『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡 ・ 『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡 ・ 『出雲国風土記』秋鹿郡
『出雲国風土記』楯縫郡 ・ 『出雲国風土記』出雲郡
『出雲国風土記』神門郡 ・ 『出雲国風土記』飯石郡
『出雲国風土記』仁多郡 ・ 『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記
『出雲国風土記』仁多郡(にたのこおり)
(白井文庫k42)
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仁多郡
合郷肆 里十二
三處郷 今依前用
布勢郷 今依前用
立津郷 今依前用
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仁田郡†
仁多郡
合郷肆 里十二†
合わせて郷四 里十二
三處郷 今依前用†
三処郷 今も前に依り用いる
布勢郷 今依前用†
布勢郷 今も前に依り用いる
立津郷 今依前用†
立津郷 今も前に依り用いる
- 立津郷…今の地名から「三沢郷」の事であろう。後述するが、元は「三津郷」
・細川家本k54・日御﨑本k54・倉野本k55・萬葉緯本k72・萬葉緯本NDLk73で「三津郷」
・萬葉緯本k04目録頁で「三津郷」[津]に傍記で「澤 和名」
・紅葉山本k45で「立津郷」
・出雲風土記抄4帖k16本文で「三澤郷」
(白井文庫k43)
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横田郷 今依前用
所以号仁多者所造天下大神大穴持命詔此国
者非大非小川上者木穂判加布川下者河志婆布
造度之是者尒多志枳小国在詔故云仁多
三處郷即属郡家大穴持命詔此地田好故吾
御地古經故云三處
布勢郷郡家正西一十里古老傳云大神命之宿
唑所故云布世神亀三年
改字布勢
三津郷郡家西南廾五里大神大穴持命御子阿
遲須伎高日子命御郷髮八握于生昼夜哭唑之
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辞不通尒時祖命御子乘船而卒巡八十嶋宇良
加志給鞆猶不止哭之
十八神多罗預給吉御子之哭田罗尒時預唑則
夜夢見唑之御子辞通則寤間給尒時御津申
尒時何處然云問給即御祖前立去捨唑而各川度
坂上至留申是処也尒時其津水治於而御身沐
浴唑故国造神吉事奏參向朝廷時具水活土
而用初也依此今産婦彼村稻不食若有食者
所生千巳云也故云三津即有正倉
横田郷郡家東南廾一里古老傳云郷中有田四
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横田郷 今依前用†
横田郷 今も前に依り用いる
所以号ス仁多ト者所造天下大神大穴持ノ命詔フ此国者非大ニ非小ニ川上ハ者木穂判加布川下ハ者河志婆布造度之是者尒多志枳小国在詔フ故云仁多ト†
仁多と号す所以は、所造天下大神大穴持命詔ふ。此国は大に非ず、小に非ず。川上は木穂判加布、川下は河志婆布之を造り渡る。是は尒多志枳小国在りと詔う。故に仁多という。
- 木穂判加布…(キノホハカフ)
・細川家本k54・日御﨑本k54・倉野本k55で「木穂判加布」
・萬葉緯本k74で「木穂判加布」「判」に傍記で[夾刂](刾の異体字)
「判加布」の意味は良くは解らないが、[判]には別れるの意味があり、「加布」は「交」と考えると、木の穂(小枝)が枝分かれし交差している様子を表した表現なのであろうと思われる。
即ち、川上は茂みが多いという事なのであろう。
- 河志婆布造度之…
・細川家本k54・日御﨑本k54・倉野本k55・春満考k60で「河志婆布這度之」
・出雲風土記抄4帖k17本文で「阿志波布這度之」
・萬葉緯本k72・萬葉緯本NDLk74で「阿志婆布這度」「阿」に「河イ」、「婆」に「波イ」を傍記。又、「阿志婆布」に「葦這-樋口氏」と傍記。
・紅葉山本k45で「河志婆布造度之」
・春満考k60で「河志婆布造度之」解説で「一本造を這に作れり」
「河志婆布」は「河芝布」、志婆=芝、芝というのはいわゆる野芝の事。「芝布」は野芝が布のように広がっている様子。近年は「芝生」と記していたりする。
「造」は「這」の誤記であろう。
「度」は「渡」の略体。
出雲風土記抄・萬葉緯本で「阿志婆布這度」とし、阿志婆布を葦這と解する説があるがこれだと葦這這度と這が重複する為不適。
又、阿志婆布を葦の根茎とする説もあるが根茎という根拠がない。
以上から、「河志婆布這渡之」であろう。河芝布これ這渡る。
いわゆる野芝が川辺に広がっている様子を表す。
- 尒多志枳小国…「尒多」については、楯縫郡沼田郷に記述がある。水が豊かで湿潤な土地であるという意味であろう。
「小国」については、出雲風土記抄4帖k17解説で「横田郷竹埼村の田疇の中に小国と言う之處有り」とあるが不明。
地理院地図「竹崎」
「鬼神神社」の所在地小字名が小国であるので、それを指しているのかも知れないが、竹崎ではない。
- 仁多は古来より米作りに適した土地で良質米が穫れる地として知られる。今では「仁多米」としてブランド化され「東の魚沼、西の仁多」とも称される。その様な土地の様子を賞賛した一文なのであろう。
