『出雲国風土記』
『出雲国風土記』秋鹿郡
『出雲国風土記』楯縫郡
(白井文庫k25)
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楯縫郡
合郷肆里一十二 餘戸壹神戸壹
佐香郷 今依前用
楯縫郷 今依前用
形潭郷 本字忽美
沼田郷 本字努多 以上肆郷別里參
神戸里
所以号楯縫者神魂命詔五十足天日栖宮之蹤
横御莖千尋拵紀持與百八十結々下與此天御
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量持與所造天下大神之宮造奉請與御子天御
鳥命楯郡爲與天下給之尒時退下來唑與大神
宮御裝楯造給所是也仍至今楯杵造而奉
出皇神ホ故云楯縫
佐香郷郡家正東四里一百六十歩佐香河内百
八十神等集唑御厨立給與今釀酒給之即
百八十日喜燕解散故云佐香
楯縫郷即屬郡家説名
女郡即北海濱業梨礒有窟
裏方一丈半高廣各七尺裏南壁在穴口周
六尺徑尺人不得入不知遠近
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楯縫郡 †
合郷肆里一十二 餘戸壹神戸壹 †
郷は合わせて四つ(里一十二) 余戸壹 神戸壹
佐香郷 今依前用 †
佐香郷 今も前に依りて用いる
- 今依前用…(佐香郷の名は神亀3年以前の呼び方をそのまま用いている。)と云う意味。
楯縫郷 今依前用 †
楯縫郷 今も前に依りて用いる
形潭郷 本字忽美 †
形潭郷 本字は忽美
- 形潭郷…玖潭郷(クタミ)であろう。出雲市久多美町に「玖潭神社」がある。
・出雲国風土記抄3帖k2本文で「玖潭郷」
- 忽美…「忽」の読みは(コツ)なので「忽美」(コツミ)の読みとなるが、(クタミ)と読んでいる事が多い。
沼田郷 本字努多 以上肆郷別里參 †
沼田郷 本字は努多 (以上四郷、別に里三)
神戸里 †
神戸の里
所以ハ号ス楯縫ト者神魂ノ命詔リ五十足天日栖宮之蹤横御莖千尋拵紀持與百八十結々下與此天御量持與所ノ造天ガ下大神之宮造リ奉請與御子天御鳥ノ命楯郡爲與天下ノ給フ之ヲ †
楯縫と号すゆえは神魂の命、五十足天日栖宮の蹤横の御莖を千尋に拵え紀ぎ持ちて百八十に結々下げて、此の天の御量持ちて天が下造りし所の大神の宮を造り奉れと請詔りて、御子天御鳥の命を楯郡と爲して之を天下し給う
- 五十足…百足(モモタル)に至らないと云うことで、「半ば・途中」の意味であろう。
- 莖…茎の旧字。織物の縦糸の象形で(もと・はしら)の意味がある。
- 天御量(アメノミハカリ)…度量衡の測定器。(アマツミハカリ)と読むと天ツ神達の会議と云う意味にもなる。
- 天御鳥…ルビに従い(テミトリ)。(アメノミトリ)と読んでいる場合が多い。
- ミトリは見取り図のミトリに通じる。天御鳥命の意味は天日栖宮の建築を担う者を意味しているのであろう。
古代の建築は鉄釘などの金物を使わず、柱を縄で結びつけて築きあげた。いわゆる柔構造の木造建築である。
仮に地震等で倒壊しても、すぐに建て直せるという作り方であった。
それ故、御茎・紀ぎ、結々など、縄を結うことに関連する表現が色々記されているのだが、その為に少々解り難い部分にもなっている。
尒ノ時退下來唑與大神宮御裝楯造リ給所是也 †
その時、退り下り来まして、大神の宮と御裝う楯造り給いし所、是なり。
- 楯…「御装う楯」と云うのであるから、外壁の飾りのことであろう。
仍至今楯杵造而奉出皇神楽カホ故云楯縫 †
仍て今に至るまで、楯杵造りて皇神等出奉る、故に楯縫と云う。
- 仍至今…「仍」には「重ねる・繰り返す」の意味があり、「今に至るまで繰り返して」いることを表す。
