文献
『雲陽誌』
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『雲陽誌』old
享保2年(1717年)松江藩士、黒澤長尚の編になる地誌。
宝永2年(1705年)松江藩3代藩主綱近の命により黒沢長顕(「懐橘談」を記した黒沢石斎の子)と斎藤豊仙により地誌編纂に着手。
1709年綱近の死により中断。5代藩主宣維により黒沢長尚(長顕の弟)に再開の命が出され1717年に完成した。
管原弘邦による書写本を島根大学図書館が所蔵し公開している。
島根大学図書館 桑原文庫「雲陽誌」
「大日本地誌大系27巻/蘆田伊人 編/雄山閣/S5.12.10刊」に収録されており、デジタル公開されているものを参考。
底本は「嶋根縣内務部二巻活字本」(明治43年刊)
国会図書館デジタルアーカイブ:『大日本地誌大系-27-雲陽誌』
- 活字冊子なので画像は省く。全380頁と大部。参照補助の為、コマ番号と頁を付記するので参照されたし。
必要に応じて桑原文庫「雲陽誌」を参照するが、これも大部な為書影は省く。
- 大日本地誌大系には、誤植があるので、可能な限りは桑原文庫を参照し、太字で記す。萬葉仮名はそのまま記すが、他所に引用の際には平仮名に改める。
・地誌大系はコマ番号100頁187であれば(Tk100p187)のように示すことにする。
(卷号は便宜的につけられたもの)
地誌大系
雲陽誌-巻1-島根郡(p1~)
雲陽誌-巻2-秋鹿郡(p64~)
雲陽誌-巻3-意宇郡(p88~)
雲陽誌-巻4-能義郡(p127~)
雲陽誌-巻5-仁多郡(p151~)
雲陽誌-巻6-大原郡(p181~)
雲陽誌-巻7-飯石郡(p211~)
雲陽誌-巻8-出雲郡(p234~)
雲陽誌-巻9-楯縫郡(p247~)
雲陽誌-巻10-神門郡(p284~)
雲陽誌巻之一 島根郡 †
(Tk15p16) †
名別
勝間神社 正哉吾勝尊なりといふ、又庭鳥塚といへる松一株あり、此下に神代常世の長鳴鳥を埋たりといふ、今も時により鳥の聲するとなん、故に湯戸杉廻の両里には古来より庭鳥棲す、勝間山の鶏よひとるといひならはせり、~
島根郡-4-k102(Tk38p63) †
水浦
風土記に御津濱と書寿此處農こ登奈里。
本宮明神
伊弉冊尊奈里 本社一間四方西向拜殿二間梁三間随神門石鳥居あり
二月十五日九月廿九日祭禮あ里
風土記尓載留御津社な里
島根郡-4-k103(Tk39p64) †
小嶋明神
濱よ里二町者可里沖尓あり
山能高さ百間横百五十間者可り能
岩山奈り 市杵島姫命をまつる
社一間四方西向石華表あ里
三月十三日九月十三日兩度の祭
日な里
雲陽誌巻之二 秋鹿郡 †
(Tk40p66) †
~
多太大明神 衝杵等守而留彦命なり、
~
(Tk41p69) †
~
宮 内
佐陀大社 佐陀とは社の名なり。佐太とも又狭田とも書
なり、昔佐陀新領七千石あり、此時は神職二百二十四
人あり、年中の祭禮にきゝしかりしに、太閤秀吉の
世に七千石の神領を没収して、神職も纔に七十五人と
なり、其後堀尾氏當國の太守となりて又減たり、~
~
【風土記】に曰神名火山郡家東北九里四十歩、所謂佐太
大神社、即彼山下の足日山とは佐太宮山なり、叉三笠
山とも不老山ともいふなり、~
~
正殿 三間四方東向、欄干御階あり、伊弉諾尊伊弉冊尊
事解男命速玉男命秘説都て五座の神をまつる。伊弉諾
