神社a
◎「富能加神社」
島根県出雲市所原町3549地理院地図
主祭神:本牟智和気尊・肥長毘賣尊
小野神社祭神:伊耶那岐命・伊耶那美命
「出雲国風土記」神門郷に記載の「保乃加社」祭神は肥長比売命。
元社地は星神山(鉾山)山中にあり、星神大明神と称し山麓に拝殿を設けていた。地理院地図
明治期の神社改めで、現社地にあった小野神社と合社。
由緒書には、小野神社祭神名には「伊邪那岐命・伊邪那美命」と記されているが、「邪」は不適切故上記「耶」に改める。
(富能加神社 由緒書)
(富能加神社 参道口)
(富能加神社 拝殿)
(富能加神社 本殿)
(富能加神社 境内社)
左から「小町霊社」「社日五柱大神」「金比羅社」「身曽伎社」「稲荷社」
(富能加神社 元社地星神山山麓)
(富能加神社 元社地星神山山麓 山ノ神)
- 本牟智和気尊は、垂仁天皇の御子で古事記垂仁記に「本牟智和気王」として記載がある。
出雲大神の祟りで成人するまで話すことが出来ず、出雲大社参拝後話せるようになり、肥ノ川(斐伊川)の中流「檳榔長穂宮」で肥長比売命と一夜の契りを結んだが比売は蛇体で本牟智和気王は倭に逃げ帰ったという。その際比売は海原を光って追って行ったという。
これからすると、肥長比売というのは龍陀神で(ホノカ)は海原に輝く「仄か」であり保乃加比売と呼ばれたのであろう。
この附近には流星伝説が残るが、流星の輝きを夜の海原に光る龍陀神の輝きと見て星神山に祀られていたのでもあろう。
肥長比売に転じたのは、本牟智和気王の后として、肥えて身長な優れた龍陀神であったということでもあろう。
又、「肥ノ川」と記していることから「肥長比売」というのは斐伊川の象徴神として記したのかもしれない。
- 余談だが、現社地が「檳榔長穂宮」だと云う説があるが、肥ノ川中流ではないし、合社して今の地にあるのであり得ない。
檳榔(ビンロウ)というのは椰子のことだが、出雲に椰子は育たないので棕櫚のことであろう。
「アジマキ長穂」と記している事からすると、棕櫚編みのゴザを敷いていた館だったのかと思われる。
棕櫚は斐伊川流域で漁労や堤防作りなどに古くから用いてきている。
ついでに記すと、棕櫚は各家に1本は植えるというのが古くからの伝統だが、それは災害の際、浄水を得るために棕櫚皮を用いるためであった。
砂と棕櫚皮と炭を用いれば、泥水をある程度の清水にすることが出来る。
最近はあまり見なくなったが棕櫚は箒や束子にも用いた。
いずれも水に強く腐りにくいという性質を用いたものである。
- 肥長比売命については市森神社でも祀られており、かつて比売を祀っていた星宮神社(保乃加社)の元社地は山寄と鐘築の境辺りと記しているが訝しい。