『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡『出雲国風土記』嶋根郡2
『出雲国風土記』秋鹿郡『出雲国風土記』楯縫郡
『出雲国風土記』出雲郡『出雲国風土記』神門郡
『出雲国風土記』飯石郡『出雲国風土記』仁多郡
『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記

『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介


『出雲国風土記』意宇郡(おうのこおり)

(白井文庫pk4)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-04.jpg


意宇郡
 合郷壹拾壹里卅餘戸壹驛家参神戸參
 母理郷  本字文理
 屋代郷  今依前用
──────────

意宇郡

意宇(オウ)(コオリ)

合郷 壹拾壹里卅 餘戸壹 驛家参 神戸參

合わせて郷一十一里三十、余戸一、駅家三、神戸三

母理(モリ)郷 本字文理(モリ)

母理郷(モリノゴウ) (モト)の字は文理

屋代郷 今依前用

屋代郷(ヤシロノゴウ) 今も(サキ)に依りて用いる。

(白井文庫k05)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-05.jpg
──────────
楯縫郷  今依前用
安來郷  今依前用
山國郷  今依前用
飯梨郷  本字云成
舍人郷  今依前用
大草郷  今依前用
山代郷  今依前用
拜志郷  今字林
完道郷  今依前用 以上壹拾一郷別里參
餘戸里
-----
野城驛家
里田驛家
完道驛家
出雲神戸
賀茂神戸
忌部神戸
所以号意宇者国引唑セリ
 
八束水臣津野命詔八雲立カ
 

出雲国者狹布之(ウツ)国在哉初国小所作故將作
縫詔而栲衾志羅紀乃三埼矣国之餘有耶見
者国之餘有詔而童女离鉏所取而大魚之支太
──────────

楯縫郷  今依前用

楯縫郷  今も(サキ)に依りて用いる

安來郷  今依前用

安來郷  今も前に依りて用いる

山國郷  今依前用

山國郷  今も前に依りて用いる

飯梨郷  本字云成

飯梨郷  元字云成

舍人郷  今依前用

大草郷  今依前用

山代郷  今依前用

拜志郷  今字林

完道郷  今依前用 以上壹拾一郷別 里參

・細川家本k06で「完道郷  今依前用 以上壹拾郷別里参」
(山川版p81では「宍道郷。今依前用。以上壱拾、郷別里参。」と改変。
・日御碕本k06で「完道鄕 今依前用 以上壹拾鄕別里参」

餘戸里

野城驛家

里田驛家

完道驛家

・細川家本k06で「完道驛家」
(山川版p81では「宍道駅家。」と改変。
・日御碕本k06で「完道驛家」

出雲神戸

賀茂神戸

忌部神戸

所以号意宇者 国引唑セリ
 
八束水臣津野命詔 八雲立出雲国者 狹布之(ウツ)国在哉

意宇(オウ)(ナズ)所以(ユエン)は、国引き()せり八束水臣津野命()りて、八雲立つ出雲の国は狭布(サヌノ)堆国(ウツクニ)にあるかな。

初国小所作 故將作縫 詔而 栲衾志羅紀乃三埼矣 国之餘有耶見者 国之餘有 詔而

初国は小きき所に作れり。(カレ)まさに作り縫わん。と詔りたまいて、栲衾(タクブスマ)志羅紀(シラキ)の三埼を 国の余り有るやと見れば、国の余り有り。と詔りたまいて、

童女离鉏所取而 大魚之支太衝別而

童女の(ムネ)(スキ)取らして、大魚(オフヲ)支太(キダ)衝き別けて

(白井文庫k06)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-06.jpg
──────────
衝別而波多須支穂振別而三身之総打桂與霜
黑葛聞
 

 
尒 河船之毛
 

 

 
尒 国
 

 
引來
縫国者 自去豆乃折絶而 八穂朱支豆支乃郷埼
以此而堅立加志者石見国與出雲国之堺有名
佐比賣山是也亦持引綱者薗之長濱是也亦北
門佐伎之国之餘有耶見者国之餘有詔而意下ニ童トアリ
意女离鉏取与火魚之支大衝別而波多須
 
