『出雲国風土記』
『出雲国風土記』総記
『出雲国風土記』意宇郡 ・ 『出雲国風土記』意宇郡2
『出雲国風土記』嶋根郡 ・ 『出雲国風土記』秋鹿郡
『出雲国風土記』楯縫郡 ・ 『出雲国風土記』出雲郡
『出雲国風土記』神門郡 ・ 『出雲国風土記』飯石郡
『出雲国風土記』仁多郡 ・ 『出雲国風土記』大原郡
『出雲国風土記』後記
・『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介
『出雲国風土記』大原郡(おおはらのこおり)
(白井文庫k45)
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大原郡
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(白井文庫k46)
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合郷捌 里廾四
神原郷 今依前用
屋代郷 本字矢代
屋裏郷 本字矢内
佐世郷 今依前用
阿用郷 本字阿欲
海潮郷 本字得鹽
來以郷 今依前用
斐伊郷 今依前用
所以号大原者郡家正西一十里一百一十六歩田一十
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町許平原号曰大原徃古之時此處有郡家今猶
追舊号大原今有郡家所
号云斐伊村 神原郷正北九里古老
傳曰所造天下大神神財積置給所則可謂
神財郷而今人猶誤故云神原号耳
屋代郷郡家正北一十里一百一十六歩所造天
下大神之勢立射所故云矢代神龜三年
改字屋代即有
正倉 屋裏郷郡家東北一十里一百一十六歩
古老傳云所造天下大神令[歹真][竹/犬]給所故云矢内
神龜三年
改字屋裏 佐世郷郡家正東九里二百歩古老
傳曰須佐能表命佐世乃木葉頭刺而踊躍
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合郷捌 里廾四 †
郷合わせて八 里二十四
神原郷 今依前用 †
屋代郷 本字矢代 †
・萬葉緯本k78で「屋代」に「和名大原」と傍記
屋裏郷 本字矢内 †
佐世郷 今依前用 †
阿用郷 本字阿欲 †
海潮郷 本字得鹽 †
海潮郷 もと字得塩
來以郷 今依前用 †
来以郷 今も前に依り用いる。
斐伊郷 今依前用 †
・細川家本k59で「斐伊郷 本字樋 以上別郷別里参」
・日御﨑本k59で「斐伊郷 本字樋 以上捌郷 里参」
・倉野本k60で 「斐伊郷 本字樋 以上別捌郷別里参」
・萬葉緯本k78で「斐伊郷 本字樋 以上郷捌里参」
・出雲風土記抄4帖k29本文で「斐伊郷 本字樋 以上捌郷里参」
以上比較し、次のように改める。
斐伊郷 本字樋 以上捌郷別里参
斐伊郷 もと字樋 以上八郷、別に里参。
- 本字樋…樋はトイのことであるから、川の両岸が高くなっていたことを物語る。
又、受樋のように三刀屋川・久野川・案内川・杉谷川・請川など多くの河川が合流している場所と云う意味で用いられていたとも思われる。
所以号大原トハ者郡家正西一十里一百一十六歩田一十町許リノ平原ヲ号テ曰フ大原ト
徃古之時此處ニ有リ郡家今猶追テ舊キヲ号ス大原ト今有郡家所ヲ号シ云フ斐伊村ト †
- 大原郡家…
・出雲風土記抄4帖k29解説で「鈔云大原郡家ハ者所謂ル斐伊村也~却一里廾六町正東而當仁和寺村与前原之間欤此処者平野曠然樹林蓊鬱盖是可為古之大原者~」
・出雲国風土記考証p332解説で「郡家正西は誤りであつて、正しくは郡家ノ東北にあたる。位置は今の幡屋村仁和寺の郡垣といふ所が舊郡家のあとであるといふ。天平時代の郡家は、今の斐伊村里方にあつて、斐伊川より約五十六間、城名樋山の麓より南へ約七町四十間ばかりの所である。」
・修訂出雲国風土記参究p430参究で「~そしてその場所は今の大東町前原の土居辺であったと思われる。考証にいう仁和寺の郡垣は、中世の郡家のあったところで、距離もやゝ遠いと考えられる。~」
○大原郡家は移転したことが知られている。元は大原にあったが後に斐伊に移転した。
大原というのは今の木次線幡屋駅周辺を中心とした地域を云う。ここに2007年市道拡張工事の際遺跡が発見され「郡垣遺跡」とよばれ、柱穴遺構の存在から旧大原郡家跡と推定された。周辺は住宅地であり、道路部分と周辺一部だけの発掘のため「推定」に留まっている。
現在石碑が建てられている。地理院地図 雲南市埋蔵文化財調査報告書5-郡垣遺跡1pdf
尚、加藤の参究は平成9年(1997)刊なので、郡垣遺跡発掘調査の10年前である。
- 加藤は郡垣では距離がやや遠いと記しているが、加藤のいう距離は、出雲国風土記全体の距離記述に関して加藤が独自に距離を推計したもので、ここで違っていれば加藤の記述全てが違っていることになる。
加藤は時に奇説を立てること屡々であり、それが混乱を生んでいるが、現地に「郡家」「郡垣」という地名が残っているのに何故岸崎や後藤と異なる説を立てたのか理解しがたい。
地理院地図では「郡家」の地名が「諏訪神社」後背の諏訪山上に記載されているが、実際には「郡垣」のやや北方の位置に当たる。
おそらく大原旧郡家は今の石碑の北側あたりに在ったのかと思われる。
(大原旧郡家石碑)
・「大原郡家址」と彫られている。
○後藤の記す「斐伊村里方」は今の「斐伊神社」辺りを指す。地理院地図郡家跡自体は不明だが、新造院の跡が南方に確認されている。
- 大原という地名は今の幡屋駅周辺には見られない。前原・立原・原口という地名はある。
岸崎は、斐伊郷が郡家に属すという記述から、郡家は斐伊村にあることを前提に、正西10里116歩では、三刀屋の殿河内地理院地図辺りになり、ここに10町の田(約1km平方)は無く、「正西」を疑問視し「正東」の誤りではないかと推察し、仁和寺と前原の間の地を大原旧郡家の地と判定している。ここを中心に東に「大東(大東町大東)」西に「大西(加茂町大西)」という地名がある事も傍証としている。
仁和寺という地名は、かつてこの地が京都市右京区御室の真言宗「仁和寺」の寺領であったことに因む。
浄土宗「仁和寺」とは無関係。
思うに、「大原」というのは、大東から前原そして大西までの赤川流域地帯を指しての呼び名だったのであろうと思われる。狭義には今の幡屋駅周辺の丘陵部を指す。
大東=大原東、大西=大原西、という事なのであろう。これは出西(出雲西)・出東(出雲東)の呼び方に類似する。
ただ、西を東と間違える事が果たしてあるのかという疑問が残る。風土記編纂には二十年を要しているが、ある時期に郡家が今の大東町方面に移転したことがあり、その時の記憶により「正西」と記述されたのではないかという気がする。その後、斐伊郷に再移転し落ち着いたのではないかと考え得る。
尚、和名類聚抄では屋代郷がなく大原が記されている。
・和名類聚鈔-巻第八-出雲國第百八-「大原郷 神原 屋裏 潮海 佐世 阿用 來次 斐甲 大原」
上記「郡垣遺跡1pdf」のp6で「延長5(927)年の『和名類聚抄』によると、『風土記』に見える屋裏郷は「大原郷」となった。」と記しているが誤りである。
以上により、「正西」を「北東」に改める。
所以号大原者郡家北東一十里一百一十六歩田一十町許平原号曰大原
徃古之時此處有郡家今猶追舊号大原今有郡家所号云斐伊村
大原と号す所以は、郡家の北東十里百十六歩、田十町許りの平原を号して大原という。
往古の時此処に郡家あり。今なお旧を追いて大原と号す。(今郡家のある所を号して斐伊村という)
神原郷正北九里古老ノ傳ニ曰ク所造天下大神神財積ミ置キ給フ所ヲ則可キニ謂ツ神財ノ郷ト而ルヲ今人猶誤リ故云フ神原ト号耳 †
- 神原郷正北九里
・細川家本k59で「神原郷郡正北九里」
・日御﨑本k59で「神原郷郡正北九里」
・倉野本k60で「神原郷郡正北九里」
・出雲風土記抄4帖k30本文で「神原郷郡家正北九里」
・萬葉緯本k78で「神原郷郡家正北九里」
古写本では「神原郷郡正北九里」と伝わり、出雲風土記抄はこれを「神原郷郡家正北九里」と改め、萬葉緯本は出雲風土記抄を曳いたのであろう。白井本は欠落させたと思われる。
- 大神神財積置…
細川家本・日御﨑本・倉野本は何れも「大神〃御財積置」。出雲風土記抄・萬葉緯本では「大神之神御財積置」とし「神御財」に(カミタカラ)と読みを振っているが、(カミノミタカラ)と読むべきで、そうすると後の「神財郷」の読み(カンダカラ)とのつながりが悪くなる。白井本で「神財」と「御」をつけていないのはその様な点によるものであろうから、そのままにしておく。
以上により、次のように改める。
神原郷郡家正北九里古老ノ傳ニ曰ク所造天下大神神財積ミ置キ給フ所ヲ則可キニ謂ツ神財ノ郷ト而ルヲ今人猶誤リ故云フ神原ト号耳
神原郷、郡家の正北九里。古老の伝に曰く、所造天下大神神財を積み置き給う所を則ち、神財郷と謂つ可きに、今の人猶誤りたる故に、神原となづくのみ
- 号耳…文末の「号耳」はルビ通りに読んだが、普通には「神原と号す」であり、[而」「耳」には(致し方ない)の意味が込められているように思われる。
- この一文において、日御碕本では「所造天下大神ノ〃御財積置給處ナリ」とし、出雲風土記抄では「所造天下大神之神御財積置給所」とし、共に大神の神財を(誰かが)積置いたという意味で読んでおり、これが通説となっている。
この説では誰が何のために積置いたのかは定かでは無く、「給う」という表現をなぜ使っているのかも訝しい。
この一文、大神自身が神財を積置いたと考える方が素直なように思われる。「積置」というのは一時的な事を言う。
又、神財郷(カンダカラゴウ)と神原郷(カンバラゴウ)との語感は少々遠い。
ところで、出雲神在月というのは、今では杵築の出雲大社の祭事が有名になっているが、そもそも出雲大社は幽れ宮であり、大国主神が斃した後祀られたものである。
大国主神健在の頃、神在月に大国主神が八百万の神々を迎えたのは、出雲大社であるはずはない。
雲陽誌(102コマp191)及び「神原神社」由緒には、古老の伝として十月十日に八百萬神達が神原に来臨し、二十一日に佐陀の社に集まり、二十六日には再び神原に戻る事が記されている。
これが元々の神在月のありようであったのであろうと考えられる。
雲陽誌を参考にすると、上神原から下神原まで千四百間(約2.5km)の土手があり、その土手下を止屋淵(松井淵)と呼んでいたという。淵というのであるから水深が深く、斐伊川を水運に利用した際、船泊の場所として適地であり、それ故神々を迎える場所として選ばれていたのであろう。
出雲に、佐陀社に、神々が集まったのは、佐陀社に伊耶那美尊の神陵が遷されていたからであろう。
諸神の母である伊耶那美尊を偲んで集まったのであろう。この事は今の佐太神社の縁起にも通じる。
各地から集まる八百万の神々は当然手土産など持参して集まったのであろうし、その返礼として大国主神は土産を贈ったことであろう。風土記に記す「神財積み置き給う」というのは、大国主神が土産ものとして用意したものを積み置いたという事を意味しているように思われる。又貰った土産を積み置いたという意味もあったであろう。
「神原」というのは神々が集まる原であり、八百万の神々は各地からここに集まり、大国主神の出迎えを受けつつ仕度を整えて揃って佐陀の社に向かった事が地名由来であろう。
大国主神が縁結びの神とされるのは、各地から集まる神々が他の神々が到着し揃うのを待つ間交流している際にそれぞれの御子神の縁談話等行っていたのであろう事から生じた事と思われる。
大国主神が斃し、杵築に大社が作られて後は、大国主神を偲ぶ意味も加わり、神在月のありようも変わったのであろうと考えられる。
神原に集まることもなくなり、神財を積み置くこともなくなり、用意した神財は埋められたのであろう。それが、近年発掘された神原神社古墳や荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の発掘物であると考えられる。