尊は垂仁天皇五十四年に合まつる。
北殿 二間半四方東向、欄干御階あり、天照大神月弓尊
都て二座の神をまつる。
南殿 二間半四方東向、欄干御階あり、素盞嗚尊秘説四
(Tk42p70) †
> 座の神をまつる、~
雲陽誌巻之三 意宇郡 †
(Tk57p100) †
~
出 雲 江
【風土記】に伊弉奈枳乃麻奈古座とあり、俚民出雲里と
書てあたかへと讀、或人のいはく加茂の競馬の事書た
りし文を見るに、出雲江の馬一匹とあるをあたかへと
假名付たりと語、しかれは中古よりいひならはせる事
にや、出雲江にも阿太加夜の神社を勧請す、故に本名
出雲江をいはすして阿太加夜といひけるにや、いまた
詳ならず、猶博覧の人に尋へし、
足高明神 素盞嗚尊なり、【風土記】に意宇社あり、【延
喜式】には田中社とあり、此則阿太加夜社なり、面足
尊惶根尊を相殿に配まつり、大穴持命の御子阿陀加夜
怒志多伎吉比賣命は神門郡多伎に坐となり、今此里に
阿太加夜社勧請なるへし、寛永八年堀尾高階忠晴修造
の棟札あり、祭日九月九日、本社の北に御影濱あり、
御寄濱ともいふ、明神御幸の地なり、土人横濱といふ
祠宮傳て云ふ往昔洪水社邊に満々たり、其時當社眞の
御柱に蠹あり、歌に
神風に伊勢の玉水ならすとも
面足山を惶根にして
其後本社炎上す、時に三體の神輿馬場末の松三株にうつ
らせ給ふ、今に神の與掛松といふ、古證文むしくひの
柱此火に焼失神寶と稱して神劔一振神鏡一面鉾三本、
此鉾寛文十一年社邊の意宇川へ流出、兒童これを見出
して祠官に告、則ひろひあけて寶前に納置なり、俚民
その來所をしらす、
~
(Tk60p107) †
山代
山代の郷は大穴持の御子山代日子命座す。故に村の號とす。
山代山
【風土記】に載る押名樋山なり。西北廿町九間あり、俚人茶磨山の古壘といふ、村井伯耆守の城跡なり
高森明神
【風土記】に加豆比乃高社とあり、山代山の半腹に森を鎮座とす、
(Tk63p112) †
日吉
「神納山 剣山を去こと五町はかり。社職傳て曰 伊弉諾尊を伊弉冊尊追來給ひ、神魂自静座所なり、故に神納といふ。此所より大庭に遷て神魂明神といふ。」
- 神納山(カンノヤマ)と云うのは、伊弉冊尊が自らの魂を鎮めた場所と伝えられている場所で、
明治期に伊弉冊尊の岩坂陵墓参考地として指定され、宮内庁の管理となっている禁足地。径10m~20mの円墳があると云われている。
剣山は剣神社のある場所。伊弉諾尊が黄泉の国から戻る際剣をふるってこの地に辿り着いたことから剣山という。
意宇郡-1-k49(Tk69p125) †
佐為明神
猿田彦神を満つ類風土記尒載
累狭井社な里本社九尺四方東
向勧請暦數志連春祭日十月
十三日當社東能方高守社あり
天鈿女命を満つ類風土記尓狭
井高守社とあ里神名帳尓意宇
郡佐為社高守社と記寿是な里
近来兩神を一社尓遷堂てまつり
狭井二社明神と崇敬せ里
雲陽誌巻之四 能義郡 †
能義郡-1-k55(TK75p136) †
~
嶽大明神
布都怒志命を満つる寛永元禄
建立能棟札あ里祭禮九月十九日
奈里本社の傍尓髙さ八尺周
二丈能巨岩あ里里老能傳云
崇神天皇を祭り堂てまつ累と
いへと毛由来未考後人請古連を
堂ゝせ
(Tk78p143) †
~
西比田
八幡宮 應神天皇神功皇后玉依姫を祀、祭禮八月十五日
なり、斯所を夏海山といふ、~
~
一宮明神 吉備津彦命吉備津姫命なり、九月廿九日を祭
日とす、土人社地を龜居山と號す、
~
