メモa
出雲社家
須佐神社†
宮司「須佐氏」足名椎の末裔
日御碕神社†
宮司「小野氏」、
天葺根命(天冬衣命)の末裔を称す。
富神社†
宮司「富家」大己貴神の末裔を称す(但し、出雲国造家からの別れという説もある)
祖神は「出雲井神社」に奉られる岐神
富家、自称「富上官出雲臣財」(トミノジョウカンイズモジンタカラ)
- 富家が大己貴神の末裔ということはありえないことである。
岐神は伊耶那岐尊が生んだ神であり、大己貴神とはなんの関係もない。
出雲国造家が分裂した際、千家の存続を支持したのが富家であり、それ故千家から厚遇されてきたのであろう。
近年に至っては殆ど妄想のようなことを表明しているようである。
大神山神社†
宮司「相見家」味耜高彦根命の末裔(出自は大和国)
外
神魂神社†
宮司「秋上家」物部氏末裔
出雲大社†
宮司「千家」「北島家」天穂日命の末裔を称する。
・ちなみに天穂日命の陵墓は安来市吉佐町神室の「神代塚古墳」と云われている。地理院地図
53代国造出雲孝時の時、混乱が起きる。この混乱により北島家と千家にわかれる。
泰孝(妻覚日)ーー孝時(妻妙善)ーー(弘乗・清孝・孝宗・貞孝)
- 別記するが、国造家としての正当性を有するのは北島家である。
明治に入り、明治神祇官から北島家に対し、吉備津神社神官就任を命じられた。
北島家はこれを断り、出雲大社神職も同時に辞した。
この事により千家氏があたかも出雲国造家の正当であるかのように振る舞うようになった。
熊野大社†
宮司「鈴木家」但し明治まで。鈴木氏は物部-穂積-鈴木と別れてきた。
佐太神社†
宮司「朝山家」朝山氏は勝部臣真持の子「政持」の時に佐陀神社祭主となっている。
佐太大神との関係は不明。勝部臣は諏訪神の末裔とも言う。
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佐草氏†
須佐能袁命の御子、青播佐久佐日子命の末裔。佐草の佐久佐社神主として佐草氏を称す。
後、出雲総社(六所神社)神官として大草に移住。
更に後、出雲大社上官として杵築に移住。
直系は絶え、
千家67代元勝の子が佐草自清(養子)として1644年佐草家に養子入り。
千家74代豊昌の弟豊實の子が佐草清主俊信(養子)として再び養子入り。
- 千家豊實は「出雲国造伝統略」14コマに、出雲国造として豊昌の次に享保元年(1716)から在職十年とその名がみえるが、国造代数に含まれていない。
- 各地神社の社家は、明治維新後、明治政府の国家神道政策による神祇官制度により行政府から指名された神官を各地神社の神主として派遣する政策により、社家としての立場を強制的に奪われた場合が多い。
更に、その様な派遣神官により、記紀に即した祭神への変更・廃社・合祀など様々な変更が加えられた。
戦後、GHQにより神祇官制度は廃止させられたが、一度失われた歴史は取り戻し難くなっている。
その後、国家神道を神社本庁・神社庁により復活させる動きがあり、伊勢神道を中心とした教義に基づき再編成されてきている。