[[神名解題a]]

''「天日槍」''

安羅神社由緒記
 安羅神社は安羅(良)明神とも申し上げ、その創祀年代はつまびらかではないが、古来この地に鎮座され、他にも分祠されている。日韓古代史の権威者三品彰英博士(前大阪市立博物館長)も御祭神を新羅国王子 天日槍なりと考証されている。
 天日槍来帰のことはすでに古典に記され、殊に正史である日本書紀垂仁天皇条によると、新羅国王子 天日槍は日本永住を決意して来帰し、諸国を遍歴、菟道(宇治)川を遡って近江国吾名(あな)邑に入り暫住、ここには住人をとどめ、さらに近江から若狭を経て但馬国に到ってついに住み処に定めたと。
 按ずるに天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類をとどめ、それらの人々がかれを祖神(おやがみ)として、その恩徳を慕うて神とし、神社を建てたとすべく、いまにその遺跡伝承をたどることができる。安羅神社も亦その一つである。
 天日槍の終焉地、但馬国出石(いずし、いま兵庫県)には古来 国土開発の大神として延喜式内名神で旧国弊中社 出石神社が鎮座し、そのもたらされた八種神宝を霊代(みたましろ)として、いまも人々の厚い尊崇をうけられている。
 安羅神社の安羅の由来については諸説が行われている。或いは、韓国の安羅(阿羅にもつくり、それはいまの慶尚南道咸安の地に比定される)の地名とも、また新羅国王都の六停(停は軍団の意)の一つである官阿良支停(また北阿良ともいう)に由来するともいわれる。安羅、阿羅、阿良は通音。この近江国に安羅、穴が使われたのもうなずかれよう。いずれこの地にはとどまった天日槍の族人・党類の人々が命(みこと)の故国に因縁の深い名称を残したのであろう。
 天日槍の御治績はまことに広大無辺といい得よう。先ずそれぞれの開発経営に大功を致されたことは申すまでもなく、特に鎮魂術をよくせられて人々の心身の病苦を解消し、救世済民の実を挙げられ、人々の崇敬をうけられた。
 またここに特記したいのは神功皇后の御母家はついには但馬国に栄えた天日槍の後裔であられることは、古事記応神段に明記されている。
 その党類には農耕に巧みな者あり、この湖国平野も開拓されたであろう。また陶芸、鍛治、医術等々の特殊技能をもった者も多く、それらの人々によって近江、若狭、越前、但馬の諸国に余徳を伝えたことが拾われる。
 なお当社の社宝として古来神殿深く蔵されている数十個の小判型黒色の小石は従来その由来が判明しなかったが京大の松木進 理学博士や民俗学の有識者等によると、この小石は野洲川源流地帯に多い玄武岩と同質とされ、その黒色をなしているのは火にあぶって温め(温石、おんじゃくとして)患部にあて、治療に使用したものと断定された。さらにこのことは今日の鍼灸の原型をなす医術であるとされ、中央アジア辺でも行われた故事にも関連を思わせると。
 また小石を載せた神卓は鉋(カンナ)を用いずに造作されたものであるので、よほど古いものと推定される。さらに本殿内陣の扉に貼られている左右大臣(随身)画像も関西随一の珍しいものとされる。
 思うに安羅神社の祭神である天日槍命は、日本医術の祖神であり、地方開発の大神であられ、わが国社会文化産業発展史上 甚大な貢献を致された恩人の神霊なりと申すことができる。幸い祭神が往昔足跡を印せられた土地に生を享けた我々は命(みこと)を大恩ある祖神とあがめ、日夕 報本反始の赤誠を捧ぐべきであろう。
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「大陸への悲願」/駒井徳三/大日本雄弁会講談社 
p30
 私の生家は、滋賀県の琵琶湖の南側で、東海道と中山道との分岐点にあたる近江草津駅から、約一里西に入った湖岸の穴村というところに在る。試しに家系を尋ねて見ると、祖先は遠く二千年の昔、垂仁天皇の御代に、三韓の新羅から来朝帰化したその国の王子天日槍の息子で、天三杵命というのがそれであって、彼はこの穴村を住所と定め、生国伝来の灸点を主とする特殊の医療法を広めた。現に氏神として郷土の人に親しまれている安羅神社はこの天日槍父子を祀るものと、郷土史に載って居る。
 この灸点は、わが家先祖代々の家業となっているが、謂わば一種の民間療法であって、その材料として最初は、漆や墨汁を使ったところに、特殊性があった。それが後になって、艾と替ったが、しかし家伝の灸点は、その技術に於て他の真似のできないところがあったと見える。
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