神社a
神社島根
◎「比婆山久米神社」(熊野神社)
島根県安来市伯太町横屋 地理院地図
主祭神:伊邪那美之尊
祭神:速玉之男神・事解之男神
「比婆山久米神社」という呼び名は通称。
今は「下ノ宮」と「奥ノ宮」地理院地図がある。
今、奥ノ宮のある比婆山と呼ばれる山は以前は「岑山」と呼ばれ、三峯からなっている。
西の峯を御陵峯とし「伊邪那美之尊」を祀り神陵がある。
北の峯は妙見峯とし「伊邪那岐之尊」を祀り、
南の峯を社祠峯とし、遥拝する峯としている。
北の峯は戦国期「比婆山城」の館が置かれた為山頂部が一部平坦に削られている。
古くは奥ノ宮が「久米神社」と呼ばれていた。下ノ宮は明治期に「熊野神社」と称した。
- 長らく「久米」とはどういう由来なのかと考えてきた。
[久]には二種類あり、3画目の払いが[ク]の上から始まるものと、中央から始まるものがある。
前者は旧字で[舊]に該当する。
元は[舊]であり、俗字として[𦾔]になり、さらに簡略化されて[旧]となった。
後者は「久しい」という意味であるが、[久]は象形で「屍を支える」を意味する。[ク]が屍であり、右中央から書かれる払い[乀]が支えである。
[米]は象形で倒れた稲穂であり、横の[一]が茎であり、その上下に各3点を記し稲の実を表す。倒れた稲から種が四方に飛び散った様子を表す。
後に上下の中の点がつながった。
・伊耶那美命が火之迦具土を生んだ時、女陰を焼かれて亡くなった。
そして、伊耶那伎命は火之迦具土を恨んで切捨てた時、その血が四方に飛び散ったという。
[久]の字の[ク]が伊耶那美命の屍で、払いの部分が火之迦具土を表しており、[米]は伊耶那伎命が切って飛び散った血を表しているのであろう。
「久米」とはこういう意味で名付けられたと考えられる。
・阿毘縁の「熊野神社」は元は「久米神社」を称しており、八雲町の「熊野大社」が元あった熊野山(天狗山)には「久米神社」があった。
- ・神道祭祀で人が亡くなると神葬祭を行う。
古くは土葬であり、火葬されるようになった現在とは異なるが祭祀はさほど変わらない。
遷霊祭・埋葬祭・五十日祭・百日祭・一年祭(・三年祭)・五年祭・十年祭・二十年祭・三十年祭・五十年祭と神職を招いて祭礼を行い、
五十年祭の時葬所を掘り出し、遺骨を洗浄し、墓所にある祖霊の遺骨をまとめた大甕に移し祖霊祭を行う。
これ以後は祖霊として祭られる。
百年祭で洗骨を行う場合もある。百年祭と言っても百年目に行う訳では無い。五十年祭が何かしらの理由で行いえ無かった時、その後に行う祭祀を百年祭と呼んでいる。
遷霊祭というのは、仏教の位牌に相当する霊璽に御霊遷しを行う祭礼である。
この時、○○○○命のように、姓名の後に尊号をつける。亡くなった年令によっては、郎子・郎女や翁・媼などがつけられる。
(仏教の戒名のように理由の分からぬ院号やそれに伴う高額なお布施は必要ない。知り合いの元大名家では、戒名に数百万払ったとかいうような話もある。)
「命」は[口+令]、言いつけることを意味する。亡くなって神となり、残されたものに上からに言いつける立場になったことを意味する。
神道では、人が亡くなることはただ悲しむべきことと云うわけではない。
三年祭は仏教の三回忌の影響によるものであろう、省くこともある。
火葬になってからは、土葬を行う埋葬祭はなく、五十日祭の時骨壺を墓に納める納骨祭を行う。
尚、この一連の神葬祭は地域性があり一様ではない。又家々で違いがあるようである。
我が家では祭神も多いので火葬になってからは十年祭以後は行わず概ね十年に一度の祖霊祭で済ましている。又この時霊璽も処分し檜材で小さな神名板を作り祭るようにしているが数十枚はある。
・神代のことであるから定かではないが、伊耶那美命が亡くなった時、土葬され、後に掘り出され遺骨を洗骨し、改めて埋葬されたものであろう。
それが、「久米神社」と呼ばれる由来であろうと考えられる。
・各地の「熊野神社」では伊耶那美命を主祭神として祭っている神社が多い。素戔嗚尊を祭る例はむしろ少ない。
これからすると、「熊野神社」というのは「久米神社(クメノ神社)」が訛ったものかと思われる。
伊耶那伎命の神陵が淡路島から動かされていないのに対して、伊耶那美命の神陵が次々と移されてきたのは出雲に他の勢力が侵攻してきたのが原因であろうと思われる。
吉備の勢力、半島の勢力、大和の勢力が次々と襲ってきて、それ故移されたものであろう。
(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

(比婆山久米神社)

数十年ぶりに訪れてみると随分様子が変わっていた。
下ノ宮・奥ノ宮とも社殿は修復され、玉垣も陵墓も修復されていた。
以前訪れたときは陵墓は玉垣近くまであったが、切石で囲まれ、まるで円墳というか大きな土饅頭のように設えられている。
以前は現在程の高さはなく今ほどには盛られていなかった。又陵墓の表面は小さな平石で覆われていたと記憶する。
おそらくは修復の際平石などは元の陵墓に盛り上げ玉垣の間と距離を取り切石で囲み、その上に土を盛ったのであろう。
今回は峠之内側から登ったが、巨大な砂防ダムが作られており、これも様子が変わっていた。
人口も少ない山中の集落で、維持管理していくのはさぞや大変であろうと頭が下がる。