『出雲国風土記』
『出雲国風土記』嶋根郡
『出雲国風土記』秋鹿郡(あいかのごおり)
(白井文庫k21)

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秋鹿郡
合郷肆里十三 神戸童
惠曇郷 本字惠伴
多太郷 今依前用
大野郷 今依前用
伊晨郷 本字伊努以郷捌里參
神戸郷
所以号秋鹿者郡家正北秋鹿日女命唑故云
秋鹿矣
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惠曇郷郡家東北九里卅歩須作能乎命御子磐坂
日子命国巡行唑時至唑此處而詔詔此處者国權美
好国形如畫鞆哉吾之宮者是処造事故云惠伴
神龜三年
改字惠曇
多太郷郡家西北五里一百廾歩須佐能乎命ノ御子
衝杵等乎而留比古命国巡行唑時至坐此処詔吾
御心照明正冥成吾者此処靜將唑詔而靜唑故云
多太
大野郷郡家正西一十里廾歩和加布都奴志能命
御狩爲唑時即郷西山持人立給而追猪犀北方上之
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秋鹿郡†
秋鹿郡
- 秋鹿郡…ルビに(アイカ ゴヲリ)とあるので、(アイカノゴオリ)と読んでおく。
校注出雲国風土記・標注古風土記は共に「秋鹿」を(アキカ)と読んでいる。理由不明。
「秋鹿」は今も(アイカ)と呼んでいる。
合郷肆里十三 神戸童†
合わせて郷四、(里十三) 神戸壹
- 合郷肆…「肆」は(シ)と読むので「四」の当て字であろう。
- 神戸童…「童」は「壹」(一)の誤写であろう。
・出雲国風土記抄(2-k29)・上田秋成書入本(k22)では「合郷肆里十二 神戸壹」
・出雲国風土記考証(p151)・校注出雲国風土記(p126)では「合郷肆里一
十二 神戸壹」
惠曇郷 本字惠伴†
惠曇郷 本字は惠伴
- 惠曇郷…(エトモノゴウ)
・出雲国風土記抄2-k29では本文で(エスミノ)とルビを振っている。
今は恵曇(エトモ)と呼んでいる。
多太郷 今依前用†
多太郷 今も前に依りて用いる
大野郷 今依前用†
大野郷 今も前に依りて用いる
伊晨郷 本字伊努以郷捌里參†
伊農郷 本字は伊努(郷を以て捌く、里參)
- 伊晨郷…後に、「伊農郷」とあるので「晨」は「農」の誤記もしくは略記であろう。
- 以郷捌里參…
・出雲国風土記抄2-k29では本文で「以上郷肆里参」(以上郷四、里三)
・標註古風土記p171・出雲国風土記考証p147・校注出雲国風土記p126では共に「以上肆郷別里参」(以上四、郷別に里三)
神戸郷†
神戸郷
- 神戸郷…
・出雲国風土記抄(2-k29)・出雲国風土記考証(p151)・校注出雲風土記(p39)では「神戸里」
・上田秋成書入本(k22)では「神戸里郷イ」
所以号ス秋鹿ト者郡家正北秋鹿日女ノ命唑ス故ニ云秋鹿ト矣†
秋鹿と号すゆえんは、郡家の正に北、秋鹿日女の命唑す、故に秋鹿と云う。
- 郡家…秋鹿の郡家。東長江町郡崎説と秋鹿町説とがある。
位置と地名から、秋鹿説が正しいと思われる。現秋鹿神社の元社地が現在地より東方に尾根一つ越えた宮崎という地にあったらしいので、秋鹿の郡家もその南方辺りにあったのであろう。現「秋鹿神社」地理院地図
・出雲国風土記抄(2-k30)
「鈔曰如ク記ノ之趣ノ在リ于秋鹿比賣二社大明神ノ祠則秋鹿村ニ蓋シ當ニ此ノ社南ノ則為タル古ヘノ之郡家従是十七八町東長江ノ州埼俗呼テ曰フ郡埼ト則巳ニ郡家ノ近地ナレバ之長江亦秋鹿ノ一村也」