支穗
振別而三身之綱打桂而霜黑葛聞
 
耶尒河船之

 

 

 
尒国
 

 
引來綱国者自多久乃折
絶与狹田之国是也亦北門良波之国矣 国之餘有
-----
耶見者国之餘有詔而 童意女离鉏取取而大魚之支
大衝別而波多須
 
支穗振別而三身之綱打挂而霜黑
葛聞
 

 
尒河船之毛
 

 

 
尒 国
 

 
自是下八十三字衍字「來綱国者自
多久乃折絶與狭田国是也亦北門良波之国矣国之
餘有邪見者国之餘有詔而童意女离鉏取取而大魚
之支大衝別而波多須
 
支穗振別而三身之綱打挂而
霜黑葛聞
 

 
尒河船之毛
 

 

 
尒 国
 

 
引」是迄時
引縫国者自乎波縫折絶而闇見是也亦高志
之都乃三埼矣国之餘有邪那トアリ見者国之餘有詔而童
意女离鉏所取而大魚之支大衝別而 波多須
 
支穗
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波多須〃支穂振別而 三身之綱打挂而

(原文:波多須支穂振別而 三身之総打桂與)
波多須須支(ハタススキ)穂振り別けて、三身(ミツヨリ)の綱打ち()けて、

霜黑葛聞〃耶〃尒 河船之毛〃曽〃呂〃尒 国〃來〃引來縫国者

霜黒葛(シモツヅラ)闇耶(クルヤ)闇耶に、河船の毛曽呂(モソロ)毛曽呂に 国來(クニコ)国來と引き來縫へる国は

自去豆乃折絶而 八穂朱支豆支乃郷埼

去豆(コヅ)折絶(タエ)よりして、八穂米支豆支(ヤホシネキヅキ)御埼(ミサキ)なり。

以此而堅立加志者石見国與出雲国之堺有 名佐比賣山是也

此をもちて堅め立てし加志は、石見国と出雲国の堺に有る 名は佐比賣山 是也。

亦持引綱者 薗之長濱是也

亦、持ち引ける綱は (ソノ)の長濱、是也。

亦、北門佐伎之国之餘有耶見者、国之餘有。

亦、北門の佐伎の国の余り有りやと見らば、国の余り有。

詔而、意下ニ童トアリ意女离鉏取与火魚之支大衝別而、波多須〃支穗振別而、三身之綱打桂而、霜黑葛聞〃耶尒 河船之毛〃曽〃呂〃尒 国〃來〃引來綱国者

自多久乃折絶与 狹田之国是也

多久の折絶(タエ)よりともに、狹田の国是也。

亦、北門良波之国矣 国之餘有耶見者 国之餘有。

亦、北門の良波(ヨナミ)の国に国の余り有りやと見らば、国の余り有。

詔而 童意女离鉏取取而 大魚之支大衝別而 波多須〃支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黑葛聞〃耶〃尒。 河船之毛〃曽〃豆〃尒 国〃來〃引自是下八十三字衍字「~略~」是迄時 引縫国者

自乎波縫折絶而闇見是也

宇波より縫い折絶て、闇見国是也

亦高志之都乃三埼矣国之餘有邪那トアリ見者国之餘有

亦、高志の都の三埼に国の余り有りやと見らば、国の余り有。

詔而 童意女离鉏所取而 大魚之支大衝別而 波多須〃支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黒葛聞〃邪〃尒 河船之毛〃呂〃尒国〃來〃引來縫国有

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(白井文庫k07)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-07.jpg
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振別而三身之綱打挂而霜黒葛聞〃邪〃尒河船之
毛〃呂〃尒国〃來〃引來縫国有三穂之椅接引
綱夜見島固堅立加志者有伯耆国火神岳是也
今者国者引記詔而意乎社尒御枝衝立而意
惠登詔故云
 意宇 所謂意宇者社郡家東北邊田中社
塾是也周八歩許其上有一以茂

