『出雲国風土記』
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『出雲国風土記』後記


『出雲国風土記』大原郡(おおはらのこおり)


(白井文庫k45)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-45.jpg
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大原郡
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(白井文庫k46)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-46.jpg
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合郷捌   里廾四
 神原郷      今依前用
 屋代郷      本字矢代
 屋裏郷      本字矢内
 佐世郷      今依前用
 阿用郷      本字阿欲
 海潮郷      本字得鹽
 來以郷      今依前用
 斐伊郷      今依前用
所以号大原者郡家正西一十里一百一十六歩田一十
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町許平原号曰大原徃古之時此處有郡家今猶
追舊号大原今有郡家所
号云斐伊村
神原郷正北九里古老
傳曰所造天下大神神財積置給所則可謂
神財郷而今人猶誤故云神原号耳

屋代郷郡家正北一十里一百一十六歩所造天
下大神之勢立射所故云矢代神龜三年
改字屋代
即有
正倉 屋裏郷郡家東北一十里一百一十六歩
古老傳云所造天下大神令[歹真]笑給所故云矢内
神龜三年
改字屋裏
 佐世郷郡家正東九里二百歩古老
傳曰須佐能表命佐世乃木葉頭刺而踊躍
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合郷捌 里廾四

郷合わせて八 里二十四

神原郷 今依前用

屋代郷 本字矢代

・萬葉緯本k78で「屋代」に「和名大原」と傍記

屋裏郷 本字矢内

佐世郷 今依前用

阿用郷 本字阿欲

海潮郷 本字得鹽

海潮郷 もと字得塩

來以郷 今依前用

来次郷 今も前に依り用いる。

斐伊郷 今依前用

・細川家本k59で「斐伊郷 本字樋 以上別郷別里参」
・日御﨑本k59で「斐伊郷 本字樋 以上捌郷 里参」
・倉野本k60で 「斐伊郷 本字樋 以上別郷別里参」
・萬葉緯本k78で「斐伊郷 本字樋 以上郷捌里参」
・出雲風土記抄4帖k29本文で「斐伊郷 本字樋 以上捌郷里参」

以上比較し、次のように改める。
斐伊郷 本字樋 以上捌郷別里参

斐伊郷 もと字樋 以上八郷、別に里参」

  • 本字樋…樋はトイのことであるから、川の両岸が高くなっていたことを物語る。
    又、受樋のように三刀屋川・久野川・案内川・杉谷川・請川など多くの河川が合流している場所と云う意味で用いられていたとも思われる。

所以号大原者郡家正西一十里一百一十六歩田一十町許平原号曰大原
徃古之時此處有郡家今猶追舊号大原今有郡家所号云斐伊村

  • 大原郡家…
    ・出雲風土記抄4帖k29解説で「鈔云大原郡家者所謂斐伊村也~却一里廾六町正東而當仁和寺村与前原之間欤此処者平野曠然樹林蓊鬱盖是可為古之大原者~」
    ・出雲国風土記考証p332解説で「郡家正西は誤りであつて、正しくは郡家東北にあたる。位置は今の幡屋(はたや)仁和寺(にんなじ)郡垣(こほりがき)といふ所が舊郡家のあとであるといふ。天平時代の郡家は、今の斐伊村里方(さとがた)にあつて、斐伊川より約五十六間、城名樋(きなひ)山の麓より南へ約七町四十間ばかりの所である。」
    ・修訂出雲国風土記参究p430参究で「~そしてその場所は今の大東町前原の土居辺であったと思われる。考証にいう仁和寺の郡垣は、中世の郡家のあったところで、距離もやゝ遠いと考えられる。~」
    ○大原郡家は移転したことが知られている。元は大原にあったが後に斐伊に移転した。
    大原というのは今の木次線幡屋駅周辺を中心とした地域を云う。ここに2007年市道拡張工事の際遺跡が発見され「郡垣(コオリガキ)遺跡」とよばれ、柱穴遺構の存在から旧大原郡家跡と推定された。周辺は住宅地であり、道路部分と周辺一部だけの発掘のため「推定」に留まっている。
    現在石碑が建てられている。地理院地図 雲南市埋蔵文化財調査報告書5-郡垣遺跡1pdf
    尚、加藤の参究は平成9年(1997)刊なので、郡垣遺跡発掘調査の10年前である。
    • 加藤は郡垣では距離がやや遠いと記しているが、加藤のいう距離は、出雲国風土記全体の距離記述に関して加藤が独自に距離を推計したもので、ここで違っていれば加藤の記述全てが違っていることになる。
      加藤は時に奇説を立てること屡々であり、それが混乱を生んでいるが、現地に「郡家(こおりや)」「郡垣」という地名が残っているのに何故岸崎や後藤と異なる説を立てたのか理解しがたい。
      地理院地図では「郡家」の地名が「諏訪神社」後背の諏訪山上に記載されているが、実際には「郡垣」のやや北方の位置に当たる。
      おそらく大原旧郡家は今の石碑の北側あたりに在ったのかと思われる。

(大原旧郡家石碑)
https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/oohara/unnan-c/ohara-guuke01.jpg
・「大原郡家址」と彫られている。

