『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡 ・ 『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡 ・ 『出雲国風土記』嶋根郡2
『出雲国風土記』秋鹿郡 ・ 『出雲国風土記』楯縫郡
『出雲国風土記』出雲郡 ・ 『出雲国風土記』神門郡
『出雲国風土記』飯石郡 ・ 『出雲国風土記』仁多郡
『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記
・『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介
『出雲国風土記』後記
- 「後記」という表示はないが、最終部分であるので「後記」とする。
この部分を「巻末」としている例があるが、巻子であったかどうかは定かではなく、又例えば「意宇郡」を「意宇郡巻」とは記しておらず「巻末」という表現は妥当ではない。
(白井文庫k49)

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道度
自国東境去西廾里二百八十歩至野城橋長三十丈
七尺廣二丈六尺飯梨
川又西廾一里至国廳意宇郡
家北十家衝即分為二邉一正西道
二柱北道柱北道去此四里
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道度
自リ国ノ東境去西へ廾里二百八十歩至ル野城橋ニ長三十丈七尺廣サ二丈六尺(飯梨川)
又西廾一里至国廳意宇ノ郡家北十家衝即チ分為二邉(一正西道二柱北道)
柱北道去ル此ヲ四里二百六十歩至郡北堺ニ朝酌渡(渡八十歩 渡船一)†
- 野城橋…安来市能義町の「能義大橋」辺り。地理院地図
位置は天平の頃からさほど変わっていないようである。但し、現在の能義大橋は1986年にかけられたもので、それ以前には長く橋はなかった。今の能義大橋の少し下流に堰があり、対岸には出雲路幸神社がある。その辺りに野城橋がかけられていたものかと思われる。
大原郡家でも同様だが、古代から川を渡っていた場所の跡を堰にしている例は各地で見られる。
- 余談だが、広島太田川支流の三篠川は子供の頃よく遊んだ場所だが、橋の下流に堰が作られていた。
堰は飛び石のように間隔を開けて作られており、ちょっと飛べば子供でも渡れるように作られていた。
洪水などで橋が流されても、再建されるまでその堰で通行が可能だった。
堰の下流は流れが穏やかで夏場は水泳などして遊んでいた。
川の合流地点前などに堰がある場所もあるが、そういう堰の下流の合流点あたりは流れが複雑になり淵になっている。
溺れる事故も多く、淵には河童がいるから危ないと聞かされていた。
一度淵に潜ったことがあるが、底の方は渦を巻いており魚が多数いて渦に沿ってグルグル回って泳いでいた。
渦に引き込まれそうになり慌てて逃げ出したが、浮かぶとずいぶん下流まで流されていた。
山口に来て、椹野川と仁保川の合流地点辺りには「のんこ」がいると言われていることを聞いた。
「のんこ」というのは方言で河童のこと。
・飯梨川―能義―飯生―利弘―野方―大塚―伯太川―安田宮内―関―関山峠で、約11.5km
・細川家本k63で「又西廿一里至国廳意宇郡家北十家衝即分為二邊(一正西道一柱北道) 柱北道去北日里二百六十六歩至郡北堺朝酌渡(渡八十歩 渡舩一)」
(山川版では、「又西廾一里至国庁意宇郡家北十字街即分為二道(一正西道一抂北道) 抂北道去北四里二百六十六歩至郡北堺朝酌渡(渡八十歩 渡船一)」と改変)
・日御碕本k63で「又西廾一里至国廳意宇郡家北十家衝即分為二邉(一正西道一柱北道) 柱北道去北四里二百六十六歩至郡北堺朝酌渡(渡八十歩 渡舩一)」
・倉野本k64で、「又西廿一里至国廳意宇郡家北十家衝即分為二邉道(一正西道一柱枉北道) 柱枉北道去北日四里二百六十六歩一本八十歩至郡北堺朝酌渡([援]渡八十歩[後]渡舩一)」頭注で「十家衝疑十字街欤」
・紅葉山本k52で「又西廿一里至國廳意宇郡家北十家衝即分為二邉(一正西道一柱北道) 柱北道去此四里二百六十六歩至郡北堺朝酌渡(渡八十歩渡船一)」
・出雲風土記抄4帖k45本文で「又西二十一里至國廳意宇郡家北十家衝即分為二道(一正西道一枉北道)」解説で「国廳即意宇郡出雲村十字街也本文家衝字恐字街欤」
・春満考k67で「十家衡 今按家衡ハ字街の誤奈るへし 為二邉(一正西道一桂比道) 今按邉ハ通の誤り桂ハ枉の誤奈るへし 柱北道去此 今按柱ハ枉の誤り此ハ北の誤奈るへし」
- 国廳…松江市大草町の「出雲国府跡」地理院地図
「六所神社」北方に「十字街」地理院地図と呼ばれる場所があり、岸崎はこれを参考に解説している。
但し、今十字街と呼ばれる場所が天平時代と同じ位置かどうかは疑わしい。
というのは、現在は区画整理が行われて農地が広がっているが、1960年代の航空地図で見ると、今の十字街附近は周辺に比してかなり雑然とした地区であるからである。
出雲は大国であるから国庁には数百人が務めていたと考えられるが、その規模からして東西南北各一辺少なくとも500(m) 程度の規模はあったであろうと思われる。
雑然とした地区全体が国庁の敷地に含まれていたのであろうかと思われる。
今の十字街は国庁の中にあった道の名残であろう。現在発掘調査されているのは極一部でしかない。
尚、荻原は講談社学術文庫「出雲国風土記」p312で「十字の街」と記しているが、上記のように地名は「十字街」である。又「国廳」を「国庁」と読みをふっているが、(コクチョウ)である。
「国庁」発掘に至った経緯はこの地が(こくてふ)と呼ばれていたからであり(くにのまつりごとどの)などとは呼ばれていない。
荻原が奇妙な読みを振っている例は一々指摘するのが馬鹿馬鹿しくなるほど多く、うんざりする。
ちなみに、加藤は修訂出雲国風土記参究p458本文で「国庁」「十字街」と読みをふり、p459参究で「国庁は「くにのまつりごとのや」と訓む。」と解説しているが、何故そう読むのか根拠は示していない。加藤の勝手な読み方でしかない。
ついでに、後藤は出雲国風土記考証p357本文で「國廳」と読みを振っている。「十字街」に読みはふっていない。
- 「こくてふ」という地名は地元山本家所蔵の検地帳に字名として記載されていた。
- 出雲風土記抄の[枉]は字義「木を曲げる」で(曲がる)の意味であるが、山川版の[抂]は[枉]の俗字で(曲がる)の意味もあるが(狂う・荒れる)の意味を含む。
「枉道」は「正道を曲げる・回り道」の意味である。
- 2022年1月現在の島根県の観光案内、出雲国庁跡の頁で「現在の県庁にあたる、古代の役所です。なぜか『出雲国風土記』には「国庁」についての記載はありませんが、ここが古代出雲の政治の中心でした。」と記されているが、出雲国風土記には上記の通り国庁(国廳)に関する記載はある。
(島根県教育庁文化財課では旧字が読めないのか、出雲国風土記を誰も読んでいないのか。通知はしないが改められたし。)
前書きが長くなった。本題に戻る。
- 柱北道…これを「枉北道」の誤りとし(北に曲がる道)と解釈するのが定説のようになっているが、古写本は「柱北道」である。
(後藤・加藤・荻原共に「枉北道」としている。)
[柱]は、普通に材木の柱であるが、中心として他からより頼まれる、支えるの意味を持つ。
「柱北道」というのは、柱のように中心となる北の道という意味である。
「柱北道」は「正西道」と並んで記されている。
宍道湖の北側の中心となる道が「柱北道」であり、南側の中心となる道が「正西道」である。
