『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡(おうのこおり)
(白井文庫pk4)
~
意宇郡
合郷壹拾壹里卅餘戸壹驛家参神戸參
母理郷 本字文理
屋代郷 今依前用
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意宇郡 †
意宇の郡
合郷 壹拾壹里卅 餘戸壹 驛家参 神戸參 †
合わせて郷一十一里三十、余戸一、駅家三、神戸三
- 合郷壹拾壹とあるが総記では郷壹拾となっている。以下で11郷記されているので、総記が誤っているのであろう。
郷は霊亀元年(715年)に里を改称したもので、郷里制となり、2里又は3里で1郷とされた。
校注出雲国風土記では総記共に「郷壹十壹里卅三」としている。原文そのままなのか修正したものなのかは不明
母理郷 本字文理 †
母理郷 本の字は文理
- 「郷」…校注出雲国風土記では、「さと」と読んでいるが混乱を避けるために、以下「ごう」と読む。
屋代郷 今依前用 †
屋代郷 今も前に依りて用いる。
(白井文庫k05)
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楯縫郷 今依前用
安來郷 今依前用
山國郷 今依前用
飯梨郷 本字云成
舍人郷 今依前用
大草郷 今依前用
山代郷 今依前用
拜志郷 今字林
宍道郷 今依前用 以上壹拾一郷別里參
餘戸里
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野城驛家
里田驛家
完道驛家
出雲神戸
賀茂神戸
忌部神戸
所以号意宇者国引唑セリ
八束水臣津野命詔八雲立カ
出雲国者狹布之堆国在哉初国小所作故將作
縫詔而栲衾志羅紀乃三埼矣国之餘有耶見
者国之餘有詔而童女离鉏所取而大魚之支太
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楯縫郷 今依前用 †
安來郷 今依前用 †
山國郷 今依前用 †
飯梨郷 本字云成 †
舍人郷 今依前用 †
大草郷 今依前用 †
山代郷 今依前用 †
拜志郷 今字林 †
宍道郷 今依前用 以上壹拾一郷別 里參 †
餘戸里 †
野城驛家 †
里田驛家 †
完道驛家 †
出雲神戸 †
賀茂神戸 †
忌部神戸 †
所以号意宇者 国引唑セリ
八束水臣津野命詔 八雲立出雲国者 狹布之堆国在哉 †
意宇と号くる所以は、国引き唑せり八束水臣津野命詔りたまいしく、八雲立つ出雲の国は狭布の堆国なるかな。
- 原文の「八雲立カ
」は「八雲立」と修正。
- 「堆国」は一般に「稚国」とされているが、上田秋成書入本(コマ6)でも「堆國」で(ウツクニ)とルビがある。(赤書きで注記あり)
「稚国」としたのは宣長の説に始まるらしい。
- 「狭布之堆国」は「小さな布が積まれたような国」という意味だと考えられる。
続く文で「作縫」とあり、「その布を縫い合わせて拡げよう」とつながる。小さな山(島)の裾野を拡げ、そうして拡げた幾つかの地域を繋ぐというような意味で、薗の長浜や弓ヶ浜が拡がり更に斐伊川下流域の干拓が進んで出雲という大きな国になっていったことを物語っているのであろう。
初国小所作 故將作縫 詔而 栲衾志羅紀乃三埼矣 国之餘有耶見者 国之餘有 詔而 †
初国は小さく作れり。故作り縫わな。と詔りたまいて、栲衾志羅紀の三埼を 国の余り有るやと見れば、国の余り有り。と詔りたまいて、
- 栲衾…楮などから作った夜具。白色であることから白に掛かる枕詞として使われる。
- 「最初は国が小さかったので、布を次ぎ足すように縫い拡げよう。」という物語。
童女离鉏所取而 大魚之支太衝別而 †