(鈔に曰く。記の趣きの如く、秋鹿比賣二社大明神の祠は則ち秋鹿村に在り。蓋し、まさに此の社の南のほとりは古の郡家たるに当る。是に従えば十七八町東長江の州埼、俗に呼びて郡埼という、則ちすでに郡家の近地なればこの長江また秋鹿の一村也)
- 東長江の郡埼説というのは、風土記抄から出たのであろうが、原文読むと、誤読によるものであるように思える。
「東長江」ではなく「十七八町東の長江」であり、「長江の州埼(俗に郡埼という)は郡家の近くであり秋鹿郡中の一村である」と云っているだけであり、「秋鹿神社や郡家が東長江にあった」等とは語っていない。
- あれこれ勘案すると、今の秋鹿郵便局の辺りに秋鹿の郡家があったのであろうと思われる。
長江の州埼、今の長江港の辺りと思われるが、ここ迄東に約2km弱で十七八町に合う。郡埼というのは、秋鹿郡の端と云う意味であろう。
- 秋鹿日女命…(アイカヒメノミコト)。ウムガヒメやイザナミノミコトと同一神と見る向きがあるが疑問。
ウムガヒメと同一神という説は内田眞龍によるものであり、イザナミノミコトと同一神と見る説は佐太神社によるもの。
出雲国風土記に系譜が記されていないために付会したのであろうと思われるが、秋鹿郡の地主神で充分と思う。
- 秋の鹿というのは発情期にあたり、良く鳴く季節であり人里にも姿を見せる。そのような鹿の姿を愛しみ祭ったのではないかと思われる。系譜が不明なのは自然神としてかなり原初的な神格であったからであろう。
惠曇郷郡家東北九里卅歩†
惠曇郷、郡家の東北九里三十歩
- 惠曇郷…出雲国風土記抄(2-k30)に「鈔曰九里卅歩今之一里十八町四十間併今江角古浦武代本郷等所以為惠曇郷蓋意佐陀宮内村可亦以入此郷中矣」
(鈔に曰く。九里三十歩は今の一里十八町四十間。今の江角・古浦・武代・本郷、等の所を併せて惠曇郷と為す。けだし、おもうに、佐陀宮内村も亦以て此の郷中に入るべし。)
とあり、現在の松江市鹿島町、惠曇・古浦・武代・佐陀本郷・佐陀宮内の地区を恵曇郷と呼んでいた。
須作能乎命御子磐坂日子命国巡リ行キ唑ス時至リ唑シ此處ニ而詔テ詔此處ハ者国權美好国形如畫鞆ノ哉吾ガ之宮者是ノ処ニ造ラン事故ニ云惠伴ト神龜三年
改字惠曇†
須作能乎命の御子、磐坂日子命、国巡り行ます時、此處に至りまして詔て、此處は国権美好国形画鞆の如しかな、吾が宮は是の処に造らん事を詔す。故に惠伴と云う。(神龜三年字を惠曇に改む)
- 国權美好…国権美好。「権」は量る事。「美好」は「美しく好ましい」。「国をはかるに美しく好ましい」の意。
読みとしては(国をはかるにびこうなり)
・出雲国風土記抄(2-k30)では本文で「国権美好有国形如畫鞆哉」としている。
・校注出雲国風土記(p39)では「權」を「稚」としている。
- 国形如畫鞆…国形如画鞆。「鞆」は弓を射るときに弓の跳ね返りが腕に当たるのを防ぐ為に左腕に付ける革製の防具。
鞆は巴形の元とも云われ、巴形を描いている物が多々ある。
「如画鞆」は「絵を描いた鞆という防具の様である」の意。
全体で「国の形が絵を描いた鞆のようである」と云う意味を表す。読みとしては(国がたエトモのごとし)
- 吾之宮…磐坂日子命を祀る「惠曇神社」が鹿島町にある。但し「惠曇神社」というのは恵曇と佐陀本郷とに二社あり、又別に漁港近くに「惠曇海邊社」という社がある。今の恵曇地区(旧恵曇町)は先に記したように元は江角という地名であった。
