『出雲国風土記』
『出雲国風土記』出雲郡

『出雲国風土記』神門郡(かんどのこおり)


(白井文庫k34)
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神門郡
合郷捌里廾二    餘戸壹驛貳神戸壹
 朝山郷     今依前用里貳
 置郷      今依前用里参
 鹽冶郷     本字正屋里参
 八野郷     今依前用里参
 高岸郷     今字高峯里参
 古志郷     今依前用里参
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神門郡

合郷捌里廾二    餘戸壹驛貳神戸壹

郷を合せて八(里二十二)。 余戸一、駅二、神戸一

  • 餘戸壹驛貳神戸壹…k35に「餘戸里、狭結里、多伎野、神戸里」と記されているが、ここの記述と照らしてk35の記述は「餘戸里、狭結驛、多伎驛、神戸里」の誤りと思われる。

 朝山郷     今依前用里貳

 置郷      今依前用里参

置郷 今も前に依りて用いる(里三)

  • 置郷…和名類聚抄では日置郷としている。

 鹽冶郷     本字正屋里参

  • 「正屋」は「止屋」に改める。

塩冶郷 本字止屋(里三)

  • 鹽冶(ヤムヤ)…塩冶。

 八野郷     今依前用里参

 高岸郷     今字高峯里参

 古志郷     今依前用里参


(白井文庫k35)
http://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-35.jpg
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[氵昔]狭郷此ノ下ノ段ニ滑狭郷ト在  今依前用里参
多伎郷          本字多吉里参
餘戸里
狭結里          本字最邑
多伎野          本字多吉
神戸里
所以号神門者神門臣伊加曽然也時神門負
之故云神門即神門臣等自一至今常居此處
故云神門朝山郷郡家東南五里五十六歩神魂
命御子眞王著玉之邑日女命唑之尒時所造
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天下大神大穴持命娶給而毎朝通唑故云朝

置郷郡家正東四里志紀嶋宮御宇天皇之
御世置伴部等所造來[宀/イ丙]停而為政之所故
云置郷
鹽冶郷郡家東北六里阿遅須枳高日子命御
子鹽冶毘古能命唑之故云正屋神亀三年
改字鹽冶

八野郷郡家正北三里二百一十歩須佐能表命御
子八野若日女命唑之尒時所造天下大神
大穴持命将娶給為而令造屋給故云八野高
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[氵昔]…大漢和、水の部(17657)によれば、読みは(サク・シャク、ソ)ゐせき。水をせく。又、其のもの。とある。

[宀/イ丙]…「宿」の元字[宀/イ(丙に下線)」の誤記若しくは略記であろう。

[氵昔]狭郷此ノ下ノ段ニ滑狭郷ト在  今依前用里参

[氵昔]狭郷(此の下の段に滑狭郷と在)  今依前用(里参)

  • [氵昔]狭郷(此の下の段に滑狭郷と在)…滑狭郷(ナメサゴウ)、下の段というのは次頁7行目のことを指す。
    ・細川家本k35で「[氵昔]狭郷」
    ・日御﨑本k45で「滑狭郷」
    • 「那賣佐神社」地理院地図の近くに「岩坪」地理院地図と言う甌穴のある自然の堰のような場所があり、そこが滑狭の地名由来。
      今は滑狭だが古くは[氵昔]狭と記していたのであろう。かつては放置されたような所だったが今はある程度整備されて観光地となっている。

多伎郷 本字多吉(里参)

多伎郷 本字多吉(里参)

