『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記

『出雲国風土記』意宇郡(おうのこおり)

(白井文庫pk4)
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意宇郡
 合郷壹拾壹里卅餘戸壹驛家参神戸參
 母理郷  本字文理
 屋代郷  今依前用
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意宇郡

意宇(オウ)(コオリ)

合郷 壹拾壹里卅 餘戸壹 驛家参 神戸參

合わせて郷一十一里三十、余戸一、駅家三、神戸三

  • 合郷壹拾壹とあるが総記では郷壹拾となっている。以下で11郷記されているので、総記が誤っているのであろう。
    郷は霊亀元年(715年)に里を改称したもので、郷里制となり、2里又は3里で1郷とされた。
    校注出雲国風土記では総記共に「郷壹十壹里卅三」としている。原文そのままなのか修正したものなのかは不明

    ・修訂出雲国風土記参究p57〔参究〕で「意宇郡各郷の里の合計は三十三であるべきであるのに、初めの統計に諸本皆「里三十」とあるのは誤写であると思われるので改めた」とあるので、上記「郷壹十壹里卅三」は、修正したものの様である。

母理(モリ)郷 本字文理(モリ)

母理郷(モリノゴウ) (モト)の字は文理

  • 「郷」…校注出雲国風土記では(さと)と読んでいるが「里」も(さと)と読んでいる。混乱を避けるために、以下「郷」は(ごう)と読む。
    • 文字表記の場合は見れば解るが、口述や対話などの場合同じ(さと)では区別できない。かつて「郷」と「里」を現実に同じく(さと)と呼んでいたとは考え難い。
      ・修訂出雲国風土記参究では郷は(さと)のままで、里を(こざと)と読むように変えている。
      p53〔参究〕で「即ち(大宝)令では五十戸を(さと)としたのを霊亀元年の施行令によって(さと)とし、その長を郷長とといったので、従来の里は小里(こざと)を表わすこととなり、その長を里正と云った。」と記している。
      これは「出雲国風土記 総記」の最後部分、意宇郡の直前にある「右件郷字者~」部分の解説であるが、霊亀元年の施行令というのは「続日本紀(元正天皇霊亀元年)」に記述はなく、この部分との関連で欠文ではないかと見られており、「里」を「郷」に変えたことにより旧来の「里」を「小里(こざと)」と呼ぶようになった等という記述も当然ながら無い。
      ついでに「里正」は(りせい)と読み「里長」と同意。
      ・標注古風土記p9解説で「この霊亀元年式と神亀三年の口宣は紀に洩れたり」とある。ここに云う「紀」は「続日本紀」のこと。

屋代郷 今依前用

屋代郷(ヤシロノゴウ) 今も(サキ)に依りて用いる。

  • 校注出雲国風土記p4では、「屋代郷 本字社」
  • 今依前用…総記で「被神龜三年民部省口宣改之」とあり、ここに云う「今」は神亀三年(726年)以後を指す。「屋代」と云う呼び方を神亀三年以前から用いているという事を表している。
    出雲国風土記の完成提出は天平5年(734年)なのでそれ以前。

(白井文庫k05)
http://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-05.jpg
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楯縫郷  今依前用
安來郷  今依前用
山國郷  今依前用
飯梨郷  本字云成
舍人郷  今依前用
大草郷  今依前用
山代郷  今依前用
拜志郷  今字林
完道郷  今依前用 以上壹拾一郷別里參
餘戸里
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野城驛家
里田驛家
完道驛家
出雲神戸
賀茂神戸
忌部神戸
所以号意宇者国引唑セリ
 
八束水臣津野命詔八雲立カ
 

出雲国者狹布之(ウツ)国在哉初国小所作故將作
縫詔而栲衾志羅紀乃三埼矣国之餘有耶見
者国之餘有詔而童女离鉏所取而大魚之支太
──────────

楯縫郷  今依前用

安來郷  今依前用

山國郷  今依前用

飯梨郷  本字云成

舍人郷  今依前用

大草郷  今依前用

山代郷  今依前用

拜志郷  今字林

完道郷  今依前用 以上壹拾一郷別 里參

餘戸里

野城驛家

里田驛家

  • 里田驛家…黒田驛家の誤記。

完道驛家

出雲神戸

賀茂神戸

忌部神戸

所以号意宇者 国引唑セリ
 
八束水臣津野命詔 八雲立出雲国者 狹布之(ウツ)国在哉

意宇(オウ)(ナズ)くる所以(ユエ)は、国引き()せり八束水臣津野命()りたまいしく、八雲立つ出雲の国は狭布(サヌノ)堆国(ウツクニ)なるかな。

  • 原文の「八雲立カ
     
    」は「八雲立」と修正。
  • 「堆国」は一般に「稚国」とされているが、上田秋成書入本(コマ6)でも「堆國」で(ウツクニ)とルビがある。(赤書きで注記あり)
    • 「狭布之堆国」は「小さな布が積まれたような国」という意味だと考えられる。
      続く文で「作縫」とあり、「その布を縫い合わせて拡げよう」とつながる。小さな山(島)の裾野を拡げ、そうして拡げた幾つかの地域を繋ぐというような意味で、薗の長浜や弓ヶ浜が拡がり更に斐伊川下流域の干拓が進んで出雲という大きな国になっていったことを物語っているのであろう。
  • 「稚国」としたのは眞龍の説に始まるらしい。
    『出雲国風土記解』(内山眞龍/天明7年=1787)
    「國のいまだ成りかたまらずして稚く又狭きを狭布に譬へて云へるなり」
    宣長はこの説に疑問を呈していたようである。
    『出雲国風土記意宇郡古文解』(本居宣長/寛政8年=1796)
    「狭布よりのつづきはいかがなれべもすべてにかけて稚國とは云つどきことなり」
    意訳(狭布からの続きはよくわからぬが後の時代にまでずっと稚国と言い続けることはできないことである)

