『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡『出雲国風土記』秋鹿郡
『出雲国風土記』楯縫郡『出雲国風土記』出雲郡
『出雲国風土記』神門郡『出雲国風土記』飯石郡
『出雲国風土記』仁多郡『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記

『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介


『出雲国風土記』出雲郡(しゅっとうのこおり)


(白井文庫k28)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-28.jpg
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出雲郡
合郷捌里廾二  神戸壹
 縫郡郷  今依前用
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 湊沼郷  本字志司沼
 河内郷  今依前用
 出雲郷  今依前用
 杵築郷  本字寸付
 伊努郷  本字伊農
 美談郷  本字三太三以上漆郷別里參
 宇賀郷  今依前用
 神戸郷  里々
所以号出雲者説名如国也
徤郡郷郡家正東一十二里二百廾四歩先所以号宇
──────────

出雲郡(シュツタウゴヲリ)

合郷捌里廾二 神戸壹

郷を合せて八(里二十二)。 神戸一(里)

縫郡郷  今依前用

縫郡郷  今も前に依りて用いる

湊沼郷  本字志司沼

漆沼郷  本字は志司沼

河内郷  今依前用

河内郷  今も前に依りて用いる

出雲郷(アダカエノゴウ)  今依前用

出雲郷  今も前に依りて用いる

杵築(キヅキノ)郷  本字寸付(キツキ)

伊努郷  本字伊農

美談郷  本字三太三以上漆郷別里參

美談郷  本字は三太三。以上七郷、別に里三

宇賀郷  今依前用

神戸郷  里々

神戸郷  里々

所以号出雲者説名如国

出雲と号すゆえは、名を説くこと国の如し也。

(ウヤ)郡郷郡家正東一十二里二百廾四歩

徤郡郷、郡家の正に東一十二里二百二十四歩


(白井文庫k29)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-29.jpg
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夜里者宇夜都辨命其山峯天降唑之即彼神
之社主今猶唑此處故云宇夜里而後改所以
号徤郡之纏向檜代宮御宇天皇勅不忘朕御
子倭徤命之御名徤郡定給尒時神門臣古弥
徤郡定給即徤郡臣等自古至今猶居此巡処
故云徤郡漆沼郷郡家正東二百七十歩神
魂命御子天津枳値可美高日子命御名又云
薦枕志都沼値之此神郷中唑故云志刃治神亀
三年

字改
漆沼
即有正倉 河内郷郡家正南三百九十
七歩装伊大阿野郷宇北流故云河内郷
-----
即有優長一百七十丈五尺七十一丈之廣七丈九十五丈之
廣四尺五寸 甫曰此段不審文法也

出雲郷即屬郡家説名
如国
 甫曰此段落文有又上段有之廣何程有
又廣何程有疑此下文上交

杵築郷郡家西北廾八里六十歩八束水臣津野命
之国引給之後所造天下太神之宮將奉與諸皇
神等參集宮處杵築故云寸付神亀三年
改字杵築

伊努郷郡家正北八里七十二歩国引唑意美豆
努命御子赤衾伊努意保須美比古佐倭氣能
命之祖即唑郷中故云伊努神亀三年
改字伊努
美談郷
郡家正北九里二百四十歩所造天下太神御子
和加布都努志命天地初判之後天御鎭田之長
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所以ンハ宇夜里(ウヤノサト)宇夜都辨命(ウヤツベノミコト)山峯天降唑之(マシシ)

先ず宇夜の里と号す所以は、宇夜都辨命その山の峯に天降りましし。

・出雲風土記解-中-k28本文
サキニウヤリトナツクルユヱハ ウヤツベノミコトコノヤマニアモリマシキ
先所以号宇夜里者宇夜都弁命其山峯天降坐之
スナハチコノカミノヤシロイマニココニマスカレウヤリトイフ
即彼之神之社主主ハ按至リ今猶坐比處故云宇夜里

之社主今猶唑此處故云宇夜(ウヤ)

即ち、彼の神の社の主、今猶此處にいます。故に宇夜の里と云う。

而後改所以(ウヤ)纏向檜代宮(ムキムクヒシロノミヤ)御宇天皇(アメガシタシロシメススベラミコ)(ミコトノリテ)朕御子(ワガミコ)倭徤命(ヤマトウヤノミコト)()御名(ウヤ)定給
神門臣(カンドノヲン)古弥(コミ)(ウヤ)郡定給
(ウマ)(ヲシ)等自古至ルマデ猶居此巡故云徤郡

而後改め、徤郡と号す所以は、之纏向檜代宮御宇天皇勅て朕御子倭徤命の御名を忘れじと徤の郡と定め給う。

時に神門臣古弥、徤郡定め給う。

即ち、徤郡臣等古より今に至るまで、猶、此巡り処に居り故に徤郡と云う。

・出雲風土記抄3帖k13本文
而後改所以號スル健耶纏向檜代(マキムクノヒシロ)宮御宇天皇勅不忘朕()倭健(ヤマトタケ)命之御名健耶定給
尒時神門(カンド)古弥(コミ)健耶定給
即健耶臣等自古至今猶居此處故云健耶