待神社
勝手社 社家の云此兩神は當郷最初出現なり、祭日十月十八日、
~
(Tk79p144) †
~
東比田
山王社 大己貴神を祀、祭禮九月廿九日、社地を比藏山
と號す、土人猿蘟山ともいふ、
松本大明神 國常立尊なり、祭日九月九日、此所を花嶽と
いふ
中村大明神 面足尊惶根尊を祀、~斯山を日良といふ、
愛宕山 火産靈をまつる、~
美禰社 大山祇神を祀、~比所を陰平山といふ
~
(Tk80p146) †
~
上山狭
二所大明神
風土記に意宇郡夜麻佐神社
あ里延喜式に山狭神社と記
す斯所なり 伊弉諾尊伊弉冊
尊をま川累祭禮九月十九日
奈里 山を美坂当いふ 南尒古城
阿り 天場山といふ何時何人能
築け累やいま多志良春 夫二神
當國尒鎮坐する事故ある乎
神宇の内霊石あり 髙さ八寸
圍六寸下圓上六角奈里 水晶
能色の古当し是を望とき盤
則人顔悉映春
山峡下分
熊野神社 伊弉冊尊事解男速玉男を祀、山を龜居といふ
高さ一百丈計、断厳峨々として古槐鬱々たり、前に山
狭川あり可謂神仙の游窟なり、側に小祠あり、菊理媛神
なり、祭禮九月廿九日、
~
雲陽誌巻之五 仁多郡 †
(Tk84p155) †
~
大内原
【風土記】に大内野あり斯所の事なり、
(Tk86p159) †
~
加食
蔵王権現 本社四尺はかり勧請年暦しれす、祭日九月廿
四日、神前より麓まで八町あり社の山上に高さ三丈横
八間の巨岩あり、此所より備後伯耆兩國見ゆる、誠に
(Tk87p160) †
近村の高山なり、
~
経塚 小石に文字あり、弘法大師の筆跡なりといふ、加
食村より横田への通路右にあり、
~
鐵山 大内山といふ所にあり、
(Tk90p166) †
高尾
志怒坂野 【風土記】に載る高尾村の山なり。
~
(Tk90p167) †
上阿井
たひのす山 斯處を半谷ともいふ。山頭に池あり。
さるまさ山 此山黄蓮を生す。
花の谷 石楠花おほし、故に谷の名とす、
十二檀 古老傳に昔此所に寺あり、十二院段々なり、故に里童十二檀といふ、
御坂山 【風土記】に此山神門あり、故に御坂といふ、呑谷の木地山にして備後國高野山の堺なり、
~
(Tk92p170) †
八川
~
室原山 備後出雲の境なり、其山【風土記】に載、
~
兒池 廣さ五尺四方の池なり、三井野原にあり、
三角山 東は伯州西は備後、北は出雲故に俚民三角山と
號す、三國山ともいふ、峯頭に槇の老樹あり、
三井野原 備後國由來村の境なり、
~
室原川 竹崎村より流來て横田町にて八川と落合て一流
となる、此川上鳥上山たり【風土記】に載たり、
大馬來
此所より備後國越原村由來村まて二里、遊託山とて仙
山あり
大森明神 大己貴命をまつる、本社四尺五寸に六尺、延
寶年中造営、
~
大馬來川 【風土記】に阿伊川の源は遊託山より北に流斐
伊川に入とあり、此川ならむ、
鐵山九ヶ所
(Tk93p172) †
小馬來
~
灰火山 大谷と小馬來との中間の山なり、【風土記】に載る所なり、
(Tk95p177) †
~
石村
御崎明神 【風土記】に載る石壹社なり、本社五尺四方、
元和五年営作の棟札あり、祭日九月九日、此處を山の
神谷といふ、
古宮 昔御崎の宮此所にあり、故に古宮といふ、社邊に
福富といふ田あり、往古八束穂の稻を生す、里老傳る
歌
石壹の社にかゝる阿井川の
水のきとくに八束穂のいね
~
平田
爐原明神 金山彦神をまつる、祭日九月廿六日、
~
雲陽誌巻之六 大原郡 †