・雲陽誌では秋鹿郡2-k63(地誌大系k50p86)に江角について記し、惠曇海邊社に関連して出雲国風土記記載のこの部分を上げて、惠曇神社と見なしているようであり、秋鹿郡1-k56(地誌大系k43p73)に本郷の惠曇神社及び座王権現について記しているが、詳述はしていない。
- この地名縁起少々疑問がある。エスミとエトモが錯綜している。磐坂日子命の縁起通りであれば元々はエトモであるのだが、
地区名としてはエスミ(江角)があって、エトモはない。
神亀三年に字を恵伴から惠曇に改めたとあるので、それ以前は長くエトモであったはずであろう。
惠曇の「曇」は安曇(アズミ)の「曇」と同じでスミと読む事もあるから、字を惠曇と改めた後にエスミと読むようになり江角と転じたというのであれば話は解るのだが、そうなっていない。
一方、磐坂日子命に関連する地名縁起が後に創られたものとするには具体性があってまんざら虚構とも思えない。このような点が得心できないと、惠曇神社の判断も付けがたい。
江角と云うのは入江の角、と云うほどの意味であろうから、古浦海岸の角というのが地名由来であると思われ、「恵曇」に直接関わるような地名では無いようにも思える。
この件保留。
多太郷郡家西北五里一百廾歩†
多太郷、郡家の西北五里一百二十歩
須佐能乎命ノ御子衝杵等乎而留比古命国巡リ行キ唑ス時至坐此処ニ詔テ吾ガ御心照リ明ニ正冥成吾者此処ニ靜ニ將ニ唑ラントス詔テ而靜リ唑ス故云多太ト†
須佐能乎命の御子、衝杵等乎而留比古命国巡り行き唑す時、此処に至り坐す時詔て、吾が御心正冥成りしと明らかに照り、吾は此処に靜かに將に唑らんとす、と詔て靜に唑す。故に多太と云う。
- 衝杵等乎而留比古命…ルビに従えば(ツキキトヲシルヒコノミコト)。秋鹿小学校前の道を北上した「多太神社」地理院地図に祀られている。
「衝杵」を「衝鉾」「衝桙」とするものがあるが、「杵」は餅つきの杵(キネ)であり、武具の「鉾・桙・矛」ではない。「衝杵」であるから、農耕神であり武神ではない。
古代の杵(縦杵・兎杵)は元々は脱穀(穂から種子を外す作業)・脱稃(種子から種皮を外す作業)に用いていた農具であり、杵衝き(衝杵)というのは脱穀・脱稃することを云う。(脱穀・脱稃を総じて「脱穀」と云う事もある)
・出雲国風土記抄2-k30で「衝杵等乎而留比古命」
・訂正出雲国風土記上-p37で「衝杵等乎而留比古命」ルビではなく傍書で(ツキキトヲルヒコノミコト)
・鶏頭院天忠本p023で「衝析等乎而留比古命」「析」の横に「杵」と補記
・上田秋成書入本p023で「衝杵等乎而留比古命」
・校注出雲国風土記p40で「衝桙等番留比古命」脚注に「突鉾通る日子の命」
・標注古風土記p160本文で「衝杵等乎而留比古命」、p161解説で(つきゝとをるひこの)命
・出雲国風土記考証p153で「衝杵等乎而留比古命」
- 等乎而留(トヲシル)というのはこのままでは解り難いが(等を留めた)で「伝えた」と云う意味合いであろうと思われる(衝杵等の農具を伝えた命)。
杵は元来ただの棒であったが、両端を太く中央部を細くして持ちやすく効率のあがる千本杵と云うものに発達した。
(そのような農具を伝えた)或いは(農具を伝えこの地に留まった)のが「衝杵等乎而留比古命」の神名由来ではないかと思われる。
「而」は助字(しかして)で、置き字として読まないことも多いが留比古(ルヒコ)では簡素すぎるために而留比古(シルヒコ)と読んだのであろうと思われる。