・出雲風土記解-中-k28本文
シカシテノチタケムベトアラタメナツクルユヱハ マキムクヒシロノミヤニアメノシタシラシゝスメラミコトノアガミコヤマトタケノミコトノミナヲワスレジトノリタマヒテタケムベヲサタメタマフ
而後改所以号健部之纏向檜代宮御宇天皇勅不忘朕御子倭健命之御名健部定給
ソノトキカムトノオミフルネヲタケムベトサタメタマヘリ
尒時神門臣古祢健部定給
即健部臣等自古至今猶居比處故云健部

・訂正出雲国風土記-下-k5
(シカルニノチニアラタメテタケベトナヅクルユエハマキムクノヒシロノミヤニアメノシタシロシメシスメラミコトノアガミコヤマトダケノミコトノミナヲワスレジトノリタマヒテタケベヲサタメタマフ)
而後改所以號健號部之纏向檜代宮御宇天皇。勅不忘朕御子倭健命之御名。健部定給
(ソノトキカムトノオミフルネヲタケベトサタメタマヒキ)
爾時神門臣古禰健部定給
スナハチタケベノオミラ
即健部臣等。自古至今猶居此處故云健部。

漆沼(シヌノ)郡家正東二百七十歩

漆沼郷、郡家の正に東二百七十歩

(カン)魂命御子(ミコ)天津枳値可美高日子(タカヒコノ)命御名又云薦枕志都沼値之此神郷中唑故云()刃治神亀三年字改漆沼ト即有正倉

神魂命御子、天津枳値可美高日子命、御名を又 薦枕志都沼値と云う。これ此神郷中に唑す故、志刃治と云う。(神亀三年、字を漆沼と改む)即ち正倉有り。

河内郷郡家正南三百九十七歩
装伊大阿野郷宇北云河内郷
即有優長一百七十丈五尺七十一丈之廣七丈(百カ里カ)九十五丈之廣四尺五寸 甫曰此段不審ノ文法也

河内郷、郡家の正に南三百九十七歩。

斐伊大河、此の郷中を北に流る。故に河内郷と云う。

即ち優有り。長さ一百七十丈五尺(七十一丈、この廣さ七丈。九十五丈、この廣さ四尺五寸。甫曰く此の段文法不審也)

出雲郷(アダカエノゴウ)即屬郡家説ノ名如国ノ 甫曰此段ニ落文有ン又上ノ段ニ有之廣サ何程ト有テ又廣サ何程ト有疑フラクハ此下ノ文上ヘ交リタルニヤ

出雲郷、即ち郡家に属す(名を説くこと国の如し)(甫曰く此段に落文有らん又上の段に有る之廣さ何程と有りて、又廣さ何程と有る。疑うらくは此下の文、上へ交りたるにや)

杵築郷郡家西北廾八里六十歩八束水臣津野命(ヤツカミノヲシツノミコト)之国引給之後所造天下太神之宮將奉與(モロモロノ)皇神等(スメカンタチ)(ツドヒ)宮處杵築(キヅキス)故云寸付(キヅキ) 神亀三年改ム字杵築ト

杵築郷、郡家の西北二十八里六十歩。八束水臣津野命の国引き給いし後、所造天下太神の宮を將に奉らんと諸皇神等參り集まり宮處杵築す。故に寸付という。(神亀三年字を杵築と改む)

伊努郷郡家正北八里七十二歩国引意美豆努命(イミツヌノミコト)御子赤衾伊努意保須美比古佐倭氣能命(アカフスマイヌイホズミヒコサワケノミコト)(ミオヤ)(マシ)マス郷中(カレ)云伊努神亀三年改ム字ヲ伊努ト

伊努郷、郡家の正に北八里七十二歩。国引き唑す意美豆努命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐倭氣能命の祖、即ち郷中に唑ます、故伊努と云う。(神亀三年字を伊努と改む)

・出雲風土記抄3帖K17
本文「伊努郷郡家正北八里七十二歩国引坐意美豆努命御子赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命之祖社凢即坐郷中故云伊努神亀三年
改字伊努

解説「抄云八里七十二歩者今之一里十三町十二間也并于東西林木及神門郡高濱村久佐加(クサカ)矢尾(マヒ)村石臼等以為此郷中也有西林木于伊努谷大明神社此郷古出雲郡今入楯縫郡也」

・鶏頭院天忠校正本k31
伊努(イヌ)郡家正北八里七十二歩國引()豆努(ツヌノ)御子赤衾伊努意保須美比古佐倭氣能(アカフスマイヌイホスミヒコサワケノ)命之(オヤ)郷中故云伊努 異本ノ注書ニ 神亀三年改字ヲ伊努

・上田秋成書入本k32
伊努(イヌノ)郷郡家正北八里七十二歩国引意美豆努(イ(オ)ミツヌノ)御子(ミコ)赤衾伊努意保須美比古佐倭気能(アカフスマイヌイ(オ)ホスミヒコサワケノ)之祖即坐郷中故云伊努神亀三年
改字伊努

・「出雲風土記全」k26
「伊努郷郡家正北八里七十二歩国引坐意美豆努命御子赤衾(アカフスマ)伊努意保須美比古佐倭氣能命之(ヲヤ)即唑郷中故云伊努神亀三年字伊努

・出雲風土記解-中-k31
本文「伊努郷郡家正北八里七十二歩凢今一里三町餘国引坐意美豆努命(クニヒキマシゝオミツヌノミコト)御子(ミコ)赤食(アズキ)衾尒誤本有伊努意保須美比古佐倭氣(イヌオホスミヒコサワケノ)命之社一本祖に誤鈔本ハ社祖と云即坐郷中(スナハチケトノチニマス)故云伊努(イヌ)農に改へし目録に本字伊農と云り本字を書例 神亀三年改字伊努

