『出雲国風土記』
『出雲国風土記』出雲郡
『出雲国風土記』神門郡(かんどのこおり)
(白井文庫k34)
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神門郡
合郷捌里廾二 餘戸壹驛貳神戸壹
朝山郷 今依前用里貳
置郷 今依前用里参
鹽冶郷 本字正屋里参
八野郷 今依前用里参
高岸郷 今字高峯里参
古志郷 今依前用里参
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神門郡 †
合郷捌里廾二 餘戸壹驛貳神戸壹 †
郷を合せて八(里二十二)。 余戸一、駅二、神戸一
- 餘戸壹驛貳神戸壹…k35に「餘戸里、狭結里、多伎野、神戸里」と記されているが、ここの記述と照らしてk35の記述は「餘戸里、狭結驛、多伎驛、神戸里」の誤りと思われる。
朝山郷 今依前用里貳 †
置郷 今依前用里参 †
置郷 今も前に依りて用いる(里三)
鹽冶郷 本字正屋里参 †
塩冶郷 本字止屋(里三)
八野郷 今依前用里参 †
高岸郷 今字高峯里参 †
古志郷 今依前用里参 †
(白井文庫k35)
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[氵昔]狭郷此ノ下ノ段ニ滑狭郷ト在 今依前用里参
多伎郷 本字多吉里参
餘戸里
狭結里 本字最邑
多伎野 本字多吉
神戸里
所以号神門者神門臣伊加曽然也時神門負
之故云神門即神門臣等自一至今常居此處
故云神門朝山郷郡家東南五里五十六歩神魂
命御子眞王著玉之邑日女命唑之尒時所造
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天下大神大穴持命娶給而毎朝通唑故云朝
山
置郷郡家正東四里志紀嶋宮御宇天皇之
御世置伴部等所造來[宀/イ丙]停而為政之所故
云置郷
鹽冶郷郡家東北六里阿遅須枳高日子命御
子鹽冶毘古能命唑之故云正屋神亀三年
改字鹽冶
八野郷郡家正北三里二百一十歩須佐能表命御
子八野若日女命唑之尒時所造天下大神
大穴持命将娶給為而令造屋給故云八野高
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[氵昔]…大漢和、水の部(17657)によれば、読みは(サク・シャク、ソ)ゐせき。水をせく。又、其のもの。とある。
[宀/イ丙]…「宿」の元字[宀/イ(丙に下線)」の誤記若しくは略記であろう。
[氵昔]狭郷此ノ下ノ段ニ滑狭郷ト在 今依前用里参 †
[氵昔]狭郷(此の下の段に滑狭郷と在) 今依前用(里参)
- [氵昔]狭郷(此の下の段に滑狭郷と在)…滑狭郷(ナメサゴウ)、下の段というのは次頁7行目のことを指す。
・細川家本k35で「[氵昔]狭郷」
・日御﨑本k45で「滑狭郷」
- 「那賣佐神社」地理院地図の近くに「岩坪」地理院地図と言う甌穴のある自然の堰のような場所があり、そこが滑狭の地名由来。
今は滑狭だが古くは[氵昔]狭と記していたのであろう。かつては放置されたような所だったが今はある程度整備されて観光地となっている。
多伎郷 本字多吉(里参) †
多伎郷 本字多吉(里参)
餘戸里 †
狭結里 本字最邑 †
- 狭結里…狭結驛の誤りであろう。
・細川家本k44「狭結驛」
・日御﨑本k45「狭結驛」
・出雲風土記抄3帖k36「挟結驛」
多伎野 本字多吉 †
- 多伎野…多伎驛の誤りであろう。
・細川家本k44「多伎驛」
・日御﨑本k45「多伎驛」
・出雲風土記抄3帖k36「多伎驛」
神戸里 †
所以ハ号ス神門ト者神門臣伊加曽然也時ニ神門負之故云神門ト
即チ神門臣等自リ一メ至ルマデ今ニ常ニ居ル此處ニ故云神門ト †
神門と号す所以は、神門臣伊加曽然也時に神門負之故に神門と云う。
即ち神門臣等はじめより今に至るまで常に此処に居る故に神門と云う。
- 伊加曽然(イカソネ)…眞龍は出雲風土記解2帖k49で「伊賀曽熊(イガソクマ)」と改変し、訂正出雲風土記でもこれを引き継いでいる。
- 神門負之故云神門…「神門これを負う。故に神門と云う。」
・細川家本k44「神門負之故云神門」
・日御﨑本k45「神門負之故云神門」
・倉野本k45「神門負之故云神門」
・出雲風土記抄3帖k36「神門貢之故云神門」
・萬葉緯本k59「神門貢之故云神門」
・春満考k51「神門負之 今按之ハ名の誤カ」
・出雲風土記解2帖k49本文「神門貢(諸屓鈔本貢)之故云神門」
・訂正出雲風土記-下-k17 「神門貢之。故云神門。」
・標注古風土記p261本文「神門貢之故云神門」後藤の註で(「神門と負ひき」を誤りしものなり。貢の字は、国造家本にあるのみにて、他の古寫本には、負とあり。)
・出雲國風土記考証p250本文「神門負之、即神戸臣等~」とし「故云神門」が無い。解説で(「神門負之」を國造本に「神門貢之」とあれども、貢之では意味がないないから、これは他の古寫本の如く「カムドトオヒキ」と讀み、神門臣という姓を負わせられたと見ればよい。)
・修訂出雲国風土記参究では、p515原文「神門貢。故云神門。」p351解説で長々と眞龍の説を引用し、「貢」とも「負」ともとれるように折衷した曖昧な解説を記している。(長文の割に内容がない為引用しない)
- 古写本では上記の通り「神門負」であるが、通説では「神門貢」としている場合がある。
萬葉緯本は出雲風土記抄を参考に修正したものと考えられる。「貢」には「負」を傍記している。
「貢」としたのは岸崎出雲風土記抄からである。
後藤出雲国風土記考証では「負」と読んでいるが、本文は変えている。
日御﨑本では「屓」とも読める。「屓(キ)」(屭の略字)は[尸+貝]であるが、[尸]は人を意味し、[貝]は財を意味する。「財を抱え込んだ人」が字義で、転じて気力を奮い起こす意味を示す。
「屓」であれば、ここでの文意は「この地に神門の臣等が古くから暮らしていたが、伊加曽然の時財を蓄え勢力を得て神門と呼ぶようになった」と云うような意味であろう。
「貢」の場合神の門を建立したと云う意味とし、「神門負」の場合後藤説では神門の姓を受けたと云う意味とし、共に「神門屓」とは異なる意味となる。(後述)
朝山ノ郷郡家東南五里五十六歩神魂ノ命ノ御子眞王著玉之邑日女命唑マス之ニ尒時所造天ガ下大神大穴持ノ命娶給フ而毎朝通ヒ唑マス故云朝山ト †
朝山郷、郡家の東南五里五十六歩。神魂命の御子眞玉著玉之邑日女命ここに坐す時、所造天下大神大穴持命娶り給いて毎朝通います故に朝山と云う。
- 眞玉著玉之邑日女命(マタマツクタマノムラヒメノミコト)…「朝山神社」の主祭神。
白井本では「眞王著玉之邑日女命(マオウアフタマノムラヒメノミコト)」となっているが、上記に改める。
地理院地図には「朝山八幡宮」と記しているが誤り。「朝山神社」である。
・出雲風土記抄3帖K37本文「真玉著玉之邑日女命」
- 大穴持命が毎朝通ったというのであるから、大穴持命は昼夜はこの近くに暮らしていた事になるが、それがどこなのか少々気になる。