- 柱北道去此四里二百六十歩至郡北堺朝酌渡…「去此」は「去北」の誤写とも思われるがそのままにしておく。
・細川家本k63・日御碕本k63・倉野本k64で「去北」
・紅葉山本k52・萬葉緯本k82では「去此」
「柱北道、ここを去ること四里二百六十歩、郡の北の堺朝酌の渡しに至る。」
柱北道は出雲国庁から北に延びる道で、その北端から四里二百六十歩で朝酌の渡しに通じると記している。
柱北道が枉北道即ち北に曲がる道で、出雲国庁から朝酌の渡し迄の道だとは記していない。
- 意宇郡家北十家衝即分為二邊…前後するが「意宇郡家の北に十家にて衝く。即ちこの為に二辺に分かれる。」
[衝]は突き当たると云う意味である。意宇郡家から十軒ほどの家の並びの先で道が突き当たっているというのである。その為に道が二手に分かれていると記している。
意宇郡家がどこにあったかは確定されていない。
出雲国庁の近くであったではあろうが国庁と同所という事は考えにくい。
これは後藤が出雲国風土記考証p358解説で「「至國廳意宇郡家北十字街即分為二道」は、他の文例によれば「國廳意宇郡家ノ北ノ十字街に至り即分れて二道となる」と讀むべきものと思はれる。さうとして見れば、國廳は意宇の郡家と同所であつたのではないか。若し同所でないとすれば、相隣接して居つたであらう。」と記したことに始まる。
これは「至国廳意宇郡家」の部分を日御碕本等の返り点を参考にひとまとめにして読む事から生じた解釈のようである。
それを加藤が出雲国風土記参究p459解説で「意宇郡家は国庁の構内にあったものであろう。」と根拠もなく記したことが通説となってしまっている。
今の島根県庁と松江市役所が同所にあるかといえばそうでは無い。どこの県でも県庁と市役所は別の場所にある。
ところで、周防国府(周防国衙跡)は、今の山口県防府市にあり、長く東大寺の管轄下であったため明治期まで状態の良いまま維持され、国府史蹟として最初に指定されたのであるが、かつては国府内に佐波郡家があったと考えられていた。しかし近年の発掘調査により、郡家は下右田遺跡(右田小学校付近)にあったと考えられるようになってきている。
ちなみに周防国府は方八町(約850m四方)と呼ばれる広大な領域である。中心部が国衙と呼ばれ、政庁施設等があったとされる。
そもそも「北に曲がる道」というのはどういうことかと考えてみると、「北に向かう道」ならばわかるが、「北に曲がる道」というのは意味不明である。北に進む道が北に曲がっているというのか、意味が無い。
例えば「西に向かう道が北に曲がる道」と云う意味であるならば理解できる。それであれば、茶臼山南麓を西に向かい山代辺りで北に曲がる道を指しているのかと云えば、それは朝酌渡しに行くにはかなりの回り道となりあり得ない。
通説では野城橋で一旦切り、西への道を記しその区切りが十字街で二辺に別れると云う解釈をしている。十字街は十字の交差点であり三辺に別れるというなら理解できるが二辺に別れるという解釈は奇妙である。
岸埼は「十字街」という地名が残っていたので、これを参考に古写本に記された「十家衝」を「十字街」と読み替え解釈を試みたのであろう。岸埼は「恐字街欤」と疑問を持ちつつ記したのであろうが、これを春満が「家衡ハ字街の誤奈るへし」と断定的に記したしたことからそれが定説となり、辻褄の合わない解釈が重ねられてきている。
話を戻すと、[衝]と記された場所は出雲国庁から北に向かって進んだ先で茶臼山東麓にあたるこの辺り地理院地図であろう。
ここから朝酌の渡しに抜けたのであろう。
4里260歩は約2600(m) であることを勘案すると、朝酌の渡しへは出雲国分寺跡の東側から大橋川の塩楯島方面に向かい、そこから川沿いに進んだ行程が約2600(m)であり、風土記の記述に相当する。
国府跡周辺の発掘調査が一段落し、パンフレットや案内板など置かれ解説されているが、その案内板には朝酌の渡しへの行路として二つの池(蟹穴池・奥堤池)の側を通る道が推定されている。この道は峠越えで標高30(m) 以上あり、間道としては考えられるが正道としては考えがたい。
『出雲国風土記』意宇郡で「黒田驛郡家同處」と記されており、既に記したように、黒田驛家が松江市大庭町の黒田畦近くであったとすれば、意宇郡家はこのあたりにあったと考えられる。
- 「坐北朝南」いわゆる「天子は南面す」という古代中国の思想であるが、出雲国庁の場合、これが当てはまるのかどうか疑問がある。南面するように国庁を作るなら、もっと北、出雲国分寺辺りに国庁を作れば良かったのではないかと思える。
今推定されている国庁辺りで南面するとすれば、南にはすぐ意宇川が流れており、その南は山であり何やらすっきりしない。
無論意宇川は氾濫が多く、川筋を変えることの多い川であり、古代には一時期今の川筋と異なり三軒家と呼ばれる辺りを流れていたとも考えられているから、微高地である中島と呼ばれる六所神社付近に国庁が作られたものでもあろう。
今大草町は意宇川で二地区に別れているが、元は意宇川が北に流れ、その南側を大草と呼んだものと思われる。
「こくてふ」という地名から、今の六所神社傍に国庁があったのは確かであろうが、これは北面していたのではないかと思われる。
「坐北朝南」というのは「四神相応の地」というのがその思想の背景であり「背山臨水」山を背にし水に臨む(背後に山、前に水)というのが本来である。
意宇川が国庁の北方を流れていたとすれば、国庁が北面していたとしても、四神相応の地でありおかしくはない。
何れにせよ今後の発掘調査によるしか判断しがたい事ではあるが、一応疑問として記しておく。
(国庁の碑)

道度
国の東の境より西に去る廿里二百八十歩、野城橋に至る。長さ三十丈七尺、廣さ二丈六尺。(飯梨川)
又西に廿一里国廳に至る。意宇の郡家の北十家にて衝く。即ち為に二邉に分かれる。(一つに正西道。二つに柱北道)
柱北道此を去る四里二百六十歩、郡の北の堺朝酌渡に至る。(渡八十歩、渡船一)
- 廿里二百八十歩…11153(m)
三十丈七尺…90.87(m)
二丈六尺…7.70(m)
廿一里…11189(m)
四里二百六十歩…2593(m)
八十歩…142.1(m)
(白井文庫k50)

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二百六十歩至郡北堺朝酌渡渡八十歩
渡船一 又北一十里
一百卅歩至嶋根郡家自郡家去此一十七里一百八
十歩並隠岐渡千酌驛家濱渡
船又自郡家西一十五
里八十歩至郡西堺佐太橋長三丈廣一丈佐太
川又西
八里三百歩至夜秋鹿又自郡家西一十五里一
百歩至郡西堺又西八里二百六十四歩至楯縫郡
家又自郡家西七里一百六十歩至郡西堺又西一十
里二百廾歩出雲郡家東邊即入正西道也摠
柱北道程九十九里一百一十歩之中隠岐道一十七
里一百八十歩正西道自十字衝西一十二里至野
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代橋長六丈廣一丈五尺又西七里至玉作街即合
為二道一正道一
有南道一十四里二百一十歩至郡南西堺又南二十
三里八十五歩至大原郡家即分為二道一南西道
一東南道
南西道五十七歩至斐伊河渡廾五歩
渡船又南正廾九里一
百八十歩至飯石郡家又自郡家南八十里至国南西
堺通備後国
三以郡總去国程一百六十六里二百五十七歩也
東南道自郡家去廾三里一八十二歩至郡東南堺
又東南十六里二百卅六歩至仁多郡比々理村分
為二道一道東八里一百廾一歩至仁多郡家一道南二十
八里一百廾一歩正西道自玉作街西九里至東待
