[[神社a]] ○「''待神社''」 島根県安来市広瀬町西比田追神 [[地理院地図:https://maps.gsi.go.jp/#15/35.231371/133.120329/]] 主祭神:佐太大神 追神公会堂の道路向かいにある。 「追神神社」とされていることがあるが、上述の通り「待神社」が正しい。 地名と社名になにか縁起があるのであろう。 ---- (待神社 参道) http://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/yasugi-c/hirose-t/nisihida/oigami/mati-j/mati-01.jpg (待神社 社) http://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/yasugi-c/hirose-t/nisihida/oigami/mati-j/mati-02.jpg (待神社 石柱) http://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/yasugi-c/hirose-t/nisihida/oigami/mati-j/mati-03.jpg ・「待神社」と彫られている。 (待神社 ) http://fuushi.k-pj.info/jpgj/simane/yasugi-c/hirose-t/nisihida/oigami/mati-j/mati-04.jpg ・社門前に鉱滓が置かれている。 ---- 地元で静かに奉祭されているのであろう。 今は小祠が残るのみだが、元は社殿があったものと推察する。 明治期に「金屋子神社」に合社されたようである。 島根県神社庁には記載がない。 祭神名を「猿田彦命」とする案内もあるようだが蔑称であるから「佐太大神」としておく。 「待神社」というのは、佐太大神(猿田彦大神)が古事記で「日子番能邇邇藝命」を待っていたことに由来する社名であろう。 ---「追神」という地名については、群馬県沼田市利根町老神の元の地名が「追神」であり、 これは赤城の神と日光の神が争った際、赤城の神が敗れてこの地まで逃げてきたという伝説による。 「追神」という地名は(追われた神が逃れた地)ということである。 つまり、「佐太大神」がこの地に逃げてきたということを意味しているのであろう。 「比太神社」社殿内に「比太之大神」という掛け軸が掲げられており、左右に「吉備津彦命・吉備津姫命」と記されており、これが気になっていたのであるが、この「比太之大神」というのが「佐太大神」と思われてならない。 「比太之大神」が「吉備津彦命」であるのならば、書き分ける必要はない。 「出雲国風土記」秋鹿郡で、「佐太御子社」の次に「比多社」が記さており「佐太神社」に合社されている。 「出雲風土記抄」にも「雲陽誌」にも「比多社」については触れていないから、かなり初期の段階で合社されていたのであろう。 「比太社」と「比多社」は同じ神を祀っていたものではないかと思われる。