置ノ郷郡家正東四里志紀嶋ノ宮御宇天皇之御世置伴部等所造來リ[宀/イ丙]リ停而為政ツ之所故云置ノ郷ト †
・[宀/イ丙]は[宿]に改める。
置の郷、郡家の正東四里。志紀嶋の宮御宇天皇の御世、置伴部等造りし所、來たり宿り停まりて、政を為す所故に置の郷という。
鹽冶ノ郷郡家東北六里阿遅須枳高日子命ノ御子鹽冶毘古能命唑マス之ニ故云正屋初ニ正トアリ爰ニ止ニ作ル神亀三年
改ル字ヲ鹽冶ト †
鹽冶の郷、郡家の東北六里。阿遅須枳高日子命の御子、鹽冶毘古能命ここに唑す。故に正屋(初めに正とあり爰に止に作る)という。(神亀三年、字を鹽冶と改む
- 鹽冶…「鹽」は「塩」の旧字。今は「塩冶(エンヤ)」と呼んでいる。改字以前は「止屋(ヤムヤ)」であったのであろう。
- 鹽冶毘古能命…「塩冶神社」地理院地図に祀られている。
- 「止屋」と「鹽冶(塩冶)」について、元字「止」で「鹽」に改めたというのは奇妙に思える。
「冶」は(溶かす・精錬する)という意味で、「塩冶」ならば塩を溶かす、製塩するという意味だと理解できるが、「止屋」では意味が解らない。神名が「鹽冶毘古能命」というのは製塩の神様と理解できるが、これが、「止屋」を「鹽冶」に改めたことにより「止屋毘古能命」を「鹽冶毘古能命」に改めたというのだという事はあり得そうにない。
元々「鹽冶毘古能命」の由来で「鹽冶」(夜牟夜)という地名だったのがいつしか「止屋(ヤムヤ)」と記し呼ばれるようになっていたのを元の「鹽冶」に戻したのだとすれば多少得心できる。「正屋」というのは「止屋」の誤記であろう。
「鹽冶」(エンヤ・ヱヤ)をなぜ(ヤムヤ)と読むのかについては尚疑問が残る。
「止」は足型で、足を留める意味がある。「止屋」はこの意味で、足を留めた家屋という事でもあろうか。
思うに、この附近に岩塩のとれる場所がかつてあって、それが神名や地名の由来になっているのではないかと想像する。
塩冶郷の辺りは、布志名層の北端部に沖積層と神西層・斐川層が重層する他の地区と少々異なる特異な地区である。
かつて海であった場所が神門川と斐伊川両方の東西からの堆積物により陸封され岩塩層となり、それが表出していたのではないかと考え得る。
・出雲国風土記考証p253解説で「「鹽」の字音は、古くはカムからヤムとなり、今はエンに變つたものであつて、天平時代には、ヤムであつたと見える。」とある。
- 「鹽」は形声文字で音は「監(カン)」であるが、それがエンに迄変化したと云う後藤の説は一定の説得力はあるのだが、傍証がない。又なぜ「鹽冶」なのかの説明もない。
・修訂出雲国風土記参究p356参究で「塩冶毗古能命は他の古典に見えない神であるが、もと塩冶の地の守護神たる男神の意であるのを、神名が先として伝えたのである。神名もやはりもと止屋と書いたのであろう。」とある。
- 加藤の想像だが、神名がもと止屋というには根拠が薄い。地名を変えることはあってもそれに合わせて神名まで変えるとは考えがたい。
八野ノ郷郡家正北三里二百一十歩須佐能表命御子八野若日女命唑マス之ニ尒時所造天下大神大穴持ノ命将娶リ給ハント為シテ而令造屋給フ故云八野ト †
八野の郷、郡家の正北三里二百一十歩。須佐能表命の御子八野若日女命ここに坐す時に天下所造大神大穴持命将に娶り給はんと為して屋を造りしめ給う。故に八野という。
- 八野若日女命…出雲市矢野町「八野神社」に祭られている。
八野神社には大穴持命は祭られておらず、大年神が祭られていることから、大穴持命は娶る事が出来なかったのか、或いは大年神の求婚話だったのか何れかとも考えられる。
但し、大年神は須佐能袁命の子であるから八野若日女命とは兄妹(姉弟)となり、大年神を祭ったのは別の縁起によるものであろう。
- 大年神が大穴持命であると考えるむきもあるが、それなら祭神を大穴持命としていたであろう。
些細なことのようではあるが、白井本では「娶ろうとした」のであって「娶った」とは記していない。
- この一文、八野の地名縁起であるが、大穴持命が「屋(ヤ)」を造りしめた事から「八野」と云うようになったと云うのであるから、これからすると元は「屋野」であり、八野若日女命は、「屋野の若日女」と云うことで固有名詞ではないことになる。
但し「屋野」とする傍証はないから付会であろう。
いずれにせよ今となっては実名不明であるから「八野若日女命」と呼ぶより外無いことではある。
(白井文庫k36)
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岸郷郡家東北二里所造天下大神御子阿遲
須枳高日子命甚晝夜哭唑其所高屋
造可唑之即建高崎可登降養奉故云高岸
神亀三年
改字高峯古志郷即属郡家伊弉弥命之時以曰淵
川築造池之尒時古志国等到来而為堤即
[宀/イ丙]居之所故云古志也
上[氵昔]狭
滑狭郷郡家南西八里須佐能表命御子和加
須世理比穀命唑之時所造天下大神命娶
而通唑時彼社之前有磐石其上甚滑之
即詔滑磐石哉詔故云南佐神亀三年
改字滑狭
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多伎郷郡家南西廿里所造天下大神之御子阿
陀加夜努志多伎吉比売命唑之故云多吉神亀
三年
改字
多伎餘戸里郡家南西卅六里説名如
意宇郡
狭結驛郡家同所古志国佐與布云人來居
之故云最邑神亀三年改字狭結邊其所
以來居者説如古志郷也
多伎驛郡家西南一十九里説名改字
女即也 甫曰女即トハ不審也
[寺]
新造院一所朝山郷中郡家正東二里六十歩
建立嚴堂也神門臣等之所造也新造院一所
有古志郷中郡家東南一里刑部臣等之所造
也木立
厳堂
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高岸郷郡家東北二里所造天下大神ノ御子阿遲須枳高日子命甚晝夜哭唑マス其所ニ高屋造可キト唑マス之ニ即チ建高崎可登降養奉故云高岸ト(神亀三年改ム字ヲ高峯ト) †
・「建高崎」は「建高椅」に改める。
高岸郷、郡家の東北二里。所造天下大神の御子阿遲須枳高日子命甚しく昼夜哭き坐しき。其の所に高屋を造りてここに坐すべきと。即ち高椅を建て登り降りして養い奉る。故にこれを高岸と云う。(神亀三年字を高峯と改む)
- 建高崎…諸本「建高椅」(書影では「椅」は[木竒])とあるから「崎」は「椅」の誤りであろう。「椅」は梯子のこと。
- 高岸郷…出雲風土記抄3帖k40の記述から、今のJR出雲市駅の西側周辺、北から順に渡橋町・塩冶有原町・天神町、及び塩冶町の西地区である高西を含む一帯が高岸郷であったのであろう。そしてその西は神門水海に臨んでいた。
- 神亀三年改字高峯…細川家本、日御﨑本、倉野本は共に「高峯」。萬葉緯本、出雲風土記抄は「高岸」としている。
「高岸」を「高岸」に変えると云うのも奇妙であるから、「改字高峯」が正しいのであろう。
一度「高峯」に変えたものの、この地区で「峯」と云うのもふさわしからぬ故、又いつしか「高岸」に戻ったものと思われる。
- 高西に現在「阿利神社」があり阿遲須枳高日子根命を祭っている。元社地は出雲市市民会館南向かいの有原中央公園の場所地理院地図に在ったと云うことから、此処に阿遲須枳高日子命を育てた「高屋」があったのであろう。