「衝杵等乎・而留比古命」(ツキキネトヲ・シルヒコノミコト)と一呼吸置くと理解しやすい。
- ついでに、棒から縦杵に変わり、脱穀・脱稃は飛躍的に作業性が良くなったのであるが、江戸期には更に「千歯扱き」による脱穀、「水車」による脱稃が行われるようになり、縦杵はあまり用いられなくなった。今に伝わるT字型の長柄のついた杵(横杵)は餅つき用としての利用が中心となっている。と云っても昨今餅つき光景も希になった。
- 私事だが、母方祖父の家では農業も行っており、初収穫の際神前に供える米だけは昔ながらの方法で脱穀していた。
庭に茣蓙を敷き、その上に乾燥させた稲穂を並べ棒で叩く。すると、籾がはずれ籾殻も落ちるので、それを手箕にとり、ふるい上げて籾殻を風で飛ばす。結構時間と手間のかかる作業のようであった。
又、父方祖父の家では、神社の秋祭り用の餅作りを近隣総出一日がかりで行っていた。日頃は手水鉢代わりにしている石臼が年に一度磨き上げられ餅つきに活躍する。蒸籠が庭先に積み上げられ蒸し上がる端から横杵使って衝き上げられ寄って集って餅に仕上げられる。そういう光景であった。
無論私はまだ幼かったのでどちらも見ていただけだが記憶には鮮明に残っている。
- 「杵」と「桙」について…
・出雲国風土記考証p149に、
「衝杵等乎而留比古命について、伴信友は『後の和泉國風土記に大鳥郡本字衰云々古老傳云昔素佐烏尊御子衝桙等乎而留比古命巡行此國詔、吾御體衰坐詔而静坐、故云於止利、今謂大鳥者訛也とみえたり。此國巡行古事と符へり。さて御子の字の而を誤出といへれども和泉國風土記にも然あれば相照して誤とはすべからず。而を假字に用たる例いまだ見あたらねど姑くシと唱ふべし。杵は桙の誤にて古書に毎に多し、故に衝桙等乎而留比古命と申すべし。衝桙は杖桙の義にて等乎の枕詞なるべし。萬葉集ニに奈用竹之騰遠依とつゞけたる如く桙を杖きたるが撓(タワ)む由の意なるべし。而留は稱へ名にいへる例あり。又古事記の倭建命の裔に登遠之別といふがあり』といつて居る。思ふに而の字は與の畧字の誤りであること疑ない。而と与との草書に似ることから相誤ることは、出雲風土記中、諸處にその例がある。萬葉集巻三の長歌にも「名湯竹之十緣皇子」といふ語がある。等乎與留は、撓みなびきて、なよゝかに、うつくしきをいふ。即ち神の名は衝桙等乎與留比古命である。」とある。
- 「杵」を「桙」としたのはこれによれば、伴信友に始まるようである。
「杵」を「桙」としているが、「桙(ウ)」は元字「杅(ウ)」で鉢或いは盥(タライ)のこと。字体は「鉾」に似ているが「鉾」は元来山車の「山鉾」のことでありいずれにせよ「矛(ホコ)」ではない。要するに当て字である。「杵」とあるものを「桙」の誤りだといい、更にそれを「矛」とみなすというのは理解できない。「桙」はさほど使用例のある文字ではない。
「桙」としたために「衝」を「杖」だとまで云うのは、屋上屋を重ねるというに等しい虚言でしかない。
更に、出雲固有の神格を、出雲国風土記の記載を疑い、和泉國風土記にその起源を求めるなど倒錯していると云わざるを得ない。
枕詞とするのも意味不明と云っているに過ぎず根拠がない。
「等乎而留」に関しての記述はこれも「而」が「與」の略字「与」の誤記かどうかも疑わしく而をシではなくテであると云うならともかく、ヨであるというのは殆ど意味のない記述である。
