[[『出雲国風土記』]]
[[『出雲国風土記』意宇郡2]]

''『出雲国風土記』嶋根郡(しまねのこおり)''

(白井文庫k13)
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嶋根郡
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(白井文庫k14)
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合郷捌&size(9){里廾五};        餘戸&size(9){壹驛家壹家壹};
山口郷           今依前用
朝酌郷           同
手染郷           同
美保郷           同
方結郷           同
加賀郷           本字加-々
生馬郷           今依前用
法吉郷           今依前用&size(9){以上捌郷別里参};
餘戸郷
千酌驛屋
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所以号嶋根郡国引唑八束水臣津野命之詔而頂
給名故島根
朝酌郷郡家正南一十里六十四歩熊野大神命
詔朝御餼勘養夕御餼勘羪五贄緒之処定
給故云朝酌
山口郷郡家正南四里二百九十八歩須佐能烏命
御子都留支日子命詔吾敷唑山口處在詔而故
山口頂給
手染郷郡家正東一十里二百六十四歩所造天下大神
命詔此国者丁寧造国在詔而故丁寧頂給而
──────────
***&color(navy,){合郷捌&size(9){里廾五};        餘戸&size(9){壹驛家壹家壹};}; [#n6d5c4e3]
&color(darkgreen,){合わせて郷八、里二十五     餘戸一、駅家一、家一};

***&color(navy,){山口郷           今依前用}; [#y9dcff56]
***&color(navy,){朝酌郷           同}; [#pe1cddf8]
***&color(navy,){手染郷           同}; [#mfff85eb]
***&color(navy,){美保郷           同}; [#a33fd06d]
***&color(navy,){方結郷           同}; [#kfc670f8]
***&color(navy,){加賀郷           本字加-々}; [#w16fc38b]
***&color(navy,){生馬郷           今依前用}; [#j0e3c8aa]
***&color(navy,){法吉郷           今依前用&size(9){以上捌郷別里参};}; [#k6cf9492]
***&color(navy,){餘戸郷}; [#i9959a54]
***&color(navy,){千酌驛屋}; [#x1c7e39e]


***&color(navy,){所以号嶋根郡国引唑八束水臣津野命之詔而頂給名故島根}; [#r59d915c]

&color(darkgreen,){嶋根郡と&ruby(ナヅ){号};く&ruby(ユエ){所以};は、国引きます八束水臣津野命の&ruby(ノリ){詔};て頂き給う&ruby(カレ){故};島根と名づく。};

--[[「八束水臣津野命」]]…振られたルビでは(ヤツカミマヲシツノミコト)と読める。
岸崎本(第2帖p3)では、八束水臣津野命に(ヤツカミノヲシツノミコト)とルビがある。
上田秋成書入本(15コマ)では、(ヤツカミノカンツヌミコト)と黒字のルビがあり、赤字で(ヤツカミノオンツノミコト)と読むように訂正してある。

***&color(navy,){朝酌鄉郡家正南一十里六十四步}; [#m952e126]

&color(darkgreen,){&ruby(アサクミノゴウ){朝酌鄉};、&ruby(グウケ){郡家};の正に南一十里六十四步};

--郡家…校注出雲国風土記によると「松江市東川津町納佐の小正部屋敷辺にあったらしい」と記されているが位置が合わない。
近年は福原地区の[[芝原遺跡:http://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/izumo_fuudo/izumofudoki/fudoki/fudokif/yaku02.html]]が有力な候補地として上げられている。

***&color(navy,){熊野大神命詔朝御餼勘養夕御餼勘羪五贄緒之処定故云朝酌}; [#ued2561d]
&color(darkgreen,){熊野大神&ruby(ミコトノリ){命詔};たまいて、&ruby(アサミケ){朝御餼};の&ruby(カムカイ){勘養};、夕御餼の勘養に、&ruby(イツニエ){五贄};の緒の處定め給ひき。&ruby(カレ){故}; 朝酌と云う。};

--朝酌郷…松江市嵩山の南山麓辺り。現在の松江市朝酌町、福富町、大井町、大海崎町辺り。
出雲国風土記抄(第2帖p4)には『此ノ郷ハ合セテ於朝酌及ビ福冨大井大海埼ヲ以為一郷ト也』とある。

--御餼(ミケ)…食事
--勘養・勘羪(カムカイ)…神頴(カムカイ)・御食向、神に物を手向けること。[羪]は[養]の異体字
--五贄(イツニエ)…五種物(イツツノタナツモノ)。五贄の五は御でもあり、数を指しているという事ではない。時々で供え物の品数は変わることがあり、その場合も「五贄」と呼ぶ。
--緒…緒は五贄を組合せ整えるという意味。内山眞龍は「組」に変えて解釈している。

---意訳すると「熊野大神命が詔りして朝の御膳、夕の御膳にするものを整える所として定められた、それで朝酌という。」
「酌む」は「組む」=「整える」という意味

***&color(navy,){山口郷郡家正南四里二百九十八歩}; [#e724d466]

&color(darkgreen,){山口郷、郡家の正に南四里二百九十八歩};

--山口郷…松江市嵩山の西山麓の地域。現在の松江市川津町・川原町あたり。
出雲国風土記抄(第2帖p4)には「今ノ東川津村加テ於西川津川原西尾之三所ヲ以為山口郷ト也」とある。
出雲国風土記考証では「今の持田村も山口郷であらう」としている。
山というのは&ruby(ダケサン){嵩山};(標高331m)のことで、山口はその入口を指している。嵩山の登山口は東川津町で紙谷地区から登る。
国道431号線の旧道筋持田地区に「嵩山入口」というバス停があるので、この辺りが昔からの登山口であったのだろう。
嵩山の山頂には都留支日子命を祀る&ruby(フジキミ){布自伎美};神社がある。

***&color(navy,){&ruby(スサノヲノ){須佐能烏};命&size(9){ノ};御子&ruby(ツルキヒコノミコト){都留支日子命};詔&size(9){リ};吾&ruby(シキマス){敷唑};山口&size(9){ノ};處&size(9){ニ};在&size(9){リト};詔&size(9){フ};而故山口頂給}; [#x028cc25]

&color(darkgreen,){須佐能烏命の御子&ruby(ツルキヒコノミコト){都留支日子命};詔り、吾が敷きます山口の處に在りと詔りたもうて、&ruby(カレ){故};山口と頂き給ひき。};

--[[「都留支日子命」]](ツルキヒコノミコト)…(ツルギヒコノミコト)と「支」を濁音で読む例が多いが、ルビには清音「キ」と振ってある。出雲国風土記抄にも「キ」と清音のルビがある。
---都留支日子命は剣の神と認識されていることが多いが、ツルキならそうもいかなくなる。

--山口頂給…校注出雲国風土記では『山口負給』としている。
出雲国風土記抄では『山口順給』

***&color(navy,){手染郷郡家正東一十里二百六十四歩}; [#cbc999a9]

&color(darkgreen,){&ruby(タシミノゴウ){手染郷};、郡家の正に東、一十里二百六十四歩};

--「出雲国風土記抄」(第2帖4p)に、「此郷ハ以多須見長見ヲ為本郷ト并テ之ニ於野原別所下宇部尾ヲ以為手染郷也」とある。
現在の松江市手角・長海・本庄・野原及び美保関町下宇部尾の辺り、中海の北岸域であろう。

***&color(navy,){所造天下大神命詔此国者丁寧造国在詔而故丁寧頂給而人猶詔手染郷之耳即正倉}; [#t8d69123]

&color(darkgreen,){&ruby(アメノシタツクラシシオオカミノミコト){所造天下大神命};詔。此の国は丁寧造りし国に在りと詔て、&ruby(カレ){故};、丁寧頂き給う。&ruby(シカシ){而};て人なお手染郷と&ruby(ノ){詔};るのみ。即ち正倉あり。};

--丁寧…これを(テイネイ)と読むと、手染の読みに繋がり難い。(&ruby(テイネイ){丁寧};は楽器名に由来する)
宣長はこれを「慥」(タシ)と解釈している。「&ruby(タシ){慥};に」は「急ごしらえに・急いで寄せ集めて・確かに」等の意味があり、多くの風土記解説本は是を踏襲している。
---「手染」を(タシミ)と読むことからその読みに近い音を「丁寧」に充てようとして、「慥」を持ち込もうとしている訳だが、「丁」と「手」はともかくとして、「染」と「寧」は遠い。

--「出雲国風土記抄」では「所造天下大神命ノ詔フ此ノ国ハ者&ruby(タダニ){丁寧};造ル国在リト詔フ而&ruby(タダニ){丁寧};順給而人猶誤謂手染郷ト之耳即有正倉」とある。
「丁寧」に(タダニ)と読みを振っている。但し[寧]は[うかんむり+而+丁]で、「寧」とは異なる。これは[うかんむり+皿+示]という甲骨文に由来する古字で、「心を安らかにする」という語義を表し、後に[心]を加えたのが「寧」であるとされる。
「丁」には「落ち着く・安定する」という語義がある。
---上記勘案すると。「丁寧」は(タダニ)「丁に」で正しいと考える。「ニ」に[尒]ではなく[寧]を用いたのは語義が似ていることから強調するためだったのであろう。「此国者&ruby(タダニ){丁寧};造国」は「この国は(諍いなどなく穏やかに)安定して造った国」で良い。宣長の解釈のように「慥」を持ち込む必要も無い。

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(白井文庫k15)
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人猶詔手染郷之耳即正倉
美保郷郡家正東廾七里一百六十四歩造天下大神命
娶高志国唑神意支都久辰為命子俾都久辰為
命子奴奈宜置波比賣命而令産神御穂須々美命
是神唑矣故美保&size(9){美保号名&br;謂此類落};
方結郷郡家正東廾里八十歩須佐素命御子国忍別
命詔吾敷唑池者国形宜者故云方結
加賀郷郡家西北一十六里二百九歩神魂命御子八
尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬
法吉郷郡家正西二百卅歩神魂命御子宇武賀
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比賣命法吉鳥化而飛度静唑此所故云法吉
餘戸里&size(9){説名如&br;意宇郡};
千酌驛郡家東北一十九里一百八十歩伊差奈枳命
御子都久豆美命此所生然即可謂都久豆美而
今人猶千酌号郷
[社]
大掎社    大掎川邊社   朝酌下社   努郡彌社
掠見社 &size(9){以上卅五所並&br;不在神祇官};
[山]
布自枳美高山郡家正南七里二百一十歩高丈周
一十里 女岳山郡家正南二百卅歩蝨野郡家西
南三里一百歩&size(9){旡樹&br;木};毛志郡家北一里 大倉山
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***&color(navy,){美保郷郡家正東廾七里一百六十四歩}; [#k7588f33]