○後藤の記す「斐伊村里方」は今の「斐伊神社」辺りを指す。地理院地図郡家跡自体は不明だが、新造院の跡が南方に確認されている。

  • 大原という地名は今の幡屋駅周辺には見られない。前原・立原・原口という地名はある。
    岸崎は、斐伊郷が郡家に属すという記述から、郡家は斐伊村にあることを前提に、正西10里116歩では、三刀屋の殿河内辺りになり、ここに10町の田(約1km平方)は無く、「正西」を疑問視し「正東」の誤りではないかと推察し、仁和寺と前原の間の地を大原旧郡家の地と判定している。ここを中心に東に「大東(大東町大東)」西に「大西(加茂町大西)」という地名がある事も傍証としている。
    思うに、「大原」というのは、大東から前原そして大西までの赤川流域地帯を指しての呼び名だったのであろうと思われる。狭義には今の幡屋駅周辺の丘陵部(微高台地)を指す。
    大東=大原東、大西=大原西、という事なのであろう。これは出西(出雲西)・出東(出雲東)の呼び方に類似する。
    ただ、西を東と間違える事が果たしてあるのかという疑問が残る。ある時に郡家が今の大東町方面に移転したことがあり、その時の記憶により「正西」と記述されたのではないかという気がする。その後、斐伊郷に再移転し落ち着いたのではないかと考え得る。
    尚、和名類聚抄では屋代郷がなく大原が記されている。
    ・和名類聚鈔-巻第八-出雲國第百八-「大原郷 神原 屋裏 潮海 佐世 阿用 來次 斐甲 大原」
    上記「郡垣遺跡1pdf」のp6で「延長5(927)年の『和名類聚抄』によると、『風土記』に見える屋裏郷は「大原郷」となった。」と記しているが誤りである。

大原と号く所以は、郡家の正西一十里一百一十六歩、田一十町許りの平原を号して大原という。往古の時此処に郡家あり。今猶ふるきを追いて大原と号す。(今郡家のある所を号して斐伊村という)


(白井文庫k47)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-47.jpg
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爲時所刺佐世木葉墮地故云佐世
阿用郷郡家東南一十三里八十歩古老傳曰
昔或人此處山田烔勿守之尒時目一鬼來而食
佃人之男尒時男之父母竹原中隱而居之時竹葉
動之尒貶所食男云動之故云阿欲神龜三年
改字阿用

海潮郷郡家正東一十六里卅三歩古老傳云
宇能活比古命恨御祖須義弥命而北方出雲
海潮押止漂御祖之神此海潮至故云得鹽神亀
三年

改字
海潮
即東北須我小川之湯淵村川中温泉不用

同川上毛間林川中温泉出
來以郷郡家正南八里
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所造天下大神命詔八十神者不置青鹽山裏詔而
追廢時此義迨次生故云來以斐伊郷屬郡家通速
日子命唑此所故云樋神龜三年
改字斐伊

新造院所在斐伊郷中郡家正南一里建立嚴堂也有僧
五軀

大領勝部君䖝麿之所造也新造院所在屋裏
郷中郡家正北一十一里一百二十歩建立層塔也有僧
弌軀

前少領田部臣押嶋之所造今少領伊去
美之從父兄也
新造院
所在斐伊郷中郡家東北一里建立嚴堂有尼
一躯

斐伊郷人樋御支知麻呂之所造也
矢口社 宇乃追社 支須支社 布須社 御代社
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(白井文庫k48)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-48.jpg
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汗乃遲社 神原社 樋社 樋社 佐世社
世裡陀社 得鹽社 加多社以上一十三所
並在神祇官
 奈秦社
等々呂吉社 矢代社 比和社 日原社 情屋社 春徳社 船木社 宮津日社 阿用社 置谷社
伊佐山社 須我社 川原社 除川社 屋代社
以上一十六所
並不有神祇官

[山]
莵原野郡家正東郷屬郡家城名樋山郡家正北一
里百歩所造天下大神大穴持命爲代八十神造
城故云城名樋也高麻山郡家正北一十里一百
歩高一百丈周五里北方有樫椿等類東南
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西三方並野古老傳云神須佐能表命御子青幡
佐草[日古]命是山上麻蒔租故云高麻山即此山峯
唑其御魂也須我山郡家東北一十九里一百八十歩
有檜
 船岡山郡家東北一里百歩阿波枳閇委奈
佐比古命曳來居船則此山是矣故云船岡也御室
山郡家東北一十九里一百八十歩神須佐乃乎命之
御室令造給所宿故云御室凢諸山野所在草木
苦参桔梗菩茄白芷前胡獨活萆薢葛根細辛百芋
白茍説日白歛女委薯蕷麥門冬藤李檜杉栢樫
櫟椿楮楊梅楊槻蘗禽獸則有鷹晨風鳩山鶏
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(白井文庫k49)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-49.jpg
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鳩雉熊狼豬鹿兎獼猴飛鼯
[川]
斐伊川郡家正西五十七歩西流入出雲郡多義林
有年魚
麻須
 海潮川源出意宇與大原上郡堺矣村山北
有年魚
少々
 須我小川源出須我山西流有年魚
少々

佐世小川出阿用山之北海
幡屋小川源出郡家
東北幡箭山南流
水自氷合正流入出雲大川
屋代小川出郡家正東除田野西流入斐伊大川
此川
無魚

通道通意宇郡堺木垣坂廾三里八十五歩通仁
多郡堺夆谷村廾三里一百八十二歩通飯石郡堺斐
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伊河邊五十歩通出雲郡多義村一十一里二百廾歩
前件参郡並山野之中也

     郡司主帳无位勝部臣
     大領正六位上勳業勝部臣
     少領外從八位上額田部臣
     主政无位置臣

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『出雲国風土記』後記


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Last-modified: 2020-08-04 (火) 22:40:48 (4d)