童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて
- 离…「離」の簡字であるが、上田秋成本等では「胷」としており「胸」の異体字であるので、「胸」に改める。
- 童女胸鉏所取而…「童女の胸のように広い鉏を手にとって」、童女胸は鉏に掛かる枕詞。
鉏(サイ)は小刀のことでスキとも読む。農耕に用いる鋤(スキ)とは異なる。
鉏も鋤も共に突き刺して使う道具で、スクという動作を表すことから転じてスキと読む。
- 支太=波太…鰓(えら)
- 「幅広の小刀を大魚の鰓に刺して切り分ける」というような意味。
- 上記が従来の読み方からの解釈であるが、「童女胸鉏所取而」には疑問がある。というのは石見に残る胸鉏姫伝説がある為である。
(白井文庫k06)
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衝別而波多須支穂振別而三身之総打桂與霜
黑葛聞〃
耶〃
尒 河船之毛〃
曽〃
呂〃
尒 国〃
來〃
引來
縫国者 自去豆乃折絶而 八穂朱支豆支乃郷埼
以此而堅立加志者石見国與出雲国之堺有名
佐比賣山是也亦持引綱者薗之長濱是也亦北
門佐伎之国之餘有耶見者国之餘有詔而意下ニ童トアリ
意女离鉏取与火魚之支大衝別而波多須〃
支穗
振別而三身之綱打桂而霜黑葛聞〃
耶尒河船之
毛〃
曽〃
呂〃
尒国〃
來〃
引來綱国者自多久乃折
絶与狹田之国是也亦北門良波之国矣 国之餘有
-----
耶見者国之餘有詔而 童意女离鉏取取而大魚之支
大衝別而波多須〃
支穗振別而三身之綱打挂而霜黑
葛聞〃
耶〃
尒河船之毛〃
曽〃
豆〃
尒 国〃
來〃
引自是下八十三字衍字「來綱国者自
多久乃折絶與狭田国是也亦北門良波之国矣国之
餘有邪見者国之餘有詔而童意女离鉏取取而大魚
之支大衝別而波多須〃
支穗振別而三身之綱打挂而
霜黑葛聞〃
耶〃
尒河船之毛〃
曽〃
豆〃
尒 国〃
來〃
引」是迄時
引縫国者自乎波縫折絶而闇見國是也亦高志
之都乃三埼矣国之餘有邪那トアリ見者国之餘有詔而童
意女离鉏所取而大魚之支大衝別而 波多須〃
支穗
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- この頁には衍字(誤入)があるが、先ずはそのまま掲載。又誤記も多い。以下は修正して記す。
波多須〃支穂振別而 三身之綱打挂而 †
(原文:波多須支穂振別而 三身之総打桂與)
波多須須支穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、
- 波多須須支=はためくススキ。穂に掛かる枕詞
- 三身の綱=三結いの綱
霜黑葛聞〃耶〃尒 河船之毛〃曽〃呂〃尒 国〃來〃引來縫国者 †
霜黒葛闇耶闇耶に、河船の毛曽呂毛曽呂に 国來国來と引き來縫へる国は
- 「聞耶」は「闇耶」に修正
- 霜黒葛…黒葛はカズラの蔓。霜に遭うと丈夫になり、綱の代わりになる。
- 書紀崇神記、出雲梟帥を詠んだ歌に「黒葛」の記載がある。
- 闇耶…「繰るや」で、黒葛を絡めて引っ張る動作。
- 河船の毛曽呂…河船がゆっくり上っていく様子。
自去豆乃折絶而 八穂朱支豆支乃郷埼 †
去豆の折絶よりして、八穂米支豆支の御埼なり。
- 「八穂朱」は「八穂米」に修正(上田秋成書入本参考:コマ6)。支豆支に掛かる枕詞。
- 「郷埼」は「御埼」に修正(上田秋成書入本参考:コマ6)
- 去豆…小津。現在の平田市小津。かつては入り江が現在より深く、小津浦と呼ばれていた。
- 折絶…土地の切れ目・境界。小津から平田に至る部分の低地を指している。
- 八穂米支豆支乃御埼…杵築の岬で、稲佐の浜から日御碕を含む一帯。
以此而堅立加志者石見国與出雲国之堺有 名佐比賣山是也 †
