『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡 ・ 『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡 ・ 『出雲国風土記』秋鹿郡
『出雲国風土記』楯縫郡 ・ 『出雲国風土記』出雲郡
『出雲国風土記』神門郡 ・ 『出雲国風土記』飯石郡
『出雲国風土記』仁多郡 ・ 『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記
『出雲国風土記』後記
(白井文庫k49)
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道度
自国東境去西廾里二百八十歩至野城橋長三十丈
七尺廣二丈六尺飯梨
川又西廾一里至国廳意宇郡
家北十家衝即分為二邉一正西道
二柱北道柱北道去此四里
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・細川家本k63で「又西廿一里至国廳意宇郡家北十家衝即分為二邊(一正西道一柱北道) 柱北道去北日里二百六十六歩至郡北堺朝酌渡(渡八十歩 渡舩一)」
(山川版では、「又西廾一里至国庁意宇郡家北十字街即分為二道(一正西道一抂北道) 抂北道去北四里二百六十六歩至郡北堺朝酌渡(渡八十歩 渡船一)」と改変)
・日御碕本k63で「又西廾一里至国廳意宇郡家北十家衝即分為二邉(一正西道一柱北道) 柱北道去北四里二百六十六歩至郡北堺朝酌渡(渡八十歩 渡舩一)」
・倉野本k64で、「又西廿一里至国廳意宇郡家北十家衝即分為二邉道(一正西道一柱枉北道) 柱枉北道去北日四里二百六十六歩一本八十歩至郡北堺朝酌渡([援]渡八十歩[後]渡舩一)」頭注で「十家衝疑十字街欤」
・紅葉山本k52で「又西廿一里至國廳意宇郡家北十家衝即分為二邉(一正西道一柱北道) 柱北道去此四里二百六十六歩至郡北堺朝酌渡(渡八十歩渡船一)」
・出雲風土記抄4帖k45本文で「又西二十一里至國廳意宇郡家北十家衝即分為二道(一正西道一枉北道)」解説で「国廳即意宇郡出雲村十字街也本文家衝字恐字街欤」
・春満考k67で「十家衡 今按家衡ハ字街の誤奈るへし 為二邉(一正西道一桂比道) 今按邉ハ通の誤り桂ハ枉の誤奈るへし 柱北道去此 今按柱ハ枉の誤り此ハ北の誤奈るへし」
「六所神社」北方に「
但し、今十字街と呼ばれる場所が天平時代と同じ位置かどうかは疑わしい。
というのは、現在は区画整理が行われて農地が広がっているが、1960年代の航空地図で見ると、今の十字街附近は周辺に比してかなり雑然とした地区であるからである。出雲は大国であるから国庁には数百人が務めていたと考えられるが、その規模からして東西南北各一辺少なくとも500(m) 程度の規模はあったであろうと思われる。雑然とした地区全体が国庁の敷地に含まれていたのであろうかと思われる。今の十字街は国庁の中にあった道の名残であろう。現在発掘調査されているのは極一部でしかない。
尚、荻原は講談社学術文庫「出雲国風土記」p312で「
「国庁」発掘に至った経緯はこの地が(こくてふ)と呼ばれていたからであり(くにのまつりごとどの)などとは呼ばれていない。
荻原が奇妙な読みを振っている例は一々指摘するのが馬鹿馬鹿しくなるほど多く、うんざりする。
ちなみに、加藤は修訂出雲国風土記参究p458本文で「
ついでに、後藤は出雲国風土記考証p357本文で「
前書きが長くなった。本題に戻る。
これは「至国廳意宇郡家」の部分を日御碕本等の返り点を参考にひとまとめにして読む事から生じた解釈のようである。
それを加藤が出雲国風土記参究p459解説で「意宇郡家は国庁の構内にあったものであろう。」と根拠もなく記したことが通説となってしまっている。
今の島根県庁と松江市役所が同所にあるかといえばそうでは無い。どこの県でも県庁と市役所は別の場所にある。
ところで、周防国府(周防国衙跡)は、今の山口県防府市にあり、長く東大寺の管轄下であったため明治期まで状態の良いまま維持され、国府史蹟として最初に指定されたのであるが、かつては国府内に佐波郡家があったと考えられていた。しかし近年の発掘調査により、郡家は下右田遺跡(右田小学校付近)にあったと考えられるようになってきている。
ちなみに周防国府は方八町(約850m四方)と呼ばれる広大な領域である。中心部が国衙と呼ばれ、政庁施設等があったとされる。
そもそも「北に曲がる道」というのはどういうことかと考えてみると、「北に向かう道」ならばわかるが、「北に曲がる道」というのは意味不明である。北に進む道が北に曲がっているというのか、意味が無い。
例えば「西に向かう道が北に曲がる道」と云う意味であるならば理解できる。それであれば、茶臼山南麓を西に向かい山代辺りで北に曲がる道を指しているのかと云えば、それは朝酌渡しに行くにはかなりの回り道となりあり得ない。
通説では野城橋で一旦切り、西への道を記しその区切りが十字街で二辺に別れると云う解釈をしている。十字街は十字の交差点であり三辺に別れるというなら理解できるが二辺に別れるという解釈は奇妙である。
岸埼は「十字街」という地名が残っていたので、これを参考に古写本に記された「十家衝」を「十字街」と読み替え解釈を試みたのであろう。岸埼は「恐字街欤」と疑問を持ちつつ記したのであろうが、これを春満が「家衡ハ字街の誤奈るへし」と断定的に記したしたことからそれが定説となり、辻褄の合わない解釈が重ねられてきている。