餘戸里

狭結里 本字最邑

  • 狭結里…狭結驛の誤りであろう。
    ・細川家本k44「狭結驛」
    ・日御﨑本k45「狭結驛」
    ・出雲風土記抄3帖k36「挟結驛」

多伎野 本字多吉

  • 多伎野…多伎驛の誤りであろう。
    ・細川家本k44「多伎驛」
    ・日御﨑本k45「多伎驛」
    ・出雲風土記抄3帖k36「多伎驛」

神戸里

所以神門者神門(ヲシ)伊加曽然也時神門負之故云神門
神門臣等(ヲシラ)ルマデ此處故云神門

神門と号す所以は、神門臣伊加曽然也時に神門負之故に神門と云う。
即ち神門臣等はじめより今に至るまで常に此処に居る故に神門と云う。

  • 伊加曽然(イカソネ)…眞龍は出雲風土記解2帖k49で「伊賀曽熊(イガソクマ)」と改変し、訂正出雲風土記でもこれを引き継いでいる。
  • 神門負之故云神門…「神門これを負う。故に神門と云う。」
    ・細川家本k44「神門負之故云神門」
    ・日御﨑本k45「神門負之故云神門」
    ・倉野本k45「神門負之故云神門」
    ・出雲風土記抄3帖k36「神門貢之故云神門」
    ・萬葉緯本k59「神門貢之故云神門」
    ・春満考k51「神門負之 今按之ハ名の誤カ」
    ・出雲風土記解2帖k49本文「神門貢(諸屓鈔本貢)之故云神門」
    ・訂正出雲風土記-下-k17 「神門貢之。故云神門。」
    ・標注古風土記p261本文「神門貢之故云神門」後藤の註で(「神門と負ひき」を誤りしものなり。貢の字は、国造家本にあるのみにて、他の古寫本には、負とあり。)
    ・出雲國風土記考証p250本文「神門負之、即神戸臣等~」とし「故云神門」が無い。解説で(「神門負之」を國造本に「神門貢之」とあれども、貢之では意味がないないから、これは他の古寫本の如く「カムドトオヒキ」と讀み、神門臣という(カバネ)を負わせられたと見ればよい。)
    ・修訂出雲国風土記参究では、p515原文「神門貢。故云神門。」p351解説で長々と眞龍の説を引用し、「貢」とも「負」ともとれるように折衷した曖昧な解説を記している。(長文の割に内容がない為引用しない)
    • 古写本では上記の通り「神門負」であるが、通説では「神門貢」としている場合がある。
      萬葉緯本は出雲風土記抄を参考に修正したものと考えられる。「貢」には「負」を傍記している。
      「貢」としたのは岸崎出雲風土記抄からである。
      後藤出雲国風土記考証では「負」と読んでいるが、本文は変えている。
      日御﨑本では「屓」とも読める。「屓(キ)」(屭の略字)は[尸+貝]であるが、[尸]は人を意味し、[貝]は財を意味する。「財を抱え込んだ人」が字義で、転じて気力を奮い起こす意味を示す。
      「屓」であれば、ここでの文意は「この地に神門の臣等が古くから暮らしていたが、伊加曽然の時財を蓄え勢力を得て神門と呼ぶようになった」と云うような意味であろう。
      「貢」の場合神の門を建立したと云う意味とし、「神門負」の場合後藤説では神門の姓を受けたと云う意味とし、共に「神門屓」とは異なる意味となる。(保留)

朝山郷郡家東南五里五十六歩神魂御子眞王著玉之邑日女(アフタマノムラヒメノ)命唑マス(コゝ)尒時所造(ツクリマス)下大神大穴持命娶給而毎朝通マス故云朝山

朝山郷、郡家の東南五里五十六歩。神魂命の御子眞玉著玉之邑日女命ここに坐す時、所造天下大神大穴持命娶り給いて毎朝通います故に朝山と云う。

  • 眞玉著玉之邑日女命(マタマツクタマノムラヒメノミコト)…朝山神社の主祭神。
    白井本では「眞王著玉之邑日女命(マオウアフタマノムラヒメノミコト)」となっているが、上記に改める。
    地理院地図には「朝山八幡宮」と記しているが誤り。「朝山神社」である。
    出雲風土記抄3帖K37本文「真玉著玉之邑日女(マタマツケタマノムラヒメ)命」
    • 大穴持命が毎朝通ったというのであるから、大穴持命は昼夜はこの近くに暮らしていた事になるが、それがどこなのか少々気になる。