屋代ノ郷郡家正北一十里一百一十六歩所造天ガ下大神之勢ヒノ立ツ射所故云フ矢代ト神龜三年改ム字屋代ニ即チ有正倉 †
- 屋代郷…
・出雲風土記抄4帖k31解説で「鈔云此郷并東西三代以為屋代郷~」
三代は現在の加茂町三代であるが、この地は神原の南であり、郡家から神原まで九里、屋代まで一十里一百一十六歩では位置が合わない。
この件、他郷との関連もあり後述する。
- 大神之勢立射所…
・細川家本k59・鶏頭院天忠本k47で「大神之[生刀/大]立射處」
・日御﨑本k59で「大神之[生刀/ホ]立射處」
・紅葉山本k49で「大神之[生刀/木]立射処」
・春満考p59で「大神之[生刀/文]立 今案[生刀/木]ハ垜造の誤り」
・上田秋成書入本k51で「大神之[生刀/糸]契立射處」
・倉野本k60で「大神之[生刀/大]立射處」[生刀/大]に[垜]を傍記
・出雲風土記抄4帖k31本文で「大神之垛立射處」
・萬葉緯本k79で「天下大神之垛立射處」[垛]に[垜]を傍記
[垛]・[垜]は異体字でともに(あづち、タ・ダ)弓の的を据える盛り土。
古写本では[契」の異体字で記しているが通説では[垜]とし、これは春満考に始まる。
白井本の[勢]は他と異なる。
「大神之勢立射所」は(大神の勢、立ちて射る所)つまり「大神の軍(勢力)が、立ち並んで弓を射た所」と理解できる。
一方「大神之垜立射所」では(大神の垜立て、射る所)となり、(大神ではない誰かが「大神の垜」を立てて射た所)という意味になる。垜は盛るものであって立てるものではない。垜であるなら、「垜に的を立て」と記されているはずである。
そもそも「大神の垜(盛り土)」とか意味が無い。
斯くの如く通説は奇妙である。思うに、元は白井本の様に[勢]でありこれを書写の際[生刀/大][生刀/木]と略書し、その略書を[垜]と読んで、通説のように奇妙な解釈になったのであろう。
更に記すと、「矢代」というのは鎌倉期以降は矢を用いた籤を矢代と呼ぶようになっているが、[代]は象形で交差させた木の杭を表し、「矢代」というのは矢を射る際に射手の前に作った防禦のための杭を表している。[垜]とする通説では「矢代」の地名縁起に通じない。
「矢代郷」というのはこの地で大神の軍が戦ったことに因む地名と考えられる。和名類聚抄で、矢代(屋代)が消され大原が代わりに記されているのは、大神の軍が戦った相手が大和・吉備の軍勢だったことを窺わせる。
・修訂出雲国風土記参究p432参究で「矢代は矢場、すなわち射的場の意。代が所要の場所、区域の意を現わすことは、苗代、屋代(意宇郡屋代郷参照)、代掻きの語によっても知られる。~」
加藤は[垜]説をとり、[代]を場所のこととして十把ひとからげにしているが、「矢代」が矢場・射的場というのは根拠がない。
「苗代」の[代]は6尺×30尺の面積を現す単位で、稲一束を得る田の面積を現している。その面積で苗を育てたので「苗代」という。
「代掻き」は田植前に木の杭を用いて田の土塊を粉砕耕作したのが始まりで、後には牛馬に鍬を曳かせて行うようになった。
[代]にはそれぞれの歴史と意味があることを無視しているというか、自己都合に合わせて解釈し記している。
屋裏ノ郷郡家東北一十里一百一十六歩古老傳ニ云所造天下大神令メ[歹真][竹/犬]ハ給フ所故云矢内ト神龜三年改ム字ヲ屋裏ト †
- 大神令[歹真][竹/犬]給所…
・細川家本k59で、「大神令[歹真]笑給處」
・日御﨑本k59で、「大神令[歹真][竹/犬]給處」
・倉野本k60で、「大神令[亻魚][歹真]笑矢給處」
・出雲風土記抄4帖k31本文で「大神令殖矢給所」
・萬葉緯本k79で、「大神令殖矢笑イ給處」
[歹真]は[殖](ショク・ふやす)、[竹/犬]は[笶](シ・や)(矢と同字)であろう。
即ち「大神令殖笶給所」、意味は(大神が矢を増やすように命じた所)である。
(矢を作ること)を(矢を打つ)という。これが転じて「矢内」と呼ばれるようになったのであろう。
加茂町岩倉に「矢櫃神社跡」というのがあり、今は屋裏八幡宮に合社されているが、この地がここでの記述に該当する地であろう。
今では孟宗竹や真竹が繁茂しているが、参道には矢を作る材料である「矢竹」を見ることが出来る。
- 屋裏郷…
・出雲風土記抄4帖k31解説で「鈔云此郷[合/羽]乎宇治南加茂加茂中村延野大竹猪尾岩倉新宮砂子原近松立原大﨑等一十二所以為屋裏郷也」
・「屋裏八幡宮」由緒で『この地方は元来「屋裏郷」といわれ、「東谷村」「猪尾村」「岩倉村」「畑村」他五村があり、明治年間に合併「屋裏村」となりましたが、昭和九年には「神原」「加茂町」「屋裏村」の更なる合併で「屋裏村」は廃止となり、全ての「屋裏」の名称が消えました。』
ここで、『他「五村」』というのは、島根県歴史的行政区域データ(1920-01-01)で見ると、大竹・延野・大崎・新宮・砂子原であろう。畑村に関しては、「岩倉畑」と呼ばれる地区だけ含まれている。
これらを比較すると、「出雲風土記抄」では屋裏村南方の宇治・加茂・近松・立原・大﨑などを含めている。
古代において、今の猪尾川と赤川の合流するあたりや宇治・大西の赤川河岸あたり、即ち地理院地図で水田表示されている場所は沼とか葦原であった。出雲風土記抄が南方地区を屋裏郷としているのは、江戸期のことであって、風土記の頃の屋裏郷は屋裏八幡宮由緒の記述のように、かつての屋裏村から、大山以北や新宮・砂子原を除いた辺りと考えられる。
してみると、風土記記載の「郡家東北」は方角が間違っており「郡家正北」が正しい。
さて、ここで屋代郷に戻ると、
「屋代郷郡家正北一十里一百一十六歩~」
「屋裏郷郡家東北一十里一百一十六歩~」
距離は全く同じで方角だけが異なる。
又、「所以号大原者郡家正西一十里一百一十六歩~」においても距離は同じで方角だけが異なっている。
「大原者郡家正西」の方角が誤りであったのは既述の通りであり、「屋裏郷郡家東北」が誤りであるのも既述の通りである。
さすれば「屋代郷郡家正北」は誤りであり、書写の際書き違えたものでこれは「東北」が正しく大原の元の郡家の場所に等しい。
元の大原郡家のあった仁和寺には小字として「上矢田・中矢田・下矢田」の地名があった。「所造天下大神之勢立射所故云矢代」に通じるものと思われる。
一応記しておくと、
・岸崎が「出雲風土記抄」で屋代郷を「東西三代」とした理由は定かではないが語感の近さによるのであろうかと思われる。三代は旧神原村の一部であり、神原郷に含まれてきた地区である。
・後藤は、岸崎の記述を受けて、「出雲国風土記考証」p333で「神原郷への里程と、屋代郷への里程とが、取違へてある様に思はれる。」と記している。後藤は距離と方角のみ関心があったようで、神原郷・屋代郷・屋裏郷の地名縁起における大神の話は全く無視している。この地の地名は郡家からの距離と方角に由来しているのではなく大神の事跡に由来しているのであり、倒錯している。
・加藤は「修訂出雲国風土記参究」p431屋代郷の参究で「~他の郷との釣合と、郷庁への距離等から考えて、やはり朝山氏説のように、今の加茂町から前条の神原郷の地域を去った地区にあたると思われる。郷庁は中林季高氏説(同氏著「加茂町史考」)の如く今の加茂町中村の辺にあったのであろう。~正倉は官庫の意であることは既に述べたが、今の加茂町加茂中の東方の小山を倉敷山といい、この山にある慶用寺の山号を正倉山というので、この倉庫はこの山あたりにあったかもしれない。」と記している。加茂中村は関ヶ原合戦に敗れた宇喜多秀家の小姓初代黒田勘十郎が諸国放浪の後この地に辿り着き、帰農入植し代々開墾した地でそれ以前は原野であった。現在まで何の遺跡も発見されていない。又黒田氏が代を重ね財をなし建立した「慶用寺」の山号は元は「日置山」であり、「正倉山」を山号としたのは後のことであり地名等に由来するものではない。
以上により、二郷の記述を次のように改める。
屋代郷郡家東北一十里一百一十六歩所造天下大神之勢立射所故云矢代神龜三年改字屋代即有正倉
屋裏郷郡家正北一十里一百一十六歩古老傳云所造天下大神令殖笶給所故云矢内神龜三年改字屋裏
屋代の郷、郡家の東北十里百十六歩。所造天下大神の勢、立ちて射る所。故に矢代と云う。(神龜三年字を屋代と改む)即ち正倉あり。
屋裏の郷、郡家の正北十里百十六歩。古老の伝に、所造天下大神、矢を増せしめ給う所と云う。故に矢内と云う。(神龜三年字を屋裏と改む)
佐世ノ郷郡家正東九里二百歩古老ノ傳ニ曰須佐能表命佐世乃木葉頭刺而踊躍ヲドリヲドル爲時所刺佐世ノ木ノ葉墮地故云フ佐世ト †
- 佐世郷…
・出雲風土記抄4帖k32解説で「~併上佐世下佐世大ヶ谷飯田養加等五所以為此郷也」
- 佐世ノ木…「南蜀(シャシャンボ)」の事。「さしぶ・ささんぼう」等と呼ぶ。夏には釣鐘状の小さな白い花を多数つけ、秋には暗紫色の小さな実をつける。食用になり甘酸っぱい味がする。実を「小小ん坊(ササンボウ)」と呼び、訛ってシャシャンボと呼ばれるようになった。「烏草樹・佐斯夫」の字が充てられていたりする。島根に限らず西日本の山中では夏に白い花をつけるので良く見る木である。おそらく本来は「佐世ノ木」であり、須佐之男命の逸話(刺しの木)に因む呼び名であろう。
大東町下佐世「佐世神社」に関して、境内のスダジイの巨木を「佐世の木」と呼んでいる例があるが誤りである。
- 踊躍(ヨウヤク)…[踊]はリズムをとって踊る。[躍]は飛び跳ねる、跳躍の躍。「踊躍」は嬉しいことがあったことを表している。
喜びの理由として、八岐大蛇を退治できたことによるという伝説がある。又、佐世の枝を地面に刺したとか、須佐能表命が落とした佐世の枝を奇稲田姫が拾って地面に刺した。とか色々伝えられているが、風土記にはその様な記述はない。記紀の妄想を受けて後の時代に作られた創作であろう。
○雲陽誌k100p187で「假山八幡 石清水より勧請す、本社二間に三間拝殿あり文禄四年佐世伊豆守正勝建立す、祭禮八月十五日夜に入十二番の相撲をもよをす、神前に古木あり佐世の樹といふ、古老傳曰素盞嗚尊御頭に木の葉をさして踊たまふは此樹なり、諸人木の名をしらす、」とある。「假山八幡」は今の「狩山八幡宮」の事で、須佐能袁命が佐世の木の葉を頭に刺して踊ったのはこの地であると伝える。
佐世の郷、郡家の正東九里二百歩。古老の伝に曰く、須佐能表命佐世の木の葉を頭に刺して踊躍為したまう時、刺せし佐世の木の葉地に墜ちる所。故に佐世と云う。
- 普通には返り点に従い「~刺すところの佐世の木の葉地に墜つる。故に佐世と云う。」と読むべきであろうが、佐世に通じるように読み方を変えた。これは佐世の木という名称が先にあったのか、この逸話により佐世の木と呼ばれるようになったのかという観点の違いによる。佐世の木と呼ばれるようになった理由にはこの地での「頭に刺した」以外に見当たらない故、後者と判断している。
墜ちた枝を地面に刺したという話は風土記には無いし、刺した枝がスダジイになるはずもない。
(白井文庫k47)
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爲時所刺佐世木葉墮地故云佐世
阿用郷郡家東南一十三里八十歩古老傳曰
昔或人此處山田烔勿守之尒時目一[田/儿ム]來而食
佃人之男尒時男之父母竹原中隱而居之時竹葉
動之尒貶所食男云動之故云阿欲神龜三年
改字阿用
海潮郷郡家正東一十六里卅三歩古老傳云
宇能活比古命恨御祖須義弥命而北方出雲
海潮押止漂御祖之神此海潮至故云得鹽神亀
三年
改字
海潮即東北須我小川之湯淵村川中温泉不用
号
同川上毛間林川中温泉出不
用來以郷郡家正南八里
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所造天下大神命詔八十神者不置靑鹽山裏詔而
追廢時此義迨以生故云來以斐伊郷屬郡家通速
日子命唑此所故云樋神龜三年
改字斐伊
[寺]
新造院所在斐伊中郡家正南一里建立嚴堂也有僧
五軀
大領勝部君䖝麿之所造也新造院所在屋裏
郷中郡家正北一十一里一百二十歩建立層塔有僧