![https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/nita/nitamai.jpg](https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/nita/nitamai.jpg)
・収穫前の仁多の棚田。谷合のなだらかな傾斜地に小川が流れ、その傍で稲作が行われている。
刈り取り後は、当たり前に稲架掛(ハゼカケ)が行われている。
三處郷即チ属郡家大穴持命詔フ此地田好故吾レ御地古經故云三處ト†
三處郷、即ち郡家に属す。大穴持命、「此地田好し。故に吾れ御地として古くより經める。」と詔う。故に三處という。
- 郡家…仁多郡家。
・出雲風土記抄4帖k17解説で「古郡家盖乃當郡村欤」と記され、今の仁多郡奥出雲町郡(郡村大領原)であろうと考えられており、「仁多郡家跡」という石碑が大正期に建てられている。(但し確認されたわけではない)地理院地図
- 古經…古写本に異同はない。いずれも「古經」である。(細川家本k55・日御﨑本k55・倉野本k56・出雲風土記抄4帖k17・萬葉緯本k73・萬葉緯本NDLk74・紅葉山本k45)
・春満考k60で「御地古徑 今案古徑ハ也詔の誤か」とあるが、上記のように古写本いずれも[徑]ではなく[經]である。
・出雲風土記解-下-k14で「古經 田詔の誤」
・訂正出雲風土記-下-k25で「故吾御地古經」頭注に「古經真竜作田詔今従之訓」と記し、眞龍説を採っている。
・出雲国風土記考証p312解説で「「古經」の二字は誤字であつて、内山眞龍は「田詔」であらうといつた。」と記している。
・校注出雲国風土記p83で「「此の地の田好し。故、吾が御地の田」と詔りたまひき。」としている。
・修訂出雲国風土記参究p407参究で「諸本の原文に「御地古経」とあるが、これでは何とも解し難いので、風土記解に「御地田詔」の誤写であるとされたのに従うべきであろう。」と眞龍説を採っている。
- 「古經」を眞龍の説のように「田詔」に誤るというのはあり得ない。「經」は縦糸の意味であるが「経国・経世」の様に「治める」という意味がある。「古經」は「古くより治める」の意味であり、断じて「田と詔る」などではない。「經」が「詔」であるとすれば「詔」の字が重複してしまう。
ついでに記しておくと講談社学術文庫「出雲国風土記」p267で「「~故、吾が御地に占めむ」と詔りたまひき」と記し、どこから拾ったのか「占詔」としている。
- 三處郷…出雲風土記抄4帖k17によれば、上下三處村~郡村等23所。又今の広瀬町の東西比田を含むかなり広い郷であった。
即ち、東比田から馬馳にまで跨る地区。三處村は三処村であるが今は三所(上三所・下三所)となっている。
布勢郷郡家正西一十里古老傳ニ云大神ノ命之宿唑マス所故云布世ト 神亀三年改ム字ヲ布勢ト†
布勢郷、郡家の正西一十里。古老伝に云う、大神ノ命の宿唑ます所。故に布世と云う。(神亀三年、字を布勢と改む)
- 宿…普通には(ヤド・シュク)であるが、ここでは(フセ)と読んでいる。(フセ)と云うのが「伏せ・臥せ」であるとすれば、或いはこの地で大己貴命が病にかかったのかと思われる。
又、「布世」という元字からすると、[布]には(広める)という意味があるから「世に広める」という意味とも考えられ、この地に留まりこの地域に稲作を広めたのかとも思われる。
「出雲風土記抄」4帖k18ではこの件に関して、大己貴命が素盞嗚尊から受けた試練の地が此処であったのかと推察している。
三津郷郡家西南廾五里†
- 三津…
・細川家本・日御﨑本・倉野本はいずれも「三津」
・萬葉緯本k73で「三津」と記し[津]に[澤イ]を傍記
・出雲風土記抄4帖k19本文では「三澤」
・出雲風土記解・訂正出雲風土記で「三津」
三津郷、郡家の西南二十五里。
大神大穴持ノ命ノ御子阿遲須伎高日子命御郷髮八握于生昼ル夜ル哭唑之辞不通ゼ
尒時祖命御子ヲ乘セテ船ニ而卒巡シ八十嶋ノ宇良加志ニ給エ鞆猶不止哭之†
- 御郷髪…細川家本k55・日御﨑本k55・倉野本k56・上田秋成書入本k47・鶏頭院天忠本k44は白井本に同じ。
萬葉緯本k73・出雲風土記抄4帖k19本文では「御髪」
春満考k60で「御郷髪 一本郷の字奈きを是とす」
出雲風土記解3帖k15本文で「御須髪」
訂正出雲風土記-下-k25で「御須髪」
- 「郷」の字は象形で物を間に置いて向き合う事を意味する。これから考えると「御郷髪」というのは、髪型の「みずら」の事を表しているのだと考えられる。
春満のようにあるものを無いというのは得心し難く、眞龍のように髪を髭だというのは勝手。いくら歳を経ても子供の髭が八握になるというのはありえない。
- 八握(ヤツカ)…握りこぶしの幅8つ分。70~80cm
- 哭…口をあけて大声で泣くこと。死者の弔いに泣くことを暗示する。
- 祖命…白井本では、上記のように(ミタマノミコト)と傍記しているが(ミオヤノミコト)と読んでおく。
- 八十嶋宇良加志…風土記に「八十嶋」という固有の島名は見られないので、「八十嶋」は多くの島という意味であろう。
「宇良加志」は「うらが・す」の活用形「うらが・し」として、「うらがす」は「癒す」の事であるとしている例があるが、引用例がこの出雲国風土記のこの部分にしかなく疑問。根拠となる語義自体不明。
白井本では「八十島の宇良加志に卒巡し給えども」と読むように記されており、「八十島の浦河岸に卒巡し給えども」の意味であろうと考えられる。
