官

汙乃遲社 神原社 樋社 樋社 佐世社 世裡陀社 得鹽社 加多社 (以上一十三所並在神祇官)

奈秦社 等々呂吉(トドロキノ)社 矢代社 比和社 日原社 情屋

赤秦社 等々呂吉社 矢代社 比和社 日原社 幡屋社

春徳社 船木社 宮津日(ミヤツヒ)社 阿用社 置谷

春殖社 船林社 宮津日社 阿用社 置谷社

伊佐山社 須我社 川原社 除川社 屋代社 (以上一十六所並不有神祇官)

伊佐山社 須我社 川原社 除川社 屋代社 (以上一十六所並不有神祇官)

[山]
莵原野郡家本ノ侭正東郷屬郡家本ノ侭

莵原野。郡家の正東。即ち郡家に属す。

城名樋山(キナヒヤマ)郡家正北一里百歩所造天下大神大穴持命爲代八十神造故云城名樋(キナヒ)

○通説では、「大穴持命が八十神を伐つ為に造った城のある山が城名樋山である」と云う。
出雲風土記抄によれば、岸埼が参照していた底本には「伐」ではなく「代」と記されており、佐草氏の説によって「代」を「伐」に改めたことが窺える。
佐草氏は直系が1644年頃に絶えており、千家氏から養子に入っているから、ここに言う佐草氏の説は千家氏の説であろう。
鶏頭院天忠本・倉野本・萬葉緯本は出雲風土記抄に従ったものであろう。
白井本・細川家本・日御碕本・紅葉山本は「代」であり、古くは「代」であったと考えられる。
本来「代」であるなら、上述の通説は誤りであると云わざるを得ない。そもそも通説ではなぜ「城名樋」なのかその縁起の説明になっていない。出雲国風土記に大己貴命が八十神を伐ったという記述はない。追い(シリゾ)けたのであり伐ったのではない。
城名樋を、伴信友は(城が並ぶ)と解し、内山眞龍は(神名樋の誤り)とし、加藤は(城隠)と解しているが、何れも城名樋と呼ぶようになった縁起の説明になっていない。
「伐」ではなく「代」として読むと次のようになる。
「城名樋山、郡家の正北一里百歩。所造天下大神大穴持命、八十神の造りし城の代わりを為す、故に城名樋と云う也」
ここで「名樋」と云うのは「靡」であり、「靡く(なびく)」則ち、(ものの力により横に流れる、倒れ伏す、心を寄せる、服従する)等の意味がある。つまり大穴持命が八十神の造った城を(八十神に代わって)服従させたので(城が靡いた=城名樋)と呼ぶようになったというのが縁起である。
「城名樋山」(標高120m 地理院地図)と云うのは「妙見山」の南方にある山で、頂上は平に開かれており二段になった山で今は公園になっている。三刀屋川・斐伊川・請川が見通せる非常に見晴らしの良い山である。靡いた後にはこの山を大己貴命は監視場所として用いたのであろう。
(下段部には近年鉄パイプの構築物がイルミネーションとかいって作られたまま放置されており不粋且つ目障りである)
ちなみに「妙見山」というのはかつてこの山頂に「妙見社」という祠があった事による名称である。妙見というのは北極星の事であり
城名樋山の北側にあることにより天之御中主神が祀られていたのであろう。
・伴信友のいう「城竝」と云う様な構造も広さもない。無論[城]は[柵]ではない。
・眞龍の神名樋の誤写というのは根拠がない。磐座も何もない。
「神名樋と有りけむを早く写し誤り諸本共に同じ」とはなんたる傲慢さ。呆れ果てる。自身の説のみ正しく諸本は皆誤写というのであれば、別の書を記せばよい。最早「出雲国風土記」ではない。
・加藤の云う「隠」は、出雲国風土記参究p158で「神名樋のなび(、、)は隠れ(こも)る意の上二段動詞の連用名詞形で樋は乙類音の仮字である。万葉集巻八(1536)に見える「隠野(なばりぬ)」や、巻一(43)・巻四(511)の「(なばり)の山」のなばり(、、、)もこの類語で、山に囲まれてこもった盆地の意である。これによれば(なば)るという四段動詞にも活用されたらしい。従って神名樋は神の(かく)れこもる意である。~」と記している部分を根拠にしている。
「隠」は(なば)とは読むが(なび)とは読まない。(なば)り(名詞)・(なば)る(自動詞ラ行四段活用)であって上二段動詞の連用名詞形などというのは加藤の勝手な解釈であり、でっち上げである。
すっとぼけて「四段動詞にも活用されたらしい」と記しているが、四段活用動詞以外の利用例はない。
大体「見晴らしの良い山に柵を作って隠れる」とか何の意味もない。見晴らしがよい山は逆に云えば他所からも良く見通せる山でありそこに柵を作っても隠れることになるはずがない。勿論盆地でもない。
この件、後藤が出雲国風土記考証p67解説で「カンナビの意義は、加茂真淵、本居宣長以後、神の森の約言と説かれあり。然れども、自分は「神籠り」説をとりゐるなり。」と記している部分に解釈を加えようとしたものであろう。
「神の森の約言」と云うのは、所謂「枕詞」同様「意味不明」と云っているに等しく、又「神籠り」に根拠はない。
山や岩あるいは樹木は神の依代、則ち神が立ち寄る目印の場所なのであってそこに常住する場所ではない。
「神名樋」というのは「神靡」であり、神がたなびく雲や霞に乗ってやって来る事を意味している語である。
尚、白井本で(キナヒヤマ)とフリガナを振っているが、「神名樋」を(カンナビ)と読むのと同様に(キナビヤマ)と読むのが妥当であろう。