初国小所作 故將作縫 詔而 栲衾志羅紀乃三埼矣 国之餘有耶見者 国之餘有 詔而

初国は小さく作れり。(カレ)作り縫わな。と詔りたまいて、栲衾(タクブスマ)志羅紀(シラキ)の三埼を 国の余り有るやと見れば、国の余り有り。と詔りたまいて、

  • 栲衾…(コウゾ)などから作った夜具。白色であることから白に掛かる枕詞として使われる。
    • 「最初は国が小さかったので、布を次ぎ足すように縫い拡げよう。」という物語。

童女离鉏所取而 大魚之支太衝別而

童女の(ムネ)(スキ)取らして、大魚(オフヲ)支太(キダ)衝き別けて

  • 离…「離」の簡字であるが、上田秋成本等では「胷」としており「胸」の異体字であるので、「胸」に改める。
  • 童女…(オトメ)と読まれることが多いようだが、(オトメ)は「乙女」であり、「童女」は(ドウジョ・ワラワメ・ワラメ・ワラベ)等と読む。語感から(ワラメ)と読むのが妥当であろう。
  • 童女胸鉏所取而…通説では「童女の胸のように広い鉏を手にとって」と解釈し、童女胸は鉏に掛かる枕詞としている。
    鉏(サイ)は元々は小刀のことでスキとも読む。農耕に用いる鋤(スキ)とは本来異なる。
    鉏も鋤も共に突き刺して使う道具で、スクという動作を表すことから転じてスキと読み、混用された。
    ・出雲風土記解k14で「童女胷鉏ハ乎止米乃牟奈須支と訓。宣長云鉏の直く廣きをいふ。万葉集有胸別之廣吾妹(ムナワケノヒロキワギモ)と云て胷の廣きを称れば處女の胷の廣き如くひろく平に直き鉏と云う事ならむ。又按ウナトムナと通へば畝鉏(ウナスキ)か式大殿祭の詞にハ齋鉏とあり」とある。
    これに依れば、通説は宣長の解釈に始まるのであろう。
    ・万葉集にある「胸別之廣吾妹」というのは巻九雑歌の高橋虫麻呂歌集(集歌1738)
    「詠上総末珠名娘子一首(并短歌)
    水長鳥安房尓継有梓弓末乃珠名者胸別之廣吾妹腰細之須軽娘子之其姿之端正尓如花咲而立者玉桙乃道徃人者己行道者不去而不召尓門至奴指並隣之君者預己妻離而不乞尓鎰左倍奉人皆乃如是迷有者容艶縁而曽妹者多波礼弖有家留」を指すが、この歌で「童女」も「鉏」も記されておらず共に関連は無く、「童女胸」が「鉏」に掛かる枕詞等という根拠はない。
    更に記せば、引用部分は「胸別之廣」であり「胸之廣」ではない。「別」は乳房の別れを指し、それが「廣」というのは、豊満な乳房を表しているのであって、「童女(幼女)」に対する表現ではない。当然に「幅広の鉏」などという解釈は成り立たない。
  • 支太=波太…鰓(えら)
    • 通説では「幅広の小刀を大魚の鰓に刺して切り分ける」というような意味。
  • 上記が従来の読み方からの解釈であるが、「童女胸鉏所取而」には疑問がある。というのは石見に残る胸鉏姫伝説がある為である。
  • この部分、「童女の胸鉏くところを取りて」の解釈が妥当なのではないかと思われる。
    即ち童女の胸が次第に大きくなり、その胸のいわゆる胸の谷間が目立ってくる事を表現しているのではないかと思われる。
    鉏は、土をすくい、左右に振り分け畝を作る道具であり、要するに盛り土を作る道具で、その盛り土の様子を童女の胸の成長の様子に見立てた表現なのではないかと思える。
    又、「大魚の支太衝き別て」と云うのは、同じく鉏を突き刺し土を耕す様子を表しているのではないかと思われる。
    この部分の表現は、同じ鉏に関する記述で、その為に繋がった文にしているのだと思われる。(小考中)

(白井文庫k06)
http://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-06.jpg
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衝別而波多須支穂振別而三身之総打桂與霜
黑葛聞
 

 
尒 河船之毛
 

 

 
尒 国
 

 
引來
縫国者 自去豆乃折絶而 八穂朱支豆支乃郷埼
以此而堅立加志者石見国與出雲国之堺有名
佐比賣山是也亦持引綱者薗之長濱是也亦北
門佐伎之国之餘有耶見者国之餘有詔而意下ニ童トアリ
意女离鉏取与火魚之支大衝別而波多須
 
支穗
振別而三身之綱打桂而霜黑葛聞
 
耶尒河船之

 

 

 
尒国
 

 
引來綱国者自多久乃折
絶与狹田之国是也亦北門良波之国矣 国之餘有
-----
耶見者国之餘有詔而 童意女离鉏取取而大魚之支
大衝別而波多須
 
支穗振別而三身之綱打挂而霜黑
葛聞
 

 
尒河船之毛
 

 

 
尒 国
 

 
自是下八十三字衍字「來綱国者自
多久乃折絶與狭田国是也亦北門良波之国矣国之
餘有邪見者国之餘有詔而童意女离鉏取取而大魚
之支大衝別而波多須
 
支穗振別而三身之綱打挂而
霜黑葛聞
 

 
尒河船之毛
 

 

 
尒 国
 

 
引」是迄時
引縫国者自乎波縫折絶而闇見是也亦高志
之都乃三埼矣国之餘有邪那トアリ見者国之餘有詔而童
意女离鉏所取而大魚之支大衝別而 波多須
 
支穗
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  • この頁には衍字(エンジ)(誤入)があるが、先ずはそのまま掲載。又誤記も多い。以下は修正して記す。

