文献

『雲陽誌』

享保2年(1717年)松江藩士、黒澤長尚の編になる地誌。
管原弘邦による書写本を島根大学図書館が所蔵し公開している。
島根大学図書館 桑原文庫「雲陽誌」

「大日本地誌大系27巻/蘆田伊人 編/雄山閣/S5.12.10刊」に収録されており、デジタル公開されているものを参考。
底本は「嶋根縣内務部二巻活字本」(明治43年刊)
国会図書館デジタルアーカイブ:『大日本地誌大系-27-雲陽誌』


(卷号は便宜的につけられたもの)

雲陽誌-巻1-島根郡(p1~)
雲陽誌-巻2-秋鹿郡(p64~)
雲陽誌-巻3-意宇郡(p88~)
雲陽誌-巻4-能義郡(p127~)
雲陽誌-巻5-仁多郡(p151~)
雲陽誌-巻6-大原郡(p181~)
雲陽誌-巻7-飯石郡(p211~)
雲陽誌-巻8-出雲郡(p234~)
雲陽誌-巻9-楯縫郡(p247~)
雲陽誌-巻10-神門郡(p284~)


雲陽誌巻之一 島根郡

(15コマp16)

名別

勝間神社 正哉吾勝尊なりといふ、又庭鳥塚といへる松一株あり、此下に神代常世の長鳴鳥を埋たりといふ、今も時により鳥の聲するとなん、故に湯戸杉廻の両里には古来より庭鳥棲す、勝間山の鶏よひとるといひならはせり、~


雲陽誌巻之三 意宇郡

(57コマp100)


  出 雲 江

【風土記】に伊弉奈枳乃麻奈古座とあり、俚民出雲里と
書てあたかへと讀、或人のいはく加茂の競馬の事書た
りし文を見るに、出雲江の馬一匹とあるをあたかへと
假名付たりと語、しかれは中古よりいひならはせる事
にや、出雲江にも阿太加夜の神社を勧請す、故に本名
出雲江をいはすして阿太加夜といひけるにや、いまた
詳ならず、猶博覧の人に尋へし、

足高明神 素盞嗚尊なり、【風土記】に意宇社あり、【延

喜式】には田中社とあり、此則阿太加夜社なり、面足
惶根(かしこねの)尊を相殿に配まつり、大穴持命の御子阿陀加夜
怒志多伎吉比賣命は神門郡多伎に坐となり、今此里に
阿太加夜社勧請なるへし、寛永八年堀尾高階忠晴修造
の棟札あり、祭日九月九日、本社の北に御影濱あり、
御寄濱ともいふ、明神御幸の地なり、土人横濱といふ
祠宮傳て云ふ往昔洪水社邊に満々たり、其時當社眞の
御柱に(むしくひ)あり、歌に
 神風に伊勢の玉水ならすとも
     面足山を惶根にして
其後本社炎上す、時に三體の神輿馬場末の松三株にうつ
らせ給ふ、今に神の與掛松といふ、古證文むしくひの
柱此火に焼失神寶と稱して神劔一振神鏡一面鉾三本、
此鉾寛文十一年社邊の意宇川へ流出、兒童これを見出
して祠官に告、則ひろひあけて寶前に納置なり、俚民
その來所をしらす、

 

(60コマp107)

山代
山代の郷は大穴持の御子山代日子命座す。故に村の號とす。

山代山
【風土記】に載る押名樋山なり。西北廿町九間あり、俚人茶磨山の古壘といふ、村井伯耆守の城跡なり

高森明神
【風土記】に加豆比乃高社とあり、山代山の半腹に森を鎮座とす、

(63コマp112)

日吉

「神納山 剣山を去こと五町はかり。社職傳て曰 伊弉諾尊を伊弉冊尊追來給ひ、神魂自静座所なり、故に神納といふ。此所より大庭に遷て神魂明神といふ。」

  • 神納山(カンノヤマ)と云うのは、伊弉冊尊が自らの魂を鎮めた場所と伝えられている場所で、
    明治期に伊弉冊尊の岩坂陵墓参考地として指定され、宮内庁の管理となっている禁足地。径10m~20mの円墳があると云われている。
    剣山は剣神社のある場所。伊弉諾尊が黄泉の国から戻る際剣をふるってこの地に辿り着いたことから剣山という。

