『出雲国風土記』
『出雲国風土記』意宇郡2

『出雲国風土記』嶋根郡(しまねのこおり)

(白井文庫k13)
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嶋根郡
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(白井文庫k14)
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合郷捌里廾五        餘戸壹驛家壹家壹
山口郷           今依前用
朝酌郷           同
手染郷           同
美保郷           同
方結郷           同
加賀郷           本字加-々
生馬郷           今依前用
法吉郷           今依前用以上捌郷別里参
餘戸郷
千酌驛屋
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所以号嶋根郡国引唑八束水臣津野命之詔而頂
給名故島根
朝酌郷郡家正南一十里六十四歩熊野大神命
詔朝御餼勘養夕御餼勘羪五贄緒之処定
給故云朝酌
山口郷郡家正南四里二百九十八歩須佐能烏命
御子都留支日子命詔吾敷唑山口處在詔而故
山口頂給
手染郷郡家正東一十里二百六十四歩所造天下大神
命詔此国者丁寧造国在詔而故丁寧頂給而
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合郷捌里廾五        餘戸壹驛家壹家壹

合わせて郷八、里二十五     餘戸一、駅家一、家一

山口郷           今依

朝酌郷           同

手染郷           同

美保郷           同

方結郷           同

加賀郷           本字加-々

生馬郷           今依前用

法吉郷           今依前用以上捌郷別里参

餘戸郷

千酌驛屋

所以嶋根郡国引唑八束水臣津野命(ヤツカミマヲシツノミコト)()而頂故島根

嶋根郡と(ゴウ)所以(ユエ)は、国引きます八束水臣津野命の(ノリ)て頂き給う(カレ)島根と名づく。

  • 「八束水臣津野命」…振られたルビでは(ヤツカミマヲシツノミコト)と読める。
    岸崎本(第2帖p3)では、八束水臣津野命に(ヤツカミノヲシツノミコト)とルビがある。
    上田秋成書入本(15コマ)では、(ヤツカミノカンツヌミコト)と黒字のルビがあり、赤字で(ヤツカミノオンツノミコト)と読むように訂正してある。

朝酌鄉郡家正南一十里六十四步

朝酌鄉(アサクミノゴウ)郡家(グウケ)の正に南一十里六十四步

  • 郡家(嶋根郡家)…校注出雲国風土記によると「松江市東川津町納佐の小正部屋敷辺にあったらしい」と記されているが位置が合わない。
    近年は福原地区の芝原遺跡地理院地図が嶋根郡家の有力な候補地として上げられている。芝原遺跡調査報告書

熊野大神命詔御餼(ミケ)勘養夕御餼勘羪五贄緒之処定故云朝酌

熊野大神命(ノリ)て、朝御餼(アサミケ)勘養(カムカイ)、夕御餼の勘養に、五贄(イツニエ)の緒の處定め給ひき。(カレ) 朝酌と云う。

  • 朝酌郷…松江市嵩山の南山麓辺り。現在の松江市朝酌町、福富町、大井町、大海崎町辺り。
    出雲風土記抄(第2帖p4)には『此ノ郷ハ合セテ於朝酌及ビ福冨大井大海埼ヲ以為一郷ト也』とある。
  • 御餼(ミケ)…食事
  • 勘養・勘羪(カムカイ)…神頴(カムカイ)・御食向、神に物を手向けること。[羪]は[養]の異体字
  • 五贄(イツニエ)…五種物(イツツノタナツモノ)。五贄の五は御でもあり、数を指しているという事ではない。時々で供え物の品数は変わることがあり、その場合も「五贄」と呼ぶ。
  • 緒…緒は五贄を組合せ整えるという意味。内山眞龍は「組」に変えて解釈している。
  • 意訳すると「熊野大神命が詔りして朝の御膳、夕の御膳にするものを整える所として定められた、それで朝酌という。」
    「酌む」は「組む」=「整える」という意味

山口郷郡家正南四里二百九十八歩

山口郷、郡家の正に南四里二百九十八歩

  • 山口郷…松江市嵩山の西山麓の地域。現在の松江市川津町・川原町あたり。
    出雲風土記抄(第2帖p4)には「今ノ東川津村加テ於西川津川原西尾之三所ヲ以為山口郷ト也」とある。
    出雲国風土記考証では「今の持田村も山口郷であらう」としている。
    山というのは嵩山(ダケサン)(標高331m)のことで、山口はその入口を指している。嵩山の登山口は東川津町で紙谷地区から登る。
    国道431号線の旧道筋持田地区に「嵩山入口」というバス停があるので、この辺りが昔からの登山口であったのだろう。
    嵩山の山頂には都留支日子命を祀る布自伎美(フジキミ)神社がある。

須佐能烏(スサノヲノ)御子都留支日子命(ツルキヒコノミコト)敷唑(シキマス)山口リト而故山口頂給

須佐能烏命の御子都留支日子命(ツルキヒコノミコト)詔り、吾が敷きます山口の處に在りと詔りたもうて、(カレ)山口と頂き給ひき。

  • 「都留支日子命」(ツルキヒコノミコト)…(ツルギヒコノミコト)と「支」を濁音で読む例が多いが、ルビには清音「キ」と振ってある。出雲風土記抄にも「キ」と清音のルビがある。
    • 都留支日子命は剣の神と認識されていることが多いが、ツルキならそうもいかなくなる。
  • 山口頂給…校注出雲国風土記では『山口負給』としている。
    出雲風土記抄では『山口順給』

手染郷郡家正東一十里二百六十四歩

手染郷(タシミノゴウ)、郡家の正に東、一十里二百六十四歩

  • 「出雲風土記抄」(第2帖4p)に、「此郷ハ以多須見長見ヲ為本郷ト并テ之ニ於野原別所下宇部尾ヲ以為手染郷也」とある。
    現在の松江市手角・長海・本庄・野原及び美保関町下宇部尾の辺り、中海の北岸域であろう。

所造天下大神(ミコト)詔此者丁寧造国在詔而故丁寧頂給而人猶詔手染郷之耳即正倉

所造天下大神命(アメノシタツクラシシオオカミノミコト)詔。此の国は丁寧造りし国に在りと詔て、(カレ)、丁寧頂き給う。(シカシ)て人なお手染郷と()るのみ。即ち正倉あり。

  • 丁寧…これを(テイネイ)と読むと、手染の読みに繋がり難い。(丁寧(テイネイ)は楽器名に由来する)
    宣長はこれを「慥」(タシ)と解釈している。「(タシ)に」は「急ごしらえに・急いで寄せ集めて・確かに」等の意味があり、多くの風土記解説本は是を踏襲している。
    • 「手染」を(タシミ)と読むことからその読みに近い音を「丁寧」に充てようとして、「慥」を持ち込もうとしている訳だが、「丁」と「手」はともかくとして、「染」と「寧」は遠い。
  • 「出雲風土記抄」では「所造天下大神命ノ詔フ此ノ国ハ者丁寧(タダニ)造ル国在リト詔フ而丁寧(タダニ)順給而人猶誤謂手染郷ト之耳即有正倉」とある。
    「丁寧」に(タダニ)と読みを振っている。但し[寧]は[うかんむり+而+丁]で、「寧」とは異なる。これは[うかんむり+皿+示]という甲骨文に由来する古字で、「心を安らかにする」という語義を表し、後に[心]を加えたのが「寧」であるとされる。
    「丁」には「落ち着く・安定する」という語義がある。
    • 上記勘案すると。「丁寧」は(タダニ)「丁に」で正しいと考える。「ニ」に[尒]ではなく[寧]を用いたのは語義が似ていることから強調するためだったのであろう。「此国者丁寧(タダニ)造国」は「この国は(諍いなどなく穏やかに)安定して造った国」で良い。宣長の解釈のように「慥」を持ち込む必要は無い。

(白井文庫k15)
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人猶詔手染郷之耳即正倉
美保郷郡家正東廾七里一百六十四歩造天下大神命
娶高志国唑神意支都久辰為命子俾都久辰為
命子奴奈宜置波比賣命而令産神御穂須々美命
是神唑矣故美保美保号名
謂此類落

方結郷郡家正東廾里八十歩須佐素命御子国忍別
命詔吾敷唑池者国形宜者故云方結
加賀郷郡家西北一十六里二百九歩神魂命御子八
尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬
法吉郷郡家正西二百卅歩神魂命御子宇武賀
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比賣命法吉鳥化而飛度静唑此所故云法吉
餘戸里説名如
意宇郡

千酌驛郡家東北一十九里一百八十歩伊差奈枳命
御子都久豆美命此所生然即可謂都久豆美而
今人猶千酌号郷
[社]
大掎社    大掎川邊社   朝酌下社   努郡彌社
掠見社 以上卅五所並
不在神祇官

[山]
布自枳美高山郡家正南七里二百一十歩高丈周
一十里 女岳山郡家正南二百卅歩蝨野郡家西
南三里一百歩旡樹
毛志郡家北一里 大倉山
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美保郷郡家正東廾七里一百六十四歩

美保郷、郡家の正に東、二十七里一百六十四歩

  • 美保郷…出雲風土記抄で「此郷ハ以関村福浦ヲ為ス本郷ト併セ加テ西ハ者森山東ハ雲津諸喰等之處以為美保郷」とある。
    (この郷は関村福浦を本郷と為す。西は森山、東は雲津諸喰等の所を併せ加えて美保郷と為す。)
    関村というのは美保関村のことで、福浦~諸喰まで現在の地区名と変わらない。

造天下大神(ヒキテ)高志国(タカシクニ)(マス)意支都久辰為命(イキツクシイノミコト)()俾都久辰為命(ヒツクシイノミコト)()奴奈宜置波比賣命(ヌナギチハヒメノミコト)(シム)(ウマ)神御穂須々美命(カンミホスゝミノミコト)

造天下大神命、高志国(タカシクニ)に唑す神、意支都久辰為命(イキツクシイノミコト)の子、俾都久辰為命(ヒツクシイノミコト)の子、奴奈宜置波比賣命(ヌナギチハヒメノミコト)(ヒキ)て、(シカ)して神御穂須々美命(カンミホススミノミコト)を産ましむ。

  • 奴奈宜置波比賣命…出雲風土記抄では(ヌナキキハヒメノミコト)、上田秋成書入本では(ヌナキチハヒメノミコト)、と付記しており、「宜」は(ギ)ではなく(キ)と清音で読む例がある。
    校注出雲国風土記では「奴奈宜波比賣命」(ヌナガハヒメノミコト)と[置」を抜いている。
    「置」があることについて、古事記の沼河比賣に充てるために「置」は誤りであるとする説があり、それに従ったのかも知れないが、作為である。
    又、「宜」を(ガ)と読むのは栗田寛の説で「法王帝説」に読む例があるとして広まったようだが、そういう例はない。
    これも古事記に合わせるための作為である。

神唑マス矣故美保(ミホ)美保ト号スカ名ク
謂トカ此類落ルカ

是の神唑す矣故(ユエニ)美保と。(美保と号すか名ずく謂とか此の類落るか)

  • 是神唑矣故美保美保号名
    謂此類落
    …補記では、本文が「故美保」で終わっている為、美保に、「号・名・謂」或いはこれに類する語が落ちていると指摘しているわけだが、他書に「故云美保」とあるので、「云」が落ちている。こういう補記があることは文献の信頼度を増す事に繋がる。他書としては例えば「出雲風土記抄」

方結郷郡家正東廾里八十歩

方結郷(カタエノゴウ)、郡家の正に東二十里八十歩

  • 方結郷…「出雲風土記抄」に、「方結ハ今片江浦也片江ノ中ニ有僧都(ソウツ)玉江(タマエ)加テ之ニ七類浦ヲ以為ス一郷ト也」
    (方結は今片江浦也。片江の中に僧都玉江あり。之に七類浦を加えて以て一郷と為す也)
    現在の片江、七類(シチルイ)地区。僧都玉江とあるのは惣津と玉結(タマエ)の事であろう。(惣津は現在七類地区に含まれる)
    • 余談だが、出雲では「結」を(エ)と読む地名が幾つか有る。方結、玉結、手結。どういう経緯なのかは不詳。
      これを「由比」と同じで「(ユイ)」(=漁村の共同作業)から来たとする解釈があるが、それなら(ユイ)と読むのではないかと訝しく思う。

須佐素命(スサスノミコト)進素烏カ御子国忍別命(クニヲシワケノミコト)詔吾敷唑(シキマス)者国(ムベナル)者故云方結

須佐素命御子国忍別命詔。吾が敷ます池は国の(カタチ)(ムベ)なる者。故方結と云う。

  • 須佐素命…出雲風土記抄では「須佐能烏命」
    • 読みも気になるが、「進素烏か」と傍記していることも少々気になる。
  • 池…出雲風土記抄では「地」。上田秋成書入本では赤字で「地」と付記。「地」の誤りであろう。
  • 国形宜者…国の(カタチ)(ムベ)なる者。
    フリガナどおりでは方結(カタエ)と繋がりにくいことから次のように「宜」を(エ)と読んでいる例が多い。
    標注古風土記では、「『國形宜(クニガタエ)(ノタマ)へり』とよむべし」としている。
    「者」をノタマヘリと読むことについては、「續日本紀などに傍訓あり」と注記している。
    出雲国風土記考証では、「國形宜(クニカタエ)(ノタマヘリ)」としている。
    校注出雲国風土記では、「國形宜(クニカタエ)しとのりたまひき」としている。
    • 「宜」をはたして(エ)と読むべきかどうか疑問。そういう例を他に知らない。
      カタチムベ→カタムベ→カタンベ→カタエと転じたと考える方が素直なように思われる。又、「者」は(モノ)で良いと考える。
      「国形宜」の意味は「国の形が良い」ということであるが、岬と入り浜、そして小島があり、風光明媚であり、日本海に臨む島根半島北側の港として使い良いことを指しているのであろう。
      余談だが瀬戸内に馴染んできた者としての個人的感想として、日本海沿岸はどこも小島が少ないという印象がある。瀬戸内に比べれば波も荒く、沖合に島がないと海が荒れた時には底知れぬ恐怖すら覚える事がある。
      島根半島の西部は例外的に小島が多い。

加賀郷郡家西北一十六里二百九歩神魂命御子八尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬

この部分、欠落・混乱がある。
上田秋成書入本では、本文は全く同じだが、上部に次の注が加えられている。
「此所㝡初加賀ト有テ終ニ生馬ト有之不審也目録ニ加賀次生馬我之兩郷ノ内一方ノ理書落欤[ナベブタ/里]テ可[氺/又]」
(此の所、最初に加賀と有て終に生馬と有る。これ不審也。目録に加賀の次に生馬。我之を両郷の内一方の(コトワリ)を書落か。重ねて求むべし。)

出雲風土記抄(第2帖p6)からこの部分補う。但し出雲風土記抄では、生馬郷・加賀郷の順になっているが、上記により、加賀郷、生馬郷の順とする。

「加賀郷郡家北西二十四里一百六十歩佐太大神所坐也御祖神魂命御子支佐加地賣命闇岩屋哉詔金弓以射給時光加加明也故云加加」
「生馬郷郡家西北一十六里二百九歩神魂命御子八尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬」
尚、出雲国風土記考証に、加加の最後に「神亀三年改字加賀」とあるのでこれを補う。


(出雲風土記抄による)

加賀郷郡家北西二十四里一百六十歩

加賀郷(カカノゴウ)、郡家の北西二十四里一百六十歩

  • 加賀郷…出雲風土記抄(第2帖p7)で「合セ加テ于加賀浦及ヒ大蘆(ヲアシ)御津(ミツ)ヲ以為加賀ノ郷ト也」
    (ここに加賀浦及び大蘆御津を合わせ加えて、以て加賀の郷と為す也)
    現在の松江市島根町の加賀(カカ)大芦(オワシ)、及び松江市鹿島町御津(ミツ)、の地区。
    鹿島町片句(カタク)手結(タエ)も含まれると考えられている。
  • 「于」は語調を整える為の字で通常読まないが、一応記して置いた。

佐太大神所坐也御祖神魂命御子支佐加地賣命闇岩屋哉詔金弓以射給時光加加明也故云加加神亀三年改字加賀

佐太大神(サダノオオカミ)(イマ)す所也。御祖(ミオヤ)神魂命(カモスノミコト)の御子、支佐加地賣命(キサカチメノミコト)(クラ)き岩屋かなと詔る。金弓(カナユミ)もて射給いし時、光加加明(カカアケル)也。故云加加。神亀三年、字を加賀に改む

