『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡 ・ 『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡 ・ 『出雲国風土記』嶋根郡2
『出雲国風土記』秋鹿郡 ・ 『出雲国風土記』楯縫郡
『出雲国風土記』出雲郡 ・ 『出雲国風土記』神門郡
『出雲国風土記』飯石郡 ・ 『出雲国風土記』仁多郡
『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記
・『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介
『出雲国風土記』嶋根郡(しまねのこおり)
(白井文庫k13)
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嶋根郡
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(白井文庫k14)
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合郷捌里廾五 餘戸壹驛家壹家壹
山口郷 今依前用
朝酌郷 同
手染郷 同
美保郷 同
方結郷 同
加賀郷 本字加-々
生馬郷 今依前用
法吉郷 今依前用以上捌郷別里参
餘戸郷
千酌驛家
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所以号嶋根郡国引唑八束水臣津野命之詔而頂
給名故島根
朝酌郷郡家正南一十里六十四歩熊野大神命
詔朝御餼勘養夕御餼勘羪五贄緒之処定
給故云朝酌
山口郷郡家正南四里二百九十八歩須佐能烏命
御子都留支日子命詔吾敷唑山口處在詔而故
山口頂給
手染郷郡家正東一十里二百六十四歩所造天下大神
命詔此国者丁𡨴造国在詔而故丁𡨴頂給而
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合郷捌里廾五 餘戸壹驛家壹家壹†
合わせて郷八、里二十五 餘戸一、駅家一、家一
山口郷 今依テ前ニ用†
山口郷 今依り前に用いる
朝酌郷 同†
手染郷 同†
美保郷 同†
方結郷 同†
加賀郷 本字加-々†
生馬郷 今依前用†
法吉郷 今依前用以上捌郷別里参†
餘戸郷†
千酌驛家†
所以ハ号ス嶋根郡ト国引唑ス八束水臣津野命之詔リ而頂キ給フ名ク故島根ト†
嶋根郡と号す所以は、国引きます八束水臣津野命の詔て頂き給う故島根と名づく。
- 「八束水臣津野命」…振られたルビでは(ヤツカミマヲシツノミコト)と読める。
岸埼本(第2帖p3)では、八束水臣津野命に(ヤツカミノヲシツノミコト)とルビがある。
上田秋成書入本(15コマ)では、(ヤツカミノカンツヌミコト)と黒字のルビがあり、赤字で(ヤツカミノオンツノミコト)と読むように訂正してある。
- 「嶋根」については、以前何処かに記したことがあるが、世阿弥の「花伝書」に「月讀尊」の御子が「嶋根見命」であると記されており、その名に由来するものと思われる。
風土記のこの部分で「頂き給う」というのは嶋根見命の名を頂いたということであろう。
朝酌鄉郡家正南一十里六十四步†
朝酌鄉、郡家の正に南一十里六十四步
- 郡家(嶋根郡家)…
・出雲風土記抄2帖k03解説で「~今本庄新庄両村之中間也」
・出雲国風土記考証p88で「島根郡家の位置について、風土記鈔にも、風土記解にも、風土記考にも、本庄村にあるとして居るが違う。これは、女嵩山の正北二百三十歩、毛志山の正南一里という古の里程によりて推すせば、今の持田村の福原の長慶寺の邊であらう。」
(長慶寺というのは今の澄水寺と同所。澄水寺は元澄水山山頂にあった観音堂で、明治7年に長慶寺境内に移された。)
・校注出雲国風土記「松江市東川津町納佐の小正部屋敷辺にあったらしい」
近年は福原地区の芝原遺跡地理院地図辺りが嶋根郡家の有力な候補地として上げられている。芝原遺跡調査報告書p128~p132
- 十一里六十四歩…5974.46(m)
熊野大神命詔リ朝御餼勘養夕御餼勘羪五贄緒之処定メ故云朝酌†
熊野大神命詔て、朝御餼の勘養、夕御餼の勘養に、五贄の緒の處定め給ひき。故 朝酌と云う。
- 朝酌郷…松江市嵩山の南山麓辺り。現在の松江市朝酌町、福富町、大井町、大海崎町辺り。
出雲風土記抄(第2帖p4)には『此ノ郷ハ合セテ於朝酌及ビ福冨大井大海埼ヲ以為一郷ト也』とある。
- 御餼(ミケ)…[餼]は元は[氣]。[气+米]。[气]は(湧き上がるもの・蒸気・万物の根源・活力の源)[米]は(米粒)。
[氣]が(湧き上がる雲)の意味に用いられるようになった為、[食]を偏に加えて[餼]となり、生きた米、すなわち稲穂や籾を意味した。それが贈り物として使われた為、(贈り物)の意味としても用いられた。
御餼は神に捧げる生の米、そこから(神に捧げる食事)を意味する。
- 勘養・勘羪(カムカイ)…神頴(カムカイ)・御食向、神に物を手向けること。[羪]は[養]の異体字
- 五贄(イツニエ)…五種物(イツツノタナツモノ)。五贄の五は御でもあり、数を指しているという事ではない。時々で供え物の品数は変わることがあり、その場合も「五贄」と呼ぶ。
- 緒…緒は五贄を組合せ整えるという意味。内山眞龍は「組」に変えて解釈している。
- 意訳すると「熊野大神命が詔りして朝の御膳、夕の御膳にするものを整える所として定められた、それで朝酌という。」
「酌む」は「組む」=「整える」という意味
山口郷郡家正南四里二百九十八歩†
山口郷、郡家の正に南四里二百九十八歩
- 山口郷…松江市嵩山の西山麓の地域。現在の松江市川津町・川原町あたり。
出雲風土記抄(第2帖p4)には「今ノ東川津村加テ於西川津川原西尾之三所ヲ以為山口郷ト也」とある。
出雲国風土記考証では「今の持田村も山口郷であらう」としている。
山というのは嵩山(標高331m)地理院地図のことで、山口はその入口を指している。嵩山の登山口は東川津町で紙谷地区から登る。
国道431号線の旧道筋持田地区に「嵩山入口」というバス停があるので、この辺りが昔からの登山口であったのだろう。