雲陽誌巻之五 仁多郡

(84コマp155)

大内原
【風土記】に大内野あり斯所の事なり、

(86コマp159)

加食

蔵王権現 本社四尺はかり勧請年暦しれす、祭日九月廿
四日、神前より麓まで八町あり社の山上に高さ三丈横
八間の巨岩あり、此所より備後伯耆兩國見ゆる、誠に

(87コマp160)

近村の高山なり、

経塚 小石に文字あり、弘法大師の筆跡なりといふ、加
食村より横田への通路右にあり、

鐵山 大内山といふ所にあり、

(90コマp166)

高尾

志怒坂野 【風土記】に載る高尾村の山なり。

(90コマp167)

上阿井

たひのす山 斯處を半谷ともいふ。山頭に池あり。
さるまさ山 此山黄蓮を生す。
花の谷 石楠花(しゃくなげ)おほし、故に谷の名とす、
十二檀 古老傳に昔此所に寺あり、十二院段々なり、故に里童十二檀といふ、
御坂山 【風土記】に此山神門あり、故に御坂といふ、呑谷の木地山にして備後國高野山の堺なり、

(92コマp170)

八川

室原山 備後出雲の境なり、其山【風土記】に載、

兒池 廣さ五尺四方の池なり、三井野原にあり、

三角山 東は伯州西は備後、北は出雲故に俚民三角山と
號す、三國山ともいふ、峯頭に槇の老樹あり、

三井野原 備後國由來村の境なり、

室原川 竹崎村より流來て横田町にて八川と落合て一流
となる、此川上鳥上山たり【風土記】に載たり、

大馬來
 此所より備後國越原村由來村まて二里、遊託山とて仙
 山あり

大森明神 大己貴命をまつる、本社四尺五寸に六尺、延
寶年中造営、

大馬來川 【風土記】に阿伊川の源は遊託山より北に流斐
伊川に入とあり、此川ならむ、

鐵山九ヶ所

(93コマp172)

小馬來

灰火山 大谷と小馬來との中間の山なり、【風土記】に載る所なり、

(95コマp177)

石村

御崎明神 【風土記】に載る石壹社なり、本社五尺四方、
元和五年営作の棟札あり、祭日九月九日、此處を山の
神谷といふ、

古宮 昔御崎の宮此所にあり、故に古宮といふ、社邊に
福富といふ田あり、往古八束穂の稻を生す、里老傳る

 石壹の社にかゝる阿井川の
   水のきとくに八束穂のいね

平田

爐原明神 金山彦神をまつる、祭日九月廿六日、


雲陽誌飯石郡2(桑原文庫)/雲陽誌巻之七 飯石郡

(114コマp214)

伊萱

市守大明神 【風土記】に毛利社見へたり、斯一森明神か
荒神六ヶ所

(114コマp215)


粟谷

吉備津明神 【風土記】に粟谷社あり是なるへし、縁起な
し故に遷坐勧請しれす、

P37(115コマp217)

多久和

【風土記】に載る飯石郡は、多久和中野六重神代川手此
五ヶ村をあはせて一郷とす、

飯石社 往時一石(をつ)高さ三尺四寸はかり周圍これに適
す、形飯を盛かことし、故に其地を稱して飯石といふ、
古記に云伊毘志都幣(いひしつへの)命天より此石と(くたり)もつて鎮座した
まふ、往年石に倚て社あり、【風土記】【延喜式】に載た
り、亂世を經て以來俗()に風衰社廢し祭絶、然りとい
へとも、石や確固として動す、今にいたりて存せり、黎民ことゝく神を敬し石の故あるをしり、社を再建
し毎年九月十五日七座の神事湯立獅子舞御幸流鏑馬(やぶさめ)
り、由來縁起に詳なり、

2帖p50(116コマp219)


