人物

大村益次郎

幼名「惣太郎」文政7年(1824年)3月10日生まれ(周防国吉敷郡鋳銭司村)村田孝益長男
幼少時は学問嫌いの、きかん坊であった。
天保9年(15歳)江戸遊学に際し「良庵」を称す。良庵は祖父の名でもあり、医家として「村田良庵」が代々受け継がれていた。
(父「孝益」は養子だった為、名乗っていない)

江戸遊学は藩主の江戸出府に際し、藩士木村某に連れとして孝益が頼みこんだ。

4年の遊学の後、父の病の報を機に帰郷。


「長州は死にすぎた」と云うが、益次郎はその筆頭であろう。
司馬遼太郎が「花神」で取りあげるまでは、殆ど知られることはなかった。(花神=花咲爺)
長州では松陰を「松陰」と呼び捨てにすると訝しがられる。「松陰先生」と呼ぶのが普通。
松陰と全く接点のないのが益次郎である。
松陰の尊皇攘夷論、その影響下で引き起こした禁門の変や下関戦争で長州が叩きのめされて後、初めて益次郎が真価を発揮する時期となったのである。が、僅か5年で死去。
「火吹き達磨」は晋作が益次郎の風貌から綽名したと云われているが、僅かな炭の火力から大きな火力を得る働きをする点では言い得て妙であった。


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