此をもちて堅め立てし加志は、石見国と出雲国の堺に有る 名は佐比賣山 是也。
- 以此而…校注出雲国風土記・i文庫では共に「かくて」としている。
- 加志…樫か?校注出雲国風土記では「舟をつなぐため舟に備え、停泊地で打つ杭」としている。i文庫では注にただ「杭」とある。
- 佐比賣山…云うまでもなく三瓶山の事
- 三瓶山という呼び方は、物部神社祭神宇摩志麻遅命がこの地方を平定した際、3つの瓶を埋めた事によるという。
亦持引綱者 薗之長濱是也 †
亦、持ち引ける綱は 薗の長濱、是也。
- 薗之長濱…大社町の稲佐の浜から出雲市の長浜に渡る8kmほどの海岸砂丘地帯。
- 神西湖は現在より遙かに広く神門の水海と呼ばれる入り江であった。
古代には神西湖と宍道湖は一体で、斐伊川と神門川からの堆積物により西と東に別れた。宍道湖の水域は出雲大社の近くまで拡がっていた。
日本海に流れ出した土砂が海流によって押し戻され薗の長浜という砂州を形造っていた。この砂州が神門の水海を閉ざし神西湖という汽水湖を生んだ。
又、現在斐伊川は宍道湖に注いでいるが、これは江戸時代に行われた川違えという人工的工事によるもので、それ以前は神西湖を通じて日本海に注いでいた。-出雲地方地形変遷
亦、北門佐伎之国之餘有耶見者、国之餘有。 †
亦、北門の佐伎の国の余り有りやと見らば、国の余り有。
- 北門佐伎之国…島根半島に北門という地名は見当たらない。門は出入り口で、北門とは北の出入り口(同時に外敵を防ぐ壁)のことであろう。
「佐伎」という地名も見当たらないが「佐香」「坂」という地名が残っているのでこの辺りを指しているのかも知れない。
(一説に出雲市の「鷺浦」とするものがあるが、位置関係からして疑問)
詔而、意下ニ童トアリ意女离鉏取与火魚之支大衝別而、波多須〃支穗振別而、三身之綱打桂而、霜黑葛聞〃耶尒 河船之毛〃曽〃呂〃尒 国〃來〃引來綱国者 †
自多久乃折絶与 狹田之国是也 †
多久の折絶よりともに、狹田の国是也。
- 多久の折絶…多久は平田市大船山南麓。
- 狭田の国…佐太神社の辺り。
亦、北門良波之国矣 国之餘有耶見者 国之餘有。 †
亦、北門の良波の国に国の余り有りやと見らば、国の余り有。
詔而 童意女离鉏取取而 大魚之支大衝別而 波多須〃支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黑葛聞〃耶〃尒。 河船之毛〃曽〃豆〃尒 国〃來〃引自是下八十三字衍字「~略~」是迄時 引縫国者 †
自乎波縫折絶而闇見國是也 †
宇波より縫い折絶て、闇見国是也
- 自乎波縫折絶而…上田秋成書入本では:コマ7「自宇波縫折絶而」/神西氏蔵書写しでは、p10~11「自手結乃打絶而」/校注出雲国風土記ではp106「自宇波折絶而」
- 北門良波之国…良き波の国というのであるから良き港のある国のことを指しているのだろうと思われる。
島根町に「野波」「小波」という入江があり、「奴奈美神社」というのも残っているので、「良波之国」はこの辺りを中心とした地域だったのかも知れない。
(良波を宇波とし、手染・手結の誤りで、手角や手結浦とする説があるが疑問)
- 「縫う」というのは「打つ」のではない。即ち武力統合ではない。繋ぎ拡げるのである。出雲の国造りがその様なものであったことを示す表現である。
亦高志之都乃三埼矣国之餘有邪那トアリ見者国之餘有 †
亦、高志の都の三埼に国の余り有りやと見らば、国の余り有。
- 高志之都…「高志の津」であろう。高志は越で、「越の国」は現在の福井県・石川県・富山県・新潟県に及ぶ地域
- 校注出雲国風土記では「高志之都都之三埼矣」としており、能登半島の珠洲埼辺りかと推察しているが疑問。