古志ノ郷即チ属本ノ侭郡家伊弉弥命之時以テ曰淵川ヲ築キ造ル池ヲ之尒時古志国等到来而為堤ヲ即チ[宀/イ丙]居之所故云古志ト也 †
古志郷。即ち郡家に属す。伊弉弥命の時、曰淵川を以て築き、この池を造る時に古志国等到り来たりて堤をつくる。即ち宿り居る所の故に古志と云う也
- 郡家…神門郡家。古志郷にあったという。近年「古志本郷遺跡」地理院地図の発掘が行われ郡家の正倉と思われる事物が発見されたことから郡家はこの附近と考えられている。
・出雲風土記抄3帖k40解説では、「古志郷ノ郡家ハ者従今ノ弘法寺六町西北ノ田疇俗呼言フ郷ト所盖シ是也」と記している。弘法寺(地理院地図)
「郷」は今の「本郷」の事であろうから、「西北」と云うのは「東南」の誤りか若しくは欠字があったかと思われる。6町=約660(m)弱
・「出雲国風土記考証」p255で後藤も考証しているが「興法寺」と記すなど少々混乱している。
・「出雲国風土記参究」p350で加藤は「今の一本松の辺にあったと思われる。恐らく洪水のため流されて他に移されたと思われる。出雲市天神町遺跡(高岸郷庁辺)はそれであろうか。」と記しているが位置的に合わない。出雲市天神遺跡(地理院地図)
- 後藤も加藤も抄に記す「郷」が「本郷」だとは思い至らず、「西北」と云う記述に惑わされ神門川北方と考え誤ったのであろう。
出雲風土記抄の記すように「弘法寺六町西北」を辿れば下手をすると神門川の中となる。
上ニ[氵昔]狭トアリ 滑狭郷郡家南西八里須佐能表命ノ御子和加須世理比穀ノ命唑マス之時所造天下大神命娶リ而通ヒ唑ス時彼社之前ニ有磐石其上甚滑之即チ詔フ滑磐石哉詔フ故云南佐ト神亀三年改ム字ヲ滑狭ト †
古写本を比較し、以下の点を改める。
・「和加須世理比穀命」を「和加須世理比賣命」に改める。
・「唑之時」を「唑之尒時」に改める。
・「磐石」を「盤石」に改める。
(上に[氵昔]狭とあり)
滑狭郷郡家の南西八里。須佐能表命の御子和加須世理比賣命唑ます時に、所造天下大神命娶りて通い唑す時、彼の社の前に盤石あり。其上甚だ滑かなり。これ即ち滑盤石哉と詔う。詔う故に南佐と云う。(神亀三年字を滑狭と改む)
- 上[氵昔]狭…k35の一行目「此下段滑狭郷在」に対応している。
- 滑盤石(ナメシイワ)…「那賣佐神社」近くの岩坪の地。(岩坪というのは滑盤石に空いた甌穴の事)
- 「磐」と「盤」…共に巨岩のことだが、「盤」は上部が平らな岩をさすから、「磐」より「盤」のほうがここでの記述にふさわしい。
「盤」としているのは「細川家本」・「日御﨑本」・「倉野本」。
「磐」としているのは「出雲風土記抄」・「萬葉緯本」・「白井本」。
- 彼社前有盤石…ここに云う「社」は和加須世理比賣命の居所の事で、その居所に行く手前に盤石があったというのであろう。
居所の眼前に盤石があったと云っているのではない。
- 南佐…そのまま読めばナンサ。「南佐」の字を充てている理由は解らない。改字したというのも奇妙。
この地は滑盤石のある、両岸が狭まっている場所なので「滑狭」と元々呼ばれていたのであろうから、「南佐」を持ち込む必要はない。
多伎ノ郷郡家南西廿里所造天下大神之御子阿陀加夜努志多伎吉比売命唑之故云多吉ト神亀三年改ム字ヲ多伎ト †
多伎の郷、郡家の南西廿里。所造天下大神之御子阿陀加夜努志多伎吉比売命唑す之故に多吉と云う。(神亀三年字を多伎と改む)
- 多伎吉…「阿陀加夜努志多伎吉比売命」についての考察は別途記すとして、「多伎吉」から、元の地名が「多吉」でそれを「多伎」に改めたというのも奇妙な話ではある。
「多吉」については、今は「多伎神社」地理院地図に合祀されている「多吉神社(祭神:大己貴神)」というのがあり、元社地は保神原(多伎神社やや北方の丘の上地理院地図)にあったという。
餘戸ノ里郡家南西卅六里説名如シ
意宇郡ノ †
・「倉野本」にはこの前に「神戸里」が挿入されており、「出雲風土記抄」3帖k42k43本文でもこの前に「神戸里」が入っている。
細川家本・日御﨑本には「神戸里」は無い。
萬葉緯本では多伎驛の後に「神戸里」がある。
冒頭、郷及び里・驛の一覧では「神戸里」がいずれの古写本にもあるから、それを理由に倉野本では加筆し、又出雲風土記抄でも踏襲したのかとも思われる。「萬葉緯本」は「出雲風土記抄」を踏襲している。
・細川家本を底本としたという加藤の校注p70及び参究p363では、何の説明もなく「神戸里」を記している。萬葉緯本に同じ。
・講談社学術文庫「出雲国風土記全訳注」p228でも加藤の文と同じであり、底本は細川家本と称しているが加藤の校注・参究を底本にしていると思われる。
餘戸の里、郡家の南西三十六里。(名を説くこと意宇郡の如し)
狭結驛郡家同所古志国佐與布ト云人來居之故云最邑ト 神亀三年ニトアリ改字ヲ狭結邊ト其所以來居者説如古志ノ郷ノ也 †
狭結の驛、郡家と同所。古志国佐與布と云う人來居之故に最邑と云う。(神亀三年字を狭結邊と改む。其所以来居する者説くこと古志の郷の如く也)
多伎ノ驛郡家西南一十九里説名改字女即也 甫曰女即トハ不審也 †
多伎の驛、郡家の西南一十九里。(名を説くに字を女即に改める也) (甫曰く女即とは不審也)
- 説名改字女即也…この部分、関祖衛も疑っているように奇妙である。
・細川家本k46「説名改字女即也」
・倉野本k47「説名改字女即也」と記した後に「則如多岐郷也」と追記している。
・日御﨑本k46「説名改字女即也」
・出雲風土記抄3帖k43本文「説名即如多伎郷」
・萬葉緯本k61「説名即如多伎郷」
・春満考k51「與即也 今按與即ハ如郷の誤なるべし」
・鶏頭院天忠本k37「説名改字如郷也」
これらからすると、この部分に判読不明文字若しくは欠字があり、出雲風土記抄では誤記として筋の通るような解釈を試み、萬葉緯本はそれを踏襲したようである。
元の文は「説名改字如郷也」で意味としては「説名改字如多伎郷也」(名を説き字を改めること多伎郷の如し也)であったかと考えられる。
春満本で「與即也」としているのは書写の際「与即也」を書き変えたのであろう。
[寺]
新造院一所朝山郷中郡家正東二里六十歩建立嚴堂也神門臣等之所造也 †
新造院一所。朝山郷中郡家の正東二里六十歩。嚴堂建立する也。神門臣等の造る所也。
- 二里六十歩…1141(m)
- 新造院…郡家から東に約1(㎞)で朝山郷と云えば馬木と云うことになるが、馬木北町の「光明寺」出雲市馬木町1123が該当するのかも知れない。「馬木不動尊光明寺」
以下に一応各説を掲載しておく。
・出雲風土記抄3帖k43解説で「神門寺」地理院地図と記している。但し、今の神門寺は置郷にあり朝山郷ではないため「不審」とも記している。
・出雲国風土記考証p261解説で「~神門寺ではあるまい。神門寺は天應山神門寺といふから、天應元年(皇紀千四百四十一年)に創立したものであらう。~その新造院の後身は朝山の大坊であるらしい。」と記し神門寺説を否定している。