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又北一十里一百卅歩至嶋根郡家ニ†
又北一十里一百三十歩、嶋根郡家に至る。
自リ郡家去ル此ヲ一十七里一百八十歩並隠岐渡ル千酌驛家ノ濱(渡船)†
・細川家本k64で「自郡家去北千千七里一百八十歩至隠岐渡千酌驛家濱(度舩)
(山川版p132では「自郡家去北一十七里一百八十歩至隠岐渡千酌駅家浜(度船)」と改変。
・日御碕本k64で「自郡家去北一十七里一百八十歩至隠岐渡千酌驛家濱(度舩)」
- 並隠岐…「至隠岐」の誤写であろう。
- 一十七里一百八十歩…9377.3(m)
郡家より此を去るに十七里百八十歩、隠岐の渡し千酌駅家の浜に至る。渡船あり。
- 船…白井本では「船」としているが、古くは細川家本や日御碕本のように「舩」であり大型のものを指していた。
又自リ郡家西一十五里八十歩至ル郡ノ西堺佐太ノ橋ニ長サ三丈廣サ一丈(佐太川)†
- 一十五里八十歩…8134.1(m)
- 三丈…8.88(m)
- 一丈…2.96(m)
又、(嶋根)郡家より西十五里八十歩、(嶋根)郡の西の堺佐太の橋に至る。長さ三丈広さ一丈(佐太川)
又西八里三百歩至ル夜秋鹿ニ
又自郡家西一十五里一百歩至郡西堺†
・細川家本k64で、「又西八里三百歩至東秋鹿」
・日御碕本k64で、「又西八里三百歩至夜秋鹿」
- 八里三百歩…4795.2(m)
・三百歩で一里なのであるから、何故ここで八里三百歩ではなく九里としていないのか疑問が残る。
- 一十五里一百歩…8169.6(m)
又、西八里三百歩にて秋鹿の東に至る。
又、(秋鹿)郡家より西一十五里一百歩にて(秋鹿)郡の西の堺に至る。
又西八里二百六十四歩至楯縫郡家
又自郡家西七里一百六十歩至郡西堺†
- 八里二百六十四歩…4731.3(m)
- 七里一百六十歩…4013.8(m)
又、西八里二百六十四歩にて楯縫郡家に至る。
又、(楯縫)郡家より西七里一百六十歩にて(楯縫)郡の西の堺に至る。
又西一十里二百廾歩出雲郡家東邊即入正西道也†
又、西一十里二百二十歩にて出雲郡家の東辺、即ち正西道に入る也
摠柱北道程九十九里一百一十歩之中隠岐道一十七里一百八十歩†
- 九十九里一百一十歩…52942.6(m)
- 一十七里一百八十歩…9377.3(m)
- 摠…総
- 程…道のり
- 隠岐道…距離から島根郡家から手角を通り、北浦に抜けて千酌までの道程であったと思われる。
忠山290.5(m)地理院地図の西側を通るという説があるが、あり得ない。
各道は人が歩くだけでなく物資を運ぶ道でもある。
忠山の西側ルートは標高180(m)を超す山道である。荷物を抱えて歩いてみるが良い。
一方手角から北浦に通じる道は最大標高35(m)程である。
この忠山説を言い始めたのは後藤のようであるが、長海から千酌の爾佐神社まで、正確にトレースしてみると、忠山西ルートは山中のクネクネ道であり手角ルートと距離はほとんど変わらない。歩きもせず地図だけで判断したのであろう。
すべての柱北道の道のりは九十九里一百一十歩、このうち隠岐道一十七里一百八十歩。
正西道自十字衝西一十二里至野代橋長六丈廣一丈五尺†
- 正西道自十字衝…
・細川家本k64で「正西道自十字御」
・日御碕本k64で「正西道自十字御」
・倉野本k65で、「正西ノ道自十字御街」
・紅葉山本k53で「正西道自十字衝」
・萬葉緯本k85で「正西道自十字衝」」
- 野代橋…野代川に架けられていた橋の名であろう。今は総じて忌部川と呼ばれているが、その下流部を野代川と呼んでいた。
現在の野代橋は忌部川の河口にかかる橋の名になっているが、風土記時代には田和山東方今の勝負橋あたりにあったと思われる。
「十字衝」(十家衝)からおよそ6kmほどであり、12里の記述に合う。
- 一十二里…6393.6(m)
- 六丈…17.76(m)
- 一丈五尺…4.44(m)
正西道、十字衝より西一十二里にて野代橋に至る。長さ六丈廣さ一丈五尺。
又西七里至玉作街即合為二道一正道一
有南道一十四里二百一十歩至郡南西堺†
- 至玉作街即合為二道一正道一
有南道…
・細川家本k64で「至玉作街即分為二道一正西道
一在南道」
・日御碕本k64で「至玉作街即分為二道一正西道
一在南道」
・倉野本k65で、「至玉作街即分為二道一正西道
一[在]
正南道 正南道」
・萬葉緯本k85で「至玉作街即分為二道一正西道
一正南道」
・風土記抄4帖k47本文で「至玉作街即分為二道一正西道
一正南道」
- 七里…3729.6(m)
- 一十四里二百一十歩…7835.1(m)
・萬葉緯本k85・萬葉緯本NDLk88では十四里の前に正南道の記述があり「正南道十四里二百一十歩至郡南西堺」とある。
・風土記抄4帖k47本文で「正南道十四里二百一十歩至郡南西堺」
・細川家本k64・日御碕本k64・紅葉山本k53・倉野本k65には「正南道」の記述はなく白井本に同じ。
- 玉造から南に向かう道を「正南道」としたのは岸埼の修正よるものと思われるが、国庁から出ている道ではないのに「正南道」と呼ぶことには違和感がある。
「一正西道、一有南道」が補記のように小さな文字にされているが、元々は補記ではなかったものを補記のように記したために、混乱を招いたものと思われる。それで岸埼は「正南道」を補って辻褄合わせをしたのであろう。
即ちここの文は「又西七里至玉作街即合為二道、一正西道、一有南道一十四里二百一十歩至郡南西堺」であったと思われる。
又西七里にて玉作の街に至る。即ち合して二道を為す。一つに正西道、一つに南道ありて一十四里二百一十歩にて郡の南西の堺に至る。
又南二十三里八十五歩至リ大原ノ郡家ニ即チ分レ為ル二道ト一南西道
一東南道†
- 二十三里八十五歩…12423.1(m)
- 大原郡家…ここに記す大原郡家は木次町里方菟原にあった郡家のこと。
ルートは、和名佐の郡境(木垣坂)―遠所川沿い―上仁和寺―赤川前原橋―原口―山方―菟原、で、12km半となる。
又南二十三里八十五歩にて大原の郡家に至り、即ち分れ二道と為る。一つに南西道、一つに東南道
南西道五十七歩至斐伊河渡廾五歩
渡船†
- 五十七歩…101.2(m)
- 廾五歩…44.4(m)
- ・紅葉山本k53「南西道五十七歩至斐伊河度廿五歩
度船一」
・細川家本k64「南西道五十七歩至斐伊河度廿五歩
度船一」
・日御碕本k64「南西道五十七歩至斐伊河度廿五歩
度船一」
・倉野本k65 「南西道五十七歩至斐伊河度廿五歩
度船一」([度]にはそれぞれ[渡]と傍記)
・風土記抄-4-k48本文 「「南西道五十七歩至斐伊河度卄五歩
渡船一」
南西道五十七歩にて斐伊河に至る。(渡二十五歩。渡船一。)
又南東南イカ正廾九里一百八十歩至ル飯石ノ郡家ニ
又自リ郡家南八十里至ル国ノ南西堺ニ 通備後ノ国
三以郡ニ
總去国程一百六十六里二百五十七歩也†
- 廾九里一百八十歩…15771(m)
- 八十里…42624(m)
- 一百六十六里二百五十七歩…88902(m)
- 南東南イカ正廾九里一百八十歩…他本により「南西廾九里一百八十歩」に改める。
・細川家本k64・日御碕本k64・倉野本k65・萬葉緯本k85で「南西廾九里一百八十歩」
- 總…[総]の旧字
- 程…みちのり。現在では「行程・道程」のように使われることが多い。
又、南西二十九里一百八十歩にて飯石の郡家に至る。
又、郡家より南八十里にて国の南西の堺に至る(備後国三次郡に通う)。
総じて国を去る道程は一百六十六里二百五十七歩也
- この総道程「一百六十六里二百五十七歩」は国庁から赤名峠までを表している。
赤名峠-飯石郡家-大原郡家-大原旧郡家-和名佐-玉造-乃白-国庁で、90(㎞)弱である。