嵩山の山頂には都留支日子命を祀る「布自伎美神社」がある。
伊能図には「岳山」と記されている。
須佐能烏命ノ御子都留支日子命詔リ吾敷唑山口ノ處ニ在リト詔フ而故山口頂給†
須佐能烏命の御子都留支日子命詔り、吾が敷きます山口の處に在りと詔りたもうて、故山口と頂き給ひき。
- 「都留支日子命」(ツルキヒコノミコト)…(ツルギヒコノミコト)と「支」を濁音で読んでいる例があるが、[支]は(シ・キ)であり、濁音(ギ)の読みは本来ない。ルビには清音「キ」と振ってある。出雲風土記抄にも「キ」と清音のルビがある。
- 都留支日子命は剣の神と認識されていることが多いが、ツルキならそうもいかなくなる。武家が跳梁する時代に剣の神と認識するようになったのであろう。
- 山口頂給…校注出雲国風土記では『山口負給』としている。
出雲風土記抄では『山口順給』
手染郷郡家正東一十里二百六十四歩†
手染郷、郡家の正に東、一十里二百六十四歩
- 「出雲風土記抄」(第2帖4p)に、「此郷ハ以多須見長見ヲ為本郷ト并テ之ニ於野原別所下宇部尾ヲ以為手染郷也」とある。
現在の松江市手角・長海・本庄・野原及び美保関町下宇部尾の辺り、中海の北岸域であろう。
所造天下大神ノ命詔此ノ国ハ者丁𡨴造国在詔而故丁𡨴頂給而人猶詔手染郷之耳即正倉†
- 丁𡨴…[𡨴]は[寧]の異体字。これを(テイネイ)と読むと、手染の読みに繋がり難い。(丁寧は楽器名に由来する)
宣長はこれを「慥」(タシ)と解釈している。「慥に」は「急ごしらえに・急いで寄せ集めて・確かに」等の意味があり、多くの風土記解説本は是を踏襲している。
- 「手染」を(タシミ)と読むことからその読みに近い音を「丁寧」に充てようとして、「慥」を持ち込もうとしている訳だが、「丁」と「手」はともかくとして、「染」と「𡨴」は遠い。
- 「出雲風土記抄」では「所造天下大神命ノ詔フ此ノ国ハ者丁𡨴造ル国在リト詔フ而丁𡨴順給而人猶誤謂手染郷ト之耳即有正倉」とある。
「丁寕」に(タダニ)と読みを振っている。「𡨴」は甲骨に由来する古字で、「心を安らかにする」という語義を表し、後に[心]を加えたのが「寧」であるとされる。
「丁」には「落ち着く・安定する」という語義がある。
- 上記勘案すると。「丁𡨴」は(タダニ)「丁に」で正しいと考える。「ニ」に[尒]ではなく[𡨴]を用いたのは語義が似ていることから強調するためだったのであろう。「此国者丁𡨴造国」は「この国は(諍いなどなく穏やかに)安定して造った国」で良い。宣長の解釈のように「慥」を持ち込む必要は無い。
- 手染というのは布を染めるに際し、例えば藍染めなどで、何度も染め続ける間に手が藍色に染みていく事を表している。
つまり手染という名付けは長い時間を経たことを意味している表現である。
この一文は、所造天下大神がこの国は長い時をかけて形作られた歴史のある国であるとたたえた事を表している。
又、嶋根郡の草木に藍があることから、この地域で藍染めが行われていたのかとも思われるが定かではない。
宣長の解釈は語義を考えず、音の近さで判断し真逆の解釈をしているのである。
所造天下大神命詔。此の国は丁𡨴造りし国に在りと詔て、故、丁𡨴(の名を)頂き給う。而て人なお手染郷と詔るのみ。即ち正倉あり。
(白井文庫k15)
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人猶詔手染郷之耳即正倉
美保郷郡家正東廾七里一百六十四歩造天下大神命
娶高志国唑神意支都久辰為命子俾都久辰為
命子奴奈宜置波比賣命而令産神御穂須々美命
是神唑矣故美保美保号名
謂此類落
方結郷郡家正東廾里八十歩須佐素命御子国忍別
命詔吾敷唑池者国形宜者故云方結
加賀郷郡家西北一十六里二百九歩神魂命御子八
尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬
法吉郷郡家正西二百卅歩神魂命御子宇武賀
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比賣命法吉鳥化而飛度静唑此所故云法吉
餘戸里説名如
意宇郡
千酌驛郡家東北一十九里一百八十歩伊差奈枳命
御子都久豆美命此所生然即可謂都久豆美而
今人猶千酌号郷
[社]
大掎社 大掎川邊社 朝酌下社 努郡彌社
掠見社 以上卅五所並
不在神祇官
[山]
布自枳美高山郡家正南七里二百一十歩高丈周
一十里 女岳山郡家正南二百卅歩蝨野郡家西
南三里一百歩旡樹
木毛志郡家北一里 大倉山
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美保郷郡家正東廾七里一百六十四歩†
美保郷、郡家の正に東、二十七里一百六十四歩
- 美保郷…出雲風土記抄で「此郷ハ以関村福浦ヲ為ス本郷ト併セ加テ西ハ者森山東ハ雲津諸喰等之處以為美保郷」とある。
(この郷は関村福浦を本郷と為す。西は森山、東は雲津諸喰等の所を併せ加えて美保郷と為す。)
関村というのは美保関村のことで、福浦~諸喰まで現在の地区名と変わらない。
造天下大神ノ命ト娶高志国唑神意支都久辰為命ノ子。俾都久辰為命ノ子。奴奈宜置波比賣命ヲ而令産神御穂須々美命ヲ†
造天下大神命、高志国に唑す神、意支都久辰為命の子、俾都久辰為命の子、奴奈宜置波比賣命を娶て、而して神御穂須々美命を産ましむ。
- 奴奈宜置波比賣命…出雲風土記抄では(ヌナキキハヒメノミコト)、上田秋成書入本では(ヌナキチハヒメノミコト)、と付記しており、「宜」は(ギ)ではなく(キ)と清音で読む例がある。
校注出雲国風土記では「奴奈宜波比賣命」(ヌナガハヒメノミコト)と[置」を抜いている。
「置」があることについて、古事記の沼河比賣に充てるために「置」は誤りであるとする説があり、それに従ったのかも知れないが、作為である。
又、「宜」を(ガ)と読むのは栗田寛の説で「法王帝説」に読む例があるとして広まったようだが、そういう例はない。
これも古事記に合わせるための作為である。
・「沼河比売」
・「武御名方神」
是ノ神唑マス矣故美保ト美保ト号スカ名ク
謂トカ此類落ルカ†
是の神唑す矣故美保と。(美保と号すか名ずく謂とか此の類落るか)