弌軀
前少領田部臣押嶋之所造今少領伊去
美之從父兄也新造院
所在斐伊郷中郡家東北一里建立嚴堂有尼
一躯
斐伊郷人樋御支知麻呂之所造也
[社]
矢口社 宇乃追社 支須支社 布須社 御代社
──────────
阿用郷郡家東南一十三里八十歩古老傳ニ曰ク昔或人此處ノ山田烔畑カ勿守之尒ノ時目一ノ[田/儿ム]來而食佃人ノ之男尒時男之父母竹原ノ中ニ隱而居之時竹ノ葉動ス之ヲ尒貶所食男ノ云動之ヲ故云阿欲ト神亀三年改ム字ヲ阿用ニ †
- 阿用郷…
・出雲風土記抄4帖k32解説で「鈔云此郷者併於西阿用東阿用岡村川合上久野下久野下阿用清田大木原金坂此等一十一所ヲ以為阿用郷也」
- 山田烔勿…
・細川家本k60で「山田烔勿」
・日御﨑本k60で「山田烔而」
・倉野本k61で、「山田烔西」[西]に傍記で[而]
・出雲風土記抄4帖k32本文で「山田烔而]
・萬葉緯本k79で「山田佃而」
・春満考k63で、「山田烔勿 今案烔勿ハ佃而の誤カ」
・上田秋成書入本k52で「山田畑勿」[畑勿]に[佃而ィ]を傍書
[勿]は[而]の誤写であろう。
[烔](ケイ・キョウ・ひかり・あきらか)は(光輝く)の意味
「山田烔而」は(山田光輝きて)の意味であり、萬葉緯本や春満考の様に[烔]を[佃]に変える必要はない。変えるとむしろ奇妙な読み方をしなければならなくなる。
- 目一[田/儿ム]…
[田/儿ム]は点無しの[鬼]である。象形で[田]の部分は頭部であり、点無し即ち角無しの鬼は神に通じる。
「天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)」というと産鉄民の奉じる鍛冶神であり、筑紫・伊勢の忌部の祖神とされる。
・[田/儿ム]としているのは、白井本の他、細川家本k60、日御﨑本k60、倉野本k61、
・[鬼]としているのは、出雲風土記抄4帖k32本文、萬葉緯本k79
- 竹葉動之尒貶所食男云動之故云阿欲…
・細川家本k60で「竹葉動之尒時所食男云動〃故云阿欲」
・日御﨑本k60で「竹葉動之尒時所食男云動〃故云阿欲」
・倉野本k61で、「竹葉動之尒動所食男云動〃故云阿欲」
・萬葉緯本k79で「竹葉動之尒時所食男云動動故云阿欲」
・出雲風土記抄4帖k32本文で「竹葉動之尒所食男云動々故云阿欲」
・上田秋成書入本k52で「竹葉動之尒時所食男云動〃故云阿欲」
・春満考k63で、「動メ 今案慟ゝの誤カ」
白井本で「貶」と記しているが、直前にある「尒時」の字と比較して、誤字とは言い難い。
[貶]には、(おとす・へらす・しりぞける・けなす・そしる)等の意味がある。
諸本比較すると、誤字と考えるべきなのだが、少々疑問が残る。
「動之故」も他書では「動〃故」であり白井本だけ異なる。
[動]を(アヨ)と読むのが通説となっているが、動にアヨの読みはなく、アヨは「揺」の読みである。
春満は[動]を[慟]の誤りか。と記しているが、文意上はありえても、読みにアヨはない。
「動〃(アヨアヨ)」と言ったから阿欲になったというのが通説だが、これはおかしい。アヨアヨなら「揺揺」と記しているはずである。
「動いたので揺れた」つまり「動之故阿欲」は「動いたのであよいだ(揺れた)」のであり、それで阿欲(阿用)と呼ぶようになったというのが正しい。「動之」の[之]を略体で記したのが「動〃」と誤写されたのであろう。
次のように改める。
阿用郷郡家東南一十三里八十歩古老傳曰昔或人此處山田烔而守之尒時目一[田/儿ム]來而食佃人之男尒時男之父母竹原中隱而居之時竹葉動之尒時所食男云動之故云阿欲神亀三年改字阿用
阿用の郷、郡家の東南一十三里八十歩。古老の伝に曰く。昔或人此の所の山田烔て之を守る時に、目一つの[田/儿ム]来たりて佃人の男を食らう。時に男の父母竹原の中に隠れて居り、この時竹の葉動く。この時に食らわれる男の云う、これ動くと。故に阿欲という。(神亀三年字を阿用に改める)
- 奇妙な話である。人喰い鬼など居るはずはないから、これは片目の熊に襲われたか、外部からの侵入者に襲われたかした話だと思われる。
ここで思い起こされるのは意宇郡で猪麻呂の女子が和爾に襲われた話である。
猪麻呂は和爾に復讐しこれを退治したが、ここでは男の父母はただ隠れていただけである。
『出雲国風土記』の最初の「意宇郡」では外敵に反撃し、最後の「大原郡」では反撃しなかった。
編者はそういう出雲が力を失った経過を寓話として滑り込ませたように思われる。
以前から、大原郡がなぜ最後に記されているのか疑問とされてきたが、出雲が独立を失う象徴的な場所としてこの地があった為であろうことが想起される。
白井本の[貶]の一字は、今まさに食われようとしている男を助ける為に戦わない親を誹る一字であったのかも知れない。
「阿欲」の[阿]の意味には(おもねる)がある。「欲におもねる」が「阿欲」と字を充てたのであるのかとも思われる。
即ち外敵が出雲を侵略しようとする欲におもねったという意味である。
『出雲国風土記』に記載が無いので触れなかったが、大原郡神原郷は出雲の神宝を奪われた地であり、出雲振根が殺された地である。
海潮郷郡家正東一十六里卅三歩古老傳ニ云ク宇能活比古命恨テ御祖須義弥命ヲ而北ノ方出雲ノ海潮ヲ押止メ漂御祖之神ヲ此海潮至ル故云得鹽神亀三年改ム字ヲ海潮ニ
即チ東北須我ノ小川之湯淵村川中ニ温泉不用号本ノ侭同川上毛間ノ林川中ニ温泉出ル不用 †
- 海潮郷…
・出雲風土記抄4帖k32解説で「鈔云此郷者須我村 引坂村 薦沢 山王寺 南村 北村 小川内村 加利畑村 塩田 箱渕 笹谷 湯村 飛石村以上十三所 加之於 新五 田中 成木 織部 稲村 大東 市山 田村 等八ヶ村都并以為海潮郷也」
加利畑村は刈畑村、新五は新庄、田村は山田であろう。
- 宇能活比古命…「宇能治比古命」であろう。
・細川家本k60で「宇能活比古命」
・日御﨑本k60で「宇能活比古命」
・倉野本k61で、「宇能活比古一本日子命」
・出雲風土記抄4帖k32本文で「宇能活比古命」
・萬葉緯本k79で「宇能活比古命」
古写本はいずれも「宇能活比古命」で(ウノイクヒコノミコト)と読んでいる。
・出雲風土記解-下-k31本文で「宇能治比古命」
・訂正出雲風土記で「宇能治比古命」
一方、加茂町宇治の「宇能遲神社」では、(宇能遲彦命)、大東町南村の「海潮神社」では(宇能治比古命)
延喜式では「宇能遲神社」である。
・春満考k63で「宇能活比古 今案活ハ治の誤奈るへし延喜式尒宇能遲神社有を證と須」
「宇能遲神社」のある宇治地区には宇治川が流れていることから、春満の記すように[活]は[治]の誤写で「宇能治比古命」が正しいと思われる。宇治の地名から「宇能治」は「宇治」に通じ、この地域の地主神であったと考えられる。
尚、現「宇能遲神社」の社名は合社である歴史から延喜式からつけられた名称であろう。
- 須義弥命…「須美祢命」であろう。
・細川家本k60で「須義弥命」
・日御﨑本k60で「須義弥命」
・倉野本k61で、「須義弥命」
・出雲風土記抄4帖k32本文で「須義弥命」
・萬葉緯本k79で「須義彌命」[義]に(美イ)と傍記
・春満考k63で、「御祖須義弥命 今案義弥ハ美祢の誤リカ延喜式尒須美祢神社有を證と須」
・出雲風土記解-下-k31本文で「須我祢命」
・訂正出雲風土記で「須我禰命」
「宇能遲神社」で現在は「須我彌神」となっているが合社した三社の内に「須美禰神」がある。「海潮神社」の案内で出雲国風土記を挙げ「須義弥命」。
加茂町立原に「須美禰神社」があり、ここでの現在の祭神名は「須我祢命」となっている。
立原の「須美禰神社」は「宇能遲神社」から勧請し再興したとされている。元は立原の地に「須美禰神」を祀っていたものを「宇能遲神社」に合社され、再び元の地に再興したということであろう。
「須美祢命」を「須我祢命」としたのは例によって内山眞龍で、須我神社に依ると記している。訂正出雲風土記ではこれを踏襲。
眞龍は[美][義][我]の字は似ていて間違いやすいと記しているが、[美]と[義]の略体は似ていて間違いやすいが、[我]に間違えることは希。というか、まず無い。
ちなみに[美]と[義]は右下で跳ねれば[義]跳ねなければ[美]であるが癖などあって見誤り易い。
○整理しておくと、
立原の地に「須美禰神」を祭る「須美禰神社」があったが「三社大明神」として宇治に合社。
明治に入り「三社大明神」は延喜式を参考に「宇能遲神社」と改称。この時祭神名は訂正出雲風土記を参考に「須我禰神」とした。
立原に再興されていた神社もこの時「須美禰神社」を称するようになり、「宇能遲神社」に倣って祭神名を「須我祢命」とした。(祢は禰の略体)
ということである。
- 北方出雲海潮押止漂御祖之神…
「押止」は、細川家本・倉野本では「押上」、日御﨑本・萬葉緯本・出雲風土記抄では「押止」と別れている。
「宇能遲神社」付近の赤川標高30(m) 、「須美禰神社」附近の赤川支流佐世川標高35(m)、「海潮神社」附近の赤川標高109(m)
これは大地震による津波が河川を遡上する河川津波の記憶なのであろうか。
或いは、山崩れにより河川が遮断され上流部で洪水が生じた記憶なのであろうか。
何れにせよ大きな自然災害があったことが想起される。
直前にある「恨」の一字の原因が何であったのか定かではない。「御祖之神」を漂わすというのは社を流したということなのであろう。
- 得鹽(得塩)…海潮の元字は得塩であるが、海潮神社から赤川の支流刈畑川を遡上し、峠を越えると塩田という地区に至る。
塩田は阿用川の上流部にあたるが、刈畑川と阿用川の分水嶺辺りで岩塩が採れたのではないかと思われる。
それ故得塩と地名がつけられたものと考えられる。
元々が海潮であるなら、得塩から海潮に字を改める必要は無かったはずであり、海潮押止という物語は時系列上矛盾がある。
上に記した自然災害で、岩塩が大量に流れ出した事があるのであろうと考えられる。
日本は四方を海に囲まれている為、塩を得ることは他国に比べ比較的容易であり、塩に対しては割と無頓着だったわけだが、海水製塩はそれなりに手間の掛かる作業であり、岩塩が得られればそれに越したことはないのであり、それ故得塩の記述があるのだと考えられる。謙信が信玄に塩を贈る話もあるように、塩は古来から必需品であった。
動物や鳥たちは塩分が不足するとわざわざ海に行き海水を飲む事がある。
「海潮」はある時期には「牛尾」と記されていたこともあった。
- 湯淵村川中温泉(不用号)…今の海潮温泉地理院地図であろう。
(不用号)というのは号即ち名を用いずの意味で、温泉が名づけられていないということであろう。
「湯淵」は細川家本・日御﨑本・倉野本・萬葉緯本・出雲風土記抄で「湯渕」となっている。正字が「淵」で「渕」はその俗字である。正字を用いている点で白井本の信頼度は高い。
ちなみに海潮温泉の泉質は硫酸塩泉で硫黄分と塩分を含み、塩味のする泉質である(飲用不可)。
桂荘の方は弱アルカリ性の単純温泉であり塩味はない(飲用不可)。
(海潮温泉)石碑
・赤川に架かる橋を渡った所にあり、お湯が流されている。
風土記には「川中温泉」とあるから橋のたもと辺りに湧いていたのかと思われる。
- 同川上毛間林川中温泉出(不用)…地理院地図で船林神社の南方に温泉記号がある。今温泉はないがこの場所にかつて温泉があったのであろう。
・出雲国風土記考証p337の解説で「船岡山より西南、中屋に於いて、海潮川の右岸に、多日雪の積もらぬ土地がある。これが毛間林の温泉に當るらしいが、今は冷えてしまつた。」
(不用)について、春満はこれを(不用号)の誤りとしている。
眞龍はこの湯を「須我湯」と称している。ともかく須我に関連付けようとする作為である。
今、船岡山南麓に「湯観音」の社が置かれている。畑の中に「北の宿」と看板のある廃屋と、コンクリートの構築物が残っている。
温泉の名残なのかと思われる。
- 毛間林…訂正出雲風土記で「毛間村」としている。これは眞龍が出雲風土記解-下-k32の解説の中に「林は村の誤り」と記しているのを真に受けたものである。古写本に[村]と記したものはない。