- 国引き神話は壮大で面白い話だが、高志の津という時、それは越の国の人々が交易の為に暮らしていた港というような意味で、美保関辺りを指していると思われる。それを出雲の国に組み入れたというような説話というのが実際のところであろう。
最初の「志羅紀乃三埼」も同様に新羅の国の人々が交易の為に暮らしていた岬(日御碕辺り)を出雲の国に組み入れたという事であろう。
詔而 童意女离鉏所取而 大魚之支大衝別而 波多須〃支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黒葛聞〃邪〃尒 河船之毛〃呂〃尒国〃來〃引來縫国有 †
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(白井文庫k07)
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振別而三身之綱打挂而霜黒葛聞〃邪〃尒河船之
毛〃呂〃尒国〃來〃引來縫国有三穂之椅接引
綱夜見島固堅立加志者有伯耆国火神岳是也
今者国者引記詔而意乎社尒御枝衝立而意
惠登詔故云
意宇 所謂意宇者社郡家東北邊田中社
塾是也周八歩許其上有一以茂
母里郷郡家東南卅九里一百九十歩所造天下
大神大穴持命起八口平賜而還唑時唑長江山而
詔我造唑而命国者皇御孫命平也所知依奉
但八雲立出雲国者我静坐国青垣山廻賜而玉
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弥直賜而守詔故云文理神亀三年
改字母里
屋代郷郡家正東卅九里一百廿歩天乃夫比命御伴
天降來社伊支等之遠神天津子命詔吾浄將坐志
社詔故云社神亀三年
改字屋代
楯縫郷郡家東北卅二里一百八十歩布都怒志命之
天名楯縫直給之故云楯縫
安来郷郡家東北廿七里一百八十歩神須佐乃烏
命天壁立廻唑之尒時来坐此處而詔吾御心者
安平成詔故云安来也即此海有邑賣埼飛鳥浄
御原宮御宇天皇御世甲戌年七月十三日詔
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三穂之埼 接引綱夜見島 固堅立加志者有伯耆国火神岳是也 †
(三穂之椅 接引綱夜見島 固堅立加志者有伯耆国火神岳是也)
三穂之埼。接ぎ引ける綱は夜見島。固堅立てし加志は伯耆国に有る火神岳是なり。
- 「三穂之椅」は「三穂之埼」に改める。
- 接引綱…校注出雲風土記では「持引綱」
- 火神岳…言うまでもなく伯耆大山。「大神岳」としている写本もあるが誤写であろう。
- 火神というのは軻遇突智。
後に大己貴神が山頂で神事を行ったことから大神山と呼ばれるようになり(この大神は大己貴神)、略されて大山となった。
大山が最後に噴火したのは約1万年前とされるから、火神岳という呼び方は相当古い記憶によるものだといえる。
- ちなみに、大山にある大神山神社の主祭神は大穴牟遅神(本社)・大己貴神(奥宮)で、軻遇突智は祀っていない。
今者国者引記詔而意乎社尒御枝衝立而意惠登詔 †
今は国は引記と詔て、意乎社に御枝衝き立てて意惠と詔う
- 今者国者引記…この部分、従来の解釈・解説に疑問があった。
「今者国引訖」と、「者」を省き「記」は「訖」の誤りとする解釈が行われていた。(今は国引き訖え)
「記」は白川静氏の「字統」によれば、『己は糸を収束する器で、糸かずをそろえて巻きとることを紀という。~中略~それを筆墨のことに及ぼしていうものが記~』とある。
これにより、「記」が誤記ではなく、国を綱で引き寄せた事を「記」で表したと解釈できる事から上記の読みとする。
この方が、布を縫うように国造りを行ったという全体の流れに沿っている。
- 意乎杜…意宇杜で、出雲郷の阿太加夜神社の辺りで、面足山とも呼ばれる。面足は国引きを終えて安堵した事からの命名であろう。
