[[メモa]] ''七支刀'' 銘文 表 泰■四年■月十六日丙午正陽造百練釦七支刀■辟百兵供供侯王■■■■作 裏 先世以来未有此刀百済■世■奇生聖音故爲倭王旨造■■■世 銘文に「泰■四年」とある。 これが何時のことなのかが問題とされる。 通常、日本書紀神功皇后52年の記述を参考に、百済近肖古王(346-375)の時代に合わせるために 泰を太に読み替えて「泰■」→「太和」→「泰和」としている訳だが、これは論理がおかしい。 金石を第一とするなら、安易に「泰」を「太」に読み替えるべきではない。 大体金石を打つのに、「泰」より「太」の方が簡単である。太和なら「太」と打つはずである。 古文献に「泰」を「太」若しくは「大」と書写する例があるという理由で、「泰」は「太」であると論じる向きがあるが、 「泰」を「太」とする例はあっても、「太」を「泰」とする例はない。 又、「太和」四年の内に十六日が丙午となる日はない。 (鼻から勝手に「泰和四年」と読んでいる者もいるが、「和」の字は読めないのだから泰和を前提にするのは論外。「泰和」という元号は金の時代の「泰和」1201-1208年だけ) 日本書紀で神功皇后は69年間摂政を行い、100歳で亡くなったと記されている訳だが、これを真に受けて金石側の時代を合わせようとするのは金石を第一としない立場と云わざるを得ない。 元号で「泰」から始まるのは次の通り -西晋武帝の「泰始」(265-274年) -南北朝時代 --北朝、北魏時代の「泰常」(416-423年) --南朝、劉宋時代の「泰始」(465-471年)又「泰豫」(472年) この内「泰豫」は四年が無いので除外。 又、百済の建国は346年前後であるから、武帝の「泰始」(265-274年)は無い。 画像を良く見ると、「泰■四」の■部分で、左側に薄くではあるが縦線|が残る。「常」と「始」では「始」に分がある。 この事から、「泰■」は南朝、劉宋の時代の「泰始」(465-471年)と考えられ、泰始四年は468年と見なすことができる。 してみると、日本書紀、神功皇后52年は468年となる。(神功皇后が実在したとしての話ではあるが) いずれにせよ、皇国史観・万世一系論者にはかなり都合の悪い事ではあろう。