加藤の参究p436も荻原の学術文庫p291も「毛間村」としている。共に底本が「細川家本」ではないことを示している。(荻原は「解に従う」としている)
毛間というのは小さな川筋が多数流れているような場所を云う。そこに林が出来ているので毛間林と呼んでいたのである。
次のように改める
海潮郷郡家正東一十六里卅三歩古老傳云宇能治比古命恨御祖須美祢命而北方出雲海潮押止漂御祖之神此海潮至故云得鹽神亀三年改字海潮即東北須我小川之湯淵村川中温泉不用号同川上毛間林川中温泉出不用号
海潮の郷、郡家の正東一十六里三十三歩。古老の伝に云う。宇能治比古命、御祖須美祢命を恨みて、北の方出雲の海潮を押止め、御祖之神を漂わす。この海潮至る故に得塩という(神亀三年字を海潮に改める)。 即ち、東北須我の小川の湯淵村の川中に温泉あり(名を用いず)。同じく川上の毛間林の川中に温泉出る(名を用いず)。
來以ノ郷郡家正南八里所造天下大神命詔〆八十神者不ト置靑鹽山ノ裏ニ詔而追廢時此義迨迢ハルカカ
ヲヨブカ以生唑カ故云來以ト †
- 來以郷…来次郷・後に木次(キスキ)。
・出雲風土記抄4帖k34解説で「鈔云此郷者合西日登東日登寺領宇谷来次市等五所以為来次郷也」
- 郡家正南八里…8里=4280(m) 郷標は今の西日登小学校辺りと考えられている。
斐伊川を挟んで対岸に河邊神社があるが、斐伊川が大きく蛇行し川幅が拡がり流れが緩やかになり渡船や水運の要地だったのであろう。
・出雲国風土記考証p338解説で「郷標は、郡家正南八里なれば、今の西日登の本郷の小學校の邊にあたる。」
- 八十神者不置靑鹽山裏詔而追廢時此義迨以生故云来以
・細川家本k60で「八十神者不量青塩山裏詔而追廢時此義迨以生故云来以」
・日御﨑本k60で「八十神者不置青塩山裏詔而追廢時此義迨以生故云来以」
・倉野本k61で、「八十神者不量青塩垣山裏詔而追廢時此義[辶呂]迢以生故云来以」
・出雲風土記抄4帖k33本文で「八十神者不置青垣山裏詔而追廢時此義迢以生故云来次」
・萬葉緯本k80で「八十神者不置靑垣山裏詔而追廢時止此イ義迢以生故云來次」
異同を比べると、
量は置の誤りであろう。
青塩山を出雲風土記抄で青垣山とし、萬葉緯本や倉野本はこれを受けている。
[迨]を出雲風土記抄で迢、萬葉緯本はこれを受け、倉野本は[辶呂]に迢を傍記。
[迨(タイ)]には(及ぶ至る)の他(願う)の意味がある。
[迢(チョウ)]は(遙か・遠い)の意味
[辶呂]は不明。誤写であろう。[追]かとも思われる。
白井本・細川家本・日御﨑本・倉野本で[来以]。これを[来次]としているのは出雲風土記抄で萬葉緯本は[來次]としている。
古写本にさほど大きな異同はないので白井本をそのまま読んで解釈して見ると次のようになる。
「八十神は靑鹽山のうちには置かじと詔りて、追い廃ける時、この義にいたるのは以て生きよという事である。故に来以と云う。」
つまり、「八十神を青塩山の内に住まわせず追い払う訳は、(殺しはしないから)遠くで土地を鋤いて生きよと願っての事である。それで生以転じて来以という。」という意味になる。八十神に何度も殺されかけた大己貴神の温情を義(ワケ・理由)として記しているのである。
ここで[裏]は服の裏地、つまり[内側]の意味として古来使われていた。
[以]の本字は[㠯]であり、象形で農具のスキ[耜]を表す。スキを用いて耕すことを意味する語義が転じて(用いる・もって)の意味をもつ。
今「木次」と記し(キスキ)とよんでいるのは「生㠯」が転じて「木以」即ち「木の㠯」を表わした呼び名と考えられる。
又、農具の「㠯」は元々は土を掘り起こし溝を作る道具であった。木次の町は北西から南東に久野川に沿って溝を掘ったような地形であり、それも地名の由来になっているのかと思われる。
[次]は[以]の誤写から始まったことであろう。
靑鹽山(出雲風土記抄では青垣山)はどこの山と特定はされていない。
冬場や春先に斐伊川を遡上すると、この附近では川の東西で山の植生が少々異なることに気づく。西側に常緑樹が多い。
青鹽山と云うのは斐伊川の西岸部の山々を指しているのであろうと思われる。
「八十神者不置青塩山裏」というのは神門郷朝山郷に暮らしていた大己貴神が神門川と斐伊川に囲まれた地域には八十神を入らせないと防衛線を引いたこと意味しているのであろう。
ところで、通説は例によって内山眞龍の捏造妄想とそれを真に受けた千家俊信の訂正出雲風土記によって広められたものが底流になっており、埒もない加藤の追従が定説とされている。気乗りはしないが一応記しておく必要はあるであろう。
・出雲風土記解-下-k33本文で「來次郷郡家正南八里凣今一
里四町所造天下大神ノ命詔八十神者不置青垣山裏詔而追廢時古事記
追[扌発]此義迢以生義迢以生ハ
處追次坐也故云來以」
解説で「~義迢以生ハ書写の誤りにて處追次坐なり、追次とハ追ツゞク尒て、俗オヒツクと云同字彙云次ハ亞也、文意は八十神を追来て此處にて追次しなり。~」
「~青垣山は垣の如く引囬たる山を云、垣を塩尒書たる本ハ誤奈り。~此所ハ須賀の宮所を圍む山を云奈れバ東北小須我山林垣山、西南尒高麻山舩岡山有て堺を廣く遠く八十神を追[扌発]を云、~」
- 眞龍は青塩山は間違いで青垣山だとする。その山は須賀の宮所を囲む山を云い、大穴牟遲神は八十神をこの地から追い払い、追いついたのが來次なのだと論じている。(途中長々と古事記等の引用があるが省く)
さすれば須賀の地から八十神を追い払い須賀川・赤川にそって下流に向かって追い続けて、木次で追いついたという事になる。
追い払った八十神をなぜ追い続け追いつかなければならないのか疑問であり追いついてどうしたのかも不明。
そもそも須賀の宮を囲む地から追い払うとか、サッパリ解らない。これが所謂「定説」の根拠である。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
大己貴神が須賀の宮処を守るために八十神を木次さらにはその先の出雲郷に追い払うなどということがあろうはずがない。
完全に倒錯している。
又、眞龍は後の城名樋山の解説で、須佐之男命が大己貴神に八十神を伐つように詔りしたと記している。
須佐之男命と八十神に接点はない。馬鹿馬鹿しくて話にならない。
ちなみに[扌発]は[撥]の略字と思われるが、弦をはじく(バチ)の事で、古写本で記される[廢]とは意味が全く異なる。
・「訂正出雲風土記」-下-k38で「來次郷。郡家ノ正南八里。所造天下大神命詔。八十神者不置靑垣山裏詔而。追廢時此義迢以生。故云來次。」
頭注に「真龍云義迢以生ハ處追次坐也トイヘリ可従」
・修訂出雲国風土記参究p438で加藤は「~此の処に迨次き坐しき~」と記している。
眞龍の「此義迢次生」から「此処追次坐」への改変を卓見と称賛し、[追]も[迢]も相応しないので[迨]とし(き)と読んでいる。
[迨]に(き)の読みはない。
ついでに記すと、「此義迢以生」を「此處退次坐」ではないかと疑ったのは春満が最初で、眞龍はそれを更に改変している。
以上無駄が長くなった。
來以郷郡家正南八里所造天下大神命詔八十神者不置靑鹽山裏詔而追廢時此義迨以生故云來以
來以の郷、郡家の正南八里。所造天下大神命詔りたまふ。八十神は青塩山の裏には置かじと詔て追廃時、この義は以て生きよと迨る。故に來以と云う。
斐伊ノ郷屬郡家通速日子命唑マス此所故云樋ト神龜三年改字斐伊ト †
- 通速日子命…樋速日子命の誤写であろう。[通]では[樋・斐伊]に繋がらない。
樋速日子命は古事記で伊邪那岐命が十拳劔で迦具土神の頸を斬った際生まれた神「樋速日神」を指すのかと思われるが別神かも知れない。(この地方の地主神を古事記が取り込んだもののように思われる)
・細川家本k60・日御﨑本k60で「通速日子命」
・倉野本k61で「通速日子命」[通]に[樋]を傍記
・出雲風土記抄4帖k34本文で「樋速日子命」
・萬葉緯本k80で「樋速比女命」[女]に[子イ]を傍記
・雲陽誌101コマp188、日井郷里方 宮崎大明神で、「老祠官傳云~通速姫命」の記述があり、稲田姫の事とされているが訝しい。
斐伊の郷、郡家属す。樋速日子命此の所に唑す、故に樋と云う。(神龜三年字を斐伊に改む)
[寺]
新造院所在斐伊ノ中ニ郡家正南一里建立嚴堂也有僧五軀大領勝部君䖝麿之所造也 †
- 斐伊中…斐伊郷中の誤写であろう。
・細川家本k60・倉野本k61・出雲風土記抄-4帖-k35本文で「斐伊郷中」
・日御﨑本k60で「斐伊ノ郷ノ中」
・萬葉緯本k80で「斐伊郷ノ中」
- 厳堂…木次駅周辺を元は塔の村といい、ここから明治の初期に掘り出された大石がある。これが虫麿建立の厳堂の礎石と推定されている。
この礎石の掘り出しには逸話があり、今の木次駅構内辺りは当時一面水田が広がっており、水田の中の鍬のあたる程度の深さに大石の埋まっていることが知られていた。塔の村に病のある時「埋没せる由緒ある石の祟り」のお告げや夢見等があり明治6年(1873)3月村人総出で掘り出したという。
その後大正15年(1926)木次駅開設により現在地に移設地理院地図。元の掘り出した場所は木次駅のプラットホームになっているという。
叉、この事から大原郡家は木次駅から北に一里、莵原の辺りと推測されている。地理院地図
(塔之石)
参考:「木次町塔之石」
新造院、所は斐伊の郷中、郡家の正南一里に在り。嚴堂を建立する也(僧五軀あり)大領勝部君䖝麿が造りし所也。
新造院所在屋裏ノ郷中郡家正北一十一里一百二十歩建立層塔ヲ有僧弌軀前ノ少領田ノ部ノ臣押嶋之所ナリ造今ノ少領伊去美之從父兄也 †
- 層塔…一説には加茂町大竹の光明寺裏の辺りと云われているが定かではない。地理院地図
・出雲風土記抄-4帖-k36解説で「~屋裏郷大竹村光明寺欤~」
新造院、所は屋裏の郷中、郡家の正北一十一里一百二十歩に在り。層塔を建立す(僧一軀あり)。前の少領田部臣押嶋の造りし所(今の少領伊去美の從父兄也)。
新造院所在斐伊ノ郷中郡家東北一里建立嚴堂有尼一躯斐伊郷人樋御支知麻呂之所造也 †
- 厳堂…斐伊神社南方の正覚寺駐車場辺りと推定されている。地理院地図
- 樋御支知麻呂
・細川家本k61・日御﨑本k61・倉野本k62で「樋御支知麿」
・萬葉緯本k80・出雲風土記抄-4帖-k36本文で「樋仰支知麻呂」
[仰]は[御]の略体を誤ったものかと思われる。
新造院、所は斐伊の郷中、郡家の東北一里に在り。嚴堂を建立す(尼一躯あり)。斐伊郷の人、樋御支知麻呂の造りし所也。
[社]
矢口ノ社 宇乃追ノ社 支須支ノ社 布須ノ社 御代社 †
- 支須支社…
・「出雲風土記抄」4帖k37解説で「支須支社者式書来次来次郷宇治村室大明神也」と記しているが不明というか疑問。
・桑原本「雲陽誌」大原郡-1-k5で「来次神社 延喜式風土記に尒載累處奈里 古老傳云治承年中頹破して 其後建立なし~」
雲南市木次町木次782「來次神社」
矢口社 宇乃追社 支須支社 布須社 御代社
(白井文庫k48)
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汗乃遲社 神原社 樋社 樋社 佐世社
世裡陀社 得鹽社 加多社以上一十三所
並在神祇官 奈秦社
等々呂吉社 矢代社 比和社 日原社 情屋社
春徳社 船木社 宮津日社 阿用社 置谷社
伊佐山社 須我社 川原社 除川社 屋代社
以上一十六所
並不有神祇官
[山]
莵原野郡家正東郷屬郡家城名樋山郡家正北一
里百歩所造天下大神大穴持命爲代八十神造
城故云城名樋也高麻山郡家正北一十里一百
歩高一百丈周五里北方有樫椿等類東南
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西三方並野古老傳云神須佐能表命御子青幡
佐草[日古]命是山上麻蒔租故云高麻山即此山峯
唑其御魂也須我山郡家東北一十九里一百八十歩
有檜
枌 船岡山郡家東北一里百歩阿波枳閇委奈
佐比古命曳來居船則此山是矣故云船岡也御室