  • 佐太大神所坐也…佐太大神の生誕地という伝承から、「坐」を「生」として(あれます)と読む例がある。
  • 神魂命…神産巣日神(古事記)と同神として、(カミムスビノミコト)と読む例があるが、出雲では(カモスノミコト)。
  • 支佐加地賣命…加賀神社の主祭神。出雲国風土記考証・標註古風土記では「支佐加比比賣命」。校注出雲国風土記では「支佐加比賣命」。
    古事記の「𧏛貝比売」と同一神とみられている。宣長は𧏛貝は蚶貝の誤りで赤貝の古名だとしており通説となっているが、
    出雲では赤貝の仲間である猿頬貝(サルボウガイ)が古くから食されており、𧏛貝というのはこちらと思われる。
    (猿頬貝を出雲では赤貝とも呼んできた。この為特に問題にもされなかったのであろう。)
  • 支佐加地賣命闇岩屋哉詔金弓以射給時…伝承では、キサカヒメ命の御子が佐太大神で、金弓を佐太大神が引いたというのがある。この事から、この部分を内山眞龍は疑い、この説に従い標註古風土記では「支佐加比比賣命御子闇岩屋哉詔金弓以射給時」と「御子」を補っている。(後に改めて記すが、金弓を射たのは支佐加地賣命であり佐太大神ではない)
    • かつて出産の際、魔除けとして弓矢を傍に置くという風習が残っていたが、起源はこの辺りにあるのかも知れない。

生馬郷郡家西北一十六里二百九歩

生馬郷(イクマノゴウ)、郡家の西北一十六里二百九歩

  • 生馬郷…出雲風土記抄(第2帖p6)に「東西ノ生馬及薦津浦ヲ為シ本郷ト十町南方有濱佐田国屋比津村西方有下佐田併セテ乎此等之諸村ヲ以為生馬ノ郷ト矣」とある。
    (東西の生馬及び薦津浦を本郷と為し十町南方、濱佐田、国屋、比津村有り西方下佐田有り此等の諸村を併せて生馬の郷と為す)
    現在の松江市東生馬町・西生馬町・薦津町・浜佐田町・国屋町・比津町・下佐陀町辺り。
    • 現在佐陀川が流れている辺りにはかつて佐陀水海という湖があり、この湖の東岸が生馬郷にあたる。
      佐陀水海は干拓と日本海への通水工事などが行われて来たので、風土記の時代には現在とは随分異なる風景であったのだろうと思われる。
      佐陀川両岸の直線的に区画整理された地区がかつての佐陀水海であろう。

神魂命御子八尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬

神魂命御子、八尋鉾長依日子命(ヤヒロホコナガヨリヒコノミコト)詔て、吾御子平明(タヒラカ)不憤(イクマズ)。故生馬という

  • 吾御子…吾御心の誤りと考えられている。
    • 八尋鉾長依日子命は松江市東生馬町235の「生馬神社」に祀られているが、御子は不明である。出雲国風土記にも御子は出てこない。表記通り「御子」であるなら、その名が示され祭神に祀られているはずだがそれもない。それ故、この部分は「御心」の誤記と考えられている訳である。
    • 「生馬神社」というのは東西2社ある。上記は「生馬神社(東)」。
      「生馬神社(西)」では現在八尋鉾長依日子命を祀っていないが、これは火災のため縁起を失ったためであろうと思われる。
      現在は主祭神として道返大神を祀り、明治期に近郷の諏訪神社・市杵島神社を合祀したため武御名方命と市杵島姫命を祀っている。
      東西にあると云うことは、かつては東に八尋鉾長依日子命を祀り、西にその御子を祀っていたのかも知れない。が今となっては不明。
  • 不憤…「(イク)む」の打ち消しとして(イクマズ)と読んでいる。
    • この地名縁起、憤む(腹を立てる)を否定しているわけだが、憤む理由が何であるのか不明で、何やらこじつけのような感じをうける。

(ここから白井本に戻る。)

法吉郷郡家正西二百卅歩

法吉郷(ホッキノゴウ)、郡家の正に西二百三十歩

  • 法吉郷…出雲風土記抄(第2帖p7)で「合法吉及ヒ春日末次ノ三所ヲ以為法吉ノ郷ト也 今末次ニ有リ五箇ノ名曰中原黒田奥谷菅田末次」とある。
    (法吉及び春日、末次の三所を合わせて法吉郷と以為()す也。今末次に五箇の名有り。中原、黒田、奥谷、菅田、末次と()う)
    現在の松江市法吉町、中原町、黒田町、奥谷町、菅田町、末次町辺り。松江城周辺及び北方面に当たる。
    • 標注古風土記の注(p98)によると、伴信友は「法吉は、ほふきなるべし」と記しているらしい。
      また「国学者が、日本の古代に、促音がなかつたやうに思ふのは、疑はしい。促音をあらはす方法を知らざりしにあらん。~」
      と記している。現在法吉町は(ホッキ)町と読むので、法吉の読みはこれに従う。

神魂命御子宇武賀比賣命法吉鳥化而飛度静唑此所故云法吉

神魂命の御子、宇武賀比賣命(ウムカヒメノミコト)法吉鳥(ホッキトリ)()りて飛度(トビワタ)り此の所に静まれり。故法吉と云う。

  • 宇武賀比賣命…古事記の「蛤貝(ウムガイ)比売」と同一神とみられている。ウムガイはハマグリの古名。
    ハマグリは「浜栗」で形が栗に似ている浜辺の貝と云うことで名付けられた。
    法吉神社の主祭神
  • 法吉鳥…鶯(ウグイス)の古名。その鳴き声から法吉鳥という名が付けられたようである。
  • 不思議な地名縁起である。宇武賀比賣命に縁があり、鶯が良く飛んで来たと云うことであろうか。
    尚、鶯は気候によって適地を求めて移住する鳥である。

餘戸里説名如意宇郡

餘戸里、名を説くこと意宇郡の如し

  • 餘戸里…出雲風土記抄で「鈔曰餘戸里ハ者古ノ之郡家ニテ而本庄新庄加テ之ニ邑生(ヲフ)上宇部尾(カミウヘヲ)ノ辺ヲ以可為餘戸ノ里也」とある。
    (鈔に曰く。餘戸里は(イニシエ)の郡家にて本庄、新庄、之に邑生、上宇部尾の辺りを加えて餘戸の里と為す可)
    現在の松江市本庄町、新庄町、邑生町、上宇部尾町あたり。朝酌郷と手染郷の間。嵩山の東北山麓にあたる。
    上記で、「古之郡家」と記されているが、出雲国風土記考証では位置関係からこの地に郡家はなかったとし、持田村の福原の長慶寺辺りと推察している。近年の発掘調査でもこの推察が正しいようである。

千酌驛郡家東北一十九里一百八十歩

千酌驛(チクミノウマヤ)、郡家の東北一十九里一百八十歩

伊差奈枳命御子都久豆美命此所生然即可謂都久豆美而今人猶千酌号郷

伊差奈枳命(イサナキノミコト)の御子、都久豆美命(ツクズミノミコト)此の所に(アレ)ませり。然れば即ち都久豆美(ツクズミ)と謂うべきを、今の人なお千酌(チクミ)と郷を号す。

  • 此所生…出雲風土記抄・標註古風土記・出雲国風土記考証・校注出雲国風土記では「此處坐」、上田秋成書入本では「此処生」。
    おそらく「此處坐」が正しいと思われる。

[社]

大掎社    大掎川邊社   朝酌下社   努郡彌社

掠見社 以上卅五所並
不在神祇官

この部分、35所とあるのに5社のみで大部分欠落している。
出雲風土記抄(第2帖p9)から補う。
──────────
布自伎弥社     多気社     久良弥社
同波夜都武志社   川上社     長見社
門江社       横田社     加賀社
尒佐社       尒佐加志能為社 法吉社
生馬社       美保社以上十四所並
在神祇官

大埼社       大埼川辺社   朝酌上社
朝酌下社      努那弥社    椋見社
大井社       阿羅波比社   三保社
多久社       蜛蝫社     同蜛蝫社
質笍比社      方結社     玉結社
川原社       虫野社     持田社
加佐奈子社     比加夜社    須義社
伊奈須美社     伊奈阿気社   御津社
比津社       玖夜社     同玖夜社
田原社       生馬社     布夜保社
加茂志社      一夜社     小井ノ社
加都麻社      須衛都久社以上参拾五所並不在神祇官
──────────

  • 風土記抄の記述は岸崎が延喜式神名帳を参照して補ったものと云う。

布自伎弥社     多気社     久良弥社

  • 「布自伎弥社」「久良弥社」については「都留支日子命」に記述
  • 「多気社」については後述

同波夜都武志社   川上社     長見社

門江社       横田社     加賀社

尒佐社       尒佐加志能為社 法吉社

  • 法吉社…元社地は現社地の北方、現在のうぐいす台団地内にあり、そこに宇牟加比売命御陵古墳というのがあったが、団地開発工事のため造作され、古墳自体は調査後団地北端に移転復元保存された。伝宇牟加比売命御陵古墳調査報告書
    元社地は尼子・毛利の戦で疲弊し、松江城築城の頃現社地に移転造営。

生馬社       美保社(以上十四所並在神祇官)

大埼社       大埼川辺社   朝酌上社

朝酌下社      努那弥社    椋見社

大井社       阿羅波比社   三保社

多久社       蜛蝫社     同蜛蝫社

質笍比社      方結社     玉結社

川原社       虫野社     持田社

加佐奈子社     比加夜社    須義社

伊奈須美社     伊奈阿気社   御津社

比津社       玖夜社     同玖夜社

田原社       生馬社     布夜保社

加茂志社      一夜社     小井ノ社

加都麻社      須衛都久社(以上参拾五所並不在神祇官)


(白井本に戻る)

[山]

布自枳美高山郡家正南七里二百一十歩高丈周一十里

布自枳美高山。郡家の正に南七里二百一十歩、高さ二百七十丈、周り一十里

  • 出雲風土記抄2帖k14で、次の女岳と併せて記している
    本文『布自枳美高山郡家正南七里二百一十歩高二百七十丈周一十里女岳郡家正南二百卅歩』
    注釈「鈔云布自枳美者跨山口ノ郷朝酌ノ郷餘戸ノ里三箇ノ中ニ則東川津ノ嵩山(タケヤマ)是也七里二百一十歩者今ノ一里九町卅間也乃シ合祭布自枳弥多気両社ヲ於山頂ニ今俗ニ曰(タケノ)大明神ト當テ山ノ東ノ(ホトリ)餘戸ノ里新庄村ノ中ニ有女岳山又二百卅歩者今ノ四町許也」
    (鈔云布自枳美は山口ノ郷、朝酌ノ郷、餘戸ノ里、三箇の中に跨ぐ、則ち東川津の嵩山(タケヤマ)是也。七里二百一十歩は今の一里九町三十間也。(ムカ)し、布自枳弥、多気両社を山頂に於て合せ祭る。今俗に(タケノ)大明神と曰う。山の東の(ホトリ)餘戸の里新庄村の中に當て女岳山有。又二百三十歩は今の四町許也。)
    • これによると、かつてこの山頂に布自枳弥社と多気社の二社が祭られており、それを「フジキミ・タケ」と続けて呼んだことから、布自枳美高山と呼ぶようになったとしている。今は「嵩山」を(ダケサン)と呼んでいるが、これに拠れば元は(タケサン)と清音で呼ばれていたのであろう。
  • 高さが抜けている。出雲風土記抄に「二百七十丈」とあるのでこれを補う。
  • 布自枳美高山…嵩山のこと。読み方は色々試みられているが抄を参考に(フジキミタケサン)としておく。

女岳山郡家正南二百卅歩

女岳山、郡家の正に南二百三十歩

  • 女岳山(メダケヤマ)…嵩山の北方にあるピーク(標高124.6m)。女嵩山。地理院地図
    谷一つ越えた西方のピークの方が方位的には適っているかとも思われるが、いずれにせよ校注出雲国風土記で和久羅山としているのは誤り。
    • 郡家の南約4町と云うことであるから、女岳山北方400m余りの所に郡家があったわけで、和久羅山から北方400m余りだと嵩山の山中になってしまう。

蝨野郡家西南三里一百歩旡樹木

蝨野、郡家の西南三里一百歩(樹木無し)

  • 蝨野(ムシノ)…出雲風土記抄2帖k14で「合福原板本以曰虫里明暦年中我先君忌虫原名而改福原有虫大明神社大己貴也見事于前」
    (福原板本を合せて以って虫の里と曰う。明暦年中我先君虫原の名を忌みて福原と改む。虫大明神の社有り。則ち大己貴也。事は前に見たり)
    • 蝨はシラミとも読むのでこれを前の藩主が忌みて名を改めたという。現在の福原町。虫大明神は虫野神社。
      大己貴神がこの地に来て田畑を荒らす虫退治を行い、その神徳を尊び虫野神社が創建されたという。
      書影では上記の通り「板本」で現在の坂本町がこれにあたるのかどうかは不明。
      標註古風土記では「坂本」としている。

毛志郡家北一里

毛志、郡家の北一里

  • 毛志(モシ)…出雲風土記抄本文2帖k14本文では「毛志山」となっているから白井本では「山」が抜けている。
    解説で「鈔云毛志山本庄村川上山而福原坂本北山也」
    (鈔云、毛志山は本庄村川上の山にて、福原 坂本の北山也)
    現在の澄水山(シンジヤマ)地理院地図

大倉山郡家東北九里一百八歩

大倉山、郡家の東北九里一百八歩

  • 大倉山…出雲風土記抄2帖k15解説で「鈔云大倉山ハ手染郷長見川ノ水源今ノ枕木山観音堂ノ東ノ山ノ名」とある。
    現在の枕木山。

小倉山郡家正東廾四里一百六十歩

小倉山、郡家の正に東二十四里一百六十歩

  • 小倉山…出雲風土記抄2帖k15で「鈔曰小倉山者跨加賀大藘講武持田四所小倉観音旧者在于此山寺号円福寺今徒堂於南麓則今在持田村中又此山加賀川与多久川之水源也廾四里一百六十歩今四里二町此間」
    (鈔に曰く。小倉山は加賀、大藘、講武、持田の四所に(ワタ)る。小倉観音、旧は此の山に在り。寺を円福寺と号す。今は堂を南の麓に徒め、則ち今持田村の中に在り。又此の山は加賀川と多久川の水源也。二十四里一百六十歩は此の間今の四里二町。)
    • 加賀川というのは今の澄水川(加賀神社傍を流れる)のことで、多久川というのは今は佐陀川支流となっている講武川(多久神社傍を流れる)のことであろう。
      小倉山というのは現在の大平山の事であろう。校注出雲国風土記・出雲国風土記考証では「大城山」と記しているが標高などから大平山と同じであろう。かつてこの山域には山城があったと伝えられているから、大城山という場合は周辺の山稜部も含めての呼び名だと思われる。

(白井文庫k16)
http://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-16.jpg

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郡家東北九里一百八歩江山郡家東北廾六里卅
歩小倉山郡家正東廾四里一百六十歩凡諸山所
在草木白朮菱門冬藍漆五味子苦参獨活葛根
暑蕷萆解狼毒杜仲芍薬柴胡百部根石斛藁本
藤李赤桐白桐海 榴楠楊松禽獣則有鷲字或
作鵰

隼山鶏鳩鴙猪鹿猿飛鼯
[川]
水草河源二一水源出郡家東三里一百八十歩毛志山一
水源出郡家西北六里一百六十歩同毛志山

二水合南海流入入海
長見川源出郡家東北九
里一百八十歩大倉山東流犬鳥山源出郡家東北
一十二里一百一十歩墓野山南流二水合テ東流テ
-----
入入海野浪川源出郡家東北廾六里卅歩糸江山
西流入大海加賀川源出郡家正北廾四里一百六
十歩小倉山西流入秋鹿郡佐太水海以上六川並少々
旡魚忮也 忮此字本ノ侭

[池]
法吉陂周五里深七尺許有鴛鴦鴨鷠鮒須我毛
當夏節尤
在美菜
前原披周二百八十歩有鴛鴦鳬鴨
等之類張田池周一里卅歩匏池周一里一百一十

美能夜池周一里口池周一里一百八十歩
有蒋
鴛鴦
敷田池周一里有鴛
南入海自海
行東

朝酌促戸東通道西在平原中央渡則筌亘
東西春秋入出大小雜魚臨時來湊筌邉[馬否]
──────────

江山郡家東北廾六里卅歩

江山、郡家の東北二十六里三十歩

  • 江山…糸江山の誤り。出雲風土記抄で「鈔云糸江山ハ今ノ野浪浦ノ川上ノ山名」とある。
    出雲国風土記考証では「千酌から野波へ越す峠の北にある山で、標高百七十九.三メートルのものにあたる」と記している。
    校注出雲国風土記では「三坂山標高535.7米」と注記している。
    • 野波浦の川というのが千酌路川と里路川の二つあり説が分かれるわけだが、三坂山というのは野波から少々遠く、郡家からの距離を考えると、三坂山と枕木山(大倉山)はほぼ等距離になるはずであり、三坂山では郡家から二十六里三十歩というには近すぎる。
      これにより、三坂山は誤りで、出雲国風土記考証の説が正しいと思われる。地理院地図