母里郷郡家東南卅九里一百九十歩所造天下
大神大穴持命起八口平賜而還唑時唑長江山而
詔我造唑而命国者皇御孫命平也所知依奉
但八雲立出雲国者我静坐国青垣山廻賜而玉
----
弥直賜而守詔故云文理神亀三年
改字母里

屋代郷郡家正東卅九里一百廿歩天乃夫比命御伴
天降來社伊支等之遠神天津子命詔吾浄將坐志
社詔故云社神亀三年
改字屋代

楯縫郷郡家東北卅二里一百八十歩布都怒志命之
天名楯縫直給之故云楯縫
安来郷郡家東北廿七里一百八十歩神須佐乃烏
命天壁立廻唑之尒時来坐此處而詔吾御心者
安平成詔故云安来也即此海有邑賣埼飛鳥浄
御原宮御宇天皇御世甲戌年七月十三日詔
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三穂之埼 接引綱夜見島 固堅立加志者有伯耆国火神岳是也

(三穂之椅 接引綱夜見島 固堅立加志者有伯耆国火神岳是也)

三穂之埼。(ツナ)ぎ引ける綱は夜見島。固堅(カタメ)立てし加志は伯耆国に有る火神岳是なり。

今者国者引記詔而意乎社尒御枝衝立而意惠登詔

今は国は引記(ヒキトリヌ)(ノリ)て、意乎社(オウノヤシロ)御枝(ミツエ)衝き立てて意惠(オエ)(ノリタマ)

故云 意宇 所謂意宇者社郡家東北邊田中社塾是也周八歩許其上有一以茂

まずは白井本に即して読んでみる。
故に云う 意宇。所謂(イワユル)意宇は(ヤシロ)郡家(グウケ)の東北の(ホトリ)田中社塾(タナカノヤシロノジュク)是なり。(メグリ)八歩(バカリ)、其上に一以(イチイ)有りて茂れり。

細川家本k08「所謂意宇社者郡家東北邊田中在塾是也國八歩許其上有一以茂」
日御碕本k08「所謂意宇者社郡家東北邊田中在塾是也国八歩許其上有一以茂」
倉野本k08「所謂意宇者社郡家東北邊田中在塾是也國八歩許其上有一以茂」
出雲風土記抄1帖k12本文「所謂意宇社(杜)者郡家東北辺田中在塾是也国八歩許其上有木以茂]]
・上田秋成書入本k007「所謂意宇者社郡家東北邊田中在塾是也國八歩許其上有一以茂」
赤字で「者社」に(社者)、「也國」の間に(脱句)、「一以」の間に(衍字)の書き込みあり。

諸本を勘案すると、元文は次のようであったと考えられる。
「所謂意宇社者郡家東北邊田中在塾是也周八歩許其上有一以茂」

「所謂意宇社は、郡家の東北邊、田中に在る塾是なり。周り八歩許り其上に一以有りて茂れる。」

母里郷郡家東南卅九里一百九十歩

母里郷(モリノゴウ)、郡家の東南卅九里一百九十歩

所造天下大神大穴持命起八口平賜而還唑時唑長江山而詔

所造天下(アメノシタツクラシシ)大神大穴持命 (コシ)の八口を(コトム)け賜いて、還唑(カエリマシ)し時、長江山に(イマ)して(ノリ)たまう。

我造唑而命国者皇御孫命平也所知依奉
但八雲立出雲国者我静坐国青垣山廻賜而玉弥直賜而守詔

我造りまして(シロ)す国は、皇御孫命(スメミマノミコト)平也所(タイラカナリシトコロ)と知り(ヨサシ)(タテマツ)る。
但し、八雲立出雲国は我静まり坐す国にて青垣山(メグ)らし賜いて、玉珠(ギョクシュ)を置き賜いて(モリ)す。と()る。

重要な部分なので次に解りやすいように意訳しておく。
「私が国造りし治めてきた国は、皇御孫命に穏やかなるところとしてさしあげます。
但し八雲立出雲国は私が静かに暮らす国であり、青垣山をめぐらし玉珠を置いて守ります。」

