原田常治著「古代日本正史」批判 文責:「風姿」 |
先ず、著書の中で各所に、「調査した」とか「調べてみた」とか言う表現が使われているが、 この人の云う調査とか調べるというのがどの程度のものなのか非常に疑問である。 「先代旧事本記」や「延喜式神名帳」等を図書館にでも行きパラパラと見開いていれば、すぐ解ることを、 大仰に「調査した」とか「調べた」とか書いているように思える。 参考文献や出典を明らかにしていないので、原田氏が何を根拠に調べたと言っているのか霧の中である。 ある神社に行って、その神社の縁起を見たり、神官から世間話がてらに見聞したことも調査の範疇に入れているのであろう。 こんな事は、神社庁に電話で問い合わせてもできることだ。 又、自説に都合の良い神社縁起を取り上げて、都合の悪いものは改竄しているようでもある。 抽象的に書き記していても仕方ないので、やや具体的な批判に入ろう。 全体の内容の流れは、素戔嗚尊が九州に侵攻し、天照大神=卑弥呼との間に、5男3女をもうけ、この中から、 孫の伊波礼彦=神武が生まれ育ち、大和にいた、饒速日=大歳の娘伊須気依姫の元に入り婿として養子に入ったという。 系譜の根拠は、末子相続だという。逆をいえば、末子相続が崩れれば、原田氏の論は成り立たないのである。 (特に出雲相続に関して) ということで、末子相続についてから始めよう。 |
○ 末子相続 末子相続については、少し民法をかじった事のある人なら、誰でも知っている事がある。 それは、鹿児島地方においては、近年でも行われてきているということである。 但し、これは制度や決まりではない。この点を勘違いすると、原田氏のような誤謬に陥る。 兄弟に男子が数名居り、比較的年齢が離れている場合、長兄から順々に成人し、親元から離れて独立していく。 それ故、最後に父母の元に残る末弟が、父母の経済的基盤を引き継ぐ。末子相続という「習慣」は、こんな単純な話である。 私事で恐縮だが、私の家系では過去4代にわたり末子相続であった。(出自は豊前地方) 父方祖母も過去3代にわたり末子相続であった。(出自は出雲・後安芸) 母方祖父も過去3代末子相続、(出自は安芸) しかし、これらは制度としてあったのではない。それぞれ事情があって、結果として末子相続が続いて来ただけのことである。 この様な例は自身の家系だけではなく、別段珍しいことではない。 縁者の中にも多数ある。 末子相続といっても、末子が父母の全財産を相続するわけではない。 兄や姉が各自独立自立する際には、それ相応の財産分与、今で言う生前贈与が行われているのである。 それ故、父母が亡くなった時、さしたる相続問題も生じないので、残った家財を末子が相続していけるのである。 これは昔からの伝統的な知恵というものであろう。 この様な習慣を、原田氏の言うように、あたかもきまりであるかのように、末子相続制度等というのは、 あまりに、伝統的風俗習慣に対して無知にすぎる。 |
○ 神武東遷 原田氏は神武東征ではなく、東遷だという。養子であったから東遷だという。 「大論争」の立ち上げ文にも記したが、新南陽の「神上神社」に東遷の縁起はない。 ちなみに、この神社は物部氏が奉祭しているが、原田氏の記すように「御殿」築造ではない。 航路途上で東に向かう際、海で嵐にあって、神武一行が一時ここに避難した場所である。 他にも、「椎根津彦神社」・「早吹日女神社」の縁起では東征・東遷共に使われている。 又、宮崎県日向市美々津には、神武一行の出航縁起が残り、この縁起の残る楯岩神社には、2つの石碑があり、 新しい方には「東遷」古い方には「東征」と記してある。 (多くの石碑が風雨に晒され読み難くなる中で、ここの石碑は尚、明瞭である) 思うに、この様な「東遷」への書き換えは、近年何らかの説が流布する事によって行われてきていると推量できる。 |
○ 大己貴神 原田氏は大己貴神は宮崎で亡くなったという。 出雲では、大国主大神は現「出雲大社」の裏山である、宇迦山(八雲山)が墓所であると伝承されている。 又、原田氏は大己貴神は出自不明としているが、父は天冬衣命・母は折国若姫であり、出自不明ではない。 一体に原田氏は大己貴神に対し悪意を持っているのではないかと思えるような扱いである。 私としてはどうにも承服しがたい。 おそらく、原田氏の脳裏には、万世一系の皇国史観が染みついているのであろう。 それ故、天皇家の目の上のこぶ的「出雲」、その中心である大己貴神に悪意を示しているのであろう。 現天皇家の出自については、韓半島での研究の方が盛んである。 それは、先の戦争において、天皇の赤子であるとされた軍民により、徹底して弾圧を受けた体験が根深いからである。 その研究によれば、現天皇家は、万世一系などではなく、金海金、即ち金管伽耶の亡命者であると考えられている。 天照大神・素戔嗚尊・等とは何の直系系譜関係はないのである。 記紀における素戔嗚尊の扱いや、近年までの伊勢神宮の扱いが、それを裏付けている。 ついでに云えば、邪馬台国畿内説など、ちゃんちゃらおかしいのである。 |
