《歴史と階級意識》 G.ルカーチ
ブロッホを取り上げた以上、ルカーチを取り上げないのは、恣意的にすぎるというものであろう。
この書は、巨人ルカーチを巨人たらしめている書である。
その記述範囲は広範であり、その逐次に付いて語る事は出来ない。
哲学的思索の部分に関しては、見事としか云いようがない。
それ故、ここでは芸術論との関わりの中でだけの記述に留める事にする。

ルカーチが誤っているのは、プロレタリアートを階級意識を持ち得たプロレタリアートと持ち得ていないプロレタリアートに峻別している点である。
プロレタリアートは、階級意識を持とうが持つまいが、プロレタリアートであり、両者の存在構造は同じなのである。

ルカーチの芸術論が、間違っていくのはこの点に原因がある。
即ち、ルカーチは、芸術の価値を、階級意識を持たないプロレタリアートから階級意識を持つプロレタリアートに良導する所に見る。
この事は、同時に芸術を政治闘争の道具の一つとして捉えることであり、社会の分業構造の一要素と捉えることに繋がるのである。
芸術表現の主体は本源的に、自己の表現活動を労働とは意識していない。
むしろ、労働とは最も遠いところで、その表現を行っている。労働として意識された時点でその表現は芸術としての地位を失う場合の方が多いのである。
それ故、ルカーチ自身、偏向していくロシアマルクス主義に対して、思想的に対峙できなかったのである。

正しくも、マルクスは芸術に関してほとんど語ることなく去っていった。
芸術は、表現の坩堝である。定式化や表現手法の画一化から、尤も遠いところにその存立基盤がある。
時として、社会をえぐり出すこともあれば、全くの娯楽として自己完結する場合もある。
その様な芸術、あるいは似非芸術に原理を求めること自体誤謬である。
いわゆる芸術家や評論家が、表現に関して講釈を垂れる事に惑わされているのである。
表現者と、表現された作品とは、作品の受け手にとっては本質的に別物であると云うことを見誤っているのである。


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