神門寺が天應元年=781年建立であるなら、出雲国風土記の成立が733年であるから神門寺説は成り立たない。ちなみに空海の誕生は774年。
「朝山の大坊」というのは「金剛峰寺大坊」といい、地理院地図では表示されていないが出雲市浅山町135地理院地図にある。Google map
・「修訂出雲国風土記参究」p363 「出雲風土記抄」の神門寺を挙げ、「恐らく朝山郷の西北端今の馬木不動の台地辺りにあったのであろうが山崩れ等によって神門寺の地に移されたとも考えられる。」
- 「神門寺」という名称に拘っている為であろうか、神門寺説が今尚広まっているようだが、位置的にあり得ない。神門寺周辺でなにがしかの発掘物が出たとしても、それはここに記された新造院の物ではない。
加藤の山崩れ移転説は、光明寺が存続しているのであるから根拠がない。
新造院一所有古志ノ郷中ニ郡家東南一里刑部臣等之所造也木立厳堂 †
新造院一所。古志郷の中に有り。郡家の東南一里。刑部臣等の造る所なり。(木立厳堂)
- 新造院…不明。位置的には古志町井上のあたりになる。(発掘調査待ち)
・出雲風土記抄3帖k44解説で「今ノ弘法寺カ乎」と半信半疑のような書き方をしている。
・出雲国風土記考証p261解説で、弘法寺説を否定し「舊の神門塚の邊にあったものではあるまいか。」と推察している。
・修訂出雲国風土記参究p364参究で「方角路程から推すと、今の古志町東方井ノ上の堂本あたりにあったと思われる」と記している。
- 木立厳堂…・細川家本では「不立厳堂」、日御﨑本では「木立ツ厳堂」若しくは「本立ツ厳堂」、倉野本では「木立厳堂」、出雲風土記抄本文では「本立厳堂」、萬葉緯本では「本立厳堂」となっている。(日御﨑本は「木」か「本」か判断しがたい)
それぞれ意味が変わってくるが、白井本はそのままにしておく。
・修訂出雲国風土記参究p364では「本、厳堂を立つ。」と記し出雲風土記抄に従っている。
- 白井本・倉野本の「木立厳堂」は意味がとりにくい。細川家本の「不立厳堂」は「厳堂を立てず」と云う意味になる。
「本立厳堂」は「本厳堂を立つ」と解釈しているが、前文で「建立厳堂」と記しているので、「元は厳堂を建てていた」と云うなら「本、建立厳堂」と記しているはずであり、そうでないのであるから、元の文は「不立厳堂」が正しいのであろうと思われる。
ここは、新造院の話であって、廃寺の話ではないのだから、「元は厳堂があった」等という解釈は奇妙である。
(白井文庫k37)
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[社]
義久我社 阿濱理社 比布知社 又比布知社
多吉社 夜牟夜社 天野社 波加佐社
奈賣佐社 知乃社 浅山社 久秦為社
佐志牟社 多支枳社 阿利社 阿如社
国持社 郡賣佐社 阿利社 大山社
保乃知社 多吉社 夜牟夜社 同夜牟夜社
比奈社 已上廿五所并
在神祇官
鹽冶社 久奈子社 同久奈子社 加夜社
小田社 波加佐社 同波加佐社 多伎社
多支々社 波須波社 以上十四社並
不在神祇官 甫曰本書以上十二社有
然氏十四社有依十四社記之
二社不見
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[山]
田俣山郡家正南一十九里有[木邑]
枌長柄山郡家東南
一十九里有[木邑]
枌吉栗山郡家西南二十八里有[木邑]枌邊
所謂所造
天下大神之
宮挟造山也家東南五里五十六歩大神之
御屋
稲積山郡家東南五里七十六歩大神之
稲積
陰山郡家東南五里八十六歩大神之
御陰
稲山郡家正東五里一百一十六歩東在樹林三方並礒
也大神之稲
桙山郡家東南五里一百五十六歩南西並在樹
東北並礒也
大神之
御桙
冠山郡家東南五里二百五十六歩大神之
御冠
諸山野所在草木自般桔梗藍漆龍謄商陸續
──────────
[社]
義久我ノ社 阿濱理ノ社 比布知ノ社 又比布知ノ社 †
多吉ノ社 夜牟夜ノ社 天野ノ社 波加佐ノ社 †
奈賣佐ノ社 知乃ノ社 浅山ノ社 久秦為ノ社 †
佐志牟ノ社 多支枳ノ社 阿利ノ社 阿如ノ社 †
国持ノ社 郡賣佐ノ社 阿利ノ社 大山ノ社 †
- 郡賣佐社…「那賣佐社」の誤りであろう。細川家本で「那賣佐社」。今の「那賣佐神社」
保乃知ノ社 多吉ノ社 夜牟夜ノ社 同夜牟夜ノ社 †
比奈ノ社 已上廿五所并在神祇官 二十所トアレドモ廿五所アリ †
比奈社 (以上廿五カ所は並びに神祇官に在り)(二十所とあれども廿五所あり)
・ここに、細川家本・日御﨑本・倉野本を参考に二社を補う。
塩夜社 火守社 †
鹽冶ノ社 久奈子ノ社 同久奈子ノ社 加夜ノ社 †
小田ノ社 波加佐ノ社 同波加佐ノ社 多伎ノ社 †
多支々ノ社 波須波ノ社 以上十四社並不在神祇官 甫曰本書ニ以上十二社ト有リ然氏十四社有ルニ依テ十四社ト記之二社不見 †
多支々社 波須波社 (以上十四社並不在神祇官)(甫曰く。本書に以上十二社と有り、然し十四社有るに依りて十四社と記す。この二社不見)
- 以上十四社…ここの「四」という字は書いた後消したように見える。「二」に改めようとしたのかも知れない。
- 甫曰~二社不見…上記補記した二社が不明だったのであろう。しかし、この二社を加えても12社であり。14社と云うのは尚不可解。
[山]
田俣山ハ郡家正南一十九里有[木邑]枌 †
田俣山は郡家の正南一十九里。([木邑]枌あり)
- 田俣山…19里=10157(m)
・出雲風土記抄3帖k47解説で「此の山は乙立に在り、俗に呼びて田代山、是也」
・出雲国風土記考証p272解説で「何の山か明かでないが、方角と里程とを以つて推せば、今の二俣山と思はれる。~中略~。田俣山とは或は王院山を云つたものかも知れぬ。」
地理院地図 二俣山 王院山
校注出雲国風土記p71・修訂出雲国風土記参究p370では王院山と記し、これが通説となっているが根拠は薄い。
王院山を選んだのは標高の高さによるもので、二俣山を選んだのは音の類似からであろう。
上記二俣山にせよ王院山にせよ、出雲風土記抄に云う乙立にはない。
俗に「田代山」と呼んでいるのであるから、出雲風土記抄に従うなら田代にある山であろう。
この山には山麓南北に道があり、田俣山(田代から道が二俣に分かれた山)と呼ぶにふさわしい。
- [木邑]枌…「梔枌」としている場合が多い。「梔」はクチナシ
又、「栬枌」「柂枌」としている場合もある。「栬」はモミジ。「枌」はソギ・スギ。「柂」は梶のこと。
古写本で、細川家本・日御﨑本・倉野本は旁の上部が判読しがたいが[巴]は読めるので「梔」「栬」何れかであり「柂」ではない。
鶏頭院天忠本k38で「[木邑]枌」、上田秋成書入本書入本k41で「[木邑]枌」赤字で「柂」と加筆。
出雲風土記抄・萬葉緯本で「梔」。
・春満考k54で、「有[木邑]枔邊」と記し「今按[木邑]ハ梔の誤カ楡の誤カ 枔ハ枌の誤なるべし 邊ハ一本辺に作るなり 也の誤なるべし」とある。
・出雲風土記解-中-k62解説で「梔和名久知奈之。枌ハ夜仁礼カ。楡之皮色白名枌」とある。
・野津風土記p138で「梔。枌あり。」とし、眞龍の解説を踏襲している。