○ 素戔嗚尊 原田氏は素佐之男尊の生誕地が出雲、現平田市の宇美神社であり、宇美神社という社名は 有名人の生誕地につけられると記している。 その例として福岡県宇美町の宇美神社を挙げている。 確かに、宇美町の宇美神社は応神天皇の生誕地と伝承されているが、 平田の宇美神社にはそのような伝承はない。 「宇美神社」という社名は、この2社以外に私は知らない。 (福岡前原に宇美神社があるが勧請社であるので、論外) 一昨年夏に、平田の宇美神社を訪れた際、豪雨明けで、出雲大社から平田まで、水田が冠水し、神社周辺道路も水没していた。 斐伊川は古来から暴れ川として知られるが、かつては現在のように宍道湖に注がず、直接日本海に注いでいた。(1639年以前) それでも宍道湖の湖水面は年間では気圧の関係から相当の上下が生じる。(元島根大教授、橋谷氏の研究参考) この事から考えると、平田の「宇美神社」は「湖神社」が元の社名ではないかと思える。 宍道湖は地元では湖を「うみ」と呼んでいるからである。 平田の「宇美神社」の祭神に原田氏は布都御魂と素佐之男尊・熊野三神を挙げているが、 この他「大土乃御祖神」「句々迺馳」が祭られており、 中でも最も古い「祖神社」の祭神はこの「句々迺馳」である事を、原田氏は記していない。 さらに云えば、この神社で祭られる素佐之男尊は「城前神社」に祭られているのである。 この宮は「宇美神社」ではなく隣地の脇社である。 つまり、原田氏の言うように、宇美神社が有名人の生誕地であるなら、主祭神に素佐之男尊が祭られてしかるべきを、 そのような扱いになっていないのである。 つまり、記述は嘘であり、おそらく、福岡宇美町の「宇美神社」からの連想で、生誕地と記したに過ぎないのである。 この記述の後に、P133において、奈良天理市の「石上神宮」についての記述がある。 そこで、原田氏は「石上神宮の神庫にそのまま布都御魂の剣として、国宝になって現存している」と記している。 この剣というのは、明治期に石上神宮の禁足地で発掘されたものであり、 それ以前には布都御魂剣が、石上神宮にある事は伝承のみで、実物が所蔵されているか否かは不明であった。 又、発掘された剣が布都御魂の剣であるかどうか、確定されたわけではなく、 伝承から考えて、そうであろうと推察されているだけである。 こんな事は、少し歴史をかじっていれば誰でも知っているはずのことで、かかる記述は素人騙としか思えない。 続くp133で「木次事件」などと大仰な聞いたこともない事件名を挙げている。 (ああ、馬鹿馬鹿しくて飽きてきた・・・もう少しがんばる) 仁多横田町の稲田神社が稲田姫の生誕地だと記しているが、この「稲田神社」は古社ではなく、 明治期ここの出身者で北九州で一儲けした何とかという人(名前を忘れた)が寄進した神社である。 今は立派な神社であるが、それ以前は、小さな祠があっただけで、祭神も不明であった。 付近の稲田という地名(現社地から1キロ程度離れている)からの付会で稲田神社とされただけである。 (あえて記さないが、素戔嗚尊・稲田姫のそれぞれの生誕地については、個人的に他所に心当たりがある) (素戔嗚尊生誕地と目される神社は、現宮司が横柄なので、代替わりするまで、絶対に紹介しない) 尚、やまたのオロチについての伝承は、木次周辺には相当残っている。無論観光用もある。 (もう少し、・・・) 出雲「熊野大社」の主祭神は「伊射那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」であるが、 この神が素戔嗚尊と同一神であるかどうかはかなりあやしく疑問である。 まあ、出雲は何度行っても面白いところで、神社の縁起解説文には常識を疑うような記述も多々散見する。 神様が多すぎるのかもしれないが、どうも出雲地主の神々を、記紀の記述にあてはめようとして無理が生じている様な気がする。 山口のように何でもかんでも八幡神社に変えられてしまっているよりはましだが・・・・・・・。 ○ ○ 「出雲国風土記」に記された神名は55神ですが、出雲にはこれ以外の神名の神々を祭る神社が多数あるのです。 それ故何度出かけても出雲は面白いし、神主ではなく、地元の爺ちゃん婆ちゃんと話すと、色々な伝承が聞けて飽きないのです。 そういえばもう4ヶ月も出雲に行っていない。 松江・宍道・米子いずれも10年前に比べると、どんどん都市化が進んでいます。 建築・土木工事も激しく、出雲らしさが都市部では失われ始めています。 それ故、加茂岩倉遺跡のようなものが突然出てきたりするのですが、 あまり激しく変わって欲しくないなと思うのは、余所者のエゴでしょうか・・・・・ |
