[[神名解題a]]

「''衝杵等乎而留比古命''」

[[『出雲国風土記』秋鹿郡 多太郷:http://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E3%80%8E%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E3%80%8F%E7%A7%8B%E9%B9%BF%E9%83%A1#rba0c573]]に記されている。

重複するが引いておく。
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***&color(navy,){&ruby(スサノヲノ){須佐能乎};命ノ御子&ruby(ツキキトヲシルヒコノ){衝杵等乎而留比古};命国巡&size(9){リ};行&size(9){キ};唑&size(9){ス};時至坐此処&size(9){ニ};詔&size(9){テ};吾&size(9){ガ};御心照&size(9){リ};明&size(9){ニ};正冥成吾者此処&size(9){ニ};靜&size(9){ニ};將&size(9){ニ};唑&size(9){ラントス};詔&size(9){テ};而靜&size(9){リ};唑&size(9){ス};故云多太&size(9){ト};}; [#r28020e9]

&color(darkgreen,){須佐能乎命の御子、衝杵等乎而留比古命国巡り行き唑す時、此処に至り坐す時詔て、吾が御心&ruby(タダシク){正冥};成りしと明らかに照り、吾は此処に靜かに將に唑らんとす、と詔て靜に唑す。故に多太と云う。};

--衝杵等乎而留比古命…ルビに従えば(ツキキトヲシルヒコノミコト)。秋鹿小学校前の道を北上した「多太神社」[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.488262/132.945718/]]に祀られている。
「衝杵」を「衝鉾」「衝桙」とするものがあるが、「杵」は餅つきの杵(キネ)であり、武具の「鉾・桙・矛」ではない。「衝杵」であるから、農耕神であり武神ではない。
古代の杵(縦杵・兎杵)は元々は脱穀(穂から種子を外す作業)・&ruby(ダップ){脱稃};(種子から種皮を外す作業)に用いていた農具であり、杵衝き(衝杵)というのは脱穀・脱稃することを云う。(脱穀・脱稃を総じて「脱穀」と云う事もある)
・出雲国風土記抄2-k30で「&ruby(ツキキトヲシルヒコノ){衝杵等乎而留比古};命」
・出雲風土記抄2-k30で「&ruby(ツキキトヲシルヒコノ){衝杵等乎而留比古};命」
・訂正出雲国風土記上-p37で「衝杵等乎而留比古命」ルビではなく傍書で(ツキキトヲルヒコノミコト)
・鶏頭院天忠本p023で「&ruby(ツキキイトヲシルヒコノ){衝析等乎而留比古};命」「析」の横に「杵」と補記
・上田秋成書入本p023で「&ruby(ツキキトヲシルヒコノ){衝杵等乎而留比古};命」
・校注出雲国風土記p40で「&ruby(つきほことほるひこのみこと){衝桙等番留比古命};」脚注に「突鉾通る日子の命」
・標注古風土記p160本文で「衝杵等乎而留比古命」、p161解説で(つきゝとをるひこの)命
・出雲国風土記考証p153で「&ruby(ツキホコトヲヨルヒコノミコト){衝杵等乎而留比古命};」

---等乎而留(トヲシル)というのはこのままでは解り難いが(等を留めた)で「伝えた」と云う意味合いであろうと思われる(衝杵等の農具を伝えた命)。
杵は元来ただの棒であったが、両端を太く中央部を細くして持ちやすく効率のあがる千本杵と云うものに発達した。
(そのような農具を伝えた)或いは(農具を伝えこの地に留まった)のが「衝杵等乎而留比古命」の神名由来ではないかと思われる。
「而」は助字(しかして)で、置き字として読まないことも多いが留比古(ルヒコ)では簡素すぎるために而留比古(シルヒコ)と読んだのであろうと思われる。
「衝杵等乎・而留比古命」(ツキキネトヲ・シルヒコノミコト)と一呼吸置くと理解しやすい。