  • 余談だが、祖父が亡くなった後まだ幼かった私が祖母に「お爺ちゃんはどうしたの」と訊ねると祖母は「お爺ちゃんは神様になったんだよ」と話してくれた。私が「もう会えないの」と聞くと祖母は「庭の花が咲けばお爺ちゃんは蝶々になってやって来るから又会えるよ」と話してくれた。

城名樋山、郡家の正北一里百歩。所造天下大神大穴持命、八十神の造りし城の代わりを為す、故に城名樋と云う也。

高麻(タカマ)山郡家正北一十里一百歩高一百丈周五里北方有樫椿等類東南西三方並野古老傳神須佐能表(カンスサノヲノ)御子(ミコ)青幡佐草(アヲハタサクサ)[日古]日古カ命是山上(アサ)(マキ)租故云高麻山(タカマヤマ)此山(ミ子)マス御魂(ミタマ)

高麻山。郡家の正北一十里一百歩、高さ一百丈、周り五里。北方に樫椿等の類あり。東南西三方は並に野。
古老の伝に云う。神須佐能表命の御子青幡佐草日子命、是の山上に麻を蒔き、(モト)となる故に高麻山と云う。即ち此山の峯に其の御魂坐す也。

須我山郡家東北一十九里一百八十歩有檜枌

須我山、郡家の東北一十九里一百八十歩。(檜杉あり)

船岡山郡家東北一里百歩阿波枳閇委奈佐比古(アハキベイナサヒコノ)命曳來居船則此山是矣故云船岡也

御室(ミムロ)山郡家東北一十九里一百八十歩神須佐乃乎(カンスサノヲノ)之御室令フテロノ[宀/亻丙]故云御室

御室山、郡家の東北一十九里一百八十歩、神須佐乃乎命の御室造らしめ給いて宿す所。故に御室という。

諸山野所在草木苦参桔梗菩茄本ノ侭白芷前胡獨活萆薢葛根細辛百芋本ノ侭白芍説月本ノ侭白歛女委本ノ侭薯蕷麥門冬藤李檜杉栢樫櫟椿楮楊梅(ヤマモゝ)(ヤナギ)(キワダ)

・細川家本k62「凢諸山野所在草木苦参桔梗菩茄白芷前胡猶活昇解葛根細辛苘芋白芴説月白歛女委暑預麦門冬藤李檜杦柏樫櫟椿楮楊梅〃槻蘗」
・日御碕本k62「凢ゝノ山野所在草木苦参桔梗菩茄白芷前胡独活昇解葛根細辛茴芋白芴洗月白歛女委暑預麦門冬藤李檜杦柏樫(トチ)椿(コウソ)楊梅〃(ツキ)(キハタノキアリ)
・倉野本k63「凢諸山野所在草木苦参桔梗菩茄白芷前胡独活萆薢葛根細辛苘芋白芴白歛女委暑蕷麥門冬藤李檜杦栢樫櫟椿楮楊梅○槻蘗」