ちなみに後藤は「出雲国風土記考証」p362の解説で、この里程を飯石郡家から赤名峠迄と考え、それでは距離が長すぎるとし、新旧の里程が混雑していると記しているが、後藤の勘違いである。
東南道自郡家去廾三里一八十二歩至郡東南堺
又東南十六里二百卅六歩至仁多郡比々理村分為二道
一道東八里一百廾一歩至仁多郡家一道南二十八里一百廾一歩†
- 廾三里一八十二歩…廾三里一百八十二歩であろう。12578(m)
・細川家本k65・日御碕本k65・倉野本k66は白井本に同じ
・紅葉山本k53で「廿三里一百八十ニ歩」
・萬葉緯本k85・出雲風土記抄4帖k48本文で「二十三里一百八十ニ歩」
・萬葉緯本NDLk87ではこの部分衍字
- 十六里二百卅六歩…8944(m)
・出雲風土記抄4帖k48本文で「一十六里二百卌六歩」
- 比々理村…
・倉野本k65で「今ノ上阿井村」と傍記しているが、上阿井村は仁多郡家から直線方向で南西13(㎞)余りであり、話にならない。
これは出雲風土記抄4帖k49の解説を写したものであろう。
岸埼は東南道を飯石郡家から吉田村-宇月峠を超えて上阿井を通って仁多郡家までのルートと捉えており、其の為に各距離を改変している。
このルートで飯石郡家から吉田を通り郡の堺宇月峠まで15(㎞)弱ある。又宇月峠から上阿井の阿井川畔まで5(㎞)ほどである。宇月峠から9(㎞)弱と云うと下阿井の鋳物屋あたりとなってしまう。
- 解りにくい部分である。仁多郡比々理村というのが今に残る地名がない。東南を逆に考えると西北方向であるから
仁多郡比々理村から西北方向で郡の堺があり、更にその西北に隣の郡家があるという。
即ち、ここに云う郡家「東南道自郡家」は大原郡家を指しており、東南道は大原郡家を起点とする道の名である。
又次の文で仁多郡比々理村からニ道に分かれるとある。そこから東に仁田郡家があるという事と距離から考えると、
比々理村というのは仁多郡家の西約4.5kmで、今の馬馳下辺りと考えられる。地理院地図
郡境は今は尾原ダム湖に沈んでいるが、1960年代の航空写真で見ると今の道の駅北方で斐伊川が蛇行していた辺りと考えられる。次の地図辺り地理院地図。
・後藤は「出雲国風土記考証」p362解説で「郡堺から東南一十六里二百四十六歩は、仁多の郡家までの距離に等しいから、比比理村は仁多郡家のある所にあたる。」
・加藤は「修訂出雲国風土記参究」p463参究で「比比理村は、大原・仁多郡境、仁多郡側の古名で、今の仁多町八頭辺であろう。」
とそれぞれ記している。郡家と同所とする後藤の説は論外として、加藤の説は仁多郡家から八頭まで約7kmほどで距離が長く又ニ道に分かれようがない。又、八頭から郡の境までの距離を全く考えていない。
- 二十八里一百廾一歩…15133(m) 他の古写本では「三十八里一百二十一歩」であるからこれに改める。
・三十八里一百廿一歩…20461(m)
・細川家本k65で「一道東八里一百廿一歩至仁多郡家一道南卅八里一百廿一歩」
・日御碕本k65で「一道東八里一百廾一歩至仁多郡家一道南卅十八里一百廾一歩」
・倉野本k66で、「一道東方卅八里一百廾一歩至仁多郡家ニ一道ハ南丗八里一百廾一歩至備後国堺遊託山」
・出雲風土記抄4帖k49本文で「一道東方卅八里一百廾一歩至仁多郡家一道南方卅八里一百二十一歩備後国堺至遊託山」
ニ道に分かれるもう一方の道は馬馳下から出雲三成方面に向かう道を指すのであろう。
馬馳下―出雲三成―宇根―高尾―野土―大馬木―堅田―上連―出雲峠(遊託山)で約20(㎞)。記述に合う。
- 荻原の講談社学術文庫「出雲国風土記」は加藤の説を丸飲みしたものであり、記述するに値しない。
ついでに、ここだけに限らないがネット上では講談社学術文庫「出雲国風土記」を真に受けた記述が拡散され鼻白む。
何度も記しているが、『出雲国風土記』は地誌である。当然に神社案内ではない。地誌の記述を検証するには現地を歩いてみる必要がある。
現地を訪れもせず、他人の説を略記したような内容にはなんの価値もない。
私自身出雲を歩き始めて三十年以上になるが、そのきっかけは所謂「通説」(加藤説が中心)がいい加減過ぎると感じたことが始まりである。
この間出雲地方はずいぶん様相が変わり、出雲平野の築地松も随分減り、旧松江市など見る影もない。
地名変更も多くなり各地の小字名は消え、困難も増えてきた。
(白井文庫k51)

──────────
橋長八丈廣一丈三尺又西廾三里卅四歩至郡西
堺出雲河度五十
歩渡船又自郡家西二里六歩至郡西堺出雲
河度五十歩
渡船自郡家西卅三里至国西堺通石見国
安農郡
總者国程一百六里二百卅四歩
自東堺去西廾里一百八十歩至野城驛又西廾一里
至黒田驛即分為二道一正西道一
隠岐国道隠岐道去
北三十四里一百卅歩至隠岐渡千酌驛又正通
道卅八里至客道驛又西廾六里二百廾九歩
至狭結驛又西一十九里至多岐驛又西一十
-----
四里至国西堺
圍隼宇軍囲即屬郡家熊谷軍圍飯石郡家
東北廾九里一百八十歩神門軍囲郡家正東
七里馬見烽出雲郡家西北卅二里二百廾歩
土揉煥神門郡家烽或東南四里多夫志烽
出雲家北一十三里卅歩布目美烽嶋根郡
家正南七里二百一十里暑垣烽高字郡家正
東廾里八十歩宅波式門郡家西南三十一里
瀬﨑或嶋根郡家東北一十九里一百八十歩
天平五年二月卅日勘造秋鹿郡人神宅臣
──────────
正西道自リ玉作街西九里至ル東待橋ニ長サ八丈廣サ一丈三尺†
- 東待橋…来待橋の誤写であろうからこれに改める。
・細川家本k65・日御碕本k65・紅葉山本k53で「来待橋」
- 現在の玉湯町は南の玉造村と北の湯町村が明治期に合併した町である。一般には総じて玉造と呼んでいる。
風土記の時代玉造村は玉作村と記されており玉作街というのは玉作村の街であり、湯町村ではない。
玉湯川から来待川まで宍道湖沿いだとおよそ6kmあまりある。
風土記の時代来待の辺りは大きな入江が来待神社近くまで広がっていた。
「玉作街」と記しているのは、「玉作湯神社」のある辺りであろう。地理院地図
ここから西の来待に行くルートは、来待川―佐倉―上野山南麓―別所―玉湯川で、おおよそ5km弱である。
来待橋というのは来待神社手前にあったものかと思われる。
- 九里…4795m
- 八丈…23m
- 一丈三尺…3.85m
正西道、玉作街より西九里にて来待橋に至る。長さ八丈、廣さ一丈三尺。
- 一応記しておくと、後藤は出雲國風土記考証p363で、この行程を湯町の南から、林→本郷と進み宍道湖沿いのルートと考え、距離が合わず修正を試みている。加藤も修訂出雲国風土記参究p463で後藤の説を取り修正を試みている。
共に起点とルート及び終点を誤っているのだが、これが通説となっているようである。
又西廾三里卅四歩至ル郡西堺出雲河ニ(度リ五十歩渡船)†
- この部分欠文があると思われる。
ここに記された「出雲河」は斐伊川のことであろう。
(神門郡に「出雲川」(出雲河)という記述がある。)
「郡の西堺」というのであるからこれは出雲郡の西の堺を指す。
そこまでの距離が廾三里卅四歩(12.3km)である。逆に東へ12.3kmというと意宇郡と出雲郡の郡境を起点にしていると考えられる。
つまり、ここでは一つ前の文にある来待橋から意宇郡と出雲郡の郡境への記述が抜けているのである。
・細川家本k65で「又西廿三里卅四歩至郡西堺出雲河(度五十歩舩一)又自郡家西二里六十歩至郡西堺出雲河(度五十歩度舩一)又西七里廿五歩至神門郡家即有河(度廾五歩度舩一)自郡家西卌三里至国西堺(通石見國安農郡)」