(Tk100p186) †
~
下佐世
~
月根尾大明神 【風土記】に載る佐世社なり、天照大神月
弓尊をまつる、本社五尺に六尺、祭禮九月九日國家の
安全を祈禱す、
山王權現
白神明神 素盞嗚尊稲田姫をまつる、本社一間に一間半
祭禮八月廿六日なり、土人斯宮を本宮と號す、神事の
次第廿六日の朝當社鼕取と假山の社司と兩人御供所を
(Tk100p187) †
ひらき鼕を發し、祠官一人下官六人梅榊の枝を持て拝
殿の上座に立連て含綿をたれ、供物造酒根芋むかこ大
豆栗柿を土器に盛、箸の長さ一尺二寸にして御供七十
五膳調へ検校に渡、神前にそなへ奉る、其の時一人の
祠官をうといふ聲をなかほと長く五度申なり、其後梅
榊の枝を拝殿にさし神楽奏るなり、老祠官語て云素盞
嗚尊御髪白くまします。故に斯宮を白神と稱したてま
つる、社の東に男女松とて老樹二株あり、由来しれす
白神八幡 應神仲哀神功をあはせまつる、當國八所の八
幡第八番なり、住吉明神竹内宿禰を相殿に祭、社内七
十五神あり皆木體なり、神名しれす、佐々木高綱の勧
請といひつたふ、慶安五年再建の棟札あり、本社二間
に三間、祭禮八月廿七日七座の神事、同廿八日白神明
神の山上にて御水の神事あり、此祭は祠官一人秘密な
り、正月元日より十五日まて三月三日は桃花のまつり
あり、南の方に古木あり神の御休所といふ、廣長の馬
場あり、左右皆老樹なり、斯馬場末に鳥居あり、遙宮
あり、小山あり、此山は毛利元就當國發向の時しはら
く陣営の跡なりといひつたふ、神寶なりとて黒白の石
二あり由來分明ならす、往古此宮囘禄に罹故に證文寶
物ことゝく焼失す、
~
~
假山八幡 石清水より勧請す、本社二間に三間拝殿あり
文禄四年佐世伊豆守正勝建立す、祭禮八月十五日夜に
入十二番の相撲をもよをす、神前に古木あり佐世の樹
といふ、古老傳曰素盞嗚尊御頭に木の葉をさして踊た
まふは此樹なり、諸人木の名をしらす、
~
(Tk101p188) †
~
日井郷里方
宮崎大明神 稲田日女をまつる。【延喜式】には斐伊社同
社斐伊波夜比古神社と書す、【風土記】には樋社同樋社
あり、一社は斯所なり、八岐大蛇の角を埋し所を同樋
社とす、老祠官傳云素盞嗚尊大蛇を斬たまひて後清地
へ稲田姫を入たまふ時爰を通たまふ、故に通速姫命
といふ、是則稲田姫なり、本社四尺四方祭禮十一月十
日なり、
八幡 祭禮八月十五日なり、社頭古樹おほし、【風土記】
に載る菟原野斯なり、俗曽羅山という、
~
(Tk101p189) †
八本杉 八岐大蛇八の角を埋る所神代よりしるしの杉な
り、古老傳曰素盞嗚尊八本の杉を植神詠なりとて俚俗
相つたふる歌、
吾たのめ人の恵の杉うへて
八重垣かこみまもる末の代
寛永十年の洪水にて流て神代の杉は枯、其後植直して
今に八本の角杉斐伊の田中にあり、
古城 【風土記】に載る城名樋山是なり。今俗劔崎といふ
~
(Tk102p190) †
~
神原
~
神寶明神 【風土記】に載る神原社なり、本社五尺四方南
向なり、慶長十六年正保三年造立棟札あり、磐筒男磐
筒女命をまつる。
~
~是におひて耳美韓日狡鸕
濡渟朝廷へ参向して曲に奏しけれは、吉備津彦と武渟
河別を遣たまひて振根を誅したまふ、故に大神をまつ
らさること有間あり、~
~
(Tk102p191) †
~
神原 代寶垣原といふ、土人上の原ともいふ、古老の傳
に曰十月十日八百萬神達斯原に來臨したふ、往古は御