凡諸山所在草木白朮菱門冬藍漆五味子苦参獨活葛根暑蕷萆解狼毒杜仲芍薬柴胡百部根石斛藁本藤李赤桐白桐海榴楠楊松

凡そ諸山に在る所の草木は、白朮・菱門冬・藍・漆・五味子・苦参・獨活・葛根・暑蕷・萆解・狼毒・杜仲・芍薬・柴胡・百部根・石斛・藁本・藤・李・赤桐・白桐・海榴・楠・楊・松

  • 暑蕷…薯蕷(ショヨ)であろう。
  • 萆解(ヒカイ)…山芋の一種。和名は鬼野老(オニドコロ)。根茎を乾燥させた物を煎じて、風邪・鎮痛に用いる。
  • 狼毒(ロウドク)…ジンチョウゲ科の多年草。殺菌・鎮痛に用いる。
  • 杜仲(トチュウ)…樹皮を生薬として利尿・肝腎強壮。葉を杜仲茶として用いる。
  • 芍薬(シャクヤク)…根を鎮痛・抗菌・止血に用いる。
  • 柴胡(サイコ)…ミシマサイコの根を柴胡と呼び生薬として用いる。解熱・鎮痛。
  • 李(リ)…スモモのこと。酢桃が元字だが、今では「李」を(スモモ)と読む事が多い。
  • 楊(ヨウ)…柳のこと。

禽獣則有鷲字或作鵰隼山鶏鳩鴙猪鹿猿飛鼯

禽獣則ち、鷲(字或作鵰)・隼・山鶏・鳩・鴙・猪・鹿・猿・飛鼯、有り

[川]

水草河源二一水源出郡家東三里一百八十歩毛志山、一水源出郡家西北六里一百六十歩同毛志山

水草河、源二つ(一水は源を郡家東三里一百八十歩毛志山に出ず、一水は源を郡家西北六里一百六十歩同じく毛志山に出ず)

  • 出雲風土記抄で「鈔云一水源郡家北三里一百八十歩今二十一町也 此水源自蝨野中今福原村澄水山出其一水源郡家西北六里一百六十歩今一里二町四十間 此水源自坂本村与持田村之界即持田納藏谷出記川水源共曰毛志山而澄水与納藏谷之渓路稍阻矣蓋水源山同所出渓間不同耳水同来于山口郷今東川津村合流経西川津南入于海也」
    (鈔云。一水源郡家の北三里一百八十歩は今の二十一町也。此水源は蝨野の中、今福原村澄水山自り出ず。其一水源郡家西北六里一百六十歩は今一里二町四十間。此の水源は坂本村と持田村の界、即ち持田納藏谷より出ず。記に二川の水源共に毛志山という。而も澄水と納藏谷との之渓路。稍阻(ヤヤヘダ)たれり。しかし水源の山は同所に出て渓間同じうせざる。二水同じく山口郷、今の東川津村に来たりて、合流し西川津を経て南の海に入る也。)
  • 水草河(ミクサガワ)…現在の朝酌川。上記出雲風土記抄でも少々解りにくいが、一つは虫野神社上流を水源とし福原町を流れる朝酌川上流。
    今一つは坂本町を流れる坂本川と東持田町を流れる納蔵川があり、尾根一つ隔てて水源が異なるために別れて流れて下流で合流している事を指している。要するに、朝酌川上流+(坂本川+納蔵川)=水草河 ということである。地理院地図

二水合南海流入入海有鮒

二水合せて南の海に流れ入海に入る。(鮒有り)

長見川源出郡家東北九里一百八十歩大倉山東流

長見川、源は郡家の東北九里一百八十歩の大倉山に出でて東に流る。

  • 長見川…現在の長海川。長海町を西から東に流れている。

犬鳥山源出郡家東北一十二里一百一十歩墓野山南流二水合テ東流テ入入海

  • 出雲風土記抄では本文「犬鳥川源出郡家東北一十二里一十歩墓野山南流二水合東流入于海」とある。
    犬鳥山は犬鳥川の誤りであろう。郡家からの距離も多少違うが、そのままにしておく。

犬鳥川、源は郡家東北一十二里一百一十歩に出て、墓野山より南に流れ、二水合て東に流れて入海に入る

  • 墓野山(ハカノヤマ)…忠山。
  • 犬鳥川…忠山を水源として南に流れ、長海町に流れている。
    かつては「杵田神社」(現在の松江市長海町59「長見神社」地理院地図)辺りで長見川に合流していたらしく、それを「二水合東流入入海」と表している。
    校注出雲国風土記・標注古風土記・出雲国風土記考証では「大鳥川」としている。
    出雲国風土記考証p115で「日御碕本・植松本は丈鳥川につくる」とある。

野浪川源出郡家東北廾六里卅歩糸江山西流入大海

野浪川、源を郡家の東北二十六里三十歩の糸江山に出づ。西に流れ大海に入る。

  • 野浪川…現在の千酌路川であろう。
    出雲風土記抄では、本文「野浪河」としている。
    又、校注出雲国風土記では、野浪川の注で「八束郡島根村の野波川」としているが、この「野波川」は不明。(八束郡島根村は大芦村・加賀村・野波村が合併した村。里路川を指しているのか?)
  • 大海…日本海のことであろう。

加賀川源出郡家正北廾四里一百六十歩小倉山西流入秋鹿郡佐太水海以上六川並少々
旡魚忮也 忮此字本ノ侭

この部分欠落がある。出雲風土記抄を参照する。

加賀川源出郡家正北廾四里一百六十歩小倉山北流大海入也
多久川源出郡家西北二十四里小倉山西流入秋鹿郡佐太水海(以上六川少々無魚川也)


(出雲風土記抄による)

加賀川源出郡家正北廾四里一百六十歩小倉山北流大海入也

加賀川、源を郡家の正に北二十四里一百六十歩に出、小倉山を北に流れ大海に入る也。

多久川源出郡家西北二十四里小倉山西流入秋鹿郡佐太水海(以上六川少々無魚川也)

多久川、源を郡家の西北二十四里小倉山に出、西に流れ秋鹿郡の佐太水海に入る。(以上六川少々は無魚の川也)

  • 小倉山…既述。上記参照
    • 無魚川…いずれも小川であるため、取りたてて記す程の魚は居ないという意味であり、小魚(メダカや小鮒等)はいる。

(白井本に戻る)

[池]

法吉陂周五里深七尺許有鴛鴦鴨鷠鮒須我毛當夏節尤在美菜

法吉の()、周り五里、深さ七尺(バカ)り。鴛鴦・鴨・鷠・鮒・須我毛(夏節に当たりて(モット)美菜(ウマキナ)在り};

出雲風土記抄(第2帖p18)では「法吉坡周五里深七尺許有鴛鴦鳧鴨鯉鮒須我毛當夏節尤有美菜
注で、佐久佐自清の談として、出雲には慶長年間まで鯉は居なかったので、「鯉」は衍字かと疑っている。

  • 古写本により「鯉」の有る物と無い物があるが、自清の談に従えば、「鯉」とあるのは「鷠」の誤写と考えられる。
    但し、出雲に堀尾氏支配の頃まで鯉がいなかったという自清の話は少々疑わしい。
  • 法吉陂(ホッキノヒ)…出雲風土記抄では「法吉坡」
    「陂」は池の事。「坡」は傾斜地のこと。ともに(ヒ・ツツミ)と読むが意味は異なる。
    標註古風土記等では「智者池」としているが、出雲国風土記考証では「周五里」にあわないと疑問を呈し、「麻利支天の南、新橋、内中原、四十間堀等を包有する所が、古は沼であった。法吉坡とは其の沼を云ったものではあるまいか」としている。
    • 「麻利支天」というのは「法吉神社」南方にある「麻利支神社」のことであろう。古い沼というのは現在の松江城西方のかなり広い範囲にあたる。
  • 鴛鴦(オシ)…オシドリ。鴛はオシドリの雄、鴦はオシドリの雌
  • 鷠(ウ)…海鵜
  • 須我毛(スガモ)…菅藻。ヒルムシロ科或いはアマモ科の海草
    • スガモを挙げていることから、法吉陂は塩水若しくは汽水域に接しているはずで、山中の淡水池である智者池はありえない。

前原披周二百八十歩有鴛鴦鳬鴨等之類

  • 「披」は「陂」に改める。

前原の陂、周り二百八十歩。鴛鴦(オシ)(ケリ)・鴨等の類有り

  • 前原披…「前原埼」と併せ後記

張田池周一里卅歩

張田池、周り一里三十歩

匏池周一里一百一十歩生蒋

匏池、周り一里一百一十歩((ショウ)生えり)

  • 匏池(ヒサゴイケ)…松江市薦津町の旧地名「古桁」にあったという池。現在の柄杓池南方、浜佐田上あたり。地理院地図
    ヒサゴは瓢箪(ひょうたん)のことであるから瓢箪の形をしていたのであろう。
  • 蒋(ショウ)…マコモ

美能夜池周一里

美能夜池、周り一里

  • 美能夜池…所在不明。出雲国風土記考証では、「薦津の蛍ガ池ではあるまいか」と推察している。

口池周一里一百八十歩有蒋鴛鴦

口池、周り一里一百八十歩(蒋・鴛鴦あり)

  • 口池…所在不明。出雲風土記抄では山口池の山が欠落したものかとしているが、山口池が既に解らない。
    出雲国風土記考証では、「本庄村と持田村との堺の細工峠の池をいったものか」と推察している。

敷田池周一里有鴛鴦

敷田池、周り一里(鴛鴦あり)。

  • 敷田池…所在不明。出雲国風土記考証では「國屋の長池は、口池か、敷田池か、その何れかの一つに當るであろう」と推察している。

南入海自海行東

  • 自海行東…「自西行東」としている古写本が多い。

南は入海(自海行東)

  • この一文、多くは独立した文として扱っていることが多いが、独立した文なのか、前の敷田池に繋がる文なのか疑問のあるところ。
    独立文ならば、なぜここにこの一文があるのか理由が解らない。
    敷田池に繋がる文とすれば、「敷田池、周り一里(鴛鴦あり)。南は海に入る。(海より東に行く)」と読んで、宍道湖と大橋川に繋がっている池と考えることもできる。

朝酌促戸東通道西在平原中央渡則筌亘東西

朝酌促戸(アサクミノセト)、東に通い道、西に平原(ハラ)在り。中央は渡し。則ち筌を東西に(ワタ)す。

  • 朝酌促戸…「朝酌促戸渡」は民間の渡しで、「朝酌渡」は公用の渡しとされる。現在の矢田渡しの辺りに、西に朝酌渡、東に朝酌促戸渡があったという。地理院地図矢田渡
  • 通道…朝酌から島根郡家に通じる道。
  • 平原…出雲国風土記考証では「津田の平原である」としている。
  • 筌…魚を獲る竹籠。ウケと読むことが多いようだが、ヤナとも読む。
    ここでは簗筌漁(ヤナウケリョウ)のことを指していると思われる。
    • 他所のことは良く解らぬが、広島ではヤナ漁というと、ヤナとウケを設えた全体を呼ぶ。籠もヤナ籠というがウケ籠と呼ぶ場合は受け籠の意味で使う。
      「ウケを東西にわたす」という言い方には違和感があるので、この場合は「ヤナを東西にわたす」と読むべきと考える。
      出雲では「筌」を(ヒビ)と読むという説がある。但し江戸時代の呼び方で風土記の時代はどうだったかは不明。
      復元したという「筌漁(ヒビリョウ)」というのがあるが、柴漬け漁に近いもので、カワエビ等しか捕れそうにない。
      竹籠という意味の「筌」を用いる漁としては少々疑問。(ヒビというのはそもそもノリ漁で用いる仕掛け名である)
      高津川では「登り筌漁(ノボリエリョウ)」というのが残っており、この筌は竹籠である。

春秋入出大小雜魚臨時來湊筌邉[馬否][馬亥]風厭水衡或破堸筌製日鹿於鳥被捕

春秋に、入り出る大小の雜魚(ザコ)、時に臨みて(ヤナ)の辺りに来(アツマ)りて、[馬否](オドロ)[馬亥](ハネ)て風のごとく()し、水のごとく()き、或いは筌を破堸(ウチヤブ)り、日鹿(ヒジシ)(ツク)り、鳥に捕られる

  • ここの記述で簗筌漁であることが解る。川に竹製のスダレのようなもの(簗)を渡し堰とし、そこに泳いでくる魚を捕らえる。
  • 製日鹿…色々解釈されてきたが、干し魚になるという意味。干鰯(ホシカ)干食(ヒジシ)、何れかの当て字。一応ヒジシと読んでおいた。

(白井文庫k17)
http://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-17.jpg

──────────
[馬亥]風厭水衡或破堸筌製日鹿於鳥被捕大
小雜魚莫濱藪澡家闐市人四集自然成墨矣自茲
入東

至于大井濱之周南北二
濱兼捕日魚水深也
朝酌渡廣八十歩許自国廰通
海邉道矣 上有廳此字
大井濱則有海鼠海松又造陶器也
邑美冷水東西北山並嵯峨南海澶浸中央
鹵灠磷男女老少時叢集常燕會地矣
前原埼東北並巃嵸下則有陂周二百八十歩
深一丈五尺許三邉草木自生涯鴛鴦鳥鴨
随時常住陂之南海也即陂與海之間濱東西長
-----
一百歩南北廣六歩肆松蓊欝濱鹵淵澄男女随
時叢会或愉樂耽遊忘帰常燕喜之地矣蜛蝫
島周一十八里一百歩高三丈古老傳云出雲郡杵築
御埼在蜛蝫天羽合鷲椋持飛燕來止于此嶋故
云蜛蝫島今人猶誤栲嶋号耳土地豊渡西邉
松二株以外茅沙薺頭蒿路等之類生靡
即有
去陸三里蜛蝫島周五里一百廾歩高二丈
古老傳云有蜛蝫島食來蜈蚣止居此嶋故云
蜈蚣嶋東邊神社以外皆悉百姓之家土体
豐渡草木扶踈桑麻豐富此淵所謂嶋里是
──────────

大小雜魚莫濱藪澡家闐市人四集自然成墨矣自茲入東至于大井濱之周南北二濱兼捕日魚水深也

大小雜魚()く、濱藪澡(サワガシ)く、家(サカン)にて、市人(イチビト)四集し、自然(オノズ)から(ミセ)と成る。(ここより東に入り大井濱に至るまで、南北二濱の周りは水深く日魚を捕るを兼ねる也)

  • 大小雜魚莫…ここでの雑魚は無駄になる魚という意味であろう。則ち、「大小無駄になる魚はない」。「莫」のない古写本もある。
  • 藪澡…「藪」は集まる事。「澡」は「躁」で騒がしい事。
  • 市人四集…市人四方(ヨモ)より集い。
  • 墨…鄽(ミセ)を略したのであろう。或いは、かつて市を立てる際墨書した看板を立てて告知したので、「墨」は「市」の意味で用いたのかもしれない。
  • 大井濱…松江市大井町の浜辺。地理院地図
  • 日魚…干し魚の意味かとも考えられるが、白魚の誤りと思われる。

朝酌渡廣八十歩許自国廰通海邉道矣 上ニ有ル廳トハテイ
チヤウ
マラウドノクリヤ
タビノクリヤ
此字ニヤ

朝酌渡、廣八十歩許り。国廰より海邉に通う道なり。(上に有る廳とは廳テイ
チヤウ
マラウドノクリヤ
タビノクリヤ
此字にや)

  • 廣…この廣は長さを指す「尋」の意味であろう。
  • 国廰…「廰」の原文字形は[マダレ/敢の右側ノブンをヒヒ]であり、表示不能。出雲国庁のことであろう。

大井濱則有海鼠海松又造陶器也

大井濱、則ち海鼠(ナマコ)海松(ミル)有り。又陶器(スエキ)を造れる也。

  • 大井浜に海鼠がいたことから、この時代に中海は塩水であったことが解る。
  • 造陶器…かつて岩汐谷に窯場があったという。

邑美冷水東西北山並嵯峨南海澶浸中央鹵灠磷男女老少時叢集常燕會地矣

邑美冷水(オウミノシミズ)、東西北は山にして(ミナ)嵯峨し。南は海にて澶浸(ダンシン)す。中央に(カタ)あり灠磷(ランリン)す。男女老少、時に(ムラ)がり集いて常に燕會(エンカイ)する地なり。