故云文理 神亀三年改字母里

故に文理(モリ)と云う。 神亀三年字を母里に改める

屋代郷郡家正東卅九里一百廿歩

天乃夫比命御伴天降來社伊支等之遠神天津子命詔吾浄將坐志社詔 故云社 神亀三年改字屋代

天乃夫比命、御伴と天降り來ましし、社印支(ヤシロノイナギ)等の遠つ神、天津子命(アマツコノミコト)詔て、吾が浄まり將坐(マサム)(オモオ)(ヤシロ)と詔す。
故に(ヤシロ)という。 神亀三年、字を屋代に改める

楯縫郷郡家東北卅二里一百八十歩

布都怒志命之天名楯縫直給之故云楯縫

布都怒志(フツヌシ)命の天石楯(アメノイワタテ)を縫い直し給いき。故に楯縫と云う。

(天石楯)
https://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/yasugi-c/ukasyou-t/dakeJ/dakeJ-c021.jpg

安来郷郡家東北廿七里一百八十歩

神須佐乃烏命天壁立廻唑之尒時来坐此處而詔吾御心者安平成詔

神須佐乃烏命(カミスサノヲノミコト)天壁立(アメノカベタチ)廻りましし時に、此處(ココ)に来まして(ノリタマ)う。「吾が御心は安く平らか成」と(ノリタマ)う。

故云安来也

故に安来と云うなり。

即此海有邑賣埼

・細川家本k09・日御碕本k09・倉野本k09・倉野本k09・萬葉緯本k12・出雲風土記抄1帖k16本文で「即北海有邑賣埼」
・萬葉緯本NDLk11で「即北海有邑日賣埼」
・紅葉山本k07で「即北海有邑賣崎」

即ち北の海に、(ムラ)有り、賣埼。

飛鳥浄御原宮御宇天皇御世甲戌年七月十三日詔


(白井文庫k08)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-08.jpg
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臣猪麻呂之女子遥伴埼邂逅遇和令所賊不切
尒時父猪麻呂所賊女子歛買上大發若憤號天
踊地行吟居嘆昼夜辛苦無避歛所作是之間經
歴數日然後興慷慨志麻呂箭鋭鋒撰便処居即
擡討云天神子五百万地祇子五百万并ニ當國
静唑三百九十九社及海若等大神之和魂者静
而荒魂者皆悉依給猪麻呂之所乙良有神㚑唑
者吾所傷給以此囲繞一和尒徐率依来従於居
下不進不退猶圍繞耳尒時挙鉾而刄中天一和
尒殺捕已說然後百餘和尒解散殺割者女子之
-----
一脛屠出仍和尒有殺割而掛串立路之蓾也安東郷入
諸臣与之
 (蓾は草冠に歯の異体字:[卄/凵米])
父也自尒時以来至
于今月径六十歳

山国郷郡家東南卅二里二百卅歩布都怒志之国廻
唑時来坐此處而詔是土者不止欲見語故云山国也
即有正倉
飯梨郷郡家東南卅二里大国魂命天降坐時
當此處而御膳食給故云飯成神亀三年
改字飯梨

舍人郷郡家正東廾六里志貴嶋宮御宇天皇
之御世倉舎人君等之祖日宣臣志毘大舎人
供奉也即是志毘之所居故云舎人即有正倉
──────────

臣猪麻呂之女子遥伴埼邂逅遇和令所賊不切

(オトド)猪麻呂(イノマロ)女子(ムスメ)伴埼(クダンノサキ)(アソ)びて、邂逅(タマサカ)和令(ワニ)()い、所賊(ソコナ)われて(カエラ)ざりき

尒時父猪麻呂所賊女子歛買上大發若憤號天踊地行吟居嘆昼夜辛苦無避歛所

時に、父猪麻呂所賊(ソコナ)われし女子(ムスメ)を賣の上に(オサ)め、大いに(オコ)り、(モシク)(イキドオリ)て、天に(ヨバ)い、地に(オド)り行く。(サマヨ)(オリ)て嘆き、昼夜(ヒルヨル)辛苦(タシナ)め、(オサメ)し所を避ること無し。