- 楯杵…楯と杵。杵は土を突き固め堀立柱を立てるために用いたのであろう。
- ホ…上に「ホ」と記したのは「等」の略字。「楽カ」と傍記があるが「楽」ではない。
- 楯縫…楯・盾は、武具の内、防禦に用いるものであるが、元は革製でこれを漆で固めたものであり、軽量でかなりの防御力があった。
更に木に皮を貼ったものが造られた。「盾」とある場合は革製で、「楯」とある場合は木製であるといえる。
「盾縫」と云うのは、皮を縫って盾を作る事であり、木製楯を作るようになって「楯縫」となり楯作りの職人集団を「楯縫部」と呼んでいた。
尚、皮の盾は腐食の為に今に残っていることは稀である。
- 「楯縫郷」の由来について記されたこの部分は少々すっきりしない所がある。縦・楯を掛詞のように用いて「建」を表現しようとしているようにも思える。
案ずるに、楯縫郷の由来は楯縫部の居住していた郷であり、その由来を天御鳥に繋がる者として伝えたのではないかと思われる。
- この部分異同が多いので次に挙げておく。
・出雲国風土記抄3帖k3本文
所以ハ号スル楯縫ト者神魂ノ命詔五十足天日栖宮之縦横御量千尋ノ栲縄持テ而百結ビニ結テ八十結結而
此ノ天ノ御量リ持テ而所造天下大神ノ之宮造リ奉レト詔フ而御子天ノ御鳥ノ命楯部ト爲而天降シ給ノ之
尒時ニ退下来坐マシテ而大神ノ宮ノ御装束ノ楯造リ始メ給フ所是也
仍テ至今楯桙造テ而奉ハ於皇神等故ニ云楯縫ト
楯縫と号するゆえは神魂の命詔五十足天日栖宮の縦横御量千尋の栲縄持て百結に結て八十結結て
此の天の御量り持ちて所造天下大神の宮造り奉れと詔ふて御子天の御鳥の命楯部と為して天降し給の
時に退下来坐して大神の宮の御装束の楯造り始め給ふ所是なり。
仍て今に至り楯桙造て於皇神等に奉は故に楯縫と云う。
・訂正出雲風土記上k45
タテヌヒトナヅクルユエハ カミムスビノミコトノノリ玉ハク モモチタルアメノヒスノミヤノタテヨコミハカリチヒロタクナハモチテ モモムスビムスビ ヤソムスビムスビサゲテ
所以號楯縫者神魂命詔。五十足天日栖宮之縦横御量千尋栲縄持而。百結--。八十結--下而。
コノアメノミハカリモチテ アメノシタツクラシシオホカミノミヤツクリタテマツレトノリ玉ヒテ ミコアメノミトリノミコトヲタテベトシテ アマクダシタマヒキ
此天御量持而。所造天下大神之宮造奉詔而。御子天御鳥命楯部爲與。天降給之。
ソノトキマカリクダリキマシテ オオカミノミヤノミヨソヒノタテツクリハジメタマヒシトコロナリ
爾時退下來坐而。大神宮御装束楯造始給所是也。
カレイマニイタルマデタテホコツクリテ スメカミタチニタテマツル カレタテヌヒトイフ
仍至今楯桙造而。奉於皇神等。故云楯縫。
佐香郷郡家正東四西トアリ里一百六十歩 †
佐香郷、郡家の正に東、四里一百六十歩
- 佐香郷…
・出雲国風土記抄3帖k3解説で「此郷ハ并セテ於小佐加恵佐香園村鹿園寺四所ヲ以為佐香郷ト也蓋シ百八十神等燕會ノ處ハ今ノ佐香ノ小川ナラン也」とある。
(此の郷は小佐加恵、佐加、園村、鹿園寺の四所を併せて、以て佐香郷と為す也。けだし百八十神等燕会の所は今の佐香の小川ならんや。)
今の小境・坂浦・園村・鹿園寺の4地区が該当するのであろう。
- 郡家…楯縫郡家。所在地は推定地が多久谷・岡田・多久灘など諸説ある。
- 西トアリ…元の文では「郡家正東西里」とあったのを「郡家正東四里」に改めたのであろう。
佐香河内百八十神等集リ唑ス御厨立給フ與ヘ今釀酒ヲ給フ之 †
佐香の河内に百八十神等集まり唑す。御厨立給う。今酒を釀し與へ給う。
- 佐香河内…小境町に「松尾神社」があり、別称「佐香神社」という地理院地図。酒造りに関わりのある神社であり、神集い燕會したというのはここであろうと思われる。近くを流れる川を小境川といい、かつては佐香川と呼び、この川水で酒造りをしていたという。(今は少々東方に川筋が移動している)
