▲「高尾山」
島根県出雲市大社町日御碕 地理院地図
標高:357.8(m)
旧帝国海軍のレーダー施設等が置かれていた。呉海軍警備隊所属日御碕探信所。昭和17年(1942)建設。
その施設跡が残る。
施設としては、電探(レーダー)、指揮所、発電所、宿舎、貯水池などが設けられた。
高射砲や機銃座などの設置も計画されていたようだが、実現されなかったようである。
又近くの359.7(m) ピークにはダミーの施設も作られていたともいう。地理院地図
登山道は近隣住民の協力(動員)を得て施設建設のために作られた道がそのまま一般用の登山ルートとなっている。
但し、豪雨災害で一部崩落箇所がある。
昭和17年(1942)年には4月18日に初めて東京が空襲された。
高尾山には同年2月に双眼鏡による見張所(要員4名)が置かれていたが、その後レーダー施設建設が行われた。
施設建設には、地元小学生や大社町から女学生まで動員されたという。10月に完成。
この際、高尾山山頂にあり宇龍住民らに崇敬されていた「稲荷神社」が中山地区の古島氏によって引き取られ「高尾稲荷神社」として遷宮している。
昭和19年(1944)には2号機が設置され地理院地図、3号機も設置予定だったようだが、敗戦でそのまま未設置。昭和20年8月末には1号機・2号機は解体され連合軍に引き渡された。
当時の電探(電波探信機)というのは、例えば1号機の場合11号型電探と呼ばれる型式のものが据えられていたが、幅9m、高さ7mほどの平面金網のような形状で、これにアンテナ線が貼られ真空管回路により出力5kw程度、送信周波数150Mhzの電波を前方に発信し、飛行物からの反射波を受信していたようである。
台座は回転可能で方角を変えることができるようになっていたようである。
貯水池は高尾山西南の谷筋に作られていたようである。地理院地図
ついでに記すと、ミッドウェー海戦で大敗北をしたのは1942年6月5日~7日である。
日本側被害:空母4隻、重巡洋艦1隻、航空機263機、戦死者3000名以上。(海軍が隠蔽したため正確な戦死者数は不明)
米軍側被害:空母1隻、駆逐艦1隻、航空機150機、戦死者362名。
(同年6月10日に、大本営はミッドウェーで大勝利と発表)
島根半島には、他に片江見張所(七類半島)・美保関見張所(馬着山)が置かれていた。
又呉海軍警備隊所属電探施設は日本海では隠岐の島の島後白島埼、萩沖の見島イクラゲ山。瀬戸内には笠戸島、平郡島。四国には足摺岬。九州では日向市の平岩(南日向駅北方の116mピーク辺りと東方の岬)、都井岬に置かれていた。但し敗戦後資料は米軍に引き渡された為詳細は不明。
昭和20年7月24日~28日にかけて、島根半島の北浦・惣津・七類、浜田市、大社町、玉湯町、米子市などに米軍による無差別空襲があった。
四国沖にいた米空母3隻からグラマン戦闘機隊が飛来し、爆弾投下や機銃掃射などを行い多くの死傷者がでた。
上述の見張所などがどのように機能したかは定かではない。