《播磨へ》 |
今回のコース 山口→岡山→赤穂→有年→佐用→龍野→一宮→三方→大屋→養父→八鹿→関宮→八鹿 →出石→豊岡→城崎→竹野→森本→芝山→香住→浜坂→鳥取→米子→益田→山口 |
元旦明けて、暇つぶし。何となく播磨。 さすがに、国道は閑散としていて、殆ど高速道状態。快走。 2号線を東行していて、夜が明けそうになったのが、赤穂。 この辺りを彷徨してみようか、なんて感じ。 播磨は南北に川筋が走っている。割と単純な地勢。 有年(うね)で給油し、千種川がまあ大きい川なので、ここから北上。(map) まだ薄明かり状態のため、ひたすら北上。 佐用に着いて、佐用都姫神社をたづねる。 ここは播磨國風土記讃容郡に記載がある、伊和大神の妹、賛用都比賣命を祀った神社で、産鉄地域でもある。 早朝、当然誰もいない。 佐用都姫神社から佐用町の中心街を見ると小山があり、そこに一連の電光がともっている。 行って見ると、「龍山社」とあり、その石段の明かりであった。かなり急な階段で上ると山頂に社がある。 社務所は、石段の登り口にあるから、まあ、年輩の人はここで参詣を済ませるのだろう。 ようやく夜が明けたので、新宮に向かう。この辺りは、よほど寒いのだろうか、何処も霜に覆われている。 相坂峠で一服。(由来・map) 新宮には、天満宮と八幡宮がある。この八幡宮が新宮という地名の由来で、元は山中にあった神社を、 揖保川河畔の地に降ろして来たので新宮という。 たき火の周りに地元のお爺さん・お婆さんが集まり始めている。なにやら行事があるようだ。 揖保川は、元の流れは今と異なり、やや西方の現、来栖川の辺りを流れていたらしいので、その方を南下する。 幾つかの小社があったが、いすこも地主神として、余り大事にされているようには思えない。 以前から感じていたのだが、播磨地方では、神社というものを余り大事にしていないと感じている。 この地方の神社系譜が錯綜としていて、神社間の結びつきが希薄である事とも関連するのであろうが、 神社よりもむしろ仏閣の方が大事にされている。 神社は、何処も、社域を削られ、申し訳程度の新年飾りがされているところが多い。 ひどいところでは、社殿は朽ちかかり、社域はダンプカーの駐車場にされてしまっているところさえあった。 農業自体がこの地方で崩壊し始めていることを感じる。 龍野は、龍野神社と、粒坐(イイボニイマス)天照神社が、まあ著名なところ。 龍野神社は元の藩主脇坂家の氏神社なので、まあ関係ないのだが、この社域に野見宿禰の塚がある。 播磨國風土記によれば、この地で野見宿禰が没し、 出雲人達が、龍野神社のある的場山中に揖保川から人を連ねて石を運び宿禰の塚を築いたという。 出雲人が野に立つ→立つ野→龍野、という地名由来である。 で、山中に入る。塚はすぐに見つかったのだが、 いかにも後から取って付けたような状態である。おそらく明治期に整備されたのであろうか。 腑に落ちないので更に山中に分け入る。急峻である。 的場山中を彷徨くこと4時間、何もない。無駄骨。 的場山は、塚が多くあり古代の葬場とも聞いていたが、それらしい塚も殆ど見あたらない状態である。 但し見晴らしはよい。播州平野が一望できる。瀬戸内海を進む船も見えた。 が、すっきりしないまま、下山。疲れた。 粒坐天照神社は、延喜式内社で、天照国照彦火明命を祀る。神社縁起には饒速日命とは記されていない。 元宮は的場山中にあり、磐境があるという。 古社であると考えられるが、播磨國風土記に記載がないのが不思議である。 今回は行けなかったが、この的場山北方の山中には、他にも磐座が2カ所あり、古代の祭祀場であったことを 窺わせる地域なのである。 揖保川流域付近には「健速神社」というものがあちこちに見られる。 速進男尊(素盞嗚尊)を祀っているのであろうか、本宮が何処なのか不明のため、何とも云えない。 そうそう、龍野は三木露風の生地で、「赤トンボ」が町興しのテーマになっている。 「夕やーけ、小やけーの赤トーンボー・・・」という唱歌。町のあちこちに赤トンボの絵。 それと、ヒガシマル醤油。 |