・上の出雲国風土記抄で「佐香の小川」とある。
・校注出雲国風土記p48脚注に「川に囲まれた地区。佐香川は今の鹿園寺川」とある。
- 鹿園寺川というのは良く解らないが鹿園寺町を流れる川(境川)を指しているのかと思われる(地図では西の支流の方に「境川」と表示されているが東の本流も「境川」である)。とすれば佐香川ではない。
- 百八十神…「百八十」は「多数」の意味で百八十柱の神々という意味とは異なる。次の「百八十日」も同様。
- 御厨…神饌を準備する建物を指す。
即チ百八十日喜燕解散故云佐香ト †
即ち百八十日喜燕し解散ます。故佐香という。
- 喜燕…「燕」を訂正出雲風土記では「讌」としている。「讌(エン)」は「酒宴」を意味する。
・出雲国風土記抄3帖k3、本文で「喜燕」とし、「喜ビ燕(サカモリ)シ」と読んでいる。
・出雲国風土記考証p177で「喜讌」とし(ミサカミヅキ)と読みをふっている。
・校注出雲国風土記p48で「喜讌」とし(サカミヅキ)と読んでいる。
- 「喜燕」が元字で「喜讌」であったのかどうかは不明。
酒宴を(サカミヅキ)と云う事があるので、考証・校注では「燕」を「讌」とし(サカミヅキ)と読んだのであろうと思われるが、「喜」を含めて「喜讌(サカミヅキ)」と読むのには少々違和感がある。
萬葉集巻18、大友家持の歌に「左加美都伎」とあり、酒を楽しむことと解されている。(「酒水喜」或いは「酒満喜」の意か)
- 解散…(アラケ)は「散(アラ)かす」の意味で、皆に配る事を指す。
楯縫郷即チ屬ス郡家説名女郡 †
楯縫郷、即ち郡家に属す。(名を説くこと郡の如し)
- 楯縫郷…今の多久・多久谷・岡田・布崎・小伊津・三津・美保(唯浦)・塩津地区を併せた地域
・出雲国風土記抄3帖k4解説「鈔云楯縫郷比天平則属郡家并於多久多久谷岡田布崎古井津三津只浦塩津等八箇所都為楯縫郷也」
(鈔に云う。楯縫郷は天平のころには則ち郡家に属す。多久、多久谷、岡田、布崎、古井津、三津、只浦、塩津、等の八箇所を併せ都めて楯縫郷と為す也)
・校注出雲国風土記p48脚注で「楯縫郡家」について「平田市多久灘辺にあったらしい」とある。
・出雲国風土記考証p177解説で「この地方では、郡家の位置を、今の檜山村多久の観音寺下の字下邸といふ所であつたと、言い傳へて居る由なれども、下邸といふ名は、天平時代よりも後の世に、庄園の地頭の居つた所であつて、郡家の跡ではあるまい。伊農川より八里二百六十四歩とすれば、今の大慶寺の本堂より西々南、直線四町許り、檜山及び鴻巣山より流れ來る川が、今の縣道を横切る邊にあつたものであらう。」とある。
- 観音寺と云うのは平田普賢院(出雲市多久谷町289)の事かと思われる。下邸の位置は不詳。
校注出雲国風土記も出雲国風土記考証も楯縫郡家の位置を同じ場所に見ているようである。地理院地図
校注出雲国風土記が出雲国風土記考証の説を慣用したのであろうと思われるが、伝承による下邸説も捨てがたい。
考証ではこの「下邸」という呼び方が地頭を定めた時代の呼称であるからと云う理由で否定しているが、元郡家のあった場所に地頭が入り、名称が変わったと考えることもできる。施政面ではその方が妥当という気がする。この件保留。
即北海濱業梨礒有リ窟裏方一丈半高サ廣サ各七尺裏南壁在穴ノ口周リ六尺徑リ尺人不得入リヲ不知遠近ヲ †
即ち北海濱の業梨礒に窟有り。裏方一丈半、高さ廣さ各七尺。裏の南壁に穴の口在り。周り六尺、徑り二尺。人の入りえず、遠近を知らず。