- 是神唑矣故美保美保号名
謂此類落…補記では、本文が「故美保」で終わっている為、美保に、「号・名・謂」或いはこれに類する語が落ちていると指摘している。こういう補記があることは文献の信頼度を増す事に繋がる。
出雲風土記抄では本文で「是神坐矣故云美保」と「云」を補っており、倉野本では傍記で「云」を補っている。
・細川家本k18・日御碕本k18・紅葉山本k15で「是神唑矣故美保」
・倉野本k18で「是神唑ス矣故云美保ト」
・出雲風土記抄2帖k05本文で「是神坐ス矣故云美保ト」
・萬葉緯本k23で「是神坐マス矣故云美保ト」
・萬葉緯本NDLk23で「是神坐マス矣故云美保」
方結郷郡家正東廾里八十歩†
方結郷、郡家の正に東二十里八十歩
- 方結郷…「出雲風土記抄」に、「方結ハ今片江浦也片江ノ中ニ有僧都玉江加テ之ニ七類浦ヲ以為ス一郷ト也」
(方結は今片江浦也。片江の中に僧都玉江あり。之に七類浦を加えて以て一郷と為す也)
現在の片江、七類(シチルイ)地区。僧都玉江とあるのは惣津と玉結の事であろう。(惣津は現在七類地区に含まれる)
- 余談だが、出雲では「結」を(エ)と読む地名が幾つか有る。方結、玉結、手結。どういう経緯なのかは不詳。
これを「由比」と同じで「結」(=漁村の共同作業)から来たとする解釈があるが、それなら(ユイ)と読むのではないかと訝しく思う。
須佐素命進素烏カ御子国忍別命詔吾ガ敷唑池ハ者国ノ形チ宜者故云方結ト†
須佐素命御子国忍別命詔。吾が敷ます池は国の形宜なる者。故方結と云う。
- 須佐素命…出雲風土記抄では「須佐能烏命」
- 読みも気になるが、「進素烏か」と傍記していることも少々気になる。
- 池…出雲風土記抄では「地」。上田秋成書入本では赤字で「地」と付記。「地」の誤りであろう。
- 国形宜者…国の形宜なる者。
フリガナどおりでは方結(カタエ)と繋がりにくいことから次のように「宜」を(エ)と読んでいる例が多い。
標注古風土記では、「『國形宜と者へり』とよむべし」としている。
「者」をノタマヘリと読むことについては、「續日本紀などに傍訓あり」と注記している。
出雲国風土記考証では、「國形宜と者」としている。
校注出雲国風土記では、「國形宜しとのりたまひき」としている。
- 「宜」をはたして(エ)と読むべきかどうか疑問。そういう例を他に知らない。
カタチムベ→カタムベ→カタンベ→カタエと転じたと考える方が素直なように思われる。又、「者」は(モノ)で良いと考える。
「国形宜」の意味は「国の形が良い」ということであるが、岬と入り浜、そして小島があり、風光明媚であり、日本海に臨む島根半島北側の港として使い良いことを指しているのであろう。
余談だが瀬戸内に馴染んできた者としての個人的感想として、日本海沿岸はどこも小島が少ないという印象がある。瀬戸内に比べれば波も荒く、沖合に島がないと海が荒れた時には底知れぬ恐怖すら覚える事がある。
島根半島の西部は例外的に小島が多い。
加賀郷郡家西北一十六里二百九歩神魂命御子八尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬†
この部分、欠落・混乱がある。
上田秋成書入本では、本文は全く同じだが、上部に次の注が加えられている。
「此所㝡初加賀ト有テ終ニ生馬ト有之不審也目録ニ加賀次生馬我之兩郷ノ内一方ノ理書落欤[ナベブタ/里]テ可[氺/又]」
(此の所、最初に加賀と有て終に生馬と有る。これ不審也。目録に加賀の次に生馬。我之を両郷の内一方の理を書落か。重ねて求むべし。)
出雲風土記抄(第2帖p6)からこの部分補う。但し出雲風土記抄では、生馬郷・加賀郷の順になっているが、上記により、加賀郷、生馬郷の順とする。
「加賀郷郡家北西二十四里一百六十歩佐太大神所坐也御祖神魂命御子支佐加地賣命闇岩屋哉詔金弓以射給時光加加明也故云加加」
「生馬郷郡家西北一十六里二百九歩神魂命御子八尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬」
尚、出雲国風土記考証に、加加の最後に「神亀三年改字加賀」とあるのでこれを補う。
(出雲風土記抄による)
加賀郷郡家北西二十四里一百六十歩†
加賀郷、郡家の北西二十四里一百六十歩
- 加賀郷…出雲風土記抄(第2帖p7)で「合セ加テ于加賀浦及ヒ大蘆御津ヲ以為加賀ノ郷ト也」
(ここに加賀浦及び大蘆御津を合わせ加えて、以て加賀の郷と為す也)
現在の松江市島根町の加賀、大芦、及び松江市鹿島町御津、の地区。
鹿島町片句、手結も含まれると考えられている。
- 「于」は語調を整える為の字で通常読まないが、一応記して置いた。
佐太大神所坐也御祖神魂命御子支佐加地賣命闇岩屋哉詔金弓以射給時光加加明也故云加加神亀三年改字加賀†
佐太大神の坐す所也。御祖神魂命の御子、支佐加地賣命、闇き岩屋かなと詔る。金弓もて射給いし時、光加加明也。故云加加。神亀三年、字を加賀に改む
- 佐太大神所坐也…佐太大神の生誕地という伝承から、「坐」を「生」として(あれます)と読む例がある。
- 神魂命…神産巣日神(古事記)と同神として、(カミムスビノミコト)と読む例があるが、出雲では(カモスノミコト)。
- 支佐加地賣命…加賀神社の主祭神。出雲国風土記考証・標註古風土記では「支佐加比比賣命」。校注出雲国風土記では「支佐加比賣命」。
古事記の「𧏛貝比売」と同一神とみられている。宣長は𧏛貝は蚶貝の誤りで赤貝の古名だとしており通説となっているが、
出雲では赤貝の仲間である猿頬貝(サルボウガイ)が古くから食されており、𧏛貝というのはこちらと思われる。
(猿頬貝を出雲では赤貝とも呼んできた。この為特に問題にもされなかったのであろう。)
- 支佐加地賣命闇岩屋哉詔金弓以射給時…伝承では、キサカヒメ命の御子が佐太大神で、金弓を佐太大神が引いたというのがある。この事から、この部分を内山眞龍は疑い、この説に従い標註古風土記では「支佐加比比賣命御子闇岩屋哉詔金弓以射給時」と「御子」を補っている。(後に改めて記すが、金弓を射たのは支佐加地賣命であり佐太大神ではない)