  • 邑美冷水…松江市大海崎町の水源。今は目無水(メナシミズ)と呼ばれ、島根の名水百選に選ばれている。地理院地図
    • 「目無水」については「あまりにもきれいで目方が無いほどである」という意味で名付けられたとされているが少々疑問。
      水の重量など濁っていようが透明であろうが大して変わるものではない。
      この場合の「目」は水の湧き出す位置のことで、目無しというのは、湧きだし箇所が一箇所ではなく多数あるか、はっきり定まらないか、そういう意味ではないか思われる。(現在は水源は別途とられ、湧水池は水草などに覆われて確認はできていない)阿蘇の湧水池等考えるとその様に思われる。
    • 「邑美」というのは地名にも残らず良く解らないが、邑が(ムラ)で「集まる」という意味でもあるから、美しい水が集まるという意味を表しているのかも知れない。
      かつて、松平不昧が茶の湯に用いたとも伝えられ、地酒にも使われたという島根の名水百選第一号であるから、今少し注目されても良いと思う。
  • 嵯峨…急峻な様子。
  • 澶浸…なだらかに下り海に接する。という意味であろう。「浸」を「漫」としている古写本があり、「澶漫」で(ヒロシ)と読んでいる。
  • 鹵…字義は岩塩のことだが、ここでは「潟」の音に通じ、湧水池のことを指すのであろう。
  • 灠磷…灠は小さな粒のことで、磷はキラキラ光ること。清水が水泡と共に湧き上がってくる様子を表しているのであろう。
    砂礫とする解釈本もあるが、中央のみというのは解せない。
  • 燕會…宴会の当て字であろう。
    • 燕は早朝電線などに群れ集まり何事かさえずりあう習性がある。その様な様子を模したのであろう。

前原埼東北並巃嵸下則有陂周二百八十歩深一丈五尺許

前原埼(サキハラノサキ)、東と北は(ミナ)巃嵸(ロウシュウ)。下には則ち()有り。周り二百八十歩、深さ一丈五尺許り。

  • 前原埼…出雲風土記抄では
    第2帖24コマで「前原陂周二百八十歩ハ今ノ二百八十間自大海埼東方在上宇部尾所経之磯辺也」
    前原陂(サキハラノヒ)、周二百八十歩は今の二百八十間なり。大海埼より東方、上宇部尾に経る所の磯辺に在る也)
    第2帖25コマで「前原埼東北並巃嵸下ニ則有リト陂云云 是亦大海村ノ中俗ニ呼曰ク蛇角解是也」
    (前原埼東北並巃嵸下に則ち陂有りと云々。是亦大海村の中、俗に蛇角解(ジャノツノトク)と呼びて曰く是也)
    これによれば、現在の松江市大海崎町の大海崎が該当しそうだが陂は不明。地理院地図
    一方、出雲国風土記考証ではp123で「前に、前原埼の條にのべたやうに、下宇部尾と、森山との間、中海に突き出た半島の端である。この半島の東側の端を、今、鷺ヶ鼻とも、サキガ鼻ともいひ、南端を猿ヶ鼻といふ。猿ヶ鼻の沖に黒島又はクソ島という礁がある。元この礁まで陸続きであった。この島より西北二町許りに深い所がある。その邉の海岸が、古の燕喜の地であつたであらう。この邉は今は邉鄙であるが、會で猿ヶ鼻の城もあった。又、松江藩の末期には、下宇部尾の灣は、藩の軍艦の碇泊所として賑はしくあつた」とあり、美保関町の森山・下宇部尾の境の半島としている。地理院地図
  • 陂(ヒ)…(イケ)と傍書
  • 巃嵸(ロウシュウ)…「巃」はけわしい、「嵸」はそびえる。山が急峻な様子。

三邉草木自生涯鴛鴦鳥鴨随時常住陂之南海也

三邉に草木自から(ガケ)(シゲ)る。鴛鴦・鳥・鴨・時の(ママ)に常に住めり。陂の南は海也。

  • 三邉…東西北の三方をさすのであろう。

即陂與海之間濱東西長一百歩南北廣六歩肆松蓊欝濱鹵淵澄

即ち、陂と海の間は濱。東西の長さ一百歩、南北の廣さ六歩。松(ツラナ)蓊欝(オウウツ)する濱なり。(カタ)(フカ)く澄めり。

  • 肆…物が並んでいることを表す。
  • 蓊欝(オウウツ)…蓊は茂る。欝は薄暗い。蓊欝は鬱蒼と茂る様子。

男女随時叢会或愉樂耽遊忘帰常燕喜之地矣

上段の注記に、「会リョウ
レイ
ツカフ・モテアソブ・ヒトリ 使也・弄也、此字」とある。

男女随時(トキノママ)叢会(ムレツドイ)、或いは、愉樂(タノシミテ)遊びに(フケ)り帰るを忘れる。常に燕喜の地なり。

  • 東西北の三方が急峻な山で、南に陂があり、その南に東西に広がる浜があり、更にその南が海という場所である。
    一部に大海崎鼻としている解説があるが、地形的にあり得ない。

蜛蝫島周一十八里一百歩高三丈

蜛蝫(タコ)島、周り一十八里一百歩、高さ三丈

  • 蜛蝫島…現在の大根島

古老傳云出雲郡杵築御埼在蜛蝫天羽合鷲椋持飛燕來止于此嶋故云蜛蝫島今人猶誤栲嶋号耳

古老の傳えて云。出雲郡杵築の御埼に蜛蝫在り。天羽合鷲(アマノハハワシ)()り持ち飛燕(トビ)來たりて此の嶋に止まりき。故蜛蝫島という。今の人、猶誤まりて栲嶋(タクシマ)(ナヅ)く。

  • 杵築御埼…日御碕
  • 天羽合鷲…大鷲のことであろう。他書には「天羽々鷲」
    • 日御碕に鮹がおり、それを大鷲が捕まえてこの島まで飛んできたことから蜛蝫島と呼ぶようになったという。奇妙な話ではある。
      何かの寓話とも考えられる。
  • 飛燕…燕の飛ぶ様子で、この場合かなり素早く飛ぶ様子を指す。((トビ)のことではない。念のため)

土地豊渡西邉松二株以外茅沙薺頭蒿路等之類生靡即有枝

土地豊かに渡り、西の(ホトリ)に松二株あり。以外(ホカニ)、茅・沙・薺頭蒿(オハギ)・路・等之類生い(ナビ)く。(即ち枝有り)

  • 土地豊渡…土地豊沃(土地豊かに(コエ))としている書がある。
  • 沙…沙は小砂のことだが、ここは植物の列挙であるから「莎」(スゲ・ハマスゲ)の事であろう。
  • 薺頭蒿…(既出
  • 路…蕗(フキ)であろう。
  • 即有枝…「即有牧」としている書が多い。「牧」は官営の牧場を指す。が、なぜここに牧を記すのか疑問。
    出雲風土記抄では「即有牧」

去陸三里

陸を去ること三里。

蜛蝫島周五里一百廾歩高二丈

標注古風土記p137の解説に「古寫本には皆、蝫蜛島とあり。内山眞龍の風土記解以後、後に「故云蜈蚣島」とある語より推して、蜈蚣島と改めしものなり。蜛蝫社が、この島にあることを以て見れば、現今人が、江島を大根島の属島と考ふるが如く、古代に於ても、蜈蚣島と蜛蝫島とを合せて、蜛蝫島と云ふこともあり。主島に對して、區別して稱する時に、蜈蚣島といふ事ありしかも知るべからず」とある。
最初の「蝫蜛島」は「蜛蝫島」の誤りであろうが、それは置くとして、
古写本にはいずれも蜛蝫島とあるのを、内山眞龍が後の文から勘案して蜈蚣島と改めたというのである。
これについて栗田は、両方の島を総じて蜛蝫島と呼び、区別する場合に江島を蜈蚣島と呼んだのではないかと推察しているわけだが、本当のところは解らない。というのである。
内田眞龍以後、多くはこの部分を「蜈蚣島」に変えているようである。が、まずは原文通りで読んでおく。

蜛蝫(タコ)島、周り五里一百二十歩、高さ二丈
蜈蚣(ムカデ)島、周り五里一百二十歩、高さ二丈」

  • 蜈蚣島…現在の江島。蜛蝫神社地理院地図がある。主祭神は素盞鳴尊。
    素盞嗚尊を奉るのは、古事記にある須佐之男命と葦原色許男の逸話で須佐之男命の頭にムカデが多数居たという話に関連するのであろうか。
    続日本紀に文武天皇4年(700年)「諸国をして牧地を定め牛馬を放たしむ」とあり、この時蜛蝫島住民は蜈蚣島に強制移住となったといわれる。その際蜛蝫島の蜛蝫神社が蜈蚣島に移されたのではないかとも考えられている。

古老傳云有蜛蝫島食來蜈蚣止居此嶋故云蜈蚣嶋

古老の傳へに云。蜛蝫あり、島に蜈蚣を食へ来たりて此の島に止居(トドマリ)き。故に蜈蚣嶋と云う。

  • 「古老傳云有蜛蝫島蜛蝫食來蜈蚣止居此嶋故云蜈蚣嶋」としているものもある。
    (古老の傳へに云。蜛蝫島に蜛蝫あり。蜈蚣を食へ来たりて此の島に止居き。故に蜈蚣嶋と云う。)
  • 蜛蝫が蜈蚣をくわえて来るというのも奇妙な話で、上記の強制移住の寓話かとも思われる。
    蜈蚣は火傷や切傷に用いる薬でもあるが、忌まれる虫でもある。元の住民にとっては移住者は良悪両面あったことであろう。
    それを蜛蝫が蜈蚣をくわえてきたと表したのかも知れない。
    してみると、先の大鷲が蜛蝫を捕まえて蜛蝫島に飛んできたというのも、鷲をトーテムとする一族に関連する移住話の寓話化なのかも知れない。

東邊神社以外皆悉百姓之家

東辺の神社以外皆悉く百姓之家

  • 東邊神社…蜛蝫神社のことだが、現在地より南東、若宮畑(渡上)に元社地があったという。
    江島は風土記の時代から長年に渡り東方・北方に埋め立てが行われ、現在では往時の5倍以上の広さとなっている。

土体豐渡草木扶踈桑麻豐富

土体(ツチ)豐かに渡り、草木扶踈(フソ)し、桑・麻豐富なり。

  • 扶踈(フソ)…扶は広がる。踈はまばら。「扶踈」で、まばらに広がる。「扶」を「枝」としている書もあるが疑問。
    • 「扶疏(フソ)」としている書がある。疏は枝分かれであるから、枝分かれして広がるという意味になり、意味が違ってくる。
      「扶疏」は陶淵明の詩に例がある。
  • 大根島と江島は共に大根島火山による玄武岩質の緩やかな溶岩台地で、土は火山灰のため特有の植生があった。
    長年に渡り川藻などを採集し土に鋤込み農地作りに苦心して来たらしい。江戸期より土質に合う牡丹と高麗人参の栽培が盛んになった。
    蜛蝫島で「土地豊渡」蜈蚣島で「土体豐渡」と原文にあるが、この「渡」を「沃」としている書がある。「渡」は火山灰土が広がっていることを指しているのだと考えられ、「沃」とするのには疑問がある。沃は肥沃の沃で、土壌の性質が肥沃という意味になるが、大根島や江島の歴史を見ると、決して土地が肥沃であったのではなく、大変な苦労を重ねて農地を育て続けて来た事が窺えるからである。出雲風土記抄では共に「渡」

此淵所謂嶋里是

此淵所謂(イワユル)嶋の里是なり

  • 此淵(コノフチ)…直接には意味がとりがたい。為に「此則」としている書がある。これは風土記内の用例を参照して改めたものらしい。内山眞龍は「此洲」と解している。出雲風土記抄(第2帖20コマ)では「渕所謂嶋里是矣」
    「淵」は水の集まるところ、転じて物の集まるところと云う意味がある。ここの場合、人の集まる所という意味で「淵」を用いたのだと考え得る。それであれば後の「嶋里」に繋がり理解できる。
    又風土記時代の蜈蚣島は、東側に入江があり、その付近に人家が集まっていた様であるから、淵というのは、この入江を指していたのかとも思われる。
    (天平五年(733年)出雲風土記編集)
    http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/mukadejima.jpg
    • (閑話)島の形が蜈蚣の頭に似ているから蜈蚣島と呼ばれたという逸話もあるが如何に。
      ならば蜛蝫島は蜛蝫に似ているのか、というとそうでもない。

(白井文庫k18)
http://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-18.jpg

──────────
去津二里
一百歩
即自此嶋達伯耆國郡内夜見嶋磐石二
里許廣六十歩許乘馬猶往來鹽滿時深二尺五
寸許塩乾時者已如陸地和多太嶋周三里二百廾歩
有椎海榴白桐松芋菜
薺頭蒿落都波猪鹿
去陸渡一十歩不知深浅美佐嶌
周二百六十歩高四丈有椎模芳葦
蒿落都波猪鹿

戸江剗郡家正東廾里一百八十歩非島陸地濱耳伯耆郡
内夜見島將相向之間也

栗江埼相向夜見島没戸
渡二百一十六歩

埼之西入海堺也凡南入海所在雜物入鹿和爾
鯔須受枳近志呂鎭仁白魚海鼠鰝鰕海松等之
類至多不可令名
-----
北大海崎之東大堺也猶自西
行東
鯉石島生海
丈嶋
宇田
比演廣八十歩捕志
毘魚
盗道濱廣八十歩捕志
毘魚
澹由比濱廣
五十歩捕志
毘魚
加努夜濱廣六十歩捕志
毘魚
美保濱廣一百
六十歩西有神社北有百姓
之家捕志毗魚
美保埼用壁崎
[山/罪]定岳
等々島禺々
當位

久毛等浦廣一百歩自東行西
十舩可曹
黒島生海
這田濱
長二百歩比佐島生紫菜
海藻
長嶋生紫菜
海藻
比賣嶋結嶋門
周二里卅歩高一十丈有松薺頭
蒿郡波
御前小嶋質簡比浦
廣二百廾歩南神社北百姓
之家卅舩可泊
久宇嶋周一里卅歩高七尺有椿
椎白

朮小竹薺頭
蒿都波有
赤嶋生海
宇氣嶋
里嶋
粟嶋周
二百八十歩高一十丈有松芋
方都波
玉緒濱廣一百八十歩
──────────

去津二里一百歩即自此嶋達伯耆國郡内夜見嶋磐石二里許廣六十歩許

(津を去ること二里一百歩)即ち此嶋より伯耆國の郡内夜見嶋に達するに磐石(イワ)二里(バカリ)あり。廣さ六十歩許り。

  • 津…蜈蚣島の入江であろう。
    • 校注出雲国風土記では「美保関町森山辺の港であろう」と注記しているが疑問。
  • 夜見嶋(ヨミノシマ)…今の弓ヶ浜半島であるが、風土記時代は夜見嶋というように島であった。境港市に「渡」という地区があり、ここが蜈蚣島への渡場であったのであろう。(弓ヶ浜が陸続きの半島となったのは平安中期以降と考えられている)
    • ソニーエンタテイメントがホラーゲームSIREN2の中で架空の島「夜見島」というのを(ヤミシマ)と読んでいるが、紛らわしい名付けである。所詮架空ならそれ相応の名付けをすべきである。歴史性に対する配慮・敬意が無いと云わざるを得ない。

乘馬猶往來鹽滿時深二尺五寸許塩乾時者已如陸地

馬に乗りて猶往來す。(シオ)滿つる時は深さ二尺五寸許り、塩()く時は(スデ)陸地(クガ)の如し

  • 深二尺五寸許…約75cm
    • 夜見嶋から蜈蚣島へも、蜈蚣島から蜛蝫島へも浅瀬を利用して馬で往来できたようである。
      蜛蝫島に「馬渡」という地名があるのはその名残であろう。

和多太嶋周三里二百廾歩

和多太嶋、周り三里二百二十歩

  • 和多太嶋(ワタタシマ)…美保関町下宇部尾にある。
    ・出雲風土記抄では「今曰和多太埼」(今に和多太埼という)
    ・出雲国風土記考証に「今は和多々岬という半島になつて居る。下宇部尾の西南、手角の東南にある。」とある。
    ・校注出雲国風土記では「八束郡美保関町下宇部尾の和田多鼻」と注記。
    現在美保関中学校のある場所の南の辺りであろう。地理院地図