  • 眞龍は「赤衾」を「赤食」とし「衾尒誤本有」と解説しているが、細川家本・日御碕本・倉野本など諸本「赤衾」であり、眞龍の方が誤っている。訂正出雲風土記でさえも赤衾としている。

美談(ミタミ)郷郡家正北九里二百四十歩所造天下太神御子和加布都努志命天地初判之後天御鎭田(ミヲヤタ)()(ヲサ)供奉(ツカヘマツリ)マス彼神唑マス故云三太三(ミタミ)神龜三年改字美談ト即有正倉

美談郷、郡家の正に北九里二百四十歩

所造天下太神御子、和加布都努志命、天地初判之後、天御鎮田の長供へ奉り坐す。これ即ち彼の神郷の中に坐す故三太三と云う。(神龜三年、字を美談に改む) 即ち正倉有り。

・出雲風土記抄3帖k17
本文「美談郷郡家正北九里二百四十歩所造天下大神御和加布都努志命天地初判之後天御領田(アマノミヲサタ)(ヲサ)供奉坐(ツカヘマツリマス)之即彼神坐郷中故云三太三即有正倉神龜三年改字美談
解説「抄云九里二百四十歩者今之一里廾九町則并セテ美談村今在家村以為此郷也蓋出雲川東流後美談今在家(ヘタテゝ)(ナリテ)別村今在家(ツキ)出雲郡美談楯縫郡也又和加布都努志社タリ于下矣」
(抄に云。九里二百四十歩は今の一里二十九町、則ち、今在家と美談村を併せて以て此郷と為す也。蓋し出雲川東に流れて後、美談と今在家へだてて、別村となりて遂に今在家は出雲郡につき、美談は楯縫郡に属す也。又、和加布都努志社の事は下に見たり。)

  • 出雲川は今の斐伊川。斐伊川の流れにより今在家と美談が両岸に分かれている。

・出雲風土記解-中-k32
本文「美談郷郡家正北九里二百四十歩所造天下大神命譲坐神魂命御子綾門日女命尒時女神不肯逃隠之時大神伺求給所是則此郷故云宇賀」(傍記・注記は略す)

  • 美談郷と宇賀郷とが混在してしまっている。

・訂正出雲風土記-下-k6
美談郷(ミタミノサトハ)郡家正北九里二百四十歩
所造天下大神御子(アメノシタツクラシシオホカミノミコ)和加布都努志命(ワカフツヌシノミコト)天地初判之後(アマツチハジマリシノチ)天御領田之長供奉坐之(アメノミシロタノカミツカエマツリマシキ)即彼神坐郷中(スナハチソノカミサトノウチニマス)故云三太三(カレミタミトイフ)神龜三年改字ヲ美談即有正倉(スナハチミクラアリ)


(白井文庫k30)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-30.jpg
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供奉唑之即彼神唑郷中故云三太三神龜三年
改字美談

有正倉宇賀郷郡家正北一十七里二十歩所造
天下大神命譲唑神魂命御子綾門日女命尒
時女神不肖逃隱之時大神伺求給所此財足郷故
云宇賀即北海濱有礒名脳礒高一丈許上唑松荒
至礒[日/亡]人之朝夕如往來又木人之如攀引自礒西
方窟戸高廣各六尺許窟内在穴人不得入不知
深浅也多至此礒窟之邉者必死故俗人自古至今
号黄泉之坂黄泉之穴也
神戸郷郡家西北二里一百廾歩出雲也説名
如意宇郡

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[寺]
新造院一所有内郷中建立嚴堂也郡家正南三里
一百歩旧大領日置臣布弥之所造今大領佐冥
鹿之祖父

[社]
杵築大社  御魂社  御向社  出雲社
御魂社  伊努社  意保美社  曽致乃夜社
牟久社  審伎乃夜社  阿受伎社  美佐伎社
伊奈佐乃社 放太放社  阿我多社  伊波社
阿具社  都牟目社  久佐加社  故努婆社
阿受枳社  守加社  同阿受枳社  布世社
神代社  加立利社  來坂社  伊農社
同社  同社  鳥屎社  御井社
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宇賀郷郡家正北一十七里二十歩
所造天下大神命譲マス神魂御子綾門日女命(アヤドヒメノミコト)尒時女神不肖ニメ逃隱之時大神伺財足郷(タカラタルサト)故云宇賀

宇賀の郷、郡家の正に北一十七里二十歩。
所造天下大神命、神魂命の御子綾門日女命に譲り坐す時、女神不肖にて逃れ隱るる。
この時大神伺い求め給う所に此れ財足郷、故に宇賀と云う。

・出雲風土記抄3帖k18
本文「宇賀郷郡家正北一十七里廾五歩所造天下大神之命譲坐神魂(カンムスヒノ)命御子綾門日女命尒時女神(メカミ)不肖ニメ(ノカレ)(カクルゝ)之時大神伺求給所此則是郷也故云宇賀
・出雲風土記抄3帖k19
解説「鈔云一十七里廾五歩今二里卅町二十五間 以口奥宇賀為本郷東南国冨西唐川別所川下井呑等處々以為宇賀
(鈔に云う。一十七里二十五歩は今二里三十町二十五間。口奥の宇賀を以て本郷と為す。東南は国冨、西は唐川・別所・川下・井呑等の処々を併せ、宇賀郷と為す。)

