『出雲国風土記』
『出雲国風土記』嶋根郡
『出雲国風土記』秋鹿郡(あいかのごおり)
(白井文庫k21)
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秋鹿郡
合郷肆里十三 神戸童
惠曇郷 本字惠伴
多太郷 今依前用
大野郷 今依前用
伊晨郷 本字伊努以郷捌里參
神戸郷
所以号秋鹿者郡家正北秋鹿日女命唑故云
秋鹿矣
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惠曇郷郡家東北九里卅歩須作能乎命御子磐坂
日子命国巡行唑時至唑此處而詔詔此處者国權美
好国形如畫鞆哉吾之宮者是処造事故云惠伴
神龜三年
改字惠曇
多太郷郡家西北五里一百廾歩須佐能乎命ノ御子
衝杵等乎而留比古命国巡行唑時至坐此処詔吾
御心照明正冥成吾者此処靜將唑詔而靜唑故云
多太
大野郷郡家正西一十里廾歩和加布都奴志能命
御狩爲唑時即郷西山持人立給而追猪犀北方上之
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秋鹿郡 †
秋鹿郡
- 秋鹿郡…ルビに(アイカ ゴヲリ)とあるので、(アイカノゴオリ)と読んでおく。
校注出雲国風土記・標注古風土記は共に「秋鹿」を(アキカ)と読んでいる。理由不明。
「秋鹿」は今も(アイカ)と呼んでいる。
合郷肆里十三 神戸童 †
合わせて郷四、(里十三) 神戸壹
- 合郷肆…「肆」は(シ)と読むので「四」の当て字であろう。
- 神戸童…「童」は「壹」(一)の誤写であろう。
・出雲国風土記抄(2-k29)・上田秋成書入本(k22)では「合郷肆里十二 神戸壹」
・出雲国風土記考証(p151)・校注出雲国風土記(p126)では「合郷肆里一
十二 神戸壹」
惠曇郷 本字惠伴 †
惠曇郷 本字は惠伴
- 惠曇郷…(エトモノゴウ)
・出雲国風土記抄2-k29では本文で(エスミノ)とルビを振っている。
今は恵曇(エトモ)と呼んでいる。
多太郷 今依前用 †
多太郷 今も前に依りて用いる
大野郷 今依前用 †
大野郷 今も前に依りて用いる
伊晨郷 本字伊努以郷捌里參 †
伊農郷 本字は伊努(郷を以て捌く、里參)
- 伊晨郷…後に、「伊農郷」とあるので「晨」は「農」の誤記もしくは略記であろう。
- 以郷捌里參…
・出雲国風土記抄2-k29では本文で「以上郷肆里参」(以上郷四、里三)
・標註古風土記p171・出雲国風土記考証p147・校注出雲国風土記p126では共に「以上肆郷別里参」(以上四、郷別に里三)
神戸郷 †
神戸郷
- 神戸郷…
・出雲国風土記抄(2-k29)・出雲国風土記考証(p151)・校注出雲風土記(p39)では「神戸里」
・上田秋成書入本(k22)では「神戸里郷イ」
所以号ス秋鹿ト者郡家正北秋鹿日女ノ命唑ス故ニ云秋鹿ト矣 †
秋鹿と号すゆえんは、郡家の正に北、秋鹿日女の命唑す、故に秋鹿と云う。
- 郡家…秋鹿の郡家。東長江町郡崎説と秋鹿町説とがある。
位置と地名から、秋鹿説が正しいと思われる。現秋鹿神社の元社地が現在地より東方に尾根一つ越えた宮崎という地にあったらしいので、秋鹿の郡家もその南方辺りにあったのであろう。現「秋鹿神社」
・出雲国風土記抄(2-k30)
「鈔曰如ク記ノ之趣ノ在リ于秋鹿比賣二社大明神ノ祠則秋鹿村ニ蓋シ當ニ此ノ社南ノ則為タル古ヘノ之郡家従是十七八町東長江ノ州埼俗呼テ曰フ郡埼ト則巳ニ郡家ノ近地ナレバ之長江亦秋鹿ノ一村也」