即ち「多くの島の浦の岸辺に連れて巡った」ということであろう。
神門郡高岸郷にも阿遲須伎高日子命が昼夜哭くという記述がある。それで岸辺に高屋を作り、そこで育てたという記述であるが、岸辺であれば阿遲須伎高日子命がさほどには哭かなかったのであろうと思われる。それで大己貴神があちらこちらの島の岸辺に連れて廻ったのであろう。
ちなみに、春萬は「卒」は「率」の誤りとしており、まぁそうなのかもしれないが古写本いずれも「卒」であり「卒」には(にわかに・突然に)の意味があり、時折連れていったという意味なのであろうからそのままにしておく。
又眞龍は「宇良加志」は「由良加志」であり「揺らぐ」事と解説しているが、前後の文に繋がらない。
大神大穴持命の御子阿遲須伎高日子命、御郷髮八握に生いて、昼夜哭ましし。辞通ぜず。
その時祖命、御子を船に乗せて八十嶋の宇良加志に巡り給えども、なお哭やまず。
十八神多罗預給吉御子之哭田罗尒時預唑マス則チ夜夢見唑之御子辞通†
- 十八神多罗預給吉御子之哭田罗尒時預唑則夜夢見唑之御子辞通…
・細川家本k55で「十八神罗願給吉御子之哭由罗尒時願唑則夜夢見唑之御子辞通」
・日御﨑本k55で「十八神多願給吉御子之哭由多尒願唑則夜多見唑之御子辞通」
・倉野本k56で、「十八神罗願給吉御子之哭由罗尒願唑則夜夢見唑之御子辞通」[罗]に[夢]を傍記
・出雲風土記抄4帖k19本文で「十八神夢願給告御子之哭田夢尓願坐則夜夢坐之御子辞通」[十]に[大歟]と傍記
・萬葉緯本k73で「大神夢願給告御子之哭由夢尒願座則夜夢見坐之御子辭通」
・春満考k60で、「十八神多多須 今案十八ハ大の字を転写誤り二字に作るるか」
・上田秋成書入本k48で「十八神夢願給吉御子之哭田[巳/夕]夢ィ尒願唑則夜夢見唑之御子辞通」
・鶏頭院天忠本k44で「十八神多願給吉御子之哭田夢尒願坐則夜多見坐之御子辞通」
・出雲風土記解-下-k16で「大神大の字諸本
十八尒裂誤夢願給」
・訂正出雲風土記-下-k25で「大神夢願給。告御子之哭由。夢爾願坐則夜夢見坐之御子之辭通」
- 「十八神多罗預給」は「大神夢願給」が正しいと思われる。
- 「吉御子」は「告御子」であろう。
総じて「大神夢願給告御子之哭由夢尒時願坐則夜夢見坐之御子辞通」
大神夢に願い給う。御子の哭く由を夢に告げ願いし時に、即ち夜の夢に坐す御子の辞通じるを見る。
則チ寤間給尒時御津ト申ス尒時何處然ルト云問給フ即チ御祖前立去捨唑而各川度坂ノ上ニ至留申ス是処也尒時其津水治於而御身沐浴唑マス†
- 則寤間給尒時御津申…
・細川家本k55で「則寤問給尒時御津申」
・日御﨑本k55で「則寤間給尒時御津申」
・倉野本k56で、「則寤問給尒時御津申」
・萬葉緯本k73で「則寤問給尒時三津申」[三]に[御イ]と傍記。[津]に(サハ)の読み。
・出雲風土記抄4帖k19本文で「則寤間給尒時御津申」[間]に[問歟]と傍記。[御津]に(ミサハ)の読み。
・上田秋成書入本k48で「則寤間給尒時御津申」
・鶏頭院天忠本k44で「則寤問阿ィ給尒時御津申」
・出雲風土記解3帖k16本文で「則寤問給尒時御律申」
・訂正出雲風土記-下-k25で 「則寤問給爾時御津申」
・出雲国風土記考証p313本文で「則寤間給爾時御澤申」[御澤]に(ミザワ)の読み。
解説で「この一條は何れの古寫本にも「澤」の字を「津」と書いてある。併し出雲大河の記に「三澤」とあり、又此處の割註にも「三澤」とあるから、「津」の字は「澤」の草書から誤りたるものであること明かである。」と記している。
ここに云う「割註」は何を指しているのか不明。底本にしたという「訂正出雲風土記」に割註は無い。
・「修訂出雲国風土記参究」p522原文篇で「則寤間給爾時御澤申」
- 「寤(さめる)」は眠りからさめる事。[間]は「問]の誤写であろう。
- 「御津」は古写本何れも「御津」であり、「出雲風土記抄」で「ミサワ」の読みをあてているが、これは「三澤郷」とするための作為である。
「御津」を「御澤」と改変したのは後藤の「出雲国風土記考証」が初出で加藤の「修訂出雲国風土記参究」はこれを受け原文を無視し改竄している。後藤が「御澤」に(ミザワ)の読みを振っており、加藤はp410本篇で「三澤」に(みざは)の読みを振っている。
この件については少し長くなるので改めて後述するが(ミサワ)が正しい。
尚、「三澤」の由来については、野津風土記p146の頭注に永福の「出雲国風土記考」が紹介されており、それには「土俗傳に此郷内三の大澤ある故に三澤といふと傳へり其澤は下三成澤、大吉村澤、古市村澤なり」とある。
又、同頁に同じく永福「出雲国風土記考」からの引用として「御津といふ所は今の三澤町なるべし、石川渡りは今の石村川なるべし石川の名の残りて後に石村負しなるべし町のかたへに三澤社といふあり阿遲須岐高日子命を祭れ利と云う。三津の津は川門にて石川より大川に入る門なり石川は下阿井川内下鴨倉を經て此石村にて大川に入る其所に神代には哭を止め、亞をなをす薬水ありしなるべし」とある。
則ち寤めて問い給う時に御津と申す。
(大穴持命が夢から覚めて阿遲須枳高日子命に問うと「御津」と云った。)
- ここに云う「御津」は幼子の阿遲須伎高日子命の言葉であるから「水」の事であろう。
時に何處に然ると云ひて問給う。
(その時大穴持命は阿遲須伎高日子命に、それはどこにあるのかとお聞きになった。)
- 各川度…
・細川家本k55で「各川度」
・日御﨑本k55で「名川度」