古写本に多少の異同がある。

およそ諸山野に所在の草木は、苦参・桔梗・菩・茄・白芷・前胡・獨活・萆薢・葛根・細辛・苘・苧・白芍・説月・白歛・女委・薯蕷・麥門冬・藤・李・檜・杉・栢・樫・櫟・椿・楮・楊梅・楊・槻・蘗。

『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介

禽獸則有鷹晨風鳩山鶏鳩雉熊狼(イノシゝ)鹿兎獼猴飛鼯(ムサゝビ)

禽獸には則ち、鷹・晨風・鳩・山鶏・鳩・雉・熊・狼・豬・鹿・兎・獼猴・飛鼯あり。


(白井文庫k49)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-49.jpg
──────────
鳩雉熊狼豬鹿兎獼猴飛鼯
[川]
斐伊川郡家正西五十七歩西流入出雲郡多義林
有年魚
麻須
 海潮川源出意宇與大原上郡堺矣村山北
有年魚
少々
 須我小川源出須我山西流有年魚
少々

佐世小川出阿用山之北海
幡屋小川源出郡家
東北幡箭山南流
水自氷合正流入出雲大川
屋代小川出郡家正東除田野西流入斐伊大川
此川
無魚

通道通意宇郡堺木垣坂廾三里八十五歩通仁
多郡堺夆谷村廾三里一百八十二歩通飯石郡堺斐
-----

伊川邊五十歩通出雲郡多義村一十一里二百廾歩
前件参郡並山野之中也

     郡司主帳无位勝部臣
     大領正六位上勳業勝部臣
     少領外從八位上額部臣
     主政无位置臣

──────────

[川]
斐伊川源不見郡家正西五十七歩西出雲(シュツッタウ)郡多義林川カ(有年魚(アユ)麻須)

斐伊川。郡家の正西五十七歩を西へ流れ、出雲郡多義村へ入る。(年魚・麻須あり)

海潮川源意宇()大原上郡堺矣村山北海流入カ(有年魚(アユ)少々)

・細川家本k62で「海潮川源出意宇与大原二郡堺矣村山北海有年魚少〃
・日御碕本k62で「海潮出意宇与大原二ヨリ矣村山有年魚
少〃

・紅葉山文庫k51で「海潮出意宇與大原二郡ヨリ矣村山有年魚
少〃

・倉野本k63で、「海潮川源出意宇与大原二郡笶村山一本○于村山北自海潮西流北海有年魚
少〃

・鶏頭院天忠本k50で「海潮川源出意宇与大原二郡堺矣村山北有年魚
少々

 傍注で(矣村山)「疑是三字所名矣似涅之」。(北海)「疑有入字或海字流之誤乎」
・春満考k66で「矣村山此海 今案矣ハ矢の誤カ海ハ流の誤奈留べし」
出雲風土記抄-4帖-k41本文で「海潮川源出意宇与大原二郡界入矣村山北自海潮西流有年魚
少々

 解説で「鈔云海潮川水上者来意宇郡堺小川内村刈畑村ヨリ於北村南村于須我川西流也」
・萬葉緯本k83で「海潮川源出意宇與大原二郡ヨリ入矣村山北自海潮西有年魚
少少

・出雲風土記解-下-k39本文で「海潮川源意宇与大原二郡堺()笶の誤
一本笑
村山(ムラヤマ)ヨリ

潮郷西流
○○○○
有年魚
麻須

 解説で「自潮西流四字ハ伊勢内官本尒依て補流郷二字ハ例尓依て補鈔云水上者来意宇郡堺小河内村刈畑村北村南村間合于須我川西流」
・上田秋成書入本k54で「海潮川源出意宇与大原二郡ヨリ矣村山有年魚
少〃