出雲郷を今にアダカエもしくはアダカヤと読むのは阿太加夜神社に依るのであろうが、不思議な読み方ではある。
古くは出雲江、足高とも呼ばれていたらしい。足高は一足分ほど高いという意味であり、これからアシダカ→アダカと転じていったのであろうと思われる。それが出雲の読みに重なったものと考えられる。
故云 意宇 所謂意宇者社郡家東北邊田中社塾是也周八歩許其上有一以茂 †
故に云う 意宇。所謂意宇は郡家の東北の辺、田中社塾の杜是なり。周八歩許、其上に一以有りて茂れり。
- 校注出雲国風土記では「所謂意宇社者郡家東北邊田中在塾是也周八歩許其上有木以茂」
「田中社塾」を「田中在塾」とし、「田の中にあるこやま」と解している。
「其上有一以茂」を「其上有木以茂」とし、「その上に木ありて茂れり」としている。
- 「塾」は説文で「門側の堂」。田中社塾は阿太加夜神社のこと。
- 「木以茂」は疑問。小山に木が茂るという事はわざわざ記すほどのことではない。
- 「一以」は一位・櫟、常緑で木目が細かく笏の用材として貴重とされる木。
- 郡家…出雲国庁。現在の松江市大草の六所神社付近と考えられ、1971年から発掘され史跡指定されている。
- 島根半島は4つの山塊に分けられる。
国引き神話はそれぞれ
・志羅紀乃三埼から(高尾山・鼻高山・旅伏山周辺)
・北門佐伎之国から(大船山・十膳山・朝日山周辺)、
・北門良波之国から(大平山・三坂山・枕木山周辺・嵩山周辺)、
・高志之都乃三埼から(宮ノ尾山・高尾山・馬着山周辺)
を指しているのであろう。
母里郷郡家東南卅九里一百九十歩 †
母里郷、郡家の東南卅九里一百九十歩
所造天下大神大穴持命起八口平賜而還唑時唑長江山而詔 †
所造天下大神大穴持命 越の八口を平け賜いて、還唑し時、長江山に唑して詔たまう。
- 越の八口…富山県高岡市八口、新潟県岩船郡関川村八ッ口、等が考えられているが不明。
- 平賜而…平(ことむけ)は「言葉で説得する」の意味であり武力制圧ではない。
- 長江山…安来市伯太町(能義郡伯太町)鷹入山付近に永江峠がありこの峠の東方の山。稜線部に稚児岩という岩がありそこが大穴持命の縁起地だという。ちなみに長江山周辺は水晶の産地である。
- 越の八口から戻ってきた時、この地で詔るというのは、どうにも良く解らない。「越八口」が北陸の一地区名ではなく、山を越した八方の地域を示しているという気がしてならない。北陸から戻るなら海路にせよ陸路にせよ、この辺りを通るとは思えない。
又、大国主命が越の国で活躍するときの名は殆どの場合八千矛神であり、大穴持命ではない。
- 「越」ではなく「起」のままであれば、「起ちて八口を平け賜いて」ですっきりする。
我造唑而命国者皇御孫命平也所知依奉
但八雲立出雲国者我静坐国青垣山廻賜而玉弥直賜而守詔 †
我造りまして命す国は、皇御孫命に平也所と知り依て奉る。
但し、八雲立出雲国は我静まり坐す国にて青垣山廻らし賜いて、玉珠を置き賜いて守す。と詔る。
- 「玉弥」の「弥」は上田秋成書入本では王偏である。是より、「珠」と解す。
- 「直」は「置」に改める。
- 国譲りを予見させる部分である。越の八口をことむけて出雲に戻ったばかりの大穴持命が果たしてこのような事を語ったのかどうかは大いに疑問。
母理郷は出雲国の最東端にあたる。国境の峠脇の長江山で、ここからは出雲国として守り抜くと宣言したのであるとするならまだ理解できる。
出雲国風土記の編纂責任者は出雲臣広嶋。天穂日命の27世の裔である。その立場から記している事は念頭に入れておく必要がある。
重要な部分なので次に解りやすいように意訳しておく。
「私が国造りし治めてきた国は、皇御孫命に穏やかなるところとしてさしあげます。