・日御碕本k65で「又西廾三里卅四歩至郡西堺出雲河(度五十歩舩一)又自郡家西二里六十歩至郡西堺出雲河(度五十歩度舩一)又西七里廾五歩至神門郡家即有河(度廾五歩度舩一)自郡家西卅三里至国西堺(通石見国安農郡)」
・倉野本k66で、「又西卅三里卅四歩至郡西堺出(至出雲郡家自郡家西二里六歩至郡西堺出雲川)雲河(度五十歩舩一)自郡家西二里六十歩至郡西堺出雲河(度五十歩度舩一)又西七里廾五歩至神門郡家即有河(今ノ古志川度廾五歩度舩一)自郡家西卌四十三里至國西堺(通石見國安農郡)」
・萬葉緯本k86で「亦又イ西三卄イ十三里三卅イ十四歩至ル出雲郡家自郡家西二里六十歩而ニシテ至郡西堺出雲河川イ渡五十歩
渡船一 又西方七里廾五歩而ニシテ至神門ノ郡家卽有河川イ渡二廿十五
歩渡船一 自郡家西方四卌イ十三里ニシテ而至國ノ西堺通石見ノ國
安濃郡」
・萬葉緯本NDLk87で「亦又ィ西三十三里三十四歩至ル出雲郡家西二里六十歩而至郡ノ西堺出雲河川ィ渡五十歩
渡船一 又自郡家西二里六十歩至郡西又西方ィ七里廾五歩而至神門郡家卽有河川ィ渡二十五
歩渡船一 自郡家西方四十三里ニシテ而至國西堺通石見國
安濃郡」
・紅葉山本k53で「又西廿三里卅四歩至郡西堺出雲河度五十歩
船一又自郡家西二里六歩至郡西堺出雲河度五十歩
度船一又西七里廿五歩至神門郡家即有河度廿五歩
度船一自郡家西卅三里至國西堺通石見國
安農郡」
・鶏頭院天忠本k52で「又西廾三里卅四歩至郡西堺出雲河(度五十歩舩一)又自郡家西方二里六十歩至郡西堺出雲河(度五十歩度舩一)亦西方七里廾五歩至神門郡家即有河(度廾五歩度舩一)自郡家西方四十三里至國西堺(通石見国安農郡)」
・出雲風土記抄-4帖-k50本文で「又西三十三里三十四歩至出雲郡家自郡家西二里六歩至郡西堺(出雲川渡五十歩渡舩一) 又西七里廾五歩至神門郡家即有川(渡二十五歩渡舩一)自郡家西四十三里至国西堺(通石見国安農郡)」
・訂正出雲風土記-下-k45で「又西廾三里卅四歩至出雲郡家又自郡家郡家西二里六十歩至郡西堺出雲河渡五十歩渡船一又西七里廾五歩至神門郡家即有河渡廾五歩渡船一自郡家西三十三里至國西堺通石見國安濃郡」
- これらを比較すると、「西二十三里~」と「西三十三里~」に分かれる。
・西二十三里~…白井本・細川家本・日御碕本・紅葉山本・鶏頭院天忠本・訂正出雲風土記
・西三十三里~…倉野本・萬葉緯本・萬葉緯本NDL・出雲風土記抄
ここから解ることは、国造家本を底本としたという、萬葉緯本や出雲風土記抄の系列で西三十三里としていることであり、これは同じく国造家本を底本にした鶏頭院天忠本でニ十三里であることから、岸埼により欠文部分が補われ三十三里に改変され、それを萬葉緯本・倉野本が踏襲したということであろう。
この十里(5328m)の追加改変は来待橋から意宇郡と出雲郡の郡境に相当する。
- 度五十歩渡船…他書により「度五十歩舩一」に改める。次の文も同様。
・細川家本k65・日御碕本k65・鶏頭院天忠本k52で「度五十歩舩一」
・上田秋成書入本k56で「度リ五十歩舩一」
・倉野本k66・紅葉山本k53で「度五十歩船一」
又西二十三里三十四歩にて郡の西の堺出雲河に至る。(度り五十歩、舩一)
又自郡家西二里六歩至郡西堺出雲河(度五十歩渡船)†
- 距離から考えて、ここの郡家は出雲郡家であろう。
上の文と比較し整理すると、意宇郡と出雲郡の郡境から斐伊川までがニ十三里三十四歩(12315m)。又出雲郡家から斐伊川までが二里六歩(1076m)。
これらから計算すると、意宇郡と出雲郡の郡境から出雲郡家までは二十一里二十八歩(11239m)となる。
(ちなみに上田秋成書入本k56ではこの部分に「重出恐寫誤」と赤字で傍記しているが起点の違いを見誤っている。)
尚、風土記の時代、郡の境は意志見と佐々布の間と考えられている。
- 来待橋から郡の堺を通り出雲郡家と斐伊川のルートが具体的にどこであったのかは定かではない。
想像ではあるが、斐伊川の渡しがあった場所は現在の山陰線の鉄道橋あたりではないかと思われる。
鉄道用の橋は重量がかかるので岩盤が安定していないといけない。
この場所は岩盤が安定しており、度重なる斐伊川の洪水でも川筋に大きな変化は起きなかったと考えられる。
この南北は中洲ができやすく渡船には向かないように思われる。
川を船で渡るには竹棹を使ったと思われるが、浅すぎても深すぎても使いにくい。又流れが速いと流される。
以前太田川の渡し船について触れたが、戸坂-東野の渡しは、この上流は川が浅く下流は川が深い。その中間地で流れが穏やかな場所で渡船が行われていた。
- 2012年から出雲斐川中央工業団地の造成に先立つ調査で、1kmばかりの道路跡が見つかっている(杉沢遺跡)地理院地図
又郡家より西二里六歩にて郡の西堺出雲河に至る。(度り五十歩、舩一)
自郡家西卅三里至国西堺(通石見国安農郡)†
- 距離から考えて、ここの郡家は神門郡家で、西の国境までの距離であろう。
郡家より西三十三里にて、国の西堺に至る。(石見国安農郡に通う)
總ノハ者国程一百六里二百卅四歩†
・細川家本k65で「惣者國程一百六里二百歩卌四歩」
・日御碕本k65で「惣者国程一百六里二百歩卅四歩」
・倉野本k66で、「惣者国程一百六里五十四里二百歩二百十四歩卌四歩」
・紅葉山本k54で「惣レハ者國程一百六里二百卅四歩」
・萬葉緯本k86で「總者ィ国程一百五六ィ十四里二百四卌ィ十四歩」
・萬葉緯本NDLK87で「總者ィ國程ハ百五六ィ十四里二百四十四歩」
・出雲風土記抄-4帖k50本文で「惣者国程一百五十四里二百十四歩」
・出雲風土記全(越智本)k44で「惣者国程一百六里二百歩卌四歩」
・上田秋成書入本k56で「惣レバ国裡程一百六里二百歩卌四歩」
・鶏頭院天忠本k52で「惣者國程一百六里二百四十四歩」
・出雲風土記解-下-k44で「惣去國國廳ハ
意宇郡程一百六十六里二百五十七歩也」
・訂正出雲風土記-下-k46で「總者國ヲ程一百六里卅四歩」
- これら諸本を比較し検討すると鶏頭院天忠本が最も適切と考えられる。
この部分は、正西道に関する記述部分であり、距離から考えて、ここの距離は国庁から西の国境までの距離であろう。
岸埼や眞龍は国の東西の距離と捉え数値を改変している。
倉野本の補記や萬葉緯本は岸埼の影響を受けている。
- 惣・總…[惣]・[總]はともに(スブ-ル)であるが今は使われず、同じ意味の[総](ソウ-ズル)で代用されるようになっている。
- 程…道のり
- 一百六里二百四十四歩…56910m
總れば国の道のりは一百六里二百四十四歩
「総ずれば国の道のり(正西道・国庁から西の国境への道のり)は56910m」
自東堺去西廾里一百八十歩至野城驛†
東の堺より西に去る二十里一百八十歩にて野城驛に至る。
又西廾一里至黒田驛即分為二道(一正西道一隠岐国道)†
又西二十一里にて黒田驛に至る。即ち分れて二道をなす。(一に正西道、一に隠岐国道)
隠岐道去北三十四里一百卅歩至隠岐渡千酌驛†
隠岐道、北に去ること三十四里一百三十歩にて隠岐渡千酌驛に至る。
又正通道卅八里至客道驛†
- 正通道…正西道の誤り
・細川家本k65・日御碕本k65・萬葉緯本k86などで「正西道」
- 客道驛…宍道驛の誤り
- 卅八里…20246m
又正西道、三十八里にて宍道驛に至る。
又西廾六里二百廾九歩至狭結驛†
- 狭結驛…神門郡で「狭結驛郡家同所」とある。
- 廾六里二百廾九歩…14260m
又西二十六里二百二十九歩にて狭結驛に至る。
又西一十九里至多岐驛又西一十四里至国西堺†
又西一十九里にて多岐驛に至る。又西一十四里にて国の西堺に至る。
間話
次の軍や烽に付いて記すには、前史を理解しておく必要があるので少しく記す。