波多須〃支穂振別而 三身之綱打挂而

(原文:波多須支穂振別而 三身之総打桂與)
波多須須支(ハタススキ)穂振り別けて、三身(ミツヨリ)の綱打ち()けて、

  • この一文、以後の同等文と比較して誤記あり修正。
  • 波多須須支=はためくススキ。穂に掛かる枕詞
  • 三身の綱=三結いの綱

霜黑葛聞〃耶〃尒 河船之毛〃曽〃呂〃尒 国〃來〃引來縫国者

霜黒葛(シモツヅラ)闇耶(クルヤ)闇耶に、河船の毛曽呂(モソロ)毛曽呂に 国來(クニコ)国來と引き來縫へる国は

  • 「聞耶」は「闇耶」に修正
  • 霜黒葛…黒葛はカズラの蔓。霜に遭うと丈夫になり、綱の代わりになる。
    • 書紀崇神記、出雲梟帥を詠んだ歌に「黒葛」の記載がある。
  • 闇耶…「繰るや」で、黒葛を絡めて引っ張る動作。
  • 河船の毛曽呂…河船がゆっくり上っていく様子。

自去豆乃折絶而 八穂朱支豆支乃郷埼

去豆(コヅ)折絶(タエ)よりして、八穂米支豆支(ヤホシネキヅキ)御埼(ミサキ)なり。

  • 「八穂朱」は「八穂米」に修正(上田秋成書入本参考:コマ6)。支豆支に掛かる枕詞。
  • 「郷埼」は「御埼」に修正(上田秋成書入本参考:コマ6)
  • 去豆…小津。現在の平田市小津。かつては入り江が現在より深く、小津浦と呼ばれていた。
  • 折絶…土地の切れ目・境界。小津から平田に至る部分の低地を指している。
  • 八穂米支豆支乃御埼…杵築の岬で、稲佐の浜から日御碕を含む一帯。

以此而堅立加志者石見国與出雲国之堺有 名佐比賣山是也

此をもちて堅め立てし加志は、石見国と出雲国の堺に有る 名は佐比賣山 是也。

  • 以此而…校注出雲国風土記・i文庫では共に「かくて」としている。
  • 加志…樫か?校注出雲国風土記では「舟をつなぐため舟に備え、停泊地で打つ杭」としている。i文庫では注にただ「杭」とある。
  • 佐比賣山…云うまでもなく三瓶山の事
    • 三瓶山という呼び方は、物部神社祭神宇摩志麻遅命がこの地方を平定した際、3つの瓶を埋めた事によるという。
      (サヒメ)が(サンベ)に転じたのではない。

亦持引綱者 薗之長濱是也

亦、持ち引ける綱は (ソノ)の長濱、是也。

  • 薗之長濱…大社町の稲佐の浜から出雲市の長浜に渡る8kmほどの海岸砂丘地帯。
    • 神西湖は現在より遙かに広く神門の水海(カンドノミズウミ)と呼ばれる入り江であった。
      古代には神西湖と宍道湖は一体で、斐伊川と神門川からの堆積物により西と東に別れた。宍道湖の水域は出雲大社の近くまで拡がっていた。
      日本海に流れ出した土砂が海流によって押し戻され薗の長浜という砂州を形造っていた。この砂州が神門の水海を閉ざし神西湖という汽水湖を生んだ。
      又、現在斐伊川は宍道湖に注いでいるが、これは江戸時代に行われた川違えという人工的工事によるもので、それ以前は神西湖を通じて日本海に注いでいた。-出雲地方地形変遷

亦、北門佐伎之国之餘有耶見者、国之餘有。

亦、北門の佐伎の国の余り有りやと見らば、国の余り有。

  • 北門佐伎之国…島根半島に北門という地名は見当たらない。門は出入り口で、北門とは北の出入り口(同時に外敵を防ぐ壁)のことであろう。
    「佐伎」という地名も見当たらないが「佐香」「坂」という地名が残っているのでこの辺りを指しているのかも知れない。
    (一説に出雲市の「鷺浦」とするものがあるが、位置関係からして疑問)

詔而、意下ニ童トアリ意女离鉏取与火魚之支大衝別而、波多須〃支穗振別而、三身之綱打桂而、霜黑葛聞〃耶尒 河船之毛〃曽〃呂〃尒 国〃來〃引來綱国者

自多久乃折絶与 狹田之国是也

多久の折絶(タエ)よりともに、狹田の国是也。

  • 多久の折絶…多久は平田市大船山南麓。
  • 狭田の国…佐太神社の辺り。

亦、北門良波之国矣 国之餘有耶見者 国之餘有。

亦、北門の良波(ヨナミ)の国に国の余り有りやと見らば、国の余り有。

詔而 童意女离鉏取取而 大魚之支大衝別而 波多須〃支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黑葛聞〃耶〃尒。 河船之毛〃曽〃豆〃尒 国〃來〃引自是下八十三字衍字「~略~」是迄時 引縫国者

自乎波縫折絶而闇見是也

宇波より縫い折絶て、闇見国是也

  • 自乎波縫折絶而…上田秋成書入本では:コマ7「自宇波縫折絶而」/神西氏蔵書写しでは、p10~11「自手結乃打絶而」/校注出雲国風土記ではp106「自宇波折絶而」
    • 上記より「自宇波縫折絶而」と判断。
  • 北門良波之国…良き波の国というのであるから良き港のある国のことを指しているのだろうと思われる。
    島根町に「野波」「小波」という入江があり、「奴奈美神社」(松江市島根町小波)地理院地図というのも残っているので、「良波之国」はこの辺りを中心とした地域だったのかも知れない。
    (良波を宇波とし、手染・手結の誤りで、手角や手結浦とする説があるが疑問)
  • 闇見之国…松江市北方、新庄町の「久良弥神社」(松江市新庄町944)地理院地図の辺り。
  • 「縫う」というのは「打つ」のではない。即ち武力統合ではない。繋ぎ拡げるのである。出雲の国造りがその様なものであったことを示す表現である。