話を戻すと、[衝]と記された場所は出雲国庁から北に向かって進んだ先で茶臼山東麓にあたるこの辺り地理院地図であろう。
ここから朝酌の渡しに抜けたのであろう。
4里260歩は約2600(m) であることを勘案すると、朝酌の渡しへは出雲国分寺跡の東側から大橋川の塩楯島方面に向かい、そこから川沿いに進んだ行程が約2600(m)であり、風土記の記述に相当する。
国府跡周辺の発掘調査が一段落し、パンフレットや案内板など置かれ解説されているが、その案内板には朝酌の渡しへの行路として二つの池(蟹穴池・奥堤池)の側を通る道が推定されている。この道は峠越えで標高30(m) 以上あり、間道としては考えられるが正道としては考えがたい。
国の東の境より西に去る廿里二百八十歩、野城橋に至る。長さ三十丈七尺、廣さ二丈六尺。(飯梨川)
又西に廿一里国廳に至る。意宇の郡家の北十家にて衝く。即ち為に二邉に分かれる。(一つに正西道。二つに柱北道)
柱北道此を去る四里二百六十歩、郡の北の堺朝酌渡に至る。(渡八十歩、渡船一)
(白井文庫k50)
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二百六十歩至郡北堺朝酌渡渡八十歩
渡船一 又北一十里
一百卅歩至嶋根郡家自郡家去此一十七里一百八
十歩並隠岐渡千酌驛家濱渡
船又自郡家西一十五
里八十歩至郡西堺佐太橋長三丈廣一丈佐太
川又西
八里三百歩至夜秋鹿又自郡家西一十五里一
百歩至郡西堺又西八里二百六十四歩至楯縫郡
家又自郡家西七里一百六十歩至郡西堺又西一十
里二百廾歩出雲郡家東邊即入正西道也摠
柱北道程九十九里一百一十歩之中隠岐道一十七
里一百八十歩正西道自十字衝西一十二里至野
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代橋長六丈廣一丈五尺又西七里至玉作街即合
為二道一正道一
有南道一十四里二百一十歩至郡南西堺又南二十
三里八十五歩至大原郡家即分為二道一南西道
一東南道
南西道五十七歩至斐伊河渡廾五歩
渡船又南正廾九里一
百八十歩至飯石郡家又自郡家南八十里至国南西
堺通備後国
三以郡總去国程一百六十六里二百五十七歩也
東南道自郡家去廾三里一八十二歩至郡東南堺
又東南十六里二百卅六歩至仁多郡比々理村分
為二道一道東八里一百廾一歩至仁多郡家一道南二十
八里一百廾一歩正西道自玉作街西九里至東待
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又北一十里一百三十歩、嶋根郡家に至る。
・細川家本k64で「自郡家去北千千七里一百八十歩至隠岐渡千酌驛家濱(度舩)
(山川版p132では「自郡家去北一十七里一百八十歩至隠岐渡千酌駅家浜(度船)」と改変。
・日御碕本k64で「自郡家去北一十七里一百八十歩至隠岐渡千酌驛家濱(度舩)」
・細川家本k64で、「又西八里三百歩至東秋鹿」
・日御碕本k64で、「又西八里三百歩至夜秋鹿」
(白井文庫k51)
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橋長八丈廣一丈三尺又西廾三里卅四歩至郡西
堺出雲河度五十
歩渡船又自郡家西二里六歩至郡西堺出雲
河度五十歩
渡船自郡家西卅三里至国西堺通石見国
安農郡
總者国程一百六里二百卅四歩
自東堺去西廾里一百八十歩至野城驛又西廾一里
至黒田驛即分為二道一正西道一
隠岐国道隠岐道去
北三十四里一百卅歩至隠岐渡千酌驛又正通
道卅八里至客道驛又西廾六里二百廾九歩
至狭結驛又西一十九里至多岐驛又西一十
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四里至国西堺圍隼宇軍囲即屬郡家熊谷軍圍飯石郡家
東北廾九里一百八十歩神門軍囲郡家正東
七里馬見烽出雲郡家西北卅二里二百廾歩
土揉煥神門郡家烽或東南四里多夫志烽
出雲家北一十三里卅歩布目美烽嶋根郡
家正南七里二百一十里暑垣烽高字郡家正
東廾里八十歩宅波式門郡家西南三十一里
瀬﨑或嶋根郡家東北一十九里一百八十歩
天平五年二月卅日勘造秋鹿郡人神宅臣
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(白井文庫k52)
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金太理
国造帯意宇郡大領外正六位上勲業出雲
臣廣嶋
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一月過四日市場閲佑藁中有此書而
來得之袖而帰矣夫風土記者
元明天皇御宇始令撰以來年歴久遠而
往々紛失今世僅所存者一二州耳余
欲見之既有年矣而家々秘之不敢許
電覧也今日得焉誠偶然也哉凣天下
物以無模珍書之樂也叶余宿心既足
矣珠玉金帛蒵以為余喜因書卷
後以記其喜云
寛永乙酉二年秋八月廾四日書于
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(白井文庫k53)
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江戸三涘寮舎 本齋關老甫
以關祖衡先生藏本正[彳+ヒ/ヒ]四年甲午冬陽月二十日昼
于武阳豊嶋郡櫻田郷霞關山亭
聼窩散人田儀郷
享保十三年壬申應鐘上[氵卓余]
武江陰蟄於岫雲堂下写之
トアリ
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