(鈔に曰く。記の趣きの如く、秋鹿比賣二社大明神の祠は則ち秋鹿村に在り。蓋し、まさに此の社の南のほとりは古の郡家たるに当る。是に従えば十七八町東長江の州埼、俗に呼びて郡埼という、則ちすでに郡家の近地なればこの長江また秋鹿の一村也)
- 東長江の郡埼説というのは、風土記抄から出たのであろうが、原文読むと、誤読によるものであるように思える。
「東長江」ではなく「十七八町東の長江」であり、「長江の州埼(俗に郡埼という)は郡家の近くであり秋鹿郡中の一村である」と云っているだけであり、「秋鹿神社や郡家が東長江にあった」等とは語っていない。
- あれこれ勘案すると、今の秋鹿郵便局の辺りに秋鹿の郡家があったのであろうと思われる。
長江の州埼、今の長江港の辺りと思われるが、ここ迄東に約2km弱で十七八町に合う。郡埼というのは、秋鹿郡の端と云う意味であろう。
- 秋鹿日女命…(アイカヒメノミコト)。ウムガヒメやイザナミノミコトと同一神と見る向きがあるが疑問。
ウムガヒメと同一神という説は内田眞龍によるものであり、イザナミノミコトと同一神と見る説は佐太神社によるもの。
出雲国風土記に系譜が記されていないために付会したのであろうと思われるが、秋鹿郡の地主神で充分と思う。
- 秋の鹿というのは発情期にあたり、良く鳴く季節であり人里にも姿を見せる。そのような鹿の姿を愛しみ祭ったのではないかと思われる。系譜が不明なのは自然神としてかなり原初的な神格であったからであろう。
惠曇郷郡家東北九里卅歩 †
惠曇郷、郡家の東北九里三十歩
- 惠曇郷…出雲国風土記抄(2-k30)に「鈔曰九里卅歩今之一里十八町四十間併今江角古浦武代本郷等所以為惠曇郷蓋意佐陀宮内村可亦以入此郷中矣」
(鈔に曰く。九里三十歩は今の一里十八町四十間。今の江角・古浦・武代・本郷、等の所を併せて惠曇郷と為す。けだし、おもうに、佐陀宮内村も亦以て此の郷中に入るべし。)
とあり、現在の松江市鹿島町、惠曇・古浦・武代・佐陀本郷・佐陀宮内の地区を恵曇郷と呼んでいた。
須作能乎命御子磐坂日子命国巡リ行キ唑ス時至リ唑シ此處ニ而詔テ詔此處ハ者国權美好国形如畫鞆ノ哉吾ガ之宮者是ノ処ニ造ラン事故ニ云惠伴ト神龜三年
改字惠曇 †
須作能乎命の御子、磐坂日子命、国巡り行ます時、此處に至りまして詔て、此處は国権美好国形画鞆の如しかな、吾が宮は是の処に造らん事を詔す。故に惠伴と云う。(神龜三年字を惠曇に改む)
- 国權美好…国権美好。「権」は量る事。「美好」は「美しく好ましい」。「国をはかるに美しく好ましい」の意。
読みとしては(国をはかるにびこうなり)
・出雲国風土記抄(2-k30)では本文で「国権美好有国形如畫鞆哉」としている。
・校注出雲国風土記(p39)では「權」を「稚」としている。
- 国形如畫鞆…国形如画鞆。「鞆」は弓を射るときに弓の跳ね返りが腕に当たるのを防ぐ為に左腕に付ける革製の防具。
鞆は巴形の元とも云われ、巴形を描いている物が多々ある。
「如画鞆」は「絵を描いた鞆という防具の様である」の意。
全体で「国の形が絵を描いた鞆のようである」と云う意味を表す。読みとしては(国がたエトモのごとし)
- 吾之宮…磐坂日子命を祀る「惠曇神社」が鹿島町にある。但し「惠曇神社」というのは恵曇と佐陀本郷とに二社あり、又別に漁港近くに「惠曇海邊社」という社がある。今の恵曇地区(旧恵曇町)は先に記したように元は江角という地名であった。
・雲陽誌では秋鹿郡2-k63(地誌大系k50p86)に江角について記し、惠曇海邊社に関連して出雲国風土記記載のこの部分を上げて、惠曇神社と見なしているようであり、秋鹿郡1-k56(地誌大系k43p73)に本郷の惠曇神社及び座王権現について記しているが、詳述はしていない。