ヤニレは春楡のこと。
・出雲国風土記考証p272解説で「割注の「梔」の字は、國造本に「梔」とあるが、梔」が出雲國に野性であつたとは思はれない。「梔」の字は「栬」の誤りらしい。枌は爾雅に「楡之皮白名枌」とある。栬も、枌も、この邊の山にあらうけれども、吉栗山の説明に「有栬枌也、所謂所造天下大神宮材造山也」とあり、堀坂山には「有杉松」とあり、須我山には「有檜枌」とあり、熊野山には「有檜檀也」とある等から推せば、栬枌は或は檜杉の誤りかもしれぬ。檜原村の奥にはアスナロの木が多くあるが、アスナロは 明日檜にナラウといはれる木だから、古に於いては、檜と區別がなかつたらうと思はれる。」(「爾雅」は中国最古の辞書)
・標柱古風土記p297、後藤の解説で、「古写本には、柂枌とあり。また、柂の字を、[木邑]、栬、などと書きしものもあり。~中略~柂枌は檜杉の誤りならんと思はる。」
・校注出雲国風土記p71本文、修訂出雲国風土記参究p370本文では共に「檜・杉あり」としている。
・講談社学術文庫p236本文で、「柂・枌有り」としている。
- 後藤の「梔」→「檜」説は殆ど意味がない。それを受けたのであろう加藤・荻原の記述も同様。
以上勘案すると、「栬枌有」で「モミジ・スギ有り」であろうと思われる。
長柄山ハ郡家東南一十九里有[木邑]枌 †
長柄山は郡家東南一十九里(有[木邑]枌)
- 長柄山(ナガエヤマ)…ナガラ山と読まれていることが多いが、この読み方は野津風土記p138で「ナかラヤマ」と傍記していることに始まるようである。日御﨑本k47には「ナカエ」と傍記されている。
・出雲風土記抄3帖k47解説で「此レ亦乙立村ノ山名也」とある。
・出雲国風土記考証p273解説で「この里程によれば、今の朝山村見々具の弓掛山であらうか。」とある。弓掛山は乙立村にはない。
(後藤の推察は後にも記すが、「山」とあるのに「岩」を選ぶなど少々奇妙である。又後藤が疑問を含めて「あらうか」と記していることを加藤などは「である」というように断定してしまい、それが通説として流布されている状況には疑問を感じる事が多い。)
出雲風土記抄に云う、「此れ亦乙立村の山名也」と云うのは、方位上無理がある。乙立村のどの場所でも郡家の東南方向にはない。
後に出てくる、朝山神社のある「宇比多伎山」の位置が郡家の東南であるから、長柄山は、この方向の延長線上方面にあるはずである。郡家から宇比多伎山迄五里と記しており、長柄山へは一十九里と記しているから、この比率で延長線をとると、長柄山は神門郡を超え飯石郡に入ってしまう。即ちここに記された距離は直線距離と考えると無理がある。距離を道程距離で取っているのかとも考えられる。
思うに、距離を直線距離で示す慣例は、詳細な地図が得られてから後の近代の慣例で、古代にもその様な慣例であったかどうかについては疑問がある。してみると、今更ではあるが、風土記の文はここの場合を例に取ると「長柄山は郡家の東南方向で、歩いて十九里。」と理解すべきなのかも知れない。
長柄山は、後藤以後弓掛山とするのが通説となっているようだが、出雲風土記抄の記述に対する疑問と、山としての位置的重要性を考えると、稗原東方の「高瀬山」標高303(m)の方が相応しいと思われる。
吉栗山郡家西南二十八里有[木邑]枌邊所謂所造天下大神之宮挟造山也 †
吉栗山、郡家の西南二十八里。(栬枌辺りに有り。所謂所造天下大神の宮を挟造せし山也)
- 吉栗山…
・出雲風土記抄3帖k47解説で「此山ハ者伊秩郷一窪田村ノ中久利原山是也」とある。
出雲市佐田町一窪田栗原にあり吉栗山城跡として知られる。
- 大神之宮挟造山…出雲大社建造の際、ここから切り出した木材を用いたという。神門川の流れを利用して杵築迄運んだらしい。
「挟造(キョウゾウ)」の「挟」は(語調を整える為)と(造るのを助ける)という意味がある。
「大神之宮材造山」と変えたのは例によって内山眞龍で、古写本はいずれも「大神之宮挟造山」である。
・出雲風土記解-中-k60本文「所謂所造天下大神ノ宮材造山也」
「宮材造山」=「宮材を造りし山」とは、如何なる事か。製材をした或いは木を育てたとでも云うのであろうか。こういう改変を真に受ける感覚が理解しがたい。「宮材造山」としている解説書は底本が「出雲風土記解」若しくは眞龍説を受けた「訂正出雲風土記」であると正直に記すべきであって「細川家本」と記すべきではない。
- 出雲大社の心の御柱は杉で、伊勢神宮の心の御柱は檜という違いは何故なのか、少々気に掛かる。
日本書紀一書によれば、素盞嗚尊は杉を船材として、檜を宮材として使うことを奨めていたが、出雲大社で杉材使うと云うことは、宮を船と考えていたということなのではあるまいか。大社造りでは殿舎を宙に浮かす造りになっている事とも無関係ではないように思われる。
家東南五里五十六歩大神之御屋 †
この部分欠字がある。
・細川家本k47で「家東南五里五十六歩(大神之郷屋)」
・日御﨑本k47で「家東南五里五十六歩(大神也郷屋)」
・倉野本k48では「○家東南五里五十六歩(大神娘郷屋也)」とあり、○部分の左側に「宇比多伎山郡」と傍記。
・鶏頭院天忠本k38で「此所三字虫喰不見 郡家東南イ五里五十六歩 大神之郷屋」(イ=異)
・春満考k54で、「家東南 一本家の上尒郡の字有を是と春」「大神御屋 一本神の下尒之乃字有を是と春」(春=す)
・出雲風土記抄3帖k47本文「宇比多伎山郡家東南五里五十六歩(大神之郷屋也)」
・出雲風土記解-中-k60本文「○○○○○郡家東南五里五十六歩(大神之御屋也)」
- これらからすると、虫食いにより判読出来なくなり、倉野本傍記を参考に出雲風土記抄で「宇比多伎山」としたものが通説となっている。鶏頭院天忠本で「三字虫喰」とあり「宇比多伎山」では五字となってしまう。虫食いについて触れているのは鶏頭院天忠本だけであるからこの「三字」という記述は重い。
又「大神之郷屋」か「大神之御屋」のどちらが正しいのかは尚疑問が残る。
「朝山神社」のある「宇比多伎山」は大神が朝通ったと云う記述を考えるなら、ここに御屋があると云うのは奇妙である。御屋があるなら通う必要はない。
「宇比多伎山」が間違いであるなら、以後の里程参考による後藤や加藤の考察は全て根拠を失う。
では、この部分はどうであったのかについては、今暫く置く。
以下に検討用に各里程を天平尺からの換算値で記しておくが、無論この数値が正しく充て填るものではない。あくまで位置関係の把握の為である。(保留)
稲積山郡家東南五里七十六歩大神之稲積 †
稲積山、郡家の東南五里七十六歩 (大神の稲積)
- 五里七十六歩…2808(m)
- 稲積…刈り取った稲束を、穂先を内側にして順に積み上げたもの。
今では殆ど目にすることが無くなったが、多摩てばこネットというblogに掲載されている。
陰山郡家東南五里八十六歩大神之御陰 †
陰山、郡家の東南五里八十六歩(大神の御陰)
- 五里八十六歩…2826(m)
- 御陰…日を除ける陰となる場所。昼の御殿をいう。
