『出雲国風土記』紅葉山本/『出雲国風土記』紅葉山本2/『出雲国風土記』紅葉山本3/『出雲国風土記』紅葉山本4
k03 総記
k04 意宇郡
k14 島根郡
k22 秋鹿郡
k26 楯縫郡
k29 出雲郡
k36 神門郡
k41 飯石郡
k45 仁多郡
k48 大原郡
k52 後記
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仁多郡堺温堺泉川邊廿二里通神門郡堺ト與
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通[俻]後國恵宗郡堺荒鹿坂卅九里二百歩
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[俻]は[備]の異体字であるが、旁りの下部[田]の部分を[用]と記している。
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道度
自國東堺去西廿里二百八十歩至野城橋長
卅十丈七尺廣二丈六尺飯梨
川又西廿一里至國
廳意宇郡家北十家衝即分為二邉一正西道
一柱北道
柱北道去此四里二百六十六歩至郡北堺朝
酌渡渡八十歩
渡船一 又北一十里一百卅歩至島根
郡家自郡家去此一十七里一百八十歩至隠
岐渡千酌驛家濱渡
船又自郡家西一十五里八
十歩至郡西堺佐太橋長三丈廣一丈佐太
川又
西八里三百歩至夜秋鹿又自郡家西一十五
里一百歩至郡西堺又西八里二百六十四歩
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至楯縫郡家又自郡家西七里一百六十歩至
郡西堺又西一十里二百廿歩出雲郡家東邊
即入正西道也惣柱北道程九十九里一百一
十歩之中隠岐道一十七里一百八十歩正西
道自十字街西一十二里至野代橋長六丈廣
一丈五尺又西七里至玉作街即分為二道一
正
西道一
在南道十四里二百一十歩至郡南西堺又南
廿三里八十五歩至大原郡家即分為二道一
南
西道一
東南道南西道五十七歩至斐伊河度廿五歩
度船一
又南西廿九里一百八十歩至飯石郡家又自
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郡家南八十里至國南西堺通備後國
三以郡惣去國
程一百六十六里二百五十七歩也東南道自
郡家去廿三里一百八十二歩至郡東南堺又
東南十六里二百卅六歩至仁多郡比〃理村
分為二道一道東八里一百廿一歩至仁多郡
家一道南廿八里一百廿一歩正西道自玉作
街西九里至来待橋長八丈廣一丈三尺又西
廿三里卅四歩至郡西堺出雲河度五十歩
船一又自
郡家西二里六歩至郡西堺出雲河度五十歩
度船一
又西七里廿五歩至神門郡家即有河度廿五歩
度船一
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自郡家西卅三里至國西堺通石見國
安農郡
惣者國程一百六里二百歩卅四歩
自東堺去西廿里一百八十歩至野城驛又西
廿一里至黒田驛即分為二道一正西道一度
隠岐國道
隠岐道去北卅四里一百卅歩至隠岐渡千酌
驛又正西道卅八里至客道驛又西廿六里二
百廿九歩至狭結驛又西一十九里至多岐驛
又西一十四里至國西堺
圍阜宇軍圍即屬郡家熊谷軍圍飯石郡家東
北廿九里一百八十歩神門軍圍郡家正東七
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里馬見烽出雲郡家西北卅二里二百卅歩土
楺[火𩵋]神門郡家烽或東南四里多夫志烽出雲
家北一十三里卌歩布目美烽島根郡家正南
七里二百一十里暑垣烽髙宇郡家正東廾里
八十歩宅波式門郡家西南卅一里
瀬埼或式嶋根郡家東北一十九里一百八十歩
天平五年二月卅日勘造秋鹿郡人神宅臣
金太理
国造帯意宇郡大領外正六位上勲業出雲臣
廣嶋
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(k55は白地頁につき略)
(k56は裏表紙により略)
「完」