- かつて出産の際、魔除けとして弓矢を傍に置くという風習が残っていたが、起源はこの辺りにあるのかも知れない。
生馬郷郡家西北一十六里二百九歩†
生馬郷、郡家の西北一十六里二百九歩
- 生馬郷…出雲風土記抄(第2帖p6)に「東西ノ生馬及薦津浦ヲ為シ本郷ト十町南方有濱佐田国屋比津村西方有下佐田併セテ乎此等之諸村ヲ以為生馬ノ郷ト矣」とある。
(東西の生馬及び薦津浦を本郷と為し十町南方、濱佐田、国屋、比津村有り西方下佐田有り此等の諸村を併せて生馬の郷と為す)
現在の松江市東生馬町・西生馬町・薦津町・浜佐田町・国屋町・比津町・下佐陀町辺り。
- 現在佐陀川が流れている辺りにはかつて佐陀水海という湖があり、この湖の東岸が生馬郷にあたる。
佐陀水海は干拓と日本海への通水工事などが行われて来たので、風土記の時代には現在とは随分異なる風景であったのだろうと思われる。
佐陀川両岸の直線的に区画整理された地区がかつての佐陀水海であろう。
神魂命御子八尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬†
神魂命御子、八尋鉾長依日子命詔て、吾御子平明に不憤。故生馬という
- 吾御子…吾御心の誤りと考えられている。
- 八尋鉾長依日子命は松江市東生馬町235の「生馬神社」に祀られているが、御子は不明である。出雲国風土記にも御子は出てこない。表記通り「御子」であるなら、その名が示され祭神に祀られているはずだがそれもない。それ故、この部分は「御心」の誤記と考えられている訳である。
- 「生馬神社」というのは東西2社ある。上記は「生馬神社(東)」。
「生馬神社(西)」では現在八尋鉾長依日子命を祀っていないが、これは火災のため縁起を失ったためであろうと思われる。
現在は主祭神として道返大神を祀り、明治期に近郷の諏訪神社・市杵島神社を合祀したため武御名方命と市杵島姫命を祀っている。
東西にあると云うことは、かつては東に八尋鉾長依日子命を祀り、西にその御子を祀っていたのかも知れない。が今となっては不明。
- 不憤…「憤む」の打ち消しとして(イクマズ)と読んでいる。
- この地名縁起、憤む(腹を立てる)を否定しているわけだが、憤む理由が何であるのか不明で、何やらこじつけのような感じをうける。
(ここから白井本に戻る。)
法吉郷郡家正西二百卅歩†
法吉郷、郡家の正に西二百三十歩
- 法吉郷…出雲風土記抄(第2帖p7)で「合法吉及ヒ春日末次ノ三所ヲ以為法吉ノ郷ト也 今末次ニ有リ五箇ノ名曰中原黒田奥谷菅田末次」とある。
(法吉及び春日、末次の三所を合わせて法吉郷と以為す也。今末次に五箇の名有り。中原、黒田、奥谷、菅田、末次と曰う)
現在の松江市法吉町、中原町、黒田町、奥谷町、菅田町、末次町辺り。松江城周辺及び北方面に当たる。
- 標注古風土記の注(p98)によると、伴信友は「法吉は、ほふきなるべし」と記しているらしい。
また「国学者が、日本の古代に、促音がなかつたやうに思ふのは、疑はしい。促音をあらはす方法を知らざりしにあらん。~」
と記している。現在法吉町は(ホッキ)町と読むので、法吉の読みはこれに従う。
神魂命御子宇武賀比賣命法吉鳥化而飛度静唑此所故云法吉†
神魂命の御子、宇武賀比賣命法吉鳥と化りて飛度り此の所に静まれり。故法吉と云う。
- 宇武賀比賣命…古事記の「蛤貝比売」と同一神とみられている。ウムガイはハマグリの古名。
ハマグリは「浜栗」で形が栗に似ている浜辺の貝と云うことで名付けられた。
法吉神社の主祭神
- 法吉鳥…鶯(ウグイス)の古名。その鳴き声から法吉鳥という名が付けられたようである。
- 不思議な地名縁起である。宇武賀比賣命に縁があり、鶯が良く飛んで来たと云うことであろうか。
尚、鶯は気候によって適地を求めて移住する鳥である。
餘戸里説名如意宇郡†
餘戸里、名を説くこと意宇郡の如し
- 餘戸里…出雲風土記抄で「鈔曰餘戸里ハ者古ノ之郡家ニテ而本庄新庄加テ之ニ邑生上宇部尾ノ辺ヲ以可為餘戸ノ里也」とある。
(鈔に曰く。餘戸里は古の郡家にて本庄、新庄、之に邑生、上宇部尾の辺りを加えて餘戸の里と為す可)
現在の松江市本庄町、新庄町、邑生町、上宇部尾町あたり。朝酌郷と手染郷の間。嵩山の東北山麓にあたる。
上記で、「古之郡家」と記されているが、出雲国風土記考証では位置関係からこの地に郡家はなかったとし、持田村の福原の長慶寺辺りと推察している。近年の発掘調査でもこの推察が正しいようである。
千酌驛郡家東北一十九里一百八十歩†
千酌驛、郡家の東北一十九里一百八十歩
伊差奈枳命御子都久豆美命此所生然即可謂都久豆美而今人猶千酌号郷†
伊差奈枳命の御子、都久豆美命此の所に生ませり。然れば即ち都久豆美と謂うべきを、今の人なお千酌と郷を号す。
- 此所生…
・細川家本k19で「此処生」
・日御碕本k19・紅葉山本k16で「此處生」
・倉野本k19で、「此処生坐」
・萬葉緯本k24・萬葉緯本NDLk24で「此處坐」
・出雲風土記抄・標註古風土記・出雲国風土記考証・校注出雲国風土記では「此處坐」、上田秋成書入本では「此処生」。
「此處坐」が正しいと云うべきなのであろう。
- 既に記したが、「月讀尊」の御子が「嶋根見命」であり島根の地名由来であり、千酌と云うのは隠岐への海路の窓口であるから、
航海神としての「月讀尊」の原初が「都久豆美命」であり、千酌はその縁起地であったと考えられる。
古写本が総じて「此処生」と記しているのはそれなりの意味のあることのように思われる。
ただ、記紀では三貴子の一人としていることを鑑み、ここでは「此處坐」としておく。
[社]†
大掎社 大掎川邊社 朝酌下社 努郡彌社†
- 大掎社…掎は[扌竒]。松江市島根町大芦2106の「大埼神社」(主祭神:伊弉冊尊)
・細川家本k19で「大埼社」
・日御碕本k19・倉野本k20・紅葉山本k16で「大[土竒]社」
- 大掎川邊社…掎は[扌竒]。松江市島根町大芦2209の「大埼川邊神社」(主祭神:伊弉諾尊)
・細川家本k19で「大埼川辺社」
・日御碕本k19で「大[土竒]川邊社」
・倉野本k20で「大[土竒]川辺社」
・紅葉山本k16で「大[土竒]川邉社」