- 出雲国風土記考証p274で後藤はこれを華縵(正しくは華蘰即ちヒカゲノカズラ)のことで髪飾りだと記しているが、ヒカゲノカズラは草冠のついた「蔭」を用いるのが正しい。
俗に「山神の褌」とも云い、天照大神の岩戸隠れの際、天鈿女命はこのヒカゲノカズラで陰部を隠して踊ったと伝わる。
その所以で巫女が舞う際に陰部というわけにはいかないから髪に挿して踊ったりする慣習が残った。
形が松の新芽に似ることから石松とも記し、地を這って繁茂していくことから長寿や子孫繁栄の象徴ともされてきた。
又乾燥させて生薬とし筋肉痛などにも用いる。
加藤も後藤の説をそのまま受け髪飾りだと記している。荻原も同様。
「大神の御陰」=「大神の髪飾り」とでも云うのであろうか。山を髪飾りになど出来るはずがない。或いは髪飾りに似た山と云うのであろうか。後藤が理由も記さず挙げている「堂原山の北側に岩屋観音のあつた所」はヒカゲノカズラと似ても似つかぬ。
ついでに記せば、ヒカゲノカズラは字に似合わず、陽当たりの良いところで育つ植物である。
他に陰をホトと読んでいる例(訂正出雲風土記)もある。ホトは女陰則ち女性性器のこと。大神は男神であるから陰部則ち肛門だとでも云うのか。愚劣。
稲山郡家正東五里一百一十六歩東在樹林三方並礒也大神之稲 †
稲山、郡家の正東五里一百一十六歩(東に樹林あり。三方並に礒也。大神の稲)
- 五里一百一十六歩…2880(m)
- 礒…岩石の突き出た様な場所を指す。
- 稲山…位置的には馬木北町の辺りになる。地理院地図 神門川南岸から見ると、横に長く伸び稲束を寝かしたような山容である。
・出雲国風土記考証p257解説で「上朝山に於いて今の船山である。~」と記しているが、船山地理院地図では郡家の正東にならない。
・校注出雲国風土記p72脚注で「同地(出雲市上朝山)の稲塚山」としている。修訂出雲国風土記参究p372参究で、上記後藤の船山説に対し「それでは近すぎることになる。~」としているが、稲塚山も郡家の正東にならない。
- 後藤も加藤も「郡家正東」という記述を無視している。
・出雲風土記抄3帖k48の解説で「鈔云此五山ハ者皆ナ在ル宇比滝ノ左右前後ニ山名也」と云う記述に拘った為であろう。にもかかわらず、後藤の説も加藤の説も、宇比滝(雲井滝)の左右前後ではなく、東方ばかりに偏っている。更に出雲風土記抄を受け、加藤は「朝山六神山」等という説を繰り広げていたようだが、その様な記述は「出雲国風土記」のどこにもない。
桙山郡家東南五里一百五十六歩南西並在樹東北並礒也大神之御桙 †
桙山、郡家の東南五里一百五十六歩(南西並に樹あり。東北並に礒也。大神の御桙)
- 五里一百五十六歩…2951(m)
- 南西並在樹…
・細川家本k47で「南西並在樹林」
- 鉾山…「富能加神社」の元社地を星神山(鉾山)という。今は南山麓に「山ノ神」と云う石碑がある。地理院地図
(古志本郷から直線距離で約4km。ちなみに朝山神社は古志本郷から直線距離で約3.5km)
冠山郡家東南五里二百五十六歩大神之御冠 †
冠山、郡家の東南五里二百五十六歩(大神の御冠)
- 五里二百五十六歩…3129(m)
- 冠山…須原から見た「要害山」地理院地図の山容が冠山と呼ぶにふさわしい様に思われる。(古志本郷から直線距離で約5km。)
参考までに、広島県佐伯郡吉和村の「安芸冠山」
・「冠山」をいかにもそれらしく(こうぶりやま)等と読んでいる例があるが、律令の時代ならともかく、大己貴神の時代にそのように呼んでいたかどうかは定かではない。それゆえ冠山は(かんむりやま)と読んでおけばよい。
- さて、朝山地区で注目すべき山と云えば、「姉山」と「大袋山」であるが、どの解釈書にも出てこないのがむしろ奇妙である。
「姉山」は天照大神がこの地に来たときこの山に留まり、素盞嗚尊が姉を訪ねた事に由来する山名。雲陽誌巻十-k152p291
中世には姉山城が築かれていた事で知られる。
「大袋山」は大己貴神が背負っていたという袋に似ていることで名づけられた山名である。
大袋山は風土記の時代には土椋烽が設けられていたと考えられている。
上述、3文字の虫食いで不明となった山として、位置的にふさわしいのは「姉山」であろうと考えられる。3文字については「姉神山」が元の山名であったのであろう。
「稲積山」にふさわしいのは位置と形状から「JAいずも朝山」東方後背の山であろう。
又、「陰山」というのは、姉山と宇比多伎山の間にある小山と考えられる。
諸山野所在ノ草木自般桔梗藍漆龍謄商陸續斷獨活自芷秦淑サシショウ百部根ヘクソカヅラ百合ユリ巻栢石斛升麻當皈石葺麥門冬杜仲細辛茯苓葛根薇蕨藤李杏カ蜀淑サシシヤウ檜杉榧赤桐白桐椿槻柘○榴カ楡蘗楮アリ †
諸山野所在の草木、自般本ノ侭 桔梗 藍 漆 龍謄 商陸 續斷 獨活 自芷 秦淑 百部根 百合 巻栢 石斛 升麻 當皈 石葺 麥門冬 杜仲 細辛 茯苓 葛根 薇 蕨 藤 李杏か 蜀淑 檜 杉 榧 赤桐 白桐 椿 槻 柘○榴か 楡 蘗 楮あり。
- 自般…細川家本k47・日御﨑本k47・倉野本k48は同じく「自般」、出雲風土記抄3帖k48では「白般」、萬葉緯本k63で「白薟」
「般」には(巻き付く)の意味があるので「蔓(ツル・カズラ)」のことかと思われる。籠作りやロープ代わりなど山暮らしには欠かせない。
出雲風土記抄の「白般」はシロカズラ(白葛)のことであろう。
萬葉緯本の「白薟(ハクレン)」はヤマカガミのこと。
出雲風土記解-中-k62で「白歛」注記で「一本薟。又般。歛ハ卄冠畧」
眞龍の解釈改変を真に受けたのか、訂正出雲風土記では「白歛」、岩波文庫で「白斂」、校注出雲国風土記p72で「白斂」、学術文庫で「白歛」としている。
眞龍は注記で「歛ハ卄冠畧」と記しているから「蘝」の略字として「歛」と表しているのであるが、訂正出雲風土記・岩波文庫・校注出雲国風土記・学術文庫などにその様な説明はない。
ヤマカガミは萬葉緯本の「白薟」及び「白蘝」が正しく「白歛」「白斂」は正しくない。
ついでに、学術文庫では解説で「ガガイモ」としている。
- 龍謄…竜胆(リンドウ)。根を煎じて、利尿薬として用いる。
- 續斷…続断(ゾクダン)。鍋菜(ナベナ)の事。根を煎じて骨折・肉離れの治療や強壮薬として用いる。
- 自芷…白芷(ビャクシ・ヨロイグサ)であろう。根を鎮痛・鎮静剤として用いる。
- 秦淑…シンショウ。山椒の漢方での呼び名。鎮痛・健胃剤などとして用いる。歯痛・口内炎等。
- 巻栢…イワクミ。岩檜葉(イワヒバ)の古名。巻柏と記したり、岩松と呼ばれたりする。乾燥すると葉が縮れて巻き、水分を得ると再び開く事から復活草・不老不死草等とも呼ばれた。去痰・打撲症に用いる。又炒って止血剤等に使う。
- 升麻…晒菜升麻(サラシナショウマ)のこと。葉を水に晒して食用とし、根は漢方で升麻と呼び、解熱・解毒に用いる。
- 當皈…トウキ(当帰)。「皈」は「帰」の異体字。花が咲く前の根を湯通しし乾燥させて用いる。血行促進・鎮痛・鎮静・強壮
- 石葺…石葦(セキイ・イシカシワ)の誤りであろう。乾燥葉を煎じて用いる。利尿・咳止。