但し八雲立出雲国は私が静かに暮らす国であり、青垣山をめぐらし玉珠を置いて守ります。」
- 校注出雲国風土記では
「所造天下大神大穴持命越八口平賜而還坐時來坐長江山而詔、我造坐而命國者皇御孫命平世所知依奉。
但八雲立出雲國者我静坐國、青垣山廻賜而、玉珍直賜而守。詔。」
所造天下大神大穴持命、越の八口を平け賜ひて、還り坐しし時、長江山に来坐して、詔りたまひしく、
我が造り坐して命く國は、皇御孫命平世と知らせよと依さし奉り。
但、八雲立出雲國は、我が静まり坐さむ國、青垣山廻らし賜ひて、玉と珍で直し賜ひて、守りまさむ。と詔りたまひき。
故云文理 神亀三年改字母里 †
故に文理と云う。 神亀三年字を母里に改める
屋代郷郡家正東卅九里一百廿歩 †
- 屋代郷…安来市吉佐町から伯太町安田のあたり。鷲頭山を中心とした地域。
天乃夫比命御伴天降來社伊支等之遠神天津子命詔吾浄將坐志社詔 故云社 神亀三年改字屋代 †
天乃夫比命、御伴と天降り來ましし、社印支等の遠つ神、天津子命詔て、吾が浄まり將坐と志す社と詔す。
故に社という。 神亀三年、字を屋代に改める
- 「伊支」は「印支」に改める
- この社は吉佐町の「支布佐神社」とされる。(島根県安来市吉佐町365)
- 天穂比の一行は、出雲の西端から侵入してきたことが解る。
楯縫郷郡家東北卅二里一百八十歩 †
布都怒志命之天名楯縫直給之故云楯縫 †
布都怒志命の天石楯を縫い直し給いき。故に楯縫と云う。
- 「天名」は「天石」に改める
- 「布都怒志命」は国譲りを迫った「経津主命」と同一神とされるが・・・。
- 安来市清井町の岳山に嵩神社があり、ここに天石楯という大岩がある。
- 「天石楯縫直給」は「天石楯縫置給」ともあり、置の誤記だとすれば「天石楯を縫い置き給いき」となる。
安来郷郡家東北廿七里一百八十歩 †
神須佐乃烏命天壁立廻唑之尒時来坐此處而詔吾御心者安平成詔 †
神須佐乃烏命天壁立廻りましし時に、此處に来まして詔く。「吾が御心は安く平らか成」と詔う。
- 天壁立…新年祭祝詞を引いて、「天の際」とか「国内巡視」とかとする解説があるが、天の際とか意味不明。国底立命云々は論外。
地名縁起の記述であろうから、姫崎に近く、廻る事の出来る壁立というと、安来町の十亀島(十神島・砥神島)であろうと思われる。
今は陸続きとなり植林もされ公園として整備されているが、かつては僅かに松などの茂る島であった。
- 十神島をこのように呼ぶようになった縁起は又別にあるので、それ以前の呼び方であるのかも知れない。が今となっては不明。
- 「吾御心者安平成」を校注出雲国風土記では「吾が御心は安平けく成りましぬ」としている。白井文庫では書影に送り仮名が振ってあるが、その読みと異なっている。おそらく「安平」を「安来」に読もうと試みた作為であろうが、「安来」は、前にある「来坐~安」からの由来である。
故云安来也 †
故に安来と云うなり。
- 十神島をめぐり、心が安らいだと語った事から、その地を「安来」と呼ぶようになった。というのである。
即此海有邑賣埼 †
即ち此の海に、邑有り、賣埼。
- 賣埼…現在の安来駅の北方、当時は海際であったとされる姫崎。
- 校注出雲国風土記では「邑」を「比」に改めて「即北海有比賣埼」(即ち北の海に比賣埼あり。)としている。
飛鳥浄御原宮御宇天皇御世甲戌年七月十三日詔 †
(白井文庫k08)
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臣猪麻呂之女子遥伴埼邂逅遇和令所賊不切
尒時父猪麻呂所賊女子歛買上大發若憤號天
踊地行吟居嘆昼夜辛苦無避歛所作是之間經
歴數日然後興慷慨志麻呂箭鋭鋒撰便処居即
擡討云天神子五百万地祇子五百萬并ニ當國