- 各書で、微妙に差異がある。[土竒]は不明な文字であるが、[奇]の異体字に[竒]があり、[崎]の異体字[﨑]の場合には[竒]は俗字とされる。
[奇]は曲がる事を意味する。
白井本の手偏は土偏の誤写であろう。いずれも[埼]が正字であり「大埼」とするのが正しいと考えられる。
(些末な事のようだが、こういう考察を疎かにすると風土記は読み解けない。)
- 後藤は「出雲國風土記考証」p101の解説で大埼社を西坂大明神・伊弉奈美命、大埼川邊社を國石大明神・伊弉奈枳命と記している。理由は定かではないが誤りであろう。
- 雲陽誌島根郡3で伊弉冊尊が加賀の石窟にて天照大神を産んだ後島大崎を好んで移り住んだ旨記しており興味深い。
掠見社 以上卅五所並
不在神祇官†
この部分、35所とあるのに5社のみで大部分欠落している。
出雲風土記抄(第2帖p9)から補う。
──────────
布自伎弥社 多気社 久良弥社
同波夜都武志社 川上社 長見社
門江社 横田社 加賀社
尒佐社 尒佐加志能為社 法吉社
生馬社 美保社以上十四所並
在神祇官
大埼社 大埼川辺社 朝酌上社
朝酌下社 努那弥社 椋見社
大井社 阿羅波比社 三保社
多久社 蜛蝫社 同蜛蝫社
質笍比社 方結社 玉結社
川原社 虫野社 持田社
加佐奈子社 比加夜社 須義社
伊奈須美社 伊奈阿気社 御津社
比津社 玖夜社 同玖夜社
田原社 生馬社 布夜保社
加茂志社 一夜社 小井ノ社
加都麻社 須衛都久社以上参拾五所並不在神祇官
──────────
- 風土記抄の記述は岸埼が延喜式神名帳を参照して補ったものと云う。
布自伎弥社 多気社 久良弥社
同波夜都武志社 川上社 長見社†
- 「多気社」…嵩山山頂部の「布自伎美神社」境内にある「嵩神社」という説と、上宇部尾の「多気神社」という説がある。
「嵩神社」祭神が大己貴命であり、「多気神社」祭神が武甕槌命・経津主命であることから、風土記記載の「多気社」は「嵩神社」であって「多気神社」ではない。
- 久良弥社…松江市新庄町の「久良彌神社」
- この神社の祭神の混乱は、思うに岸埼が「出雲風土記抄」で、嶋根郡の神社修正を行った際、古写本記載の「椋見社」の他に延喜式神名帳から「久良彌社」を追加し、「椋見社」が同じ神社ではなく別神社と考え、重ねて記載した為に生じたことのように思われる。
社伝で、「久良彌神社」と「速都牟自別神社」とを現在地に合社して現在の「久良彌神社」としたようだが、これは「椋見社」と「速都牟自別社」を合社して「久良彌神社」としたということであろう。
その際、「豊受媛命」が祭神に加えられていることを考えると、合社したこの地には元「豊受媛命」と「倉稲魂命」という共に食物神を祭る社があり、それが「稲倉大明神」とよばれていたのであろうと思われる。
このように考えると不在神祇官社が1件減ることになるが、それは「御津神社」のところで合社された「本宮神社(御津神社)」と「御島明神」が元は別社で「御島明神」即ち「御島社」が不在神祇官社に記されるべきものであったと思われる。
- 波夜都武志社…久良弥社と同所にある「波夜都武志社」。上記「久良彌神社」に合社されている。
- 川上社…松江市上本庄町の「川上神社」
・「出雲風土記抄」2帖k10解説で「川上社在是亦餘戸里本庄村加波阿気谷社也」
これによると、「川上」は「加波阿気」(カハアゲ)と読むようである。
・「出雲国風土記考証」p96で「川上社 延喜式にいふ川上神社であつて、風土記鈔に本庄村加波阿氣谷にある社なりとある。高龗命を祀る。」
- 長見社…
・出雲風土記抄2帖k10解説で「長見社手染郷長見村祭尒々岐乃命曰杵田大明神~」
松江市長海の「長見神社」
門江社 横田社 加賀社†
- 門江社…「布自伎美神社」合社の「門江神社」祭神:国常立命
・出雲国風土記考証p97解説で「東川津の門戸谷にある國石大明神である。按ずるに、クニシは、國主からクニシと轉化したもので、もとは都留支日子命か、大國主命かを祀つたものであろうが、雲陽誌には、國常立命を祀ると云つてある。」
と記しているが、祭神が国常立命ではないという理由も根拠も示されていない。
尒佐社 尒佐加志能為社 法吉社†
- 法吉社…元社地は現社地の北方、現在のうぐいす台団地内にあり、そこに宇牟加比売命御陵古墳というのがあったが、団地開発工事のため造作され、古墳自体は調査後団地北端に移転復元保存された。伝宇牟加比売命御陵古墳調査報告書
元社地は尼子・毛利の戦で疲弊し、松江城築城の頃現社地に移転造営。
生馬社 美保社(以上十四所並在神祇官)†
大埼社 大埼川辺社 朝酌上社†
朝酌下社 努那弥社 椋見社†
大井社 阿羅波比社 三保社†
多久社 蜛蝫社 同蜛蝫社†
質笍比社 方結社 玉結社†
川原社 虫野社 持田社†
加佐奈子社 比加夜社 須義社†
伊奈須美社 伊奈阿気社 御津社†
比津社 玖夜社 同玖夜社†
田原社 生馬社 布夜保社†
加茂志社 一夜社 小井ノ社†
加都麻社 須衛都久社(以上参拾五所並不在神祇官)†
(白井本に戻る)
[山]†
布自枳美高山郡家正南七里二百一十歩高丈周一十里†
布自枳美高山。郡家の正に南七里二百一十歩、高さ二百七十丈、周り一十里
- 出雲風土記抄2帖k14で、次の女岳と併せて記している
本文『布自枳美高山郡家正南七里二百一十歩高二百七十丈周一十里女岳郡家正南二百卅歩』
注釈「鈔云布自枳美者跨山口ノ郷朝酌ノ郷餘戸ノ里三箇ノ中ニ則東川津ノ嵩山是也七里二百一十歩者今ノ一里九町卅間也乃シ合祭布自枳弥多気両社ヲ於山頂ニ今俗ニ曰嵩大明神ト當テ山ノ東ノ垂餘戸ノ里新庄村ノ中ニ有女岳山又二百卅歩者今ノ四町許也」
(鈔云布自枳美は山口ノ郷、朝酌ノ郷、餘戸ノ里、三箇の中に跨ぐ、則ち東川津の嵩山是也。七里二百一十歩は今の一里九町三十間也。乃し、布自枳弥、多気両社を山頂に於て合せ祭る。今俗に嵩大明神と曰う。山の東の垂餘戸の里新庄村の中に當て女岳山有。又二百三十歩は今の四町許也。)
- これによると、かつてこの山頂に布自枳弥社と多気社の二社が祭られており、それを「フジキミ・タケ」と続けて呼んだことから、布自枳美高山と呼ぶようになったとしている。今は「嵩山」を(ダケサン)と呼んでいるが、これに拠れば元は(タケサン)と清音で呼ばれていたのであろう。