欽明天皇以後朝鮮半島で任那・百済が滅ぼされ遺民が多くやってきていたのであるが、その復興を目指す試みが続けられてきた。
唐と新羅の連合軍に対し百済遺臣と倭国の連合軍の戦いが天智2年8月(663年10月)白村江において生じ、倭国側はこれに敗れた。
敗北の原因は色々考えられている。戦力は十分であったが、一つには百済遺民軍側の内紛、今一つには倭国軍側が地理に疎く、各地からの寄せ集めであり指揮系統が定まっていなかった点が指摘されている。
天智天皇は、敗戦後唐と新羅が攻め込んでくるのではないかと警戒し、朝鮮式山城の築城や各地に軍の創設、連絡体制としての烽の設置、東国から防人を徴集し北部九州へ派遣する等行った。
とりわけ防人については税の免除もなく、残された家族は働き手を失い辛酸を舐めることとなった。
律令体制への移行というのはこの白村江の戦いの敗北を契機としていると言っても過言ではない。
天武天皇の頃には唐新羅軍が攻め込んでくるという心配もなくなり、風土記の頃には形骸化し、後に廃止された。
出雲風土記に記される軍や烽はこのような経緯による。
- 朝鮮式山城については、以前歩いて見たことがある。福岡の大野城・田布施の石城山・高松の屋島城等だがいずれも高度があり眺望が良くかなりの規模であった。
長門ノ城については特定されていないのだが長府の四王寺山ではないかと考えている。(他の候補とされる山もすべて歩いた)
圍
隼宇軍囲即屬郡家
熊谷軍圍飯石郡家東北廾九里一百八十歩
神門軍囲郡家正東七里†
囲
意宇軍囲、即ち郡家につく。
熊谷軍囲、飯石郡家の東北二十九里一百八十歩。
神門軍囲、郡家の正東七里。
- 軍圍…圍は囲の旧字。軍囲は軍の置かれた場所。古写本はすべて軍圍である。
春満はこれを軍團の誤記とし、眞龍は「出雲風土記解」で軍團と改変し、「訂正出雲風土記」でもこれを引き継いだので通説は軍團(軍団)とされている。
何やら勇ましいが、上述のように形骸化しており、正しくは軍圍(軍囲)であり集合場所である。
・出雲風土記抄-4帖k52解説で岸崎は(鈔云此處有多闕文誤字欤文理甚不接續故強難解之然記大抵路程以俟後人之是正而巳)と記しており、これ以後の部分についての解説に困難があることを吐露している。誠実な人柄であった事が覗える。
- 隼宇軍囲…「意宇軍囲」の誤り。意宇郡家の傍にあったのであろう。国庁傍ではない。念の為。
・細川家本k66・日御碕本k66・倉野本k67・紅葉山本k54・出雲風土記抄4帖k51本文で「阜宇軍圍」
・萬葉緯本k86・萬葉緯本NDLk87で「意宇軍圍」
・後藤は「出雲国風土記考証」p366で長々と軍団構成について記しているが、これは養老律令若しくは令義解の軍防令を引用し推定したものであり、風土記の頃の出雲の軍の様子とは直接には関係ない。
軍防令は唐の軍制を真似たものだが、このようにしたいという中央政権の願望のようなもので、書かれた通りに実行されたかどうかは疑わしい。
軍防令では正丁(健康な成人男子)の三分の一づつを交代で兵にするというのであるから無茶苦茶であり、逃亡者が跡を絶たず、実態が伴わない為、年を追うごとに規模の縮小を行わざるを得なくなり、ついには辺境地以外の各国の軍の廃止に至った。
- [阜]は丘を意味する。細川家本等で「阜宇」と記したのは「意宇の丘」を意味しているのかもしれない。意宇郡家近くの丘というと黒田の団原辺りかと思われる。地理院地図
- 廾九里一百八十歩…二十九里一百八十歩(15771m)
- 熊谷軍圍…木次町下熊谷に「竝九神社」があるがその辺りにあったのであろう。地理院地図
- 松江自動車道建設の際、熊谷地区ではかなり広範囲にわたり詳細な発掘調査が行われたが、結果として「熊谷軍団」を特定できる施設跡や遺物は見つからなかった。
軍団ではなく軍囲なのであるから、無理もない。
「竝九神社」の南方山頂部に水道の給水施設があり、その辺りがかなり広い平坦地になっている。今は道路によって「竝九神社」とは分断されているが、古い航空写真や発掘調査前の地形図をみると「竝九神社」の広い境内と尾根筋として繋がっており、このあたりが軍囲とされていたのであろうと思われる。
- 熊谷軍囲を大原郡家からではなく飯石郡家からの方位距離で記述していることには少々疑問が残る。大原郡家の移転の為であったのであろうか。
- 七里…3730m
- 神門軍囲郡家正東七里…神門郡家から正東七里というと、現在の船津町辺りになる。
船津町西端の山中に標高181mのピークがありその周辺が平坦地となっている、そのあたりに神門軍囲があったのではないかと思われる。地理院地図
そのすぐ東は斐伊川の入江であり軍船(兵站の補給船)の繋留地だったのかもしれないと想像する。
- ちなみに出雲の周辺国では石見国に那賀団(浜田)、伯耆国に久米団(倉吉)、安芸国に佐伯団(府中)、周防国に佐波団(防府)、長門国に豊浦団(長府)を置いたとされる。但しいずれも位置特定されておらず遺跡も見つかっていない。
これだけ各地の軍団記述がありながら一箇所も遺跡らしいものが見つかっていないというのは奇妙ですらある。
その程度に俄作りの制度であり、むしろ出雲の三ヶ所の記述が異常にさえ思える。
馬見烽出雲郡家西北卅二里二百廾歩
土揉煥神門郡家烽或東南四里
多夫志烽出雲家北一十三里卅歩
布目美烽嶋根郡家正南七里二百一十里
暑垣烽高字郡家正東廾里八十歩†
馬見烽、出雲郡家の西北三十二里二百二十歩。
土揉烽、神門郡家の烽の或、東南四里。
多夫志烽、出雲郡家の北一十三里三十歩。
布目美烽、嶋根郡家の正南七里二百一十里。
暑垣烽、意宇郡家の正東二十里八十歩。
- 烽…「烽」は昼に上げる狼煙のことをいう。火を焚き、そこに湿った草木を乗せると煙が出るのでそれを合図にした。
例えば壱岐丘ノ辻の烽は復元ではあるが円形に石組みがされ中央部で火が焚けるようになっている。
実験では狼煙による伝達速度は時速100km~150kmにもなるという。
・唐の軍制では「烽燧」(ホウスイ)として設置され、[燧]は夜に松明など火を用いて合図にしたものをいう。
日本海を夜軍船が航行することはなかったので燧は行われなかったのであろう。
鎌倉期元寇の際も、夜になると元軍は軍を船に引き上げ錨をおろし停泊していた。夜間台風による風雨で多くの元寇船が唐津沖に沈没。
この台風を日本側では「神風」と呼び「神風特攻隊」の命名由来となった。
- 馬見烽…出雲市大社町の「坪背山」(371m)とされる。出雲風土記抄では浜村(松山46m)かと記し、出雲国風土記考証では坪背山としている。
- 卅二里二百廾歩…17973m
・細川家本k66・日御碕本k66・倉野本k67で「卌二里二百卌歩」(22804m)
・萬葉緯本k87・萬葉緯本NDLk88・鶏頭院天忠本k53・訂正出雲風土記k46で「三十二里二百四十歩」(17476m)
・出雲風土記抄4帖k51本文で「卅二里二百三十歩」(17458m)解説で「馬見ノ濱村欤」
- 出雲郡家からの距離で考えると、浜村(松山)では近すぎる。
岸埼が「濱村欤」と記したのは浜村の松山が江戸期に馬見山と呼ばれていた事による。
坪背山説は後藤が出雲平野からよく見える山として訂正出雲風土記記載の距離から推定したものであるが、他の烽との連携を考えると難点があると自ら疑問を呈しており、坪背山かどうかは定かではない。
實際には、坪背山は出雲平野側からはよく分かるが、坪背山から日本海方面への眺望は効かない山であり、烽跡のようなものも見当たらず疑問が残る。
細川家本などでは上述のように「卌二里二百卌歩」即ち「四十二里二百四十歩」(22804m)と記している。この距離からすると「高尾山」(357.8m)が該当するように思われる。
