文献
『長寛勘文』
平安後期長寛年間(1163~1165)に編纂された勘文
勘文というのは、朝廷に提出された調査報告書。
甲斐国八代荘で、熊野本宮大社と甲斐守藤原忠重の間に荘園をめぐる対立が起き、熊野側が朝廷に提訴。
朝廷はこの争議に対し、中原業倫に調査を命じた。
この際提出された文書を纏めたものを長寛勘文という。
この中に、熊野信仰の最も古い資料とされる「熊野権現御岳(垂)跡縁起」(熊野権現垂迹縁起)が残されている。
・高知県立図書館蔵「長寛勘文 書写本」
・富山市立図書館蔵「長寛勘文 書写本」
・内閣文庫 群書類従巻第四百六十三 雑部十八 「長寛勘文」
ここでは内閣文庫「長寛勘文」を扱う。
(長寛勘文k14) †
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熊野権現御岳跡縁起云往昔甲寅年唐乃天台山
乃王子信舊跡也日本國鎮西日子乃山峯雨降給
其躰八角奈
留水精乃石高佐三尺六寸奈留
仁天天下給
布次五ヶ年乎經天戌午年伊豫國乃石鉄乃峯仁
渡給次六年乎經弖甲子年淡路國乃遊鶴羽乃峯
仁渡給次六箇年過庚午年三月廾三日紀伊國無
漏郡切部山乃西乃海乃北乃岸乃玉那木乃淵農
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上乃松木本渡給次五十七年乎過庚午年三月廾
三日熊野新宮乃東農阿須加乃社乃北石淵乃谷仁勧
請静奉津留始結玉家津美御子登申二宇社也次
十三年乎過弖壬午年本宮大湯原一位木三本乃
末三枚月形仁天天降給八箇年於經庚寅農年石
多河乃南河内乃住人熊野部亍與[宀/之]土云大飼猪
長一丈五尺奈留射跡追尋弖石多河於上行犬猪
乃跡於聞弖行仁大湯原行弖件猪乃一位農木乃
本仁死伏世
利宍於取弖食件木下仁一宿於經弖木
- 熊野権現御岳跡…
・高知県立図書館蔵本では「熊野ノ権現御垂跡ノ」
・富山市立図書館蔵本では「熊野権現御垂跡」
- 甲寅年唐乃天台山乃王子信舊跡也…
・「彦山流記」に「甲寅歳震旦国天台山王子晋旧跡東漸~」
「震旦国」は(秦国)を古代インドで(チーナスターナ=支那の土地)と呼んだことに由来する。中国の事。
「天台山」は上海南方にある、宗教的霊山。
「王子信(王子晋)」に関しては不明。「王子の信」と解されている例が多いが天台山に王も王子も無いので「王姓の子信」かと思われる。
唐時代(618~907)の甲寅年は654・714・774・834・894年が該当する。
「彦山流記」は修験道の三大霊地の一つ現「英彦山」の縁起を記したもので、熊野權現垂迹縁起との関連が注目される。
つまるところ熊野信仰というのは修験者によって生みだされたものであるといえる。
(長寛勘文k15) †
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農末月乎見付弖問申具何月虚空於離弖木乃末
仁
波御坐止申仁月犬飼仁[答]仰云我乎波熊野三所
權現止所申一社乎證誠大菩薩土申今二枚月乎
者兩所權現土奈
牟申仰給布云ゝ
今案如縁起者唐天台山乃王子信之垂跡云〃
王子信不知誰人若周霊王太子晋欤
但此記未審難誰イ所信矣
右勘申如件
長寛元年四月十六日
正四位下行式部大輔藤原朝臣永範
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- [答]…上記中[答]の部分は活字表現できない文字である為、高知県立図書館蔵本から類推。
- 史的根拠のある話ではない。
八角の水晶石が、九州の日子山(彦山・英彦山)から転々と移動し、大湯原一位の木に天降ったという。
ここに、八咫烏の話は全くない。又那智の滝の話もない。