亦高志之都乃三埼矣国之餘有邪那トアリ見者国之餘有

亦、高志の都の三埼に国の余り有りやと見らば、国の余り有。

  • 高志之都…「高志の津」であろう。高志は越で、「越の国」は現在の福井県・石川県・富山県・新潟県に及ぶ地域
    • 校注出雲国風土記では「高志之都都之三埼矣」としており、能登半島の珠洲埼辺りかと推察しているが疑問。
    • 国引き神話は壮大で面白い話だが、高志の津という時、それは越の国の人々が交易の為に暮らしていた港というような意味で、美保関辺りを指していると思われる。それを出雲の国に組み入れたというような説話というのが実際のところであろう。
      最初の「志羅紀乃三埼」も同様に新羅の国の人々が交易の為に暮らしていた岬(日御碕辺り)を出雲の国に組み入れたという事であろう。

詔而 童意女离鉏所取而 大魚之支大衝別而 波多須〃支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黒葛聞〃邪〃尒 河船之毛〃呂〃尒国〃來〃引來縫国有

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(白井文庫k07)
http://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-07.jpg
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振別而三身之綱打挂而霜黒葛聞〃邪〃尒河船之
毛〃呂〃尒国〃來〃引來縫国有三穂之椅接引
綱夜見島固堅立加志者有伯耆国火神岳是也
今者国者引記詔而意乎社尒御枝衝立而意
惠登詔故云
 意宇 所謂意宇者社郡家東北邊田中社
塾是也周八歩許其上有一以茂

母里郷郡家東南卅九里一百九十歩所造天下
大神大穴持命起八口平賜而還唑時唑長江山而
詔我造唑而命国者皇御孫命平也所知依奉
但八雲立出雲国者我静坐国青垣山廻賜而玉
----
弥直賜而守詔故云文理神亀三年
改字母里

屋代郷郡家正東卅九里一百廿歩天乃夫比命御伴
天降來社伊支等之遠神天津子命詔吾浄將坐志
社詔故云社神亀三年
改字屋代

楯縫郷郡家東北卅二里一百八十歩布都怒志命之
天名楯縫直給之故云楯縫
安来郷郡家東北廿七里一百八十歩神須佐乃烏
命天壁立廻唑之尒時来坐此處而詔吾御心者
安平成詔故云安来也即此海有邑賣埼飛鳥浄
御原宮御宇天皇御世甲戌年七月十三日詔
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三穂之埼 接引綱夜見島 固堅立加志者有伯耆国火神岳是也

(三穂之椅 接引綱夜見島 固堅立加志者有伯耆国火神岳是也)

三穂之埼。(ツナ)ぎ引ける綱は夜見島。固堅(カタメ)立てし加志は伯耆国に有る火神岳是なり。

  • 「三穂之椅」は「三穂之埼」に改める。
  • 接引綱…校注出雲風土記では「持引綱」
  • 火神岳…言うまでもなく伯耆大山。「大神岳」としている写本もあるが誤写であろう。
    • 火神というのは軻遇突智(カグツチ)
      後に大己貴神が山頂で神事を行ったことから大神山と呼ばれるようになり(この大神は大己貴神)、略されて大山となった。
      大山が最後に噴火したのは約1万年前とされるから、火神岳という呼び方は相当古い記憶によるものだといえる。
    • ちなみに、大山にある大神山神社の主祭神は大穴牟遅神(本社)・大己貴神(奥宮)で、軻遇突智は祀っていない。

今者国者引記詔而意乎社尒御枝衝立而意惠登詔

今は国は引記(ヒキトリヌ)(ノリ)て、意乎社(オウノヤシロ)御枝(ミツエ)衝き立てて意惠(オエ)(ノリタマ)

  • 今者国者引記…この部分、従来の解釈・解説に疑問があった。
    「今者国引訖」と、「者」を省き「記」は「訖」の誤りとする解釈が行われていた。(今は国引き()え)
    「記」は白川静氏の「字統」によれば、『己は糸を収束する器で、糸かずをそろえて巻きとることを紀という。~中略~それを筆墨のことに及ぼしていうものが記~』とある。
    これにより、「記」が誤記ではなく、国を綱で引き寄せた事を「記」で表したと解釈できる事から上記の読みとする。
    この方が、布を縫うように国造りを行ったという全体の流れに沿っている。
  • 意乎社…出雲郷(アダカエ)の阿太加夜神社の辺りで、面足山とも呼ばれる。面足は顔がほころぶ事であり笑顔になることを云う。国引きを終えて安堵した事からの命名であろう。
    出雲郷を今にアダカエもしくはアダカヤと読むのは阿太加夜神社に依るのであろうが、不思議な読み方ではある。
    古くは出雲江、足高とも呼ばれていたらしい。足高は一足分ほど高いという意味であり、これからアシダカ→アダカと転じていったのであろうと思われる。それが出雲の読みに重なったものと考えられる。

故云 意宇 所謂意宇者社郡家東北邊田中社塾是也周八歩許其上有一以茂

故に云う 意宇。所謂(イワユル)意宇は(ヤシロ)郡家(グウケ)の東北の(ホトリ)田中社塾(タナカノヤシロノジュク)是なり。(メグリ)八歩(バカリ)、其上に一以(イチイ)有りて茂れり。

