考古

考古-沖丈遺跡

島根県邑智郡邑智町→邑智郡美郷町

地理院地図

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「案内板」より

  • 沖丈遺跡は県道工事に伴い平成7年~8年にかけて発掘調査され、縄文~古墳、奈良時代時代の集落と弥生時代の墓地であることが判明しました。
     この墓地では、人を埋葬した穴の上に河原石を並べた「配石墓」が約20ヶ所ほど見つかっています。これらのうち4ヶ所の墓では、遺体に着装された首飾りの管玉がたくさん掘り出されています。また、墓から出土した土器は弥生時代前期(紀元前3世紀頃)に属し、稲作農業がこの地に伝わった頃のものです。もともと「配石墓」は縄文時代以来の伝統的な埋葬法ですから、この集団墓地を遺したのは、狩猟漁労の採集民から米作りの農耕民に転職した当時の縄文人ということになります。
     集落跡では、23棟の竪穴住居址が見つかりました。これらのほとんどは弥生時代後期~古墳時代前期(紀元3世紀頃)の家屋跡で、そこからは大量の土器のほか、当時普及し始めたばかりの鉄製の斧鎌、矢じり等の鉄器が多数出土していて、たいへん注目されています。
     以上のように、沖丈遺跡は、江の川中流域における弥生文化の受け入れと広がりの様子を考える上できわめて重量な遺跡です。とくに、弥生時代前期の「配石墓」の発見は、初期農耕時代の弥生集落の形成過程を探る上で重要な意義があります。
    邑智町教育委員会

(風姿)

  • 江の川中流域河岸、褶曲部西側に田畑が広がる数ha程度の集落地である。
    この遺跡から、旧来の「縄文人」「弥生人」という区分がさほど意味のあることでは無いことが解る。
    縄文・弥生の区分は民族的・人種的差異ではなく、文化的差異である。
    弥生人が大陸からやって来て、縄文人を駆逐した等という主張も瓦解する。
    又素盞嗚尊がこの地にやって来た時期が、紀元前3世紀以前ではないということも云える。
    (素盞嗚尊がこの地に来た頃には既に稲作が始まっていた。)
    則ち、いわゆる紀元節(=神武即位紀元を紀元前6世紀とする)は根拠のない妄説ということである。
    当然に「2月11日建国の日」などという祝日制定に、何の根拠もない。


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Last-modified: 2014-06-29 (日) 01:30:44 (3579d)