神社a

○「須我神社」
島根県雲南市大東町須賀260 地理院地図

主祭神:須佐之男命・稲田比売命・清之湯山主三名狭漏彦八島野命

延喜式(927年)に記載のない神社である。
にもかかわらず「日本初の宮」を自称している。

  • 「和歌発祥の地」とか「日本初の宮」とかいう宣伝文句を見ると気が滅入る。
    とはいえ、嘘や出鱈目を放置しておく訳にもいかないので記す。

元は信濃から「諏訪神社」を勧請して創建された神社である。

雲陽誌109コマp205の諏訪で「須我社 【風土記】に載る社なり、素盞嗚尊稲田姫をまつる、
神職傳へて云仁多郡佐白村と大原郡久野村の境八頭坂にて須佐能男尊八岐の大蛇を斬りたまひ、
遂に此須我の里にいたり吾心清々之と曰、彼處に宮を建伊奈多比賣とすなはち遘合而清之湯山主命を生たまふ所なり、
其後意宇郡佐草村に遷りたてまつり八重垣の神社と申なり、是稲田姫をまつる素盞嗚鎮跡飯石郡須佐の大宮なり、
天正年中此地回禄せり、故に社なし、須我の神寶錦の戸張今纔に残り諏訪明神の社内に納といふ」
と、神職の話として記しているが、既にこの時点で神職の話は疑わしい。
須佐能男命は八頭坂で八岐の大蛇を斬った後に須我に移動し、稲田姫と性交し清之湯山主命を生んだという。
その後佐草村に移動したのが佐草の八重垣神社なのだという。
つまり、八岐大蛇を斬った後に八重垣神社に移ったというのであるから、今の八重垣神社で稲田姫を隠すために八重垣を作ったとかいう話は時系列が合わずでたらめである。
又天正年間に須我社は回禄(火災炎上)し、社は失われている。
その後諏訪神社が勧請され、その境内社となっていたのが須我社である。

八頭坂には「元八重垣神社」の石碑が残り、「八重垣神社」は現在「伊賀武神社」境内に社が移設されている。

佐草の自称「八重垣神社」は、別記しておいたが、佐草氏が移動し、空き地となった場所に、須我からやってきたものが勝手に八重垣神社を作り、佐久佐神社を収奪し、明治に入って佐久佐神社を称して社格を得た後「八重垣神社」に改称したものである。

須我神社・八重垣神社の神官は同系譜であり、妄想に長けていたようであり、古事記の記述を勝手に解釈し社伝の捏造を続けてきたものである。
ちなみに、国宝真福寺本古事記に記されているのは「須我」ではなく「須賀」である。

そもそも、『出雲国風土記』における神社記載は、基本的に重要な神社順となっているが、大原郡において掲載された29社の中で須我社は26番目である。

『出雲国風土記』飯石郡熊谷郷では、熊谷の地名縁起として、「久志伊奈大美等與麻奴良比売命(奇稻田姫命)」が出産する事を記している。熊谷で生まれたのが「清之湯山主三名狭漏彦八島篠命」である。これも今の「須我神社」や佐久佐の「八重垣神社」が称する話と矛盾する。

「須我社」というのは、元来は「清之湯山主三名狭漏彦八島野命」の縁起地としてこの神を祀ったものであろう。
それ以上でもそれ以下でも無い。

今「須我神社奥宮(夫婦岩)」と称する岩場があり、元社と称し、須佐之男命・櫛稲田比売命・八島野命を祀っているが、これも疑わしい。
雲陽誌に「大石明神 伊弉諾尊をまつる社なり」とありこの大石明神を今の「須我神社奥宮」に変えたのあろう。

尚、須義禰をスガネと読み、元は須義禰命を祀ったものであるというような説があるようだが、須我に関連付けるためにスガネと読もうとしたものである。須義禰は須美禰の誤記・誤読であって、あり得ないことである。
(この説は加藤義成の説で修訂出雲国風土記参究p436に記している。)

須我山を八雲山とし、更に御室山と記しているものがあるが、『出雲国風土記』大原郡では、須我山と御室山は別記されており、これもあり得ないことである。

和歌発祥云々については「斐伊神社」八本杉に記した。



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Last-modified: 2021-04-23 (金) 06:00:10 (1097d)