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神社島根

◎「勝日高守神社」

島根県安来市広瀬町富田782 地理院地図

主祭神:大己貴幸魂神

境内「月夜見社」祭神:月夜見神


中世尼子氏が居城とした月山富田城の山上にある。
『出雲国風土記』意宇郡で「加豆比乃高社」
「延喜式」巻10出雲国で「勝日髙守神社」

日本書紀巻1-k48一書の六で、少彦名命が常世郷に渡ったのち、大己貴神がこの先国作りを共にしてくれる者はいないのかと
嘆いていた時海からやってくるものがあり誰かと問うと、汝の幸魂奇魂であると称し、日本國の三諸山に住みたいと言い、それが大三輪之神であると記されている。

この記述の元となった伝承を持つのが月山であり、欽明期に社が建てられたと伝える。

「髙守」は「髙森」であり、山頂にある森を意味する。
山腹(今の山中御殿跡あたりか)に「加豆比乃社」があり大己貴命を祀り、その奥宮として「加豆比乃高社」が祀られた。
「加豆比乃社」は後に藤原景清により対岸に移転。(富田八幡宮境内「勝日神社」

大己貴命が幸魂奇魂を迎えたのが鏡岩と呼ばれる岩といわれ、境内にあるという説もあるが境内からでは海は望めず所在不明。(今の三の丸跡辺りか)

幸魂は和御魂の一つで幸いをもたらす魂。何故か奇魂は祭られていない。奇魂は大神神社に祭られたものかとも思われる。


(勝日高守神社 前景)
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(勝日高守神社 社地)
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(勝日高守神社 参道)
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(勝日高守神社 拝殿)
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(勝日高守神社 拝殿内)
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(勝日高守神社 本殿)
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・神木下の岩が鏡岩といわれているようだが、定かではない。神木の成長により割れたのであろうか。

(勝日高守神社 本殿2)
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(勝日高守神社 案内板)
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(勝日高守神社 境内 月夜見社)
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・尼子氏は宇多源氏の流れをくむ、佐々木高氏(京極道誉)の孫高久が近江国甲良荘尼子郷に居住して尼子氏を称したことに始まる。
京極道誉が室町幕府創設に功を為したことにより、京極氏は出雲国守護に任じられ、尼子氏はその守護代として出雲を治めた、その居城が富田城である。後に京極氏の断絶により尼子氏が守護となる。
尼子氏は、当初鎌倉期から移住していた在郷勢力(塩冶氏・宍道氏・三沢氏等)や国造家の反発を受け苦心していた。
杵築神社(出雲大社)の国造家と対立していた日御碕神社に接近し宇龍を中心に交易で富を蓄え、次第に勢力を伸ばし、尼子十旗・尼子十砦と呼ばれる支配体制を築いた。
戦国期、晴久のとき最大の勢力を誇ったが、西の大内氏、東の山名氏との抗争は続いた。
大内氏が陶氏に滅ぼされ、その陶氏を毛利氏が滅ぼしたことにより、毛利と尼子の抗争が続いたが、
1566年11月末毛利元就の兵糧攻めにより尼子義久は元就に降伏し、富田城を明け渡した。
元就は義久らの自害を認めず、安芸への移住を求め、尼子の一党は現在の安芸高田市向原長田の〈円明寺〉に入りこの地の内藤元康の監視庇護下に置かれた。
(円明寺は既に廃寺となっているが、「尼子三兄弟ゆかりの墓」という墓所があり、その下方に跡地が残っている。地理院地図
向原では23年間を過ごしたが、その後現在の広島市安佐北区白木町志路に尼子屋敷が作られ移住した。地理院地図
志路は元は志道と記され、毛利家の分家坂家の元良が志道を領地としたことにより志道を称した。
志道広良は元就の毛利家家督相続に際し元就擁立の中心人物であった。これにより志道家は別格家老とされた。
(志道家は、元の読みはシジであるが、後にはシドウと称している。)
毛利家と志道家は鎌倉幕府の重臣大江広元の末裔でともに本姓大江氏を称している。
志路四十八谷と呼ばれる各地区があり尼子の一党はここに分散居住した。
志路で厚遇されたことにより、元就の孫、輝元が徳川家康により防長に移封された際尼子の郎党もこれに従い、山口県阿武郡阿武町奈古に移住した。
志路では11年を過ごしている。
(義久・秀久は奈古の〈大覚寺〉が墓所となっている。地理院地図
(尚久は関ケ原合戦後仏門に入り、浜田市金城町久佐の〈隆興寺〉に墓所がある。尚久の系譜が尼子氏を継いだ。地理院地図
(萩市堀内地区には萩城近くの各支潘毛利家屋敷がある地区に佐々木尼子氏屋敷があった。客分として厚遇されていたのであろう)
(江戸末期には直系末裔は山口市黒川に移住している)
この間、尼子の残党山中幸盛(鹿介)らが、尼子の傍系新宮党として粛清された尼子誠久の五男で京の東福寺で僧籍にあった孫四郎を還俗させ、尼子勝久として擁立し尼子氏再興の戦いを始めたが、尼子本家筋は一切これに呼応しようとしなかった。


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Last-modified: 2025-02-24 (月) 22:42:27