郷郡家正東四里志紀嶋御宇天皇之(アメガシタシロシメススメラミコトノ)御世置伴部等(ヲキトネラ)所造來[宀/イ丙]停而為政之所故云置

・[宀/イ丙]は[宿]に改める。

置の郷、郡家の正東四里。志紀嶋の宮御宇天皇の御世、置伴部等造りし所、來たり宿り停まりて、政を為す所故に置の郷という。

  • 志紀嶋宮御宇天皇…欽明天皇

鹽冶(ヱヤ)郷郡家東北六里阿遅須枳高日子(アチスキタカヒコノ)御子(ミコ)鹽冶毘古能(ヱヤヒコノ)命唑マス故云正屋初ニ正トアリ爰ニ止ニ作ル神亀三年
改ル字ヲ鹽冶ト

鹽冶(ヱヤ)の郷、郡家の東北六里。阿遅須枳高日子命の御子、鹽冶毘古(ヱヤヒコ)能命ここに唑す。故に正屋(初めに正とあり(ココ)に止に作る)という。(神亀三年、字を鹽冶と改む

  • 鹽冶…「鹽」は「塩」の旧字。今は「塩冶(エンヤ)」と呼んでいる。改字以前は「止屋(ヤムヤ)」であったのであろう。
  • 鹽冶毘古能命…「塩冶神社」地理院地図に祀られている。
  • 「止屋」と「鹽冶(塩冶)」について、元字「止」で「鹽」に改めたというのは奇妙に思える。
    「冶」は(溶かす・精錬する)という意味で、「塩冶」ならば塩を溶かす、製塩するという意味だと理解できるが、「止屋」では意味が解らない。神名が「鹽冶毘古能命」というのは製塩の神様と理解できるが、これが、「止屋」を「鹽冶」に改めたことにより「止屋毘古能命」を「鹽冶毘古能命」に改めたというのだという事はあり得そうにない。
    元々「鹽冶毘古能命」の由来で「鹽冶」(夜牟夜)という地名だったのがいつしか「止屋(ヤムヤ)」と記し呼ばれるようになっていたのを元の「鹽冶」に戻したのだとすれば多少得心できる。「正屋」というのは「止屋」の誤記であろう。
    「鹽冶」(エンヤ・ヱヤ)をなぜ(ヤムヤ)と読むのかについては尚疑問が残る。
    「止」は足型で、足を留める意味がある。「止屋」はこの意味で、足を留めた家屋という事でもあろうか。
    思うに、この附近に岩塩のとれる場所がかつてあって、それが神名や地名の由来になっているのではないかと想像する。
    塩冶郷の辺りは、布志名層の北端部に沖積層と神西層・斐川層が重層する他の地区と少々異なる特異な地区である。
    かつて海であった場所が神門川と斐伊川両方の東西からの堆積物により陸封され岩塩層となり、それが表出していたのではないかと考え得る。

・出雲国風土記考証p253解説で「「鹽」の字音は、古くはカムからヤムとなり、今はエンに變つたものであつて、天平時代には、ヤムであつたと見える。」とある。

  • 「鹽」は形声文字で音は「監(カン)」であるが、それがエンに迄変化したと云う後藤の説は一定の説得力はあるのだが、傍証がない。又なぜ「鹽冶」なのかの説明もない。

・修訂出雲国風土記参究p356参究で「塩冶毗古能命は他の古典に見えない神であるが、もと塩冶の地の守護神たる男神の意であるのを、神名が先として伝えたのである。神名もやはりもと止屋と書いたのであろう。」とある。

  • 加藤の想像だが、神名がもと止屋というには根拠が薄い。地名を変えることはあってもそれに合わせて神名まで変えるとは考えがたい。

八野郷郡家正北三里二百一十歩須佐能表(スサノヲノ)御子(ミコ)八野若日女(ヤノワカヒメノ)命唑マス尒時所造(ツクリマス)天下大神大穴持命将娶ハントシテ而令造屋給故云八野