- 李…傍記で「杏カ」とあるが、細川家本・日御﨑本・倉野本・出雲風土記抄・萬葉緯本いずれも「李」。「李」はスモモのこと。
尚、萬葉緯本では「藤李」としている。
- 蜀椒…山椒であるが特に花椒・朝倉山椒をさしているのであろう。腹痛・下痢などに用いる。
(白井文庫k38)
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斷獨活自芷秦淑百部根百合巻栢石斛升麻當皈
石葺麥門冬杜仲細辛茯苓葛根薇蕨藤李蜀淑
檜杉榧赤桐白桐椿槻柘楡蘗楮禽獣則有鵰
鷹晨風鳩山鶏鶉[ム/月|鳥]猪狼鹿兎狐猕猴飛鼯也
[川]
神門川源出飯石郡琴引山北流即經來嶋。波多。須
佐三所出神門郡餘戸里間土村即神戸朝山
古志等郷西流入水海也則有羊魚鮏麻須、
伊具比多岐小川源出郡家西南卅三里多岐山
流入大海有甲魚
[池]
宇加池三里六十歩來食池周一百卅歩有
菜
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笠柄池周一里六十歩有
歩
刾屋池周一里
[水海]
水海神門水海郡家正西四里五十歩周三十五里
七十四歩裡則有鯔魚鎭仁須受枳鮒玄砺也即
水海賭與大海之間在山長廿二里二百三十四歩廣三
里此者意美定努命之国引唑時之綱矣今俗人
号云薗松山地之形骵壤石並無也白沙耳積上
即松林茂繁四風吹時沙飛流掩埋松林令年
埋半遺恐遂彼埋巳與起松山南端美久我林
盡石見與出雲二国堺中嶋﨑之間或手須或
──────────
禽獣則有鵰鷹晨風鳩山鶏鶉[ム/月|鳥]猪狼鹿兎狐猕猴飛鼯也 †
禽獣、則ち、鵰 鷹 晨風 鳩 山鶏 鶉 [ム/月|鳥] 猪 狼 鹿 兎 狐 猕猴 飛鼯ある也
- [ム/月|鳥]…ホトトギス
古写本は全て[ム/月|鳥](ホトトギス)である。細川家本・日御﨑本・倉野本・出雲風土記抄・萬葉緯本。
出雲風土記解k63で[上/月|鳥]、補記で「和名之女。諸本鴿」と記している。「鴿」はハトであるが、諸本にその様な記載はない。ハトは「鳩」として別記されている。
訂正出雲風土記で「鴲」(シメ)とし、出雲国風土記考証・岩波文庫も「鴲」としている。
校注出雲国風土記・修訂出雲国風土記参究では「熊」とし、学術文庫も「熊」としている。
いくら何でも「熊」は無い。古写本いずれも烈火[灬]は無い。
[川]
神門川源ハ出テ飯石郡琴引山ヨリ北ヘ流レ即チ經テ來嶋。波多。須佐ノ三所ヲ出テ神門郡餘戸ノ里ノ間土村ニ即チ神戸朝山古志等ノ郷ヨリ西ヘ流レ入ル水海ニ也則チ有リ羊魚鮏麻須、伊具比 †
[川]
神門川、源は飯石郡琴引山より出て北へ流れ、即ち來嶋・波多・須佐の三所を経て神門郡餘戸の里の間土村に出て、即ち神戸朝山古志等の郷より西へ流れ、水海に入る也。
則ち羊魚、鮏、麻須、伊具比有り。
- 神門川…今は「神戸川」と記すようになっている。出雲風土記解も含め諸本皆「神門川」であり、訂正出雲風土記で「神戸川」と記しているから、これが広まって「神戸川」と記すようになったのかも知れない。(改字の理由は記されていない)もしそうであれば罪な誤り若しくは作為である。「門」と「戸」では全く意味が異なってくる。「神門」なら、川の両岸に門のような岩又は山があった事によると想像できるが「神戸」では神の戸のある里の傍を流れる川という意味ででもあろうか。訝しい。
ここは、本来の「神門川」に戻すことを希求したい。
- 餘戸里…神門郡の「餘戸里」と「神戸里」については諸本に異同があり、混乱が見られる。
細川家本・日御﨑本・萬葉緯本は白井本と同じく餘戸里の後、最後に神戸里が共に名のみ記されている。
倉野本では神戸里が餘戸里の前に書き加えられ、郡家からの各距離も記されている。
出雲風土記抄ではこれを受けたのか、倉野本と同様に神戸里の後に餘戸里が郡家からの距離と共に記されている。
訂正出雲風土記では餘戸里の後、最後に神戸里が記され、郡家からの距離も共に記されている。
川の流れから考えて、須佐の下流に餘戸里があったのであり、出雲風土記抄で餘戸里の解説として記す橋波村~高津屋~一窪田~山口というのは、神戸里のことであり、ここに云う餘戸里ではない。
「神戸」の「神」というのは、この流域での重要性から考えて「須佐神社」の事であり、「神戸里」というのは須佐神社の社領地をさしているのであろう。
又、「神門」というのは神の里である須佐郷(佐田郷)に向かう「門」であり、それは今の立久恵峡辺りの地形をさしているのだと考えられる。「立久恵」は「立杭」であり、神門(シンモン)を表している。
そう考えると、「神門負之故云神門」という神門郡の由来も、「神門を負う」則ち「神門(立杭)を背後にする」という意味であると理解できる。
- 間土村…これはカンド村と読める。訂正出雲風土記で「大門立村」と書き変えられて以後、乙立の事とされるが、むしろ立久恵峡を中心として所原まで含んだ流域のことだと思われる。所原に「富能加神社」があるが、この社地は左右後方3方に秀麗な三角錐状の山を持ち富能加神社が移転してくる前から「神所(カンドコロ)」と呼ばれていた。
ついでに、「乙立」の「乙」はいわゆるジグザグ状のことであり、この地でS字状に川が流れている事を指している。この地からS字状の流れが始まることを「乙立」と呼んでいるのであり、「大門立」などというのは無理な創作付会であって根拠はない。
- 神戸朝山古志…ここに記された「神戸」は上述の所原(神所)の事だと思われる。「神戸里」ではない。
- 須佐神社社家須佐氏は足名椎・手名椎を祖とし、代々須佐国造出雲太郎・出雲次郎を名乗ってきたが、1430年頃雲太郎・雲次郎と改め、明治以降は須佐氏を姓としている。天穂日を祖とする出雲国造千家氏・北島氏より遙か古から出雲の地に暮らしていた。
出雲国造からすれば目の上の瘤のような存在であるとも云える。それ故千家俊信の記した訂正出雲風土記で神門郡について古写本からの書き変えが色々あるのは、須佐国造家を消さんが為の作為があったのではないかと窺える。
又、出雲国風土記に素盞嗚尊の八俣大蛇退治の記述が全くないのも無関係では無かろう。
- 羊魚…細川家本・日御﨑本で「羊魚」。倉野本で「羊魚」に(年魚)の傍記。出雲風土記抄・萬葉緯本で「年魚」
- 「年」を「羊」に誤るというのは、度重なる書写過程で、草体でもかなりの略字でなければ起こりそうにないが、「羊魚」が不明なので通説「年魚」そのままにしておく。もしかすると「鰻」の事かも知れない。羊の毛は曲がりくねった毛であり、「羊」に(曲がりくねる)という意味が込められる場合がある。盥に鰻を何匹も入れた様子を「羊」で表したのかとも思われる。
多岐小川源出郡家西南卅三里多岐山流入大海有甲魚 †
多岐の小川、源は郡家西南卅三里多岐山に出て、大海に流れ入る。(有甲魚)
- 多岐小川…出雲風土記抄3帖k49で「田俴川」(田儀川)としており、通説となっている。次の多岐山が不明なので断言しがたいがむしろ今の小田川ではないかとも思える。(保留)
- 多岐山…不明。出雲風土記抄では「田俴ノ深山也」と解説しているが深山も不明。
- 大海…日本海