(「出雲国絵図」推定天保年間1830~1844/島根大学附属図書館桑原文庫)
http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/watata.jpg
地図上では「和多田鼻」とある。

  • 出雲で正確な地図が作られるようになったのは、他国と同様に伊能忠敬がこの地を訪れたことに刺激されて以降の事らしい。
    残念ながら火災や震災により伊能図の原図は残っていないが、写しは残っている。
    伊能図は、香取市佐原の伊能忠敬記念館に出かけた際初めて見たが、瀬戸内の厳島や可部島などを正確に記してあったことに驚嘆した。(可部島というのは厳島の南西にある無人の小島)
    伊能図は国土地理院の古地図コレクションで写しを見ることが出来るが、上に掲載した地図は伊能図に酷似しており、伊能図を模写し加筆したものと推察できる。
    天保年間と推定しているのも、忠敬がこの地を訪れ、全国測量を終えた後の頃のものと考えたからであろう。
    出雲地方部分に関しては伊能図でも上記掲載地図以上の情報は得られなかった。
    又、次の美佐嶋に該当しそうな場所は見当たらなかったので、既に1800年代には和多太嶋同様、島としては存在していなかったのだろうと考え得る。
    尚、忠敬の測量技術は帝国陸軍測量部に継承され、朝鮮半島や中国大陸などアジア各地の正確な地図作りに引き継がれた。
    国土地理院はさらにその後を引き継いでいる。
    出雲国風土記には里程が色々記されているが、正確な地図のない時代の里程は参考程度に留めている。
    方位は比較的正確であろうと考えるが、三角測量も行われていない時代、車輪回転数で測ったのであろうかと思うが、直線以外では曖昧さが残る。(無論服部旦氏等の実地調査には敬意を表する)

有椎海榴白桐松芋菜薺頭蒿落都波猪鹿去陸渡一十歩不知深浅

  • 「落」は「蕗」に改める。

(椎・海榴・白桐・松・芋菜・薺頭蒿・蕗・都波・猪・鹿有り)陸を去ること渡り一十歩。深浅を知らず

  • 芋菜(イエツイモ)…里芋の古名
  • 不知深浅…島に渡る瀬の深さが解らない。おそらく干満はあるにせよ歩いて渡ることが出きる程度の浅瀬だったのであろう。

美佐嶌周二百六十歩高四丈有椎模芳葦
蒿落都波猪鹿

  • 「嶌」は「嶋」の異体字

美佐嶋、周り二百六十歩高さ四丈(椎・模・芳・葦・蒿・落・都波・猪・鹿有り)

  • 有椎模芳葦蒿落都波猪鹿…他書では「椎橿茅葦都波薺頭蒿」とある。前文の「蒿~」以下と同文なので書き誤ったのだと思われる。
  • 美佐嶋…周260歩=460m、高4丈=40尺=12m
    ・出雲国風土記考証に「和多々鼻より東十三町の所にコブチノ鼻という岬がある。その半島が昔は島であつたらう。」とある
    ・校注出雲国風土記では「和田多鼻東南の和多鼻」と注記。
    古地図に記載が無く、大きさと高さから類推するに、現在の美保関中学校の東方で今は陸続きとなっている丘陵部かと思われる。地理院地図

戸江剗郡家正東廾里一百八十歩非島陸地濱耳伯耆郡
内夜見島將相向之間也

戸江剗(トノエノセキ)、郡家の正に東二十里一百八十歩(島に非ず。陸地の濱のみ。伯耆郡の内なる夜見島に相向の間也)

  • 戸江剗…夜見島と美保郷との間の境水道に置かれた監視所。現在の境港市に外江(トノエ)と云う地区があり、その対岸と一体で監視にあたったと考えられる。
    サルガ鼻洞窟住居跡の北、今「福島造船」のある場所がかつては入江であり古関という地名であったことから、ここが戸江剗であろう。地理院地図
    ・出雲国風土記考証p121で「今の夜見濱の外江の西北端より西北に當りて~」と記している。
    古関には美保神社があったらしいが、森山(南甫)の横田神社に合祀されている。

栗江埼相向夜見島没戸
渡二百一十六歩
埼之西入海堺也

  • 没戸は促戸に改める。

栗江埼(夜見島に相い向い、促戸渡(セトノワタシ)二百一十六歩)埼の西は入海の堺也

  • 栗江埼(クリエザキ)…美保関町森山の南端部であろう。
    出雲風土記抄第23帖25コマに「又栗江郷云々二百一十六歩ハ者今ノ三里六町弐六間亦三保郷森山ト与伯耆国弓濱ノ中戸江村渡口也」
    (又栗江郷云々二百一十六歩は今の三里六町二十六間、亦三保郷森山と伯耆国弓濱の中戸江村の渡し口也)とある。
    境水道を古くは中江瀬戸と呼んでいたがこの中江は、風土記抄の中戸江村にあたり、今の境港市元町辺りを中心としている。
    その東端は現在境水道大橋の掛かっている岬町辺りであった。
  • 没戸渡…促戸渡、出雲風土記抄他、他の古写本では「促戸渡」となっている。
    促戸の渡しは、境港側が外江町、美保郷側がその対岸で横田神社のある森山地区であった。

凡南入海所在雜物入鹿和爾鯔須受枳近志呂鎭仁白魚海鼠鰝鰕海松等之類至多不可令名

(オヨ)そ南の入海に在る所の雜物(クサグサノモノ)は、入鹿(イルカ)和爾(ワニ)(ボラ)須受枳(スズキ)近志呂(コノシロ)鎭仁(チヌ)・白魚・海鼠(ナマコ)鰝鰕(エビ)海松(ミル)等の類。至多(イトサワ)にして、名をつくすこと不可。

  • 入鹿(イルカ)…イルカは古来貴重な食糧として食用されてきた。水族館で飼育されているのは大抵おとなしく飼育しやすいゴンドウイルカであるが、海ではマイルカを見ることが多い。ここに記された入鹿は特に種類を特定したものではないと思われる。
    イルカを海豚と記すようになったのは明治以降である。
    尚、中海では現在でもイルカが目撃されることがあるらしい。
    • 近年クジラに続きイルカ漁に反対する輩が居る。民族の食文化に対する干渉だが、自分たちの肉食文化をさておいて、他民族の食文化を非難するというのは、批判にもならない。自身の愚昧さを顕わにしているだけである。
      北極圏に暮らすイヌイットはアザラシを食用とし、オーストラリアに暮らすアボリジニはカンガルーを食用としている。
      他に昆虫を食用とする文化も世界各地にある。、
      その土地に暮らす民族が生きるために培ってきた食文化を非難・否定することは愚者の無知で傲慢な行為でしかない。
      日本では明治以前牛を食用にはしてこなかった。牛は役牛として家族同然に飼われていたからである。
      「牛は殺されることを感知すると涙を流しながら悲しい声で啼く」知っているのか??
  • 鯔(ボラ)…校注出雲国風土記では(ナヨシ)と読んでいる、(ナヨシ)は(ボラ)の若魚を指す。
    • (ナヨシ)「名吉」はボラの若魚(イナ)が「否」に通じることから呼び変えたと云われる(伊勢方面)。
      出雲で(ナヨシ)という呼び方をするかどうかは不詳。広島・山口では聞いたことがない。
      (イナ)は(イナセ)の語源で(イナ)が水面近くで背を見せて元気良く泳ぐ姿「鯔背(イナセ)」を指して用いられるようになった言葉。
      髪型が似ていたからという説もある。
      (イナ)を(ナヨシ)と言い変えたのでは、「粋でいなせ」という表現が意味を持たなくなる。(→「粋でなよしせ」??)
      いずれにせよ、ボラをここでその若魚名で読む理由はない。
  • 須受枳(スズキ)…鱸。いわゆる出世魚で成長に連れ呼び名が変わるが、個人的には若魚をセイゴと呼ぶ以外は知らない。
  • 近志呂(コノシロ)…子の代。若魚をコハダと呼ぶ。他にも呼び名があるようだが個人的には記憶がない。
    • 伯父が魚屋で、幼い頃から広島草津の魚市場に頻繁に連れて行かれ、割と身近に接してきたが、スズキにせよコノシロにせよ、上記以外の呼び方を聞いた記憶がない。魚の呼び名には地域性が強いのであろう。
  • 鎭仁(チヌ)…黒鯛(クロダイ)のこと。(チヌ)は「海鯽」「茅渟」とも記す。
    「鎭仁」は当て字と思われるがこれを(チニ)と読んでいる書もある。当て字を文字通りに読むのは危ういので、ここでは(チヌ)と読む。
    • 今は殆ど埋め立てられてしまったが、大阪湾のことを古代において「茅渟の海」と呼んでいたのは(チヌが居る海)と云う意味であろう。
      中国地方では縦縞のあるものをチヌと呼び、はっきりしないものをクロと呼び分けていたりする。老成するに従い縞ははっきりしなくなる。クロよりチヌの方が美味として好まれる。
  • 白魚(シラウオ)…河口で獲れる小魚。素魚(シロウオ)と似ているが別種。
    共に河口付近に据えた「四手網」という独特な網を上下させて獲る。
    • 広島では五日市の八幡川や玖波の恵川で四手網が据えられた風景が見られた。山口では萩の橋本川で見ることが出来る。
  • 海鼠(ナマコ)…赤海鼠と青海鼠に分けられ、なぜか赤海鼠の方が珍重される。他に黒海鼠もいるが少ない。
    海鼠の内臓をコノワタと云い珍味とされる。
  • 鰝鰕(エビ)…鰝(コウ)は大きいという意味を表す。ここでいう(エビ)は「大エビ」即ち「伊勢海老」のことを指す。
    伊勢海老と呼ぶようになったのは室町中期から。伊勢からの出荷が盛んに行われるようになった事による。
    • 昨今大エビと称するのは輸入物のブラックタイガーのことで漢字では「牛海老」。

北大海崎之東大堺也猶自西行東

北は大海。崎の東は大堺也。(猶西より東に行く)

  • 北大海…島根半島の北が日本海であることを指す
  • 埼之東大堺也…「埼」は栗江埼を指すのであろう。
    出雲風土記抄第2帖21コマでは「埼之東大堺也」となっており白井文庫本と同じである。上田秋成書入本19コマも同じ。
    標注古風土記p141・出雲国風土記考証p128・校注出雲国風土記p120・風好舎敬義本027コマ・訂正出雲風土記上巻p30はいずれも「埼之東大海堺也」(埼の東は大海の堺也)としている。
    • 大堺と大海堺では、意味するところが違う。大海堺(オオウミノサカイ)では地理的境界を表すだけだが、大堺(オオサカイ)は更に人の住む世界と住まない世界の境界を象徴する。
      夜見嶋という呼び名は、そういう世界観を指す表現であるから、「大堺」が正しいと考える。
      ついでに、今の境港はここでの「堺」から来ている地名であろう。いみじくもこの地の出身者水木しげるが妖怪世界を漫画化したのもこの地で培われた異界との関わりに関する何かがあったのであろう。

鯉石島生海藻丈嶋議毘宇田比演廣八十歩捕志毘魚

鯉石島(海藻生う)丈嶋(議毘)宇田比演廣八十歩(志毘魚を捕る)

  • この部分諸説ある。
  • 出雲風土記抄第2帖26コマに「鯉嶋大島ノ両嶋ハ者共ニ在三保郷福浦ニ宇毗濱亦同処ノ長海ノ之事也」
    (鯉嶋大島の両嶋は共に三保郷福浦に在り。宇毗浜は亦同所の長海の事なり)とある。
  • 鯉石島…福浦ののやや西方沖に鯨岩(鯨島)地理院地図というのがある。鯨が岩になったと伝えられているが、鯉の姿にも見える。
    海水域に鯉というのも奇妙なので、或いは元の文では「鯨石島」であったのかも知れない。
    ・出雲国風土記考証では、野島としている。
    ・校注出雲国風土記では、森山海岸の入道礁(ニュウドウクリ)としている。
  • 海藻…若布(ワカメ)のこととされる。
  • 丈嶋…丈は長さの単位。10尺=約3m余り。「大島」と記している書が多い。大岩ならともかく境水道に大島と呼ぶほどの島は無い。
    長浜東方に男女岩(恵比須岩)地理院地図と呼ばれる岩礁があり、これを指すのかも知れない。
  • 議毘…議ははかる。毘は並ぶ。議毘というのは岩が並んで話でもしている様な姿を表しているのであろう。「磯」と記す書もあるが、出雲風土記抄では本文第2帖21コマで「大嶋議毘」としている。
    ・出雲国風土記考証では「大島 磯」と記し、森山のミヤノハナとしている。
    ・校注出雲国風土記では「大島 磯」と記し、北国倒としている。
    北国倒しというのは北前船を倒すという意味の岩礁・浅瀬のことで、かつて境水道には岩礁や浅瀬が多く、不慣れな場合座礁転覆する船も多かった。今は浚渫により除かれている。岩礁の中には灯籠を設えて今に残るものもある。上の地図で森山郷の南に「北国タヲシ」とある。磯というのは海岸の波打ち際にある岩場を指すから北国倒では違和感がある。
  • 宇田比演…演は濱であろう。田比は毗(毘)で宇毘(ウビ)、或いは宇由比(ウユヒ)で、今の宇井地理院地図と思われる。
    宇井は森山郷内であるが、福浦郷内とされた頃もあった。
    出雲風土記抄では本文第2帖21コマで「宇由比濱」と記している。解説文では上記26コマにあるように「宇毗浜」と記しているから多少混乱がある。
  • 志毘魚(シビウオ)…鮪・宍魚とも記す。マグロ特にクロマグロの成魚を指す。若魚はヨコワ或いはメジと呼ぶ。
    マグロ(眼黒・真黒)と呼ぶようになったのは江戸期から。シビが死日に通じ武士に嫌われたからと云う。
    「志毘」の語義は不明だが、「鮪」は「有」が供えるという意味で、祖霊に供える魚という意味を表し、「宍魚」はイノシシの肉に似た赤身肉の魚という意味を表している。
    マグロはかつて、傷みが早く保存も効かず、すぐに味が落ちてしまう為好まれず、下魚とされることがあった。
    北大路魯山人などは酷評している。(魯山人の評論自体愚説でしかないが)

盗道濱廣八十歩捕志
毘魚

盗道濱、廣八十歩(志毘魚を捕る)

  • 盗道濱(トウヂハマ)…八十歩=150m弱
    古写本は全て「盗」を用いているにも関わらず、「盗」を「鹽(塩)」の誤りとし、「鹽道濱」は福浦だとする説が広まっているが、根拠が解らない。訂正出雲風土記(上巻p31)の影響と思われるから、内山眞龍がそういう説を唱えてそれを真に受けたのかも知れない。
    単に「盗」の字を嫌ったのであろうと思われるが、「盗」は共同体秩序から離れた圏外を表す語であり「盗道」というのは正規の道から外れた「間道」「近道」を意味する。
    つまり、山際に沿ってぐるりと廻るのが正規の道なのだが、海沿いに浜がありそこを通ると近道になる。それを「盗道濱」と呼んだのである。
    ・出雲風土記抄第2帖26コマに「盗道濱ハ三保関ト与福浦之中路也」(盗道浜は三保関と福浦の中路なり)とある。
    これより福浦ではないことが解る。
    三保関と福浦の間で、その様な浜を探すと、廣八十歩と捕志毘魚の記述を勘案し釣りに良さそうな岩場のある「風ヶ浦」が該当するように思う。
    • 現在は、陸路で美保関に行くのに海岸線沿いに県道2号線が整備され、通行し易くなっているが、以前はなかなか大変な道であった。
      今の海岸風景から、風土記の時代に思いを寄せるのはかなり困難となっている。

澹由比濱廣五十歩捕志毘魚加努夜濱廣六十歩捕志毘魚

澹由比濱、廣五十歩(志毘魚を捕る)。加努夜濱、廣六十歩(志毘魚を捕る)。

  • 出雲風土記抄第2帖26コマで「澹毘濱加努夜濱是亦同ジ于上ニ」(澹毘濱、加努夜濱、是また上に同じ)とある。
    「是亦同于上」は、直前の文にある「三保関ト与福浦之中路也」を指すのであろう。
    澹毘濱は(タビハマ)と読むのであろうか。
  • 澹由比濱(タユヒハマ)…校注出雲国風土記・出雲国風土記考証共に長濱と推察している。が少々疑問が残る。廣五十歩=90(m)弱よりかなり大きく、東西長浜合わせると300(m) ばかりある。
    東長浜の集落と西長浜の集落との間の部分が長浜で、それを澹由比濱と呼んだのであるとすれば理解できる。
    ところで「澹」は穏やかな様子を表し、元は深い入江であったことを推察させる。
    今は造成され斎場が作られており様子が変わってしまっているが「玉井」を別候補として上げておく。
  • 加努夜濱(カヌヤハマ)…校注出雲国風土記・出雲国風土記考証共に海崎と推察している。