高尾山にはかつて旧帝国海軍の特設見張所としてレーダー施設や兵舎などが作られ海防遺跡として知られるが、日本海方面の眺望は抜群であり、かつてはここに馬見烽が置かれていたのではないかと思われる。海軍施設の設置で周辺はかなり造作を受けているが、海防の要地として風土記の時代も利用されていたように思われる。
山頂から少し外れた登山道脇に馬蹄形の石組み跡が並んで2箇所あり、海軍施設とは無関係であり謎の石組みといわれているようだが、強風を避けることができ、これが烽跡であると思われる。地理院地図
現在の登山道は近在住民の協力を得て海軍が作ったものであり、施設用の資材運搬用に勾配が緩やかで風土記時代は別ルートがあったと思われる。古い登山道は3ルートほどあり、そのいずれかであったと考えられるが水源を考えると、高尾山トンネル付近からのルートが妥当かと思われる。地理院地図には載っていないが高尾山トンネルの東口脇に水源流がある。
山容は遠望すると円錐状の特徴的な山であり、出雲平野から望むことができる。
思うに、馬見烽というのは海見烽が訛って呼ばれるようになったのではないかと思われる。
- 烽経路のうち、石見国の烽は三瓶山に置かれたといわれるが、どこに置かれたかはわかっていない。高尾山から三瓶山は遠望できる。
- 土揉煥…土椋烽。大袋山にあったとされるが疑問。神門郡家からの距離が遠い。
・細川家本k66で「土椋[火魚]神門郡家[女夆]或東南四里」
・日御碕本k66で「土椋煥神門郡家烽或東南四里」
・倉野本k67で、「土掠[火魚]神門郡家[女夆]或東南四里」
・紅葉山本k54で「土楺[火𩵋]神門郡家烽或東南四里」
・鶏頭院天忠本k53で「土椋ノ烽神門郡家ノ烽ノ或ハ東南四里」
・出雲風土記抄4帖k52本文で「土椋[火莫]神門郡家東南一十四里烽或東南四里」解説で(土椋烽今按非西北却西南神門郡稗原村今戸倉山欤神門郡家烽東南十四里者今二里十二町)
- ここにある[或]は語義、会意文字で[口]と[一]即ち集落(口)と境界(一)を[戈]で守ることを意味する。[國]の原字でもある。読みは(ワク)。
[或]が(あるいは)の意味で使われるようになってからは土偏をつけて[域]が使われるようになった。
鶏頭院天忠本を読むと「土椋の烽、神門郡家の烽の或は東南四里」
意味は(土椋の烽は神門郡家の領域内にある烽で東南四里にある)
- ・岸埼は土椋烽を戸倉山であろうかと考え、そのために本文を改変している。上記「或」の語義がわからなかったのであろう。
[或]を(あるいは)と捉え衍字があると考え、戸倉山に合うような改変をしたのであろう。
・雲陽誌によれば上朝山で「袋石 形袋のことく縫めあり、俚俗大神の袋石といふ由来詳ならす」
又、神門郡2k40 所原で「古壘 戸倉山といふ城主古志左京進源長信此所疊山深谷良材最おゝし」とある。
(古志左京進源長信というのは古志氏系図になく、よくわからないが古志左京亮吉信か弟の古志左京亮豊信のことであろうか。最後の城主は三男古志因幡守重信である。古志氏は毛利に服してから古志の栗栖山城から移り、暫くは要害山に居城したが後に備後に移り、その後和田に改称し毛利の防長移封を機に帰農した。)
戸倉山というのは現在の要害山(稗原要害山)(314m)であり大袋山(359.6m)ではない。
・後藤は考証p369解説で「諸古冩本に一十四里とあるを、訂正風土記に四里として居るは、誤りである。これは稗原村の戶倉の大袋山であらう。」
と記しているが、上記の通り諸古写本はすべて四里である。岸埼が戸倉山と記したのを、戸倉山では標高が低く見晴らしが効かない為大袋山に変えたものと思われる。
大袋山としたのは後藤のようであるが、加藤も参究p474で大袋山としており共に誤りである。
- 白井本で[土揉煥]と記しているが[土揉]は(土を揉む)の意味であり[煥]は(輝く)の意味であるから「土揉煥」は(土を揉んで輝かせる)という意味であり、烽が土製であったことを窺わせる。
又[椋]はムクノキのことで、旁に[京]があることで倉庫の意味にも使われることからクラ(倉)とも読まれるようになった。
[掠]は(かすめ取る)の意味であり、烽の通信網をかすめ取る、即ち経路をずらす・迂回させるという意味で使われたように考えられる。
[火魚][火𩵋]は大漢和にも康煕字典にもなく意味不明である。火魚はカナガシラという魚のことであり、[煥」の誤写であろう。
いずれにせよ、この一文は他と表現が異なっている。
- 四里…2131m
- 神門郡家から東南4里というと、出雲市古志町下新宮にある島根県畜産技術センターのあたりになる。
近くに102mのピークがあるのでそのあたりに烽があったかと思われる。地理院地図
烽は火を扱う場所であるから、山火事を起さない為に、その近くには必ず水場が必要である。畜産施設設置のためにこの付近はかなり様子が変わってきているが、ピークの東側に水場があったようである。
ピークの西側の谷筋にも水流がある。
ついでに記すと大袋山の山頂付近に水場はない。山麓から運ばなければならない。
- 過日歩いてみたがピ-ク地は牛舎建設のため開削されている上、樹木繁茂し、1mを超えるシダに覆われ、現況、烽に関連しそうなものは確認できなかった。
ピークの北側に窪地があり、そこには倒壊した石碑があったが文字を読むのは困難であった。烽跡かどうかは判断しがたい。近くに水源流は確認。
印象としてピーク地ではなくやや北方の小山の可能性もありそうであった。他日を期す。
- 多夫志烽…出雲市「旅伏山」山頂(456.4m)とされる。地理院地図
山頂は広さがなく山頂に烽があったとは考え難い。
東方に展望所が設けられており、そこからは出雲平野が一望できる。
展望所の西側の一画に盛土があり岩が一つあり、そこを烽跡とみなしているようではあるが、とても烽跡とは思えない。地理院地図その盛土位置から宍道湖方面は見晴らしが効かない。
この展望所を少し下ると休憩所が作られているが「都武自神社」の間に421mのピークがあり、このピークが本来の旅伏山であり、そのすぐ東側に「乳穴」と呼ばれる窪地がありこれが烽跡かと思われる。
このピークは「都武自神社」の後背の山であり「都武自神社」に通じている。又社殿は松江方向に向かって建てられている。今は樹木繁茂し展望は効かないが、乳穴から松江方面への展望は効いていたと考えられる。
乳穴という呼び名は少し下ったところから見ると乳房のような形状でその上部に窪地があることからの名付けであろう。
又、あまり知られていないようだが、「都武自神社」には井戸があり今も清水を湛えている。
一応記しておくと
・加藤は参究p474で「~今の平田町国富北方の旅伏山(標高四二〇米余)である。」
・荻原は学術文庫p324で注で「平田市国富町の旅伏山(四五六・五メートル)。宍道湖畔からよく見える山で、山頂からは隠岐・土椋・多夫志・暑垣の烽を望むことができる。頂上に烽跡といわれる坑がある。」
と記している。共に登ったことはないようである。とりわけ荻原は出雲に来もせず歩きもせず、なぜこういう出鱈目を断定的に表現するのか、その神経を疑う。
「講釈師見てきたような嘘をつき」という表現があるが、文字通りである。ここだけに限らず他の烽も同様である。
(旅伏山)456.4m山頂

(旅伏山)456.4m山頂

・ベンチがあるが眺望は東西南北全く効かない。烽跡などない。
ここにある三角点は三等三角点で「悪谷山」という三角点名であり旅伏山ではない。
- 布目美烽…松江市「嵩山」(331m)山頂南とされる。地理院地図
- 七里二百一十里…七里二百一十歩の誤りであろう。4103m