又、なよ竹の如く撓む矛など聞いたこともないし、あったとしても用を足さない。
上に各書における記述を示しておいたが、「桙」を用いたものは校注出雲国風土記だけである。
- 多太神社は秋鹿神社とは秋葉山を挟んだ位置関係にあり、秋鹿郷と多太郷がこの秋葉山を境界としていた。
古代の郷が川筋に沿って成立していたことを窺わさせる。多太郷(岡本川)・秋鹿郷(秋鹿川)。共に小さな川だが、度々氾濫は起きていたようである。その為か、両神社とも川の東側山麓にある。
- 正冥…多太の郷名縁起は「正冥」にあると思われるので、それに近い読みを採ったが多少すっきりしない面がある。
多太という名称は神社名にしか残っておらず、この地区は今は岡本と呼ばれている。
この部分各書ともルビをふっているので、読みに苦心したのであろう。
・出雲国風土記抄2-k30では「正真」、
・出雲国風土記考証p153では「正眞」、
・校注出雲国風土記p40では「正真」、
・上田秋成書入本p23では「正冥」と読み「冥」に「實」と書き入れている。
・標注古風土記p175では「正眞」。
・鶏頭院天忠本p023では「正冥」読みは振っていない。
・訂正出雲国風土記上-p37では「正眞」とし(タダシク)と読んでいる。
- 「正冥」にせよ「正眞(正真)」にせよ。「多太」と繋げるにはかなり無理があると云わざるを得ないわけで、「多太」の縁起には何か他の要因があったのではないかと思われるが今となっては不明。
- 個人的心象としては、秋鹿日女命と衝杵等乎而留比古命は夫婦神(入り婿)の関係にあるようにも思われる。
大野郷郡家正西一十里廾歩†
大野郷、郡家の正に西一十里二十歩。
和加布都奴志能命御狩リ爲唑ス時キ即チ郷西山持人立給フ而追猪犀北方上之至阿内谷ニ而其猪之跡亡失†
和加布都奴志能命、御狩します時、即ち郷の西山に持人立て給う。猪犀を追い北方上の阿内谷に至りて、其の猪の跡亡失り。
- 和加布都奴志能命…校注出雲国風土記p40では「和加布都努志能命」と記し注記で「前出の布都努志命と同神であろう。和加は若々しい意の修飾語」としている。前出というのは意宇郡山國郷の条の「布都努志命」であろうが、同神かどうかは疑問。楯縫郷では「布都怒志命」としており、一字異なる。これについては出雲郡にて改めて記す。
- 西山持人…「待人」とか「狩人」と記す書もあるが、「持つ」は(受け持つ・担当する)の意味であろう。
- 猪犀…(イノサイ=イノシシ)であろう。「犀」には「固く鋭い」と云う意味があるので大きな牙を持つ雄猪をさしているのであろう。
- 阿内谷…今の本宮山(旧名高野山)の中腹にある「内神社」(高野宮)地理院地図のある辺りを阿内谷(内野)と呼んでいた。
- 古代の猪猟がどの様なものであったか定かではないが、四つ足動物は登りは得意で降りは苦手であり、追い込み猟であれば弓を持つ者を下手に待たせ、上方から下方に追い立てるのが常道であろうから西山というのは、阿内谷より下手西方にある山であったと思われる。
尒時詔自然哉猪之跡亡失詔故云内野ニ然今ノ人猶詔大野号耳†
時に詔りて、自然なる哉。猪の跡亡失ぬ。詔りし故に内野という。然るに今の人なお詔りて大野と号すのみ
- 猶詔大野号耳…一応そのままにして置くが、白井本の「猶詔」は「猶誤」の誤りであろう。「詔」を用いるにふさわしい箇所ではない。
・出雲国風土記考証p151で「猶誤大野號耳」
・標注古風土記p162で「猶誤大野號耳」(猶誤て、大野と號ふのみ)