山郡家東北一十九里一百八十歩神須佐乃乎命之
御室令造給所[宀/㑂]故云御室凢諸山野所在草木
苦参桔梗菩茄白芷前胡獨活萆薢葛根細辛百芋
白芍説月白歛女委薯蕷麥門冬藤李檜杉栢樫
櫟椿楮楊梅楊槻蘗禽獸則有鷹晨風鳩山鶏
──────────
汗乃遲ノ社 神原ノ社 樋ノ社 樋ノ社 佐世ノ社 世裡陀社 得鹽社 加多ノ社 以上一十三所並在神祇官 †
- 汗乃遲社…
・細川家本・日御碕本・万葉緯本で「汗乃遲社」
・倉野本で「汙乃遲社」
・出雲風土記抄で「宇乃遲社」
[汗]は古写本いずれも[汗]に見えるが、正しくは[汙]であろう。
[汙]は[汚]の異体字であるが、読みに(ウ)があり、「汙乃遲社」は(ウノジシャ)である。
加茂町立原115「須美禰神社」と考えられる。
ただし、現在の須美禰神社は再興された神社であり、現社地は集落の小高い場所にある。
[汙]の字を用いているのは水に汚された事を暗示するから、元社地は赤川に近い低地にあったものと思われる。
- 佐世社…明治4年(1871)明治政府の行った神社改めにより今は大東町下佐世の「佐世神社」とされている。
「月根尾神社」(祭神:天照大神・月弓尊)が本来の「佐世社」であろう。元社地は下佐世字清水地理院地図にあったが、大正8年12月に「狩山八幡宮」に合祀された。
・出雲風土記抄4帖k38解説で「佐世社者佐世郷加利山大明神而祭須佐能表命也」
・雲陽誌k100p186で「月根尾大明神 【風土記】に載る佐世社なり。天照大神・月弓尊をまつる。本社五尺に六尺、祭禮九月九日國家の安全を祈禱す、
汙乃遲社 神原社 樋社 樋社 佐世社 世裡陀社 得鹽社 加多社 (以上一十三所並在神祇官)
奈秦ノ社 等々呂吉社 矢代ノ社 比和ノ社 日原ノ社 情屋ノ社 †
- 奈秦社…赤秦社であろう。
・細川家本k61・日御碕本k61で「赤秦社」
雲南市加茂町大竹の「赤秦神社」
- 矢代社…
・出雲風土記抄4帖k38解説で「矢代社者坐屋代郷三代村高麻山青幡佐草日古命神社也俗曰高塚大明神是也」
・雲陽誌103コマp192で「高麻山明神 里民高塚山といふ、【風土記】に高麻山あり古老傳曰神須佐能袁命御子青幡佐草日古命此山に麻を蒔きたまふ、故に高麻山といふ、則佐草昭命をまつる槇の古木あり、これを社壇といふ」
・出雲国風土記考証p344解説で「三代の高塚大明神であって、青幡佐久佐比古命を祀る。今はたゞ古木を神木として祀る。今、加茂中村の加茂大明神に於て、加茂大明神という扁額を殿内に蔵め、正面に「屋代社」といふ額が掲げてある。この加茂社は、土御門天皇の元久二年に、山城國下賀茂より勧請し、天文年中には高城の城主鞍懸次郎四郎源久勝が造営したことは明らかである。矢代社が屋裏郷の加茂にあるはずが無い。これは明治の初め、加茂大明神の神官が、高塚大明神の神職を兼ねて居た處から、こんなことにしたしたものであろう。」(元久2年=1205年)(天文年中=1532~1555年)
高麻山 地理院地図については後に出てくるが、須佐能袁命の御子、青幡佐草比古命が麻を撒き育てた山という。山頂は平らかに開けているが、今は社殿は無く、「高麻権現」と呼ばれる石の祠があり、石仏が置かれている。かつてこの山頂には「高塚大明神」の社があったが、廃社となり、その後今の「高麻権現」の祠が据えられたという。おそらく鞍掛氏による高麻山城築城の際に廃社或いは移転され、その後の戦乱の中で不明となったのであろう。
高麻山登山道中途に神籬で囲まれた神域があり、そこが高麻城築城の際に社が移された場所かと思われる。
- 出雲風土記抄で矢代社を高塚明神(高麻山明神)としたことから混乱が生じているようである。
高麻山はすぐにそれと解る秀麗な山であるが、屋裏郷(矢内郷)と屋代郷(矢代郷)の境にある山である。
矢代社というのは矢代郷の社と云う意味であろうから、これは矢代郷にあったものであり、該当するのは旧大原郡家のあった幡屋村仁和寺郡垣にあったと考えられ、それは今の「諏訪神社」の後背地に古くからあった「愛宕社」であろうと思われる。
出雲風土記抄の記す高麻山の「高塚大明神」や考証の記述は後に出てくる「屋代社」のことであろうと思われる。
- 比和社…加茂町砂子原の「比和神社」
・大東町新庄の「鏡神社」が明治の神社改めの際、廃社となっていた「比和社」を合社したとして「比和社」を主張したが認められなかった。
- 情屋社…幡屋社の誤りであろう。
・細川家本k61・倉野本k62で「[忄盡]屋社」
・日御﨑本k61・出雲風土記抄4帖k37で「幡屋社」
・萬葉緯本k81で「情屋社」
○大東町幡屋の「幡屋神社」の元宮。
赤秦社 等々呂吉社 矢代社 比和社 日原社 幡屋社
春徳ノ社 船木ノ社 宮津日ノ社 阿用ノ社 置谷ノ社 †
- 春徳社…春殖社であろう。
・細川家本k61で「春[夕坐]社」
・日御碕本k61・倉野本k62で「春[歹坐]社」
・出雲風土記抄4帖k37本文・万葉緯本k81で「春殖社」
○大東町大東下分の「春殖神社」
- 船木社…船林社であろう。
・細川家本k61・日御碕本k61・倉野本k62・出雲風土記抄4帖k37本文で「舩林社」
・万葉緯本k81で[船林社」
○大東町北村の「船林神社」
- 宮津日社…
・出雲風土記抄4帖k39解説で「宮津日社者斐伊郷日吉社也」
・出雲国風土記考証p346解説で「里方の日宮大明神、大穴持命を祀る。もと舟木山の山上にあつたのを、現今は山方の子安八幡宮に合祀してある。」
木次町山方216「子安八幡宮」
- 気になるのは、上述「船木社 宮津日社」の部分で、後藤が宮津日社について「里方の日宮大明神、大穴持命を祀る。もと舟木山の山上にあつた」と記している件である。舟木山は木次町里方にあり、一里百歩はおよそ550m。「郡家東北一里百歩」はおそらくこの山を指していると思われる。此処に宮津日社があったのかあるいは船木社があったのか。木次町は山方も里方も土地開発が進み、山は削られ、道が作られ、今となっては定かではないが、後藤の云う子安八幡宮に宮津日社を合祀と云う件が確認できない点が少々訝しい。雲陽誌には山方・里方共にに関係するような記述はない。(保留)
ちなみに舟木山というのは木造船の材料となる楠(クスノキ)を産出する山を呼ぶ。楠は樟脳の原料となる木で虫食いに強く腐りにくい事から造船材料に使われてきた。[樟]はクスノキのことで「樟脳」はその油精。
春殖社 船林社 宮津日社 阿用社 置谷社
伊佐山ノ社 須我ノ社 川原ノ社 除川ノ社 屋代ノ社 (以上一十六所並不有神祇官) †
- 須我社…
・出雲風土記抄4帖k33解説で、「湯山主命者与大己貴命異名同体~」と、あり得ないことを記している。神職からの伝聞であろう。
・雲陽誌110コマp206で「須我山 【風土記】に載る所なり、古須我社ありといふ、今は諏訪明神の宮山なり、里俗寶名塚といふ、」
○須我山というのは今は八雲山と呼ばれている(424.1m) 地理院地図。ここに須我社があった。天正年間に火災炎上し社は失われた。
その後、今「須我神社」と称する神社のある場所に、信濃出身でこの地域の領主である海潮豊前守家壽が信濃から「諏訪神社」を勧請し、社殿建立し地区名を諏訪と変更した。
明治に入り、社名を諏訪神社から須我神社に改め、地区名も須我に戻した。
(現在は古事記を参考にしたのか地区名を「須賀」に変えている。眞龍ですら「須我里」と記しているのに愚かしいことである。)
今須我神社奥宮と呼んでいる夫婦岩という岩場に根拠は無い。
八雲山(須我山)は北西の引坂側が開けた山であり、今の須我神社奥宮のある南西側は、森林が鬱蒼とし傾斜もきつく、社など建てるはずもなく、清(すが)の地と呼ぶに値しない。もちろん、今の須我神社が須佐之男命の宮だなどということはあり得ない。
尚、後藤は天正年間では無く天文年間と記しているが理由不明。誤読・誤解かと思われる。
又、諏訪は須我の訛りだという者がいるようだが論外。
- 屋代社…
・「出雲国風土記抄」4帖k39解説で「~屋代社者屋代郷三代村貴舩大明神是也~」
・「雲陽誌」103コマp192三代で「貴布禰 或説に斯社は【風土記】に載る屋代社なるへし、」
・「出雲国風土記考証」p348で「屋代社 三代の貴船大明神、大穴持命を祀る。」
- 雲陽誌で「或説」と記しているのは風土記抄のことであろう。懐橘談に記載はない。「或説」と記したのは疑念があった為であろう。
既に記したが、ここに云う「屋代社」は元は高麻山に在ったもので、鞍掛氏による高麻山城築城の際移されたものであろう。
高麻山から赤川に流れる川を屋代川という。それ故山頂から移された際、山中の祠を纏めて「貴船社」として合社され、その後三代に移されたのであろう。明治に入り「屋代神社」とされ、その扁額を「加茂神社」に掲げたものと思われる。
「貴船神社(貴布祢神社)」「屋代社(高麻神社)」は今はそれぞれ「御代神社」の境内社となっている。
- 「貴船社」には「貴船神」即ち水神である「高靇」を祀るのが本来である。しかし「大穴持命」を祀っていると云うことは「大穴持命」を祀った社が合社されたことを意味する。
又、高麻山山頂に祀られていたはずの「青幡佐草日子命」の社が『出雲国風土記』大原郡に記載されていないと云うのも考えがたい事である。これらのことから上述のように類推し得る。
- 以上一十六所並不有神祇官…
・細川家本k61・日御碕本k61・倉野本k62で「以上一十七所並不在神祇官」と記すが16社しか記載されていない。
これは、除川社において「除川社(山神社・天王社)」と「輿都彦命神社」の二社が個別にあることから、これらを二社として数えたものかと思われる。
・[有]は[在]の誤写かと思われるがそのままにしておく。
伊佐山社 須我社 川原社 除川社 屋代社 (以上一十六所並不有神祇官)
[山]
莵原野郡家本ノ侭正東郷屬郡家本ノ侭 †
- 正東郷属郡家…
・細川家本k61・日御﨑本k61・鶏頭院天忠本k49で「正東即屬郡家」
・萬葉緯本k81で「正東卽屬郡家」[卽]は[即]の異体字
○白井本の[郷]は[即]の誤写であろう。
- 菟原野(ウハラノ)…
・出雲風土記抄4帖k39解説で「鈔云菟原野者斐伊川滸一町許以東俗曰曽羅山八幡宮所座山是也」
○木次町里方、斐伊神社南方に菟原と云う地名が残る。その東方の山を曽羅山と呼んでいたのであろう。(最高地点標高約114m)
今は八幡宮はないが跡地はここかと思われる。
斐伊神社の境内社に「日宮八幡宮」というのがあるので、境内社として移されたものかと思われる。
雲陽誌にはコマ101p188で、ただ「八幡」と記され「日宮八幡宮」とは記されていない。
莵原野。郡家の正東。即ち郡家に属す。
城名樋山郡家正北一里百歩所造天下大神大穴持命爲代八十神造ル城ヲ故云城名樋ト也 †
- 城名樋山…雲南市木次町里方の城名樋山
・出雲風土記抄4帖k39解説で「鈔云城名樋山者斐伊郷古城山也東北咸山以南小川以西大河此山辺俗呼云劔埼是也」
・標柱古風土記p359解説で「城名樋は斐伊郷古城山なり。伴信友按に、城名樋は、城竝にて、城を並造り玉ひたる由ときこゆ」
・出雲風土記解-下-k36解説で「按大神の八十神を伐給ハ、須佐乃男命の詔を受たまひて追[扌発]給ひし事古事[言巳]を引て来次郷註、此山ハ毛?神名樋と有遺むを早く写し誤利.諸本共尒同」
・出雲国風土記参究p448解説で「城は敵を防ぐためのとりでで、垣を巡らし構えたところ。今も山頂に人工を加えたらしい段地が見られる。城名樋は伴信友翁の説に城並の意で、城柵を並べ造った意であるといわれたが、やはり意宇郡の神名樋野の条で述べた名樋に通じて隠、すなわち隠れる意で、城、すなわち城柵を作ってこれに身を隠して防禦し攻撃する意と考えてよいであろう。」
- 爲代八十神…
・細川家本k61・日御﨑本k61・紅葉山本k51で「為代八十神」
・出雲風土記抄4帖k39解説で「佐草氏自語予云本文代字如伐字訛乎記意為伐八十神造城如是見可然」
・鶏頭院天忠本k49で「爲ニ伐カ八十ノ神ヲ」
・倉野本k62・萬葉緯本k82・出雲風土記抄4帖k39本文で「為伐八十神」