  • 「田中社」…阿太加夜神社のある場所。延喜式、出雲國意宇郡に田中(タナカノ)神社とある。地理院地図
  • 「塾」は説文で「門(ソバ)の堂」。堂がかつてあったかどうかは既に不明だが、田中社塾は、田中神社の側にあった堂。
  • 「周八歩許」…おおよそ一坪程度であるから、小さな社(ヤシロ)があったのであろう。
  • 「意宇社」はモリ「杜」とヤシロ「社」が混乱しているようである。最初は小山で、そこの杖を立てた場所をヤシロとし、祠などが設けられたのかも知れないが、その祠が失われてからは、そこから生えた若しくは植えた櫟を目印として樹木の茂るままにその辺りをモリと呼ぶようになったのであろうと思われる。
    書影で「社」は全て示偏であり、木偏はない。「(シャ)」は「土を示す」が字義で「土地の主」「土地の神」を表す。そこに社樹を植え祭礼の場所としたのが「(ヤシロ)」の始まりである。建築物の有無は関係ない。
    「杜」の字を用いるのはその後のことで、その様にして植えた社樹が生い茂った場所を「(モリ)」と呼んだ。
    此処での意宇社の話は、このような古代の祭祀の過程を素直に物語っていると云える。
  • 校注出雲国風土記では「所謂意宇社者郡家東北邊田中在塾是也周八歩許其上有木以茂」
    「田中社塾」を「田中在塾」とし、「田の中にあるこやま」と解している。
    「其上有一以茂」を「其上有木以茂」とし、「その上に木ありて茂れり」としている。
  • 「木以茂」は疑問。小山に木が茂るという事はわざわざ記すほどのことではない。
  • 「一以」は一位・(イチイ)、常緑で木目が細かく笏の用材として貴重とされる木。
    以はyiで位はweiで、読みが違う事から櫟ではないと以を木に変えた説があるが、それなら木はmuであり、為にする論と云わざるを得ない。
  • 郡家…意宇郡家。出雲国庁と同所とされる。現在の松江市大草の六所神社あたりと考えられ、ここに「こくてう」という地名があったことから、1971年より発掘調査され史跡指定されている。
    阿太加夜神社は六所神社の東北方向にあり、位置的にもあっている。より正しくは東北東方向だが、「辺」の一字がこれを補っている。
    • 意宇社を他所に比定する見解もあるようだが、文字を変え、読み方を違えれば、どこにでも比定できる。
      又折を見て別記するつもりではあるが、今の阿太加夜神社は国引き物語の時代から遙か後に勧請・創建された神社である。
  • 島根半島は4つの山塊に分けられる。
    国引き神話はそれぞれ
    ・志羅紀乃三埼から(高尾山・鼻高山・旅伏山周辺)
    ・北門佐伎之国から(大船山・十膳山・朝日山周辺)、
    ・北門良波之国から(大平山・三坂山・枕木山周辺・嵩山周辺)、
    ・高志之都乃三埼から(宮ノ尾山・高尾山・馬着山周辺)
    を指しているのであろう。

母里郷郡家東南卅九里一百九十歩

母里郷(モリノゴウ)、郡家の東南卅九里一百九十歩

  • 里程は郷長の家までの距離。

所造天下大神大穴持命起八口平賜而還唑時唑長江山而詔

所造天下(アメノシタツクラシシ)大神大穴持命 (コシ)の八口を(コトム)け賜いて、還唑(カエリマシ)し時、長江山に(イマ)して(ノリ)たまう。

  • 「起」は「越」とするのが通説であるからまずはこの説で記す。
  • 越の八口…富山県高岡市八口、新潟県岩船郡関川村八ッ口、等が考えられているが不明。
  • 平賜而…平(ことむけ)は「言葉で説得する」の意味であり武力制圧ではない。
  • 長江山…安来市伯太町(能義郡伯太町)鷹入山付近に永江峠がありこの峠の東方の山。地理院地図稜線部に稚児岩という岩がありそこが大穴持命の縁起地だという。ちなみに長江山周辺は水晶の産地である。
    • 越の八口から戻ってきた時、この地で詔るというのは、どうにも良く解らない。「越八口」が北陸の一地区名ではなく、山を越した八方の地域を示しているという気がしてならない。北陸から戻るなら海路にせよ陸路にせよ、この辺りを通るとは思えない。
      又、大国主命が越の国で活躍するときの名は殆どの場合八千矛神であり、大穴持命ではない。
    • 「越」ではなく「起」のままであれば、「()ちて八口を(コトム)け賜いて」ですっきりする。

我造唑而命国者皇御孫命平也所知依奉
但八雲立出雲国者我静坐国青垣山廻賜而玉弥直賜而守詔

我造りまして(シロ)す国は、皇御孫命(スメミマノミコト)平也所(タイラカナリシトコロ)と知り(ヨサシ)(タテマツ)る。
但し、八雲立出雲国は我静まり坐す国にて青垣山(メグ)らし賜いて、玉珠(ギョクシュ)を置き賜いて(モリ)す。と()る。

  • 「玉弥」の「弥」は上田秋成書入本では王偏である。是より、「珠」と解す。
  • 「直」は「置」に改める。
  • 国譲りを予見させる部分である。越の八口をことむけて出雲に戻ったばかりの大穴持命が果たしてこのような事を語ったのかどうかは大いに疑問。
    というのも、この文ではまるで国譲りを前提にして詔しているからである。
    母理郷は出雲国の最東端にあたる。国境の峠脇の長江山で、ここからは出雲国として守り抜くと宣言したのであるとするならまだ理解できる。
    出雲国風土記の編纂責任者は出雲臣広嶋。天穂日命の27世の裔である。その立場から記している事は念頭に入れておく必要がある。
    つまり、大己貴神没後、出雲国風土記の成立までに執拗な大和からの侵略攻撃があり、その支配下に屈した後の書であるという点である。

重要な部分なので次に解りやすいように意訳しておく。
「私が国造りし治めてきた国は、皇御孫命に穏やかなるところとしてさしあげます。
但し八雲立出雲国は私が静かに暮らす国であり、青垣山をめぐらし玉珠を置いて守ります。」