美保濱廣一百六十歩西有神社北有百姓之家捕志毗魚

美保濱、廣一百六十歩(西に神社有り。北に百姓の家有り。志毗魚を捕る)

美保埼用壁崎[山/罪]定岳等々島禺々當位上嶋

  • [山/罪]は嶵(サイ・スイ・ズイ)の異体字

美保埼(用壁崎嶵定岳)。等々島(禺々(トド)常におり)。上嶋(礒)

・出雲風土記抄第2帖26コマ
「三保濱廣一百六十歩ハ者今ノ二町四十間則三保ノ関村有リ三保ノ三社三保埼ハ者亦三保ノ地藏埼也等々(シシ)嶋ハ者従三保濱十八町許リ在東ノ海中ニ俗呼曰嶋神ト蓋シ事代主命逍遥ノ処見タリ事于前土嶋ハ者是亦在地藏埼ノ之磯辺ニ俗曰赤嶋也」
(三保濱廣一百六十歩は今の二町四十間。則ち三保の関村、三保の三社有り。三保埼はまた三保の地藏埼なり。等々嶋は三保濱に従う。十八町許り。東の海中に在り。俗に呼びて嶋神という。けだし事代主命逍遥の処なる事前に見たり。土嶋は是れまた地藏埼の磯辺に在り。俗に赤嶋というなり。)

  • 本文の「美保」を解説で「三保」と変えている理由は不明。
    又、「事代主命逍遥処見事于前」とあるのは第2帖5コマの美保郷解説部分を指す。
  • 美保濱…今の美保関。(西有神社)は「美保神社」
  • 美保埼…美保神社飛び地境内として「地の御前」と呼ばれ、遙拝所として鳥居が建てられている(1973年建立)。美保関灯台から徒歩で行ける。
    今は「地蔵崎」と通称される。これは漁師が航海の安全を願い地蔵像を建てた事による呼び名。
    沖合300(m) には岩礁があり、それが「地の御前島」地理院地図と呼ばれる。「地の御前島」は4つの岩場から成り、四之御前(四柱の神様)とされる。(御前というのは神様のこと)四柱の神格については異同があるが、近年は事代主命の妻子とされている。
    更に沖合4(㎞)には「沖の御前島」地理院地図という岩礁があり、ここは事代主命が鯛釣りをしていた場所とされる。
  • 用壁崎嶵定岳…この部分要小考。「用壁崎」(ヨウヘキザキ)・「嶵定岳」(サイジョウダケ)が共に元々の固有名詞とも考えられる。というのも、「地蔵崎」等の呼び名は仏教伝来以後の呼び名であるからである。
    古写本にはいずれも上記のように記されているにも関わらず、これを「周壁峙嶵嵬岳」の誤記として((メグ)壁峙(ソバダ)ちて、嶵嵬(サガ)しき(ヤマ)なり)としている説が流布されている。(出雲国風土記考証・校注出雲国風土記)
  • 等々島…普通にはトドシマ。海馬(トド)がいる事からの名付けであろう。
    「地の御前島」のこととされる。
    ・出雲風土記抄では本文(21コマ)で「[草冠/寺]々嶋(禺々當立)」と記し、解説(26コマ)で(右にシシジマ・左にススジマ)とルビを振っている。
    ・校注出雲国風土記p32では「地の御前島」と脚註。
    ・出雲国風土記考証p130では「沖ノ御前」の事としている。
    • 等々島(トドシマ)にたいし志々島(シシジマ)という対比的呼び方があり、この場合、「等々島」が「沖の御前島」、「志々島」が「地の御前島」とされる。出雲風土記抄解説のルビは、これを指しているのかも知れない。
    • 地蔵崎北西方向海沿いに「殿島」と呼ばれる岩場があり、個人的にはここが「等々島」ではないかと推量している。
      海馬(トド)が群れをなしてやって来て昼寝するには良さそうな場所に思える。
    • 尚、ここにトドと呼ぶのは(ニホンアシカ)のことで明治初期には日本海沿岸で数十万頭生息していたと云われるが、明治・大正期に乱獲され今では既に絶滅したのではないかと危惧されている。
      アシカ(葦鹿・海驢)とトド(胡獱)はかつては共にトド(海馬)と呼ばれ区別は曖昧であった。
      ちなみに戦後韓国に占拠されている竹島はかつてはニホンアシカの繁殖地であり、島根の漁民がアシカ漁を行っていた。
  • 上嶋…「沖の御前島」のこととされる。かつてここには立岩があり、そこに注連縄を飾り祭祀が行われていたそうだが、波浪で倒壊したという。
    ・出雲風土記抄の本文(第2帖21コマ)では「土嶋」と記している。
    ・校注出雲国風土記p32では「土島」と記し、「沖の御前島」と脚註。
    ・出雲国風土記考証p130では「土島」とし、「地ノ御前」の事としている。

・出雲国風土記考証p130で「訂正風土記に、志島と誤って居るわけは、風土記鈔に「今俗に赤島といふ」とある其の「赤」の字を、風土記解に「志」の字に見誤り、その音をとりて土を士にしたのを、訂正風土記が其の誤りを踏襲したものである。」
と記している。出雲国風土記考証では、「上嶋」を「土島」とし、「地ノ御前」の事としているので、そこから既に誤っているのだが、その位にこの部分は混乱がある。

  • 「土嶋」という表現はそもそも訝しい。荒波の打ち寄せる日本海沿岸で「土の島」等というものは信じがたい。
    あり得るとすれば「土色の島」で、この意味で「赤島」と呼ぶのなら理解できる。

再度記しておくと
「地の御前嶋」は地蔵崎沖合300(m) にある岩礁。4つの岩場からなる。
「沖の御前嶋」は地蔵崎東方沖4(㎞)にある岩礁。(上嶋と推定される。神島)

  • ついでに、出雲風土記抄解説にある「土嶋」=「赤嶋」は地蔵崎北側の海沿いにある「黒瀬」という岩場ではないかと個人的に推量している。
  • 内山眞龍出雲来訪で、出雲国風土記解釈理解も随分影響を受けたようである。その影響が顕著なのが美保郷・美保神社であろう。
    美保神社では祭神の変更、祭事の創作など色々行われている様に思われる。
    国学の影響を受け、古事記との整合性をとろうとして、素朴な風土記の解釈が伊勢神道の影響を受けるようになったように見える。それを出雲で押し進めたのが千家俊信で、高天原系祖神を持つ立場として風土記の独自解釈・改変など加えたようであり、それが今に影響を及ぼしている。
    それは大己貴神を信頼し、又大己貴神にも信頼され祭祀を委ねられた天穂日命の系譜が、大己貴神から離心していく様に見える。
    幸い、俊信は国造を継がなかった故、国造祭祀の改変までには到っていないであろう。
    美保関が事代主命と深く関わるように考えられるようになったのは、古事記の出雲国譲りの話からであり、江戸期の恵比須・大黒の信仰流布と共に、西の出雲大社・大国主の大黒天に対し、東に美保神社・事代主の恵比須を置くようになった事による。
    そして、国譲りに反対したとされる武御名方神(御穂須須美命)は遠ざけられたのであろう。

「美保埼俯瞰」地理院地図
http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/mihonoseki1.jpg

久毛等浦廣一百歩自東行西十舩可曹黒島生海藻

久毛等浦、廣一百歩(東より西に行く。十(ソウ)(ソウ)すに可)。黒島(海藻生えり)。

  • 久毛等浦(クモトウラ)…雲津浦とされる。
    ・出雲風土記抄第2帖21コマ本文で「久毛等浦廣一百歩(自東行西十舩可泊)」26コマ解説で「久毛津浦廣一百歩ハ今ノ一百間俗作ル字ヲ於雲津ニ」
    ・標註古風土記p145で解説に「久毛等の浦。廣さ一百歩。(東より西に行く。十の船泊てつべし)」とある
    ・校注出雲国風土記p32で「久毛等(クモト)浦。廣さ一百歩あり。東より西に行く。十の船()つべし。」とあり、脚注で「同町雲津浦」と記している。「同町」は美保関町。
  • 十舩可曹…「舩」は「船」の異体字。「曹」は白川静「字統」の説明から(友がら、又、入れ物に入れる事)。即ち「十艘の船を碇泊させる事ができる」の意味。
    • 思うに、元字は「曹」であったものを、字義が難しく解りにくい為に、「泊」に変えたものが流布したのであろうと思われる。
      元字が「泊」であったものを、白井文庫でわざわざ「曹」に変えたとは考え難い。白井本はこの例でも解るように、誤写もあるが古風を伝えている部分も多い。
  • 黒島…雲津と軽尾との間、竹島北方沖にある黒島。地理院地図航空図
    ・出雲国風土記考証p125で「雲津灣の底より東北、直線十五町許りの處にあつて、今も黒島といふ。島根郡の海岸に、黒島といふ名が數々あるが、それは板岩、又は玄武岩の色の黒きものより成るによつて、黒島と名づけたものである。」とある。妥当。
    板岩は粘板岩のことで堆積岩が変成したもの。
    玄武岩は鉄分を含む火成岩で斑状組織を持つ塩基性岩。城崎の玄武洞にちなんで名付けられた。硬度は比較的高く、六角形の柱状節理になっていることが多い。山陰地方の海岸には多い。
    ・校注出雲国風土記ではp32脚注に「同浦の小青島であろう。」とある。
    これは、出雲風土記抄2帖26コマに「牟黒嶋這田濱比佐嶋長嶋比賣嶋結嶋門御前小嶋此等処々皆徒雲津七類所之之小嶋名也」とあるのを勘案して、雲津から七類の間に「黒島」という名の島がないために「小青島」をあてたのであろうと思われるが、岩の色は見れば解る訳で、「小青島」はどちらかといえば、青みの掛かった白っぽい島であり、誤っていると云わざるを得ない。

這田濱長二百歩比佐島生紫菜海藻長嶋生紫菜海藻比賣嶋結嶋門周二里卅歩高一十丈有松薺頭
蒿郡波
御前小嶋

  • 「郡波」は「都波」に改める。

這田濱、長二百歩。比佐島(紫菜・海藻生えり)。長嶋(紫菜・海藻生えり)。比賣嶋(礒)。結嶋門、周り二里三十歩高さ一十丈(松、薺頭蒿、都波有り)。御前小嶋(礒)

  • 這田濱(ハゥダハマ)…現在の法田港。
    • 法田では、中世疫病が流行り、この為住民が全て今の諸喰港の地に移住したという歴史を持つ。
      風土記に諸喰の記述がないのは、当時は諸喰港がまだ無人の入り江だった為であろう。
  • 比佐島(ヒサシマ)
    ・出雲国風土記考証p131「今、和久王島といふ。諸喰湾の灣より、北十町に當る。紫菜はムラサキノリ。海藻は今いふ所のメノハである。」和久王の久が比佐に通じるとの推察であろうが疑問。
    ・校注出雲国風土記p32脚注「同法田湾の平島であろう」とある。法田湾の平島というのがどこを指すのか不明。法田平島のことであろうか。とすれば、記述順が飛びすぎている。平が比佐に通じるとの推察であろうが疑問。
    • 「比佐島」は今の「高場島」と推量。この地区入江の中心地であるから第一に記したのであろう。
  • 紫菜(シィサイ)…海苔の古名。
  • 長嶋
    ・出雲国風土記考証p132「今、高場島といふ。和久王島より南々西四町に當る。」とあるが、長島という形状ではない。
    ・校注出雲国風土記p32脚注「同湾の松島であろう」同湾というのは法田湾。地図に「松島」とあるのは現地では「市目島」と呼んでいる。
    • 「長島」は「和久王島」と推量。
  • 比賣嶋
    ・出雲国風土記考証p132「法田の北の半島の百十メートル標高點より東北へ直線六町の處にある。五萬分一圖に市目島とあるは、ヒメの訛音フメを布目と書き、それを市目に誤つたものか」
    ・校注出雲国風土記p32脚注「松島北方の市目島であろう」
    地図に「市目島」とあるのは、現地では「沖市目島」と呼んでいる。
    • 「比賣島」は「松島=市目島」と推量。岩礁の集まりであり、松島と深辺島を併せて比賣島と呼んでいたと思われる。
      比賣神の誰かを祀っていた事による呼び名と考えられる。
      諸喰の「奢母智神社」の祭神「天久比奢母智神」「国久比奢母智神」であったかもしれない。この二神は水を汲む瓢の神とされているが語呂合わせにすぎず疑問。(又機会があれば改めて記す)
  • 結嶋門(ユイシマノト)
    ・出雲国風土記考証p132「法田の北にあたり、百十メートル高地より東北へ突出した半島をいつたものであらう。直立百二十尺は畧〃本文の高さにかなふ。」
    ・校注出雲国風土記p32「結島門島」と本文に記し(ゆひのしまと)と傍記。脚注で「同湾の青木島であろう」
    • 「結島門」は「青木島」と推量。尚、ここは半島ではなく水路があり島である。
  • 御前小嶋(ミサキノコジマ)
    ・出雲国風土記考証p132「法田と七類の間にある百貫島をいふか」百貫島は不明。
    ・校注出雲国風土記p32脚注「同町七類湾東北岬の近くにある宇杭島であろう」
    • 「御前小嶋」は地図に記された「市明島」=「沖市目島」と推量。比賣島の御前にある事からの呼び名であろう。

「地理院地図航空図(法田港周辺)」
http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/haidahama.jpg

質簡比浦廣二百廾歩南神社北百姓之家卅舩可泊久宇嶋周一里卅歩高七尺有椿椎白朮小竹薺頭蒿都波有

質簡比浦、廣さ二百二十歩(南に神社、北に百姓の家、三十舩の泊り可)。久宇嶋、周り一里三十歩高さ七尺(有椿・椎・白朮・小竹・薺頭蒿・都波有り)。

  • 質簡比浦…今の「七類浦」を指す。地理院地図航空図
    「簡」は[竹冠/開]で(本ノ侭)と傍書されている。「簡」の門構えの内は本来「日」ではなく「月」であるから、「月」であったのかも知れない。語義は隙間。「質簡比」は(シチカヒ)と読んでいたのであろうか。この件不明。
    ・出雲風土記抄も第2帖21コマ本文で同様に「質簡比浦」と記している。
    ・出雲国風土記考証では「質留比浦」
    ・校注出雲国風土記では「質留比浦」
  • 久宇嶋…今の「九島」。七類湾北に位置する。

この次に、出雲風土記抄第2帖21コマでは「加多比嶋」と「屋嶋」を記しており、
出雲国風土記考証・校注出雲国風土記では共に、「加多比嶋」と「屋嶋」の間に「船島」を記している。
一応整理しておく。

加多比嶋船島屋嶋周二百歩高廾丈有椿杉薺頭蒿

加多比嶋(磯)。船島(磯)。屋嶋、周り二百歩高さ二十丈(椿・杉・薺頭蒿有り)

  • 加多比嶋…今の「片島」であろう。九島の東側にある。
  • 船島…「船島」であろう。片島の北側にある。
  • 屋嶋…今の「八島」であろう。赤島の西側にある。「杉」を記しているのは少々疑問。

赤嶋生海藻宇氣嶋同前里嶋同前粟嶋周二百八十歩高一十丈有松芋方都波

赤嶋(生海藻)。宇氣嶋(同前)。里嶋(同前)。粟嶋、周り二百八十歩高さ一十丈(有松芋方都波)。

  • 赤嶋…今の「赤島」。九島の西側にある。
  • 宇氣島…今の「宇杭島」。法田と七類の間にある。
    ・校注出雲国風土記p33脚注では「八島西方の押島であろう」としているが、これは先に「御崎小嶋」を宇杭島にあてた為に生じた連鎖的誤りであろう。
    ・出雲国風土記考証では「宇杭島」としている。
  • 里嶋…今の「大黒島」であろう。惣津港の北方1.5(㎞)に位置する。里は黒
  • 粟島…今の「青島」であろう。惣津港の北にある。粟島と記している古写本もある。
  • 有椿椎白朮小竹薺頭蒿都波有…少々異同がある。
    ・出雲国風土記考証p133では「有椿椎白朮小竹薺頭蒿都波芋」
    ・校注出雲国風土記p121原文では「有椿椎白朮小竹薺頭蒿都波茅」
    最後の一文字が「有・芋・茅」に分かれているが正誤は不明。「茅」が妥当かとは思うがこのままにしておく。