- 甲魚…スッポンの事。最近は養殖が多く天然のスッポンを見ることは少なくなったが、流れが緩やかで岸辺に水草など多い川や湖沼に生息している。息継ぎで鼻だけ水面に出していることで生息していることが解る。河川の護岸工事が進み冬眠場所に困って生息数が減っているのではないかと思う。
・細川家本・日御﨑本は白川本と同じ。
・倉野本3帖h40では「多岐山」に(多岐々山)と傍記し「流入」に(西ー)を傍記している。「甲魚」には(年魚)を傍記。
・出雲風土記抄3帖k40では本文で「多岐〃山北西流入大海(有年魚)」と倉野本の傍記を引いている。
・萬葉緯本は「多岐岐」としている他は出雲風土記抄に同じ。
- 思うに、倉野本の傍記は注釈の書き入れであり、細川家本等より古いとは云えない様に思われる。
「多岐」を「多岐岐」としているのは「多岐岐比売」に因むと考えたからなのであろう。
「甲魚」に(年魚)を傍記するのは疑問。書写人はよほど鮎好きなのかとさえ思う。
[池] †
宇加池三里六十歩來食池周一百卅歩有菜 †
・「周」を補う
宇加池、周り三里六十歩。來食池、周り一百三十歩(菜あり)。
- 來食池…
・出雲風土記抄3帖k50解説で「未知其處」
・出雲国風土記考証p276で「來食池」の解説として「スクモ塚の比布智社より東南一町半ばかりの處にある。今は全く田となり、字を池ノ内といふ。コグラウガ池といふ名から、轉じてコグラガ池の名も残つて居る。十間川を開鑿して後は、この池の水の必要もなくなつたから田にしてしまつた。」と記している。
この説によれば、この辺りになる。地理院地図
・修訂出雲国風土記参究p378は考証を引いている。
- 菜…水辺の食用葉物植物を指しているのであろう。例えば水菜・芹・蓴菜(ジュンサイ) 等々考えられ、それらを総称したのであろう。
笠柄ノ池周リ一里六十歩有歩本ノ侭 †
・「有歩」は「有菜」に改める。(細川家本・日御﨑本参照)
笠柄の池、周り一里六十歩。(菜あり)
- 笠柄池…「浅柄」という地名が残っているのでその辺りにあったのであろう。地理院地図
・出雲風土記抄3帖k50解説で(古志の郷知井宮、俗に阿佐加羅池と言う。盖し是れか)とある。
・出雲国風土記考証p279解説で「保知石の谷の西に隣る谷にあつたが、今は田となって居る。其處を淺柄ノ池といふ。」とある。
刾本ノ侭屋ノ池周リ一里 †
刾屋の池、周り一里
- 刾屋池…不明。「刾」は「刺」の異体字。
・出雲風土記抄3帖k50解説では「今塩冶郷只谷防堤也」とあるが記述順としておかしい。
・出雲風土記解-中-k64本文で「剡屋池~」と記し、古写本は皆誤りだと解説して改変しており、訂正出雲風土記もこれを踏襲している。
・出雲国風土記考証p280解説では「知井宮村の間谷の池か、大池の池か、何れとも定め難い。訂正風土記に、剡屋としてヤムヤと讀んで居るが、これは勝手な想像であって、又本書記載の順序とも一致せぬ。」とある。
・修訂出雲国風土記参究p379の解説で朝鮮語の発音を挙げて[剡]と[塩]の読みを比べているが朝鮮語の発音をここに持ち込まなければならない理由はない。
- 刺屋というのは刺草即ち蕁麻(イラクサ)を保存し加工する建家の事であろうかと思われる。であればイラクサの生える池というのが刺屋池の由来なのであろうと考えられる。これを元に池を探れば特定できるのかも知れない。
イラクサには色々種類があるが、いずれも繊維質が丈夫なため古来衣服や綱などの材料として用いられた。
[水海]
水海神門水海郡家正西四里五十歩周リ三十五里七十四歩裡程カ †
水海。神門水海、郡家の正に西、四里五十歩。周り三十五里七十四歩裡
- [裡]…細川家本・日御﨑本・倉野本・萬葉緯本いずれも[裏]。[裡]と[裏]は同じ意味である。ここでは「内」(以内)の意味であろう。
傍記で[程カ]とあるが、「程」では「前後」の意味で距離が長い場合も含むが、ここは「以内」と距離が短い場合だけである。
水海の周を測るのに、水際を測るというわけにもいかないであろうから、このように裡(裏)を補ったのだと思われる。
・春満考k56で、「七十四歩裡則 今按里ハ魚の誤カ」と記しているが、ここ迄にその様な用例はない。
・出雲風土記解-中-k64では、本文で[裡]を次の文の冒頭文字と考え「裡水海之中則有~」と記している。「裡」を次の文の冒頭文字と解したのは眞龍に始まるようである。ここ迄の出雲国風土記の文章にその様な用例はないので疑問。次の文の冒頭文字であれば関祖衛は[程カ]という補記を記さなかったであろう。
訂正出雲風土記は毎度ながら出雲風土記解を踏襲している。
・出雲国風土記考証p280でも底本を訂正出雲風土記としている為か「裡則有~」と次の文の冒頭文字と解している。
・修訂出雲国風土記参究p379でも考証と同様に次の文の冒頭文字としている。参究では[裡]ではなく[裏]。
則有チ鯔魚ナヨシ鎭仁須受枳鮒玄砺本ノ侭也 †
則ち、鯔魚、鎭仁、須受枳、鮒、玄砺ある也
- 玄砺(ゲンレイ)…文字通りであれば、赤みを帯びた黒色の砥石のことだが、魚を並べて記している後にこれがあるのは少々異質感がある。
・細川家本・日御﨑本・出雲風土記抄・萬葉緯本・鶏頭院天忠本は「玄砺」
・倉野本は「玄礪」[礪]は[砺]の異体字
・春満考k56で、「玄蛎 今按玄ハ石の誤カ 石蛎ハ和名カキ」とある。「玄蛎(ゲンレイ)」としているが古写本はいずれも[玄砺]であり、虫偏の[蛎]ではない。
・出雲風土記解-中-k64本文で「玄蛎」
・訂正出雲風土記で「玄蠣」[蠣]は[蛎]の異体字。
通説では「玄蛎」=「牡蛎(カキ)」としているが、上記の通り、古写本はいずれも「玄砺」であって「玄蛎」ではない。
春満の誤読若しくは春満参照本の誤写から通説の「牡蛎」説が始まったようだが、多少の異質感はあっても安易に変えるべきではない。「絶対に牡蛎でなければならない」という理由はない。
[砺]と[蛎]は全く別物である。
即チ水海賭與大海之間ニ在リ山
長サ廿二里二百三十四歩廣サ三里
此者意美定努命之国引キ唑マス時之綱総トアリ矣
今ノ俗人号テ云フ薗松山ト
地之形骵壤石並ビ無キ也
白沙耳積リ上ニ即チ松林茂リ繁シ四風吹ク時沙飛流レ掩ヒ埋ム松林ヲ令年埋半遺恐遂彼埋巳與 †
(白井文庫k39)
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淩礒凢小海所在雜物如楯縫郡説但旡紫菜
通道出雲郡堺出雲川邊七里卅五歩通飯石郡
堺堀坂山一十九里通同郡堺與曽紀村二十五里
一百七十四歩通石見国安農郡堺多伎々山三十
三里路賞
有別通同安農郡川相郷卅六里住常引
不有但當有故時權置耳
前件伍郡並大海之南也
郡司主張旡位刑部臣
大領外従七位上勲業神門臣
擬小領外大初位下勲業刑部臣
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主政外従八位下勲業吉備部臣
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「出雲国風土記考証」天平時代神門郡之図
『出雲国風土記』飯石郡