- 高さが抜けている。出雲風土記抄に「二百七十丈」とあるのでこれを補う。但し余りに高い。実際には標高331(m) で112丈。
- 布自枳美高山…嵩山のこととされる。読み方は色々試みられているが抄を参考に(フジキミタケサン)としておく。
- 布自伎美高山というのは、宍道湖側から見たとき、嵩山と和久羅山が一体に見える事による呼び方であろうと思われる。
松江ではこの二つの山を総して寝仏山と呼んでいる。
和久羅山のピークは近年261.8mのピークとしている事が多い。古くは244mのピークである今に云う弥勒山を呼んでいた。
弥勒山には基壇が残り、これが布自伎美神社の元社であったと思われる。ここに平安末期に山砦を造作する際、嵩山に移されたものと思われる。古くは和久羅山(羽倉山・和倉山・弥勒山)は、「布自伎美山」と呼ばれていたのであろう。
次の女岳山のところで改めて記すが、加藤は和久羅山を女岳山とし混乱を招いている。
- 七里二百一十歩…4102.56(m) この距離は嵩山から川津町・川原町を廻って郡家に到達する行程かと思われる。
- 二百七十丈…799.2(m)
…一十里…5328(m)
(嵩山と女岳山)
・虫野(福原)から見た嵩山と女岳山。
女岳山郡家正南二百卅歩†
女岳山、郡家の正に南二百三十歩
- 女岳山(メダケヤマ)…嵩山の北方にあるピーク(標高258.2m)。女嵩山。地理院地図
郡家の南230歩と云うことであるから、女岳山北方400m余りの所に郡家があったというのであろう。但しここでの230歩は女岳山山麓からの距離であろう。
ちなみに、余り知られていないようだが、嵩山から女岳山までは縦走ルートがある。但し一旦急峻な傾斜地を下る必要がある。
加藤が校注出雲国風土記p26・修訂出雲国風土記参究p203で和久羅山としているのは誤り。
「布自枳美高山郡家正南七里二百一十歩」「女岳山郡家正南二百卅歩」であるから、女岳山は布自枳美高山の郡家寄りの北方にある。
和久羅山は嵩山の南方であるから、位置的にありえない。加藤の愚説が行政や観光案内にまかり通っている事が理解しがたい。
和久羅山は標高261.8m 地理院地図。西方の244(m) ピークは弥勒山。
伊能図では「和久羅山」は「羽倉古城山」と記されており、244mピークの弥勒山を示している。これは中世、尼子の家臣羽倉氏がこの山に城を築き居城としていたことによる。
ちなみに羽倉氏は「伏見稲荷神社」社家の系譜であり、それ故嵩山の「布自伎美神社」境内に「稲荷社」があるのであろう。
それはともかく、その後毛利氏の番城となり大規模な改修を受け今の261.8mピークに築城し、和久羅山と記すようになったものと思われる。
余談だが元就はこの城と大根島を重要拠点としていた。尼子の月山富田城攻略に際し水運による兵站を担う為であろう。
荻原は学術文庫出雲国風土記p109解説で「女嵩山(一二四・六メートル)(服部旦)」と記しているが、これも誤り。
蝨野郡家西南三里一百歩旡樹木†
蝨野、郡家の西南三里一百歩(樹木無し)
- 蝨野(ムシノ)…出雲風土記抄2帖k14で「合福原板本以曰虫里明暦年中我先君忌虫原名而改福原有虫大明神社大己貴也見事于前」
(福原板本を合せて以って虫の里と曰う。明暦年中我先君虫原の名を忌みて福原と改む。虫大明神の社有り。則ち大己貴也。事は前に見たり)
- 蝨はシラミとも読むのでこれを前の藩主が忌みて名を改めたという。現在の福原町。虫大明神は虫野神社。
大己貴神がこの地に来て田畑を荒らす虫退治を行い、その神徳を尊び虫野神社が創建されたという。
書影では上記の通り「板本」で現在の坂本町がこれにあたるのかどうかは不明。
標註古風土記では「坂本」としている。
- 蝨野が福原坂本であるとすれば、郡家の福原説は成り立たない。
毛志郡家北一里†
毛志、郡家の北一里
- 毛志(モシ)…
・細川家本k19、日御碕本k19、倉野本k19、萬葉緯本NDLk25、は何れも「毛志山」
・紅葉山本k16で「毛志志」
・出雲風土記抄本文2帖k14本文では「毛志山」。解説で「鈔云毛志山本庄村川上山而福原坂本北山也」
(鈔云、毛志山は本庄村川上の山にて、福原 坂本の北山也)
これらにより、白井本では「山」が抜けている。
現在の澄水山地理院地図とされるが、距離的に遠い。
位置的には「虫野神社」あたりであり、虫野神社後背の山塊を指しているのであろう。このあたりは虫の里と呼ばれていたことを勘案すると、毛志山は虫山の訛かと思われる。
大倉山郡家東北九里一百八歩†
大倉山、郡家の東北九里一百八歩
- 大倉山…出雲風土記抄2帖k15解説で「鈔云大倉山ハ手染郷長見川ノ水源今ノ枕木山観音堂ノ東ノ山ノ名」とある。
現在の枕木山(453m)地理院地図。観音堂というのは龍翔山「華蔵寺」のことであろう。
小倉山郡家正東廾四里一百六十歩†
小倉山、郡家の正に東二十四里一百六十歩
- 小倉山…出雲風土記抄2帖k15で「鈔曰小倉山者跨加賀大藘講武持田四所小倉観音旧者在于此山寺号円福寺今徒堂於南麓則今在持田村中又此山加賀川与多久川之水源也廾四里一百六十歩今四里二町此間」
(鈔に曰く。小倉山は加賀、大藘、講武、持田の四所に跨る。小倉観音、旧は此の山に在り。寺を円福寺と号す。今は堂を南の麓に徒め、則ち今持田村の中に在り。又此の山は加賀川と多久川の水源也。二十四里一百六十歩は此の間今の四里二町。)
- 加賀川というのは今の澄水川(加賀神社傍を流れる)のことで、多久川というのは今は佐陀川支流となっている講武川(多久神社傍を流れる)のことであろう。
小倉山というのは現在の大平山(502.8m)の事であろう。地理院地図 校注出雲国風土記・出雲国風土記考証では「大城山」と記しているが標高などから大平山と同じであろう。かつてこの山域には山城があったと伝えられているから、大城山という場合は周辺の山稜部も含めての呼び名だと思われる。
(白井文庫k16)
──────────
郡家東北九里一百八歩江山郡家東北廾六里卅
歩小倉山郡家正東廾四里一百六十歩凡諸山所
在草木白朮菱門冬藍漆五味子苦参獨活葛根
暑蕷萆解狼毒杜仲芍薬柴胡百部根石斛藁本
藤李赤桐白桐海 榴楠楊松禽獣則有鷲字或
作鵰