・校注出雲国風土記p127で「猶誤大野號耳」p40でこれを「猶詔りて大野と號くるのみ」と読んでいる。
(白井文庫k22)

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至阿内谷而其猪之跡亡失尒時詔自然哉猪之
跡亡失詔故云内野然今人猶詔大野号耳
伊農郷郡家正西一十四里二百歩出野郷伊
農郷唑赤食仁農意保須美比古佐和氣能
命之居天[瓦長]津日女命国巡行唑時至唑此處
而詔伊農波夜詔故云足怒伊怒神龜三年
改字伊農神
戸里出雲之説名如
意宇郡
佐太御子社 比多社 御井社 垂水社 惠杼毛社
許曽志社 大野津社 宇多貴社 大井社 宇智社
以上一十所
在神祇官 惠曇海邉社 同海邉社 奴多之社 郡牟社
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多太社 同多太社 出鳥社 阿之牟社
田仲社 弥多仁社 細見社 下社 伊努社
毛之社 草野社 秋鹿社 以下十五所并
不在神祇官 甫曰自恵曇海辺社
秋鹿社迄十六所見ユル
神名大山郡家東北九里卅歩高卅歩丈周四里
所謂佐太大神社即彼山下之足日山郡家正北一里
高一百七十丈周一十里二百歩 女心高野家正西
壹十里二十歩高一百八十丈周六里土体豐
渡百姓之膏之腴膏腴地
之事欤園矣元樹林但上頭在樹
林此則神社也都勢野郡家正西一十里廾
歩高一百一十丈周五里無樹林嶺中在湒周
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伊農郷郡家正西一十四里二百歩†
伊農郷、郡家の正に西一十四里二百歩
- 伊農郷
・出雲国風土記抄2-k31本文で「伊農」にイノとイヌの両方のルビを振っており、解説で「并於今ノ伊野村伊野浦波多浦ヲ以為伊農ノ郷矣」(今の伊野村・伊野浦・波多浦を併せ以て伊農の郷と為す)
出野郷伊農郷唑赤食仁農意保須美比古佐和氣能命之居天[瓦長]津日女命国巡行唑ス時至唑シテ此處ニ而詔伊農波夜詔故云足怒伊怒神龜三年
改字伊農†
- 「居」は「后」に改める。
- [瓦長]は[甕]に改める。
出野郷伊農郷に唑す赤食仁農意保須美比古佐和氣能命の后、天甕津日女命国巡り行きます時、此処に至りまして伊農波夜と詔る。故に足怒伊怒と云う。(神龜三年字を伊農に改める)
・出雲国風土記抄2-k31本文では
出雲郡伊農ノ郷ニ坐ス赤食伊農意保須美比古位和気能命ノ之后天[瓦長]津日女命国巡行坐マス時至坐此處ニ而詔ノ伊農波夜詔故云足努伊努
- 出野郷伊農郷…今の「野郷(ノザト)」と「美野(ヨシノ)」であろう。伊野川にそった地域である。
出雲国風土記抄では「出野郷」を「出雲郡」としている。
- 赤食仁農意保須美比古佐和氣能命…同じ白井本、出雲郡伊努郷k29で、「赤衾伊努意保須美比古佐倭氣能命」とある。
・校注出雲国風土記p40では注に「八束水臣津命の御子神。赤衾はイヌ(寝ぬ)にかかる枕詞。神名は伊農の大洲見日子、狭別の神の意であろう。沖積地の神」と記している。
- イヌ(寝ぬ)は衾からの連想であろうが、説明になっているようでなっていない。「沖積地の神」と云うのは意味も根拠も不明。
- 赤食(アカケ)と赤衾(アカフスマ)、「衾」というのは寝具、いわゆる掛け布団代わりの布であるが、これが何故神名に使われるのか説明を見ない。「赤食」であれば、「赤米」であろうと思われる。
標注古風土記p164に内田眞龍の説が載っているが採るに足らないので略す。物好きな人は御参考あれ。