&color(darkgreen,){美保郷、郡家の正に東、二十七里一百六十四歩};

--美保郷…出雲国風土記抄で「此郷ハ以関村福浦ヲ為ス本郷ト併セ加テ西ハ者森山東ハ雲津諸喰等之處以為美保郷」とある。
(この郷は関村福浦を本郷と為す。西は森山、東は雲津諸喰等の所を併せ加えて美保郷と為す。)
関村というのは美保関村のことで、福浦~諸喰まで現在の地区名と変わらない。

***&color(navy,){造天下大神&size(9){ノ};命&size(9){ト};&ruby(ヒキテ){娶};&ruby(タカシクニ){高志国};&ruby(マス){唑};神&ruby(イキツクシイノミコト){意支都久辰為命};&size(9){ノ};&ruby(コ){子};&size(9){。};&ruby(ヒツクシイノミコト){俾都久辰為命};&size(9){ノ};&ruby(コ){子};&size(9){。};&ruby(ヌナギチハヒメノミコト){奴奈宜置波比賣命};&size(9){ヲ};而&ruby(シム){令};&ruby(ウマ){産};&ruby(カンミホスゝミノミコト){神御穂須々美命};&size(9){ヲ};}; [#xea2448e]

&color(darkgreen,){造天下大神命、&ruby(タカシクニ){高志国};に唑す神、&ruby(イキツクシイノミコト){意支都久辰為命};の子、&ruby(ヒツクシイノミコト){俾都久辰為命};の子、&ruby(ヌナギチハヒメノミコト){奴奈宜置波比賣命};を&ruby(ヒキ){娶};て、&ruby(シカ){而};して&ruby(カンミホススミノミコト){神御穂須々美命};を産ましむ。};

--奴奈宜置波比賣命…出雲国風土記抄では(ヌナキキハヒメノミコト)、上田秋成書入本では(ヌナキチハヒメノミコト)、と付記しており、「宜」は(ギ)ではなく(キ)と清音で読む例がある。
校注出雲国風土記では「奴奈宜波比賣命」(ヌナガハヒメノミコト)と[置」を抜いている。
「置」があることについて、古事記の沼河比賣に充てるために「置」は誤りであるとする説があり、それに従ったのかも知れないが、作為である。
又、「宜」を(ガ)と読むのは栗田寛の説で「法王帝説」に読む例があるとして広まったようだが、そういう例はない。
これも古事記に合わせるための作為である。

***&color(navy,){是&size(9){ノ};神唑&size(9){マス};矣故&ruby(ミホ){美保};&size(9){ト};&size(9){美保ト号スカ名ク&br;謂トカ此類落ルカ};}; [#g251653d]

&color(darkgreen,){是の神唑す&ruby(ユエニ){矣故};美保と。(美保と号すか名ずく謂とか此の類落るか)};

--是神唑矣故美保&size(9){美保号名&br;謂此類落};…補記では、本文が「故美保」で終わっている為、美保に、「号・名・謂」或いはこれに類する語が落ちていると指摘しているわけだが、他書に「故云美保」とあるので、「云」が落ちている。こういう補記があることは文献の信頼度を増す事に繋がる。他書としては例えば「出雲国風土記抄」

***&color(navy,){方結郷郡家正東廾里八十歩}; [#k93812cf]

&color(darkgreen,){&ruby(カタエノゴウ){方結郷};、郡家の正に東二十里八十歩};

--方結郷…「出雲国風土記抄」に、「方結ハ今片江浦也片江ノ中ニ有&ruby(ソウツ){僧都};&ruby(タマエ){玉江};加テ之ニ七類浦ヲ以為ス一郷ト也」
(方結は今片江浦也。片江の中に僧都玉江あり。之に七類浦を加えて以て一郷と為す也)
現在の片江、七類(シチルイ)地区。僧都玉江とあるのは惣津と&ruby(タマエ){玉結};の事であろう。(惣津は現在七類地区に含まれる)
---余談だが、出雲では「結」を(エ)と読む地名が幾つか有る。方結、玉結、手結。どういう経緯なのかは不詳。
これを「由比」と同じで「&ruby(ユイ){結};」(=漁村の共同作業)から来たとする解釈があるが、それなら(ユイ)と読むのではないかと訝しく思う。

***&color(navy,){&ruby(スサスノミコト){須佐素命};&size(9){進素烏カ};御子&ruby(クニヲシワケノミコト){国忍別命};詔吾&size(9){ガ};&ruby(シキマス){敷唑};池&size(9){ハ};者国&size(9){ノ};形&size(9){チ};&ruby(ムベナル){宜};者故云方結&size(9){ト};}; [#efcf6981]

&color(darkgreen,){須佐素命御子国忍別命詔。吾が敷ます池は国の&ruby(カタチ){形};&ruby(ムベ){宜};なる者。故方結と云う。};

--須佐素命…出雲国風土記抄では「須佐能烏命」
---読みも気になるが、「進素烏か」と傍記していることも少々気になる。

--池…出雲国風土記抄では「地」。上田秋成書入本では赤字で「地」と付記。「地」の誤りであろう。

--国形宜者…国の&ruby(カタチ){形};&ruby(ムベ){宜};なる者。
フリガナどおりでは方結(カタエ)と繋がりにくいことから次のように「宜」を(エ)と読んでいる例が多い。
標注古風土記では、「『&ruby(クニガタエ){國形宜};と&ruby(ノタマ){者};へり』とよむべし」としている。
「者」をノタマヘリと読むことについては、「續日本紀などに傍訓あり」と注記している。
出雲国風土記考証では、「&ruby(クニカタエ){國形宜};と&ruby(ノタマヘリ){者};」としている。
校注出雲国風土記では、「&ruby(クニカタエ){國形宜};しとのりたまひき」としている。
---「宜」をはたして(エ)と読むべきかどうか疑問。そういう例を他に知らない。
カタチムベ→カタムベ→カタンベ→カタエと転じたと考える方が素直なように思われる。又、「者」は(モノ)で良いと考える。
「国形宜」の意味は「国の形が良い」ということであるが、岬と入り浜、そして小島があり、風光明媚であり、日本海に臨む島根半島北側の港として使い良いことを指しているのであろう。
余談だが瀬戸内に馴染んできた者としての個人的感想として、日本海沿岸はどこも小島が少ないという印象がある。瀬戸内に比べれば波も荒く、沖合に島がないと海が荒れた時には底知れぬ恐怖すら覚える事がある。
島根半島の西部は例外的に小島が多い。
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***&color(navy,){加賀郷郡家西北一十六里二百九歩神魂命御子八尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬}; [#i9c35890]

この部分、欠落・混乱がある。
上田秋成書入本では、本文は全く同じだが、上部に次の注が加えられている。
「此所㝡初加賀ト有テ終ニ生馬ト有之不審也目録ニ加賀次生馬我之兩郷ノ内一方ノ理書落欤[ナベブタ/里]テ可[氺/又]」
(此の所、最初に加賀と有て終に生馬と有る。これ不審也。目録に加賀の次に生馬。我之を両郷の内一方の&ruby(コトワリ){理};を書落か。重ねて求むべし。)

出雲国風土記抄(第2帖p6)からこの部分補う。但し出雲国風土記抄では、生馬郷・加賀郷の順になっているが、上記により、加賀郷、生馬郷の順とする。

「加賀郷郡家北西二十四里一百六十歩佐太大神所坐也御祖神魂命御子支佐加地賣命闇岩屋哉詔金弓以射給時光加加明也故云加加」
「生馬郷郡家西北一十六里二百九歩神魂命御子八尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬」
尚、出雲国風土記考証に、加加の最後に「神亀三年改字加賀」とあるのでこれを補う。

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(出雲国風土記抄による)

***&color(navy,){加賀郷郡家北西二十四里一百六十歩}; [#ndc3d549]

&color(darkgreen,){&ruby(カカノゴウ){加賀郷};、郡家の北西二十四里一百六十歩};

--加賀郷…出雲国風土記抄(第2帖p7)で「合セ加テ于加賀浦及ヒ&ruby(ヲアシ){大蘆};&ruby(ミツ){御津};ヲ以為加賀ノ郷ト也」
(ここに加賀浦及び大蘆御津を合わせ加えて、以て加賀の郷と為す也)
現在の松江市島根町の&ruby(カカ){加賀};、&ruby(オワシ){大芦};、及び松江市鹿島町&ruby(ミツ){御津};、の地区。
鹿島町&ruby(カタク){片句};、&ruby(タエ){手結};も含まれると考えられている。

---「于」は語調を整える為の字で通常読まないが、一応記して置いた。

***&color(navy,){佐太大神所坐也御祖神魂命御子支佐加地賣命闇岩屋哉詔金弓以射給時光加加明也故云加加&size(9){神亀三年改字加賀};}; [#x75c12eb]

&color(darkgreen,){&ruby(サダノオオカミ){佐太大神};の&ruby(イマ){坐};す所也。&ruby(ミオヤ){御祖};&ruby(カモスノミコト){神魂命};の御子、&ruby(キサカチメノミコト){支佐加地賣命};、&ruby(クラ){闇};き岩屋かなと詔る。&ruby(カナユミ){金弓};もて射給いし時、光&ruby(カカアケル){加加明};也。故云加加。&size(9){神亀三年、字を加賀に改む};}; 

--佐太大神所坐也…佐太大神の生誕地という伝承から、「坐」を「生」として(あれます)と読む例がある。

--神魂命…神産巣日神(古事記)と同神として、(カミムスビノミコト)と読む例があるが、出雲では(カモスノミコト)。

--支佐加地賣命…加賀神社の主祭神。出雲国風土記考証・標註古風土記では「支佐加比比賣命」。校注出雲国風土記では「支佐加比賣命」。
古事記の「𧏛貝比売」と同一神とみられている。宣長は𧏛貝は蚶貝の誤りで赤貝の古名だとしており通説となっているが、
出雲では赤貝の仲間である猿頬貝(サルボウガイ)が古くから食されており、𧏛貝というのはこちらと思われる。
(猿頬貝を出雲では赤貝とも呼んできた。この為特に問題にもされなかったのであろう。)