○通説では、「大穴持命が八十神を伐つ為に造った城のある山が城名樋山である」と云う。
出雲風土記抄によれば、岸崎が参照していた底本には「伐」ではなく「代」と記されており、佐草氏の説によって「代」を「伐」に改めたことが窺える。鶏頭院天忠本・倉野本・萬葉緯本は出雲風土記抄に従ったものであろう。
白井本・細川家本・日御﨑本・紅葉山本は「代」であり、古くは「代」であったと考えられる。
本来「代」であるなら、上述の通説は誤りであると云わざるを得ない。そもそも通説ではなぜ「城名樋」なのかその縁起の説明になっていない。出雲国風土記に大己貴命が八十神を伐ったという記述はない。追い廃けたのであり伐ったのではない。
城名樋を、伴信友は(城が並ぶ)と解し、内山眞龍は(神名樋の誤り)とし、加藤は(城隠)と解しているが、何れも城名樋と呼ぶようになった縁起の説明になっていない。
「伐」ではなく「代」として読むと次のようになる。
「城名樋山、郡家の正北一里百歩。所造天下大神大穴持命、八十神の造りし城の代わりを為す、故に城名樋と云う也」
ここで「名樋」と云うのは「靡」であり、「靡く(なびく)」則ち、(ものの力により横に流れる、倒れ伏す、心を寄せる、服従する)等の意味がある。つまり大穴持命が八十神の造った城を(八十神に代わって)服従させたので(城が靡いた=城名樋)と呼ぶようになったというのが縁起である。
「城名樋山」(標高120m 地理院地図)と云うのは「妙見山」の南方にある山で、頂上は平に開かれており二段になった山で今は公園になっている。三刀屋川・斐伊川・請川が見通せる非常に見晴らしの良い山である。靡いた後にはこの山を大己貴命は監視場所として用いたのであろう。
(下段部には近年鉄パイプの構築物がイルミネーションとかいって作られたまま放置されており不粋且つ目障りである)
ちなみに「妙見山」というのはかつてこの山頂に「妙見社」という祠があった事による名称である。妙見というのは北極星の事であり
城名樋山の北側にあることにより天之御中主神が祀られていたのであろう。
・伴信友のいう「城竝」と云う様な構造も広さもない。無論[城]は[柵]ではない。
・眞龍の神名樋の誤写というのは根拠がない。磐座も何もない。
「神名樋と有りけむを早く写し誤り諸本共に同じ」とはなんたる傲慢さ。呆れ果てる。自身の説のみ正しく諸本は皆誤写というのであれば、別の書を記せばよい。最早「出雲国風土記」ではない。
・加藤の云う「隠」は、出雲国風土記参究p158で「神名樋のなびは隠れ篭る意の上二段動詞の連用名詞形で樋は乙類音の仮字である。万葉集巻八(1536)に見える「隠野」や、巻一(43)・巻四(511)の「隠の山」のなばりもこの類語で、山に囲まれてこもった盆地の意である。これによれば隠るという四段動詞にも活用されたらしい。従って神名樋は神の隠れこもる意である。~」と記している部分を根拠にしている。
「隠」は(なば)とは読むが(なび)とは読まない。隠り(名詞)・隠る(自動詞ラ行四段活用)であって上二段動詞の連用名詞形などというのは加藤の勝手な解釈であり、でっち上げである。
すっとぼけて「四段動詞にも活用されたらしい」と記しているが、四段活用動詞以外の利用例はない。
大体「見晴らしの良い山に柵を作って隠れる」とか何の意味もない。見晴らしがよい山は逆に云えば他所からも良く見通せる山でありそこに柵を作っても隠れることになるはずがない。勿論盆地でもない。
この件、後藤が出雲国風土記考証p67解説で「カンナビの意義は、加茂真淵、本居宣長以後、神の森の約言と説かれあり。然れども、自分は「神籠り」説をとりゐるなり。」と記している部分に解釈を加えようとしたものであろう。
「神の森の約言」と云うのは、所謂「枕詞」同様「意味不明」と云っているに等しく、又「神籠り」に根拠はない。
山や岩あるいは樹木は神の依代、則ち神が立ち寄る目印の場所なのであってそこに常住する場所ではない。
「神名樋」というのは「神靡」であり、神がたなびく雲や霞に乗ってやって来る事を意味している語である。
尚、白井本で(キナヒヤマ)とフリガナを振っているが、「神名樋」を(カンナビ)と読むのと同様に(キナビヤマ)と読むのが妥当であろう。
- 余談だが、祖父が亡くなった後まだ幼かった私が祖母に「お爺ちゃんはどうしたの」と訊ねると祖母は「お爺ちゃんは神様になったんだよ」と話してくれた。私が「もう会えないの」と聞くと祖母は「庭の花が咲けばお爺ちゃんは蝶々になってやって来るから又会えるよ」と話してくれた。
城名樋山、郡家の正北一里百歩。所造天下大神大穴持命、八十神の造りし城の代わりを為す、故に城名樋と云う也。
高麻山郡家正北一十里一百歩高サ一百丈周リ五里北方有樫椿等類ヒ東南西ノ三方並野古老傳ニ云神須佐能表命御子青幡佐草[日古]日古カノ命是ニ山上ニ麻ヲ蒔租故云高麻山即チ此山ノ峯唑マス其御魂也 †
- 高麻山…雲南市加茂町の高麻山 白井本では(タカマ)と読みを振っているが、今は(タカサ)山と呼んでいる。
- 蒔租故…
・細川家本k62で「蒔[方弖]故」
・日御﨑本k62・紅葉山本k51・鶏頭院天忠本k50・出雲風土記抄4帖k40本文・上田秋成書入本k53で「蒔祖故」
・倉野本k63で「蒔[方弖]給故」
・春満考k61で「蒔祖 今按祖ハ給の誤り」
・萬葉緯本k82で「蒔祖給故」
・出雲風土記解-下-k32で「蒔初故」
・訂正出雲風土記-下-k41で「蒔初故」
細川家本・倉野本では読み難く[方弖]の様に見える。倉野本はこれを[給]としている。
萬葉緯本は「祖故」と記しながらも[給]としている。
出雲風土記解では「蒔初故」とし、訂正出雲風土記もこれを曳き、後藤もこれに従っている。
加藤は参究p449で「給」とし、「給の字は諸本祖となっているが、給の草体から誤ったものとされた田中氏に従った。」と記している。(田中氏とは田中卓の事)。荻原は加藤の説に従っている。
この説は上述のように田中以前に春満が早く主張していた説である。
細川家本・倉野本の[方弖]は給の草体に見えなくはないが、出雲風土記解や訂正出雲風土記の「蒔初故」は論外として、他書は何れも「蒔祖故」である。白井本の[租]は[祖]の誤写であろう。
原本は失われたとはいえ、そもそもの出雲国風土記が草体で書かれていたはずはない。書写の際草体で記した者があったとして、その際[祖]を草体で記し、それを見た者が[給]の草体と誤認したのであろうと思われる。それが細川家本や倉野本であって、草体ではなく楷書体で書写していた者は[祖]と書写して伝えてきたと考えるのが妥当で、古写本の多くが[祖]としているのはそういう経緯である。
[祖]には(物事の初めを開く・元になる)の意味があり、「蒔祖故」は青幡佐草日子命(青播佐草日子命)がこの山に麻の種を蒔いたことが麻を育てる元となったことを伝えているのである。[給]としてただ単に(蒔かれた)と云うことではない。
- 麻は縄文の時代から実や繊維が利用されてきた植物であり、日本には数種類自生種があった。戦国期に綿が利用されるようになる迄は衣類として中心的に利用されてきた。神社の注連縄も元来麻である。太平洋戦争後GHQにより栽培が規制され現在に至っている。
山の山頂に麻の種をなぜ蒔いたのか以前より訝しく思っていた。単に栽培目的であるなら通常平野部に蒔くはずである。
麻の花粉は飛翔範囲が広く、交雑種が多く派生することが知られる。高麻山は三方が野と記されているが、これは山頂に麻の種を蒔けば山麓三方で交雑種が生じ、より利用しやすい種が発生することを期待しての行為だったのであろうと思われる。風土記のここでの記述はその様な事を青幡佐草日子命に仮託して記したものと考えられる。
- 其御魂…通説では青幡佐草日子命の御魂と解されているが、素直に読めばこれは麻の種の御魂と解するべきものと考えられる。
高麻山。郡家の正北一十里一百歩、高さ一百丈、周り五里。北方に樫椿等の類あり。東南西三方は並に野。
古老の伝に云う。神須佐能表命の御子青幡佐草日子命、是の山上に麻を蒔き、祖となる故に高麻山と云う。即ち此山の峯に其の御魂坐す也。
須我山郡家東北一十九里一百八十歩有檜枌 †
須我山、郡家の東北一十九里一百八十歩。(檜杉あり)
船岡山郡家東北一里百歩阿波枳閇委奈佐比古命曳來居船則此山是矣故云船岡也 †
- 船岡山…大東町北村「船林神社」のある山を指すのであろう。
- 郡家東北一里百歩…
・細川家本k62で「船岡山郡家東北一里一百歩」
・日御﨑本k62で「舩[四/止]山郡家東北一里一百歩」 ([四/止]は[岡]の異体字[堽]の略字)
・出雲風土記抄4帖k40本文で「舩岡山郡家東北一十六里」
・倉野本k63で「舩岡山郡家東北一里一百歩」(一十六里)を傍記
・萬葉緯本k82で「船岡山郡家東北一里一百歩」(十六里ィ)を傍記
大東町北村の「船林神社」のある山として、出雲風土記抄では距離を十六里に修正し、倉野本・萬葉緯本はこれを傍記している。
御室山郡家東北一十九里一百八十歩神須佐乃乎命ノ之御室令メ造ラ給フテ所ロノ[宀/亻丙]故云御室ト †
- 古写本に異同はない。白井本の「神須佐乃乎命之御室」部分の[之]は他の古写本にはない。又[宀/亻丙]は[宿]の誤記であろう。
- 御室山…海潮温泉東方にある「室山」132(m)地理院地図
出雲風土記抄・雲陽誌・出雲国風土記考証に云う山はこの室山である。かつてここには須佐能袁命を祀る「室山神社」があったが「湯神社」に合社されたという。今は基壇と石碑が残っている。
・出雲風土記抄4帖k41解説で「御室在海潮郷飛石村山名也」
・雲陽誌k109湯村で「御室山 神須佐乃乎命御室造たまふ所なり、山の高さ百廿間東西二町程あり」
・出雲風土記解-下-k38解説で「御室ハ須我宮所奈るべし、~」
・出雲国風土記考証p350解説で「牛尾ノ温泉より東へ眞直三町許りにある。今室山といふ。その東に東南から流れ出でる谷川があつて室谷川といふ。」
・修訂出雲国風土記参究p451参究で「風土記抄に「海潮郷飛石村に在る山の名なり」とあって、海潮温泉の東方にある室山(標高二七〇米余)がそれであると考えられるが、今の中湯石の奥の谷を室谷といっているのや、その路程から推定して、古くは室谷の奥の山(標高四七〇米)を室山といってい、今の室山はその一部であったと考えられる。~」
○出雲風土記解では毎度ながら須我山(八雲山)を指しているようだが、須我山は風土記に別記しているのであり得ない。
修訂出雲国風土記参究に室山(標高二七〇米余)と記しているが、その様な標高の山は海潮温泉の東方にはない。又標高四七〇米の山と云うのも不明。この山のことか。室谷の東南に、麓に平家の落ち武者が住んでいたことで名づけられた「平家山」477.9(m)がありこれを指しているのかも知れないが加藤のいう「今の室山を一部とし、総じて室山という」等というのは根拠のない奇説である。講談社学術文庫は加藤の説を丸ごと曳いている。
室谷を訪れた際、畑仕事をしているお爺さんに尋ねたが、上に挙げた海潮温泉傍の「室山」以外には「室山」とか「御室山」と呼ぶ山はこの辺りには無いとの事であった。
加藤はいい加減な地図を見ながら何か独自見解を出そうと勝手に妄想し記したのであろう。
室山・御室山と呼ばれる山は大原郡には他にも幾つかあるが、風土記のこの部分に関係する根拠のあるものは無い。
- 東北一十九里一百八十歩…これは須我山と全く同じであり、誤写であろう。先に海潮郷の記述で「郡家正東一十六里卅三歩」「東北須我小川之湯淵村川中温泉」とあるので「一十九里」は「一十六里」と記されていたのを誤写したものかと考え得るが定かではない。
当然ながらここでの記述を元に加藤のように御室山を山中に推定するのは誤りを更に誤り、屋上屋を重ねることになる。
又、何の考察も検証もなく荻原のように加藤の記述を追従するのは論外。