- 業梨礒…「業」は象形でギザギザ模様を表す。「梨」は音の利用であろう。「礒」は波打ち際の岩。ちなみに「磯」は岩に当たる水音を表す。ギザギザ模様の海苔が張り付いた岩場を表す。
・校注出雲国風土記p48本文で「紫菜磯」脚注で「紫菜石磯の略。諸本「業梨」とあるが草体の誤写。今の平田市唯浦の穴が淵がそれであると伝える」としているが、誤写ではない。また「穴が淵がそれであると伝える」とあるのは以下に記した出雲国風土記抄記載のことと思われるが「穴が淵」ではなく「穴が之渕」である。こういう誤記は転用されやすいので注意が必要。
- 穴口…白井本では「穴-口」と「-」で繋ぎ続けて読むようにしている。
・訂正出雲風土記上k45では「~有穴。口周~」と区切っている。
・出雲国風土記抄3帖k4の解説で「礒ノ磐窟ハ者今俗曰穴カ之渕ト是也ス則在于只浦ニ予嘗テ行於舩ヲ而メ視レハ其ノ穴中ヲス則二町許白沙皓潔タリ不ス知ラ其ノ歯奥ノ深浅更ニ云フヲ幾ソ許リト也」
(礒の磐窟は今俗に穴が之渕という是也。則ち只浦に在り。予嘗て舩をやって其の穴中を視れば、則ち二町許り。白沙皓潔たり。其の歯奥の深浅を知らず、更に幾ぞ許りと云う也)
・・只浦…唯浦地理院地図。
・・白沙皓潔…「皓」は白く輝く様子であるから、「白沙皓潔」は白く輝く綺麗な砂で覆われていたことを表したのであろう。
・・歯奥…「歯」は上の[止]が無い字形。[止]は口を塞ぐ事を表したものであり[止]の無い形でも歯を表す。歯奥と云う表現は、口中のような穴を表したのであろう。
出雲国風土記考証p182では出雲国風土記抄の引用で「幽奥」としているが誤り。
- 出雲国風土記抄3帖K4
(白井文庫k26)
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前作形此作政何不審
政潭郷郡家正西五里二百歩所造天下大神命
天御飯田之御倉將造給覓巡行給尒時波夜
佐雨久多美乃山詔給故云忽美神龜三年改
字政潭
沼田郷郡家正西八里六十歩宇乃沼比古命以
尒多水而御乾飯尒多尒食唑詔而尒多負
給之然則可謂尒多郷與命人猶云努多耳
神亀三年
改字沼田 神戸里出雲己説名
如意宇郡
[寺]
新造院一所在沼田郷中建立嚴堂也郡家正西
六里一百六十歩大領出雲臣大田之所造也
[社]
久多美社 多久社佐加社乃利斯 御津社
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水社 宇美社 許定社 同社 以上八所並
在神祇官
許豆乃社 又許豆社 又許豆社 久多美社 同久
多美社 高守社 又高守社 紫菜嶋社
鞆前社 宿努社 埼田社 山口社 葺原社
又葺原社 田由社 峴之社 阿年知社 葺原社
田々社 以上一十九所
不在神祇官
[山]
神名樋山郡家東北六里一百六十歩高一百二
十丈五尺周廾一里一百八十歩嵬西在石神
高一丈周一丈往側在小石神百餘許古老傳
云阿遲須枳高日子命之天御梶日女命來
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前作形此作政何不審 †
(前に形に作り、此に政に作る何ぞ不審)
- 楯縫郡の最初で「形潭郷」と記しここで「政潭郷」と記している事への疑問を示している。
・出雲国風土記考p63で荷田春満は「形は玖の誤るなん」と記しているが、政については触れていない。
古写本で異同があるのであろう。「形潭」も「政潭」も今に繋がる地名はないので、ある時に「玖潭」を誤写したのであろう。
誤写したものが伝わり、それに対する疑問を記すというのは、底本の信頼度を上げる計らいである。
政潭郷郡家正西五里二百歩 †
玖潭郷、郡家の正に西五里二百歩
- 玖潭郷…久多美、東郷、東福、野石谷、鎌浦、十六島、小津、辺りの各地区を併せた地域