八野の郷、郡家の正北三里二百一十歩。須佐能表命の御子八野若日女命ここに坐す時に天下所造大神大穴持命将に娶り給はんと為して屋を造りしめ給う。故に八野という。

  • 八野若日女命…出雲市矢野町「八野神社」に祭られている。
    八野神社には大穴持命は祭られておらず、大年神が祭られていることから、大穴持命は娶る事が出来なかったのか、或いは大年神の求婚話だったのか何れかとも考えられる。
    但し、大年神は須佐能袁命の子であるから八野若日女命とは兄妹(姉弟)となり、大年神を祭ったのは別の縁起によるものであろう。
    • 大年神が大穴持命であると考えるむきもあるが、それなら祭神を大穴持命としていたであろう。
      些細なことのようではあるが、白井本では「娶ろうとした」のであって「娶った」とは記していない。
    • この一文、八野の地名縁起であるが、大穴持命が「屋(ヤ)」を造りしめた事から「八野」と云うようになったと云うのであるから、これからすると元は「屋野」であり、八野若日女命は、「屋野の若日女」と云うことで固有名詞ではないことになる。
      但し「屋野」とする傍証はないから付会であろう。
      いずれにせよ今となっては実名不明であるから「八野若日女命」と呼ぶより外無いことではある。

(白井文庫k36)
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岸郷郡家東北二里所造天下大神御子阿遲
須枳高日子命甚晝夜哭唑其所高屋
造可唑之即建高崎可登降養奉故云高岸
神亀三年
改字高峯
古志郷即属郡家伊弉弥命之時以曰淵
川築造池之尒時古志国等到来而為堤即
[宀/イ丙]居之所故云古志也
上[氵昔]狭
滑狭郷郡家南西八里須佐能表命御子和加
須世理比穀命唑之時所造天下大神命娶
而通唑時彼社之前有磐石其上甚滑之
即詔滑磐石哉詔故云南佐神亀三年
改字滑狭

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多伎郷郡家南西廿里所造天下大神之御子阿
陀加夜努志多伎吉比売命唑之故云多吉神亀
三年

改字
多伎
餘戸里郡家南西卅六里説名如
意宇郡

狭結驛郡家同所古志国佐與布云人來居
之故云最邑神亀三年改字狭結邊其所
以來居者説如古志郷也

多伎驛郡家西南一十九里説名改字
女即也
甫曰女即トハ不審也
[寺]
新造院一所朝山郷中郡家正東二里六十歩
建立厳堂也神門臣等之所造也新造院一所
有古志郷中郡家東南一里刑部臣等之所造
木立
厳堂

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高岸郷郡家東北二里所造天下大神御子阿遲須枳高日子(アチスキタカヒコノ)命甚晝夜哭唑マス其所高屋造可キトマス建高崎可登降養奉故云高岸(神亀三年改高峯

・「建高崎」は「建高椅」に改める。

高岸郷、郡家の東北二里。所造天下大神の御子阿遲須枳高日子命甚しく昼夜()き坐しき。其の所に高屋を造りてここに坐すべきと。即ち高椅を建て登り降りして養い奉る。故にこれを高岸と云う。(神亀三年字を高峯と改む)

  • 建高崎…諸本「建高椅」(書影では「椅」は[木竒])とあるから「崎」は「椅」の誤りであろう。「椅」は梯子のこと。
  • 高岸郷…出雲風土記抄3帖k40の記述から、今のJR出雲市駅の西側周辺、北から順に渡橋町・塩冶有原町・天神町、及び塩冶町の西地区である高西を含む一帯が高岸郷であったのであろう。そしてその西は神門水海に臨んでいた。
  • 神亀三年改字高峯…細川家本、日御﨑本、倉野本は共に「高峯」。萬葉緯本、出雲風土記抄は「高岸」としている。
    「高岸」を「高岸」に変えると云うのも奇妙であるから、「改字高峯」が正しいのであろう。
    一度「高峯」に変えたものの、この地区で「峯」と云うのもふさわしからぬ故、又いつしか「高岸」に戻ったものと思われる。
  • 高西に現在「阿利神社」があり阿遲須枳高日子根命を祭っている。元社地は出雲市市民会館南向かいの有原中央公園の場所地理院地図に在ったと云うことから、此処に阿遲須枳高日子命を育てた「高屋」があったのであろう。