静唑三百九十九社及海若等大神之和魂者静
而荒魂者皆悉依給猪麻呂之所乙良有神旲唑
者吾取傷給以此囲繞一和尒徐率依来従於居
下不進不退猶圍繞耳尒時挙鉾而刄中天一和
尒殺捕已說然後百餘和尒解散殺割者女子之
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一脛屠出仍和尒有殺割而掛串立路之蓾也安東郷入
諸臣与之 (蓾は草冠に歯の異体字:[卄/凵米])
父也自尒時以来至
于今月径六十歳
山国郷郡家東南卅二里二百卅歩布都怒志命之国廻
坐時来坐此處而詔是土者不止欲見語故云山国也
即有正倉
飯梨郷郡家東南卅二里大国魂命天降坐時
當此處而御膳食給故云飯成神亀三年
改字飯梨
舍人郷郡家正東廾六里志貴嶋宮御宇天皇
之御世倉舎人君等之祖日宣臣志毘大舎人
供奉也即是志毘之所居故云舎人即有正倉
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臣猪麻呂之女子遥伴埼邂逅遇和令所賊不切 †
臣猪麻呂の女子伴埼に遥びて、邂逅に和令に遇い、所賊われて切ざりき
- 校注出雲国風土記では「語臣猪麻呂之女子逍遥件埼邂逅遇和爾所賊不切」
臣を語臣としている。(その他多少の異同あり)
- 和令・和爾(ワニ)は鰐鮫(大きな鮫)のこと。
- 鮫を中国地方では鱶(フカ)とも呼ぶ。鮫は細目(目が細い)ものを呼ぶとか、鱶は深い海に住むものを呼ぶとか、歯のあるものが鰐で、歯のないものが鱶であるとか色々いわれるが、鮫の種類も多く区別は地域で異なり曖昧。
尒時父猪麻呂所賊女子歛買上大發若憤號天踊地行吟居嘆昼夜辛苦無避歛所 †
時に、父猪麻呂所賊われし女子を賣の上に歛め、大いに發り、若は憤て、天に號い、地に踊り行く。吟い居て嘆き、昼夜辛苦め、歛し所を避ること無し。
- 書影で「憤」は、立心偏に賣。
- 出雲国風土記考証では「大發若憤」としている。
- 「買上」は「賣上」に改める。
- 出雲国風土記考証では、「歛賣上」を「歛毘賣埼上」としている。
- 吟…校注出雲国風土記では「行きては吟き」としているが、白井本には「吟」に(サマヨヒ)と読みが振ってあり、これは「吟」の古い読み方にあるので、サマヨイのままとする。
作是之間經歴數日 †
作是之間数日を經歴り。
然後興慷慨志麻呂箭鋭鋒撰便処居即擡討云 †
然る後、慷慨の志を興し、麻呂箭を鋭ぎ、鋒を撰び便き処に居りて、即ち擡げて討つと云う
- 校注出雲国風土記では「麻呂」を「磨」としているが、書影では明らかに麻呂とあり、猪麻呂を指していると考えられる。
- 「擡討」…校注出雲国風土記では(擡み訴えて)としている。
- 書影では「討」に(謝カ)と注記している。
(白井文庫k09)
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(白井文庫k10)
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(白井文庫k11)
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(白井文庫k12)
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(白井文庫k13)
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- 衍字や誤記など有りかなり手間取っている。
その為、先ずは原文をそのまま文字起こしし、他書参照しながら修正文を作成していくという手順にする。
又、ユニコードにもない漢字があり、大漢和など参考に可能な限り表示可能な異体字等に改めていく。
『出雲国風土記』嶋根郡