[[人物]]

幼名「惣太郎」文政7年(1824年)3月10日生まれ(周防国吉敷郡鋳銭司村)村田孝益長男
幼少時は学問嫌いの、きかん坊であった。
天保9年(15歳)江戸遊学に際し「良庵」を称す。良庵は祖父の名でもあり、医家として「村田良庵」が代々受け継がれていた。
(父「孝益」は養子だった為、名乗っていない)

江戸遊学は藩主の江戸出府に際し、藩士木村某に連れとして孝益が頼みこんだ。

4年の遊学の後、父の病の報を機に帰郷。

-1842年、防府の蘭法医「梅田幽斎」の門下に入る。(医学・蘭学)
-1843年、幽斎の紹介で、日田・咸宜園「広瀬淡窓」の門下に入る。(漢学・儒学)
-1844年、長崎遊学を志し、父の了解を得るため一旦鋳銭司に戻る。
-1846年、幽斎の勧めにより大阪・適塾「緒方洪庵」の門下に入る。
--洪庵の許しを得て長崎遊学。
-1849年、適塾塾頭となる。
-1850年、帰郷し家業を継ぐ。「村田良庵」
--無愛想で、軽微な病は「その内治る」と言い放っていた為、藪医者呼ばわりされていた。
-1853年、シーボルトの弟子「二宮敬作」を宇和島に訪ねた際、二宮の紹介により宇和島藩に出仕。「村田蔵六」と称す。
-1856年、江戸に出た際、私塾「鳩居堂」を開塾
-1859年、宇和島藩にて蒸気船建造完成。
-1860年、長州藩に出仕。
-1861年(文久元年)

--萩・博習堂における洋学教授の際の講義内容
---兵学科…野戦造築術・衛戌内則・行軍定則・戦闘術・将帥術
---海軍科…運用術・航海術・算術測量
---砲術科…弾薬製造・弾道論・射砲論・守城法・海岸防禦法・攻城法・軍艦戦法
-1865年、「大村益次郎」と称す。
--長州藩の軍制改革を論じ奇兵隊などを教練。
-1866年、四境戦争(第二次長州征伐)において石州口の戦いを指揮。
--6/16 津和野通過
--6/17 益田にて戦闘。幕府軍公称2万(実数7500)対する長州軍(700)にて福山藩兵他を敗走させる。&br;その後住民を慰撫しながら周布川まで進軍。幕府軍と対峙。
--7/15 浜田藩より和睦申出。藩主松平武聡らは海路松江に逃亡。&br;浜田城は浜田藩敗残兵自身の手により炎上、城下も炎上。
--7/19 浜田町衆より入城要請を受け浜田制圧。
-1867年、明治新政府で軍防事務局判事加勢となる。
--旧幕軍制圧の必要を意見。江戸出向。
-1868年、彰義隊を、江戸治安にあたらせようとしていた、勝海舟や西郷隆盛から実権が益次郎に移され、5/1日益次郎が江戸府知事につく。
--5/1日彰義隊の武装解除令発布。
--5/14日、武装解除に応じない彰義隊の討伐布告。
--5/15日、彰義隊を1日で制圧。

--会津戦争に於て、二本松の戦いの後、江戸にいる益次郎と二本松にいる板垣退助・伊地知正治の間で意見が分かれた。板垣・伊地知は若松城攻撃。&br;益次郎は仙台への進軍を主張した。&br;その際の益次郎の弁「枝葉を刈って根元を枯らす」(仙台を落とせば会津は放っておいても落ちる)
--五稜郭の戦いの後、大鳥圭介の減刑に益次郎は奔走した。大鳥が適塾の後輩であり、その才を惜しんだ為であった。

-1869年、9月4日京都にて襲撃を受ける。11月5日死去。
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