・倉野本k56で 「各石川ヲ度」
・萬葉緯本k73で「名石ィ川度」
・出雲風土記抄4帖k19本文で「石川度」
・春満考k61で「立於坐而名川 今案於ハ出の誤か 名ハ石の誤か」
・上田秋成書入本k48で「各川度」
・鶏頭院天忠本k44で「名川度」
・出雲風土記解-下-k16本文で「石川度荒鹿の字裂誤」
k17解説で「石川一本名川尒書以つれも誤字奈か盖此川ハ阿伊川を云奈るべし。下文戀山の傳尓和尒戀阿伊村ニ坐神王日女ノ命而上到尒時玉日女命以石塞川と阿連バ阿伊川を石川とも云しか。阿伊川と三津郷ハ同所也。~」
・訂正出雲風土記-下-k25で「石川度」
- 「石川」としたのは出雲風土記抄からのようである。
何れにせよ、古写本に「石川」と記すものはない。
出雲風土記抄が石川としたのは、阿井川と斐伊川の合流地点に石村地理院地図というのがあることに依ったのであろうと思われる。
眞龍は名川と記されているものがある事に触れ、石川も名川という川も無いために「荒鹿」ではないかと考えたようである。
王日女命云々の部分は、阿伊川(大馬木川)と云うなら三澤にせよ三津にせよ何の関係も無くなる。
先に永福の「出雲国風土記考」を記したが、石川が阿井川であるなら、阿井川は三沢神社の傍を流れておらず、永福の記述は間違っている。三沢神社の傍を流れるのは三沢川であり此の川は阿井川と斐伊川の合流点より更に斐伊川上流部で合流している為、これが石川であると云うなら石村とは何の関わりもなくなる。
後藤は、この件に関して記しておらず、訂正出雲風土記の「石川度」をそのままに解している。加藤も同様。
「石川」と解し、(石の多い川)というような解説をしている例があるが、どこの川でも上流部は石が多いのが当たり前で、説明しているようで説明になっていない。「名川」という固有名詞のある川を探るのも意味がなく、阿井川が石川だと云うのもこじつけに過ぎない。
ところで、阿遲須伎高日子命が育てられていたのは神門郡の高岸郷であった。大穴持命が夢に見、阿遲須伎高日子命に問うたのも高岸郷においての事であったと考えられる。高岸郷から三沢郷までの道程を考えると、神門川を越え斐伊川を遡上していく必要がある。
「各川」或いは「名川」と記されたのは、元は「各川」で、それはこの二つの大河を「各川」と記したのだと考えるのが自然なことのように思われる。
則ち、ここにある「各川度」というのは、「神門川と斐伊川の各川を渡り」の意味だと解すべきであろう。
(余談だが、この件の考察のため何度も三沢を訪れ、歩き回った。しかしながら「石川」にはどうしても得心できず、ようやく得心できたのが上記である。この件の傍証はこの後に行う。)
即ち御祖の前を立去りまして、各川を渡り坂の上に至り留まりて申す。是処也
(すると、阿遲須伎高日子命は大穴持命の前から立ち去り、神門川と斐伊川の各川を渡り、坂の上に到って立ち止まりこう云った「ここです」。)
- 津水治於而…以下のように各書で[治]を誤記と解している例が多い。「治」は、本来水をおさめるの語義であり、又水を整えるの意味でもある。[津]は水のわき出るところ、水の集まったところの意味であり、「津水治」は、津水の落ち葉等を取り除き整えるという意味であって誤記ではない。
山水を汲む時、流れを遮っている枝葉など取り除き水の流れを整え清水になるのを待って汲む。
その様な当たり前のことを表現している。
[治]にクムの読みはなく[沼]にもクムの読みはない。こういう勝手な読み変えが文の理解をいたずらに難しくする。
・倉野本k56で「津ノ水ヲ治メ於出而」(而に傍書があるが滲んで読みがたい)
・出雲風土記抄-4帖k19本文で「「津ノ水治於」
・萬葉緯本k73で「津水治於而」
・春満考k61で「水冶於而 今案冶於ハ湧出の誤リカ」
・出雲風土記解-下-k16本文で「津水沼於宣長云汲出の誤而」
・訂正出雲風土記-下-k25で「津水沼於而」
- 沐浴…[沐]は髪を洗うこと。[木]は枝の垂れ下がる様子を表し、髪を下ろした姿を示す。髪を下ろし水で洗うことが[沐]である。
[浴]は身体に水をかけること。[谷]は窪んだ様子で盥を指す。盥に水を汲み身体にかける事が[浴]である。
時にその津水治めて御身沐浴しませり。
(そうして、その津水を整え、ご自身で髪を洗い水浴びをされました。)
- よく、解説文などで「御子はすっかり健康になられました」等と記していることがあるが、その様な文章は風土記にはない。
高岸からこの地迄来るほどに身体は健康であり、ただ言葉を発しなかっただけである。則ち沐浴して健康になった訳ではない。
故国造神吉事奏參リ向フ朝廷時具水活土而用ヒ初ム也†
- 具水活土而用…「具水」は「其水」の誤りであろう。
・細川家本k55で「其水活圡而用」
・日御﨑本k55で「其ノ水活圡而用」
・倉野本k56で「其水活治圡出而」
・萬葉緯本k73で「其ノ水活治ィ出シテ土ィ而用」
・出雲風土記抄4帖k19本文「其水活治カ土出カ而用ヒ」
・春満考k61で「且水治圡 今案治ハ彌の義に用ひたるか土ハ出の誤なるべし」
・出雲風土記解-下-k16本文で「其水沼出而用初也沼ハ汲、出を土と誤り書ク本ハ已ろし文意ハ其津ノ水を汲み出で祓禊の水尒用初る奈り」
・訂正出雲風土記-下-k26で「其水沼出而用」
[圡]は[土]の異体字。
「活土」を誤記と判断している記述が多いが、「土」は土地の神を表すのが字義。「活」は水が関を切って流れ出すの字義。