  • 「我造唑而命国者皇御孫命平也所知依奉」の部分に広嶋等による創作挿入があると考え、八口は八国とする古写本がある事を考え合わせると、元の文は次のようなものであったと考えることが可能だろう。
    所造天下(アメノシタツクラシシ)大神大穴持命()ちて八国(ヤツクニ)平賜(タイラゲタマイ)(カエ)りましし時、長江山にて詔たまう。
    我が造り(シロ)す国は(タイラカ)なりし所と知れり。八雲立出雲国は我静まり坐す国、青垣山廻り玉珠を(ジカ)に賜いて(モリ)す。と詔る」
    (所造天下大神大穴持命が、出雲をたちて、八国を鎮められたのち戻られた時、長江山にてこういわれた。「私が治める国は平穏に治まった。八雲立出雲国は私が静かに暮らす国であり、青垣山に囲まれ玉珠が産出する良き国であるのでこの先も直接治める。」と。)
  • 校注出雲国風土記では
    「所造天下大神大穴持命越八口平賜而還坐時來坐長江山而詔、我造坐而命國者皇御孫命平世所知依奉。
    但八雲立出雲國者我静坐國、青垣山廻賜而、玉珍直賜而守。詔。」
    所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)大穴持命、越の八口を(コトム)け賜ひて、還り坐しし時、長江山に来坐して、詔りたまひしく、
    我が造り坐して(ウシハ)く國は、皇御孫命(スメミマノミコト)平世(ヤスクニ)と知らせよと()さし(マツ)り。
    但、八雲立出雲國は、我が静まり()さむ國、青垣山廻らし賜ひて、玉と()で直し賜ひて、守りまさむ。と詔りたまひき。

故云文理 神亀三年改字母里

故に文理(モリ)と云う。 神亀三年字を母里に改める

  • 「もりをする」というのは、この地方の方言では「守る」というより、「世話をする」とか、「見守る」が近い。
    又、母里に改めたのは、伊耶那美尊の神陵比婆山久米神社地理院地図があることに因るのであろう。

屋代郷郡家正東卅九里一百廿歩

  • 屋代郷…安来市吉佐町から伯太町安田のあたり。鷲頭山を中心とした地域。

天乃夫比命御伴天降來社伊支等之遠神天津子命詔吾浄將坐志社詔 故云社 神亀三年改字屋代

天乃夫比命、御伴と天降り來ましし、社印支(ヤシロノイナギ)等の遠つ神、天津子命(アマツコノミコト)詔て、吾が浄まり將坐(マサム)(オモオ)(ヤシロ)と詔す。
故に(ヤシロ)という。 神亀三年、字を屋代に改める

  • 「伊支」は「印支」に改める
  • この社は吉佐町の「支布佐(キフサ)神社」とされる。(島根県安来市吉佐町365)地理院地図
    • 天穂比の一行は、出雲の西端から侵入してきたことが解る。

楯縫郷郡家東北卅二里一百八十歩

布都怒志命之天名楯縫直給之故云楯縫

布都怒志(フツヌシ)命の天石楯(アメノイワタテ)を縫い直し給いき。故に楯縫と云う。

  • 「天名」は「天石」に改める
  • 「布都怒志命」は国譲りを迫った「経津主命」と同一神とされるが・・・。
  • 安来市清井町の岳山に嵩神社があり、ここに天石楯という大岩がある。地理院地図
  • 「天石楯縫直給」は「天石楯縫置給」ともあり、置の誤記だとすれば「天石楯を縫い置き給いき」となる。

安来郷郡家東北廿七里一百八十歩

神須佐乃烏命天壁立廻唑之尒時来坐此處而詔吾御心者安平成詔

神須佐乃烏命(カミスサノヲノミコト)天壁立(アメノカベタチ)廻りましし時に、此處(ココ)に来まして(ノリタマイシ)く。「吾が御心は安く平らか成」と(ノリタマ)う。

  • 天壁立…新年祭祝詞を引いて、「天の際」とか「国内巡視」とかとする解説があるが、天の際とか意味不明。国底立命云々は論外。
    地名縁起の記述であろうから、姫崎に近く、廻る事の出来る壁立というと、安来町の十亀島(十神島・砥神島)地理院地図であろうと思われる。
    今は陸続きとなり植林もされ公園として整備されているが、かつては僅かに松などの茂る島であった。
    • 十神島をこのように呼ぶようになった縁起は又別にあるので、それ以前の呼び方であるのかも知れない。が今となっては不明。
  • 「吾御心者安平成」を校注出雲国風土記では「()御心(ミココロ)安平(ヤス)けく成りましぬ」としている。白井文庫では書影に送り仮名が振ってあるが、その読みと異なっている。おそらく「安平」を「安来」に読もうと試みた作為であろうが、「安来」は、前にある「来坐~安」からの由来である。

故云安来也

故に安来と云うなり。

  • 十神島をめぐり、心が安らいだと語った事から、その地を「安来」と呼ぶようになった。というのである。

即此海有邑賣埼

即ち此の海に、(ムラ)有り、賣埼。

  • 賣埼…現在の安来駅の北方、当時は海際であったとされる姫崎。地理院地図
  • 校注出雲国風土記では「邑」を「比」に改めて「即北海有比賣埼」(即ち北の海に比賣埼あり。)としている。

飛鳥浄御原宮御宇天皇御世甲戌年七月十三日詔

  • 飛鳥浄御原宮御宇天皇御世甲戌年…天武天皇674年

(白井文庫k08)
http://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-08.jpg
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臣猪麻呂之女子遥伴埼邂逅遇和令所賊不切
尒時父猪麻呂所賊女子歛買上大發若憤號天
踊地行吟居嘆昼夜辛苦無避歛所作是之間經
歴數日然後興慷慨志麻呂箭鋭鋒撰便処居即
擡討云天神子五百万地祇子五百万并ニ當國
静唑三百九十九社及海若等大神之和魂者静
而荒魂者皆悉依給猪麻呂之所乙良有神㚑唑
者吾所傷給以此囲繞一和尒徐率依来従於居
下不進不退猶圍繞耳尒時挙鉾而刄中天一和
尒殺捕已說然後百餘和尒解散殺割者女子之
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一脛屠出仍和尒有殺割而掛串立路之蓾也安東郷入
諸臣与之
 (蓾は草冠に歯の異体字:[卄/凵米])
父也自尒時以来至
于今月径六十歳

