文献

『島根県口碑伝説集』

昭和2年 島根県教育委員会編・刊

・国立国会図書館デジタルコレクション/『島根県口碑伝説集』


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 耕作すると祟る
仁多郡三澤村大字三澤字三津田(光田ともいふ)の内に、神田と云ふ所がある。古來汚穢の肥料を施さず、
又婦人の近づくを禁じて居る。此田を作るものは、家運が衰退すると云って、耕作するものが無く、現今
は荒蕪地となつた。明治十二三年の頃、信濃の人富岡和麿と云ふ人が、古跡探索の爲、仁多郡へ來て、
三津田の神田岩下より清水の湧出するを見て、神代の遺跡ならんと云つたので、村人が大に騒ぎ出し、幟
や旗を立てゝ毎日數百人の参集者があつた。余りの騒ぎに警官某が出張して、池を埋め旗幟を焼拂つた。
然るに其日は晴天であつたが、俄に大風が起つて大雹雨が降り出し、警官は間も無く阿井村で発病して死
んだと云ふ事である。 (三澤村小學校長角良次郎氏報)

 三澤氏の要害山
仁多郡三澤村要害山は、古名鴨倉山と云ひ、一に夕影山と稱し、村の中央より少しく西北部に位し、山容


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峻厳、樹木鬱蒼として居る。~

刀研池 要害山城二の丸舊阯から、人切場道を辿り進むこと十数歩、左方平坦地に在る。俗に三チ池と云
ふ。明治初年の頃、此池水が諸病に功ありとて、柵を運らし、幟を建て、一時日々數百人の人が來たと。


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 御客社の傳説
簸川郡出西村大字求院、八幡宮屋己の方約一丁の處に、小さな社がある。
今は村社内に社神を移して、跡荒神として祭られてある。
古は客の森、又はお客神社と稱し、伊弉冊命を祭神とし、社域も廣く、樹木生茂り、鳥獣多く住んで居た。 垂仁天皇の御代、勅諚にて此處で鵠を捕つた。
之に依って鵠村と云ひ、境内西を流れる川を鳥越川と云つた。
鵠が此の川を越ゆるに依つて、名づけたものと察せられる。
今も此川名を存して居る。
昔は此邊は入江であって、垂仁天皇の皇子誉津別皇子、曙立皇子 兎上皇子と共に大社御参拝の御歸途、此處で出雲国造の遠祖伎備佐都美高彦根は黒木の橋を作り、
假宮を建て、皇子等へ様々の饗應があった。
誉津別皇子は是迄御言葉を發し給はなかつたが、此時始めて御言葉を發し給ふことを得るやうになったと云ふ。
其當時銚子、膳夫に仕へ奉つたものは長子、飯塚の姓を賜り、今も此地方で姓を名乗るものが數多ある。
鵠村は求院村に變り、今は出西村大字求院と稱せられるに至つたのである。



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Last-modified: 2025-01-22 (水) 01:23:41