--支佐加地賣命闇岩屋哉詔金弓以射給時…伝承では、キサカヒメ命の御子が佐太大神で、金弓を佐太大神が引いたというのがある。この事から、この部分を内山眞龍は疑い、この説に従い標註古風土記では「支佐加比比賣命御子闇岩屋哉詔金弓以射給時」と「御子」を補っている。
---かつて出産の際、魔除けとして弓矢を傍に置くという風習が残っていたが、起源はこの辺りにあるのかも知れない。

***&color(navy,){生馬郷郡家西北一十六里二百九歩}; [#o3173dcc]

&color(darkgreen,){&ruby(イクマノゴウ){生馬郷};、郡家の西北一十六里二百九歩}; 

--生馬郷…出雲国風土記抄(第2帖p6)に「東西ノ生馬及薦津浦ヲ為シ本郷ト十町南方有濱佐田国屋比津村西方有下佐田併セテ乎此等之諸村ヲ以為生馬ノ郷ト矣」とある。
(東西の生馬及び薦津浦を本郷と為し十町南方、濱佐田、国屋、比津村有り西方下佐田有り此等の諸村を併せて生馬の郷と為す)
現在の松江市東生馬町・西生馬町・薦津町・浜佐田町・国屋町・比津町・下佐陀町辺り。
---現在佐陀川が流れている辺りにはかつて佐陀水海という湖があり、この湖の東岸が生馬郷にあたる。
佐陀水海は干拓と日本海への通水工事などが行われて来たので、風土記の時代には現在とは随分異なる風景であったのだろうと思われる。
佐陀川両岸の直線的に区画整理された地区がかつての佐陀水海であろう。

***&color(navy,){神魂命御子八尋鉾長依日子命詔吾御子平明不憤故云生馬}; [#t6a837fc]

&color(darkgreen,){神魂命御子、&ruby(ヤヒロホコナガヨリヒコノミコト){八尋鉾長依日子命};詔て、吾御子&ruby(タヒラカ){平明};に&ruby(イクマズ){不憤};。故生馬という};

--吾御子…吾御心の誤りと考えられている。
---八尋鉾長依日子命は松江市東生馬町235の「生馬神社」に祀られているが、御子は不明である。出雲国風土記にも御子は出てこない。表記通り「御子」であるなら、その名が示され祭神に祀られているはずだがそれもない。それ故、この部分は「御心」の誤記と考えられている訳である。
---「生馬神社」というのは東西2社ある。上記は「生馬神社(東)」。
「生馬神社(西)」では現在八尋鉾長依日子命を祀っていないが、これは火災のため縁起を失ったためであろうと思われる。
現在は主祭神として道返大神を祀り、明治期に近郷の諏訪神社・市杵島神社を合祀したため武御名方命と市杵島姫命を祀っている。
東西にあると云うことは、かつては東に八尋鉾長依日子命を祀り、西にその御子を祀っていたのかも知れない。が今となっては不明。

--不憤…「&ruby(イク){憤};む」の打ち消しとして(イクマズ)と読んでいる。
---この地名縁起、憤む(腹を立てる)を否定しているわけだが、憤む理由が何であるのか不明で、何やらこじつけのような感じをうける。

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(ここから白井本に戻る。)

***&color(navy,){法吉郷郡家正西二百卅歩}; [#lb765be9]

&color(darkgreen,){&ruby(ホッキノゴウ){法吉郷};、郡家の正に西二百三十歩};

--法吉郷…出雲国風土記抄(第2帖p7)で「合法吉及ヒ春日末次ノ三所ヲ以為法吉ノ郷ト也 今末次ニ有リ五箇ノ名曰中原黒田奥谷菅田末次」とある。
(法吉及び春日、末次の三所を合わせて法吉郷と&ruby(ナ){以為};す也。今末次に五箇の名有り。中原、黒田、奥谷、菅田、末次と&ruby(イ){曰};う)
現在の松江市法吉町、中原町、黒田町、奥谷町、菅田町、末次町辺り。松江城周辺及び北方面に当たる。
---標注古風土記の注(p98)によると、伴信友は「法吉は、ほふきなるべし」と記しているらしい。
また「国学者が、日本の古代に、促音がなかつたやうに思ふのは、疑はしい。促音をあらはす方法を知らざりしにあらん。~」
と記している。現在法吉町は(ホッキ)町と読むので、法吉の読みはこれに従う。


***&color(navy,){神魂命御子宇武賀比賣命法吉鳥化而飛度静唑此所故云法吉}; [#o9a69503]

&color(darkgreen,){神魂命の御子、&ruby(ウムカヒメノミコト){宇武賀比賣命};&ruby(ホッキトリ){法吉鳥};と&ruby(ナ){化};りて&ruby(トビワタ){飛度};り此の所に静まれり。故法吉と云う。};

--宇武賀比賣命…古事記の「&ruby(ウムガイ){蛤貝};比売」と同一神とみられている。ウムガイはハマグリの古名。
ハマグリは「浜栗」で形が栗に似ている浜辺の貝と云うことで名付けられた。
法吉神社の主祭神

--法吉鳥…鶯(ウグイス)の古名。その鳴き声から法吉鳥という名が付けられたようである。

---不思議な地名縁起である。宇武賀比賣命に縁があり、鶯が良く飛んで来たと云うことであろうか。
尚、鶯は気候によって適地を求めて移住する鳥である。

***&color(navy,){餘戸里&size(9){説名如意宇郡};}; [#n6552dcb]

&color(darkgreen,){餘戸里、名を説くこと意宇郡の如し};

--餘戸里…出雲国風土記抄で「鈔曰餘戸里ハ者古ノ之郡家ニテ而本庄新庄加テ之ニ&ruby(ヲフ){邑生};&ruby(カミウヘヲ){上宇部尾};ノ辺ヲ以可為餘戸ノ里也」とある。
(鈔に曰く。餘戸里は&ruby(イニシエ){古};の郡家にて本庄、新庄、之に邑生、上宇部尾の辺りを加えて餘戸の里と為す可)
現在の松江市本庄町、新庄町、邑生町、上宇部尾町あたり。朝酌郷と手染郷の間。嵩山の東北山麓にあたる。
上記で、「古之郡家」と記されているが、出雲国風土記考証では位置関係からこの地に郡家はなかったとし、持田村の福原の長慶寺辺りと推察している。近年の発掘調査でもこの推察が正しいようである。

***&color(navy,){千酌驛郡家東北一十九里一百八十歩}; [#tb33f16d]

&color(darkgreen,){&ruby(チクミノウマヤ){千酌驛};、郡家の東北一十九里一百八十歩};

***&color(navy,){伊差奈枳命御子都久豆美命此所生然即可謂都久豆美而今人猶千酌号郷}; [#l4001d4b]

&color(darkgreen,){&ruby(イサナキノミコト){伊差奈枳命};の御子、&ruby(ツクズミノミコト){都久豆美命};此の所に&ruby(アレ){生};ませり。然れば即ち&ruby(ツクズミ){都久豆美};と謂うべきを、今の人なお&ruby(チクミ){千酌};と郷を号す。};

--此所生…出雲国風土記抄・標註古風土記・出雲国風土記考証・校注出雲国風土記では「此處坐」、上田秋成書入本では「此処生」。
おそらく「此處坐」が正しいと思われる。


***&color(navy,){[社]}; [#h68a6a31]
***&color(navy,){大掎社    大掎川邊社   朝酌下社   努郡彌社}; [#ace8d7ce]
***&color(navy,){掠見社 &size(9){以上卅五所並&br;不在神祇官};}; [#xa6e089f]

この部分、35所とあるのに5社のみで大部分欠落している。
出雲国風土記抄(第2帖p9)から補う。
──────────
布自伎弥社     多気社     久良弥社
同波夜都武志社   川上社     長見社
門江社       横田社     加賀社
尒佐社       尒佐加志能為社 法吉社
生馬社       美保社&size(9){以上十四所並&br;在神祇官};
大埼社       大埼川辺社   朝酌上社
朝酌下社      努那弥社    椋見社
大井社       阿羅波比社   三保社
多久社       蜛蝫社     同蜛蝫社
質笍比社      方結社     玉結社
川原社       虫野社     持田社
加佐奈子社     比加夜社    須義社
伊奈須美社     伊奈阿気社   御津社
比津社       玖夜社     同玖夜社
田原社       生馬社     布夜保社
加茂志社      一夜社     小井ノ社
加都麻社      須衛都久社&size(9){以上参拾五所並不在神祇官};
──────────
***&color(navy,){布自伎弥社     多気社     久良弥社}; [#t49811cd]

---「布自伎弥社」「久良弥社」については[[「都留支日子命」]]に記述
---「多気社」については後述

***&color(navy,){同波夜都武志社   川上社     長見社}; [#r91b1d4e]
***&color(navy,){門江社       横田社     加賀社}; [#r521decd]
***&color(navy,){尒佐社       尒佐加志能為社 法吉社}; [#zee6d895]

--法吉社…元社地は現社地の北方、現在のうぐいす台団地内にあり、そこに宇牟加比売命御陵古墳というのがあったが、団地開発工事のため造作され、古墳自体は調査後団地北端に移転復元保存された。[[伝宇牟加比売命御陵古墳調査報告書:http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/2085]]
元社地は尼子・毛利の戦で疲弊し、松江城築城の頃現社地に移転造営。

***&color(navy,){生馬社       美保社(以上十四所並在神祇官)}; [#va3f0814]
***&color(navy,){大埼社       大埼川辺社   朝酌上社}; [#m8628b55]
***&color(navy,){朝酌下社      努那弥社    椋見社}; [#j47e364e]
***&color(navy,){大井社       阿羅波比社   三保社}; [#dfe2fca0]
***&color(navy,){多久社       蜛蝫社     同蜛蝫社}; [#pb96306f]
***&color(navy,){質笍比社      方結社     玉結社}; [#j0d2af4a]
***&color(navy,){川原社       虫野社     持田社}; [#ha170a09]
***&color(navy,){加佐奈子社     比加夜社    須義社}; [#n64fdf7f]
***&color(navy,){伊奈須美社     伊奈阿気社   御津社}; [#mdd43228]
***&color(navy,){比津社       玖夜社     同玖夜社}; [#x13dd479]
***&color(navy,){田原社       生馬社     布夜保社}; [#pa153c27]
***&color(navy,){加茂志社      一夜社     小井ノ社}; [#zb333009]
***&color(navy,){加都麻社      須衛都久社(以上参拾五所並不在神祇官)}; [#vbf33e44]
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(白井本に戻る)