・訂正出雲風土記-下-k42で「海潮(ウシホ)川源意宇與大原(オウトオホハラト)二郡堺笑村山(ムラヤマ)ヨリ

潮郷西ニ流ル
○○○○
有年魚
麻須

○ここの一文、古写本の記述に対し岸埼が修正追記したものを、引き継いできたように思われる。
[矣]は助字であって、これを村山につけて解したことが混乱の原因になっている。
訂正出雲風土記の[笑]は論外。それこそ笑うしか無い。
白文である細川家本に即して読み解くと次のようになる。
「海潮川源出意宇与大原二郡堺矣村山北海有年魚少〃
「海潮川、源は意宇と大原二郡の堺に出る(かな)。村の山の北は海(年魚少々あり)」
ここで、[村]というのは南村と北村を総じた地域名で、[山]は海潮神社後背の三笠山を含む山塊を指し、[海]は湖であろう。
既に船岡山については別記したが、南村・北村というのは古くは船岡山を中心とした区分であり、船岡山と呼ばれるのはこの周辺がかつては湖であった事があり、湖に浮かぶ船と見立てていたことからの名付けと考えられる。
海潮川の源については、海潮川という呼び名は赤川が海潮神社付近を流れる際の別名であり、その先は除川神社の方に向かう川を赤川と呼ぶことから、これが本流筋であって、刈畑方面を流れる刈畑川は本流では無い。
当然に、二郡の堺とは、除川神社から須谷、さらには熊野神社に向かう峠道を指すのであって、南方の毛無峠を指しているのでは無い。
一応記しておくと、後藤は「出雲国風土記考証」の底本を訂正出雲国風土記としている事は既に記したがp353解説で「~海潮川は刈畑(かりはた)の奥の毛無峠(けなしとうげ)より出る水を以つて本流としてある。矣村山を訂正風土記には笑村山として折れ居れども、共に誤りであらう。これは笶村(やのむら)山と思われる。」
と記し、海潮川の本流を刈畑川と解しており、その上流に矣村山を求めている。川筋が深いことから刈畑川と考えたのであろうが、誤っている。(毛無峠=毛無越地理院地図
加藤は、後藤の説を受け、同じく本流を刈畑川とし、更には「笶村(やむら)山」として標高641.2(m)の名称の無い山(二等三角点名:山佐村)を想定しているが、全く以て根拠が無い。
荻原は加藤説をそのまま踏襲している。

海潮川、源は意宇と大原二郡の堺に出る。村の山の北は海(年魚少々あり)

須我小川源須我山ヨリ西有年魚少々

・出雲風土記抄-4帖-解説で「鈔云此川水源者出意宇郡熊野村高鍔山忌部村佐井谷兩所ヨリ合流来須我村於南村又合潮川西ムク矣」

○岸埼は須我小川の水源を二ヶ所記し合流すると記しているが、風土記では須我山1ヶ所であり、忌部村との堺佐井谷を源とする川はあくまでも支流である。
高鍔山(タカツバヤマ)を加藤は参究p454解説で「高鍔山(今の八雲山)」と記し須我山としているが、須我山なら須我山と記すはずであり高鍔山と記すわけがない。
高鍔山というのは須我山(八雲山)北方の峰を指すのであろう。地理院地図
この峰から複数の源流筋が流れ出している。
佐井谷というのは才ノ峠の南方のことである。
今は道路工事による周辺整備などの影響もあり川筋はこちらが本流のように見えるようになっている。

須我の小川、源は須我山より出て西へ流る。(年魚少々あり)