作是之間經歴數日

作是之間(カクスルホドニ)数日(ヒカズ)經歴(ヘタ)り。

然後興慷慨志麻呂箭鋭鋒撰便処居即擡討云

然る後、慷慨(コウガイ)の志を興し、麻呂()を鋭ぎ、(ホウ)を撰び便(ヨロシ)き処に居りて、即ち(モタ)げて討つと云う

天神子五百万地祇子五百万并ニ當國静唑三百九十九社及海若等大神之和魂者静而荒魂者皆悉依給猪麻呂之所乙

天神子(アマツカミノミコ)五百万(イオヨロズ)地祇子(クニツカミノミコ)五百万、(ナラビ)當國(トウゴク)に静まり唑す三百九十九社及び海若等(ワダツミラ)が大神の和魂(ニギミタマ)は静まりて、荒魂(アラミタマ)は皆(コトゴト)く猪麻呂の所に依り給へ。

良有神㚑唑者吾所傷給

(マコト)神霊(ミタマ)の有りまさば、吾を(イタ)わらし給へ。

以此知神㚑之所神者

此をもちて神霊の神たるを知らむ。

ここに欠文があると考えられ、上田秋成書入本から次の一文を補う。

(尒時有須臾而和尒百餘浄)

(時に、須臾(シバラク)して鰐百餘(ヒャクアマリ)(シズカ)に)

囲繞一和尒徐率依来従於居下不進不退猶圍繞耳

一つの鰐を囲繞(カコ)み、(ユルヤカ)に依り(キタリ)て、居る(トコロ)より進まず退かず猶圍繞(カコ)めるのみ。

尒時挙鉾而刄中天一和尒殺捕

時に、鉾を挙げて中天(マナカ)なる一つの鰐を(サシ)て、殺し捕りき。

已說然後百餘和尒解散殺割者女子之一脛屠出

(スデ)()えて然して後に百余(モモアマリ)の鰐解散(アラ)けぬ。(コロ)(サケ)女子(ムスメ)の一つ(ハギ)(ホフ)り出つ。

仍和尒有殺割而掛串立路之蓾也安東郷入諸臣与之父也自尒時以来至于今月径六十歳

(ヨリ)て鰐を殺し()きて串に掛け、路の(ホトリ)に立つ也。
安来郷の人語臣(カタリノオミ)(アタウ)の父なり。その時以来今日に至るに六十歳を経たり

山国郷郡家東南卅二里二百卅歩

山国郷。郡家(グウケ)の東南三十二里二百三十歩

布都怒志之国廻唑時来坐此處而詔是土者不止欲見語故云山国也即有正倉

布都怒志命の国廻りまし時、此處に来り坐して詔る。是(クニ)には止まず見が欲しと語る。故に云う山国也。即ち正倉有り。

飯梨郷郡家東南卅二里

大国魂命天降坐時當此處而御膳食給故云飯成 神亀三年改字飯梨

大国魂命(オオクニタマノミコト)天降りましし時、此處に当たりて御膳(ミケ)()し給えり。故に飯成(イヒナシ)という。 神亀三年、字を飯梨に改む

舍人郷郡家正東廾六里

志貴嶋宮御宇天皇之御世倉舎人君等之祖日宣臣志毘大舎人供奉也即是志毘之所居故云舎人即有正倉

志貴嶋宮御宇天皇之御世、倉舎人君(クラトネノキミ)等の(オヤ)日宣臣(ヒキノオミ)志毘(シビ)大舎人(オオトネ)(ツカ)へ奉りき也。即ち是、志毘の(スメ)る所。故に舎人(トネ)と云う。即有正倉


──────────
「出雲国風土記考証」天平時代意宇郡之図(誤りがあるので注意)
https://fuushi.k-pj.info/jpg/map/izumofudoki_tp_ou.jpg



『出雲国風土記』意宇郡2


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Last-modified: 2024-09-23 (月) 03:03:20