・出雲国風土記抄2帖k4解説で「兼併久多美村東郷福村海苔石谷鎌浦十六嶋右津等ノ八所ヲ以為玖潭ノ郷ト也」
所造天下大神命天御飯田之御倉將造給覓メ巡リ行キ給フ尒時波夜佐雨久多美乃山詔給フ故云忽美神龜三年改字政潭 †
天の下造らしし大神の命、天御飯田の御倉を將に造り給わんと覓め巡り行き給う時に、波夜佐雨久多美乃山と詔給う。故に忽美と云う。(神龜三年字を玖潭と改む)
- 天御飯田之御倉--「天御飯田」は神饌用の神田。「御倉」はその米を保存しておく倉。
- 波夜佐雨久多美乃山(ハヤサウクタミノヤマ)…「波夜佐雨」は「速雨」で突然降ってくる雨。「久多美」は腐(クタ)み、傷める事と解している場合があるが疑問。
・校注出雲国風土記p48脚注では「久多美」の脚注で「早雨、腐すにかかる枕詞。「くた」は「卯の花を腐す霖雨」(万)などある四段動詞の語幹」と記している。
萬葉集巻19大友家持の「宇能花乎 令腐霖雨之 始水邇 縁木積成 将因兒毛我母」(うの花を 腐す霖雨の 始水に よる木積なす よらむ児もがも)を引用しているが、ここに云う「宇能花乎 令腐霖雨之」と云うのは梅雨の長雨を指しており、そういう時期に御倉造りのための場所を探して廻る事は考えられない。又「卯の花腐し」は、あくまでも「卯の花を腐す」のであって、「卯の花」無しでは意味を成さず「早雨腐す」と直接繋がる表現ではない。「早雨」は枕詞でも何でもない。尚「卯の花腐し」は通常は梅雨前(旧暦4月・今の5月頃)の雨の事を云う。
・出雲国風土記考証p182解説では、他地域の「球覃」「朽網」や「降水」など挙げて長々と記しているが結論を得ていない。
久多見町に玖潭神社(地元では東福町の久多美神社と区別する為クタン神社と呼ぶ)がある(主祭神:大穴牟遲大神)地理院地図。
元は北西約1(㎞)の城山山頂(要害平)に鎮座地理院地図。
1496年秋、火災により焼失。御神体は暫く西方山腹の巨岩上に祀られていたが、その後1669年に現在地に遷座再建。
一時御神体を移していた巨岩は、松平不昧が父親の寿蔵碑建立の為に切り出し松江の月照寺に運んだが色々奇怪なことが起きた。その為か残った親岩には延命地蔵を刻み、切り出し禁止として今に残っている。
pdfだが、ここに案内がある。「玖潭神社と延命地蔵」
- 玖潭神社の案内に「二十町餘り(約二.二粁)北方~」とあるが誤り。合社した池田の久多美社(池田社・五所大明神)からの距離をそのまま記したのであろう。この記述に結構迷わされた。玖潭神社と久多美神社の関係については少々長くなるので機会を見て別記する(かもしれない)。
- 忽美(クタミ)…ルビでは(クミ)。「忽」は(コツ・タチマチ)であるから、上の「波夜佐売久多美」を「波夜佐雨忽美」とすれば、速雨が忽ちに降ってきた。則ち、「突然のにわか雨」と云う意味となり得心できる。(美は音をあてた美称)
ここの一文、意訳すると「大己貴神が米倉を造る良き地を求めて各地を廻っていた時、(城山にて)突然のにわか雨にあったと語られた。それでクタミと云う。」となる。
「忽美」は本来(コツミ)の読みであるはずだが、「忽(タチマチ)」の語意を込めてこの字を用いたのであろう。
- 「久多美」「忽美」を神亀3年に「玖潭」に変えた趣旨が解らない。「玖」は黒石で「潭」は深い渕である。大己貴神の逸話と何の関係もなくなる。
ちなみにこの地から切り出される石材を「久多美石」というが、青石であって黒石ではない。
「玖潭」が「久多美」「忽美」より好字であるとも思えない。
「形潭」「政潭」と記していたのは「玖潭」への改名に対する反撥心が背景にあったのかも知れないとさえ思われる。
沼田郷郡家正西八里六十歩 †
沼田郷、郡家の正に西八里六十歩
