[[神名解題a]] ''「武御名方神」'' 「武御名方」の語は[武][御名]共に美称で[方]は境界を示しているから、武御名方と云う神名は抽象表現で固有の意味はない。 出雲国風土記にある大穴持命と奴奈宜波比賣命の子、御穂須須美命と同一神 美保関町、三保神社の元の祭神。 「御穂」は地名「美保」であるから、須須美が名。 -島根県邑智郡邑南町矢上下京の諏訪神社では邑智須須美命として祀られている。 境内に案内はないようだが「石見誌」に記載されている。[[「石見誌」22コマp31、82コマp147、288コマp559(石見国風土記邑智郡):http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020958]] 「邑智」が地名であるのは「御穂」と同じ。 「石見誌」では、家系辞書・諏訪氏系図からの引用として、164コマ311頁のこの地方の諏訪氏系図に「武御名方命又御穂須々美命」と記している。 ---石見誌記載の邑智須須美命を祀った神社は、上記の諏訪神社に合祀されたらしい。 上記諏訪神社の現在の主祭神は、建御名方神、八坂刀売神 信濃の諏訪大社等では武御名方富神あるいは武御名方刀美神と、[トミ]を加えている場合がある。 ---[[「八坂刀売命」]]の「刀売」に対する「刀美」か。 大己貴神の末裔を称する「富家」の富であるかも知れない。 武御名方神が健御雷神に降服する話は古事記の話で、日本書紀や出雲国風土記にはない。 先代旧事本紀では経津主神と武甕槌神が武御名方神を降服させたことになっている。 この件、古事記は健御雷神の系譜である多氏の記述であり、先代旧事本紀は経津主神の系譜である物部氏などによる記述である事を考えると、既に記してきているように武御名方神の降服話しは信用し難い。 武御名方神を諏訪に押し込めたのであるなら、健御雷神と経津主神は諏訪大社でも重要な神格として奉られていなければならないが、 僅かに下社秋宮末社に鹿島社として武甕槌命が申し訳程度に祭られているだけである。 勿論、武御名方神がこの地に逃げてきて押し込められたというような伝承や言い伝えは諏訪地方にはない。 ---山梨県北杜市白洲町大武川の「諏訪神社」にこの地で武御名方命と武甕槌命が誓いを成したという伝があるようだが不詳。 というか勝者であるはずの武甕槌命を主祭神に祭っているならまだ話は解るが・・・・。 対岸に武甕槌命の縁起地があると云うが不明。(甲斐国誌) 武御名方神は神社分布などから北方から諏訪に来たというのが通説である。武甕槌命は待ち伏せでもしていたというのであろうか。 この地より更に南方に、武御名方神が親神を祭ったという駒ヶ嶽神社前宮がある。待ち伏せしていたなら、ここ迄足は延ばせない。 武御名方神の降服話が無かったとすれば、出雲国譲りもなかった事となり、 天孫降臨神話も、根底から考え直す必要が生じることになる。この件又の機会に。 陵墓は諏訪大社上社前宮東部と云われている。そこには藤の古木があるとも云う。西部には八坂刀売命の陵墓。 上社本宮の拝殿が後方神体山の方向ではなく前宮の方向に向いているのはこの為であろう。 ---現在上社前宮に伝わる言い伝えとは異なるようである。上社前宮社殿は幾度かの変遷を経ている。 ---- 古事記にありながら正史とされる書紀にはない(一書としてすら触れられない)武御名方神の話はその裏に何事かが隠されている。 古事記にあるように、武御名方神が武甕槌命に制圧されたのであれば何を憚ることもない。 その様なことがなかったが故に記せなかったのだと考えざるを得ない。 ---- 諏訪大神(諏訪名神・武御名方神)は旧暦11月に出雲に行かないと云う。 これを諏訪から出ないという誓約に利用された格好だが、諏訪で睨みを利かしていないといけない理由があったのだろう。 例えば、鹿島に押し込めた武甕槌命が出張って来る。 あるいは、遠い出雲まで行けない先住東国の神々を諏訪で饗宴していたのかもしれない。 もしくは、母神[[「沼河比売」]]のことがあって、出雲と疎遠になったか。 ---- 参考[[-周防国]]