神代

久仁加羽加明神 【風土記】に載る神代社なり。

(117コマp221)

掛合

勝手明神 【風土記】に載る狭長(さなか)社是なり、大和國吉野山
勝手社は愛鬘命なり、當社もおなし神なるへし、縁起
なし故に分明ならす、老祠官語て曰古此神烏帽子岩の
上に鎭座したまふ、其後狭長に遷宮して本社門客人鳥
居天正年中多賀與四郎道定造立の棟札あり、祭禮九月
十九日御幸獅々舞流鏑馬十月十七日夜神楽あり、末社
と稱して三社あり、稲荷新八幡なり、斯新八幡は日倉
城主多賀道定の靈をまつりたりといひつたふ、近臣七
人を脇立とす。

(119コマp224)

吉田

脚摩乳社 本社の傍に神の御腰掛とて老松繁茂せり、神
 前池あり到て清冷なり、神寳と稱て鏡一面八寸四方、
 神代より傳來といふ、祭禮九月廿九日

大歳明神 此所を杉戸といふ、故に里民杉戸明神と號す
 祭禮十月七日なり、或人の曰【風土記】に載る多加社是
 なり、

須我谷 【風土記】に載る葦鹿社此所にあり

(120コマp226)

王子権現 祭禮九月十九日村裡の氏神なり

石神社 此所巨石二あり、神と稱す由來いまた考す、祭
日九月十九日、

須佐

須佐 【風土記】に神須佐能袁命詔し給ふ。此國は小國と
いへとも國所あり、故に我御名者木石に著にあらすと
詔、而即巳の命の魂鎮置たまふ、然して大須佐田小須
佐田定給ふ。故に須佐といふ宮内朝原反部大路原田入
間竹尾穴見を須佐一郷とす、

須佐大宮

【日本書紀】に曰素盞嗚尊此處にいたり給ひ、
吾心清々(すがすが)し彼所に宮を建つ、是より清地といふ、清地

~其
側に流瀬川あり、大神一女神を柏葉につゝみ、斯にな
かしたまふ、故に流瀬川と稱す、其柏樹今に於呂志古
山の嶺上にあり、大さ牛をかくす、一女神は石見國橋
-----
p227
の浦へなかれよらせたまひしを、當國日御崎に移たて
まつり、今に崇敬すと申傳へ侍。社司に雲次郎と號し
て代々社祀を掌とれり。~


(120コマp227)

宮尾山 古老傳云、素盞嗚社往昔此山に鎮跡、今礎石のこれり。

(123コマp233)

龍王宮 本社一間四方、

琴引山 【風土記】に見へたり、古老傳云此峯の窟裏天下
を造所の大神の御琴あり、長さ七尺廣さ三尺厚さ一尺
五寸、故に琴引山といふ、今土俗琴神山といふ権現座
す、是即大神ならむ、

堤四ヶ所

頓原

八幡宮 本社三間に四間、門客人二社末社と稱して若宮
を勧請す

稲荷

琴峯権現 天下を造所の大神なりという、

ゆるき山 麓に権現の小社あり、

堤二ヶ所


雲陽誌秋鹿郡1(桑原文庫)/(地誌大系-雲陽誌巻之ニ秋鹿郡)

p16

多太大明神
衝杵等乎而留彦(つきゝとをしるひこの)


雲陽誌秋鹿郡2(桑原文庫)/(地誌大系-雲陽誌巻之ニ秋鹿郡)

p13(45コマp77)

秋鹿
姫二所大明神
 風土記に載る秋鹿社是なり
八幡宮
 秋鹿姫命應神天皇をまつる二神
 相殿に坐なり~


雲陽誌(地誌大系-雲陽誌巻之九楯縫郡)

(137コマp261)