- 一体に大原郡の方位距離の記述は地元を歩けば明らかに誤りと判断しうるものが多い。これは単なる誤写なのか、あるいは意図的に解らなくなるように記したのか疑問の残るところである。後者であれば中央には知られたくないと云う何らかの意識が働いていたようにも思われる。郡家が移動したために単に混乱を極めただけという事なのかも知れないが、そう単純な事とも思えない。
- 御室…[室]は[ウ冠+至]で[ウ冠]は象形で建物の屋根を表し、[至]は奥の部屋を表す。則ち寝室のことである。
又、[室]は壁塗りされた部屋の事でもある。比較的長期に使用されるものであり、加藤が参究p452で(御座所、仮の社)と記しているような一時的なものではない。
御室山、郡家の東北一十九里一百八十歩、神須佐乃乎命の御室造らしめ給いて宿す所。故に御室という。
凢ソ諸山野ニ所在ノ草木ハ苦参桔梗菩茄本ノ侭白芷前胡獨活萆薢葛根細辛百芋本ノ侭白芍説月本ノ侭白歛女委本ノ侭薯蕷麥門冬藤李檜杉栢樫櫟椿楮楊梅楊槻蘗 †
・細川家本k62「凢諸山野所在草木苦参桔梗菩茄白芷前胡猶独活昇解葛根細辛苘芋白芴説月白歛女委暑預麦門冬藤李檜杦柏樫櫟椿楮楊梅〃槻蘗」
・日御﨑本k62「凢ソ諸ゝノ山野ニ所在ル草木ハ苦参桔梗菩茄白芷前胡独活昇解葛根細辛茴芋白芴洗月白歛女委暑預麦門冬藤李檜杦柏樫櫟椿楮楊梅〃槻蘗」
・倉野本k63「凢諸山野所在草木苦参桔梗菩茄白芷前胡独活萆薢葛根細辛苘芋白芴茍□説月目白歛女委暑蕷麥門冬藤李檜杦栢樫櫟椿楮楊梅○槻蘗」
古写本に多少の異同がある。
- 菩茄…[菩]はホトケグサ。仏草と呼ばれる植物には数種類あるが、ここでは薬草として良く用いられるドクダミとしておく。
出雲では大原郡ではないが仁多郡の某山中で自生しているのを見た事がある。
[茄]は普通にはナス。従来、正倉院文書「天平勝宝二年(750)茄子進上」の記述が最も古いとされてきたが、長屋王(676-729)邸宅跡から「加須津韓奈須比」と記された木簡が出土し、既に750年以前から栽培加工されていたことが判明している。
[茄]は蓮の茎を表す字でもある。所謂(レンコン蓮根)も地下茎であり食用されているが、蓮は葉も茎も種子も食用されてきた。
ここでは山野の草木であるからナスより蓮の茎の方が妥当であろう。
・春満考k65で「菩茄 今案苔茄の誤カ菅茄ハ和名子アサミ」
ネアザミは根薊と記し野漆の古名。
・出雲風土記解-下-k38で「[艹/吾]茄能毒書尒宇古岐」と記している。
「能毒書」は曲直瀬道三の記した漢方書でそこに記された「宇古岐」だいう。
・訂正出雲風土記-下-p168で「[艹/吾]茄」と記し、これにウコキと読みを振っている。
古写本は何れも「菩茄」である。眞龍の勝手な改変を真に受け、後藤も加藤も荻原も「[艹/吾]茄」としており、
後藤はウコギの読みをふり(五加科)を追記、加藤は、(むこぎ)の読みをふり「五茄」とし、荻原は(むこぎ)の読みを振り解説でヤマウコギとしている。ヤマウコギは自生種を指す。
一応記しておくと、ウコギは五つの葉をもつので五加科・五茄と記される。新芽を食用にしてきた。生薬としては根の皮を鎮痛・強壮に用いる。
米沢藩の上杉鷹山が万能樹として藩士に栽培種のヒメウコギを生垣への利用を薦めたことで知られる。
- 百芋…[百]はおそらく[苘]であろう。麻の一種イチビのことで古くから衣料として用いられてきた。
[茴]はウイキョウ(茴香)のこと。
[芋]はヤマイモもしくはサトイモであろうが、[苧(カラムシ)]の誤写と思われる。イラクサの仲間で縄文のころから衣料に用いられてきた。
「麻芋」と記されていたりする。
「苘苧」と並んでいることを考慮すると、イチビ・カラムシで衣料の素材を並べていると考えるべきかと思われる。
・出雲風土記解-下-k38で「茵芋和名仁豆豆之一名乎加豆豆之」
・訂正出雲風土記-下-p168で「茵芋」
これを受け、後藤は出雲国風土記考証p351で「茵芋 芸香科ミヤマシキミ、薬酒とする」
(芸香科はミカン科のことだがこれに(へんうるだ)と読みを振っている意図は不明。ヘンルーダはミカン科の小低木。)
面倒なので略記するが、加藤も「茵芋」ミヤマシキミとし、荻原は「茵芋ツルシキミ~」と記している。
古写本いずれにも草冠の下が[因]に見えるものはない。
これも眞龍の勝手な改変を真に受けたものである。
一応記しておくと「茵芋」は(インウ)と読む。仁豆豆之は(ニツツジ)であり乎加豆豆之は(オカツツジ)である。
(ニツツジ・丹躑躅)は紅い花をつけるものをいう。(オカツツジ・丘躑躅)は花色が赤とは限らない。
「茵芋」は(ニツツジ)(ミヤマシキミ・深山樒)の別名とされる。ツルシキミはミヤマシキミの変種で茎が地を這うように伸びることから(ツルシキミ・蔓樒)と呼ばれており積雪のある寒い地域に育つ。(樒シキミ)と記しても樒に葉が似ていると云うことから呼ばれているのであり樒とは別種である。
「茵芋」は鹿も食べないという毒性をもち、生薬としては鎮痛・解熱などに用いられてきた。
- 白芍…芍薬のこと。根にペオネフリンを含み消炎・鎮痛・抗菌・止血などの効果がある。根の皮を除いたものを白芍という。
「白芴」は白牡丹の事で根を煎じて腹痛などに用いられる。芴コツはカブの仲間の野菜を指す。
「白茍」はカイコガの繭をさす。絹糸の素材であるが、漢方として咳止め痰止めなどに使われる。
ここでは植物の並びであるから「白芍」であろう。
- 説月…不明(保留)
・出雲国風土記考証p351解説で「紅葉山文庫本には「説日」につくり、日御﨑本、國造本、藤浪本、有造館本には「説月」につくり、風土記解には「涗月」につくる。何であるかわからぬ、決明の誤りではあるまいか。決明は荳科の濕草であつて、葉は兩々相對する。眼を明らかにするといふので、決明の名がある。」
・加藤は参究p453で決明と記さず決目と記し、後藤の説を援用しているが、なぜか後藤の説を記さず、田中卓の決目の誤りという説を取っている。
・荻原は根拠を示さず加藤の説を採って決目としている。
- 決明は決明子の事でエビスグサの種子を指す。決明子は「神農本草経」(3世紀頃)に「決名」と記され、明時代に李時珍の記した「本草綱目」(1578年)には「決明」には二種あり、「馬蹄決明」(コエビスグサ)と「茳芒決明」(ハブソウ)を上げ、共に眼によいとする。所謂ハブ茶として知られるが。ハブ茶はハブ草の種子を用いたものでエビスグサの代用品として用いられている。ちなみにハブ草はハブに咬まれた際の治療に用いたことでこの名がある。北アメリカ大陸南部原産で日本へは江戸期に持ち込まれた。
日本では「本草和名」(918年)への記載が初出とされる。エビスグサ=夷草という外来種を思わせる名からして、733年の『出雲国風土記』に記載されている「説月」が「決明」と云うのは疑問である。又「決明」が「決目」と記されたという根拠はない。
およそ諸山野に所在の草木は、苦参・桔梗・菩・茄・白芷・前胡・獨活・萆薢・葛根・細辛・苘・苧・白芍・説月・白歛・女委・薯蕷・麥門冬・藤・李・檜・杉・栢・樫・櫟・椿・楮・楊梅・楊・槻・蘗。
『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介
禽獸則有鷹晨風鳩山鶏鳩雉熊狼豬鹿兎獼猴飛鼯 †
- 飛鼯…(ヒショウ)ムササビ
・細川家本k62・日御﨑本k62・倉野本k63で、「飛[犭畾]」
[畾]は[晶]に同じで[犭畾]は[猖](ショウ・たけりくるう)と思われる。「飛[犭畾]」はムササビが鳴きながら飛ぶ様子を表した語句と思われるが、用いられる例を殆ど見ないので白井本のままとしておく。
禽獸には則ち、鷹・晨風・鳩・山鶏・鳩・雉・熊・狼・豬・鹿・兎・獼猴・飛鼯あり。
(白井文庫k49)
──────────
鳩雉熊狼豬鹿兎獼猴飛鼯
[川]
斐伊川郡家正西五十七歩西流入出雲郡多義林
有年魚
麻須 海潮川源出意宇與大原上郡堺矣村山北
海有年魚
少々 須我小川源出須我山西流有年魚
少々
佐世小川出阿用山之北海旡
魚幡屋小川源出郡家
東北幡箭山南流旡
魚水自氷合正流入出雲大川
屋代小川出郡家正東除田野西流入斐伊大川
此川
無魚
通道通意宇郡堺木垣坂廾三里八十五歩通仁
多郡堺夆谷村廾三里一百八十二歩通飯石郡堺斐
-----
伊川邊五十歩通出雲郡多義村一十一里二百廾歩
前件参郡並山野之中也
郡司主帳无位勝部臣
大領正六位上勳業勝部臣
少領外從八位上額部臣
主政无位置臣
~
──────────
[川]
斐伊川源不見郡家正西五十七歩西へ流レ入ル出雲郡多義林へ川カ(有年魚麻須) †
- 多義林…多義村の誤写であろう。
多義村は今の上阿宮の辺り。
・細川家本k62・日御﨑本k62で「多義村」
- 五十七歩…約100(m)。この記述から、大原郡家は斐伊川河畔から100(m) の地にあった事が知れる。
既述新造院の件と併せて考えると、大原郡家の位置はこの辺りとなる。地理院地図
この位置の東側にかけて山を切り開いている場所があるのでその辺りに郡家の建造物があったと思われる。
又この場所に近い斐伊川には堰堤が作られているが、この堰堤を作るに際しなにがしかのとっかかりがあって位置が決められたのであろうから、それは斐伊川渡河の為の古い構築物があっての事であったのだろうと推察される。
斐伊川。郡家の正西五十七歩を西へ流れ、出雲郡多義村へ入る。(年魚・麻須あり)
海潮川源ハ出テ意宇與大原上郡ノ堺矣村山ノ北海流入カ(有年魚少々) †
・細川家本k62で「海潮川源出意宇与大原二郡堺矣村山北海有年魚少〃」
・日御﨑本k62で「海潮ノ川ノ源ハ出意宇ト与大原二ノ郡ノ堺ヨリ矣村山ノ北ノ海有年魚
少〃」
・紅葉山文庫k51で「海潮ノ川ノ源ハ出意宇ト與大原二郡ノ堺ヨリ矣村山ノ北ノ海有年魚
少〃」
・倉野本k63で、「海潮川源出意宇与大原二郡ノ堺ニ笶村山一本○于村山北自海潮西流北海有年魚
少〃」
・鶏頭院天忠本k50で「海潮川源ハ出意宇与ノ大原二郡ノ堺矣村山北ノ海有年魚
少々」
傍注で(矣村山)「疑是三字所名矣ハ似涅之」。(北海)「疑有入字或海字流ノ之誤乎」
・春満考k66で「矣村山此海 今案矣ハ矢の誤カ海ハ流の誤奈留べし」
・出雲風土記抄-4帖-k41本文で「海潮ハ川源出意宇与大原二郡界入矣村山北自海潮西流有年魚
少々」
解説で「鈔云海潮川ノ水上ハ者来意宇郡ノ堺小川内村刈畑村ヨリ於北村南村ノ間ニ合メ于須我川ニ西ニ流也」
・萬葉緯本k83で「海潮川源出意宇與大原二郡ノ堺ヨリ入矣村山ノ北自海潮西ニ流ル有年魚
少少」
・出雲風土記解-下-k39本文で「海潮川源意宇与大原二郡堺矣笶の誤
一本笑村山ヨリ北流
○自
○海潮郷西流
○○○○有年魚
麻須」
解説で「自潮西流四字ハ伊勢内官本尒依て補流郷二字ハ例尓依て補鈔云水上者来意宇郡堺小河内村刈畑村北村南村間合于須我川西流」
・上田秋成書入本k54で「海潮川源ハ出意宇ト与大原二郡ノ堺ヨリ矣村山ノ北ノ海有年魚
少〃」
・訂正出雲風土記-下-k42で「海潮川源ハ意宇與大原二郡ノ堺笑村山ヨリ北流
○自
○海潮郷西ニ流ル
○○○○有年魚
麻須」
- 大原上郡…「大原二郡」の誤りであろう。
・細川家本k62・日御﨑本k62で「大原二郡」
- 有年魚少々…「出雲風土記解」と「訂正出雲風土記」のみ「麻須」を記載している。
おそらく、眞龍が斐伊川部分を誤写し、それを千家俊信が踏襲したのであろう。
○ここの一文、古写本の記述に対し岸崎が修正追記したものを、引き継いできたように思われる。
[矣]は助字であって、これを村山につけて解したことが混乱の原因になっている。
訂正出雲風土記の[笑]は論外。それこそ笑うしか無い。
白文である細川家本に即して読み解くと次のようになる。
「海潮川源出意宇与大原二郡堺矣村山北海有年魚少〃」
「海潮川、源は意宇と大原二郡の堺に出る(かな)。村の山の北は海(年魚少々あり)」
ここで、[村]というのは南村と北村を総じた地域名で、[山]は海潮神社後背の三笠山を含む山塊を指し、[海]は湖であろう。
既に船岡山については別記したが、南村・北村というのは古くは船岡山を中心とした区分であり、船岡山と呼ばれるのはこの周辺がかつては湖であった事があり、湖に浮かぶ船と見立てていたことからの名付けと考えられる。