「活土」は(土地の神が現れ出る)事を意味するのであって誤記ではない。
故に国造朝廷に神吉事奏するに參り向う時、その水を(土地の神を呼びだす)活土に用いて初むるなり。
- つまり、国造が神賀詞を奏するに際し、最初にこの水を用いて土地の神の助けを求め、この水を用いることで、もの云わぬ阿遲須伎高日子命が声を発したように奏上の声を発する助けとしていたということである。
依テ此今産婦彼村ノ稻不食若シ有レバ食ス者所生千巳ト云也故云三津ト即チ有正倉†
- 所生千巳云也…「千巳云」は「子已云」であろう。「子云うを已む(止める)」
・細川家本k55で「所生千已云也」
・日御﨑本k55で「所ノ生子己云也」
・倉野本k56で、「所生千児己云不言也」
・萬葉緯本k73で「所ノ生千己不云也」
- 故云三津即有正倉
・細川家本・日御﨑本・倉野本は白井本に同じ。
・出雲風土記抄4帖k19本文で「故云三津神亀三年
改字三沢即有正倉」
・萬葉緯本k74で「故ニ云三津ト神亀三年
改字ヲ三澤ニ即有正倉」
- この部分、三津を三沢に改めたという部分は出雲風土記抄で岸崎が当初「三澤郷」と記した事に合わせる為に挿入したものと思われる。
此に依りて、今産婦彼の村の稻を食さず。もし食す者有れば、生れます所の子、云うを已む也。故に三津と云う。即ち正倉有り。
- 産婦が稲を食さない件については、記述は半端であり良くは解らないが、稲は土地の神の子であり、それを食することを忌んだものかと思われる。
・講談社学術文庫p268~p270で萩原はこの部分に関して「今も産む婦、彼の村の稲を食はず。若し食う者有らば、所生るる子已に云ふ也。」(今も妊婦はその村の稲を食べない。もし食べると、生まれた子は生まれながらもうすでに、ものを言う。)
と「已」を(すでに)とする倉野憲司の説をとっているが、真逆である。
[已]の第一義は「止む」第二義に「すでに」があるが、生まれてすぐ言葉を話すなどあり得ないことであり、あれば喜ばしいことであって忌むことではない。阿遲須伎高日子命の逸話は、言葉を発しなかったことを嘆いていた話で、言葉を発する事を忌んだ話ではない。
- 阿遲須伎高日子命が是処と示した場所については次の二箇所が候補地とされている。
・一つには、要害山中の「刀研ぎ池」と呼ばれていた場所で今は「三澤の池」と呼ばれている場所。地理院地図
元は三沢城の水場で、今は小屋掛けされコンクリートで固めて水を溜め池の風情となっている。
・一つには、国道314号線に案内板がある「三津池」と呼ばれる場所。地理院地図
急峻な山道を登ると少しの平地がありその端に小さな垣でおおわれた場所がある。池は無い。
個々については別記するが、何れも湧水量は少なく、共に結構な山中にあり、風土記にある「坂上至留申是処也」の場所とは考えがたい。
永福は阿井川と斐伊川の合流点に薬水があったと記しているが、合流点あたりにその様な場所はなく、又「坂上至留」にふさわしい場所は見当たらない。
- さて、御津について私見を記しておく。
国道314号線から三沢町に行く途中に「トウトウの滝」と呼ばれる場所がある。地理院地図 今は尾原ダムが造られ古の様子とはかなり変わってしまったこの地域だが、斐伊川から坂を登りすぐに解る水場としてはこの「トウトウの滝」が最もふさわしいと考える。「トウトウ」の意味は解らなくなっており、水音が「ドウドウ」と聞こえるというような説が考えられているようであるが、これは「到頭」という意味であろうと思われる。神門郡の高岸郷から神門川・斐伊川とやってきて「到頭」(ついに)着いたという意味での名付けであろう。
水量は豊かで、沐浴するに充分である。
(トウトウの滝)
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(トウトウの滝 案内板)
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横田ノ郷郡家東南廾一里†
横田の郷、郡家の東南廾一里
古老傳テ云郷中有リ田四段許リ形チ聊カ長遂依リ田而故云横田ト即チ有正倉(以上諸郷所於鉄堅尤堪造雜具ヲ)†
古老傳て云。郷中に田四段許り有り。形聊か長し。遂に田に依りて故に横田と云う。即ち正倉有り。(以上諸郷の所、鉄より堅く尤なるを堪えて雜具を造る)
- 郷中有田四段許…
・「出雲風土記抄」4帖k20解説で(鈔云此郷翕乎竹埼代山中帳五反田馬場角村横田布大曲下横田原田樋口稲田久羅屋福頼八川等十五処以為横田郷也~所謂四段許田者盖可為今五反田欤)
・「出雲国風土記考証」p315解説で(この里程によれば、郷標は下横田の古市より室原川に沿うて遡ること十五町、八川本郷にあたる。風土記抄に「竹崎、代山、中ノ帳、五反田、馬場、角村、横田町、大曲、下横田、原田、樋口、稻田、久羅屋、福頼、八川等の十五所を横田郷となす」とある。)
- 岸崎は「五反田」ではないかとし、後藤は「八川本郷」としている。後藤の云う室原川というのは今は下横田川と呼ばれており、室原川はその上流部を云う。
ところで五反田の西方に「横田八幡宮」というのがあり地理院地図、かつては「横田神社」といい、元は八川本郷にあって横田郷総鎮守であったという。
八川本郷には現在「八幡宮」があるが、此の社が元の「横田郷総鎮守」であったかと思われる。
してみると、横田郷の中心、始まりはこの八川本郷辺りであり、出雲国風土記に記す「郷中有田四段」というのは八川本郷辺りのことであったであろう考えられる。