  • ここで「口奥の宇賀」と云うのは「口宇賀」と「奥宇賀」の二箇所を指している。「川下」は今の「河下」、「井呑」は「猪目」の事であろう。

・上田秋成書入本k32
「宇賀郷郡家正北一十七里二十五歩造天下大神命譲唑神魂命御子綾門日女命尒時女神不肖逃隠之時大神伺求給所此財見郷故云宇加」

・鶏頭院天忠本k31
()賀郷郡家正北七里三十五歩所造タラ天下大神譲唑神魂(カンミタマノ)御子綾門日女(アヤトヒメノ)尒時女神(メカミ)不肖ニメルゝ之時大神伺所此財是郷故云宇加

・訂正出雲風土記-下-k7
宇賀郷(ウガノサトハ)。郡家正北一十七里廾五歩。所造天下大神命(アメノシタツクラシシオホカミノミコト)[言+六/口/伏]坐神魂命御子綾門日女命(カミムスビノミコトノミコアヤトヒメノミコトヲヨバヒマス)爾時女神不肯(ソノトキヒメカミウベナハズ)逃隠之時(ニゲカクレタマフトキニ)大神伺求給所是則此郷(オホカミウカゞヒマギタマフトコロコレスナハチコノサトナリ)故云宇賀(カレウガトイフ)。」

・出雲風土記全k26
「宇賀郷郡家正北一十七里二十五歩造天下大神命譲唑神魂命御子綾門日女命尒時女神不肖逃隠之時大神伺求給所此戝是郷故云宇加」
(千家俊信の赤字書込は訂正出雲風土記に合わせようとしたものであり省く。「戝」は「賊」の略字であるが「財」の異体字の意図であろう。)

北海濱有礒名脳礒(ナヤミノイソ)高一丈許

即ち北海の濱、礒有り脳礒と名づく。高さ一丈許り。

マス松荒至礒[日/亡]ヲシシ
フシシ
人之朝夕如往來スル又木人之如攀引(ヨヂヒクガ)

上に坐す松荒れ礒に至る。皁人の朝夕往來する如し。又木を人の攀引くが如し。

松が盆栽などで云われる懸崖の姿、即ち枝先が下に垂れ磯まで下がっている様子を表している。
「皁人の朝夕往来する如し。木を人の攀引くが如し。」と云うのは(松が風に吹かれ、馬を飼う人が朝夕往来する時のようにざわめき、その姿は木を人が引っ張った時のように垂れ下がった様子)を表しているのであろう。
(内山眞龍はこの部分を死者が黄泉の穴に行く様子と解している)

礒西窟戸(イワト)各六尺許窟内(イワヤノウチ)穴人フヲ不得入

礒より西の方に窟戸高く廣さ各六尺許り。窟の内に穴在り。人入るを得ず。

不知深浅也多至此礒窟之(ホトリニ)者必故俗人自号黄泉之坂黄泉之穴

深浅を知らず也。多く此の礒の窟の辺に至るは必ず死す。故に俗人古へより今に至り黄泉の坂、黄泉の穴と号す也。

・出雲風土記抄3帖k18・k19
本文「即北海濱有磯名(ナツキノ)磯高一丈許上唑生歟松荒至磯[口+モ]里歟又幾歟人之朝夕如往來又木枝人之如攀引自礒西(イハマ)戸高廣各ゝ六尺許窟内在穴人不得入不知深浅也多此礒之辺死故俗人(クニヒト)自古至マデ今号スル之黄泉(ヨモツノ)之坂黄泉(ヨモツノ)之穴也」
解説「所謂黄泉穴者在川下村西磯辺宇賀山有如井岩穴直下深不可(ハカリ)俗復曰之黄泉穴也」
(いわゆる黄泉穴は川下村西の磯辺に在り。宇賀山に井の如き岩穴有り。直下の深さ計り知るべからず。俗にまたこれを黄泉穴という。)

  • ここで、黄泉穴を二箇所記している。前者は不明。後者は先に記した「夜見神社」の事を指しているのであろうが風土記記載内容とは位置的に無関係である。又出雲風土記抄ではこの後に長文を記しているが風土記とは無関係な内容で記述の趣旨が解らない。

・出雲国風土記考証p209
解説「風土記鈔に「黄泉の穴は川下(かはしも)村の西にある磯の岩穴なり」とあれども、何れの穴に當るといふことをいつて居らぬ。それで、風土記考には、ツバクラ穴であらうといつて居るが、ツバクラ穴は少しもこの本文に適合せぬ。風土記鈔に「又、宇賀山に井の如き岩穴あり。直下深さ計知るべからず。俗又之を呼んで黄泉穴(よみのあな)といふ」とあるは、川下の海岸から八丁許りの山奥であつて、砂岩の地層にある。天然の穴ではない。昔、銅鑛か何かを掘り出した穴であらう。今は黄泉穴と云はず、綾門日女命が隠れ給うた穴と云つて居る。勿論、風土記にある所の黄泉穴ではない。
此の風土記にいふ黄泉穴は、猪目(ゐのめ)の灣の西側にあつて、猪目の濱から一町ばかりの距離に、今ゲンザカ鼻といふ岩がある。これが腦磯(なつきのいそ)に相當する。高さは一丈ばかり。上に松林がある。
猪目の濱から懸崖の上の小徑を通つて行けば、ゲンザカ鼻の西の窟の口へ出る。窟の口は今は高廣各六尺許りでなく、斜に西北へ低くなつてゐて、幅が廣い。穴は西へ入るが、奥の方で一旦狭小となり、それから又やゝ廣くなるらしいか、深淺を測り知ることが出來ない。黄泉之坂ともいはれるものは、海際から窟の口までの間をいふが、高さは垂直には二丈ばかりである。鵜峠(うど)や鷺浦の間に窟はあるが、其處は宇賀郷に属せず、又、この風土記の本文に合ふものではない。」