供百手の神事もありしか何代絶たりといふことをしら
す。同廿一日諸神佐陀の社へあつまりたまひ、廿六日
には又神原へ歸たまふ、故に此所の神去風なり里民此
間を上の忌下の忌といふ、古歌讀人しれす、
神在の月日になれは諸神の
時雨しくるゝ神原の里
川 大東加茂より流て簸の川に入、
土手 上神原より下神原の間千四百間あり、此土手下を
昔止屋の淵といふ、松井淵ともいふ、里俗つたふる、
歌
八雲路や松井の水の清けれは
八百萬代の神は御手洗水
~
(Tk103p192) †
~
高麻山明神 里民高塚山といふ、【風土記】に高麻山あり
古老傳曰神須佐能袁命御子青幡佐草日古命此山に麻を
蒔きたまふ、故に高麻山といふ、則佐草昭命をまつる槇
の古木あり、これを社壇といふ、祭禮五月五日なり、山
下に小川あり屋代川と號す、北になかれて簸川に入る、
(Tk109p205) †
~
御室山 神須佐乃乎命御室造たまふ所なり、山の高さ百
廿間東西二町程あり、
諏訪
須我社 【風土記】に載る社なり、素盞嗚尊稲田姫をまつ
る、神職傳へて云仁多郡佐白村と大原郡久野村の境八
(Tk110p206) †
頭坂にて須佐能男尊八岐の大蛇を斬りたまひ、遂に此須
我の里にいたり吾心清々之と曰、彼處に宮を建伊奈多
比賣とすなはち遘合而清之湯山主命を生たまふ所な
り、其後意宇郡佐草村に遷りたてまつり八重垣の神社と
申なり、是稲田姫をまつる素盞嗚鎮跡飯石郡須佐の
大宮なり、天正年中此地回禄せり、故に社なし、須我
の神寶錦の戸張今纔に残り諏訪明神の社内に納とい
ふ、
諏訪明神 本社拝殿鳥居天正三年、海潮豊前守家壽同大
蔵左衛門春信造立の棟札あり、仰此神は信濃國諏訪社
より勧請す、夫より須我の里をあらためて諏訪村と號
せり、~
~
須我山 【風土記】に載る所なり、古須我社ありといふ、
今は諏訪明神の宮山なり、里俗寶名塚といふ、
~
(Tk111p209) †
~
東阿用
古老傳に云昔或人此処の山田を守時、目一の鬼来で佃
の男を食、男の父母竹原の中に隠て居る、時に竹の葉
動ぬ食所の男の云、動々と故に阿欲といふ、神亀三年
字を阿用とあらたむ。
~
雲陽誌飯石郡2(桑原文庫)/雲陽誌巻之七 飯石郡 †
(Tk114p214) †
伊萱
~
市守大明神 【風土記】に毛利社見へたり、斯一森明神か
荒神六ヶ所
~
(Tk114p215) †
~
粟谷
吉備津明神 【風土記】に粟谷社あり是なるへし、縁起な
し故に遷坐勧請しれす、
P37(Tk115p217) †
多久和
【風土記】に載る飯石郡は、多久和中野六重神代川手此
五ヶ村をあはせて一郷とす、
飯石社 往時一石隕高さ三尺四寸はかり周圍これに適
す、形飯を盛かことし、故に其地を稱して飯石といふ、
古記に云伊毘志都幣命天より此石と降もつて鎮座した
まふ、往年石に倚て社あり、【風土記】【延喜式】に載た
り、亂世を經て以來俗微に風衰社廢し祭絶、然りとい
へとも、石や確固として動す、今にいたりて存せり、黎民ことゝく神を敬し石の故あるをしり、社を再建
し毎年九月十五日七座の神事湯立獅子舞御幸流鏑馬あ
り、由來縁起に詳なり、
2帖p50(Tk116p219) †
~
神代
久仁加羽加明神 【風土記】に載る神代社なり。
~
(Tk117p221) †
掛合
勝手明神 【風土記】に載る狭長社是なり、大和國吉野山
勝手社は愛鬘命なり、當社もおなし神なるへし、縁起