***&color(navy,){[山]}; [#r98e6ccb]
***&color(navy,){布自枳美高山郡家正南七里二百一十歩高丈周一十里}; [#k62f5bea]

&color(darkgreen,){布自枳美高山。郡家の正に南七里二百一十歩、高さ二百七十丈、周り一十里};

--出雲国風土記抄で、次の女岳と併せて記している
本文『布自枳美高山郡家正南七里二百一十歩高二百七十丈周一十里女岳郡家正南二百卅歩』
注釈「鈔云布自枳美者跨山口ノ郷朝酌ノ郷餘戸ノ里三箇ノ中ニ則東川津ノ&ruby(タケヤマ){嵩山};是也七里二百一十歩者今ノ一里九町卅間也乃シ合祭布自枳弥多気両社ヲ於山頂ニ今俗ニ曰&ruby(タケノ){嵩};大明神ト當テ山ノ東ノ&ruby(ホトリ){垂};餘戸ノ里新庄村ノ中ニ有女岳山又二百卅歩者今ノ四町許也」
(鈔云布自枳美は山口ノ郷、朝酌ノ郷、餘戸ノ里、三箇の中に跨ぐ、則ち東川津の&ruby(タケヤマ){嵩山};是也。七里二百一十歩は今の一里九町三十間也。&ruby(ムカ){乃};し、布自枳弥、多気両社を山頂に於て合せ祭る。今俗に&ruby(タケノ){嵩};大明神と曰う。山の東の&ruby(ホトリ){垂};餘戸の里新庄村の中に當て女岳山有。又二百三十歩は今の四町許也。)
---これによると、かつてこの山頂に布自枳弥社と多気社の二社が祭られており、それを「フジキミ・タケ」と続けて呼んだことから、布自枳美高山と呼ぶようになったとしている。今は「嵩山」を(ダケサン)と呼んでいるが、これに拠れば元は(タケサン)と清音で呼ばれていたのであろう。

--高さが抜けている。出雲国風土記抄に「二百七十丈」とあるのでこれを補う。
--布自枳美高山…嵩山のこと。読み方は色々試みられているが抄を参考に(フジキミタケサン)としておく。

***&color(navy,){女岳山郡家正南二百卅歩}; [#vf85ded5]

&color(darkgreen,){女岳山、郡家の正に南二百三十歩};
--女岳山(メダケヤマ)…嵩山の北方にあるピーク(標高260m余)。新庄町と川原町の境界にあたる。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.495216,133.112884&z=15&base=std&vs=c1j0l0u0]]
校注出雲国風土記では和久羅山としているが誤り。
---郡家の南約4町と云うことであるから、女岳山北方400m余りの所に郡家があったわけで、和久羅山から北方400m余りだと嵩山の山中になってしまう。

***&color(navy,){蝨野郡家西南三里一百歩&size(9){旡樹木};}; [#t126548b]

&color(darkgreen,){蝨野、郡家の西南三里一百歩(樹木無し)};

--蝨野(ムシノ)…出雲国風土記抄で「合福原板本以曰虫里明暦年中我先君忌虫原名而改福原有虫大明神社大己貴也見事于前」
(福原板本を合せて以って虫の里と曰う。明暦年中我先君虫原の名を忌みて福原と改む。虫大明神の社有り。則ち大己貴也。事は前に見たり)
---蝨はシラミとも読むのでこれを前の藩主が忌みて名を改めたという。現在の福原町。虫大明神は虫野神社。
大己貴神がこの地に来て田畑を荒らす虫退治を行い、その神徳を尊び虫野神社が創建されたという。
書影では上記の通り「板本」で現在の坂本町がこれにあたるのかどうかは不明。
標註古風土記では「坂本」としている。

***&color(navy,){毛志郡家北一里}; [#l6d7ac5c]

&color(darkgreen,){毛志、郡家の北一里};

--毛志(モシ)…出雲国風土記抄本文では「毛志山」となっているから「山」が抜けている。解説で「鈔云毛志山本庄村川上山而福原坂本北山也」
(鈔云、毛志山は本庄村川上の山にて、福原 坂本の北山也)
現在の&ruby(シンジヤマ){澄水山};。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.531196,133.094001&z=15&base=std&vs=c1j0l0u0]]

***&color(navy,){大倉山郡家東北九里一百八歩}; [#k07ae148]

&color(darkgreen,){大倉山、郡家の東北九里一百八歩};

--大倉山…出雲国風土記抄で「鈔云大倉山ハ手染郷長見川ノ水源今ノ枕木山観音堂ノ東ノ山ノ名」とある。
現在の枕木山。

***&color(navy,){小倉山郡家正東廾四里一百六十歩}; [#xb2099cd]

&color(darkgreen,){小倉山、郡家の正に東二十四里一百六十歩};

--小倉山…出雲国風土記抄(第2帖p15)で「鈔曰小倉山者跨加賀大藘講武持田四所小倉観音旧者在于此山寺号円福寺今徒堂於南麓則今在持田村中又此山加賀川与多久川之水源也廾四里一百六十歩今四里二町此間」
(鈔に曰く。小倉山は加賀、大藘、講武、持田の四所に&ruby(ワタ){跨};る。小倉観音、旧は此の山に在り。寺を円福寺と号す。今は堂を南の麓に徒め、則ち今持田村の中に在り。又此の山は加賀川と多久川の水源也。二十四里一百六十歩は此の間今の四里二町。)
---加賀川というのは今の澄水川(加賀神社傍を流れる)のことで、多久川というのは今は佐陀川支流となっている講武川(多久神社傍を流れる)のことであろう。
小倉山というのは現在の大平山の事であろう。校注出雲国風土記・出雲国風土記考証では「大城山」と記しているが標高などから大平山と同じであろう。かつてこの山域には山城があったと伝えられているから、大城山という場合は周辺の山稜部も含めての呼び名だと思われる。


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(白井文庫k16)
http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/ifs16.jpg
──────────
郡家東北九里一百八歩江山郡家東北廾六里卅
歩小倉山郡家正東廾四里一百六十歩凡諸山所
在草木白朮菱門冬藍漆五味子苦参獨活葛根
暑蕷萆解狼毒杜仲芍薬柴胡百部根石斛藁本
藤李赤桐白桐海 榴楠楊松禽獣則有鷲&size(9){字或&br;作鵰};
隼山鶏鳩鴙猪鹿猿飛鼯
[川]
水草河源二&size(9){一水源出郡家東三里一百八十歩毛志山一&br;水源出郡家西北六里一百六十歩同毛志山};
二水合南海流入入海&size(9){有&br;鮒};長見川源出郡家東北九
里一百八十歩大倉山東流犬鳥山源出郡家東北
一十二里一百一十歩墓野山南流二水合テ東流テ
-----
入入海野浪川源出郡家東北廾六里卅歩糸江山
西流入大海加賀川源出郡家正北廾四里一百六
十歩小倉山西流入秋鹿郡佐太水海&size(9){以上六川並少々&br;旡魚忮也 忮此字本ノ侭};
[池]
法吉陂周五里深七尺許有鴛鴦鴨鷠鮒須我毛
&size(9){當夏節尤&br;在美菜};前原披周二百八十歩有鴛鴦鳬鴨
等之類張田池周一里卅歩匏池周一里一百一十
歩&size(9){生&br;蒋}; 美能夜池周一里口池周一里一百八十歩
&size(9){有蒋&br;鴛鴦}; 敷田池周一里&size(9){有鴛&br;鴦};南入海&size(9){自海&br;行東};
朝酌促戸東通道西在平原中央渡則筌亘
東西春秋入出大小雜魚臨時來湊筌邉[馬否]
──────────
***&color(navy,){江山郡家東北廾六里卅歩}; [#f62b6769]

&color(darkgreen,){江山、郡家の東北二十六里三十歩};

--江山…糸江山の誤り。出雲国風土記抄で「鈔云糸江山ハ今ノ野浪浦ノ川上ノ山名」とある。
出雲国風土記考証では「千酌から野波へ越す峠の北にある山で、標高百七十九.三メートルのものにあたる」と記している。
校注出雲国風土記では「三坂山標高535.7米」と注記している。
---野波浦の川というのが千酌路川と里路川の二つあり説が分かれるわけだが、三坂山というのは野波から少々遠く、郡家からの距離を考えると、三坂山と枕木山(大倉山)はほぼ等距離になるはずであり、三坂山では郡家から二十六里三十歩というには近すぎる。
これにより、三坂山は誤りで、出雲国風土記考証の説が正しいと思われる。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.570023,133.121316&z=15&base=std&vs=c1j0l0u0]]

***&color(navy,){凡諸山所在草木白朮菱門冬藍漆五味子苦参獨活葛根暑蕷萆解狼毒杜仲芍薬柴胡百部根石斛藁本藤李赤桐白桐海榴楠楊松}; [#ke92cd24]

&color(darkgreen,){凡そ諸山に在る所の草木は、白朮・菱門冬・藍・漆・五味子・苦参・獨活・葛根・暑蕷・萆解・狼毒・杜仲・芍薬・柴胡・百部根・石斛・藁本・藤・李・赤桐・白桐・海榴・楠・楊・松};

---既に[[『出雲国風土記』意宇郡2]]に多くは解説しているので、未記載の物について記す。
こちらに別途纏めておく[[『出雲国風土記』記載の草木鳥獣]]

--暑蕷…薯蕷(ショヨ)であろう。
--萆解(ヒカイ)…山芋の一種。和名は鬼野老(オニドコロ)。根茎を乾燥させた物を煎じて、風邪・鎮痛に用いる。
--狼毒(ロウドク)…ジンチョウゲ科の多年草。殺菌・鎮痛に用いる。
--杜仲(トチュウ)…樹皮を生薬として利尿・肝腎強壮。葉を杜仲茶として用いる。
--芍薬(シャクヤク)…根を鎮痛・抗菌・止血に用いる。
--柴胡(サイコ)…ミシマサイコの根を柴胡と呼び生薬として用いる。解熱・鎮痛。
--李(リ)…スモモのこと。酢桃が元字だが、今では「李」を(スモモ)と読む事が多い。
--楊(ヨウ)…柳のこと。