  • 風土記抄の引用が微妙に違っているが、それは置くとして、大正15年-1926年時点で、今に云う「猪目洞窟」が「黄泉穴」に該当すると指摘している。又「ゲンザカ鼻が腦磯に相当する」とするのにも疑問がある。と云うのは此処は川下地区からかなり離れており、ゲンザカ鼻が該当するのであれば、風土記抄で岸埼は「井呑にある」と記していたであろうと思われるからである。

神戸郷郡家西北二里一百廾歩出雲也之カ説名如シ意宇郡ノ

神戸郷、郡家の西北二里一百二十歩。(出雲也、名を説くこと意宇郡の如し)

・出雲風土記抄3帖k20
本文「神戸里郡家西北二里一百歩出雲也説名如意宇郡
解説「鈔云併セテ乎神立千家北島井上(イアケ)別名鳥屋村等六所以為神戸里也 神戸社者神立村万九千大明神之所座マス也路程二里一百歩十四町」

[寺]

新造院一所有内郷中建立嚴堂也郡家正南三里一百歩
旧大領日置臣(ヲヒベノヲシ)布弥之(フミガ)所造今大領佐冥鹿()祖父(トヲツヲヤ)

新造院一所、郷中の内に有り。嚴堂建立也。郡家の正に南三里一百歩

旧大領日置臣布弥の造る所。(今の大領、佐冥鹿の祖父)

・出雲風土記抄3帖k20
本文「新造院一所有河内郷中建立嚴堂也郡家正南一十三里一百歩旧大領置部臣布弥(ヲキヘノヲンフミ)之所造今ノ大領佐宣廉之祖父
解説「鈔云按ルニ布弥之所造院宇者河内郷中上郷城上寺観音堂蓋是也一十三里一百歩者今二里七町卅間也上郷村今入神門郡中

[社]

杵築大社  御魂社  御向社  出雲

御魂社  伊努社  意保美社  曽致乃夜社

牟久社  審伎乃夜社  阿受伎社  美佐伎社

伊奈佐乃社 放太放社  阿我多社  伊波社

阿具社  都牟目社  久佐加社  故努婆社

阿受枳社  守加社  同阿受枳社  布世社

神代社  加立利社  來坂社  伊農社

同社  同社  鳥屎社  御井社


(白井文庫k31)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-31.jpg
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尒豆伎社  同社   同社   同社
同社    同社   阿受枳社 同社
同社    同社   同社   同社
伊奴社   同社   同社   來坂社
縣社    斐堤社  韓銍社  加佐伽社
伊目美社  波弥社  立虫社 已上五十八所并
在神祇官

御前社   同御埼社 支豆支社 阿受支社
同阿受支社 同社   同受支社 同阿受支社
同社    同社   同社   同社
伊奴社   同社   同社   弥佐弥社
-----
同社    同社   同社   同社
同社    同社   同社   同社
同社    同社   同社   同社
同社    同社   同社   努社
同社    同社   縣社   弥陀弥社
伊努社   同社   同社   同社
弥陀弥社  同社   同社   同社
同社    同社   伊尒波社 都弁目社
同社    弥努波社 山邉社  同社
同社    間野社  布西社  波如社
──────────

尒豆伎社  同社   同社   同社

同社    同社   阿受枳社 同社

同社    同社   同社   同社

伊奴本ノ侭社   同社   同社   來坂社

縣社    斐堤社  韓銍社  加佐伽社

伊目美社  波弥社  立虫社 已上五十八所并神祇官

御前社   同御埼社 支豆支攴豆攴カ社 阿受支社

同阿受支社 同社   同受支社 同阿受支社

同社    同社   同社   同社

伊奴社   同社   同社   弥佐弥(ミサミノ)

同社    同社   同社   同社

同社    同社   同社   同社

同社    同社   同社   同社

同社    同社   同社   努社伊努社カ

同社    同社   縣社   弥陀弥(ミタミノ)

伊努社   同社   同社   同社

弥陀弥(ミタミノ)社  同社   同社   同社

同社    同社   伊尒波社 都弁目社

同社    弥努波社 山邉社  同社

同社    間野社  布西社  波如


(白井文庫k32)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-32.jpg
──────────
佐攴多社  攴比佐社  神代神社  同社
百枝棬社 已上大小四所并
不在神祇官