- 伊農波夜…「波夜」は詠嘆を表すというのが通説。
- 足怒伊怒(足努伊努)…「足ぬ伊ぬ」或いは「足の伊の」。
- 美野町に伊野川を挟んで「伊努神社」(祭神:天甕津日女命)地理院地図と「葦高神社」(祭神:赤衾伊努意保須美比古佐和気能命)地理院地図がある。
「伊野神社」には明治以前には社殿はなく境内にある「伊努神社古墳」(通称森の宮)と呼ばれる陵の前で祭祀を行っていたという。
元は伊野川の東岸、下伊野村客野に社があり、客大明神と呼ばれていたという。
「森の宮」は天甕津日女命がこの地で亡くなった為に作られた陵墓と云われる。
「葦高神社」は元社地が現在地の北、高山にあったが、火災のため現在地に移されたという。
- なかなかに理解し難い箇所である。
天甕津日女命がこの地で亡くなったというのであるから、伊農は「去ぬ」であろう。
方言で「いぬる」は「帰る・立ち去る」という意味であり「去る」と記し亡くなることも意味する。
「伊農波夜」は(もう死んでしまう)と云う意味で、「足努伊努」は(足を痛めてもう歩けない)と云う意味ではないかと思われる。
物語ると、
「天甕津日女命がこの地方にやって来たとき、夫神と離ればなれになり、亡くなってしまった。その時『いぬはや(私はこの地で去ぬる)』と詔られたので「いぬ」という地名になった。高山にいた夫神は妻神を森の宮に葬し、川を挟んだ対岸に拝殿として社を建て祀った。その社は客神の社と云う意味で客野の社という。後の世に高山の社が火災にあったので葦高神社として客野に併せ祀られた。夫神は諱を佐和気の命と云い、赤米を広めた神であるが、妻神に赤衾をかけて葬せられた為、赤衾で葬されたという意味で「赤衾伊努意保須美比古」(アカブスマイヌイ・ホスミヒコ)と称名をつけられた。」
かなり脚色したが当たらずとも遠からずであろう。
神戸里出雲之説名如意宇郡†
神戸の里(出雲の名を説くこと意宇郡の如し)
佐太御子社 比多社 御井社 垂水社 惠杼毛社†
佐太御子社 比多社 御井社 垂水社 惠杼毛社
- 惠杼毛社…(エトモ)社。惠曇社。「杼」は(ヒ)であるがなぜこの字を充てているのかは不明。
萬葉集大友家持の歌に「保杼毛友」がありこれを(ホドケドモ)と読んでいる例がある。
許曽志社 大野津社 宇多貴社 大井社 宇智社 以上一十所在神祇官†
許曽志社 大野津社 宇多貴社 大井社 宇智社 (以上一十所、神祇官在り)
惠曇海邉社 同海邉社 奴多之社 郡牟社†
惠曇海邉社 同海邉社 奴多之社 郡牟社
多太社 同多太社 出鳥社 阿之牟社†
多太社 同多太社 出鳥社 阿之牟社
田仲社 弥多仁社 細見社 下社 伊努社†
田仲社 弥多仁社 細見社 下社 伊努社
毛之社 草野社 秋鹿社 以下十五所并不在神祇官 甫曰自リ恵曇海辺社秋鹿社迄十六所見ユル†
毛之社 草野社 秋鹿社 (以下十五所、併せて神祇官不在)(甫に曰く、恵曇海辺社より秋鹿社迄に十六所見ゆる)
(白井文庫k23)

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(白井文庫k24)

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(白井文庫k25)

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『出雲国風土記』楯縫郡