揖保川を北上。途中、「揖保の糸」ソーメン工場もある。(^○^) 一宮町に播磨一宮、「伊和神社」がある。 さすがに此処は参拝者が多い。といっても、播磨にしてはということで、大したことはないけれど・・・。 駐車場が足りないそうで、駐車料500円。境内ばかりでなく、近隣の民有地も駐車場化。 神社に参詣して、駐車場代など払ったことのない私は、 料金集めしている叔父さんに。「じゃ、引き上げます」といって、立ち去る。 少し離れた農道に車を止めて、テクテク歩いて再度参詣。 日頃は参詣者が少ないのだろう。社域が広い割に、神社専用の駐車場が狭い。 社域は国道脇なのに、渋滞もほとんど無い。 可笑しいのは、参詣者がきちんと並んで順番を待っている様子。 何故だろうと観察すると、大鈴を鳴らす為に並んでいるのである。 そこに、無理矢理一台のベンツが入り込もうとする。お祓いを受けたいのだろう。 たまらんなー。 本殿裏手に、鶴石という石があり、欽明期に鶴が舞い降りたのが神社縁起である。 脇社に社殿造営の神託を受けたという伊和恒郷命を祀った御霊殿があるが、この意味では、伊和氏の氏神社であり、 大己貴神との直接の関連は無い様に思われる。 伊和氏は石氏とも記されるが、出雲系であるとしても良いのかも知れないが、系譜・出自は不明である。 いずれにせよ、欽明期には、この地方の豪族であったのであろう。 |
鳥取に向かう因幡街道をはずれ、三方方面の間道に入る。 「御形神社」がある。これも延喜式内社であるが、ここの縁起が面白い。 すなわち、御形神社の縁起では、葦原志許男命と天日槍が協力して国土経営に当たったと云うのである。 何が面白いかというと、風土記では争ったことになっているが、その話と異なる点である。 公文川上流には、小さな「川上神社」があり、3集落の地主神を集合したと記している。 定石通り、天分水命、国分水命の他、罔象女命を祀る。 そして更に罔象男命も祀る。ええっ? まあいいか。 これがおそらく御形神社と同様の説話なのであろう。 付近は鉱床地帯であり、播磨・因幡・丹波の国境でもあるからだ。 |
富士野トンネルを抜けて山越えをする。ここからは丹波國である。 古来銅を産出し、後には銀や錫を産出してきた明延鉱山がある。 大屋町に向かうが、その手前に宮本という集落がある。此処に縁起式内社「御井神社」がある。 神社は山中にあり、よほど気を付けていないと解らないような場所である。 最初の鳥居自体が、街道から脇道に入り、更にその脇道からはずれた民家の裏にあるからである。 一山全体が社域のようで、主祭神は大屋彦命であるが、社域のあちこちに小社が点在する。 どの社も、痛みが激しく、朽ちかけているが、かつては相当の崇敬を集めていたのであろうと思われる。 川を挟んで対岸の小山に、八幡宮がある。ただ「八幡宮」 丹波にはいると、一郷一社の様相を呈してくる。 播磨での神社の扱いとは異なった風情がある。 北上するほど、この傾向は強まってくる。 此処までに既に30社以上参詣してきたであろうか、記載していない神社もかなりあるが、縁起不明神社が多いためである。 おおよそ、街道を進む時、神社と見れば片端から尋ねていくのが私の流儀で、小社・小祠を問わない。 その分、小銭が大量に要るわけである。(^○^) それにしても播磨は哀しかった。 |
暫く放置していたが、続いて出石(いずし)である。 云うまでもなく出石神社の地である。 天日槍が祭神で、神社後背地に天日槍の御陵地がある。 天日槍は瀬戸内から北上し、この地に居し、出石北方の豊岡地方を開拓して行ったと伝えられる。 かつて、豊岡方面は沼地状態で、それを優良な稲作地帯にしていったというのである。 こういう話は記紀には記されていない訳で、現地に足を踏み入れて初めて知ることが出来るのである。 天日槍が最初にこの地に立ったとき、何を思ったであろうか。 広大な盆地が広がるものの、沼地であり、開拓の苦労を想像せずにはいられなかったと感じる。 しかしこの沼地は、花崗岩質の砂州が広がり、手の入れ方によって、優良な稲作地に変わりうることを 見抜いたのであろう。 南の山麓には鉱床があり、豊岡から一山越えれば日本海である。 この地を開拓することで、大きな勢力を培っていったであろう事は想像に難くない。 更に、出雲と関西を結ぶ交通の要地でもある。 旧出雲勢力が、天日槍によって東西に分断されたとも考え得るのである。 出石神社の社殿は朱塗りで、出雲系とは明らかに異なる。 むしろ秦氏が奉祭した稲荷系神社に近しい。 秦氏は山城太秦において、勢力を培ったが、地勢的には非常に似通っている。 太秦も元は沼地であった。 共に半島出自とすると、近隣の地の出自であったのかも知れない。 故郷の風土に近い土地を選んで定住したといえるのではないかと思う。 すでに、豊前地方が古来秦氏の居住地であったことは記したが、 宇佐神宮において、天日槍の裔である神功あるいは応神を祭るのは、このような事とも 無関係ではないはずである。 この辺りのことについては、古代史論考で、改めて記すことにしよう。 出石は手打ち蕎麦が名産であり、蕎麦処が多数あってその味を競っている。 |
(続く) |
Count from 2000/01/17 |
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