- この地名縁起少々疑問がある。エスミとエトモが錯綜している。磐坂日子命の縁起通りであれば元々はエトモであるのだが、
地区名としてはエスミ(江角)があって、エトモはない。
神亀三年に字を恵伴から惠曇に改めたとあるので、それ以前は長くエトモであったはずであろう。
惠曇の「曇」は安曇(アズミ)の「曇」と同じでスミと読む事もあるから、字を惠曇と改めた後にエスミと読むようになり江角と転じたというのであれば話は解るのだが、そうなっていない。
一方、磐坂日子命に関連する地名縁起が後に創られたものとするには具体性があってまんざら虚構とも思えない。このような点が得心できないと、惠曇神社の判断も付けがたい。
江角と云うのは入江の角、と云うほどの意味であろうから、古浦海岸の角というのが地名由来であると思われ、「恵曇」に直接関わるような地名では無いようにも思える。
この件保留。
多太郷郡家西北五里一百廾歩 †
多太郷、郡家の西北五里一百二十歩
須佐能乎命ノ御子衝杵等乎而留比古命国巡リ行キ唑ス時至坐此処ニ詔テ吾ガ御心照リ明ニ正冥成吾者此処ニ靜ニ將ニ唑ラントス詔テ而靜リ唑ス故云多太ト †
須佐能乎命の御子、衝杵等乎而留比古命国巡り行き唑す時、此処に至り坐す時詔て、吾が御心正冥成りしと明らかに照り、吾は此処に靜かに將に唑らんとす、と詔て靜に唑す。故に多太と云う。
- 衝杵等乎而留比古命…ルビに従えば(ツキキトヲシルヒコノミコト)。秋鹿小学校前の道を北上した「多太神社」地理院地図に祀られている。
「衝杵」を「衝鉾」「衝桙」とするものがあるが、「杵」は餅つきの杵(キネ)であり、武具の「鉾・桙・矛」ではない。「衝杵」であるから、農耕神であり武神ではない。
古代の杵(縦杵・兎杵)は元々は脱穀・脱稃に用いていた農具であり、杵衝き(衝杵)というのは脱穀・脱稃することを云う。
・出雲国風土記抄2-k30で「衝杵等乎而留比古命」
・訂正出雲国風土記上-p37で「衝杵等乎而留比古命」ルビではなく傍書で(ツキキトヲルヒコノミコト)
・鶏頭院天忠本p023で「衝析等乎而留比古命」「析」の横に「杵」と補記
・上田秋成書入本p023で「衝杵等乎而留比古命」
・校注出雲国風土記p40で「衝桙等番留比古命」脚注に「突鉾通る日子の命」
・標注古風土記p160本文で「衝杵等乎而留比古命」、p161解説で(つきゝとをるひこの)命
・出雲国風土記考証p153で「衝杵等乎而留比古命」
- 等乎而留(トヲシル)というのは良く解らないが(通す+知ろしめる)で「広めた」と云う意味合いではないかと思われる。杵は元来ただの棒であったが、それを両端を太くし中央部を細くして持ちやすく効率のあがる千本杵と云うものに発達した。それを広めたのが「衝杵等乎而留比古命」の神名由来ではないかと思われる。
- 「杵」と「桙」について…
・出雲国風土記考証p149に、
「衝杵等乎而留比古命について、伴信友は『後の和泉國風土記に大鳥郡本字衰云々古老傳云昔素佐烏尊御子衝桙等乎而留比古命巡行此國詔、吾御體衰坐詔而静坐、故云於止利、今謂大鳥者訛也とみえたり。此國巡行古事と符へり。さて御子の字の而を誤出といへれども和泉國風土記にも然あれば相照して誤とはすべからず。而を假字に用たる例いまだ見あたらねど姑くシと唱ふべし。杵は桙の誤にて古書に毎に多し、故に衝桙等乎而留比古命と申すべし。衝桙は杖桙の義にて等乎の枕詞なるべし。萬葉集ニに奈用竹之騰遠依とつゞけたる如く桙を杖きたるが撓(タワ)む由の意なるべし。而留は稱へ名にいへる例あり。又古事記の倭建命の裔に登遠之別といふがあり』といつて居る。思ふに而の字は與の畧字の誤りであること疑ない。而と与との草書に似ることから相誤ることは、出雲風土記中、諸處にその例がある。萬葉集巻三の長歌にも「名湯竹之十緣皇子」といふ語がある。等乎與留は、撓みなびきて、なよゝかに、うつくしきをいふ。即ち神の名は衝桙等乎與留比古命である。」とある。