山国郷郡家東南卅二里二百卅歩布都怒志之国廻
唑時来坐此處而詔是土者不止欲見語故云山国也
即有正倉
飯梨郷郡家東南卅二里大国魂命天降坐時
當此處而御膳食給故云飯成神亀三年
改字飯梨

舍人郷郡家正東廾六里志貴嶋宮御宇天皇
之御世倉舎人君等之祖日宣臣志毘大舎人
供奉也即是志毘之所居故云舎人即有正倉
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臣猪麻呂之女子遥伴埼邂逅遇和令所賊不切

(オトド)猪麻呂(イノマロ)女子(ムスメ)伴埼(クダンノサキ)(アソ)びて、邂逅(タマサカ)和令(ワニ)()い、所賊(ソコナ)われて(カエラ)ざりき

  • 校注出雲国風土記では「語臣猪麻呂之女子逍遥件埼邂逅遇和爾所賊不切」
    臣を語臣(カタリノオミ)としている。(その他多少の異同あり)
  • 和令・和爾(ワニ)は鰐鮫(ワニザメ)(大きな鮫)のこと。
    • 鮫を中国地方では鱶(フカ)とも呼ぶ。鮫は細目(目が細い)ものを呼ぶとか、鱶は深い海に住むものを呼ぶとか、歯のあるものが鰐で、歯のないものが鱶であるとか色々いわれるが、鮫の種類も多く区別は地域で異なり曖昧。

尒時父猪麻呂所賊女子歛買上大發若憤號天踊地行吟居嘆昼夜辛苦無避歛所

時に、父猪麻呂所賊(ソコナ)われし女子(ムスメ)を賣の上に(オサ)め、大いに(オコ)り、(モシク)(イキドオリ)て、天に(ヨバ)い、地に(オド)り行く。(サマヨ)(オリ)て嘆き、昼夜(ヒルヨル)辛苦(タシナ)め、(オサメ)し所を避ること無し。

  • 書影で「憤」は、立心偏に賣。
    • 出雲国風土記考証では「大發(オオイニオコリ)若憤(モシクハイクミ)」としている。
  • 「買上」は「賣上」に改める。
    • 出雲国風土記考証では、「歛賣上」を「歛毘賣埼上」としている。
      姫崎の地名縁起であるのに、事件の前から毘賣埼と読むのは疑問。
  • 吟…校注出雲国風土記では「行きては()き」としているが、白井本には「吟」に(サマヨヒ)と読みが振ってあり、これは「吟」の古い読み方にあるので、サマヨイのままとする。

作是之間經歴數日

作是之間(カクスルホドニ)数日(ヒカズ)經歴(ヘタ)り。

  • 「数日」…「数月」に見えるが、拘る事の程でもなく論考の参考要因も無いので通説に従い「数日」としておく。
    • 後に「一脛屠出」とあり、月としたのでは辻褄が合わなくなる。

然後興慷慨志麻呂箭鋭鋒撰便処居即擡討云

然る後、慷慨(コウガイ)の志を興し、麻呂()を鋭ぎ、(ホウ)を撰び便(ヨロシ)き処に居りて、即ち(モタ)げて討つと云う

  • 校注出雲国風土記では「麻呂」を「磨」としているが、書影では明らかに麻呂とあり、猪麻呂を指していると考えられる。
  • 「擡討」…校注出雲国風土記では((ヲガ)(ウルタ)えて)としている。
  • 書影では「討」に(謝カ)と注記している。

天神子五百万地祇子五百万并ニ當國静唑三百九十九社及海若等大神之和魂者静而荒魂者皆悉依給猪麻呂之所乙

天神子(アマツカミノミコ)五百万(イオヨロズ)地祇子(クニツカミノミコ)五百万、(ナラビ)當國(トウゴク)に静まり唑す三百九十九社及び海若等(ワダツミラ)が大神の和魂(ニギミタマ)は静まりて、荒魂(アラミタマ)は皆(コトゴト)く依り給い猪麻呂が所にと。

  • 乙…文末を示す「乙」として訳さない。校注出雲国風土記では「乞」に変えている為読み方が異なる。
  • 天神子五百万・地祇子五百万…書影で子には(ミコ)と読みが振ってある。
    校注出雲国風土記や出雲国風土記考証では天神千五百万・地祇千五百万としており、これも読み方が異なる。

良有神㚑唑者吾所傷給

(マコト)神霊(ミタマ)の有りまさば、吾を(イタ)わらし給へ。

  • 「㚑」は「灵」が元字で「霊」の俗字若しくは異体字とされる。「大漢和」になく「正字通」に「霊」の俗字としてあるという。
    • 「標注古風土記」の注に「()(イタ)はらしたまへ、と訓むべし。古寫本に助の字なし。」とあり、これを参考とする。

以此知神㚑之所神者

此をもちて神霊の神たるを知らむ。

  • 白井文庫では書影の様に「以此」であるが、上田秋成書入本・校注出雲国風土記等では「以此知神㚑之所神者」としているので、一応この一文を補う。欠文なのか否かは不明。欠文ならば上記の通りだが、そうでなければ「以此」は次の部分の冒頭と考えられる。
    • 個人的には後世の不要な挿入と考えている。というのも、「神霊の神たるを知らむ」というのは、神に対し疑心暗鬼の念を示すこととなり、天神地祇に祈る内容としては不適であると思われるからである。信じていないのならばそもそも天神地祇に祈るはずがない。
  • 傷…傷つけるではなく哀れむの意。
  • 「天神子~」の一文。「和魂はおとなしくしておれ、荒魂は我に憑依せよ、神霊があるなら我を哀れみ給え。」というのである。
    なかなかの檄文であり、激しい憤りと悲しみを表している。
    尚参考までに、後世の「助」を補った読み方では、「鰐を傷める助けをせよ」という、全く頓珍漢な解釈をしている例がある。