《柏手》 P110で柏手について述べている。 「二拝二拍手一拝が日向系で、出雲系は四つ打っているのではないかと思う」等ととぼけているが、 神社を廻っているものならば、伊勢系が二拍、宇佐系が三拍、出雲系が四拍、ということは常識である。 原田氏が知らぬはずはない。 原田氏が宇佐について触れていないないのはなぜか? 都合が悪いからである。 つまり、柏手に南方モンゴリアンも北方モンゴリアンも関係ないのである。 原田氏は南方系が二拍で、北方系が四拍であるという。とすれば宇佐の三拍は説明不能である。 それ故触れないのである。 子供だましもいい加減にしてもらいたい。 (近年、いつの間にか宇佐4拍に変えられている。伊勢8拍というのは元来特殊神事の場合だけである) 柏手(かしわで)を打つのは、鎮めの儀式である。 自らの心を鎮め、辺りの清浄を祈り、神を呼ぶ儀式である。 打つ数の違いは、昨今では意味不明となっているが、個人的には、荒ぶれ度の違いによるのではないかと考えている。 出雲の四拍は、それだけ畏れられていたのであろう。 出雲でも四拍は出雲大社と熊野大社など少数の重要な神社だけで、一般には二拍で済ませている。 宇佐についても同様である。 書紀の出雲国譲りの条で、事代主が逆手を打って海に入るという云う記述があるが、逆手は呪詛の儀式である。 つまり、国譲りを迫るという強権行動に対し、事代主は呪詛を行ったのである。 |
島根の美保神社に逆手の神事が残っている。 船上と陸上で互いに八拍の柏手を打ち、応諾を表す。 呪詛の風はなく、神送りである。かなり変更が加えられた様式であると思われる。逆手と言うより返手である。 |
《八重垣神社》 八重垣神社に関して、原田氏は熱心な記述を行っている。 ところが、この神社は古社ではない。 又、所蔵壁画が巨勢金岡筆というのは、原田氏の云うようにわざわざ「調べる」ほどのことではない。 原田氏は、「記紀成立以前の古社を対象にして、調査した」はずであるが、 この八重垣神社は出雲風土記に記述のない神社なのである。 p137に記している、「佐久佐神社」があたかも八重垣神社であるかのように記しているが、これは嘘である。 「佐久佐神社」は現松江市大草町の「六所神社」である。佐久佐神社の元社地は、出雲国庁跡地に当たり、 それ故、合祀され、名前が変わったのである。 現八重垣神社は国宝所蔵故か、かなり立派な神社であるが、その縁起は怪しい事が多い。 「佐久佐女の森」(原田氏は佐久の森と記す)が稲田姫をかくまった場所等というのは、 斐伊川や須賀神社との地理的関係から考えて、あまりに唐突であり、信用できない。 本来の出雲古社ではなく、893年宇多天皇期に出雲国庁造営の際、、熊野大社や出雲大社に代わる、親大和系の神社として、 政治的に創建された神社であると考えられる。それ故位階も高いのであろう。 更に地名付会から、伝承の取り込みを続けてきた神社であると考えられる。 稲田姫を素戔嗚尊がかくまった場所については、木次町に古伝承がある。(地名は秘密) 出雲人は、どうも細かいことはどうでもいいように考えるらしく、深堀りはせず、「まあ酒でも飲んで仲良くやろう」といった雰囲気がある。 それ故、八重垣神社が伝承取り込みを行っても、寛容されているのであろう。 現出雲大社宮司は、千家(せんげ)・北島家であるが、これらは天神系の天穂日の子孫であるという。 しかし、以前においては、この出雲国造を務めて来た両家より、足名椎・手名椎の子孫とされる須佐神社大宮司家の方が、 国津神系として出雲では格式は上であり、代々「出雲太郎」を名乗ってきていたのである。 (1430年代以降は「雲太郎」と改称し、明治期よりは須佐氏に改姓) これは、天穂日命が出雲で最初に降臨した神社である「能義神社」が今はかなり荒れ果てている事と無関係ではない。 |
思いつくままに記しているので、まとまりがありません。まとめるつもりも今のところありません。 申し訳ない。本当は、こんな下らぬ本の批判などしたくも無いのが本心です。 それでも原田氏の後を引き継いでいると自称する何某という人などが、今尚、傲慢な著作を出版し続けているのを見ると、 (縄文人須佐ノ男等、何のこっちゃ。売る為の物書きは大変だネ) 流説の根元を崩す必要を感じるのです。 原田氏は日本書紀の8割が嘘、古事記の5割が嘘と記す。 原田氏の記述中明らかに、5割以上が嘘でしょう。 古史古伝が偽書であるなら、同様に記紀も偽書です。 嘘を承知で研究対象にするのと、嘘を真に受けるのとでは、大変な違いがあるのです。 (続くかな?) |