○「須我神社」 主祭神:須佐之男命・稲田比売命・清之湯山主三名狭漏彦八島野命 延喜式(927年)に記載のない神社である。
元は信濃から「諏訪神社」を勧請して創建された神社である。 ・雲陽誌109コマp205の諏訪で「須我社 【風土記】に載る社なり、素盞嗚尊稲田姫をまつる、 八頭坂には「元八重垣神社」の石碑が残り、「八重垣神社」は現在「伊賀武神社」境内に社が移設されている。 佐草の自称「八重垣神社」は、別記しておいたが、佐草氏が移動し、空き地となった場所に、須我からやってきたものが勝手に八重垣神社を作り、佐久佐神社を収奪し、明治に入って佐久佐神社を称して社格を得た後「八重垣神社」に改称したものである。 須我神社・八重垣神社の神官は同系譜であり、妄想に長けていたようであり、古事記の記述を勝手に解釈し社伝の捏造を続けてきたものである。 そもそも、『出雲国風土記』における神社記載は、基本的に重要な神社順となっているが、大原郡において掲載された29社の中で須我社は26番目である。 『出雲国風土記』飯石郡熊谷郷では、熊谷の地名縁起として、「久志伊奈大美等與麻奴良比売命(奇稻田姫命)」が出産する事を記している。熊谷で生まれたのが「清之湯山主三名狭漏彦八島篠命」である。これも今の「須我神社」や佐久佐の「八重垣神社」が称する話と矛盾する。 「須我社」というのは、元来は「清之湯山主三名狭漏彦八島野命」の縁起地としてこの神を祀ったものであろう。 今「須我神社奥宮(夫婦岩)」と称する岩場があり、元社と称し、須佐之男命・櫛稲田比売命・八島野命を祀っているが、これも疑わしい。 尚、須義禰をスガネと読み、元は須義禰命を祀ったものであるというような説があるようだが、須我に関連付けるためにスガネと読もうとしたものである。須義禰は須美禰の誤記・誤読であって、あり得ないことである。 須我山を八雲山とし、更に御室山と記しているものがあるが、『出雲国風土記』大原郡では、須我山と御室山は別記されており、これもあり得ないことである。 和歌発祥云々については「斐伊神社」八本杉に記した。 |