奥宇賀

籠守(こもり)明神 筒男(つゝをの)命なり、本社四尺に五尺東向、拝殿一間
 半に二間、祭禮九月九日なり、古老傳に此社より八町
 はかり山つゝきの南に岩窟あり、穴の裡六七尺はかり
 西向なり、(くぼ)き所に穴口あり、窟より五十間はかり南
 の方に(はたり)二尺の穴あり。深ことはかりなし、此窟へ夏
 の末秋の初には籠守明神を御幸なし奉り、郡中の社司
 あつまり供物をそなへ七坐の神事百番の舞ありといへ
 とも、何の比よりか絶たり、冬至の夜は此窟へ籠守明
 神の御幸ありとて俚人夜行せさるなり、

窟 和多灘より十五町南の山にあり、【風土記】に宇賀郷
 に窟戸高さ廣さ各六尺はかり深浅しれす、此窟の邊に
 いたる者必死すといふ、故に今に黄泉の穴と號す、俗
 人古より冥途黄泉の穴といふ。

口宇賀

宇賀明神 大己貴命綾門姫(あやとひめ)をまつる、本社八尺四方、拝
 殿二間に四間、祭祀正月七日、神田植百手の神事九月
 十九日祀有り、永正十年再興の棟札あれとも鎮座年歴
 見へす、古老傳に大己貴命と綾門姫夫婦(むつまし)からさる
 により、綾門姫大社を忍出たまひたり、大己貴の神籠
 守明神を伴たまひて綾門姫を追たつねたまひ、奥宇賀
 布施の山に到ぬ、山の半腹に穴あるを見て此穴のほと
 り人の通たるとおほしくて草靡たり、綾門姫もし此穴
 に隠居たまふにや、籠守明神は爰に守居たまへとて此
 谷を布施者にたまはりたるによりて、今所の名として
 布施とはいふなり、大己貴尊口宇賀を窺たまふに綾門
 姫出たまふに逢たまへり、故に窺知といふ心にて宇賀

(138コマp262)

 の郷とはいふなり。夫より大己貴命と綾門姫をまつり
 て宇賀明神と崇たてまつりぬ、楯縫郡猪目浦と神門郡
 宇峠浦との界巌の上に馬と牛との蹄の跡あり、俚民語
 けるは綾門姫と大己貴命馬と牛とに乗て此所にて行合
 たまふ時の蹄跡なりとて今にあり、

(145コマp277)

猪目
猪目岩 間口の東に岩二あり、此岩猪の目に似たり故に
 猪目浦と名付、


雲陽誌(地誌大系-雲陽誌巻之十神門郡)

(152コマp291)

姉山 土人傳云天照大神しはらく鎮坐素盞嗚尊來給ふ、
 是より姉山と號す、老樹巉岩過るものの竦然たり、
袋石 形袋のことく縫めあり、俚俗大神の袋石という由
 來詳ならす、


雲陽誌(地誌大系-雲陽誌巻之十神門郡)

(163コマp312)

日御崎
【風土記】に載る御前濱は古出雲郡なり、今は神門郡内
 に有、世人御崎と書するは此所なり、(明神記曰、當國大靈貴産生之地而今又
 有日神垂跡也、故名日御崎、)
日沉宮 【延喜式】神名帳に曰出雲の國出雲郡御崎之神社
 とあり、【風土記】にも美佐伎社出雲郡にみへたり、今
 は神門に属す、

(p313)


 ~神主は三位檢校と申て
 天葺根命の後胤今にいたりて神脈相續せり、毎歳十二
 月晦日の夜社の上天一山といふ所へ檢校一人衣冠して

(164コマp315)

 峰にあかり、神劔を天に達する祭事あり、黎明に及て
 山より下、偶雨雪降といへとも蓑笠も著せずして一點
 もぬるゝことなし、一子相傳の神事なり、世俗皆奇異
 なりとす、是何の遺風ぞや、傳聞昔八束水命八岐蛇を
 斬尾に及て刃缼卽擘てみるに一の神劔あり、是私に用
 へからすとて五世の孫天葺根命を遣て天に奉る、蓋當
 宮の祭官葺根命の神脈なり、仍今に天神奉劔の遺風あ
 るか、~


月讀神社 月夜見尊を天一山にまつる、本社七尺四方なり、
秘基神社 隱岡といふ垣あり社なし、


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