この辺りの田は、下横田川(室原川)に沿って細長く作られた田が上流部まで続き、八川本郷辺りで河岸の両岸に各二段、都合四段に作られた田を指しての表現であったのだろうと思われる。
- ついでに記しておくと、加藤は「修訂出雲国風土記参究」p414参究で、(郷庁は鳥上の大呂辺にあったのであろう。四段は今の四反というに等しい。~この田は今の鳥上の五反田あたりがその名残かも知れない。)と記しているが大呂では方角が異なり、四段は四反であろうはずが無く、五反田は大呂ではなく中村に属するからかなり適当なことを書いていると云わざるを得ない。(この記述は大呂の「鬼神神社」社伝を参考にしたのであろう)
- 岸崎は「欤」の一字をつけて、疑問の意を込めて「五反田か」と記したが、いつの間にか「欤」の意味は失われ、五反田と断定するのが通説のようになってきている。
ちなみに「反」は広さの単位ではあるが、元々は「一反一石一俵」で米一石が穫れる田の広さを一反と呼んだ。加藤や萩原はこれを方形の面積と捉え長々解説しているが、「反」には元来方形の意味はない。
一石は、一人が一年間に食する米の量で、これを俵に詰めたものが一俵であるが、太閤検地や明治政府の規定など時代の変遷を受け、今では元来の意味は失われ、一俵30kgとして容量のように扱われるようになっている。
「三反百姓」という言葉が残るが、これは家族四人で暮らすには米が足りない貧しい農民という意味で用いられた。
- 余談だが、私が生まれた時、祖母の実家の弟が祝に米一俵を届けてきたそうだ。一歳になる頃、ヨチヨチ歩きが出来るようになると、小さな米俵を作り背負わされ、歩けるようになった事を示すため近所に配って廻らされたらしい。記憶にはない。
これは一俵の米が早く食べられるようにと成長を願っての風習だったと思われる。
- 以上諸郷所於鉄堅尤堪造雜具…[尤](ユウ)は優れた物を言う。[堪]は竈を土の中に作ったものの事で、砂鉄を土間に設えた竈で溶かし優れた鉄器を作っていたことを表しているのであろう。
ここに云う「諸郷」は横田郷だけのことではなく仁多各所の郷を指している。
「雑具」というのは鍋釜など生活用品や鎌鉈など農具などのことを指している。
仁多は米処であるばかりでなく、斐伊川に流れ込む中小河川流域で良質な砂鉄が得られ、又火力を得るための豊かな森林にも恵まれていた為、長く出雲鉄の生産地として知られてきた。
(白井文庫k44)
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段許形聊長遂依田而故云横田即有正倉以上
諸郷
所於鉄堅尤
堪造雜具或澤社 伊我多氣神 以上二所並
有神祇官
玉作社 須我乃非社 湯野社 比太社 漆仁社
大原社 御支斯里社 石壹 以上八所並
不有神祇官
[山]
鳥上山郡家東南卅五里伯耆與出雲
之堺有塩味葛室原山郡家
東南卅六里備後與出雲二国
之堺塩味葛有灰火山郡家東南三十
里 託山郡家正南卅七里有塩
味葛御坂山郡家
西南五十三里即此山有神御門故云御坂備後与
出雲之
堺有塩
味葛志努坂野郡家西南卅一里有紫
菜少々玉峯山
郡家東南一十里古老傳云山嶺在玉上神
-----
故云玉峯城化野郡家正南一十里有紫
草少々大内野
郡家正南廿二里有紫
草少々菅火野郡家正西四里高
一百廾五丈周一十里峯有
神社戀山郡家正南卅三里
古老傳云和尒思阿伊村唑神玉日女命西上到尒時
玉日女命以石塞不得會所戀故云戀山凡諸山
野在草木白頭公藍漆藁本玄參百合王不留行薺
苨百部根瞿麥升麻枚葜黄精地楡附子狼牙離留
百斛貫衆續斷女委藤李楡椙樫松栢栗柘槻蘗
楮 禽獸則百鷹晨風鳩山鶏雉熊狼猪鹿
狐狸兎獼猴飛鼯
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或澤社 伊我多氣神 以上二所並有神祇官†
三澤社 伊我多氣神 以上二所並神祇官あり
- 或澤社…弎澤社の誤字であろう。[弎]は[三]の古字
・細川家本k56で「弎澤社」
・日御﨑本k56で「弎澤社」
・倉野本k57で「弎澤社」[弎]に[三]を傍記
・「出雲風土記抄」4帖k20本文で「三沢社」
・「萬葉緯本」k74で「三澤ノ社」
仁多郡奥出雲町三沢402の「三沢神社」
- 伊我多氣神…
・細川家本k56・日御﨑本k56は共に「伊我多氣神」
・倉野本k57で「伊我多氣神社」[神]に[社]を傍記
・出雲風土記抄4帖k20本文で「伊我多気社」
・萬葉緯本k74で「伊我多氣社」
・鶏頭院天忠本k44で「伊我多氣社」
・春満考k61で「伊我多氣神 今案神ハ社の誤奈るへし字延喜式にお奈し」
「社」ではなく「神」が本来であろう。それではおかしいと「社」の誤りというのが通説であるが、神としていたのは社が無かったためかと思われる。
・延喜式では「伊我多氣神社」
奥出雲町横田1278の「伊賀多氣神社」とされるが、「我」ではなく「賀」に変わっている。
又、奥出雲町大呂2058-2の「鬼神神社」では、延喜式記載の「伊我多氣神社」であると称している。
玉作社 須我乃非社 湯野社 比太社 漆仁社†
玉作社 須我乃非社 湯野社 比太社 漆仁社
- 玉作社…
・細川家本・日御﨑本・倉野本で「玉作社」
・萬葉緯本k74で「玉作ノ社」
・出雲風土記抄4帖k21解説で「玉作社ハ者在于三処ノ郷中湯野村今ノ亀嵩山ニ曰此記ニ于玉峯山ト是也此社又ハ曰玉上ノ神社ト牟」
元は「玉峰山」820(m)地理院地図にあった。玉峰山で採れる水晶から玉を作っていた玉作部の祈願社だったという。