- 「杵」を「桙」としたのはこれによれば、伴信友に始まるようである。
「杵」を「桙」としているが、「桙(ウ)」は元字「杅(ウ)」で鉢或いは盥(タライ)のこと。字体は「鉾」に似ているが「鉾」は元来山車の「山鉾」のことでありいずれにせよ「矛(ホコ)」ではない。要するに当て字である。「杵」とあるものを「桙」の誤りだといい、更にそれを「矛」とみなすというのは理解できない。「桙」はさほど使用例のある文字ではない。更に、出雲固有の神格を、出雲国風土記の記載を疑い、和泉國風土記にその起源を求めるなど倒錯していると云わざるを得ない。枕詞とするのも意味不明と云っているに過ぎず根拠がない。
「等乎而留」に関しての記述はこれも「而」が「與」の略字「与」の誤記かどうかも疑わしく而をシではなくテであると云うならともかく、ヨであるというのは殆ど意味のない記述である。
又、なよ竹の如く撓む矛など聞いたこともなく、あったとしても用を足さない。
上記各書における記述を示しておいたが、「桙」を用いたものは校注出雲国風土記だけである。
- 多太神社は秋鹿神社とは秋葉山を挟んだ位置関係にあり、秋鹿郷と多太郷がこの秋葉山を境界としていた。
古代の郷が川筋に沿って成立していたことを窺わさせる。多太郷(岡本川)・秋鹿郷(秋鹿川)。共に小さな川だが、度々氾濫は起きていたようである。その為か、両神社とも川の東側山麓にある。
- 正冥…多太の郷名縁起は「正冥」にあると思われるので、それに近い読みを採ったが多少すっきりしない面がある。
多太という名称は神社名にしか残っておらず、この地区は今は岡本と呼ばれている。
この部分各書ともルビをふっているので、読みに苦心したのであろう。
・出雲国風土記抄2-k30では「正真」、
・出雲国風土記考証p153では「正眞」、
・校注出雲国風土記p40では「正真」、
・上田秋成書入本p23では「正冥」と読み「冥」に「實」と書き入れている。
・標注古風土記p175では「正眞」。
・鶏頭院天忠本p023では「正冥」読みは振っていない。
・訂正出雲国風土記上-p37では「正眞」とし(タダシク)と読んでいる。
- 「正冥」にせよ「正眞(正真)」にせよ。「多太」と繋げるにはかなり無理があると云わざるを得ないわけで、「多太」の縁起には何か他の要因があったのではないかと思われるが今となっては不明。
- 個人的心象としては、秋鹿日女命と衝杵等乎而留比古命は夫婦神(入り婿)の関係にあるようにも思われる。
(白井文庫k22)
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(白井文庫k23)
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(白井文庫k24)
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(白井文庫k25)
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『出雲国風土記』楯縫郡