なし故に分明ならす、老祠官語て曰古此神烏帽子岩の
上に鎭座したまふ、其後狭長に遷宮して本社門客人鳥
居天正年中多賀與四郎道定造立の棟札あり、祭禮九月
十九日御幸獅々舞流鏑馬十月十七日夜神楽あり、末社
と稱して三社あり、稲荷新八幡なり、斯新八幡は日倉
城主多賀道定の靈をまつりたりといひつたふ、近臣七
人を脇立とす。
~
(Tk119p224) †
吉田
~
脚摩乳社 本社の傍に神の御腰掛とて老松繁茂せり、神
前池あり到て清冷なり、神寳と稱て鏡一面八寸四方、
神代より傳來といふ、祭禮九月廿九日
~
大歳明神 此所を杉戸といふ、故に里民杉戸明神と號す
祭禮十月七日なり、或人の曰【風土記】に載る多加社是
なり、
~
須我谷 【風土記】に載る葦鹿社此所にあり
~
(Tk120p226) †
王子権現 祭禮九月十九日村裡の氏神なり
石神社 此所巨石二あり、神と稱す由來いまた考す、祭
日九月十九日、
須佐
須佐 【風土記】に神須佐能袁命詔し給ふ。此國は小國と
いへとも國所あり、故に我御名者木石に著にあらすと
詔、而即巳の命の魂鎮置たまふ、然して大須佐田小須
佐田定給ふ。故に須佐といふ宮内朝原反部大路原田入
間竹尾穴見を須佐一郷とす、
~
須佐大宮
【日本書紀】に曰素盞嗚尊此處にいたり給ひ、
吾心清々し彼所に宮を建つ、是より清地といふ、清地
~
~其
側に流瀬川あり、大神一女神を柏葉につゝみ、斯にな
かしたまふ、故に流瀬川と稱す、其柏樹今に於呂志古
山の嶺上にあり、大さ牛をかくす、一女神は石見國橋
-----
p227
の浦へなかれよらせたまひしを、當國日御崎に移たて
まつり、今に崇敬すと申傳へ侍。社司に雲次郎と號し
て代々社祀を掌とれり。~
- 地誌大系-27-k120でも、桑原文庫飯石郡-1-k45でも「日御崎」と記している。今は「日御碕」
(Tk120p227) †
宮尾山 古老傳云、素盞嗚社往昔此山に鎮跡、今礎石のこれり。
(Tk123p233) †
龍王宮 本社一間四方、
琴引山 【風土記】に見へたり、古老傳云此峯の窟裏天下
を造所の大神の御琴あり、長さ七尺廣さ三尺厚さ一尺
五寸、故に琴引山といふ、今土俗琴神山といふ権現座
す、是即大神ならむ、
堤四ヶ所
頓原
八幡宮 本社三間に四間、門客人二社末社と稱して若宮
を勧請す
稲荷
琴峯権現 天下を造所の大神なりという、
~
ゆるき山 麓に権現の小社あり、
堤二ヶ所
~
雲陽誌秋鹿郡1(桑原文庫)/(地誌大系-雲陽誌巻之ニ秋鹿郡) †
p16 †
多太大明神
衝杵等乎而留彦命
- 地誌大系(Tk40p66)では「衝杵等守而彦命」と記している。
「乎」を「守」と読み違えたのであろう
雲陽誌秋鹿郡2(桑原文庫)/(地誌大系-雲陽誌巻之ニ秋鹿郡) †
p13(Tk45p77) †
秋鹿
姫二所大明神
風土記に載る秋鹿社是なり
八幡宮
秋鹿姫命應神天皇をまつる二神
相殿に坐なり~
雲陽誌(地誌大系-雲陽誌巻之九楯縫郡) †
(Tk137p261) †
奥宇賀
籠守明神 筒男命なり、本社四尺に五尺東向、拝殿一間
半に二間、祭禮九月九日なり、古老傳に此社より八町
はかり山つゝきの南に岩窟あり、穴の裡六七尺はかり
西向なり、窪き所に穴口あり、窟より五十間はかり南
の方に徑二尺の穴あり。深ことはかりなし、此窟へ夏
の末秋の初には籠守明神を御幸なし奉り、郡中の社司
あつまり供物をそなへ七坐の神事百番の舞ありといへ
