神社a
神社島根
◎「布自奈大穴持神社」(フジナオオアナモチ神社)
島根県松江市玉湯町布志名151 地理院地図
主祭神:大己貴命
境内社:布自府神社(布自布神社):現祭神・事代主命
・『出雲国風土記』意宇郡2に「布自奈社 同布自奈社」とある。
・『延喜式』巻10-29出雲國意宇郡で「布自奈大穴持神社」「布自布神社」とある。
・『延喜式神名帳註』下3-k164で「布自奈大穴持神社 富士名・日本紀推古云本居訓宇夫須奈・布自奈産神也」
「布自布神社 土霊埴安神・近江國波尒布神社」
・「延喜式神名帳考証土台-11-k6で「布自奈大穴持神社 ❍大穴持神社也以其在藤名村冠村名」
「布自布神社 風土記ーー奈」
・伊能図に「布志名村」「布自奈大穴持神社」が記されている。伊能忠敬が松江に到着したのが文化3年(1806)6月18日であるから、この頃には現社名となっていた。
- 色々説はあるようであるが、思うに大穴持という呼び名は須佐能袁命から与えられた試練に関係する呼び名であることを考えると、現在「布自府神社」(布自布神社)と呼ばれている境内社は元は現社地のある布志名山(宮山)、南方高台山中にあり、「布自奈社」と呼ばれ須佐能袁命を祭っていたと思われる。これが高神社(鷹神社・小宮さん)であり、それを現在地に境内社として移した際、延喜式の誤りを曳いて布自布神社と誤り更に布自府神社と誤り、近年祭神を事代主命に変えたのであろう。
大穴持命にとって須佐能袁命は義父であるから、移転の際、切土・盛土により、一段高い場所を造作し社を据えたものであろう。
(1924年刊「出雲国風土記考証」p55で後藤は祭神を素戔嗚尊と記している。)
- 「布自奈」の語義を考えると、[布]は広める。[自]はおのずから。[奈]は大きな神木。をそれぞれ意味する。
「布自奈」というのは、神の依代としての神木があったことを表している。
(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)幣殿扁額

・布自府神社
(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)本殿扁額

・布自布神社
(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

(布自奈大穴持神社)

・余談だが、布志名を地頭として領したのは布志名氏(富士名氏)で、佐々木源氏の傍流で玉造を領した湯氏の庶氏。
「布自奈大穴持神社」の北東、福王寺畑と呼ばれる地を居城とした。地理院地図
湯宗清の子、布志名綱義(富士名雅清)の時後醍醐天皇が隠岐に流罪となった際警固役を務めたが、翻意し天皇の隠岐脱出を計画し、同族の塩冶高貞に協力を求めたが幽閉された。
後醍醐天皇が名和長年の協力で隠岐を脱出し船上山に入った時、塩冶高貞とともに天皇のもとに駆けつけ、建武新政に助力。
南北朝時代には南朝方として足利氏と戦った。