***&color(navy,){禽獣則有鷲&size(9){字或作鵰};隼山鶏鳩鴙猪鹿猿飛鼯}; [#u95d2302]

&color(darkgreen,){禽獣則ち、鷲(字或作鵰)・隼・山鶏・鳩・鴙・猪・鹿・猿・飛鼯、有り};

***&color(navy,){[川]}; [#m0566338]
***&color(navy,){水草河源二&size(9){一水源出郡家東三里一百八十歩毛志山、一水源出郡家西北六里一百六十歩同毛志山};}; [#ye7b8453]

&color(darkgreen,){水草河、源二つ(一水は源を郡家東三里一百八十歩毛志山に出ず、一水は源を郡家西北六里一百六十歩同じく毛志山に出ず)};

--出雲国風土記抄で「鈔云一水源郡家北三里一百八十歩今二十一町也 此水源自蝨野中今福原村澄水山出其一水源郡家西北六里一百六十歩今一里二町四十間 此水源自坂本村与持田村之界即持田納藏谷出記川水源共曰毛志山而澄水与納藏谷之渓路稍阻矣蓋水源山同所出渓間不同耳水同来于山口郷今東川津村合流経西川津南入于海也」
(鈔云。一水源郡家の北三里一百八十歩は今の二十一町也。此水源は蝨野の中、今福原村澄水山自り出ず。其一水源郡家西北六里一百六十歩は今一里二町四十間。此の水源は坂本村と持田村の界、即ち持田納藏谷より出ず。記に二川の水源共に毛志山という。而も澄水と納藏谷との之渓路。&ruby(ヤヤヘダ){稍阻};たれり。しかし水源の山は同所に出て渓間同じうせざる。二水同じく山口郷、今の東川津村に来たりて、合流し西川津を経て南于海に入る也。)

--水草河(ミクサガワ)…現在の朝酌川。上記出雲国風土記抄でも少々解りにくいが、一つは虫野神社上流を水源とし福原町を流れる朝酌川上流。
今一つは坂本町を流れる坂本川と東持田町を流れる納蔵川があり、尾根一つ隔てて水源が異なるために別れて流れて下流で合流している事を指している。要するに、朝酌川上流+(坂本川+納蔵川)=水草河 ということである。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.512317,133.09679&z=15&base=std&vs=c1j0l0u0]]

***&color(navy,){二水合南海流入入海&size(9){有鮒};}; [#u98b6443]

&color(darkgreen,){二水合せて南の海に流れ入海に入る。(鮒有り)};

***&color(navy,){長見川源出郡家東北九里一百八十歩大倉山東流}; [#h9347212]

&color(darkgreen,){長見川、源は郡家の東北九里一百八十歩の大倉山に出でて東に流る。};

--長見川…現在の長海川。長海町を西から東に流れている。

***&color(navy,){犬鳥山源出郡家東北一十二里一百一十歩墓野山南流二水合テ東流テ入入海}; [#vda3bd0b]

--出雲国風土記抄では本文「犬鳥川源出郡家東北一十二里一十歩墓野山南流二水合東流入于海」とある。
犬鳥山は犬鳥川の誤りであろう。郡家からの距離も多少違うが、そのままにしておく。

&color(darkgreen,){犬鳥川、源は郡家東北一十二里一百一十歩に出て、墓野山より南に流れ、二水合て東に流れて入海に入る};

--墓野山(ハカノヤマ)…忠山。
--犬鳥川…忠山を水源として南に流れ、長海町に流れている。
かつては「杵田神社」(現在の松江市長海町59「長見神社」[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.533274,133.146272&z=15&base=std&vs=c1j0l0u0]])辺りで長見川に合流していたらしく、それを「二水合東流入入海」と表している。
校注出雲国風土記・標注古風土記・出雲国風土記考証では「大鳥川」としている。
出雲国風土記考証p115で「日御碕本・植松本は丈鳥川につくる」とある。

***&color(navy,){野浪川源出郡家東北廾六里卅歩糸江山西流入大海}; [#w494c10f]

&color(darkgreen,){野浪川、源を郡家の東北二十六里三十歩の糸江山に出づ。西に流れ大海に入る。};

--野浪川…現在の千酌路川であろう。
出雲国風土記抄では、本文「野浪河」としている。
又、校注出雲国風土記では、野浪川の注で「八束郡島根村の野波川」としているが、この「野波川」は不明。(八束郡島根村は大芦村・加賀村・野波村が合併した村。里路川を指しているのか?)

--大海…日本海のことであろう。

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***&color(navy,){加賀川源出郡家正北廾四里一百六十歩小倉山西流入秋鹿郡佐太水海&size(9){以上六川並少々&br;旡魚忮也 忮此字本ノ侭};}; [#p70cea1a]

この部分欠落がある。出雲国風土記抄を参照する。

加賀川源出郡家正北廾四里一百六十歩小倉山北流大海入也
多久川源出郡家西北二十四里小倉山西流入秋鹿郡佐太水海(以上六川少々無魚川也)
----
(出雲国風土記抄による)

***&color(navy,){加賀川源出郡家正北廾四里一百六十歩小倉山北流大海入也}; [#xaff658f]

&color(darkgreen,){加賀川、源を郡家の正に北二十四里一百六十歩に出、小倉山を北に流れ大海に入る也。};

***&color(navy,){多久川源出郡家西北二十四里小倉山西流入秋鹿郡佐太水海(以上六川少々無魚川也)}; [#k02e50a6]

&color(darkgreen,){多久川、源を郡家の西北二十四里小倉山に出、西に流れ秋鹿郡の佐太水海に入る。(以上六川少々は無魚の川也)};

--小倉山…既述。[[上記参照:http://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E3%80%8E%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E3%80%8F%E5%B6%8B%E6%A0%B9%E9%83%A1#xb2099cd]]
---無魚川…いずれも小川であるため、取りたてて記す程の魚は居ないという意味であり、小魚(メダカや小鮒等)はいる。

----
(白井本に戻る)
***&color(navy,){[池]}; [#h714c896]

***&color(navy,){法吉陂周五里深七尺許有鴛鴦鴨鷠鮒須我毛&size(9){當夏節尤在美菜};}; [#i710ac3c]

&color(darkgreen,){法吉の&ruby(ヒ){陂};、周り五里、深さ七尺&ruby(バカ){許};り。鴛鴦・鴨・鷠・鮒・須我毛(夏節に当たりて&ruby(モット){尤};も&ruby(ウマキナ){美菜};在り};};

出雲国風土記抄(第2帖p18)では「法吉坡周五里深七尺許有鴛鴦鳧鴨鯉鮒須我毛&size(9){當夏節尤有美菜};」
注で、佐久佐自清の談として、出雲には慶長年間まで鯉は居なかったので、「鯉」は衍字かと疑っている。
---古写本により「鯉」の有る物と無い物があるが、自清の談に従えば、「鯉」とあるのは「鷠」の誤写と考えられる。
但し、出雲に堀尾氏支配の頃まで鯉がいなかったという自清の話は少々疑わしい。

--法吉陂(ホッキノヒ)…出雲国風土記抄では「法吉坡」
「陂」は池の事。「坡」は傾斜地のこと。ともに(ヒ・ツツミ)と読むが意味は異なる。
標註古風土記等では「智者池」としているが、出雲国風土記考証では「周五里」にあわないと疑問を呈し、「麻利支天の南、新橋、内中原、四十間堀等を包有する所が、古は沼であった。法吉坡とは其の沼を云ったものではあるまいか」としている。
---「麻利支天」というのは「法吉神社」南方にある「麻利支神社」のことであろう。古い沼というのは現在の松江城西方のかなり広い範囲にあたる。

--鴛鴦(オシ)…オシドリ。鴛はオシドリの雄、鴦はオシドリの雌
--鷠(ウ)…海鵜
--須我毛(スガモ)…菅藻。ヒルムシロ科或いはアマモ科の海草
---スガモを挙げていることから、法吉陂は塩水若しくは汽水域に接しているはずで、山中の淡水池である智者池はありえない。

***&color(navy,){前原披周二百八十歩有鴛鴦鳬鴨等之類}; [#sff84ba5]

-「披」は「陂」に改める。

&color(darkgreen,){前原の陂、周り二百八十歩。&ruby(オシ){鴛鴦};・&ruby(ケリ){鳬};・鴨等の類有り};

--前原披…「前原埼」と併せ後記

***&color(navy,){張田池周一里卅歩}; [#g3c23be0]

&color(darkgreen,){張田池、周り一里三十歩};

--張田池…松江市西生馬の半田池[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.499531,133.031988&z=15]]

***&color(navy,){匏池周一里一百一十歩&size(9){生蒋};}; [#v13a73f9]

&color(darkgreen,){匏池、周り一里一百一十歩(生蒋)};

--匏池(ヒサゴイケ)…松江市薦津町の旧地名「古桁」にあったという池。現在の柄杓池南方、浜佐田上あたり。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.482636,133.030883&z=16]]
ヒサゴは瓢箪(ひょうたん)のことであるから瓢箪の形をしていたのであろう。
--蒋…マコモ

***&color(navy,){美能夜池周一里}; [#z899610d]

&color(darkgreen,){美能夜池、周り一里};

--美能夜池…所在不明。出雲国風土記考証では、「薦津の蛍ガ池ではあるまいか」と推察している。

***&color(navy,){口池周一里一百八十歩&size(9){有蒋鴛鴦};}; [#q9ec37a5]

&color(darkgreen,){口池、周り一里一百八十歩(蒋・鴛鴦あり)};

--口池…所在不明。出雲国風土記抄では山口池の山が欠落したものかとしているが、山口池が既に解らない。
出雲国風土記考証では、「本庄村と持田村との堺の細工峠の池をいったものか」と推察している。

***&color(navy,){敷田池周一里&size(9){有鴛鴦};}; [#de496f55]

&color(darkgreen,){敷田池、周り一里(鴛鴦あり)。};

--敷田池…所在不明。出雲国風土記考証では「國屋の長池は、口池か、敷田池か、その何れかの一つに當るであろう」と推察している。
---現在の「国屋の長池」[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.472484,133.033576&z=15]]

***&color(navy,){南入海&size(9){自海行東};}; [#p3a134f8]
-自海行東…「自西行東」としている古写本が多い。

&color(darkgreen,){南は入海(自海行東)};

---この一文、多くは独立した文として扱っていることが多いが、独立した文なのか、前の敷田池に繋がる文なのか疑問のあるところ。
独立文ならば、なぜここにこの一文があるのか理由が解らない。
敷田池に繋がる文とすれば、「敷田池、周り一里(鴛鴦あり)。南は海に入る。(海より東に行く)」と読んで、宍道湖と大橋川に繋がっている池と考えることもできる。