○この部分には清田川・阿用川があってしかるべきだが何故か記されていない。
意図的に記さなかったのか、或いは失われたのか消されたのか、何れにせよ訝しい。

佐世小川出阿用山ヨリ之北海此上ニ落字有カ 旡魚

・細川家本・日御碕本・三井家所蔵本・出雲国風土記全は白井本に同じ。
・倉野本では「北流入」の傍記あり。
・万葉緯本k83で「佐世小川出阿用山之北海潮川無魚
・出雲風土記抄-4帖-k42本文で「佐世川小川出阿用山北流入海潮川無魚
○万葉緯本を書写したという「出雲国風土記全」が白井本他細川家本日御碕本等古写本に同じであるから、「海」を「海潮川」としたのは岸埼の改変と考えられる。
細川家本に即して読むと、「佐世小川、阿用山の北の海より出る。(魚無し)」
ここで阿用山というのは、佐世川を辿ると、標高409.8(m)と表示のある山の東の峰(標高412.5(m))と思われる。
佐世川最上部の水源流はこの山から出ており、少し下には、ガマが生え元は湖・池だったと思われる場所に注いでいる。
「海」とあるのは「湖」と考えると、「陰地」という地名が残り、これは湿地を意味する言葉であるから、このような状況を海と記したものと考えられる。
ついでに、峠を越えると、標高405(m)の山から水流があり、これは南に流れ久野川に注いでいる。後藤や加藤はこの山を阿用山とみなしたような記述を行っているが誤りである。

(佐世川最上部水源流)
https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/oohara/unnan-c/daitou-t/Mayou/Rsase-a01.jpg

(阿用山)
https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/oohara/unnan-c/daitou-t/Mayou/Mayou-a01.jpg

(阿用山麓湖跡)
https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/oohara/unnan-c/daitou-t/Mayou/Mayou-a02.jpg

佐世の小川、阿用山の北の海より出る。(魚無し)

幡屋小川源郡家東北幡箭(ハタヤ)ヨリ旡魚

幡屋の小川、源は郡家の東北幡箭山より出て南へ流る。(魚無し)

水自氷合正流入出雲大川

・細川家本k63で「水曰氷合正流入出雲大川」
・日御碕本k63で「水曰氷合正出雲大川
・倉野本k64で「水曰氷合正流入出雲大川」
・紅葉山本k51で「水曰氷合正レテ出雲大川
・出雲風土記抄-4帖-k42-本文で「水曰氷合西流入出雲大河」(国会図書館本では「曰氷」に(三水)と赤書)

水は(ヒョウ)(清水)という。まさに(赤川と)合し流れて出雲大川に入る。

屋代小川出郡家正東(ジョ)田野西斐伊大川此川無魚

・細川家本k63で「屋代小川出郡家正東正除田野西流入斐伊大河旡魚
・日御碕本k63で「屋代小川郡家正東正除田野ヨリ西斐伊大河旡魚
・倉野本k64で「屋代小川出郡家正東正除田野西流入斐伊大河旡魚
・出雲風土記抄-4帖-k42本文で「屋代小川出郡家正東正除田野西流入斐伊大河無魚
 解説で「鈔云此川三代村高塚山之辺自志ヶ谷北流西入斐伊大河也」

この部分、前文におけるつながりの悪さを考えると、最も簡潔な例としては次のようであったのではないかと考えられる。

幡屋小川源出郡家東北幡箭山南流(无魚)
水曰氷合屋代小川正流入出雲大川
久野川出郡家正東除田野西流入斐伊大川(此川无魚)

幡屋小川、源は郡家の東北幡箭山より出て南へ流れる。(魚無し)
水は氷(清水)という。屋代小川に合し正に流れて出雲大川に入る。
久野川、郡家の正東より出て、田野をよけ西に流れて斐伊大川に入る。(此川魚無し)

通道通意宇郡堺木垣坂廾三里八十五歩

通道、意宇郡の堺木垣坂を通り二十三里八十五歩。

仁多郡堺夆谷村廾三里一百八十二歩

仁多郡の堺、夆谷村を通り二十三里一百八十二歩。

飯石郡堺斐伊川五十歩本ノ侭

飯石郡の堺斐伊川の辺には五十歩。

出雲(シュッタウ)郡多義村一十一里二百廾歩

出雲郡、多義村を通り十一里二百二十歩

前件参郡並山野之中也

前の件(サキノクダリ)の三郡は並に山野の中なり。

郡司主帳无位勝部(ヲン)
大領外カ正六位上勳業勝部(ヲン)
少領外從八位上額部臣(コロベノヲン)
主政无位置(ヲン)

郡司主帳無位勝部臣
大領正六位上勳業勝部臣
少領外從八位上額田部臣
主政無位置臣


『出雲国風土記』後記


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Last-modified: 2024-07-03 (水) 05:57:19