- 暑垣烽…『出雲国風土記』意宇郡2で記したが安来市清水町の清水山にあったと考えられる。
・風土記解で青垣山・訂正出雲風土記も青垣山と変えているが根拠はない。
・後藤は出雲風土記考証p371で「~今の能義郡飯梨村、田頼と中島との間にある田頼山であらう。」と記している。
田頼と中島との間ということから「田頼山」というのは標高124mの山を指しているのであろう。地理院地図
・加藤は出雲国風土記参究p475で「車山」(207.9m)とし、これが定説になっているが、後藤も加藤も方位・距離が違い、ともに誤りである。
- 車山には烽跡があるとされているが、小岩が数個分散しているだけでとても烽跡とは言えない。水場も登山口あたりにあるのみで山頂へはかなり距離がある。
(車山は近年山道山頂ともに整備され大山や弓ヶ浜方面の見晴らしは非常に良い。嵩山方面は樹木伐採されておらず、少し山頂から下ると木間越しに見える。)
- 荻原は、考証をきちんと読んでいないのであろう。車山と田頼山を同一視している。
宅波式門郡家西南三十一里
瀬﨑或嶋根郡家東北一十九里一百八十歩†
宅伎戍、神門郡家の西南三十一里。
瀬﨑戍、嶋根郡家の東北一十九里一百八十歩。
- 宅波式…「宅伎戍」(タキノマモリ)の誤りであろう。出雲市多伎町田儀にあったとされる。
・細川家本k66・日御碕本k66・紅葉山本k54で「宅波式」
・倉野本k67で「宅波式」(但し読み難く傍記による)
・萬葉緯本k87・萬葉緯本NDLk88で「宅和式」([和]に[波イ]を傍記)
・出雲風土記抄4帖k52で「宅波或」
・出雲風土記解-下-k49で「宅波式ノ乎須戍の誤」
・訂正出雲風土記-下-k47で「平沙戍」
- 訂正出雲風土記では「平沙戍」としているがこれは田儀川の西、石見との国境中島埼南方の山中を指す。訂正出雲風土記の記述と加藤義成の説を真に受けたのか1982年「くにびき国体」の頃整備されたと記憶するが現在同名の公園となっている。その後は放置され荒れ果て樹木生い茂っている。地理院地図 ついでに記すと加藤は神門郡家の位置を誤っているので神門郡家からの距離も又誤り、こんなところに宅伎戍を想定したのであろう。
・出雲風土記考証p371「宅波戍 訂正出雲風土記に平沙戍と書いてあれども出鱈目であらう。~」と記している。
- 眞龍が出雲風土記解で「乎須戍の誤」と記したことを受けてこれを「平須戍」と誤読し「平沙戍」と書き換えたのであろう。
- くにびき国体前には、国からの助成金もあり島根県内東部で色々な設備や案内などが整えられたが、加藤説を元に殆どやっつけ仕事で十分な検証もなく出鱈目が多い。
- 三十一里…16517m
- 多伎町田儀に手引ヶ浦、手引ヶ丘地理院地図があり、現在はともに公園になっている。神門郡家からおおよそ16.5㎞であり、宅伎戍はこのあたりにあったものと考えられる。
「手引」という地名は「阿陀加夜努志多伎吉比売命」がこの地を通って東に向かおうとした際海が荒れ足止めとなった。この時「海神」に父「大己貴命」の元に向かうのを妨げるなと告げると海が静まり「海神」が手引をしたという神話による。(田儀村史には多少違う異伝が記されている)
天若日子命が亡くなって出雲に戻ろうとした際のことかと思われる。
- 瀬﨑或…「瀬崎戍」(セザキノマモリ)の誤り。松江市島根町瀬崎の「平田山」(177.5m)にあったとされる。ただし推定であり、近年近くの平山(68m)に耕作放棄地を活用し公園として展望所などが整備されている。天気が良ければ伯耆大山が遠望できる。
平山は隠岐航路の監視所であったが、日本海方面の海防施設としての瀬崎戍ではない。
- 一十九里一百八十歩…10443m
- ところで講談社学術文庫「出雲国風土記」p325で荻原は「神々の領する八雲立つ出雲の国は、人の郷も神の社も原野も山川も、最終的にはすべて軍事施設のネットワークに包み込まれ、その近代的防衛機能によって、まるごと(『出雲国風土記』にとっての)現在に存立し続けることを保障されるのだ。」と記している。
唖然。開いた口が塞がらない。軍団が設置される以前から人が住み、神社があり、軍団が廃止された後も人が暮らし神社も維持されてきている。軍事施設云々による保障など関係ない。
こういう言説は寝言戯言でしかなく、まさしく軍国主義者そのもの。腹立たしくもあり反吐が出る。
天平五年二月卅日勘造秋鹿郡人神宅臣金太理†
天平五年二月三十日勘造秋鹿郡人神宅臣金太理
- 天平五年…西暦733年
- 二月三十日…2月の30日目。旧暦(太陰太陽暦)。月齢を基準にしている。月齢0の新月が概ね1日。現在のグレゴリオ暦(太陽暦)とは異なる。
(白井文庫k52)

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金太理
国造帯意宇郡大領外正六位上勲業出雲臣廣嶋
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一月過四日市場閲佑藁中有此書而
來得之袖而帰矣夫風土記者
元明天皇御宇始令撰以來年歴久遠而
往々紛失今世僅所存者一二州耳余
欲見之既有年矣而家々秘之不敢許
電覧也今日得焉誠偶然也哉凣天下
物以無模珍書之樂也叶余宿心既足
矣珠玉金帛蒵以為余喜因書卷
後以記其喜云
寛永乙酉二年秋八月廾四日書于
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国造帯意宇郡大領外正六位上勲業出雲臣廣嶋†
- 国造帯意宇郡大領外正六位上勲業出雲臣廣嶋…既に『出雲国風土記』意宇郡2で記したが、「出雲国計会帳」天平五年八月では「國造帯意宇郡大領外正六位上十二等出雲臣廣嶋」とある。
「出雲国風土記」完成が天平五年二月卅日として、「出雲国計会帳」の記述は「出雲国風土記」完成後の天平五年八月であるから、出雲臣廣嶋の勲位が「出雲国風土記」完成時に勲十二等であったかどうかは断定できない。
風土記の奏上後に初めて勲等が初等則ち十二等として与えられたと考えることもできる。
- 個人的には位階勲等などというものに興味はない。出自に左右され、中央宮廷を中心に位階勲等が決められる制度などどうでも良い。
- 寛永乙酉二年…寛永二年(1625)は乙丑年、乙酉年であれば正保2年(1645)。乙酉の月なら8月
- ここでの奥書によれば、関祖衛は、この書を寛永二年正月四日に市井にて藁に包まれた状態で発見し入手したと云うことになる。
幕府の命を受け幕府所蔵の風土記を校合書写した物とは別のようである。
幕命にて校合書写したのはこの後のことかと思われる。幕府所蔵の紅葉山本というのがそれに当たるのかも知れない。
さすれば、保存状態の良さも鑑み、紅葉山本が最も信頼度が高いと云えるようにも考えられる。
(白井文庫k53)

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江戸三涘寮舎 本齋關老甫
以關祖衡先生藏本正[彳+ヒ/ヒ]四年甲午冬陽月二十日昼
于武阳豊嶋郡櫻田郷霞關山亭
聼窩散人田義郷
享保十三年壬申應鐘上[氵卓余]
武江陰蟄於岫雲堂下写之
トアリ
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- 正[彳+ヒ/ヒ]四年甲午冬陽月二十日…正徳四年甲午十月二十日(1714年11月26日)
- 武阳豊嶋郡櫻田郷霞關…武陽豊島郡桜田郷霞関。今の東京都千代田区霞が関。
- 享保十三年…1728年
- 壬申…みずのえさる、じんしん。干支の9番目
- 應鐘…旧暦十月
- 上[氵卓余]…上澣、上旬の事。