***&color(navy,){朝酌促戸東通道西在平原中央渡則筌亘東西}; [#a72167f6]

&color(darkgreen,){&ruby(アサクミノセト){朝酌促戸};、東に通い道、西に&ruby(ハラ){平原};在り。中央は渡し。則ち筌を東西に&ruby(ワタ){亘};す。};

--朝酌促戸…「朝酌促戸渡」は民間の渡しで、「朝酌渡」は公用の渡しとされる。現在の矢田渡しの辺りに、西に朝酌渡、東に朝酌促戸渡があったという。[[地理院地図矢田渡:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.452665,133.102756&z=15]]
--通道…朝酌から島根郡家に通じる道。
--平原…出雲国風土記考証では「津田の平原である」としている。

--筌…魚を獲る竹籠。ウケと読むことが多いようだが、ヤナとも読む。
ここでは簗筌漁(ヤナウケリョウ)のことを指していると思われる。
---他所のことは良く解らぬが、広島ではヤナ漁というと、ヤナとウケを設えた全体を呼ぶ。籠もヤナ籠というがウケ籠と呼ぶ場合は受け籠の意味で使う。
「ウケを東西にわたす」という言い方には違和感があるので、この場合は「ヤナを東西にわたす」と読むべきと考える。
出雲では「筌」を(ヒビ)と読むという説がある。但し江戸時代の呼び方で風土記の時代はどうだったかは不明。
復元したという「筌漁(ヒビリョウ)」というのがあるが、柴漬け漁に近いもので、カワエビ等しか捕れそうにない。
竹籠という意味の「筌」を用いる漁としては少々疑問。(ヒビというのはそもそもノリ漁で用いる仕掛け名である)
高津川では「登り筌漁(ノボリエリョウ)」というのが残っており、この筌は竹籠である。


***&color(navy,){春秋入出大小雜魚臨時來湊筌邉[馬否][馬亥]風厭水衡或破堸筌製日鹿於鳥被捕}; [#ffb609ba]

&color(darkgreen,){春秋に、入り出る大小の&ruby(ザコ){雜魚};、時に臨みて&ruby(ヤナ){筌};の辺りに来&ruby(アツマ){湊};りて、&ruby(オドロ){[馬否]};き&ruby(ハネ){[馬亥]};て風のごとく&ruby(オ){厭};し、水のごとく&ruby(ツ){衡};き、或いは筌を&ruby(ウチヤブ){破堸};り、&ruby(ヒジシ){日鹿};を&ruby(ツク){製};り、鳥に捕られる};

---ここの記述で簗筌漁であることが解る。川に竹製のスダレのようなもの(簗)を渡し堰とし、そこに泳いでくる魚を捕らえる。

--製日鹿…色々解釈されてきたが、干し魚になるという意味。干鰯(ホシカ)干食(ヒジシ)、何れかの当て字。一応ヒジシと読んでおいた。

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(白井文庫k17)
http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/ifs17.jpg
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[馬亥]風厭水衡或破堸筌製日鹿於鳥被捕大
小雜魚莫濱藪澡家闐市人四集自然成墨矣&size(9){自茲&br;入東};
&size(9){至于大井濱之周南北二&br;濱兼捕日魚水深也};朝酌渡廣八十歩許自国廰通
海邉道矣 &size(9){上有廳};廳&size(9){此字};
大井濱則有海鼠海松又造陶器也
邑美冷水東西北山並嵯峨南海澶浸中央
鹵灠磷男女老少時叢集常燕會地矣
前原埼東北並巃嵸下則有陂周二百八十歩
深一丈五尺許三邉草木自生涯鴛鴦鳥鴨
随時常住陂之南海也即陂與海之間濱東西長
-----
一百歩南北廣六歩肆松蓊欝濱鹵淵澄男女随
時叢会或愉樂耽遊忘帰常燕喜之地矣蜛蝫
島周一十八里一百歩高三丈古老傳云出雲郡杵築
御埼在蜛蝫天羽合鷲椋持飛燕來止于此嶋故
云蜛蝫島今人猶誤栲嶋号耳土地豊渡西邉
松二株以外茅沙薺頭蒿路等之類生靡
&size(9){即有&br;枝};去陸三里蜛蝫島周五里一百廾歩高二丈
古老傳云有蜛蝫島食來蜈蚣止居此嶋故云
蜈蚣嶋東邊神社以外皆悉百姓之家土体
豐渡草木扶踈桑麻豐富此淵所謂嶋里是&size(9){矣};
──────────

***&color(navy,){大小雜魚莫濱藪澡家闐市人四集自然成墨矣&size(9){自茲入東至于大井濱之周南北二濱兼捕日魚水深也};}; [#oaed6284]

&color(darkgreen,){大小雜魚&ruby(ナ){莫};く、濱&ruby(サワガシ){藪澡};く、家&ruby(サカン){闐};にて、&ruby(イチビト){市人};四集し、&ruby(オノズ){自然};から&ruby(ミセ){墨};と成る。(ここより東に入り大井濱に至るまで、南北二濱の周りは水深く日魚を捕るを兼ねる也)};

--大小雜魚莫…ここでの雑魚は無駄になる魚という意味であろう。則ち、「大小無駄になる魚はない」。「莫」のない古写本もある。
--藪澡…「藪」は集まる事。「澡」は「躁」で騒がしい事。
--市人四集…市人四方(ヨモ)より集い。
--墨…鄽(ミセ)を略したのであろう。或いは、かつて市を立てる際墨書した看板を立てて告知したので、「墨」は「市」の意味で用いたのかもしれない。
--大井濱…松江市大井町の浜辺。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.464026/133.123269/]]
--日魚…干し魚の意味かとも考えられるが、白魚の誤りと思われる。


***&color(navy,){朝酌渡廣八十歩許自国廰通海邉道矣 &size(9){上ニ有ル廳トハ};廳&size(9){テイ&br;チヤウ}; &size(9){マラウドノクリヤ&br;タビノクリヤ};&size(9){此字ニヤ};}; [#z555c76e]

&color(darkgreen,){朝酌渡、廣八十歩許り。国廰より海邉に通う道なり。(上に有る廳とは廳&size(9){テイ&br;チヤウ}; &size(9){マラウドノクリヤ&br;タビノクリヤ};此字にや)};

--廣…この廣は長さを指す「尋」の意味であろう。
--国廰…「廰」の原文字形は[マダレ/敢の右側ノブンをヒヒ]であり、表示不能。出雲国庁のことであろう。

***&color(navy,){大井濱則有海鼠海松又造陶器也}; [#a3c9aaee]

&color(darkgreen,){大井濱、則ち&ruby(ナマコ){海鼠};・&ruby(ミル){海松};有り。又&ruby(スエキ){陶器};を造れる也。};

---大井浜に海鼠がいたことから、この時代に中海は塩水であったことが解る。
--造陶器…かつて岩汐谷に窯場があったという。

***&color(navy,){邑美冷水東西北山並嵯峨南海澶浸中央鹵灠磷男女老少時叢集常燕會地矣}; [#nc1171a7]

&color(darkgreen,){&ruby(オウミノシミズ){邑美冷水};、東西北は山にして&ruby(ミナ){並};嵯峨し。南は海にて&ruby(ダンシン){澶浸};す。中央に&ruby(カタ){鹵};あり&ruby(ランリン){灠磷};す。男女老少、時に&ruby(ムラ){叢};がり集いて常に&ruby(エンカイ){燕會};する地なり。};

--邑美冷水…松江市大海崎町の水源。今は目無水(メナシミズ)と呼ばれ、島根の名水百選に選ばれている。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.467783/133.132517/]]
---「目無水」については「あまりにもきれいで目方が無いほどである」という意味で名付けられたとされているが少々疑問。
水の重量など濁っていようが透明であろうが大して変わるものではない。
この場合の「目」は水の湧き出す位置のことで、目無しというのは、湧きだし箇所が一箇所ではなく多数あるか、はっきり定まらないか、そういう意味ではないか思われる。(現在は水源は別途とられ、湧水池は水草などに覆われて確認はできていない)阿蘇の湧水池等考えるとその様に思われる。
---「邑美」というのは地名にも残らず良く解らないが、邑が(ムラ)で「集まる」という意味でもあるから、美しい水が集まるという意味を表しているのかも知れない。
かつて、松平不昧が茶の湯に用いたとも伝えられ、地酒にも使われたという島根の名水百選第一号であるから、今少し注目されても良いと思う。

--嵯峨…急峻な様子。
--澶浸…なだらかに下り海に接する。という意味であろう。「浸」を「漫」としている古写本があり、「澶漫」で(ヒロシ)と読んでいる。
--鹵…字義は岩塩のことだが、ここでは「潟」の音に通じ、湧水池のことを指すのであろう。
--灠磷…灠は小さな粒のことで、磷はキラキラ光ること。清水が水泡と共に湧き上がってくる様子を表しているのであろう。
砂礫とする解釈本もあるが、中央のみというのは解せない。
--燕會…宴会の当て字であろう。
---燕は早朝電線などに群れ集まり何事かさえずりあう習性がある。その様な様子を模したのであろう。

***&color(navy,){前原埼東北並巃嵸下則有陂周二百八十歩深一丈五尺許}; [#z0928803]

&color(darkgreen,){&ruby(サキハラノサキ){前原埼};、東と北は&ruby(ミナ){並};&ruby(ロウシュウ){巃嵸};。下には則ち&ruby(ヒ){陂};有り。周り二百八十歩、深さ一丈五尺許り。};

