◎「布辨神社」(布弁神社)
島根県安来市広瀬町布部1158 地理院地図
主祭神:大山咋命・市杵島姫命
布部(布弁)は、安来から飯梨川に沿って比田に通じる古くからの街道の街で交通の要所であった。
更に先は、奥出雲から備後に通じる。
飯梨川は暴れ川として知られ、度々洪水を起こし流れを変える川であったが、良質な砂鉄が取れる川でもあった。
「布辨神社は」元は要害山(標高184m)の山頂にあったが、戦国期築城のため現在地に移された。
・祭神の「大山咋命」は「速須佐之男命」の子「大年命」の子とされ「速須佐之男命」の孫にあたる。
[咋]が杭であると説明されることがあるが、[咋]は[乍]が積むことを意味し(口中で積む)ことから噛むことであり、噛んで固めるという意味であり杭ではない。
「大山咋命」は別名「山末之大主神」と呼ばれ、山の地主神であるとされる。即ち「大山咋命」というのは山を崩れたりしないように固める地主神を表す。
・「市杵島姫命」は、宗像三姫の一人であるが、海や川の水を鎮める水の神として祭られる。
要害山は蛇行する飯梨川を見渡せる高台であり、「布辨神社」の[辨]には流れを調節するという意味があり[布]は広める整えるという意味であるから、
「布辨神社」というのはこの地で飯梨川の流れを整え鎮めるという意味で名付けられ、それに合う祭神を祭ったものであろう。
『雲陽誌』によれば尼子氏健在の頃、山中幸盛が要害山(一圓山)に駐屯した時里人が社を現社地に移したようである。
現在地名を布部と変えているのは意味不明。字義を考えず変更したのであろう。
要害山山頂には「愛宕社」(祭神:軻遇突智命)が置かれているが、明治末頃西の谷から移されたものという。
上流には1967年に布部ダムが作られ、ようやく飯梨川も暴れることはなくなっている。
布部の地は尼子氏再興を目指した山中幸盛(鹿介)が毛利方の天野隆重が守る月山富田城を攻撃した際、富田城救援に向かった毛利輝元軍と最大の合戦が行われた地である。
山中幸盛は尼子氏再興のため毛利方に三度戦いを挑んでいる。
一度目は但馬の山名祐豊、二度目は山名豊国、三度目は信長配下の明智光秀の支援を受けて挑んだ。
一度目は毛利氏が九州大友氏との戦になり、出雲が手薄になった時に行われた(1569年)。この際尼子再興軍は但馬から数百隻の舟で島根半島に上陸し現松江城のもとになった末次城を築き、尼子勝久を入城させる程の勢いがあり、尼子の旧家臣を集め勢力を蓄え、続いて月山富田城を攻めた。
これに際しすでに隠居していた元就は門司城のみ残し九州から撤退することとし、26000と云われる主力軍を出雲に向かわせた。
こうして布部で尼子再興軍と毛利軍との合戦になった。
幸盛は南から進軍してくる毛利勢を迎え撃つため布部山(布弁山・標高277.6m)に本陣を置き決戦に臨んだ。毛利軍が布部に到着する前に要害山城に立て籠もっていた尼子方の森脇久仍はその兵を引いていた。
毛利軍は布部山を南の水谷口・中山口から攻めたが戦いは互角であった。
吉川元春が別働隊を率いて、ぬのべの滝北側の谷筋から回り込み布部山頂に達すると尼子再興軍は総崩れとなった。
毛利方は月山富田城に達し、尼子再興軍は末次城に退いた。
尼子再興軍は次第に出雲から駆逐され、以後勢力を取り戻すことはなく三度目の戦いで尼子勝久は自刃し、幸盛は捕らえられ護送される途上天正6年7月17日(1578)備中高梁の川辺で暗殺された。
元就は幸盛に度々毛利家臣になるよう領地まで示して誘っていたが幸盛は断り続けていた。
頼山陽は山中幸盛に対して「嶽々たる驍名誰が鹿と呼ぶ、虎狼の世界に麒麟を見る」と讃歌を詠っている。