隼山鶏鳩鴙猪鹿猿飛鼯
[川]
水草河源二一水源出郡家東三里一百八十歩毛志山一
水源出郡家西北六里一百六十歩同毛志山
二水合南海流入入海有
鮒長見川源出郡家東北九
里一百八十歩大倉山東流犬鳥山源出郡家東北
一十二里一百一十歩墓野山南流二水合テ東流テ
-----
入入海野浪川源出郡家東北廾六里卅歩糸江山
西流入大海加賀川源出郡家正北廾四里一百六
十歩小倉山西流入秋鹿郡佐太水海以上六川並少々
旡魚忮也 忮此字本ノ侭
[池]
法吉陂周五里深七尺許有鴛鴦鴨鷠鮒須我毛
當夏節尤
在美菜前原披周二百八十歩有鴛鴦鳬鴨
等之類張田池周一里卅歩匏池周一里一百一十
歩生
蒋 美能夜池周一里口池周一里一百八十歩
有蒋
鴛鴦 敷田池周一里有鴛
鴦南入海自海
行東
朝酌促戸東通道西在平原中央渡則筌亘
東西春秋入出大小雜魚臨時來湊筌邉[馬否]
──────────
江山郡家東北廾六里卅歩†
江山、郡家の東北二十六里三十歩
- 江山…糸江山の誤り。出雲風土記抄で「鈔云糸江山ハ今ノ野浪浦ノ川上ノ山名」とある。
出雲国風土記考証では「千酌から野波へ越す峠の北にある山で、標高百七十九.三メートルのものにあたる」と記している。
校注出雲国風土記では「三坂山標高535.7米」と注記している。
- 野波浦の川というのが千酌路川と里路川の二つあり説が分かれるわけだが、三坂山というのは野波から少々遠く、郡家からの距離を考えると、三坂山と枕木山(大倉山)は郡家からほぼ同じ距離になるはずである。郡家から枕木山(大倉山)まで九里一百八歩であるから、三坂山では郡家から二十六里三十歩という江山とするには距離が違いすぎる。
これにより、三坂山は誤りで、出雲国風土記考証の説が正しいと思われる。地理院地図
凡諸山所在草木白朮菱門冬藍漆五味子苦参獨活葛根暑蕷萆解狼毒杜仲芍薬柴胡百部根石斛藁本藤李赤桐白桐海榴楠楊松†
凡そ諸山に在る所の草木は、白朮・菱門冬・藍・漆・五味子・苦参・獨活・葛根・暑蕷・萆解・狼毒・杜仲・芍薬・柴胡・百部根・石斛・藁本・藤・李・赤桐・白桐・海榴・楠・楊・松
- 暑蕷…薯蕷(ショヨ)であろう。
- 萆解(ヒカイ)…山芋の一種。和名は鬼野老(オニドコロ)。根茎を乾燥させた物を煎じて、風邪・鎮痛に用いる。
- 狼毒(ロウドク)…ジンチョウゲ科の多年草。殺菌・鎮痛に用いる。
- 杜仲(トチュウ)…樹皮を生薬として利尿・肝腎強壮。葉を杜仲茶として用いる。
- 芍薬(シャクヤク)…根を鎮痛・抗菌・止血に用いる。
- 柴胡(サイコ)…ミシマサイコの根を柴胡と呼び生薬として用いる。解熱・鎮痛。
- 李(リ)…スモモのこと。酢桃が元字だが、今では「李」を(スモモ)と読む事が多い。
- 楊(ヨウ)…柳のこと。
禽獣則有鷲字或作鵰隼山鶏鳩鴙猪鹿猿飛鼯†
禽獣則ち、鷲(字或作鵰)・隼・山鶏・鳩・鴙・猪・鹿・猿・飛鼯、有り
[川]†
水草河源二一水源出郡家東三里一百八十歩毛志山、一水源出郡家西北六里一百六十歩同毛志山†
- 三里一百八十歩…1918.08(m)
- 六里一百六十歩…3480.96(m)
水草河、源二つ(一水は源を郡家東三里一百八十歩毛志山に出ず、一水は源を郡家西北六里一百六十歩同じく毛志山に出ず)
- 出雲風土記抄で「鈔云一水源郡家北三里一百八十歩今二十一町也 此水源自蝨野中今福原村澄水山出其一水源郡家西北六里一百六十歩今一里二町四十間 此水源自坂本村与持田村之界即持田納藏谷出記川水源共曰毛志山而澄水与納藏谷之渓路稍阻矣蓋水源山同所出渓間不同耳水同来于山口郷今東川津村合流経西川津南入于海也」
(鈔云。一水源郡家の北三里一百八十歩は今の二十一町也。此水源は蝨野の中、今福原村澄水山自り出ず。其一水源郡家西北六里一百六十歩は今一里二町四十間。此の水源は坂本村と持田村の界、即ち持田納藏谷より出ず。記に二川の水源共に毛志山という。而も澄水と納藏谷との之渓路。稍阻たれり。しかし水源の山は同所に出て渓間同じうせざる。二水同じく山口郷、今の東川津村に来たりて、合流し西川津を経て南の海に入る也。)
- 水草河(ミクサガワ)…現在の朝酌川。上記出雲風土記抄でも少々解りにくいが、一つは虫野神社上流を水源とし福原町を流れる朝酌川上流。
今一つは坂本町を流れる坂本川と東持田町を流れる納蔵川があり、尾根一つ隔てて水源が異なるために別れて流れて下流で合流している事を指している。要するに、朝酌川上流+(坂本川+納蔵川)=水草河 ということである。地理院地図
二水合南海流入入海有鮒†
二水合せて南の海に流れ入海に入る。(鮒有り)
長見川源出郡家東北九里一百八十歩大倉山東流†
長見川、源は郡家の東北九里一百八十歩の大倉山に出でて東に流る。
- 九里一百八十歩…5114.88(m)
- 長見川…現在の長海川。長海町を西から東に流れている。
犬鳥山源出郡家東北一十二里一百一十歩墓野山南流二水合テ東流テ入入海†
- 出雲風土記抄では本文「犬鳥川源出郡家東北一十二里一十歩墓野山南流二水合東流入于海」とある。
犬鳥山は犬鳥川の誤りであろう。郡家からの距離も多少違うが、そのままにしておく。
- 一十二里一百一十歩…6588.96(m)
犬鳥川、源は郡家東北一十二里一百一十歩に出て、墓野山より南に流れ、二水合て東に流れて入海に入る
- 墓野山(ハカノヤマ)…忠山。地理院地図
- 犬鳥川…忠山を水源として南に流れ、長海町に流れている。
かつては「杵田神社」(現在の松江市長海町59「長見神社」地理院地図)辺りで長見川に合流していたらしく、それを「二水合東流入入海」と表している。
校注出雲国風土記・標注古風土記・出雲国風土記考証では「大鳥川」としている。
出雲国風土記考証p115で「日御碕本・植松本は丈鳥川につくる」とある。
野浪川源出郡家東北廾六里卅歩糸江山西流入大海†
野浪川、源を郡家の東北二十六里三十歩の糸江山に出づ。西に流れ大海に入る。
- 廾六里卅歩…13906.08(m)
- 野浪川…現在の千酌路川であろう。
出雲風土記抄では、本文「野浪河」としている。
又、校注出雲国風土記では、野浪川の注で「八束郡島根村の野波川」としているが、この「野波川」は不明。(八束郡島根村は大芦村・加賀村・野波村が合併した村。里路川を指しているのか?)