--前原埼…出雲国風土記抄では
第2帖24コマで「前原陂周二百八十歩ハ今ノ二百八十間自大海埼東方在上宇部尾所経之磯辺也」
(&ruby(サキハラノヒ){前原陂};、周二百八十歩は今の二百八十間なり。大海埼より東方、上宇部尾に経る所の磯辺に在る也)
第2帖25コマで「前原埼東北並巃嵸下ニ則有リト陂云云 是亦大海村ノ中俗ニ呼曰ク蛇角解是也」
(前原埼東北並巃嵸下に則ち陂有りと云々。是亦大海村の中、俗に&ruby(ジャノツノトク){蛇角解};と呼びて曰く是也)
これによれば、現在の松江市大海崎町の大海崎が該当しそうだが陂は不明。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.470300/133.138032]]
一方、出雲国風土記考証ではp123で「前に、前原埼の條にのべたやうに、下宇部尾と、森山との間、中海に突き出た半島の端である。この半島の東側の端を、今、鷺ヶ鼻とも、サキガ鼻ともいひ、南端を猿ヶ鼻といふ。猿ヶ鼻の沖に黒島又はクソ島という礁がある。元この礁まで陸続きであった。この島より西北二町許りに深い所がある。その邉の海岸が、古の燕喜の地であつたであらう。この邉は今は邉鄙であるが、會で猿ヶ鼻の城もあった。又、松江藩の末期には、下宇部尾の灣は、藩の軍艦の碇泊所として賑はしくあつた」とあり、美保関町の森山・下宇部尾の境の半島としている。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.528088/133.189144/]]

--陂(ヒ)…(イケ)と傍書
--巃嵸(ロウシュウ)…「巃」はけわしい、「嵸」はそびえる。山が急峻な様子。

***&color(navy,){三邉草木自生涯鴛鴦鳥鴨随時常住陂之南海也}; [#k549e8ca]

&color(darkgreen,){三邉に草木自から&ruby(ガケ){涯};に&ruby(シゲ){生};る。鴛鴦・鳥・鴨・時の&ruby(ママ){随};に常に住めり。陂の南は海也。};

---三邉…東西北の三方をさすのであろう。

***&color(navy,){即陂與海之間濱東西長一百歩南北廣六歩肆松蓊欝濱鹵淵澄}; [#b940f049]

&color(darkgreen,){即ち、陂と海の間は濱。東西の長さ一百歩、南北の廣さ六歩。松&ruby(ツラナ){肆};り&ruby(オウウツ){蓊欝};する濱なり。&ruby(カタ){鹵};は&ruby(フカ){淵};く澄めり。};

--肆…物が並んでいることを表す。
--蓊欝(オウウツ)…蓊は茂る。欝は薄暗い。蓊欝は鬱蒼と茂る様子。

***&color(navy,){男女随時叢会或愉樂耽遊忘帰常燕喜之地矣}; [#jc44a025]

上段の注記に、「会&size(9){ハ};令&size(9){リョウ&br;レイ};&size(9){ツカフ・モテアソブ・ヒトリ}; 使也・弄也、此字&size(9){ノ};誤&size(9){カ};」とある。

&color(darkgreen,){男女&ruby(トキノママ){随時};に&ruby(ムレツドイ){叢会};、或いは、&ruby(タノシミテ){愉樂};遊びに&ruby(フケ){耽};り帰るを忘れる。常に燕喜の地なり。};

---東西北の三方が急峻な山で、南に陂があり、その南に東西に広がる浜があり、更にその南が海という場所である。
一部に大海崎鼻としている解説があるが、地形的にあり得ない。

***&color(navy,){蜛蝫島周一十八里一百歩高三丈}; [#raff57db]

&color(darkgreen,){&ruby(タコ){蜛蝫};島、周り一十八里一百歩、高さ三丈};

--蜛蝫島…現在の大根島

***&color(navy,){古老傳云出雲郡杵築御埼在蜛蝫天羽合鷲椋持飛燕來止于此嶋故云蜛蝫島今人猶誤栲嶋号耳}; [#v779154c]

&color(darkgreen,){古老の傳えて云。出雲郡杵築の御埼に蜛蝫在り。&ruby(アマノハハワシ){天羽合鷲};&ruby(ト){椋};り持ち&ruby(トビ){飛燕};來たりて此の嶋に止まりき。故蜛蝫島という。今の人、猶誤まりて&ruby(タクシマ){栲嶋};と&ruby(ナヅ){号};く。};

--杵築御埼…日御碕
--天羽合鷲…大鷲のことであろう。他書には「天羽々鷲」
---日御碕に鮹がおり、それを大鷲が捕まえてこの島まで飛んできたことから蜛蝫島と呼ぶようになったという。奇妙な話ではある。
何かの寓話とも考えられる。
--飛燕…燕の飛ぶ様子で、この場合かなり素早く飛ぶ様子を指す。(&ruby(トビ){鳶};のことではない。念のため)

***&color(navy,){土地豊渡西邉松二株以外茅沙薺頭蒿路等之類生靡&size(9){即有枝};}; [#q8f23f07]

&color(darkgreen,){土地豊かに渡り、西の&ruby(ホトリ){邉};に松二株あり。&ruby(ホカニ){以外};、茅・沙・&ruby(オハギ){薺頭蒿};・路・等之類生い&ruby(ナビ){靡};く。(即ち枝有り)};

--土地豊渡…土地豊沃(土地豊かに&ruby(コエ){沃};)としている書がある。

--沙…沙は小砂のことだが、ここは植物の列挙であるから「莎」(スゲ・ハマスゲ)の事であろう。
--薺頭蒿…([[既出:http://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?cmd=read&page=%E3%80%8E%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E3%80%8F%E8%A8%98%E8%BC%89%E3%81%AE%E8%8D%89%E6%9C%A8%E9%B3%A5%E7%8D%A3&word=%E8%96%BA%E9%A0%AD%E8%92%BF]])
--路…蕗(フキ)であろう。
--即有枝…「即有牧」としている書が多い。「牧」は官営の牧場を指す。が、なぜここに牧を記すのか疑問。
出雲国風土記抄では「即有牧」

***&color(navy,){去陸三里}; [#r84aedd2]

&color(darkgreen,){陸を去ること三里。};

***&color(navy,){蜛蝫島周五里一百廾歩高二丈}; [#w3fb2014]

標注古風土記p137の解説に「古寫本には皆、蝫蜛島とあり。内山眞龍の風土記解以後、後に「故云蜈蚣島」とある語より推して、蜈蚣島と改めしものなり。蜛蝫社が、この島にあることを以て見れば、現今人が、江島を大根島の属島と考ふるが如く、古代に於ても、蜈蚣島と蜛蝫島とを合せて、蜛蝫島と云ふこともあり。主島に對して、區別して稱する時に、蜈蚣島といふ事ありしかも知るべからず」とある。
最初の「蝫蜛島」は「蜛蝫島」の誤りであろうが、それは置くとして、
古写本にはいずれも蜛蝫島とあるのを、内山眞龍が後の文から勘案して蜈蚣島と改めたというのである。
これについて栗田は、両方の島を総じて蜛蝫島と呼び、区別する場合に江島を蜈蚣島と呼んだのではないかと推察しているわけだが、本当のところは解らない。というのである。
内田眞龍以後、多くはこの部分を「蜈蚣島」に変えているようである。が、まずは原文通りで読んでおく。

&color(darkgreen,){&ruby(タコ){蜛蝫};島、周り五里一百二十歩、高さ二丈};
「&ruby(ムカデ){蜈蚣};島、周り五里一百二十歩、高さ二丈」

--蜈蚣島…現在の江島。蜛蝫神社[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.511217/133.190346/]]がある。主祭神は素盞鳴尊。
素盞嗚尊を奉るのは、古事記にある須佐之男命と葦原色許男の逸話で須佐之男命の頭にムカデが多数居たという話に関連するのであろうか。
続日本紀に文武天皇4年(700年)「諸国をして牧地を定め牛馬を放たしむ」とあり、この時蜛蝫島住民は蜈蚣島に強制移住となったといわれる。その際蜛蝫島の蜛蝫神社が蜈蚣島に移されたのではないかとも考えられている。

***&color(navy,){古老傳云有蜛蝫島食來蜈蚣止居此嶋故云蜈蚣嶋}; [#a6f72b61]

&color(darkgreen,){古老の傳へに云。蜛蝫あり、島に蜈蚣を食へ来たりて此の島に&ruby(トドマリ){止居};き。故に蜈蚣嶋と云う。};

--「古老傳云有蜛蝫島蜛蝫食來蜈蚣止居此嶋故云蜈蚣嶋」としているものもある。
(古老の傳へに云。蜛蝫島に蜛蝫あり。蜈蚣を食へ来たりて此の島に止居き。故に蜈蚣嶋と云う。)

---蜛蝫が蜈蚣をくわえて来るというのも奇妙な話で、上記の強制移住の寓話かとも思われる。
蜈蚣は火傷や切傷に用いる薬でもあるが、忌まれる虫でもある。元の住民にとっては移住者は良悪両面あったことであろう。
それを蜛蝫が蜈蚣をくわえてきたと表したのかも知れない。
してみると、先の大鷲が蜛蝫を捕まえて蜛蝫島に飛んできたというのも、鷲をトーテムとする一族に関連する移住話の寓話化なのかも知れない。

***&color(navy,){東邊神社以外皆悉百姓之家}; [#p0f4c0d1]

&color(darkgreen,){東辺の神社以外皆悉く百姓之家};

--東邊神社…蜛蝫神社のことだが、現在地より南東、若宮畑(渡上)に元社地があったという。
江島は風土記の時代から長年に渡り東方・北方に埋め立てが行われ、現在では往時の5倍以上の広さとなっている。

***&color(navy,){土体豐渡草木扶踈桑麻豐富}; [#w868e39d]

&color(darkgreen,){&ruby(ツチ){土体};豐かに渡り、草木&ruby(フソ){扶踈};し、桑・麻豐富なり。};

--扶踈(フソ)…扶は広がる。踈はまばら。「扶踈」で、まばらに広がる。「扶」を「枝」としている書もあるが疑問。
---「扶疏(フソ)」としている書がある。疏は枝分かれであるから、枝分かれして広がるという意味になり、意味が違ってくる。
「扶疏」は陶淵明の詩に例がある。

---大根島と江島は共に大根島火山による玄武岩質の緩やかな溶岩台地で、土は火山灰のため特有の植生があった。
長年に渡り藻などを採集し農地作りに苦心して来たらしい。江戸期より土質に合う牡丹と高麗人参の栽培が盛んになった。
蜛蝫島で「土地豊渡」蜈蚣島で「土体豐渡」と原文にあるが、この「渡」を「沃」としている書がある。「渡」は火山灰土が広がっていることを指しているのだと考えられ、「沃」とするのには疑問がある。沃は肥沃の沃で、土壌の性質が肥沃という意味になるが、大根島や江島の歴史を見ると、決して土地が肥沃であったのではなく、大変な苦労を重ねて農地を育て続けて来た事が窺えるからである。出雲国風土記抄では共に「渡」