海潮川の源については、海潮川という呼び名は赤川が海潮神社付近を流れる際の別名であり、その先は除川神社の方に向かう川を赤川と呼ぶことから、これが本流筋であって、刈畑方面を流れる刈畑川は本流では無い。
当然に、二郡の堺とは、除川神社から須谷、さらには熊野神社に向かう峠道を指すのであって、南方の毛無峠を指しているのでは無い。
一応記しておくと、後藤は「出雲国風土記考証」の底本を訂正出雲国風土記としている事は既に記したがp353解説で「~海潮川は刈畑の奥の毛無峠より出る水を以つて本流としてある。矣村山を訂正風土記には笑村山として折れ居れども、共に誤りであらう。これは笶村山と思われる。」
と記し、海潮川の本流を刈畑川と解しており、その上流に矣村山を求めている。川筋が深いことから刈畑川と考えたのであろうが、誤っている。(毛無峠=毛無越地理院地図)
加藤は、後藤の説を受け、同じく本流を刈畑川とし、更には「笶村山」として標高641.2(m)の名称の無い山(二等三角点名:山佐村)を想定しているが、全く以て根拠が無い。
荻原は加藤説をそのまま踏襲している。
海潮川、源は意宇と大原二郡の堺に出る。村の山の北は海(年魚少々あり)
須我小川源ハ出テ須我山ヨリ西ヘ流ル有年魚少々 †
- 須我小川…今は「須賀川」と記されるようになっている。
源は八所ではなく引坂である。
・出雲風土記抄-4帖-解説で「鈔云此川ノ水源者出意宇郡熊野村ノ界ヒ高鍔山忌部村ノ界ニ佐井谷兩所ヨリ合流〆来須我村於南村ノ側ニ又合潮川ニ西ニ赴ムク矣」
○岸崎は須我小川の水源を二ヶ所記し合流すると記しているが、風土記では須我山1ヶ所であり、忌部村との堺佐井谷を源とする川はあくまでも支流である。
高鍔山を加藤は参究p454解説で「高鍔山(今の八雲山)」と記し須我山としているが、須我山なら須我山と記すはずであり高鍔山と記すわけがない。
高鍔山というのは須我山(八雲山)北方の峰を指すのであろう。地理院地図
この峰から複数の源流筋が流れ出している。
佐井谷というのは才ノ峠の南方のことである。
今は道路工事による周辺整備などの影響もあり川筋はこちらが本流のように見えるようになっている。
須我の小川、源は須我山より出て西へ流る。(年魚少々あり)
○この部分には清田川・阿用川があってしかるべきだが何故か記されていない。
意図的に記さなかったのか、或いは失われたのか消されたのか、何れにせよ訝しい。
佐世小川出テ阿用山ヨリ之北海此上ニ落字有カ 旡魚 †
・細川家本・日御碕本・三井家所蔵本・出雲国風土記全は白井本に同じ。
・倉野本では「北流入」の傍記あり。
・万葉緯本k83で「佐世小川出阿用ノ山之北海潮川無魚」
・出雲風土記抄-4帖-k42本文で「佐世川小川出阿用山北流入海潮川無魚」
○万葉緯本を書写したという「出雲国風土記全」が白井本他細川家本日御碕本等古写本に同じであるから、「海」を「海潮川」としたのは岸崎の改変と考えられる。
細川家本に即して読むと、「佐世小川、阿用山の北の海より出る。(魚無し)」
ここで阿用山というのは、佐世川を辿ると、標高409.8(m)と表示のある山の東の峰(標高412.5(m))と思われる。
佐世川最上部の水源流はこの山から出ており、少し下には、ガマが生え元は湖・池だったと思われる場所に注いでいる。
「海」とあるのは「湖」と考えると、「陰地」という地名が残り、これは湿地を意味する言葉であるから、このような状況を海と記したものと考えられる。
ついでに、峠を越えると、標高405(m)の山から水流があり、これは南に流れ久野川に注いでいる。後藤や加藤はこの山を阿用山とみなしたような記述を行っているが誤りである。
(佐世川最上部水源流)
(阿用山)
(阿用山麓湖跡)
佐世の小川、阿用山の北の海より出る。(魚無し)
幡屋小川源ハ出テ郡家東北幡箭山ヨリ南へ流ル旡魚 †
- 幡箭山…幡箭山というのは、「幡屋神社」の元社地後背の山「幡屋山(宮山)」240(m) を云う。
水源流は神社地西方の谷筋にある。
・後藤は出雲国風土記考証p353解説で「幡箭山は、八十山及び馬鞍山を合せ稱へた名であらう。」と記しているが解らなかった為曖昧に記したのであろう。八十山というのは八重山のこと。
・加藤は馬鞍山を丸倉山と記し、幡箭山と見なしている。丸倉山という呼び名は毛利元就が尼子攻めの際、馬鞍山に城を築き丸倉山城と名付けた事に因む。
一応記しておくと、丸倉山付近を流れる川の本流は南東の「小丸倉山」(304m)から出ており、丸倉山からは出ていない。丸倉山からの水流は谷筋に3本あるが何れも水量の少ない支流である。
- 幡箭と云うのは箭(竹の矢)の羽根部分に長い布を飾りとして複数枚取り付けたものを云う。この山に何か縁起があったのであろうが今となっては不明。「幡屋神社」は古くは「幡箭神社」と称されていたものと思われる。
屋代郷のところで記したが、この地域は大神(大己貴神)が戦った場所であると思われる。
「屋裏・屋代・幡屋」はいずれも元は「矢裏・矢代・幡箭」であり、[矢・箭]は[屋]に変えられている。
古来戦いに際しては神に戦勝祈願するのが習わしであったが、幡箭というのは飾り矢であり、祈願の際に祈念し、それを持つことで加護の印としたものである。幡箭山というのは、大神や大神の末裔たちが戦勝祈願を行った山なのであろうかと思われる。
幡屋の小川、源は郡家の東北幡箭山より出て南へ流る。(魚無し)
水自氷合正流入ル出雲大川ニ †
・細川家本k63で「水曰氷合正流入出雲大川」
・日御碕本k63で「水曰氷合正ニ流テ入ル出雲ノ大川ニ」
・倉野本k64で「水曰氷合正流入出雲大川」
・紅葉山本k51で「水曰氷合正ニ流レテ入ル出雲ノ大川ニ」
・出雲風土記抄-4帖-k42-本文で「水曰氷合西流入出雲大河」(国会図書館本では「曰氷」に(三水)と赤書)
- 水自氷…「水曰氷」であろう。[氷]は普通には「こおり」であるが、[氷]には(透明度の高い水)という意味がある。
幡屋川は赤川に注いでいるわけであるが、赤川というのは鉄分や濁りを含んだ川であることからの名付けであり、又海潮川を経ることから塩分を含んだ川でもある。幡屋神社の由緒に、幡屋は機織りの地区であることが記されている。織物を作るに際し水は必ず必要であり、濁り水では無く清水を必要とする。それ故川の水が透明度の高い清水であることをあえて記したものと考えられる。
眞龍は「氷」の意味がわからずこれを誤写として改変している。
訂正出雲風土記では[水]を[源]の誤写とするのはまずいと考えたのか「水三水」としている。
・出雲風土記解-下-k39「水云氷水云氷ハ誤字按源三水奈里」
・訂正出雲風土記p170「水三水」
水は氷(清水)という。まさに(赤川と)合し流れて出雲大川に入る。
- 大麻から糸を作るには茎を裂きほぐし米のとぎ汁でゆでた後、清水にて洗い、あくや濁りを落とし乾燥した後指先でよって糸にする。大変な作業であり、今これが出来るのは国内に10人もいないという。
得られる糸は繊維質の損失が多く僅かであるが黄金色の美しい糸になる。
屋代小川出テ郡家正東除田野界西ヘ流レ入ル斐伊ノ大川ニ此川無魚 †
・細川家本k63で「屋代小川出郡家正東正除田野西流入斐伊大河旡魚」
・日御﨑本k63で「屋代ノ小川ハ出テ郡家ノ正東正除田野ヨリ西ニ流テ入ル斐伊大河ニ旡魚」
・倉野本k64で「屋代小川出郡家正東正除田野西流入斐伊大河旡魚」
・出雲風土記抄-4帖-k42本文で「屋代小川出郡家正東正除田野西流入斐伊大河無魚」
解説で「鈔云此川ハ過キ三代村高塚山ノ之辺ヲ自志ヶ谷北ニ流西ニ折〆入斐伊大河ニ也」
- 斐伊大川…斐伊神社の近くを流れることからの呼び名であろう。ここを過ぎ、赤川・三刀屋川と合流して出雲大川と呼ばれていた。
今は総じて斐伊川と呼ばれている。
- ここでの記述は奇妙である。「郡家正東~斐伊大川」部分の内容は今の久野川の事であって、屋代小川では無いように思われる。
衍字か意図的削除があったものと思われる。
此処に記されるべきは、まずは屋裏郷を流れる川、則ち今の岩倉川と下流部の猪尾川であるべきで、これは屋裏川(矢裏川)と呼ばれていたものと考えられる。又、砂小原を流れてくる中村川も記されていて不思議では無い。
次いで川筋が長く流域も広い久野川を欠かすことは地誌としてあり得ない。
衍字もしくは意図的削除と思われるのは次の理由による。
久野川上流を辿ると大東町上久野に「鎌倉神社」がある。この奥宮を「生山神社」と云い、出雲国風土記には載らないが古い伝承をもつ。祭神は「武御名方神」であり、社名から古くは「大山祇神」を祀っていたのであろうと考えられるが、武御名方神を祀るようになった縁起は武御名方神がここから信州諏訪に向かうに際しこの社のある巖根山に荒御魂を祀るように言い残したことによると伝える。
久野という地名は武御名方神が、「わが神業なる白銅、鋼の鉄とそが基なる黒金の鉄をも与へん、幾代久しき黒金の野辺」と伝えた事に由来する。
出雲国風土記に武御名方神の記述が殆ど無いのは不思議なことであるが、これは意図的に排除されたものと考え得る。。
『出雲国風土記』大原郡に久野郷の記載がないのも訝しい。この件別記するが、何れにせよ矢裏川と久野川の記述から一部を削除し、屋代川としたことで記述が奇妙なことになったのであろう。
記載されていない阿用川と考え合わせ、この方面から出雲は外部勢力に侵入を受けたのであろう。
- 屋代小川…既に記したように屋代郷は旧大原郡家の辺りの事であり、屋代小川は屋代郷を流れる川を指し、これは幡屋川と遠所川が合流した後の流れを呼んでいたものと思われる。屋代が大原に変えられたため川の名も幡屋川と呼ばれて今に至っているのであろう。
この部分、前文におけるつながりの悪さを考えると、最も簡潔な例としては次のようであったのではないかと考えられる。
幡屋小川源出郡家東北幡箭山南流(无魚)
水曰氷合屋代小川正流入出雲大川
久野川出郡家正東除田野西流入斐伊大川(此川无魚)
幡屋小川、源は郡家の東北幡箭山より出て南へ流れる。(魚無し)
水は氷(清水)という。屋代小川に合し正に流れて出雲大川に入る。
久野川、郡家の正東より出て、田野をよけ西に流れて斐伊大川に入る。(此川魚無し)
通道通リ意宇郡ノ堺木垣坂ヲ廾三里八十五歩 †
- 木垣坂…鵯と和名佐の間の峠と考えられている。地理院地図
・出雲風土記抄4帖k43解説で「林垣坂者大原郡山田村与意宇郡和奈佐村之堺鵯坂是也」
- 諸本「木垣坂」であるが風土記抄は「林垣坂」としている。国会図書館本風土記抄4帖k35では[林]に朱で[木]と傍記
通道、意宇郡の堺木垣坂を通り二十三里八十五歩。
通リ仁多郡堺夆谷村ヲ廾三里一百八十二歩 †
- 夆谷村…通説では大東町下久野の「樋ノ谷」とされる。が疑問。
「夆谷村」をそのまま読めば(ホウタニムラ)[夆]は(逢う)の意味。
『出雲国風土記』仁多郡の記述では「事谷村・辛谷村」。この件仁多郡にて解説。
仁多郡の堺、夆谷村を通り二十三里一百八十二歩。
- 夆谷村…
・出雲国風土記考証p354で「~辛谷村を紅葉山文庫本には「夆谷村」とあり、有造館本には「烽谷村」とある。烽谷村はヒノタニムラと讀める。」
○[烽]は(ホウ・のろし)であり、(ヒ)の読みは無い。樋ノ谷(火ノ谷)に結びつけるための勝手な読みである。
加藤は後藤の説を元に更にこじつけを深めた記述を行っている。
通リ飯石郡堺斐伊川ノ邊ヲ五十歩本ノ侭 †
- 五十歩…これは郡家から川辺までの距離としか考えようがない。おそらく欠文。
飯石郡の堺斐伊川の辺には五十歩。
通リ出雲郡多義村ノ一十一里二百廾歩 †
出雲郡、多義村を通り十一里二百二十歩
前件参郡並ニ山野之中也 †
- 参郡…ここに云う三郡は仁多郡・飯石郡・出雲郡を云うのであろう。
前の件の三郡は並に山野の中なり。
郡司主帳无位勝部臣
大領外カ正六位上勳業勝部臣
少領外從八位上額部臣
主政无位置臣 †
郡司主帳無位勝部臣
大領正六位上勳業勝部臣
少領外從八位上額田部臣
主政無位置臣
『出雲国風土記』後記