---ついでに、棒から縦杵に変わり、脱穀・脱稃は飛躍的に作業性が良くなったのであるが、江戸期には更に「千歯扱き」による脱穀、「水車」による脱稃が行われるようになり、縦杵はあまり用いられなくなった。今に伝わるT字型の長柄のついた杵(横杵)は餅つき用としての利用が中心となっている。と云っても昨今餅つき光景も希になった。
---私事だが、母方祖父の家では農業も行っており、初収穫の際神前に供える米だけは昔ながらの方法で脱穀していた。
庭に&ruby(ゴザ){茣蓙};を敷き、その上に乾燥させた稲穂を並べ棒で叩く。すると、籾がはずれ籾殻も落ちるので、それを&ruby(テミ){手箕};にとり、ふるい上げて籾殻を風で飛ばす。結構時間と手間のかかる作業のようであった。
又、父方祖父の家では、神社の秋祭り用の餅作りを近隣総出一日がかりで行っていた。日頃は手水鉢代わりにしている石臼が年に一度磨き上げられ餅つきに活躍する。&ruby(セイロ){蒸籠};が庭先に積み上げられ蒸し上がる端から横杵使って衝き上げられ寄って集って餅に仕上げられる。そういう光景であった。
無論私はまだ幼かったのでどちらも見ていただけだが記憶には鮮明に残っている。

--「杵」と「桙」について…
・出雲国風土記考証p149に、
「衝杵等乎而留比古命について、伴信友は『後の和泉國風土記に大鳥郡本字&ruby(おとり){衰};云々古老傳云昔素佐烏尊御子衝桙等乎而留比古命巡行此國詔、吾御體&ruby(オトリマセリト){衰坐};詔而静坐、故云&ruby(オトリ){於止利};、今謂大鳥者訛也とみえたり。此國巡行古事と&ruby(かな){符};へり。さて御子の字の而を誤出といへれども和泉國風土記にも然あれば相照して誤とはすべからず。而を假字に用たる例いまだ見あたらねど&ruby(しばら){姑};くシと唱ふべし。杵は桙の誤にて古書に&ruby(つねに){毎};に多し、故に&ruby(つきほことをしるひこのみこと){衝桙等乎而留比古命};と申すべし。衝桙は杖桙の義にて&ruby(とを){等乎};の枕詞なるべし。萬葉集ニに&ruby(なよたけのとをよる){奈用竹之騰遠依};とつゞけたる如く桙を杖きたるが撓(タワ)む由の意なるべし。&ruby(しる){而留};は&ruby(たゝ){稱};へ名にいへる例あり。又古事記の倭建命の裔に&ruby(とをしわけ){登遠之別};といふがあり』といつて居る。思ふに而の字は&ruby(ヨ){與};の畧字の誤りであること疑ない。而と与との草書に似ることから相誤ることは、出雲風土記中、諸處にその例がある。萬葉集巻三の長歌にも「&ruby(なゆたけのとをよるみこ){名湯竹之十緣皇子};」といふ語がある。&ruby(とをよる){等乎與留};は、&ruby(たわ){撓};みなびきて、なよゝかに、うつくしきをいふ。即ち神の名は&ruby(つきほことをよるひこ){衝桙等乎與留比古};命である。」とある。
---「杵」を「桙」としたのはこれによれば、伴信友に始まるようである。
「杵」を「桙」としているが、「桙(ウ)」は元字「杅(ウ)」で鉢或いは盥(タライ)のこと。字体は「鉾」に似ているが「鉾」は元来山車の「山鉾」のことであり、全くの別物。いずれにせよ「矛(ホコ)」ではない。要するに当て字である。「杵」とあるものを「桙」の誤りだといい、更にそれを「矛」とみなすというのは理解できないし捏造に等しい。「桙」はさほど使用例のある文字ではない。
「桙」としたために「衝」を「杖」だとまで云うのは、屋上屋を重ねるというに等しい虚言でしかない。
更に、出雲固有の神格を、出雲国風土記の記載を疑い、和泉國風土記にその起源を求めるなど倒錯していると云わざるを得ない。
枕詞とするのも意味不明と云っているに過ぎず根拠がない。
「等乎而留」に関しての記述はこれも「而」が「與」の略字「与」の誤記かどうかも疑わしく而をシではなくテであると云うならともかく、ヨであるというのは殆ど意味のない記述である。
又、なよ竹の如く撓む矛など聞いたこともないし、あったとしても用を足さない。
上に各書における記述を示しておいたが、「桙」を用いたものは校注出雲国風土記だけである。

---多太神社は秋鹿神社とは秋葉山を挟んだ位置関係にあり、秋鹿郷と多太郷がこの秋葉山を境界としていた。
古代の郷が川筋に沿って成立していたことを窺わさせる。多太郷(岡本川)・秋鹿郷(秋鹿川)。共に小さな川だが、度々氾濫は起きていたようである。その為か、両神社とも川の東側山麓にある。
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---「杵築大社」と云うのは出雲大社の事を古来こう呼んで来たわけだが、杵であって桙ではない。
伴信友の言うように「杵は桙と間違えることが多い」等というような事が出雲では起こるはずがない。

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