[山]
神名火山郡家東南三里一百五十歩高一百
七十五丈周一十五里六十歩曾攴能夜社唑伎比
佐加美高日子命社即在此山嚴故云神名
火山出雲御﨑山郡家正北七里三百六十歩
高三百六十丈周九十六里一百六十五歩西下
所謂所造天下大神之社唑也諸山野所在
草木萆解百部根女委夜千商陸獨活葛根
薇藤李蜀椒楡赤桐白桐椎椿松栢禽獸則有
-----
晨風鳩山鶏鵠鶉猪鹿狼兎狐狸獼猴飛鼯也
[川]
出雲大川源自伯耆與出雲二国堺鳥上山流出仁多
郡横田村即經横田三處三[氵昇]布勢等四郷出大原郡
堺引沼村即經來以斐伊屋代神原等四郷出雲郡
堺多義村經河内出雲二郷北流更折西流即經伊努
杵築二郷入神門水海此則所謂斐伊河下也河之四邊
或土地豊渡土穀桑麻稔欵枝百姓膏腴園或土躰豊
渡草木叢生也則有年魚鮭麻須伊具比魴鱧等
之類潭端双泳自河口至河上横田村之間五郡百姓
便河而居出雲社門飯在
仁多大原郡

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佐攴多社  攴比佐社  神代神社  同社

百枝(モゝエ)棬社 已上大小四所并ニ不在神祇官

百枝棬社。(以上大小四所、并に神祇官不在

神名火山郡家東南三里一百五十歩高一百七十五丈周一十五里六十歩

神名火山。郡家の東南、三里一百五十歩。高さ一百七十五丈。周り一十五里六十歩。

曾攴能夜(ソキノヤノ)社唑マス伎比佐加美高日子命(キヒサカミタカヒコノミコト)社即在此山嚴故云神名火山

曾攴能夜の社に伎比佐加美高日子命の社唑す。即ち、此山の(イツキ)在り。故に神名火山と云う。

白井本では「此山嚴」と、ノが加えられているので上記のように解釈したが、古写本で「在此山巖」とある場合には「此の山に巖在り」と読み、奥宮のことを指しているのであろう。
「厳」を「嶺」としているものがあるが以下に示すよう古写本はいずれも「厳」であり「嶺」は誤り。
[嚴]の意味が解らなくなり考えあぐねた結果であろうが、「嶺」では文意が全く違ったものに変わってしまう。

・出雲国風土記抄3帖K27本文で「神名火山郡家東南三里一百五十歩高一百七十五丈周五里六十歩曽支能夜社伎比佐加美高日子命社即在此巌故云神名火山」
解説で「鈔云此山在出雲郷氷室村俗呼曰佛經山是也」

・細川家本出雲国風土記K40-38表(p81)で「神名火山郡家東南三里一百五十歩髙一百七十五丈周一十五里六十歩曽支能夜社坐伎比佐加美髙日子命社即在此山巌故云神名火山」

・倉野本出雲国風土記38表(p219)「神名火山郡家東南三里一百五十歩高一百七十五丈周一十五里六十歩曽支能夜社唑伎比佐加美高日子命社即在此山巌故云神名火山」

・日御碕本出雲国風土記38表(p353)で「神名火山郡家東南三里一百五十歩髙一百七十五丈周一十五里六十歩曽支能夜社(ソキノヤノヤシロ)伎比佐加美髙日子(キヒサカミタカヒコ)社即在此山[坐/身攵]故云神名火山

・万葉緯本出雲国風土記49裏(p518)で「神名火山郡家正南三里一百五十歩高一百七十五丈周一十五里六十歩曽支能夜(ソキノヤノ)伎比佐加美高日子(キヒサカミタカヒコノ)社卽在此巌故云神名火山

出雲御﨑(ミサキ)山郡家正北七里三百六十歩高三百六十丈周九十六里一百六十五歩西下所謂所造天下大神之社唑

出雲の御﨑山。郡家の正に北七里三百六十歩、高さ三百六十丈、周り九十六里一百六十五歩。西下に所謂所造天下大神之社唑す也。

(モロモロ)山野所在草木萆解百部根女委荽カ夜千射干カ商陸獨活葛根薇藤李蜀椒楡赤桐白桐椎椿松栢

諸の山野所在の草木、萆解・百部根・女委(荽か)・夜千(射干か)・商陸・獨活・葛根・薇・藤・李・蜀椒・楡・赤桐・白桐・椎・椿・松・栢

既述分=『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介

禽獸則晨風鳩山鶏(クゞヒ)(ウヅラ)猪鹿狼兎狐狸獼猴飛鼯(ムサゝビ)

禽獸則ち晨風・鳩・山鶏・鵠・鶉・猪・鹿・狼・兎・狐・狸・獼猴・飛鼯、有り。

[川]

出雲大川伯耆()出雲二国堺鳥上山流出仁多郡横田村()横田三處三[氵昇]-本ノ侭布勢等四郷出大原郡堺引沼村()來以斐伊屋代神原等四郷出雲(シュッタウ)堺多義村ヨリ(ヘテ)河内出雲(アダカエ)二郷(フタゝビ)(クジケテ)西(ヘテ)伊努杵築二郷神門水海
此則所謂斐伊河下也

出雲の大川の源は伯耆と出雲二国の堺、鳥上山より仁多郡横田村へ流れ出る。即ち横田・三処・三[氵昇]・布勢等の四郷を経て、大原郡の堺、引沼村に出る。即ち來以・斐伊・屋代・神原の四郷を経て、出雲郡の堺多義村より河内・出雲二郷を経て北へ流れ、更び折けて西へ流れ、即ち伊努・杵築二郷を経て、神門の水海に入る。
此則ち所謂斐伊の河下也