ここに欠文があると考えられ、上田秋成書入本から次の一文を補う。

(尒時有須臾而和尒百餘浄)

(時に、須臾(シバラク)して鰐百餘(ヒャクアマリ)(シズカ)に)

囲繞一和尒徐率依来従於居下不進不退猶圍繞耳

一つの鰐を囲繞(カコ)み、(ユルヤカ)に依り(キタリ)て、居る(トコロ)より進まず退かず猶圍繞(カコ)めるのみ。

尒時挙鉾而刄中天一和尒殺捕

時に、鉾を挙げて中天(マナカ)なる一つの鰐を(サシ)て、殺し捕りき。

已說然後百餘和尒解散殺割者女子之一脛屠出

(スデ)()えて然して後に百余(モモアマリ)の鰐解散(アラ)けぬ。(コロ)(サケ)女子(ムスメ)の一つ(ハギ)(ホフ)り出つ。

  • 「說」は「訖」に改める。上田秋成書入本に補記あり。書影は説の異体字。

仍和尒有殺割而掛串立路之蓾也安東郷入諸臣与之父也自尒時以来至于今月径六十歳

(ヨリ)て鰐を殺し()きて串に掛け、路の(ホトリ)に立つ也。
安来郷の人語臣(カタリノオミ)(アタウ)の父なり。その時以来今日に至るに六十歳を経たり

  • 「蓾」は「垂」に改める。
  • 「安東郷入」は「安来郷人」に改める。
  • 「諸臣」は「語臣」に改める。
  • 「今月」は「今日」に改める。
  • 「径」は「経」に改める。

山国郷郡家東南卅二里二百卅歩

山国郷。郡家(グウケ)の東南三十二里二百三十歩

  • 山国郷…出雲風土記抄に「吉田村、柿谷、鳥木の三村を合せて山國郷となす」とあり、今の安来市吉田町。
    広瀬町の布部に抜ける吉田川上流沿いの地区。

布都怒志之国廻唑時来坐此處而詔是土者不止欲見語故云山国也即有正倉

布都怒志命の国廻りまし時、此處に来り坐して詔る。是(クニ)には止まず見が欲しと語る。故に云う山国也。即ち正倉有り。

  • 不都怒志…「命」が落ちているので補う。「命」を「之」に誤記したかとも思われるが、校注出雲国風土記では「布都努志命之~」としている。
    上吉田町別所に先前(マツザキ)神社地理院地図という小社があり経津主命を祀っている。
  • 不止欲見…厭きずに見続けていたい。現地は今も穏やかな田園風景が拡がっている場所である。
  • 正倉…正税としての穀物等を収める倉庫

飯梨郷郡家東南卅二里

  • 飯梨郷…出雲風土記抄に「飯梨郷は飯梨、利弘、實松、矢田、古川、新宮、富田、田原等の村を併せて一郷とす。」とある。
    飯梨川中流域(飯梨郷)から、上流の分流、山佐川流域(山佐郷)・布部川流域(布部郷)迄を含むとされる。尚、比田川流域地区(比田郷)は含まれない。
    現在の安来市飯梨町から広瀬町のあたり。

大国魂命天降坐時當此處而御膳食給故云飯成 神亀三年改字飯梨

大国魂命(オオクニタマノミコト)天降りましし時、此處に当たりて御膳(ミケ)()し給えり。故に飯成(イヒナシ)という。 神亀三年、字を飯梨に改む

  • 大国魂命…大国主命の別名とされるが多少疑問有り。
  • 神亀三年…726年

舍人郷郡家正東廾六里

  • 舎人郷…出雲風土記抄に「此郷は吉岡、月坂、赤埼、澤村、野方、折坂を集めて、以つて一郷とす」とある。
    現在の安来市月坂町から折坂町にまたがる地域。
    伯太川下流西岸域から吉田川下流東岸及び中流域にあたる。
    尚、吉田川は現在中流域で西に迂回し中海に注いでいるが、これは水利工事に因る為で、かつては伯太川に注ぐその支流であった。

志貴嶋宮御宇天皇之御世倉舎人君等之祖日宣臣志毘大舎人供奉也即是志毘之所居故云舎人即有正倉

志貴嶋宮御宇天皇之御世、倉舎人君(クラトネノキミ)等の(オヤ)日宣臣(ヒキノオミ)志毘(シビ)大舎人(オオトネ)(ツカ)へ奉りき也。即ち是、志毘の(スメ)る所。故に舎人(トネ)と云う。即有正倉

  • 志貴嶋宮御宇天皇之御世…(シキシマノミヤニアメノシタシラシシスメラミコトノミヨ)欽明天皇の時代(530年代~570年代)
  • 日宣臣…日置臣(ヘキノ臣・ヒオキの臣)
  • 大舎人…中務省大舎人寮に出仕し、天皇の雑用を行った役職。それなりに高官。
    • 欽明期には、出雲においても部民制が確立していたことを物語る。

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「出雲国風土記考証」天平時代意宇郡之図
http://fuushi.k-pj.info/jpg/map/izumofudoki_tp_ou.jpg


  • 衍字や誤記など有りかなり手間取っている。
    その為、先ずは原文をそのまま文字起こしし、他書参照しながら修正文を作成していくという手順にする。
    又、ユニコードにもない漢字があり、大漢和など参考に可能な限り表示可能な異体字等に改めていく。

『出雲国風土記』意宇郡2


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Last-modified: 2017-10-15 (日) 00:44:42 (39d)