玉緒濱廣一百八十歩有碁石東邊有
唐砥又石百姓家

「又石百姓家」は「又有百姓家」に改める

玉緒濱、廣一百八十歩(碁石有り、東辺に唐砥有り、又百姓家有り)

  • 玉緒濱…今の玉結浜地理院地図。「緒」は「結」の誤写とも思われる。
  • 碁石…碁の黒石。一盤に使用する黒石は181個である。碁石が採れるというのはただ採れるだけではなく、それを同サイズに揃える精緻な加工技術を持った職人がこの地に居たことを物語る。
    • 碁の黒石は今でも岩石を用いるが、白石はかつては岩石であったが近年は蛤を用いる様になってきた。
      著名なのは那智の黒石と日向の白石。この白石は大蛤を加工して作られる。
  • 唐砥…砥石のこと。砥石用の石は、玉結神社裏手から山越えした浜辺、笹子浦(砥の浦)地理院地図で採れたという。
    • 砥石は金物の仕上げには無くてはならないもので、日本は世界的にも有数の砥石の産地であった。刃物の発達に砥石は大きく関わっている。江戸末期には全国に1000箇所以上の採石場があったという。各砥石にはそれぞれ産地により砥石名が付けられており、唐砥というのは、ここで採れる砥石の呼び名であろう。唐砥を麁砥の誤りという説があるが疑問。(麁砥は荒砥の事)
      現在は人工砥石の開発により自然砥石の利用は少なくなっている。

(白井文庫k19)
http://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-19.jpg

──────────
有碁石東邊有
唐砥又石百姓家
小嶋周二百卅歩高一十丈有松茅薺
頭都波

方結濱廣一里八十歩東西
有家
勝間埼有二窟一高一丈五
尺裏周一十

歩一高一丈五
尺裏周卅歩
鳩嶋周一百廾歩高一十丈有都
波苡

鳥嶋周八十二歩高一十丈五尺有鳴
黒嶋生紫菜
海藻

須義嶋カ濱カ廣二百八十歩衣嶋周一百廾歩高五丈中
鋚南北船猶往來也稻上濱廣一百六十歩有百
姓家

稻積島周卅八歩高六丈有松木
鳥之栢
中鋚南北舩猶
往來也大嶋千酌濱廣一里六十歩東有松林西
方驛家北方

百姓之家即家西北廾九里
廾歩此則所謂廣隱岐国津定矣
如志嶋周五十六歩高三丈

赤嶋周一百歩高一丈六尺
葺浦濱廣一百卅歩
-----
有百姓
之家
黒嶋生紫菜
海藻
龜島
附嶋周二里一十八歩高一丈
有椿松薺頭蒿茅芦都波
也其薺頭蒿者正月元日生長六寸
蘓嶋生紫菜
海藻
中鋚南北船猶往來スル
也眞屋嶋周八十六里高五丈
松嶋周八十歩高
八丈有松
立石嶋瀬埼礒所瀬竒
或是也
野浪濱廣二百
八歩東也有神社又
有百姓之家
鶴嶋周二百一十歩高九丈
間嶋生海

毛都嶋生紫菜
海藻
川來門大濱廣一里百歩有百姓
之家

黒嶋有海
小黒嶋生海
加賀神埼即有窟一十丈許
周五百二歩許東西北道所謂佐太大神之所産生唑
御祖(ミヲヤ)神魂命之御子(ミコ)枳佐賣命(キサメノミコト)クハ吾御子麻須罗神
御子(マサバ)者所ロノ弓箭出マス尒時角弓箭隨
尒時所本ノ侭子詔(ミコニ)レハ者非弓箭擲廢(ナゲステ)又金
──────────

小嶋周二百卅歩高一十丈有松茅薺頭都波

小嶋、周り二百三十歩高さ一十丈(松・茅・薺頭・都波あり)

方結濱廣一里八十歩東西有家

方結濱、廣一里八十歩(東西に家有り)

  • 方結濱(カタエハマ)…現在の美保関町片江。かつては浜が広がっていたという。

勝間埼有二窟一高一丈五尺裏周一十歩一高一丈五尺裏周卅歩

勝間埼、二窟有り(一つの高さ一丈五尺、裏は周り一十歩。一つの高さ一丈五尺、裏は周り三十歩)

  • 勝間埼…高さ一丈5尺(約5m弱)の海蝕洞があると云うことで、今の大崎鼻と思われる。
    校注出雲国風土記ではp33の注で「片江湾西方の岬」と記している。海蝕洞があるにはあるが小さすぎる。

鳩嶋周一百廾歩高一十丈有都波苡

鳩嶋、周り一百二十歩、高さ一十丈(都波・苡あり)

  • 鳩嶋…今の蜂巣島であろう。
  • 苡(イ)…ハトムギのこと。これにより鳩嶋と呼んでいたのであろう。

鳥嶋周八十二歩高一十丈五尺鳴栢あり黒嶋生紫菜海藻

鳥嶋、周り八十二歩、高さ一十丈五尺(鳴栢あり)。黒嶋(紫菜・海藻生う)

  • 鳴栢…良く解らない。他書では「鳥栖(トス・トリノス)」としているものがある。
  • 鳥島…今の鬼島であろう。かつて松の大木があり鳥が留まり易かったのであろう。大正期に切り倒したという。
  • 黒島…今の大黒島であろう。

須義嶋カ濱カ廣二百八十歩衣嶋周一百廾歩高五丈中鋚南北船猶往來也

須義(嶋カ濱カ)廣二百八十歩。衣嶋、周り一百二十歩、高さ五丈。中を(ウガ)ちて南北に船猶往來する也。

  • 須義濱(スギハマ)…今の菅浦であろう。「嶋か濱か」とあるが濱を採っておく。
  • 衣島(キヌシマ)…中が船で通り抜けられるということで、今の木島であろう。通り抜け可能な洞窟がある。
  • 中鋚…読みは(ナカヲウガチ)であるが、ウガツというのはその主語を人として、岩を人為的に加工する事と解すると、理解しがたいものになる。ウガツのは人に限らず、波浪による場合も考えられる。出雲国風土記にはこの表記が3箇所あるがいずれも同様。

稻上濱廣一百六十歩有百姓家

稻上濱、廣一百六十歩(百姓家あり)

  • 稻上濱…現在の美保関町北浦の稲積地区、その東側の浜辺であろう。ここに「伊奈阿気神社」がある。

稻積島周卅八歩高六丈有松木鳥之栢中鋚南北舩猶往來也大嶋

稻積島、周三十八歩、高さ六丈(松木、鳥之栢あり)中を南北に(ウガ)ち、船猶往來する也。大嶋(礒)

  • 稻積島…稲積港にある岩場(馬島マジマと呼ばれる)であろう。元は3つの岩からなる。今は波止として繋がっている。
  • 大嶋…奈倉鼻であろう。今は陸続きになっている。ここに「伊奈頭美神社」がある。
    奈倉鼻の山を稲倉山(古くは稲倉島)と呼び、奈倉鼻はその訛ったものであろう。鼻は岬。
    • 奈倉鼻を稲積島と考える向きもあるが、周三十八歩に合わない。又奈倉鼻を稲積嶋とすると、大嶋に該当する島が不明となる。
    • 一浦に二社あることが古来不明とされて来た。
      「伊奈頭美神社」は元は稻積島自体を祀ったもので、後に稲倉島に移され社殿が造られたのではないかと思われる。
      「伊奈阿気神社」「伊奈頭美神社」というのは一体の神社で、祭礼などは「伊奈阿気神社」で行い、祭礼後の供物を奉ったのが「伊奈頭美神社」であったのではないかと思われる。その後供物は、稲倉山に収められたのであろう。
      稻積というのは、この島に稲を供え、航海の安全を願ったことに由来しているのであろう。
      「稲上・稲積・稲倉」という連なりはこのように理解できる。千酌湾は隠岐航路の地であったわけで、その航海安全がこの地で祈られていたのだと思われる。稻積島から祈念すれば沖合延長上に隠岐ノ島がある。
    • 大嶋は麻仁祖山であるという説がある。麻仁祖山と云うのは「伊奈頭美神社」東方の標高172.1(m) の山。元は真奈佐山と呼んでいた。風土記の時代にここが島であったかどうかは不明。当時麻仁祖山が島であったなら、稻上濱にいたという百姓はどこで農業ができたのであろうかという疑問が生じる為この説は頑じ難い。

千酌濱廣一里六十歩東有松林西方驛家北方百姓之家即家西北廾九里廾歩此則所謂廣隱岐国津定矣

  • 「即家西北」を「即郡家西北」に改める。

千酌濱、廣一里六十歩(東に松林あり、西方に驛家、北方に百姓の家、即ち郡家の西北二十九里二十歩。此則ち、いわゆる廣く隱岐国の津と定むる)

  • 千酌濱…現在の美保関町千酌。
  • 此則所謂廣隱岐国津定矣…「此則所謂所謂度隱岐国津是也」(此則ちいわゆる隠岐国に渡る津是也)としている書がある。

如志嶋周五十六歩高三丈有松赤嶋周一百歩高一丈六尺有松

如志嶋、周り五十六歩高さ三丈(松あり)。赤嶋周一百歩高一丈六尺(松あり)

  • 如志嶋…加志島。笠島。現在の白カスカ島。
  • 赤嶋…現在の黒カスカ島。
    • カスカ島がどういう意味なのかが解らない。笠ヶ島の変化とも思える。

葺浦濱廣一百卅歩有百姓之家

葺浦濱、廣一百三十歩(百姓の家あり)

  • 葺浦濱(フキウラハマ)…今の笠浦であろう。

黒嶋生紫菜海藻龜島同前

黒嶋(紫菜海藻生う)。龜島(同前)

  • 黒嶋…今の津ノ和鼻の沖にある黒島
  • 龜島…校注出雲国風土記では笠浦北方のサザエ島としている

附嶋周二里一十八歩高一丈有椿松薺頭蒿茅芦都波也其薺頭蒿者正月元日生長六寸

附嶋、周り二里一十八歩、高さ一丈(椿・松・薺頭蒿・茅芦・都波ある也。その薺頭蒿は正月元日には生いて長さ六寸なり)

  • 附嶋…現在の築島(ツクシマ)。黒土で土質が良く植物が良く育つ島として知られ、かつては盛んに耕作されていたという。薺頭蒿の生育に触れているのはその為であろう。
  • 高一丈…低すぎるので誤りであろう。実際には78(m) ほどある。

蘓嶋生紫菜海藻中鋚南北船猶往來スル

蘓嶋、(生紫菜海藻)中を南北に鋚ちて船猶往來する也

  • 蘓嶋(ソシマ)…「蘓」は「蘇」の異体字。築島最北端の梶島地理院航空地図。地図では「梶の鼻」と記されているが島であり、通り抜け可能な洞窟がある。
    • 以前は築島東方の「大ぞ島」(地元では大津島(オオヅシマ)・古文献には「皇土島」「大蔵島」)かと思っていたが改める。
      又、築島南端部西の「二つ島」という説もある。(校注出雲国風土記p35の注「築島西南方の小島」というのはこれを指す)

眞屋嶋周八十六里高五丈有松松嶋周八十歩高八丈有松林立石嶋

眞屋嶋、周り八十六歩、高さ五丈(松あり)。松嶋、周り八十歩、高さ八丈(松林あり)。立石嶋(磯)

  • 眞屋嶋(マヤジマ)…築島西方の「横島」であろう。
  • 周八十六里…このように大きな島はないので「周八十六歩」の誤りとみて修正。
  • 松嶋…平田山東端沖の松島
  • 立石嶋…校注出雲国風土記、出雲国風土記考証共に「楯島」と記しているが不明。松島南にある「馬島(マアシマ)」かと思われる。

瀬埼礒所瀬竒或是也

瀬埼(礒所。瀬埼と或るは是也)。

  • 瀬崎…今の瀬崎港。
  • 礒所瀬竒或是也…礒どころ。「瀬竒」は「瀬埼」に同じ。
    岸崎本第2帖k22本文で「礒所瀬埼或是也」(岸崎本=出雲風土記抄/kはコマ)
    上田秋成書入本k20では「礒所瀬埼或是也」
    校注出雲国風土記p123では「礒所謂瀬埼戌是也」(磯、いわゆる瀬埼戌これなり)としている。瀬埼戌(セザキノマモリ)は隠岐への出入り警備所。

野浪濱廣二百八歩東也有神社又有百姓之家

野浪濱、廣さ二百八歩(東に神社あり。又百姓の家あり。)

  • 野浪…今の小波と思われる。208歩=370(m) は野波浜とするには小さい。
  • 東也有神社…「也」は断定の助字として用いられるが、読みは不定なので簡潔にした。(神社有るは東也)でも良いと思うが拘らない。
    岸崎本2-k22で「東[シンニョウ+カ]有神社」。[シンニョウ+カ]は辺であろう。(2-k22は第2帖22コマ)
    上田秋成書入本k20でも「東[シンニョウ+カ]有神社」
    校注出雲国風土記p124で「東邊有神社」(東の邊に神社有り)。
    • 「東辺有神社」(東の辺りに神社有り)。小波では浜の東に神社があり該当するが、野波では浜の西側に神社があるので該当しない。小波にある神社は「奴奈彌神社」で、野波にある神社は「日御碕神社」(雄島から流され遷座)である。
      この事からも、小波が元は野浪=奴奈彌であったことが窺える。ここを誤ると以降の特定も誤り混乱を招くことになる。
      野波にはかつて前田地区(野波郵便局南方)に「須賀保里神社(須賀神社)」が在りこれを指すのではないかという説があるが不詳。
      というか、「須賀保里神社」というのが出雲国風土記に記載されておらず、風土記時代にあったかどうか不明。

鶴嶋周二百一十歩高九丈有松間嶋生海藻毛都嶋生紫菜海藻

鶴嶋、周り二百一十歩、高さ九丈(松あり)。間嶋(海藻生う)。毛都嶋(紫菜・海藻生う)。

  • 鶴島…沖泊の東北沖にある鶴島。地元では「大鶴島」
  • 間島…校注出雲国風土記には「鶴島西方の間島」とあるが、不明。多古鼻北方の「平島」もしくはその南側の島であろうか。
  • 毛都嶋(モツジマ)…今の六ツ島(モチツジマ)

川來門大濱廣一里百歩有百姓之家

川來門大濱、廣さ一里百歩(百姓之家有り)

  • 川來門大濱…
    ・出雲風土記抄2-k28「川來門(カワクルカドノ)大濱廣一里一百歩ハ今の七町四十間是乃加賀浦」
    ・校注出雲国風土記p35脚注「同村加賀浦。川口処(カハクド)の意であろう。
    ・出雲国風土記考証p141「今の加賀浦。カハクトという名は残つて居らぬ。これはクキドノ大濱と讀むべき字を誤ったものであらう。潜戸大明神鎮座の地である。潜戸も古くはクキドであらう。」
    • 「クキドノ大濱」はいかにもこじつけに思える。潜戸に関連付けるなら、潜戸に近い浜を指すべきであろう。
      旧来風土記抄の「是乃加賀浦」の記述を受けて加賀浜とされてきているが疑問。
      加賀浜に違いないという予断を持って読もうとすると誤る。
      記述の順からすると、この後に加賀神崎・潜戸の記述があり、更に加賀浦御嶋の記述が来るのであるから潜戸より東方の浜であり、今の野波浜と思われる。
      野波には「千酌路(チクジ)川」「里路川」という二つの川が流れてきている。
      読みは風土記抄にある(カワクルカドノオオハマ)が正しいと思われる。
      人が暮らすには真水が得られなければならないが、島根半島の日本海側で川が二本流れてきているのはここだけであり、川來門大濱と呼んだ理由も理解できる。

黒嶋有海藻小黒嶋生海藻

黒嶋(海藻あり)。小黒嶋(海藻生う)

  • 黒嶋…詰坂山北側の沖黒島であろう。
  • 小黒嶋…佐波港沖にある小島かと思われるが不明。
    • この辺りを佐波海岸と呼ぶが、海底火山の噴出物で造られた海岸地形の為、黒色の溶岩や火砕岩で形成されている。
      小島は海岸沿いに幾つか有るが、沖黒島以外は名称も解らないため特定しがたい。
      そもそも島として上げられているものでも、岩場・岩礁が多く、それが出雲での感覚なのだろう。