地理院地図では「玉峰山」だが、地元では「玉峯山」と記されている事もある。雲陽誌では地元で「亀嵩」と呼んでいると記す。
「亀嵩」は「神嶽」の訛だとも考えられている。
三沢氏が「亀嵩城」を「鬱峰山」625(m)地理院地図に築城するに際し原谷に移転。明治に入り「湯野神社」内地理院地図に移転。
玉作社
(玉峯山・亀嵩)
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(湯野神社内 玉作神社)
![https://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/nita-g/okuizumo-t/kamedake/yunoJ/tamatukuriJ.jpg](https://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/nita-g/okuizumo-t/kamedake/yunoJ/tamatukuriJ.jpg)
- 須我乃非社…元は菅火野(今の城山。須我乃非山とも呼ぶ)にあったが、三沢氏が城を作るに際し、南麓の角木に移転地理院地図。その後分社。
今は仁多郡奥出雲町三所806「須我非神社」として社は残るが、仁多郡奥出雲町三成687「三成八幡宮」 地理院地図の境外摂社となっている。
- 菅火野・須我非・須我乃非・須我非乃には名称に少々混乱がある。元社地の「菅火野」から(スガノヒノ)が正しいのであろう。
・細川家本k56・日御﨑本k56・倉野本k57で「須我乃非社」
・出雲風土記抄4帖k20本文で「須我乃非社」
・萬葉緯本k74で「須我乃非ノ社」
・出雲風土記解-下-k19本文で「須我非乃社」解説で(須我乃非と書ハ誤)
・訂正出雲風土記-下-k26で、「須我非乃社」
- 「菅火野」には北麓から山頂に向かう道路があり、実際に登ってみると古木は少なく、今は電波塔だらけであるが頂上は公園になっていて展望は良い。
「菅」は菅笠や菅蓑などを作るのに用いられた植物であり、「火野」というのはこの山が山火事が多い山であったことを思わせる。「菅火野」というのはその様な事情による名付けだったのであろう。
- 漆仁社…湯村温泉の辺りをかつては漆仁里と呼び、この地に薬湯がありそこに社を造り漆仁社と呼んでいた。
今は雲南市木次町湯村1060「温泉神社」 地理院地図に合社されている。
・雲陽誌k96p178では「湯船大明神 大己貴命をまつる、~風土記に載る漆仁社是なり、出湯の川邊に鎮座」と記している。
- 漆仁の名称縁起は不明だが、「仁」の(いつくしむ)という意味から漆かぶれに効く薬湯であった事による名付けかと思われる。
大原社 御支斯里社 石壹 以上八所並不有神祇官†
大原社 御支斯里社 石壷 以上八所並神祇官あらず
- 大原社…上阿井大森の仁多郡奥出雲町上阿井2「大原神社」であろう。
・出雲風土記抄4帖k21解説で「大原ノ社ハ者三沢ノ郷尾原村岩坪大明神是也」
・雲陽誌ではk97p180で「尾原 岩坪大明神 風土記に載る大原の社なり。~」とある。
・考証出雲国風土記p317では「大原社 三澤村の尾原の岩坪大明神であつて、武御雷命、イハヒヌシの命、天兒屋根命を祀る」とある。
・修訂出雲国風土記参究p416参究で「大原社は風土記抄に「三沢郷尾原村の岩坪大明神是なり」とあって、今の仁多町阿伊にある大原神社である。~」と、無茶苦茶というか出鱈目を記している。
- 出雲風土記抄で尾原の「岩坪大明神」としているのは(大原→尾原)と解してのことだと思われるが尾原が大原であるという根拠は無い。雲陽誌や考証は出雲風土記抄を曳いたものであろう。
この地域で「大原」という地名を探すと、大馬木川上流に「大原」という地名が残る。地理院地図
「大原社」というのは、かつてこの地にあった社ではないかと思われる。上阿井の「大原神社」はここから勧請し今に残ったものではないかと考えられる。
- 御支斯里社…仰支斯里社であろう。
・細川家本k56・日御﨑本k56は共に「仰支斯里社」
・倉野本k57で「仰支斯里社」[仰]に[仰]を傍記。
・萬葉緯本k74で「仰支斯里ノ社」
・出雲風土記抄4帖k20本文で「仰支斯里社」k21解説で「仰支斯里社ハ者布勢ノ郷八代村加美伎里大明神也」
・雲陽誌k83p200で「神霧明神 風土記に載る仰支斯里社ならむ、神職傳て加美岐里明神といひて天之狭霧神をまつる、」と記す。
・出雲風土記解-下-k19で「仰支斯里社 仰支ハ髪斯ハ期裂誤.~」
・訂正出雲風土記-下-頭注で「仰支ノ二字ハ髪を誤也斯ハ期也」
今の仁多郡奥出雲町八代344「仰支斯里神社」。眞龍以後カミキリと読んでいるようだが疑問。
雲陽誌で(さきしり)と読んでいる理由は不明。「狭霧」(サギリ)と関連付ける為かとも思われるが無理がある。
[斯]の通常読みは(シ)であるが[其]に(キ)の読みがあり[斤]にも(キ)の読みがあるのでこれは(キ)と読める。
即ち「仰支斯里」は(オシキリ)と読むのであろう。
[斯里]は祭神である神名の[霧]であり、[仰支]は[仰](仰ぐ見上げる)であり[支](支える)であるから、霧が中空に漂う様子を下から仰ぎ見る事を示した社名と考えられる。
「仰支斯里神社」の神職が、これを「髪切」としているのは、須佐之男命の遺髪三筋を御神体として「髪切大明神・加美伎里大明神」として伝えてきたことによるというのであるが、祭神である「天之狭霧神」と関連が無く、別の縁起と思われる。
