山
▲「八雲山」(須我山)
標高424.1(m) 地理院地図
『出雲国風土記』大原郡に記載されている「須我山」
山頂は開けている。
ただ、「大本八雲神社」の境内地になっているようで、その類の石碑や建造物がある。
所謂大本教である。
それを無視すれば気持ちの良い山頂である。
登山口は北麓と南麓にある。
雲陽誌110コマp206で「須我山 【風土記】に載る所なり、古須我社ありといふ、今は諏訪明神の宮山なり、里俗寶名塚といふ、」
とあるから、須我山は諏訪神社の社地であったはずである。どういう経緯か不明なれど、大正期頃、大本に売り払ったということになる。
- 大本では出口王仁三郎に憑依した神は素盞嗚尊としている(後には増える)ことから、この地の入手を図ったのであろう。
それに須我神社(諏訪神社)が応じたものと思われる。
今の須我神社が、和歌発祥の地と称しているのは、出口王仁三郎が言い出したことを受けたものであろう。
「八雲山」と山名を変えたのも王仁三郎によるものかと思われる。
尚、同じく大本の所有となって大本の許可が必要になった丹波亀山城のような許可は要らず、時間制限もない。
以下本来の山名「須我山」と記す。
(須我山)登山口駐車場

(須我山)登山口案内板

・「雲南省」と記されている。「雲南省」は中華人民共和国の省であり、「雲南市」ではない。
大本が設置したものであろう。
(須我山)途上にあった石組み

(須我山)登山道

(須我山)大元の建物

(須我山)大元の警告文

(須我山)大元が建てた石碑と鳥居

(須我山)大元関係者による案内

(須我山)山頂

(須我山)山頂三角点

(須我山)山頂奥の樹林

・「寶名塚」というのは此の辺りにあったのかと思われる。
(須我山)大原方面

(須我山)意宇方面

・中ノ海が見渡せる
- 山頂部が「大本八雲神社」の社地となったため、今は南麓の傾斜地岩場を「須我神社奥宮」とか「元社」とか称しているが根拠はない。
戦国期毛利氏が三笠城攻略の為、この地に番城を築いたという。「高津場番城」
(番城は特定の城主を置かず輪番で維持する城のこと)