加賀神埼即有窟一十丈許周五百二歩許東西北道

加賀の神埼、即ち(イワヤ)あり。一十丈許り。周り五百二歩許り。東西北に道。

  • 加賀神埼(カカノカムザキ)…加賀の潜戸鼻(クケドハナ)。今の潜戸崎。巨大な海蝕洞が二箇所ある。旧潜戸と新潜戸。
    旧潜戸は水入りが少なく、石塔が積まれ賽の河原と呼ばれている。
    新潜戸は内部に海水が入り船で出入りが可能で、3箇所が海に通じている。
    西の洞口を入った近くの左手岩棚が佐太大神の生誕地とされる。人一人横になれるほどの滑らかな岩棚である。
  • 窟(イワヤ)…新潜戸を指す。
  • 東西北道…出雲風土記抄2-k23・校注出雲国風土記p35・出雲国風土記考証p142・標注古風土記p159・訂正出雲国風土記上k34では「東西北通」としている。上田秋成書入本k21では「東西北道」。風好舎敬義筆本ではp029で「東西北道」と記し「道一作通」と注記している。鶏頭院天忠本k022では「東北道」。
    • 「道」は外に進むところの意味。「通」は遅滞なく達するの意味。
      「道」に「首」があるのは、首を持って進むという初義で、外敵を威圧しながら進むことを表しており、「道」には「祓う」の意味が含まれるが「通」には含まれない。
      ここで「道」を用いたのは、窟内部の穏やかな海と荒い外海との境界の意味で用いたと思われる。

所謂佐太大神之所産生唑尒時御祖(ミヲヤ)神魂命之御子(ミコ)枳佐賣命(キサメノミコト)クハ吾御子麻須罗神御子(マサバ)者所ロノ弓箭出マス尒時角弓箭隨尒時所本ノ侭子詔(ミコニ)レハ者非弓箭擲廢(ナゲステ)又金弓箭流出來即侍処之唑而闇鬱窟而射通御祖(ミオヤ)支佐加地賣命社唑此處人是窟也行時必色礄礚而待若行者神現而飄風起者必

いわゆる佐太大神の産生唑(アレマ)す所。時に御祖神魂命の御子枳佐賣命(キサメノミコト)(ネガワ)くは吾が御子麻須罗神(マスラガミ)の御子にまさば亡くす所の弓箭(ユミヤ)出し來しと願ひ唑す。時に(ツノ)の弓箭水に(シタガイ)て流れ出つ。時に、此れは(ミコ)に詔りし(ミコ)(モツ)弓箭に非ずと詔て擲廢(ナゲス)て給う。又(カネ)の弓箭流れ出で來る。即ち之が侍りたる処に唑して、闇鬱(クラ)き窟かなと詔て、射通します。即ち御祖支佐加地賣命の社此処に唑す。今の人、是の窟なるは、行ける時、必ず色礄礚(トドロカシ)て待つ。若し密かに行けば、神現れて飄風起り船を行けるは必ず覆す。

  • 白井文庫では上記のように比較的簡潔に記されているが、少々解りにくい。他書ではより冗長な物が多い。
    この部分は本文より小字で記された注記であるから、書写の際より解りやすくする為に追記したのであろうと思われるが、解釈が変わってしまっていると思われる物もある。
    内田眞龍はこの部分を大穴持命の再生神話と解していたりする。(殆ど妄想)
    念のために記しておくと、ここで金の弓箭を投げて射通したのは枳佐賣命であって佐太大神ではない。
  • 出雲風土記抄k23
    所謂佐太ノ大神ノ之所産生也所産生(アレマス)臨時弓箭亡ヒ坐ス尒時御祖(ミヲヤ)神魂命ノ御子枳佐(キサ)賣命願ハ吾カ御子(ミコ)麻須(マス)羅神ノ御子(ミコ)(マシ~)ハ者所亡弓箭出来シト願ヒ坐ス尒時角ノ弓箭随水流出メ尒時所子詔子此ハ者非弓箭詔テ而擲廃(ナゲステ)給フ又金ノ弓箭流出来即待取リ之生而闇欝窟哉詔テ而射通坐ス即御祖ト与佐加地賣命ノ社(マシ)マス此所ニ今ノ人是窟ノ辺行時必ス声ス[石勺]礚而侍若シ密ニ行者神現メ飄風起行ク舩ハ者必ス覆ス
    所謂(イワユル)佐太の大神の産生(アレマス)所也。産生(アレマス)所、時に臨み弓箭(ウシナ)ひ坐す。時に御祖神魂命の御子、枳佐賣命(キサメノミコト)(ネガイシ)は吾が御子麻須羅神の御子に(マシマサ)ば、(ウシナイ)し所の弓箭出来(イデキタ)らんと願い坐す。時に角の弓箭水に随い流れ出め。時に、此は(ミコ)に詔りし(ミコ)(モツ)弓箭に非ず、と詔りて、擲廃(ナゲステ)給う。又金の弓箭流出来たり。即ち待ち之を取り生て闇欝窟かなと詔て射通し坐す。即ち御祖与佐加地賣命の社此の所に(マシ)ます。今の人是の窟の辺を行く時は必ず声[石勺]礚(トドロカシ)て侍る。若し(ヒソカ)に行くは、神(ウツシ)め飄風()ち、行く舩は必ず覆す。)
    • 一例として出雲風土記抄を挙げてみたが、白井文庫にも風土記抄にも、誤写と思える読みがたい部分がある。
      が弄らず一応強引に読んでおいた。
      ・白井文庫…「尒時所子詔子~」本の侭と補記している
      ・風土記抄…「尒時所子詔子~」「御祖与佐加地賣命社」
      他書は更に冗長であり改変が多いと思える為ここ迄に止める。
  • 弓箭…「弓箭(キュウセン)」弓矢であるが、ここでは弓と矢という意味ではなく、「弓ノ矢」という意味であろう。
    古来出産の際、魔除けに矢を産屋に置くという風習があった。今も神社で破魔矢を配る風習として残っている。
  • 角弓箭(ツノノユミヤ)…動物の角を鏃(ヤジリ)に用いた矢。音を出す鏑矢(カブラヤ)などは角矢である。実用と言うより装飾に用いる方が多い。
  • 金弓箭(カネノユミヤ)…金属を鏃に用いた矢。黄金を指しているわけではない。黒金(鉄)を指す。
    • 佐太大神生誕の際、角弓箭ではなく金弓箭を選んだというのは、生まれながらの武神である事を示したものであろう。
      潜戸鼻の丘で乗馬訓練をしたり、的島に向けて弓矢の訓練をしたという逸話が残るのも武神を物語る。

密行者神現而飄風起行船者必覆…佐田大神は武神であるから、この神の座に密かに近づく者は敵と見なすという意味であろう。


(白井文庫k20)
http://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-20.jpg

──────────
箭流出來即侍処之唑而闇鬱窟哉詔而射通唑即御祖支佐
加地賣命社唑此處今人是窟也行時必色礄礚而待若密行
者神現而飄風
起行船者必覆
御嶋周二百八十歩高一十丈中通東西
椿


葛島周一里一百十歩高五丈有椿松小
竹茅葦
櫛嶋周二百
卅歩高一十丈有松
意嶋周八十丈高一十丈有松茅
沢村

奥嶋周一百八十歩高一十丈
比罗嶋生紫菜
海藻
黒嶋

各嶋周一百八十歩高九丈
赤嶋生紫菜
海藻
大埼濱廣
一里一百八十歩西北有者
百姓之家
須々此埼有白
御津濱廣二百
八歩有百姓
之家
三島生海
虫津濱廣一百廾歩手結埼
濱邉
(高一丈裏
周三十歩
手結浦廣卅二歩船二ツ許
可泊

久宇島周一百三十歩高七丈

-----
凡此海所捕雜物志毘朝鮎沙魚烏賊蜛蝫鮑魚螺
蛤且字或作
蚌菜
蕀甲蠃字或作
石經子
甲蠃蓼螺子字或作
蝶子

螺蚄子石葦字或作蚄犬脚也
曠於脚者勢也
白具海藻海松紫菜凝海
菜等之類至繁不可令称也
通道通意宇郡堺朝酌渡一十一里二百廾歩之中
海八十歩通秋鹿堺佐太橋一十五里八十歩通
隱岐渡千酌驛家湊一十一里一百八十歩
    郡司主帳無位出雲臣
    大領外正六位下社部臣
    少領外從六位上社椄石若

──────────
地理院地図航空図

御嶋周二百八十歩高一十丈中通東西有椿松栢

御嶋、周り二百八十歩高さ一十丈。中は東西に通ず。(椿松栢あり)

  • 御嶋…
    ・校注出雲国風土記p36脚注に「加賀浦の今は陸続きとなっている半島」
    ・出雲国風土記考証p137「今は加賀浦の陸と續いて居る。」
    とある。加賀漁港の遊覧船乗り場のある場所にある2つの小山かと思われる。大津・新津という地区名があるので元は海に通じていたのであろう。

葛島周一里一百十歩高五丈有椿松小竹茅葦

葛島、周り一里一百十歩、高さ五丈(椿松小竹茅葦あり)

  • 葛島…今の桂島

櫛嶋周二百卅歩高一十丈有松林 意嶋周八十丈高一十丈有松茅沢村

櫛嶋、周り二百卅歩、高さ一十丈(松林あり)許り。意嶋、周り八十丈、高さ一十丈(松茅沢村あり)。

  • 櫛嶋…今の櫛島。砂州で桂島と繋がっている。
  • 意嶋…今の粟島であろう。
  • 沢村…沢林の誤りと思われる。沢と林。
    • ここにある「許」には送りがなの「リ」がふられており、「高一十丈許り」と繋がる。他書ではこれを逃し、「櫛嶋・許意嶋」と分けているものがあるが誤りである。

奥嶋周一百八十歩高一十丈有松

奥嶋、周り一百八十歩、高さ一十丈(松あり)

  • 奥嶋…他書では「真島」としているものがある。今の馬島であろう。

比罗嶋生紫菜海藻

比罗嶋(紫菜海藻生う)

  • 比罗嶋…比羅嶋。粟島西方にある平島であろう。岩礁のためか地理院地図には島名が記されていない。地理院地図

黒嶋同前各嶋周一百八十歩高九丈有松

黒嶋(前に同じ)。各嶋、周り一百八十歩、高さ九丈(有松)。

  • 黒嶋…島根町大芦の黒島(クリシマ)とされている。が、次の各嶋との関連で疑問。
  • 各嶋…
    ・校注出雲国風土記p36で名島と記し、脚注で「黒島南方の二子島」としており、「二つ島」の事を指していると思われるが大きさが合わない。
    ・出雲国風土記考証p144で名島と記し、「大蘆浦の西北の沖にある大岩である。」と解説している。大碕神社北方の今は小具(オウ)の漁港の波止となっている岩場を指していると思われるが、いわゆる洗濯岩で高さも合わず松は生えていない。
    • 各嶋というのは大きさからすると今の黒島(クリシマ)地理院地図であろう。
      (大きさ高さを勘案すればすぐに「二つ島」ではないことは解りそうな事をなぜ誤り、それが通説となるのか疑問である)
      他所の「黒嶋」は今でも(クロシマ)と呼んでいるのに、ここだけ(クリシマ)と呼んでいるのは特異な経緯があると思われる。
      即ち、「各嶋」の経緯は次のように考えられる。
      元字が「輅嶋」で車偏が欠落し「各嶋」となったものかと思われる。「輅」は(クルマ)であり、「輅嶋(クルマシマ)」が転じて(クリシマ)という呼び名になったと考えられる。後に「輅嶋」を黒島と誤ったために「黒島」の漢字を当てるようになったものの呼び方は(クリシマ)のまま残ったのであろう。
      (「名島」としているのはどう考えても「黒嶋」にも「二つ島」にも通じない為誤写であろう)
      一方、風土記記載の「黒嶋」については、小具の波止が該当するのではないかと思われる。地理院地図
      或いは、今の「二つ島」の内、西側の岩礁もしくはその南方にある岬の鼻、とも考えられる。(要小考)

赤嶋生紫菜海藻

赤嶋、(紫菜海藻生う)

  • 赤嶋…桂島南方の赤島であろう。ここも地理院地図には島名の記載はないが赤岩の岩礁である。地理院地図

大埼濱廣一里一百八十歩西北有者百姓之家

大埼濱、廣さ一里一百八十歩(西北に有るは百姓之家)

  • 大埼濱(オオサキハマ)…今の大芦浜(オワシハマ)であろう。
    出雲国風土記考証では「大椅濱」(オオハシハマ)の誤記と見ているが、大碕神社というのがあり誤記とは云えない。

須々此埼有白朮

須々此埼(白朮あり)

  • 須々此埼…大芦浜を西に峠越えしたところの須々海海岸にある岬であろう。洗濯岩として知られる。地理院地図

御津濱廣二百八歩有百姓之家

御津濱、廣二百八歩(百姓之家あり)

  • 御津濱…今の御津浜

三島生海藻

三島、(海藻生う)

  • 三島…御津浜西方の小島(オシマ)であろう。

虫津濱廣一百廾歩

虫津濱、廣一百二十歩

  • 虫津濱…片句浜であるが、今は島根原発のために埋め立てられている。

手結埼濱邉有檜(高一丈裏周三十歩

手結埼、濱のほとりに(檜あり)窟あり。(高さ一丈、裏の周り三十歩)

  • 手結埼(タエノサキ)…手結地区北端の犬堀鼻であろう。灯台下に海蝕洞がある。

手結浦廣卅二歩船二ツ許可泊

手結浦、廣三十二歩(船二ツ許り泊れり)

  • 手結浦(タエノウラ)…今の手結浦。

久宇島周一百三十歩高七丈有松

久宇島、周り一百三十歩、高さ七丈(松あり)

  • 久宇島…手結浜近くにある寺島と考えられている。現在は橋がかけられ、手結港の一部となっている。

此海所捕雜物志毘朝鮎(アユ)沙魚烏賊蜛蝫鮑魚螺蛤且字或作蚌菜(クサ~モ)甲蠃字或作石經子甲蠃蓼螺子字或作
蝶子
螺蚄子石葦字或作蚄犬脚也曠於脚者勢也白具貝カ海藻海松紫菜凝海菜等之類至繁不可令称也

凡そ此海に捕る所の雜物、志毘・朝鮎・沙魚・烏賊・蜛蝫・鮑魚・螺・蛤、且つ(字を或いは蚌菜に作る)蕀の甲蠃(字或いは石經子に作る)・甲蠃・蓼螺子(字或いは蝶子に作る)・螺蚄子・石葦(字或いは蚄犬に作る。脚也。曠於脚者勢也)・白具(貝か)・海藻・海松・紫菜・凝海菜等の類、至って繁にして令称不可也

  • 朝鮎…(アユ)とルビが振ってある。
    ・校注出雲国風土記ではこれを(フグ)としている。
    ・出雲国風土記考証p146では「朝鮐」と記し、朝は誤記でフグとしている。
  • 沙魚…ハゼ。
    出雲国風土記考証では「鯊」と記しサメとしている。校注出雲国風土記では「沙魚」と記しサメと読んでいる。いずれも誤り。
  • 鮑魚…アワビ
  • 蕀の甲蠃(トゲノカセ)…(トゲのウニ)。ムラサキウニのことであろう。甲蠃(カセ)はウニの古名。
  • 甲蠃(カセ)…(ウニ)。バフンウニのことであろう。ムラサキウニより身入りがよい。
  • 螺蚄子(ラボウシ)…(カキ)。イワガキのことであろう。
  • 石葦(セアシ)…カメノテのことであろう。
  • 白具(オフ)…(シラガイ)。白貝。サラガイとも言う。校注出雲国風土記ではオオノガイとしている。
  • 凝海菜(コルモ)…テングサのこと。

通道通意宇郡堺朝酌渡一十一里二百廾歩之中海八十歩

通道(カヨイジ)。意宇郡の堺、朝酌の渡に通うは一十一里二百二十歩、この(ウチ)海八十歩なり。

通秋鹿堺佐太橋一十五里八十歩

秋鹿の堺佐太橋に通うは一十五里八十歩なり。

通隱岐渡千酌驛家湊一十一里一百八十歩

隱岐の渡、千酌の驛家の湊に通うは一十一里一百八十歩なり。

郡司主帳無位出雲臣
大領外正六位下社部臣
少領外從六位上社椄石若
主政從六位下勳業蝮朝臣

郡司主帳無位 出雲臣
大領外正六位下 社部臣(コソベノオミ)
少領外從六位上 社椄石若
主政從六位下勳業 蝮朝臣

  • 社椄石若…社部石臣(コソベノイシオミ)か。

(白井文庫k21)
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    主政從六位下勳業蝮朝臣


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「出雲国風土記考証」天平時代島根郡之図
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『出雲国風土記』秋鹿郡


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Last-modified: 2017-10-14 (土) 09:26:59 (58d)