(白井文庫k37)
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[社]
義久我社  阿濱理社  比布知社  又比布知社
多吉社   夜牟夜社  天野社   波加佐社
奈賣佐社  知乃社   浅山社   久秦為社
佐志牟社  多支枳社  阿利社   阿如社
国持社   郡賣佐社  阿利社   大山社
保乃知社  多吉社   夜牟夜社  同夜牟夜社
比奈社 已上廿五所并
在神祇官

鹽冶社   久奈子社  同久奈子社 加夜社
小田社   波加佐社  同波加佐社 多伎社
多支々社  波須波社  以上十四社並
不在神祇官
 甫曰本書以上十二社有
然氏十四社有依十四社記之
二社不見

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[山]
田俣山郡家正南一十九里有栬
長柄山郡家東南
一十九里有栬
吉栗山郡家西南二十八里有栬枌邊
所謂所造

天下大神之
宮狭造山也
家東南五里五十六歩大神之
御屋

稲積山郡家東南五里七十六歩大神之
稲積

陰山郡家東南五里八十六歩大神之
御陰

稲山郡家正東五里一百一十六歩東在樹林三方並礒
也大神之稲

桙山郡家東南五里一百五十六歩南西並在樹
東北並礒也

大神之
御桙

冠山郡家東南五里二百五十六歩大神之
御冠

諸山野所在草木自般桔梗藍漆龍謄商陸續
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(白井文庫k38)
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斷獨活自芷秦淑百部根百合巻栢石斛升麻當皈
石葺麥門冬杜仲細辛茯苓葛根薇蕨藤李蜀淑
檜杉榧赤桐白桐椿槻柘楡蘗楮禽獣則有鵰
鷹晨風鳩山鶏鶉[ム/月|鳥]猪狼鹿兎狐猕猴飛鼯也
[川]
神門川源出飯石郡琴引山北流即經來嶋波多。須
佐三所出神門郡餘戸里間土村即神戸朝山
古志等郡西流入水海也則有羊魚鮏麻須、
伊具比多岐小川源出郡家西南卅三里多岐山
流入大海有甲魚
[池]
宇加池三里六十歩來食池周一百卅歩

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笠柄池周一里六十歩

刾屋池周一里
[水海]
水海神門水海郡家正西四里五十歩周三十五里
七十四歩裡則有鯔魚鎭仁須受枳鮒玄砺也即
水海賭與大海之間在山長廿二里二百三十四歩廣三
里此者意美定努命之国引唑時之綱矣今俗人
号云薗松山地之形骵壤石並無也白沙耳積上
即松林茂繁四風吹時沙飛流掩埋松林令年
埋石見與出雲二国堺中嶋﨑之間或手須或
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(白井文庫k39)
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淩礒凢小海所在雜物如楯縫郡説但旡紫菜
通道出雲郡堺出雲川邊七里卅五歩通飯石郡
堺堀坂山一十九里通同郡堺與曽紀村二十五里
一百七十四歩通石見国安農郡堺多伎々山三十
三里路賞
有別
通同安農郡川相郷卅六里住常引
不有但當有故時權置耳
前件伍郡並大海之南也
      郡司主張旡位刑部臣
      大領外従七位上勲業神門臣
      擬小領外大初位下勲業刑部臣
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      主政外従八位下勲業吉備部臣


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「出雲国風土記考証」天平時代神門郡之図

http://fuushi.k-pj.info/jpg/map/izumofudoki_tp_kando.jpg


『出雲国風土記』飯石郡


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Last-modified: 2018-06-07 (木) 22:06:55 (14d)