とも、何の比よりか絶たり、冬至の夜は此窟へ籠守明
神の御幸ありとて俚人夜行せさるなり、
~
~
窟 和多灘より十五町南の山にあり、【風土記】に宇賀郷
に窟戸高さ廣さ各六尺はかり深浅しれす、此窟の邊に
いたる者必死すといふ、故に今に黄泉の穴と號す、俗
人古より冥途黄泉の穴といふ。
~
口宇賀
宇賀明神 大己貴命綾門姫をまつる、本社八尺四方、拝
殿二間に四間、祭祀正月七日、神田植百手の神事九月
十九日祀有り、永正十年再興の棟札あれとも鎮座年歴
見へす、古老傳に大己貴命と綾門姫夫婦睦からさる
により、綾門姫大社を忍出たまひたり、大己貴の神籠
守明神を伴たまひて綾門姫を追たつねたまひ、奥宇賀
布施の山に到ぬ、山の半腹に穴あるを見て此穴のほと
り人の通たるとおほしくて草靡たり、綾門姫もし此穴
に隠居たまふにや、籠守明神は爰に守居たまへとて此
谷を布施者にたまはりたるによりて、今所の名として
布施とはいふなり、大己貴尊口宇賀を窺たまふに綾門
姫出たまふに逢たまへり、故に窺知といふ心にて宇賀
(Tk138p262) †
の郷とはいふなり。夫より大己貴命と綾門姫をまつり
て宇賀明神と崇たてまつりぬ、楯縫郡猪目浦と神門郡
宇峠浦との界巌の上に馬と牛との蹄の跡あり、俚民語
けるは綾門姫と大己貴命馬と牛とに乗て此所にて行合
たまふ時の蹄跡なりとて今にあり、
~
(Tk145p277) †
猪目
猪目岩 間口の東に岩二あり、此岩猪の目に似たり故に
猪目浦と名付、
雲陽誌(地誌大系-雲陽誌巻之十神門郡) †
(Tk152p291) †
姉山 土人傳云天照大神しはらく鎮坐素盞嗚尊來給ふ、
是より姉山と號す、老樹巉岩過るものの竦然たり、
袋石 形袋のことく縫めあり、俚俗大神の袋石という由
來詳ならす、
雲陽誌(地誌大系-雲陽誌巻之十神門郡) †
(Tk163p312) †
日御崎
【風土記】に載る御前濱は古出雲郡なり、今は神門郡内
に有、世人御崎と書するは此所なり、(明神記曰、當國大靈貴産生之地而今又
有日神垂跡也、故名日御崎、)
日沉宮 【延喜式】神名帳に曰出雲の國出雲郡御崎之神社
とあり、【風土記】にも美佐伎社出雲郡にみへたり、今
は神門に属す、
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(p313) †
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~神主は三位檢校と申て
天葺根命の後胤今にいたりて神脈相續せり、毎歳十二
月晦日の夜社の上天一山といふ所へ檢校一人衣冠して
(Tk164p315) †
峰にあかり、神劔を天に達する祭事あり、黎明に及て
山より下、偶雨雪降といへとも蓑笠も著せずして一點
もぬるゝことなし、一子相傳の神事なり、世俗皆奇異
なりとす、是何の遺風ぞや、傳聞昔八束水命八岐蛇を
斬尾に及て刃缼卽擘てみるに一の神劔あり、是私に用
へからすとて五世の孫天葺根命を遣て天に奉る、蓋當
宮の祭官葺根命の神脈なり、仍今に天神奉劔の遺風あ
るか、~
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月讀神社 月夜見尊を天一山にまつる、本社七尺四方なり、
秘基神社 隱岡といふ垣あり社なし、
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