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◎「内神社」(高野宮)

島根県松江市大垣町746[[地理院地図:https://maps.gsi.go.jp/#15/35.489852/132.930965/]]

主祭神:高姫命(下照姫命)・和加布都努志命

『出雲国風土記』秋鹿郡に載る「宇智社」
元は『出雲国風土記』秋鹿郡に記された「女嵩野山」(本宮山・高野山)の山頂(278.8m)にあったという。
諸説あるようだが、平安末期、後鳥羽院の武者所武士であった紀季康が出雲大野庄の地頭としてこの地に来て、大野姓を名乗るようになり、孫の季清の頃本宮山城を築城した際、内神社は現社地に移されたようである。
女嵩野山は元々高姫命が坐す山とされ、又和加布都怒志命が現社地のある阿内谷で猪狩りをした事が縁起に挙げられる。
これからすると、高野宮は女嵩野山山頂にあり、宇智社が現社地にそれぞれあったのであろうと思われる。

霊亀元年715年、高野山山頂に光輪が現れ、これを見た村人達が神(高姫命)の降臨として神垣をしつらえたという。

諸説あるようだが、平安末期、後鳥羽院の武者所武士であった紀季康が出雲大野庄の地頭としてこの地に来て、大野姓を名乗るようになり、孫の季清の頃本宮山城を築城した際、高野宮は現社地にあった宇智社に移されて、今の内神社として合社されたのであろう。
(高野宮移転については養老元年717年説・宝亀元年770年説がある。)
紀氏は竹内宿禰の長男角宿禰を始祖とし、紀季康は紀氏31代に当たり奈良東大寺再建を果たした俊乗房重源の兄である。
大野氏は大野鄕の他秋鹿郡東部から対岸の来待や玉造も領した豪族であった。
大内氏・尼子氏・毛利氏に属したが、毛利の時代になって宍道氏と対立するようになり、1582年宍道政慶の謀略で大野高成が殺害され滅亡した。

内神社は、出雲大社・佐太神社の支配を受けない神社であった。


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