加賀川源出郡家正北廾四里一百六十歩小倉山西流入秋鹿郡佐太水海以上六川並少々
旡魚忮也 忮此字本ノ侭†
この部分欠落がある。出雲風土記抄を参照する。
加賀川源出郡家正北廾四里一百六十歩小倉山北流大海入也
多久川源出郡家西北二十四里小倉山西流入秋鹿郡佐太水海(以上六川少々無魚川也)
(出雲風土記抄による)
加賀川源出郡家正北廾四里一百六十歩小倉山北流大海入也†
加賀川、源を郡家の正に北二十四里一百六十歩に出、小倉山を北に流れ大海に入る也。
多久川源出郡家西北二十四里小倉山西流入秋鹿郡佐太水海(以上六川少々無魚川也)†
多久川、源を郡家の西北二十四里小倉山に出、西に流れ秋鹿郡の佐太水海に入る。(以上六川少々は無魚の川也)
- 小倉山…既述。上記参照
- 無魚川…いずれも小川であるため、取りたてて記す程の魚は居ないという意味であり、小魚(メダカや小鮒等)はいる。
- 廾四里一百六十歩…13071.36(m)
- 二十四里…12787.2(m)
(白井本に戻る)
[池]†
法吉陂周五里深七尺許有鴛鴦鴨鷠鮒須我毛當夏節尤在美菜†
法吉の陂、周り五里、深さ七尺許り。鴛鴦・鴨・鷠・鮒・須我毛(夏節に当たりて尤も美菜在り
出雲風土記抄(第2帖p18)では「法吉坡周五里深七尺許有鴛鴦鳧鴨鯉鮒須我毛當夏節尤有美菜」
注で、佐久佐自清の談として、出雲には慶長年間まで鯉は居なかったので、「鯉」は衍字かと疑っている。
- 古写本により「鯉」の有る物と無い物があるが、自清の談に従えば、「鯉」とあるのは「鷠」の誤写と考えられる。
但し、出雲に堀尾氏支配の頃まで鯉がいなかったという自清の話は少々疑わしい。
- 法吉陂(ホッキノヒ)…出雲風土記抄では「法吉坡」
「陂」は池の事。「坡」は傾斜地のこと。ともに(ヒ・ツツミ)と読むが意味は異なる。
標註古風土記等では「智者池」としているが、出雲国風土記考証では「周五里」にあわないと疑問を呈し、「麻利支天の南、新橋、内中原、四十間堀等を包有する所が、古は沼であった。法吉坡とは其の沼を云ったものではあるまいか」としている。
- 「麻利支天」というのは「法吉神社」南方にある「麻利支神社」のことであろう。古い沼というのは現在の松江城西方のかなり広い範囲にあたる。
- 五里…2664(m)
- 七尺…2.07(m)
- 鴛鴦(オシ)…オシドリ。鴛はオシドリの雄、鴦はオシドリの雌
- 鷠(ウ)…海鵜
- 須我毛(スガモ)…菅藻。ヒルムシロ科或いはアマモ科の海草
- スガモを挙げていることから、法吉陂は塩水若しくは汽水域に接しているはずで、山中の淡水池である智者池はありえない。
前原披周二百八十歩有鴛鴦鳬鴨等之類†
前原の陂、周り二百八十歩。鴛鴦・鳬・鴨等の類有り
張田池周一里卅歩†
張田池、周り一里三十歩
匏池周一里一百一十歩生蒋†
匏池、周り一里一百一十歩(蒋生えり)
- 匏池(ヒサゴイケ)…松江市薦津町の旧地名「古桁」にあったという池。現在の柄杓池南方、浜佐田上あたり。地理院地図
ヒサゴは瓢箪(ひょうたん)のことであるから瓢箪の形をしていたのであろう。
- 蒋(ショウ)…マコモ
美能夜池周一里†
美能夜池、周り一里
- 美能夜池…所在不明。出雲国風土記考証では、「薦津の蛍ガ池ではあるまいか」と推察している。
口池周一里一百八十歩有蒋鴛鴦†
口池、周り一里一百八十歩(蒋・鴛鴦あり)
- 口池…所在不明。出雲風土記抄では山口池の山が欠落したものかとしているが、山口池が既に解らない。
出雲国風土記考証では、「本庄村と持田村との堺の細工峠の池をいったものか」と推察している。
敷田池周一里有鴛鴦†
敷田池、周り一里(鴛鴦あり)。
- 敷田池…所在不明。出雲国風土記考証では「國屋の長池は、口池か、敷田池か、その何れかの一つに當るであろう」と推察している。
南入海自海行東†
南は入海(自海行東)
- この一文、多くは独立した文として扱っていることが多いが、独立した文なのか、前の敷田池に繋がる文なのか疑問のあるところ。
独立文ならば、なぜここにこの一文があるのか理由が解らない。
敷田池に繋がる文とすれば、「敷田池、周り一里(鴛鴦あり)。南は海に入る。(海より東に行く)」と読んで、宍道湖と大橋川に繋がっている池と考えることもできる。
~
「出雲国風土記考証」天平時代島根郡之図
『出雲国風土記』嶋根郡2