***&color(navy,){此淵所謂嶋里是&size(9){矣};}; [#a162ec58]

&color(darkgreen,){此淵&ruby(イワユル){所謂};嶋の里是なり};

--此淵(コノフチ)…直接には意味がとりがたい。為に「此則」としている書がある。これは風土記内の用例を参照して改めたものらしい。内山眞龍は「此洲」と解している。出雲国風土記抄(第2帖20コマ)では「渕所謂嶋里是矣」
「淵」は水の集まるところ、転じて物の集まるところと云う意味がある。ここの場合、人の集まる所という意味で「淵」を用いたのだと考え得る。それであれば後の「嶋里」に繋がり理解できる。
又風土記時代の蜈蚣島は、東側に入江があり、その付近に人家が集まっていた様であるから、淵というのは、この入江を指していたのかとも思われる。
(天平五年(733年)出雲風土記編集)
http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/mukadejima.jpg
---(閑話)島の形が蜈蚣の頭に似ているから蜈蚣島と呼ばれたという逸話もあるが如何に。
ならば蜛蝫島は蜛蝫に似ているのか、というとそうでもない。

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(白井文庫k18)
http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/ifs18.jpg
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&size(9){去津二里&br;一百歩};即自此嶋達伯耆國郡内夜見嶋磐石二
里許廣六十歩許乘馬猶往來鹽滿時深二尺五
寸許塩乾時者已如陸地和多太嶋周三里二百廾歩
&size(9){有椎海榴白桐松芋菜&br;薺頭蒿落都波猪鹿};去陸渡一十歩不知深浅美佐嶌
周二百六十歩高四丈&size(9){有椎模芳葦&br;蒿落都波猪鹿};
戸江剗郡家正東廾里一百八十歩&size(9){非島陸地濱耳伯耆郡&br;内夜見島將相向之間也};
栗江埼&size(9){相向夜見島没戸&br;渡二百一十六歩};
埼之西入海堺也凡南入海所在雜物入鹿和爾
鯔須受枳近志呂鎭仁白魚海鼠鰝鰕海松等之
類至多不可令名
-----
北大海崎之東大堺也&size(9){猶自西&br;行東};鯉石島&size(9){生海&br;藻};丈嶋&size(9){議&br;毘};宇田
比演廣八十歩&size(9){捕志&br;毘魚};盗道濱廣八十歩&size(9){捕志&br;毘魚};澹由比濱廣
五十歩&size(9){捕志&br;毘魚};加努夜濱廣六十歩&size(9){捕志&br;毘魚};美保濱廣一百
六十歩&size(9){西有神社北有百姓&br;之家捕志毗魚};美保埼&size(9){用壁崎&br;[山/罪]定岳};等々島&size(9){禺々&br;當位};上
嶋&size(9){礒};久毛等浦廣一百歩&size(9){自東行西&br;十舩可曹};黒島&size(9){生海&br;藻};這田濱
長二百歩比佐島&size(9){生紫菜&br;海藻};長嶋&size(9){生紫菜&br;海藻};比賣嶋&size(9){礒};結嶋門
周二里卅歩高一十丈&size(9){有松薺頭&br;蒿郡波};御前小嶋&size(9){礒};質簡比浦
廣二百廾歩&size(9){南神社北百姓&br;之家卅舩可泊};久宇嶋周一里卅歩高七尺&size(9){有椿&br;椎白};
&size(9){朮小竹薺頭&br;蒿都波有};赤嶋&size(9){生海&br;藻};宇氣嶋&size(9){同&br;前};里嶋&size(9){同&br;前};粟嶋周
二百八十歩高一十丈&size(9){有松芋&br;方都波};玉緒濱廣一百八十歩
──────────
***&color(navy,){&size(9){去津二里一百歩};即自此嶋達伯耆國郡内夜見嶋磐石二里許廣六十歩許}; [#zc029b33]

&color(darkgreen,){(津を去ること二里一百歩)即ち此嶋より伯耆國の郡内夜見嶋に達するに&ruby(イワ){磐石};二里&ruby(バカリ){許};あり。廣さ六十歩許り。};

--津…蜈蚣島の入江であろう。
---校注出雲国風土記では「美保関町森山辺の港であろう」と注記しているが疑問。
--夜見嶋(ヨミノシマ)…今の弓ヶ浜半島であるが、風土記時代は夜見嶋というように島であった。境港市に「渡」という地区があり、ここが蜈蚣島への渡場であったのであろう。(弓ヶ浜が陸続きの半島となったのは平安中期以降と考えられている)
---ソニーエンタテイメントがホラーゲームSIREN2の中で架空の島「夜見島」というのを(ヤミシマ)と読んでいるが、紛らわしい名付けである。所詮架空ならそれ相応の名付けをすべきである。歴史性に対する配慮・敬意が無いと云わざるを得ない。

***&color(navy,){乘馬猶往來鹽滿時深二尺五寸許塩乾時者已如陸地}; [#rf3c9b43]

&color(darkgreen,){馬に乗りて猶往來す。&ruby(シオ){鹽};滿つる時は深さ二尺五寸許り、塩&ruby(ヒ){乾};く時は&ruby(スデ){已};に&ruby(クガ){陸地};の如し};

--深二尺五寸許…約75cm
---夜見嶋から蜈蚣島へも、蜈蚣島から蜛蝫島へも浅瀬を利用して馬で往来できたようである。
蜛蝫島に「馬渡」という地名があるのはその名残であろう。

***&color(navy,){和多太嶋周三里二百廾歩}; [#o9360d79]

&color(darkgreen,){和多太嶋、周り三里二百二十歩};

--和多太嶋(ワタタシマ)…美保関町下宇部尾にある。
出雲国風土記抄では「今曰和多太埼」(今に和多太埼という)
出雲国風土記考証に「今は和多々岬という半島になつて居る。下宇部尾の西南、手角の東南にある。」とある。
校注出雲国風土記では「八束郡美保関町下宇部尾の和田多鼻」と注記。
現在美保関中学校のある場所の南の辺りであろう。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.532052/133.163524/]]

(「出雲国絵図」推定天保年間1830~1844/[[島根大学附属図書館:http://www.lib.shimane-u.ac.jp/0/collection/da/kuniezu.html]]桑原文庫)
http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/watata.jpg
地図上では「和多田鼻」とある。
---出雲で正確な地図が作られるようになったのは、他国と同様に伊能忠敬がこの地を訪れたことに刺激されて以降の事らしい。
残念ながら火災や震災により伊能図の原図は残っていないが、写しは残っている。
伊能図は、香取市佐原の伊能忠敬記念館に出かけた際初めて見たが、瀬戸内の厳島や可部島などを正確に記してあったことに驚愕した。(可部島というのは厳島の南西にある無人の小島)
伊能図は国土地理院の[[古地図コレクション:http://kochizu.gsi.go.jp/HistoricalMap/]]で写しを見ることが出来るが、上に掲載した地図は伊能図に酷似しており、伊能図を模写し加筆したものと推察できる。
天保年間と推定しているのも、忠敬がこの地を訪れ、全国測量を終えた後の頃のものと考えたからであろう。
出雲地方部分に関しては伊能図でも上記掲載地図以上の情報は得られなかった。
又、次の美佐嶋に該当しそうな場所は見当たらなかったので、既に1800年代には和多太嶋同様、島としては存在していなかったのだろうと考え得る。
尚、忠敬の測量技術は帝国陸軍測量部に継承され、朝鮮半島や中国大陸などアジア各地の正確な地図作りに引き継がれた。
国土地理院はさらにその後を引き継いでいる。

***&color(navy,){&size(9){有椎海榴白桐松芋菜薺頭蒿落都波猪鹿};去陸渡一十歩不知深浅}; [#r31dd176]

「落」は「蕗」に改める。

&color(darkgreen,){(椎・海榴・白桐・松・芋菜・薺頭蒿・蕗・都波・猪・鹿有り)陸を去ること渡り一十歩。深浅を知らず};

--芋菜(イエツイモ)…里芋の古名
--不知深浅…島に渡る瀬の深さが解らない。おそらく干満はあるにせよ歩いて渡ることが出きる程度の浅瀬だったのであろう。

***&color(navy,){美佐嶌周二百六十歩高四丈&size(9){有椎模芳葦&br;蒿落都波猪鹿};}; [#d1fded8a]

「嶌」は「嶋」の異体字

&color(darkgreen,){美佐嶋、周り二百六十歩高さ四丈(椎・模・芳・葦・蒿・落・都波・猪・鹿有り)};

--有椎模芳葦蒿落都波猪鹿…他書では「椎橿茅葦都波薺頭蒿」とある。前文の「蒿~」以下と同文なので書き誤ったのだと思われる。

--美佐嶋…周260歩=460m、高4丈=40尺=12m
出雲国風土記考証に「和多々鼻より東十三町の所にコブチノ鼻という岬がある。その半島が昔は島であつたらう。」とある
校注出雲国風土記では「和田多鼻東南の和多鼻」と注記。
古地図に記載が無く、大きさと高さから類推するに、現在の美保関中学校の東方で今は陸続きとなっている丘陵部かと思われる。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.535195/133.170476/]]

***&color(navy,){戸江剗郡家正東廾里一百八十歩&size(9){非島陸地濱耳伯耆郡&br;内夜見島將相向之間也};}; [#qd69fd2d]

&color(darkgreen,){&ruby(トノエノセキ){戸江剗};、郡家の正に東二十里一百八十歩(島に非ず。陸地の濱のみ。伯耆郡の内なる夜見島に相向の間也)};

--戸江剗…夜見島と美保郷との間の境水道に置かれた監視所。現在の境港市に外江(トノエ)と云う地区があり、その対岸と一体で監視にあたったと考えられる。
サルガ鼻洞窟住居跡の北、今「福島造船」のある場所がかつては入江であり古関という地名であったことから、ここが戸江剗であろう。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.534391/133.194551/]]
出雲国風土記考証p121で「今の夜見濱の外江の西北端より西北に當りて~」と記している。
古関には美保神社があったらしいが、森山(南甫)の横田神社に合祀されている。

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(白井文庫k19)
http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/ifs19.jpg
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(白井文庫k20)
http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/ifs20.jpg
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(白井文庫k21)
http://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/ifs21.jpg
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「出雲国風土記考証」天平時代島根郡之図
http://fuushi.k-pj.info/jpg/map/izumofudoki_tp_simane.jpg
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[[『出雲国風土記』秋鹿郡]]


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