[仰支]が「髪」を[髟][友]の二字に誤記したものというが、どの古写本も[仰]の[亻]と[卩]には疑いようがなく[髟]とみることは出来ない。従って一字を二字とした誤記とは云えない。
- 石壹…「石壺」であろう。
・細川家本k56・日御﨑本k56で「石壷」
・倉野本k57で「石[大/冖/夫夫] 」「壷神社」と傍記
・萬葉緯本k74で「石壷ノ社」
・春満考k62で「石壺 一本石壺社とあるを是とす」
・出雲風土記抄4帖k21解説で「石壺社ハ者三沢ノ郷御埼大明神是也」
・雲陽誌k95p177で「御崎明神 風土記に載る石壹社なり、~~古宮 昔御崎の宮此所にあり、」と記す。
雲南市木次町平田1960(尾原)の「石壺神社」説と雲南市木次町平田435(石村)の「日御崎神社」説の二つがあるが共に疑問。
尾原の「石壺神社」については、出雲風土記抄や雲陽誌によれば「岩壷神社」であるはずだが、今は「石壺神社」としている。
先ず以て今の「石壺神社」は「岩壷」であって「石壺」ではないから風土記の「大原神社」ではないし、又風土記の「石壺」とも考えがたい。
尾原ダムが出来て上流部がどうであったのか既に解らなくなっているが、地理院地図の古い航空写真や手持ちの古い地図を見ても石壺と呼ぶにふさわしい場所は見当たらない。
石村の「日御﨑神社」については、雲陽誌に元は古宮とあるが不明。
どちらに可能性があるかといえば「日御﨑神社」の方であるのだが、社伝にその様な事がみられない。
- 「石壺」という表現から考えると、石村下流に今は「鈩原」地理院地図という小山があり、斐伊川を大きく蛇行させる場所となっており、山容はいかにも壷のようであり、ここの事ではないかと思われる。[鈩]はタタラと読まれているが[鑪]の略字で[盧]は飯入れのことであり[鑪]は飯入れの形をした金属製の容器の事である。火鉢などを云う。
実際登ってみると産鉄に関連するようなタタラ場とも思えない。巨岩はないが岩とそれが風化した粘土質の山である。
山頂には仏教系の小祠が残る。神仏習合の名残であろう。麓には民家跡があるが廃屋となっている。
ここには元「鑪原神社」があったことが知られ、明治40年(1907)に石村の「日御碕神社」に合祀されている。
[山]
鳥上山郡家東南卅五里 伯耆與出雲之堺有塩味葛†
鳥上山、郡家の東南三十五里。 (伯耆と出雲の堺。 塩味葛あり。)
室原山郡家東南卅六里 備後與出雲二国之堺 塩味葛有†
室原山、郡家の東南三十六里。(備後と出雲二国の堺。塩味葛あり。)
灰火山郡家東南三十里†
灰火山、郡家の東南三十里。
託山郡家正南卅七里 有塩味葛†
託山、郡家の正南三十七里。(塩味葛あり)
御坂山郡家西南五十三里即チ此山有神御門 故云御坂ト 備後与出雲之堺有塩味葛†
御坂山、郡家の西南五十三里。即ち此山に神の御門有り。 故に御坂と云う。(備後と出雲の堺。塩味葛あり。)
志努坂野郡家西南卅一里 有紫菜少々†
志努坂野、郡家の西南三十一里。(紫菜少々有り。)
玉峯山郡家東南一十里古老傳ニ云山嶺ニ在ス玉上ノ神故云玉峯ト†
玉峯山、郡家の東南一十里。古老の伝に云う、山嶺に玉上の神在す。故に玉峯と云う。
城化野ハ郡家正南一十里有紫草少々†
城化野は郡家の正南一十里。(紫草少々あり。)
大内野郡家正南廿二里有紫草少々†
大内野、郡家の正南二十二里。(紫草少々あり。)
菅火野郡家正西四里高サ一百廾五丈周一十里峯有神社†
菅火野、郡家の正西四里。高さ一百二十五丈、周り一十里。(峯に神社あり)
戀山郡家正南卅三里古老傳云和尒思阿伊村唑神玉日女命西上到尒時玉日女命以石塞不得會所戀故云戀山†
戀山、郡家の正南三十三里。古老の伝に云う。和尒阿伊村に坐す神、玉日女命を思う。西上に到る時、玉日女命石を以て塞ぎ、会う所を得ず。戀う故に戀山と云う。
凡諸山野在草木白頭公藍漆藁本玄參百合王不留行薺苨百部根瞿麥升麻枚葜黄精地楡附子狼牙離留百斛貫衆續斷女委藤李楡椙樫松栢栗柘槻蘗楮†
禽獸則百鷹晨風鳩山鶏雉熊狼猪鹿狐狸兎獼猴飛鼯†
(白井文庫k45)
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[川]
室原川源出郡家東南卅五里鳥上山北流所謂
斐伊河上有年
魚少々横田川源出郡家東南三十六里
室原山北流此則所謂斐伊大河上有年魚麻須
魴鱧等類
灰火山山川源出灰火山入斐伊河上有年
魚阿伊川源
出郡家正南卅七里遊託山北流入斐伊河上有年魚
摩須
阿位川源出郡家西南五十里御坂山入斐伊河上
有年魚
麻須北川大海源出郡家東南一十里玉峯山
北流意宇郡野城河上是也有年
魚湯野小川源
出玉峯山西流入斐伊河上
通道通飯石郡堺漆仁川邊廾八里即川邊有
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藥湯一浴則身躰穆平再濯則萬病消除男女老少
晝夜不息駱驛往來旡不得驗故俗人号云藥湯也
即有
正倉通大原郡堺事谷村一十六里二百卅六歩通
伯耆国日野郡堺阿志毘縁山卅五里一百五十歩
常有
剰通備後国惠宗郡今恵
蘇郡堺遊託山卅七里常有
剰
通同惠宗郡堺比市山九十三里常旡剰但當有
政時權置多
郡司主帳外大初位下品治部
大領外從八位下蝮部臣
少領外從八位下出雲臣
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『出雲国風土記』大原郡