河之四邊或土地豊渡土穀桑麻稔欵枝百姓膏腴ナリ土躰豊渡草木叢生也

河の四辺、或いは土地豊かに渡り、土穀桑麻の枝(ユルヤカ)に稔る百姓の膏腴(コウユ)の園なり。或いは土体豊かに渡り、草木叢生するなり。

年魚(アユ)(サケ)麻須伊具比魴鱧等之類潭端双泳

則ち年魚・鮭・麻須・伊具比・魴・鱧等の類有り。(フチ)()に双び泳ぐ。

河口至河上横田村之間五郡百姓便而居出雲社門飯在仁多大原郡

河口より河上横田村の間に至り、五郡の百姓河にたよりて居す。(出雲社門の飯仁多大原郡に在す)


(白井文庫k33)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-33.jpg
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起孟春至季春校材木舩沼訢河中也意保美
小河源出雲御﨑山北流入大海有年
魚少

[池江]
土頂池周二百卅歩頂々北池周二百五十歩西門
江周三里一百五十八歩東流入入海
大方江周
二百卅四歩東流入入海
二江源者並田水所集
矣東入海三方並平原遼遠多有山鶏鳩鳧
鴨鴛鴦等之族也
東入海所在雜物如秋鹿説也
北大海宮松﨑有楯縫與
出雲郡堺
意保美濱廣二里一百
十歩 氣多嶋生紫菜海松有
鯢堺蕀田蠃
井呑濱廣三十二歩
-----
辛大保濱廣卅五歩 大前嶋高一丈周二百五十歩
生紫菜海藻
有松藻柄
鷺濱廣二百歩里生紫

手結濱廣三十歩
尒比﨑長一里卅歩廣廾歩﨑之南本東西通戸
船猶往来上則松叢生也宇礼保浦廣七十八歩船廾許
可泊

山﨑高卅九丈周一里二百五十歩有椎横
椿松
子負嶋磯
大﨑濱廣一百五十歩御前濱廣一百廾歩有百姓
之家

御嚴嶋生海
御厨家嶋高四丈卅歩
等々嶋有鬚
石花

怪關﨑長三十歩高三十二歩
意能保濱廣一十
八歩粟嶋生海
里嶋生海
這田濱廣一百歩二俣濱
廣九十八歩門石嶋高五丈周四十二歩有鷲
之栖

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孟春ヨリ季春(カウ)カンガフ本ノ侭枋カ木舩沼泊カ訴カ河中

孟春より起り季春に至り、枋木舩(ホウボクセン)(ショウ)(コウ)し、河中に(タノシ)む也

意保美小河源出雲御﨑山ヨリ大海 有リ年魚少

意保美小河、源は出雲の御﨑山より北へ流れ大海に入る。(年魚少しく有り)

[池江]

土頂池周二百卅歩頂須カ頂カ々北池周二百五十歩。

・「頂々北池」は「須々比池」に改める。

土頂池、周り二百卅歩。須々比池、周り二百五十歩

西門江周三里一百五十八歩東流入海有鮒大方江周二百卅四歩東入海有鮒二江者並田水ナリ

西門江、周り三里一百五十八歩。東に流れ入海に入る。(鮒有り)
大方江、周り二百三十四歩。東へ流れ入海に入る。(鮒有り)
二江の源は並に田水の集まる所なり。

ノ方入海三方平原遼クニ多有山鶏鳩鳧鴨鴛鴦等之族也

東の方入海。三方は並に平原遼か遠くに多し。山鶏・鳩・鳧・鴨・鴛鴦等の族有る也。

ノ方入海所在雜物如秋鹿

東の方入海に所在の雜物、秋鹿の説の如く也。

大海宮松﨑楯縫()出雲郡

北の大海、宮松﨑(楯縫と出雲郡の堺に有り)

意保美濱廣二里一百十歩

意保美の濱、廣さ二里一百十歩

氣多嶋生紫菜海松有鯢堺蕀田蠃

氣多嶋(紫菜・海松生い、鯢・堺・蕀田蠃有り)

・「日御碕本」39裏k43では「氣多嶋生紫菜海松 有鯢堺[艹/禾朱]甲蠃
・「細川家本」39裏k42では「氣多嶋生紫菜海松 有鯢[土累][[艹/禾朱]甲蠃
・「倉野本」39裏k43では「氣多嶋生紫菜海松 有鯢[土累][[艹/禾朱]甲蠃
・「萬葉緯本」51裏k56では「氣多嶋生紫菜海松有 鯢堺蕀甲蠃

井呑濱廣三十二歩 辛大保濱廣卅五歩

井呑濱、廣さ三十二歩。辛大保濱、廣三十五歩。

大前嶋高一丈周二百五十歩生紫菜海藻有松藻柄鷺濱廣二百歩里-本の侭-生紫藻

この部分他書と異なる。
・細川家本k42「大前嶋髙一丈周一丈周二百五十五歩生海藻脳島生紫菜海藻有松藻栢鷺濱廣二百歩里嶋生紫藻
・日御碕本k43「大前嶋髙一丈周一丈周二百五十歩生海藻脳島生紫菜海藻有松藻栢鷺濱廣二百歩里嶋生紫藻

白井本で、「大前嶋~二百五十歩」の後補記の部分で書写の際見誤り一部を飛ばしたのだと思われる。「松藻柄」は「松藻栢」の誤りであろう。

日御碕本の様に改める。

大前嶋髙一丈周一丈周二百五十歩生海藻脳島生紫菜海藻有松藻栢鷺濱廣二百歩里嶋生紫藻

大前嶋、高さ一丈、周り一丈、周り二百五十歩(海藻生う)。脳島、(紫菜・海藻生い、松藻・栢有り)。鷺濱、広さ二百歩。里嶋(紫藻生う)