- 沼田郷…今の平田、西平田、西代、灘分、西郷、の地区を合わせた地域。
・出雲国風土記抄3帖k5解説で「并テ於平田西代出来洲等ノ所ヲ以為スル沼田ノ郷ト也 意フニ出雲ノ大河此辺ノ之俗曰フハ尒多河蓋シ所謂ル古ノ之遺称之也」とある。
‥出来洲は灘分町に上出来州・下出来州と云う地区に分かれてある。中間地に浮洲神社というのがあり、この辺りまでが風土記時代の洲であったのかと思われる。
‥尒多河…今の平田船川のことであろうか。但し平田の新田地区は江戸期からの開発地で風土記時代には無かったから今の平田船川の河口はかなり西方、愛宕山公園の南辺り迄であったろうと思われる。
宇乃沼比古命以尒多水而御乾飯尒多尒食唑詔而尒多負給之然則チ可謂尒多郷ト與命人猶云努多ト耳神亀三年
改字沼田 †
宇乃沼比古命、尒多の水を以て御乾飯尒多に食しめして、詔て尒多と負し給う。然れば之則ち尒多郷というべきを命人猶努多と云うのみ。(神亀三年、字を沼田に改む)
- 宇乃沼比古…一部「宇乃治比古命」としている書がある。
「宇乃沼比古命」出雲国風土記抄2帖k4・上田秋成書入本k28・風好舎敬義本k38・鶏頭院天忠本k28・出雲国風土記考p63
「宇乃治比古命」訂正出雲風土記-上-k46・校注出雲国風土記p48・(考証・標注・校訂などは訂正を底本としているので同様)
‥分別してみると、「宇乃沼比古命」の方が多いが、訂正出雲風土記の影響が大きいのであろう近年は「宇乃治比古命」としている書を多く見る。沼田郷であるのだから「宇乃沼比古命」の方が妥当と思うが如何に。
- 尒多水…尒多河の水であろう。
- 御乾飯尒多尒食唑…乾飯を煮てお粥のようなものを作ったのであろう。
・出雲国風土記考証p184で「今、鰯をヌタにして食ふといふときは、鰯の骨を除いたものに、葱などの煠でたものを混じ、味噌と酢に和えて食うことをいふ。故に爾多爾食は雑炊にして食うことであらうと思はれる。」とある。
尒多(爾多)はヌタでなくニタなのだが・・・・。
- 命人…「今人」であろう。「命人」は戸籍のある人の意味にも取れるのでこのままにしておく。
神戸里出雲己説名如意宇郡 †
神戸里(出雲なり。この名を説くこと意宇郡の如し)
- 神戸里…今の野石谷地区
・出雲国風土記抄2帖k5解説で「鈔云此神戸者玖潭ノ郷中海苔石谷六社大明神ノ神戸也」
これについて、
・出雲国風土記考証p184解説で「海苔石谷は、玖潭郷と神戸里とに分かれて属く程に戸数の多い地とも思はれないが、風土記鈔にいふ如くならば、久多美村の高野寺地理院地図へ登る路以東は神戸里で、その路以西は玖潭郷に属していたものか」と記している。
‥雲陽誌を参考にすると、六社大明神というのは「能呂志神社六所明神」とあるのがこれに当たるのであろう。地理院地図
神戸を持つ神社であるから古代には重要な地位をしめていたと考えられる。北浦の名産品である海苔集積に関わりのある神社であったのであろう。この神社付近で海苔の交易が行われていたのかと思われる。考証の記述は過小評価と云わざるをえない。
(出雲国風土記抄ではここに餘戸里があるので追記しておく。)
- 餘戸里…今の万田、本庄地区
・出雲国風土記抄2帖k5解説で「鈔云此里者并テ於萬田本庄二村ヲ以テ餘戸里也」
・校注出雲国風土記p49では脚注で「平田市西北十六島半島辺に当たるか」と記し、万田・本庄は沼田郷としている。
(白井文庫k27)
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(白井文庫k28)
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『出雲国風土記』出雲郡