↓鶴島…十六島鼻から遠望。解りにくいが手前に赤島がある。
https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/izumo/turusima.jpg

手結濱廣脇ニ廿トアリ三十歩

手結濱、廣さ三十歩(脇に廿とあり)

尒比﨑長一里卅歩廣廾歩﨑之南本東西通戸船猶往来上則松叢生也

尒比﨑、長さ一里三十歩、廣さ二十歩。﨑の南の本、東西の通い戸、船なお往来す。上には則ち松叢生(ソウセイ)する也。

宇礼保浦廣七十八歩(船廾許リ可泊ル)

宇礼保の浦、廣さ七十八歩(船二十許り泊るべし)

山﨑高卅九丈周一里二百五十歩(有椎横本ノ侭椿松)

山﨑、高さ三十九丈、周リ一里二百五十歩。(有椎横椿松)

・天一山山頂の「月讀神社」
https://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/izumogou/tukuyomi1.jpg
月夜見命と高皇産霊尊を祀っている。
https://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/izumogou/tukuyomi2.jpg

子負嶋磯

子負嶋。磯

大﨑濱廣一百五十歩

大﨑濱、廣さ一百五十歩

御前濱廣一百廾歩(有百姓之家)御嚴嶋(生海藻)

御前濱、廣さ一百二十歩(百姓之家有り)。御嚴嶋(海藻生う)

御厨家嶋高四丈卅歩(有松)等々嶋(有鬚石花)

御厨家嶋、高さ四丈三十歩(松有り)。等々嶋(鬚石花有り)。

・等々嶋。沖合中央の島(一月中旬日没前に御前濱から撮影)
https://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/izumogou/tomo1.jpg

怪關﨑長三十歩高三十二歩(有松)

怪關﨑、長さ三十歩、高さ三十二歩(松有り)

意能保濱廣一十八歩粟嶋(生海藻)里嶋(生海藻)

意能保濱、廣さ一十八歩。粟嶋(海藻生う)。里嶋(海藻生う)。

這田濱廣一百歩二俣濱廣九十八歩

這田濱、廣一百歩。二俣濱、廣九十八歩。

門石嶋高五丈周四十二歩有鷲之栖

門石嶋、高さ五丈、周り四十二歩。(鷲之栖有り)

・門石嶋(中央やや左)今は陸続きとなっているが、元は左右とも水路であったと思われる。
https://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/izumogou/sasago1.jpg
右側が門石嶋だが崩落している。左側が笹子島
https://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/izumogou/sasago2.jpg
北側から見た
https://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/izumogou/sasago3.jpg


(白井文庫k34)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-34.jpg
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長三里一百歩廣一里二百歩松繁多矣即自神門
水海通大海潮長参里廣一百二十歩此則出雲與
神門二郡堺也凢此海処在雑物如楯縫郡説但
鮑出雲郡尤優処捕者所謂御﨑海子是也
通道通意宇郡堺佐雜村一十三里六十四歩 通
神門郡堺出雲大河邊二里六十歩通大原郡堺
多義村一十五里卅八歩通楯縫郡宇賀川一十
四里二百卅歩

     郡司主帳旡位若倭部臣
     大領外正八位下置部臣
-----
     少領外従八位下大臣
     主政外大初位下部臣

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薗長三里一百歩廣一里二百歩松繁ナリ
神門水海通大海潮長本ノ侭参里廣一百二十歩
此則出雲()神門二郡堺也

薗。長さ三里一百歩、廣さ一里二百歩。松繁く多なり。
即ち神門水海より大海に通う。潮の長さ三里、廣さ一百二十歩。
此れ則ち出雲と神門二郡の堺也。

・奉納山公園から見た薗の長浜(中央右手に三瓶山が見える)
https://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/izumogou/sono1.jpg

凢此海処在雑物如楯縫郡説但鮑出雲郡尤優処捕者所謂御﨑海子(アマ)是也

およそ此の海に在る処の雑物は楯縫郡に説くが如し。但し鮑は出雲郡がもっとも優れり。捕りし処はいわゆる御﨑の海子これ也。

通道通意宇郡堺佐雜村一十三里六十四歩
神門郡堺出雲大河邊二里六十歩
通大原郡堺多義村一十五里卅八歩
楯縫郡宇賀川一十四里二百卅歩

通道、意宇郡の堺佐雜村を通り一十三里六十四歩、神門の郡堺出雲大河邊を通り二里六十歩、
大原郡堺多義村を通り一十五里卅八歩、楯縫郡宇賀川を通り一十四里二百卅歩。

郡司主帳旡位若倭部臣(ワカヤマトベノヲシ)
大領外正八位下置部臣(ヲヒベノヲシ)
少領外従八位下大臣
主政外大初位下部臣

郡司主帳無位若倭部臣
大領外正八位下置部臣
少領外従八位下大臣
主政外大初位下部臣


「出雲国風土記考証」天平時代出雲郡之図
https://fuushi.k-pj.info/jpg/map/izumofudoki_tp_izumo.jpg


『出雲国風土記』神門郡


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Last-modified: 2024-07-05 (金) 01:21:17